前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その10(朝鮮の土地問題・植民地化の歴史)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

前回の記事で、『朝鮮総督府』『日本の植民地支配(同化政策)』についての歴史をおさらいしました。そちらの方で言えることは、私たちが想像する以上に、その統治体系厳然かつ「中世的」で、朝鮮民族としての存在一切否定し、日本の国学(皇国史観)を適用した「日本人化教育」など、実に複合的深刻な歴史的禍根を残したのは、今後の南北朝鮮と日本の関わり合いの中で、絶対に忘れてはならない「基礎的知識」です。

 

さて、上述の「大きなバックボーン」のもとで、半島全土における『土地収奪』の問題とあわせ、ひとりの日本人弁護士・布施辰治は、そうした事案「どのように向き合ってきたのか」というのを、参考図書をベースに詳細を縷術いたします。

 

 

・目を見張るべき その精力的な活動

 

 

このたび渡朝する布施辰治の役割は、奇怪な因縁を背負っていた。旧朝鮮貴族が日本側と取引し、自国の農民を塗炭の苦しみに陥れた醜態を、日本の弁護士が救済しようとするのだ。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その18(日韓併合は朝鮮人の「希望」だったのか)

 

※朝鮮貴族(韓国併合時の「売国行為」<大日本帝国側への便宜>を図った旧両班階級の人間たちで、植民地以後は『朝鮮貴族』としての地位を約束された)

 

その布施に対し、朝鮮側の期待は絶大であったらしい。

 

当時ソウル<京城・旧漢城>に居合わせた演出家小生夢坊<こいけむぼう>は、こう書いている。

 

 

書肆田高 しょしたこう 『涙を憤りと共に 布施辰治の生涯 / 小生夢坊 本多定喜』より

 

http://shoshitakou.com/products/detail.php?product_id=16503

 

「南鮮<南朝鮮>の宮三面小作争議の調査に渡朝した布施の人気は、朴烈と金子文子の所謂大逆事件の大審院特別法廷で獅子吼した義烈弁護士として沸き立つほどだった」(『涙を憤りと共に━布施辰治の生涯』一六八ページ)と。

 

彼がソウルに着いた三月八日の夜「時代日報の主催で公会堂で講演会を開催した」ほどだ。

 

いわば、国土と主権を喪失した三〇〇〇万の民は、この日本の義人弁護士に頼るほかなかったのであろう。その植民地には法あって法なく、口あって口がきけない。その状況下に、布施弁護士の口を通じて、わが農土を返してもらう立場なのだ。

 

それだけに影響も多大であったらしい。そこに感激と尊敬と期待があった。そんな期待を担った布施であったが、しかし、残念ながら彼の講演会は「警察局から突然禁止をうけ・・・・・・かわりに茶和会を行なう」羽目となり(前掲の権寧旭論文)、総督府の干渉や妨害に遭い、予定の活動ができなかったという。

 

日本人の弁護士でさえ、こんな調子であったから、むろん朝鮮側の抗弁など通じなかったのは言うまでもない。おそらく布施は涙を呑んで戻ったにちがいない。

 

ところで在日朝鮮同胞も、今度の布施の渡朝に期待をかけていたとみえる。

 

というのは、その布施が戻ってくると、上野自治会館に「朝鮮事情講演会」を催したのだ。壇上の布施は、期待に添えなかったかわりに「東洋拓殖会社<総督府の外郭会社>が全朝鮮にわたって農民から土地を収奪するために合法的な詐欺を行なっている」と、実情を報告した(『ある弁護士の生涯━布施辰治』五九ページ)。

 

また、この時期に布施が、いかに朝鮮人事件で忙殺されたか一顧する必要がある。

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その7(虐殺真相究明に対する帝国政府の妨害と朴烈事件の経緯)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その8(壮観たる大法廷裁判・朴烈の四ヵ条要求)‐

 

今後の布施のソウル<当時は京城/旧漢城>入りは三月三日であるが、この時期は朴烈の大審院特別公判であり、その日程は次のとおりである。

 

第一回二月二十六日、第二回二月二十七日、第三回二月二十八日、第四回三月一日、最終の主文死刑判決三月二十五日であった。したがって布施は、第四回公判と最終判決の間に、渡朝している。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 126~127頁より

 

 

・当時としては「見返りゼロ」 リスクしかない布施辰治の『仕事』

 

 

『布施辰治弁護士』 

(『生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために』記事より)

 

http://www.fuse-tatsuji.com/fuse.html

 

ハッキリいって、彼が「生きている間」に、恩恵を享受できたことはあっただろうか。

 

‐韓国テレビ番組『非首脳会談』(海外の「植民地問題」)‐

 

のち、布施氏が韓国政府から表彰されたのは、彼が亡くなって半世紀以上が過ぎたあとであり、如何に布施弁護士「地位」や「名誉」も捨てて(大日本帝国におけるキャリアとして考えたとき)、当時『弁護士』という極めて重要な立場から、多くの貧しき民衆を想い、時には重大なリスクさえ恐れない、鋼の心を持つ、この知の巨人は、後世において深く評価されるべき人物であると、私自身もブログを通じて、少しでも多くの方々に知っていただきたいと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

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