// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231101
// NOTE:姉の家。明日は病院だが、今回は薬を取りに行くだけなので僕だけ行けばいいらしい。
機会があれば書くかもしれないが、僕は、僕しか乗っていない方が長距離の運転を好ましく思える。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味がないと感じる夜に。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::今私の愛する身近な人々も、今わたしの言葉に耳を澄ませてくれている人々も、概ねそうだと思っているんだけれど、私自身も例にもれず死にたい子どもだった。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 僕が肌に「自身の死」を実感したのは10歳のことだ ── 。

 無論、死のことは知っていた。
 それが生命に何をもたらし、あるいは何を奪い、それによって生命体がどのように変わるかということについて。そしてそれが生きとし生けるものに必ず訪れるものだという事実も。

 でも僕は、そこから切り離された場所に棲んでいたので、自分だけは死なないと思っていた。
 死ぬことを知らなかった。
 親が病気でいつ死ぬかもしれないと思い、悲しい気持ちに浸されたこともあったのに、飼い犬や猫を葬る穴を幾度も掘ったのに、それでも自分が死ぬなんて、10歳になるまで気付かなかった。
 そこで絶望して1年ほど、ぼんやり過ごしていたことは以前に書いたことがある。

>>>

 世界は綺麗な場所だった。あるいは今ももしかしたらきっと。

 不思議なこと。
 綺麗なこと。
 いいことが起こるという予感。
 背伸びしたら届くかもしれない素敵な何か。

 悪いもののことなど考える必要も、信じるまでもない「きれい」だけが埋め尽くす宝石のような透明 ── 。

 僕はずっとそれを信じていたから、世界は「好き」で埋め尽くされていた。

 もちろん対立も分裂も暴力も比較も搾取も拘束もあった。
 大人が大人を奴隷にし、大人が子供を奴隷にし、男が女を奴隷にし、子供が子供を奴隷にし、知識が、金が、制度が、社会が、慣習が、欺瞞が、正義が、誰かを喰い物にし続けていた。

 優越感と劣等感に振り回される野獣が、年代も性別も種族も関係なくのし歩いていたけれど。

 それでも僕の棲んでいる世界は、ずっときれいなままだったから。
 だから僕はそれを信じた。信じていられた。
 目に見える不遇は、肌を汚す不幸は、やがて正しい「素敵」で塗り替えられると信じられた。

 その「きれい」で埋め尽くされた世界は「好き」に溢れていた。
 好きでないものなんて存在できなかった。
 その強さを、完璧を、僕は信じていた。

>>>

 足元から侵食した「死」に、だから僕はたいそう恐怖したのものだ。
 自分だけのものだったとしても、あるいはだからこそ誰にも奪うことができず、壊すこともできないはずの「きれい」な世界が、僕の死によって失われてしまうのだから。

 僕のよりどころであり、あるいは僕自身の核として機能しているそれが、僕の死などという簡素な仕組みによって、いとも簡単になくなってしまうのだから。
 それならばいったい僕は何を信じて、何をよりどころにしたら良いのだろうかと、奈落の闇に放り出されたような気持ちになった。

 死にたくない、と、そのときほど思ったことはない。
 それ以降、何度となく「死んでもいいか」くらいに思ったことはあるし、何となればより積極的に自死を考える機会はあったが、死に恐怖し、死を避けたいと本気で思い、生き続けていたいと、死なずにずっと生きていたいとあれほど思った時間はない。

 今や死は僕の13番目の恋人であるからワルツを踊れるくらいには親密な関係だけれど、当時の僕にとっては、絶対的な断絶と終焉をもたらす、何もかもの終わりだった。

>>>

 僕は生きたいと思ったのだ。
 生きていたいと。死にたくないと。

 仮初めだとしても、まやかしだとしても「きれい」に囲まれて、「きれい」を具現しながら、「きれい」を愛して、きれいなままで生き続けていたかったのだ。
 生きている限り、それは可能だと信じていた。

 だから死ぬことは僕本人だけでなく、その「きれい」も、その綺麗に対する羨望も、愛情も、同一感も何もかもを無に帰してしまうのだと思って絶望したのだ。

>>>

 およそ1年ほどして我に返り、自分が死ぬ未来とともに今は生き続けている。

 Webの世界が発祥だったと思うが、

「お前らの『死にたい』は『愛されたい』だ」という名言がある。
 なるほどそういう「死にたい」もあるのか、と思ったのだったか。
 世界に求められず、世界に値踏みされる屈辱に耐えかね、自身の無価値に押しつぶされるように死を希求することもあるのだろう。

 僕の「死にたい」は、自分を殺したいという、憎悪や殺意だ。
 世界や他の誰かに愛されているかどうかに関係なく、自身の価値の有無にも関係しない。
 僕は僕から愛されているし、僕は僕の価値を自分なりに十分に知っている、その上で。

 もちろん今は、その殺意もずいぶん手懐けられた。
 おそらく自我と呼ばれる価値観群が単一であれば、自身に対する殺意を持ったとしても、それほど長くは保たないのだろうと想像する。
 つまり肉体に負けて価値観が消失するか、価値観に負けて肉体が不可逆的に損壊するか。
 僕はどちらも選ばず、のらりくらりと今まで生きてきた。
 今頃になって起こされたことは、つまりある種の救いでもあるのだろう。

 そう考えるとあのとき「死にたくない」と思った衝動は、直感は、それはそれで良いものだったのだろう。
 
>>>

「いつか」は来ない。
「なにか」は現れない。
 救いはない。
 求める限りにおいて、たとえ与え続けたとしてもその見返りとしてなど、救いは存在しない。

 暗闇の中で僕が手に入れたのは、僕の猫目(鳥目の逆で、僅かな光でものが見える)性質を知ることだけだった。

 その素晴らしさを、数ヶ月ごとに視力が衰える今になって知る。
 けれども見えないことの素晴らしさを、怯えるほど光に痛みを感じていた僕はすでに知っている。

 いずれ最後に闇が僕を包む。
 その優しさも、安堵も、殺意や憎悪の結実とは別に訪れる、望まれた未来だと思える。



>>>

 僕は「きれい」を知っている。
 誰に与えられたものでも、誰に認められたものでもない。
 誰が証するものでも、誰が賞賛するものでもない。

 僕だけのもの。
 僕だけが大切にしていたもの。

 暗闇にぼうっと浮かぶロウソクの灯りのように。
 喧噪と眩さの中ではかき消えてしまうだろうそれを。

 僕は信じている。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::君に似合うファンタジーは私が編もう。君は、君と、私だけを信じて。透明なオールであらゆる海を越え虹の波を乗りこなしてしまった、あのまぼろしの船が君。君が居なくなってしまった世界は全部滅んでしまったんだ。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「2022年の8月31日」(著作:戸田 真琴)
によりました。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  死は無慈悲な僕の恋人。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Eternal-Link-Love-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Memory-Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231026
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
未必の故意。
SUBTITLE:
~ Me hits no coy. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::最高裁大法廷は、25日、「生殖機能がないこと」を求める要件は、性同一性障害の人に対して、「意思に反して生殖機能をなくす手術を受けるか、性別変更をすることを断念するかという過酷な二者択一を迫るものになっている」と指摘し、違憲で無効だとの判断を示しました。
 一方で、「変更する性別の性器に近い見た目をもつこと」を求める要件については判断を示さず、審理を高等裁判所でやり直すよう命じました。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
231025

 戸籍上の性別変更について、ニュースになった事象そのものよりも、一般の反応が興味深かったもの。

 Webニュースにコメントを寄せている人の多くは感情で「この決定は間違っている」と断じている。
 人間の性別は肉体(主として性器)によって判断されるべき、というもの。
 たとえば性別(現行の2種類)に分けられた性差施設(公共のトイレ/浴場など)について、女性用施設を男性器を持った「自称・女性」が使用するのは(他覚的判断要素が存在しないため)不自然であり、ともすれば危険だ、ということだ。

 この意見は非常に共感しやすい。
 男たちのすべてが禽獣のごとき低能だと言うつもりはないが(おそらく)少数ながら、禽獣相当の低能も存在する。
 いや「普段からそうだ」ということではなく、性的飢餓状態のときに禽獣相当(もしくはそれ以下)になる者は少なからずいるということだ。
 そういう個体はともすれば常軌(と法規)を逸脱した行為に走りかねないと恐怖するのは自然であり、そう考えれば、この決定に違和感を覚えて不安視するのも無理からぬことといえる。
 しかしこれは未然の感情論である。

 一方コメントの多くが見落としているのは、裁判所(裁判官)は「法律の条文が憲法の条文と相反する意味を持つかどうか」という判断をしたに過ぎない、ということ。
 申立人が「法律の条文が憲法の条文と異なっており、憲法の条文が法律より優先される現行の規定に基づけば、法律が誤っていることになる」と投げかけたものと想像する。
 裁判所は、それに対してロジカルに ── つまりは日本語を使った論理に基づいてそれぞれを照合した上で ── 憲法の条文を優先して考えた場合、現行法の条文が誤っている、と判断したということだ。

 論理的に(憲法の条文を有意とした場合)は法律の条文が憲法に反していると判断しただけで、性差を判断する倫理を蔑ろにした(しようとしている)わけではない。
 お金を使うことには一切の躊躇がない一方でその適切性については疑問視され続けている、我らがボンクラの立法府が今後どのような法律の条文を作るのかは不明だ。ともすればポリティカル・コレクトネスによって迷走しがちな現代社会の背景を考えると、ますます不安になる気持ちも分かる。

>>>

 しかし思うのだが、多数派はあくまで多数派である。
 これまでどおりの性別観がそうそう覆されるものではなかろうし、また覆されるべきものだとも思えない。

 そもそも性別についてそこまで躍起になるという価値観が、すでに前時代的だと僕は思うのだが、まぁ今はまさに過渡期なのだろうと考えている。
 男女同権というものにしても、ほんの数十年前まで(何となれば数年前、あるいは今も)、結構ぐだぐだだったわけだから。
 もちろん男女というのは物理的/文化的差異もあるのだが、そのあたりの適切な境界条件や分類基準が明文化されずに運用されているのが不自然な状態になってきた、というのがポリティカル・コレクトネスの命題なのだろう。めんどくせえけどよ。

 かくいう僕も性別違和感持ちではあったが、現在は肉体準拠の性別で不満なく過ごしている。
 なぜかというとこの10年ほどベッドの上で「ウフフなこと」をする必要はなかったし、多分今後もないだろうし、普通に振る舞っている中で発露する女性的な部分について、過剰な自意識を持つ必要がない社会が醸成され、その自意識が無駄だと思って切り捨てたからだ。

 かつて社会は性別が不明瞭な者の存在を許さなかった。
 いや今だってそういう文化を持つ集団は少なからず存在するだろう。なぜといって性別は物理的/文化的差異だからだ。
 しかしかつてほど「男なんだから泣くな」とか「女なんだから出しゃばるな」というような論を振りかざす者は多くはない。
 僕のように、どっち付かずの思考形態を持ち、どちらにもよらない文化に育った者は今後も増えるだろう。

 いやいや、そもそも性別による二元論化の前に、一元論的に人間は人間であるはずなのだ(僕は猫だけれど)。

>>>

 もはや現代において、明文化しないまま性差を運用することはできなくなってしまった。
 なぜといって明文化しないからこそ生まれてしまった人種や性別、障害や能力による差別が今も残っているからだ。
「肌の色が黒いから種族として劣っている」とか「男は女より有能だ」とか、それが根拠のない妄執であることを人間はこれまでも証明してきた。

 人間が今後も「人間的な」文化を残そうとするならば、倫理はより明文化され、論理化されることになる。
 論理というのは先に述べたとおり、演算や判断が可能なものであり、その基準は明文化されている必要がある。

 だから僕には自身や他者の性別について、それが肉体であれ、精神であれ、自認であれ他者に対する認識であれ、明文化されて定着するだろうと信じられる。
 もちろんこれまでの文化に従えば、2種類しかなかったはずの性別が4種類や8種類や32種類まで拡張されるとそれこそ「めんどくせえな」となってしまうけれど(おそらくそういう過渡期が発生するだろうが)、それもやがて収束するだろうと思う。
 なぜといって精神性の性的自認などというものは結局のところ妄執だからだ。

 自身の存在に、その性別に、そこまで執着するのはなぜだろう。
 それがアイデンティティだからだと言われれば「はいそうですね」としか答えようがないが、しかしアイデンティティがそれほどまで性別によって影響を受けるほど、性別とは大きな判断基準だろうか。アイデンティティにとって、そこまで重要なものだろうか。性別がなければ、その人は、その人たり得ないのだろうか。



>>>

 そういえばかつて「女は子宮でものを考えることがあるの」と囁いた恋人がいたが、それを言うなら「精巣でしかものを考えられない男」もいる(僕がそうでないと言うつもりはない)。
 しかし冷静に考えれば、それらはすべて状態を指すのであって、存在を指すのではない。
 男が精巣でしかものを考えられないというなら、女もまた子宮でしかものを考えられないといえるし、女が子宮でものを考えることがあるというなら、男も精巣でものを考えることがあるのだ。(違いが分からない?)
 そもそもベッドの上の睦言の延長線上の理屈を、ベッドの外に拡張するのはナンセンスだろう。

 明文化すればするほど、暗がりは照らされる。
 それ自体はきっと良いことだけれど、色気のある睦言さえ無味乾燥した嘘に変わってしまうのはいささか興醒めである。

 人間はリアルとヴァーチャルの、明文化と暗黙の了解の、シリアスとファンタジィの中間で、両極に足を浸して生きている。
 どちらか一方だけに限定するのは確かに潔いことだとは思うが、それは無味乾燥している上、時に危うくはないだろうか。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::申立人の性別変更を認めるかは、今後、高裁で判断されることになったことについては、申立人は「非常に残念」とコメントしているということです。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 不明。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:君は首輪で繋がれて:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231025
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寝ていればそのうち良くなる。
SUBTITLE:
~ The Flat Sleeper. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231025

 熱中症とその後遺症のため、3ヶ月ほど歯医者に行くことができなかった。
 しかし微熱があることを除けば、だいたい体調が戻ってきていたので、ドライブを兼ねて歯医者に行った。
 そこで「そんなに長期に渡って微熱 ── 37℃には満たないことが多いので、高めの平熱とでも呼ぶのだろうか ── があるのは理解に苦しい」ということで、県庁エリアにある総合病院を紹介してくださる。

 個人的には急性期は過ぎているし、急性期のうちは外出(とくに日中のそれ)はまったくできない状態だったので、どうしようもないと思っていた。ここでいう「どうしようもない」とは、医者としても今更、手の打ちようもないだろう、ということだ。
 しかし歯医者の先生は心配性なのかもしれない。

 確かにたいていの大病(たとえば癌など)は、些細な変化のうちに早期発見できれば完治も容易なものだ。その理屈は分かる。
 ついでに僕は身体が弱い上、3ヶ月寝ていられるくらいヒマである。
 ならばきちんとした病院に行ってきちんと検査くらいしてもらえ、何事もないと分かれば、それはそれで安心だろうということのようだった。
 実に理に適っている。

 まるで僕が(その歯医者を含め)すべての医者に掛かるのを嫌っているかのようではないか。
 まぁ当たらずとも遠からず、ではあるが僕の場合、医者がイヤなのではなくて、病院で過ごす時間が(外来でも)無駄に思えるから行きたくないのだ。あと自分の寿命や生命や存在に、さほどの価値を見出していない。
 しかしこれらは僕の勝手な都合である。僕の生命を僕の勝手な都合でシャットダウンすることはまだ許されていない。
 僕はそれでもまだ、自分の所有するすべての時間を、完全に自由にすることはできないのだ。

>>>

 そのようなわけで病院に行き、指定された先生に会い、血液検査を受けた。
 実に体温は36.9℃なのだが、数値は見事に健康である。
 診察した先生の曰く、
「熱中症で、発熱(しかも3ヶ月にわたる長期間)をし続けるという話は聞いたことがないし因果関係が分からない」
「ために他の免疫反応(自己免疫を含む)や炎症反応を調べたが ── 継続治療中の脂質異常を除けば ── 健康優良で花マルを付けたいくらいの状態」
「何か他の症状(できれば他覚的なもの)が現れたらまた来てください」

 という結果に終わった。

 こちらとしても外気温が下がったので、熱交換に苦労せず済んでいる。
 シャワーを浴びたら38℃になるようなことはなくなったし、ウェイトトレーニングもできるようになってきた。
 消化器系も菌類(麹菌と納豆菌)を摂食するうちに、正常化してきた ── なんと今日は玄米を食べることができた(消化するかは分からないが)。

>>>

 帰宅途中に考えていたのだが、やはりこの身体は、普通というのとは少々違うものらしい。
 もちろん組成はだいたい他の人間と一緒だし、機能や動作原理もだいたい同様のものである。
 でも例えば小麦アレルギーの人がいるように、何だか分からないがその他大勢とまったく同じ機能を発揮できない、という人もいる。
 病気というほど大事でもなければ、広く多くの人に見られるものではない症状と呼ぶほどでもない反応の性質もあるだろう。

 僕自身ようやく分かってきた(そして年々変化し続けるので面倒な)それを、一般的で普通で大多数に当てはまる理屈から適正な状態を導く(医学とはそういうものだと思っている)仕事をしている人が、容易に理解することは困難だろう。
 いわば多くの人の身体は一般論的で、僕の身体は特殊論的なのだ。そしてその特殊論の運用は、僕の身体にしか当てはまらない可能性があり、ために多くの人には無用のもので理解不能なものなのだろう。

 だからどうだ、というものではない。自分の身体の性質が少々特殊だからといっても僕自身はかなり平凡で、普通のイキモノだ。
 寝ていればだいたいのものは治ってしまう(ただし長期を要する)身体なので、ヘヴィ・メタルと同様、まだガンには効かないがそのうち効くようになると思う。



<おいおいマジかよ>






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Life-Link-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231011
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
盲目の船頭。
SUBTITLE:
~ The Blind Captain. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【つとめるということ】

 不労所得生活をして5年ほどが過ぎた。
 表向きは不動産自営業者であり、年に数回、事務処理をする必要がある。
 しかし面倒事のほとんどをアウトソースすることで ── そのぶんピンハネされて(というと言葉が悪いので、正しくは手数料を払って)いるのだが ── ときどき途方に暮れるくらい膨大な時間を僕は手にしている。
 幸か不幸か生計を共にする家族なんてものはいないので、関わりのある僅かな人間達(友人やら姉妹やら仕事にまつわる人たち)との予定がない限り、野生動物のように、空腹になったら食事をし、眠くなったら眠るような暮らしをしている。

 僕にまつわる経済活動のうち、収入については僕が存在しなくても発生し続ける。
 不労所得というのはそもそもそういうものである。
 人によってはそれを羨むだろう。僕は若い頃からそれを望んでいたので、願ったり叶ったり、ではある。

 しかし同時に、人によっては耐え難い苦痛であろうとも思う。
 能力の有無やその発露はもちろん、何らかの活動の対価として発生している収入ではない。
 僕の存在がなくても発生する収入である。
 先に述べたとおり「自分がいなくてもまったく問題ない」という状況を直視するのは、自分の無価値と向き合うことでもある。
 僕でさえ、誰の役にも立っていない重圧に耐えかねて、地元のNPO法人に寄付するくらいである。
 ひとかどの人であることを自負しようと思えば、さらにその無力感や無能感に苛まれるだろう。

 ちなみに親は会社を経営していたが、最終的に事業に失敗してかなりの負債を抱えていたので、僕は生まれついての資産家ではなく、突発的に、宝くじにでも当たるような感じで不労所得者になった。
 学生の頃は学校の集金に自分の小遣いを充てることもあったくらいなので、最初はずいぶん戸惑ったし、今も真面目に考えると落ち着かなくなる部分はある。
 収入が不安定であるとか、安定した保証がないとか、そういうことではない。
 お金がなくなったらシンプルに働けば良いので、そんなことを不安に思っているわけではない。

 また将来や老後というものにも不安はない。
(世間的に僕の肉体年齢は老人ではなかろうけれど)現在が僕にとってはすでに老後という位置づけだし、僕はそもそも自分の幕引きの年齢を設定しており、それまでに済ませておくべきいくつかのタスクがあるくらいで、自害することにも抵抗はないから、ただただ自分が長生きするという不安を持っていない。

 もちろん「死ななくてはいけない」とは思っていないが、同じように「生きなくてはいけない」とも思っていない。
 自分の生死なんてどちらでも良いことだし、どうでも良いことだ。
 何となれば僕以外の生き物についても同じように僕は思っている。

 それはたとえば自分の好きなアーティストの楽曲が、CDに入っているか、MP3でダウンロードしているか、サブスクリプションでストリーミングしているか、という程度の違いだ。大事なのはその楽曲を楽しんでいる時間であり、その楽曲を聴いて自身に喚起される情動だろう。
 慣れてくれば、情動そのものを自分の中に何度でも再生できるようになる。
 楽曲というコンテンツそのものも必要なくなってしまうし、ましてそれがどのような媒体(メディア)で自身の手元にあるかなど、どうでもいいことだ。

>>>

 今の立場になって、同じような不動産オーナと接する機会が時折、ある。
 おそらく大抵の人 ── とくに僕のように業務のほとんどをアウトソーシングしている者 ── は、そのような事実をわざわざ開示しないように思える。
 実際、僕は自身を未だに「無職」と認識している。微々たる勤めはあるし、最低限の務めは果たしているが、努めて勉めているかと問われると自信をなくす。仕事はしているが、世間社会に貢献しているかと問われると自信がない。努力し、研鑽し、更なる高みを目指そうとしているかと問われても、そもそも努力が嫌いなのでどうしようもない。

 しかし一方で、自身が不労所得型の不動産オーナであることにふんぞり返っている人も(すべてそうだとは思わないが)ちらほらいるのである。
 彼ら(基本的に男性に多い)の一番くだらない自慢話が、どこかの会社や金融機関との関係性自慢、である。
 たとえば「○○の会社と付き合いがあって、あれこれ世話をしている」とか「○○銀行の頭取と付き合いがある」とか「○○信用金庫の総代をしている」とか、まぁ、そういうことを世間話の端々に織り込むことで自身がいかに世間に貢献しているかをアピールする、という次第。

 端から見ていて痛々しいし、見ているこっちが恥ずかしくなるのだが、彼らは得々とそれを語る。
 なんとなれば感心して欲しそうなので「ふうん」くらい相槌は打つようにしている。が、一番大事なことは近づかないことである。

>>>
【管理職が忙しいのは無能の証】

 しかし彼らの姿を眺めていて気がついたことがある。
 会社員をしていた頃も、実際に同じような連中がいたのである。
 だいたいどの会社にも(その組織規模が大きければ大きいほど)いた。
 僕はどちらかというと現場主義であり、そもそも出世欲もなければ出世するだけの能力も持ち合わせていなかったので、そうした大きな会社で管理職になる機会を持たなかった(小さな会社でなら、あったが)。

「自分は忙しいし仕事をしているし会社に貢献している」というジェスチュアに一生懸命な管理職は、会社の規模が大きくなるほどよく見かけた。
 なるほどビジネスプレイヤ上がりの管理職であればあるほどマネージャとしての仕事が分からなかったのかも知れない。
 僕に限っていえば、管理職としてはいつも暇そうにすることを身上にしていた。
 もちろん小さな会社であれば純粋な管理職などになれるはずもなく、現場でプレイヤとして従事しつつ、後輩なりパートさんなりをマネジメントする必要が出る。
 そのとき管理職が忙しそうにしていると、声を掛けるきっかけがつかめなかったり、そもそも忙しいあまり捕まらないということがある。

 大きな会社に勤務していたときに所属したグループがそういう感じで、グループリーダが忙しいあまり捕まらない。
 ちょっと席に戻ったかと思えば、他の誰かに捕まってしまって僕が声を掛けるタイミングがない。
 それが何時間も何日も繰り返される。
 どうにもならず途方に暮れたので仕事を放棄して遊んでいた(正確には仕事に使うCADのマクロシステムを独学で一から完全自作した)ら仕事を干された経験がある。
 そのとき「管理職は暇じゃないとダメだな」と思ったのだ。

 なので自身が管理職になったときは出社してから1時間は暇そうにする習慣を身に付けた。
 上司が仕事を割り振ってくることもあるし、パートさんや後輩が相談を持ちかけたり指示を仰いでくることもある。
 もちろん来客や訪問など、他者とやり取りをするコアな時間はあるが、事務処理や移動や雑務ならある程度融通が利く。
 当時の勤務先は休日出勤や残業という概念がなかった(当然、残業代や休日出勤手当、代休制度というものもなかった)ので、僕は好きなだけ会社に出社して、好きなだけ仕事をして、好きなときに仕事を終えることができ、仕事に余裕があるなら休むこともできた(いずれも給与に影響しない)。
 特殊な環境だったと思うが、それだけの裁量を与えられていたのは本当に恵まれていたと思う。

>>>
【完成されたシステムは手を加える必要がない】

 僕のつまらない自慢話はここまでにして、マネジメントができない管理専門職が忙しいフリをすることについて、である。
 彼らは詰まるところ、自分が暇であることに価値を見出せない。
 本当はプレイヤたる現場従事者の仕事がしやすい環境構築や、そのトラブルの保全などをするのが仕事であり、管理職が暇なのはいいことだと(僕は)思うのだ。
 実際、僕が管理職をしていた頃の小さな会社は、予定のないときは社長が朝から倉庫で趣味の遊び(当時は骨董品の時計修理に夢中になっていた)をしていた。
 しかしひとたび相談に行けば、必ず的確なアドバイスを貰えるし、必要とあれば先陣を切って即座に対処してくれた。
 困ったときに捕まえやすいし、暇かどうかも一目瞭然だから、こんなに有り難いことはないのだ。
 システムが良好に運営されているならトップに近づくほど、そうなるべきであり、そのくらいでいいと思う。

 仕事がなく暇であることに罪悪感を感じるなら、現場従事者がどうすればより働きやすくなるかを考えればいい。
 それは別に机に向かってウンウン唸ったり、忙しいはずの部下を捕まえてくだらない会議やヒアリングをする必要はないはずだ。
 しかしそういう管理職を見たことがないのか、そもそもそういう発想がないのか、仕事をしているフリをする管理職は後を絶たない。

 先の「おかしな自慢をする不労所得型不動産オーナ」も同様だ。
 自分が何もしていないことを認められない。誰の役にも立っていないことが素晴らしいとは思えない。
 何かしていると思いたいし、思われたい。誰かの役に立っていたいし、立っていると思わせたい。
 もちろんその根源にある気持ちが間違っているとは思わない。誰かの役に立つのは、きっと素晴らしいことだ。
 では転じて「何をしているのか」ということだ。

 無駄な会議やヒアリングを重ねて愚にもつかない目標を掲げ、達成できない部下に詰め寄るだけの上司なら必要ない。
 世間や特定の集団/組織に寄与するのは結構なことだけれど、それってわざわざ関係ない人間に自慢するようなことだろうか。
 そうやって懸命に「自分は何かしています」というアピールをしなくてはならない時点で、相当に自信がなく、無能なのだろうとつい邪推してしまう。
 自信がなくて無能な人間は往々にしてビジョンもない。
 思い描いている未来がない者に運営を任せたところで、状況が悪くなることこそあっても、良くなることはない。
 現状維持がせいぜいで、さらに繁栄をするということはあり得ない。

>>>

 僕自身は広く世間の役には立っていない(昔と違い、ちゃんと税金を払うようになっただけマシなくらいだ)。
 狭い範囲では、姉妹やら友人の慰み程度の役には立っていると思うが、せいぜいがそのくらいだ。
 しかし誰かの役に立つということは、同時に、誰かとの関わりが強く深くなる、ということでもある。
 自分がいなくてもシステムが正しく運営され続ける、という状態は少々寂しいことかもしれないが、自分がいなければシステムが働かない、という状態よりはよほども健全なのだ。
 もちろん必要とされることに依存してしまう気持ちも分かるけれど、それは決して健全とはいえない。
(これを僕は恋人にも適用してしまうため、問題が発生することがある)

 実は先だって体調不良になった際、姉の通院介助をすることができなかった。
 数日前に連絡をしたものの、平日の早朝から一日潰れることなので、代役もすぐには見つからず難儀した。
 最終的に姪(当の姉の娘であるが、片目の視力がひどく低下しているため長時間の運転に向かない)が代役を務めてくれたが、つまり僕はこういう状態を健全だとは思えないし、僕がいなくてはダメだ、という状態に自分の価値を見出せない。むしろそれはシステム(姉を中心とした、介護を行うシステム)の弱点だと思える。

 同様に会社なら、いつ誰が休んでもまったく支障がなく、どんなトラブルがあっても出力にたいした影響がない、というのが理想である。
 現場従事者だろうと管理職だろうと経営者だろうと、誰が、いつ遊んでいても問題なく稼働しているというシステムが最善ではないか。

 そういう意味で、僕は自分の収入の経済活動が完全自動化されていることを理想的な状態だと思っている。
 もちろん誰の役にも立っていないという引け目はあるし、庶民臭い出自のため、労せずして益を享受していることに後ろめたさを感じてしまう。
(これらを緩衝するため「仮想奥様」という存在が運用されている)



>>>

 ところでこの国の管理者は、ずいぶん忙しそうにしているようにお見受けする。
 あれは本当に忙しいのだろうか。
 それともまともな管理職というものを知らないから、仕事をしているフリに躍起になっているのだろうか。

 誰もいなくても、たいした手を加えなくても、機能し続けるのが優れた組織だと僕は思うのだ。
 だから管理者は「今日はね、金木犀が、花を付けましたね」なんて言っているくらいが良いのではないだろうか。
 それとも国民がみな愚かで、管理者が暇そうにしていることを許さないのだろうか。
 一国の宰相たる者、のんびりぼんやりして、愛人と旅行に出かけているくらいが平和な証だと思うのだけれど。
 まぁでもこの国は不倫とかにも五月蝿いから仕方ないのか。

 いずれにせよ自信も能力もビジョンもない人間が管理者の立場になることは避けて欲しいのだが、どうもその方が都合よいという人間が、どこかにいるのではないかと、そんな風に勘ぐってしまう。







 

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// NOTE:
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TITLE:
ここまでのあらすじ。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

【再発した蕁麻疹】
0926:未明、唐突に蕁麻疹が再発。

 煮物も食べられるようになってきたし、そろそろ食肉でもしようかな、と思っていた日のことだった。
 ウェイトトレーニングを少しずつ始め、徐々に増やしてゆけると思っていた、のだが。

1003:1週間の記憶がほとんどない。
 突き刺すような強い痒みと発熱は、風邪でもないのに「感冒」と呼んでいいほどの感覚異常をもたらした。

 食事ができなくなることは分かっていたので、麹と白米(三五八の漬け床を作るために常備している)を使って麹床を大量(4Lの寸胴と3Lの圧力鍋)に作り、(およそ24時間後)出来上がったそれをタッパーに分けて冷凍した。

 薬物耐性が付いてしまったのか、今回は飲み薬も塗り薬もほとんど効果を発揮しなかった。
 布団や肌と肌が重なる部分は熱を持ち、激しい痒みと水疱を生じる。
 眠ろうにも30分と置かずに痒みや熱さが発生するので、眠ることもままならない。しかし起きていてもまた痒い。
 自分の体温で火傷のような熱さを感じる上、そこに水疱ができて痒くなる。
 そんな状態が5日ほども続いただろうか。
 大腿筋、尾てい骨、鎖骨周り、手の甲、足の甲 ── 。
 末端の、あるいは皮膚の薄い、もしくは脂肪の少ない部分にそれは頻出した。

 入浴はもちろんできないし、(寒いけれど)体温に近い温度のシャワーを浴びた。
 それでも剥き出しになった皮膚が過剰反応するので、シャワーの回数を2日に一度くらいにして対応した。

 涼しい日もあったはずなのだけれど、エアコンで部屋を冷やした上、水を入れて凍らせたペットボトルで患部を冷やした。
 眠るときもそうやって、冷やしながら眠った。
 寒いと感じているのに、身体を冷やさないわけにはいかなかった。

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 微熱は今も続いているし、少し動くと体温がすぐに37℃を超えてしまう。
 まるでクーラント不足の自動車のようだ。

 体調が安定した日、常用薬を貰いに病院に出掛けたついで医者に相談したが、「免疫反応があるだけ健康な証拠でしょう」などと言って要領を得ない。
 もちろん不満はない。
 ヒトの身体というのは数式ではない。

 一般的とされる特性に当てはまる人もいるだろうけれど、僕のように、体質がちょっと異常なイキモノもいる。
 それでも医者というのは人間の組成を数値化し、その数値の変動をして「健康体」だのなんだのと点数を付ける。
 まぁそれが仕事なのだろうから仕方ないのだが、理解できないものを「分からない」と断じ、知らないものを「手に負えない」と正直に言える医者を探すのはなかなか大変なことだ。
 だいたいは一般論だけで判断し「こういうものだ」と断ずる医者が多い。だから僕はそういう押しつけをしない現在の主治医を気に入っている。

 なんでも見るタイプの開業医などは、ともすれば専門外のことを尋ねられ、それに一般論で答えて済ませるケースが多いように思う。
 専門医であっても年々刷新される情報を追い続けるのがむつかしい状況にもかかわらず、である。
 町医者が悪いとは言わないし、総合病院ならいいのかといえばそうでもないだろうけれど、要は知ったかぶりをしていることに気付かない人間というのは一定数いて、いかなるビジネスであれプライベートであれ、ろくな奴ではない。

 若い頃から、体調が悪いと聞くと「医者に行け」とうるさい連中は居たものだが、そういった人間達は往々にして「一般的」な特性を持っているからそんなことを言えるのである。
 もちろん一般的であることを悪いとは思っていないし、ちょっと変わった体質だからといって、それが格別なこととも思っていない。少々不便なだけで、自慢になるどころか引け目を感じる場面が多い。

 それでも僕が医者をあまり信用しないのは、彼らが僕の身体についてのプロフェッショナルではないという、単純にそれだけの理由による。

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 意識を失っている間に、世俗はまた変貌を遂げている。

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【お金の話】
 世俗の人からは驚かれるのだが、僕のようなイキモノは体調を崩して寝たきりになり、ゲームばかりして過ごしているくらいの方がお金が貯まるという現実をこの3ヶ月ほどの生活で突きつけられた。
 建材も買わず、農業資材も買わず、工具も買わず、ゲームソフトを買うくらいで、食費は最低限。
 堆肥にする生ゴミはおろか燃えるゴミすら出ないので驚いた。
 家から出ないし外食もしない(自炊に使う食材もほとんどない)から、お金を使う必要がない。結果、お金が貯まってしまったのだ。

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 世俗やメディアに、あたかも「お金のリテラシィ」などと嘯いて、テキトーなことを言っている人間は少なからずいる。
 たとえば「最低賃金」という概念がある。
 雇用する者が雇用という行為を行う際、雇用される者の単位時間あたりの最低金額を法定したもので、多くの人が僕よりよほど理解しているものと想像する。

 そうした「雇用される者の権利」を否定するつもりはないが、しかし同時に経済を人権から切り離して、単純に数値として考えた場合、こんなものは絵に描いた餅だといえる。
 僕はもともと自営業向きの思考回路を持っているからなのかもしれないが、経済的な実効力を発揮して、実際の売上げを作る(お金のやり取りをする)まで、その人間にもその行為にも、いかなる経済的な価値もないと思っている。
(なので僕は誰かの手伝いなどで仕事に入るとき「最低時給300円+お気持ちの歩合」を提案するが、それでも高いと思っている)

 雇用される者はその寿命の一部を切り売りしているのだから「実際の売上げとは関係なく」その費用が支払われるべきだ、という理想論や権利問題はあってしかるべきだと思う。
 しかし一方で、その「実際の売上げには関係なく」という部分が、最終的には共産主義的な発想や行動を増長する。
 会社員であろうとバイトであろうと、あるいは公務員であろうと政治家であろうと関係はない。
「実際の売上げに関係なく」仕事っぽいことをしているフリをして、問題を起こさなければ、それでお金が手に入ると思っている人間が少なからずいる、ということだ。

 繰り返すが、雇用される者は(特に雇用する組織が大きいほど相対的に)立場が弱いので、権利を守る必要があり、そのために法定する必要があるという考え方はあってしかるべきで、必要だとさえ思う。
 しかし同時にそれは理想論であり、絵に描いた餅だ、そこを履き違えている人間がいて、そういう人間はともすれば資本主義の下で共産主義に染まっている、と僕は言っている。それだけのことである。

 結果、経済はその意味合いを曖昧にしてしまっているように観察される。

>>>

【リテラシィという嘘】
 かつて「財テク」などと呼ばれていたが、投資を始めとする金融商品を買って利益を生み出すという経済概念は、市場原理のひとつ ── 銀行の預金商品も、その名の通り(普通預金でさえ)本来は商品 ── である。
 一方で、そうしたある種の「楽な利益構築」は市場だけでなく世間一般から「労働に対する熱意」を少しずつ削いできたのではないか。

 資本家と労働者という対比を見ようにも、かつてのようにそれらは明確に二分されるものではない。
 絶対的な資本家、絶対的な労働者がいる一方で、ある程度以上の金融資産を有しつつ、労働者でもあるというハイブリッド投資家/労働者が増えた。
 それ自体は経済という全体像を知る(リテラシィを獲得する)上では有意である。
 実際に政府もこれを後押ししているが、資本主義経済においては資本家と労働者の立場の対立が、市場の最適な成長を生み出すシステムだったのではないかと思う。
 世俗が知ったような顔をして、資本家寄りの思想を「経済リテラシィ」として流布するにつれ、労働者寄りの思想が衰退するのは必然である。
 労働者寄りの思想とは端的に言えば「誰か ── それは世間や社会であり、会社であり、家族であり、自身である ── のために働いて対価を得ることに価値がある」という考え方だ。
 資本家寄りの思想を分かりやすく言えば「高い利益を得るために、手段を選ばない」ことに尽きる。
 そのうちには当然、原価を下げることも含まれる。
 時間も人間も材料も税金も、何もかもを安くしてゆけば、それで利幅が大きくなる。
 利益を最大化することが至上という考え方は、誰かを幸せにしようとか、それをどこに還元するとか、そういう綺麗ごとを含まない。

 この国家がギスギスして衰退しつつあるのは、経済至上主義が行き過ぎて、政府に属している連中どころか国民全体が資本家思考に染まってきたことが原因だろう。
 政府も経団連に名を連ねるような大企業の経営陣も「お金でお金を増やす」ということの不自然さには思い至らないらしい。

 資本家思想に凝り固まると、労働力も道具も資源も安い方がよい、ということになる。
 僕は何年も前から「100円ショップに群がるような生き方をする労働者は自身の首を絞める」と言ってきていたが、結局のところ周囲の人にもそれは響かなかったのだろうと想像する。

 FIREなどと銘打って、早期リタイアが持てはやされた時期もあった(まだこの数年のことだ)が、結局のところ人間というのは社会や他者との関わりを持たないと精神衛生や安定を保ちにくいものらしい。
 僕からすれば、単に自分の中に物差しがないのだろうと思えるが、だからといって社会性を持つことが悪いことだとは思っていない(僕には不向きだというだけだ)。

 僕自身は自立心のカタマリというか、自己責任論の権化というか、とにかく馴れ合いとヒエラルキィを作りたがる下らない連れション文化が嫌いなため、結果的に社会性を放棄してしまった。
 社会性のすべてが連れション文化だと嗤う気はないが、その粘着性や結合力が無駄に使われればおかしなことになるのは、プラモデルで接着剤がはみ出たときのことを考えれば容易に理解できるだろう。え、最近のプラモは接着剤不要なの?

 粘着したがるわりに、自分のこと(あるいは自分の利益になること)しか考えない人間が少なからずいる。
 そういう人間や集団が権力や資本を握るとどういうことになるか、というのは観察のしがいがある。

>>>

 施政者が経済効果を謳ってデタラメを繰り返して久しいが、彼らが表向き掲げているのは、こうした「資本家寄りの本音をポリコレで飾り付けた理想論」であり、つまるところ中身がない。
 おそらく立法府にそれだけの実効力の発揮を求めることが、そもそもおかしいのである。
 しかしこの国は立法府と行政府が融合しており、いつからか司法府も、警察機構も抱き込まれているように観察される。
(そういえば「自由」でも「民主」でもない政党がそれを名乗っている様は、朝鮮「民主主義」「人民」「共和国」に通じるデタラメさがあって微笑ましい)

 なぜといって、立法府が立法府に都合の良いことを法定することが可能なままに任せ、同時に経済との繋がりも強くなってしまった。
 国家予算を握っているから当たり前だろうという考え方は、行政府に対しては必然だと思えるが、立法府が経済や経済を多く持つ者とより強く繋がるということ自体が、相当にイカれていると思わない方がどうかしていると僕は思っている。

 権力と経済がしっかり腐敗臭を漂わせているのに、どうも人々は我々ケモノと違って鼻の利きが悪いらしく、あるいは自身の泣き言を遠吠えすることに必死で、何をどうしようともしていない。

 我々が選挙に出掛けたところで、直接、法律を変えることができるわけではない。
 これがもっとももどかしいところだ。
 内閣総理大臣やら与党やらが矢面に立たされてはいるが、所詮は一介の個人が、大規模な組成までを含んだ政治的ビジョンを仮に持ち得たとしても、一朝一夕にときの声を上げてその実現を可能にできるとは思えない。

 民主政治という学芸会の寸劇を、僕らは眺めてそこに民主政治があると幻想しているだけではないかと、僕はずっと疑っている。
 宝くじ協会の会長にも(僕は)なれないし、日本赤十字社の役員にも(僕は)なれないから余計にそう思う。


 ならせろ!
 






 

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// NOTE:
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TITLE:
「世界観」という誤用の一人歩き。
Written by BlueCat

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//[Body]
※世界観という言葉の使い方について、一般の用法を否定しているような記述をしており、そうした用法をしている人を不快にする可能性について配慮し、一時非公開にしてありました。
ブックマークもしくは検索によって訪問される方がいるようなので、原文のまま、再度公開します。
 
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 他にあまり用例を見ないので個別にあげつらうような形になってしまうが「世界観」という日本語の使われ方に少々違和感を覚える(違和観ではないがそう書いても問題はなさそうだ)。
 用例としては「世界観が素晴らしい」「世界観がリアル」「世界観の作り込みが緻密」などである。
 これらはすべて「世界設定」という単語で置き換えることが可能で、意味もそのまま「世界設定」のことを指しているように観察される。

 僕が触れるのはゲームというインタフェイスを通してのことが多いが、他にも映画やアニメなどのフィクション作品 ── とくにSFやファンタジィなどにおいて、現行の現実社会からの乖離が大きい世界設定になるほど当然に、その緻密さや整合性に意識が向けられるのは不思議ではない。

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 そもそも「○○観」という日本語がどのような意味を持つかというと、たとえば「価値観」や「宗教観」「概観」といったように、主観を持つ存在(まぁだいたい「自分」と呼ばれるものたち)が何らかの対象を観察して感じたこと、あるいは観察することそのものを指す。
「世界観」という単語を辞書で引いてみても「世界に対する見方・見解」といった説明がされているだけで、フィクションの世界設定に該当する、あるいはそのように解釈が可能な記述はない。

「○○観」という単語は『「○○」に対する主観的(あるいは社会的)感覚』のことなのだ。
 よって「世界観」という単語が示すのは、(仮にフィクションであっても)世界に対する「主観的な」感覚や見解であり、それは統一的なものではなく個々人にそれぞれのものだと思う。
 ゆえに「リアルである」とか「緻密である」という表現がおかしくなってしまう。

 たとえば誰かの経済観や宗教観といった価値観に対して「リアルだ」とか「緻密だ」とか「作り込まれている」といった表現をするだろうか。
 価値観というのは現実にその人の主観として存在するものなのだから、そもそもリアルなものであり、同時に実態を持たないという点でヴァーチャルである。
 また主観的な見方や見解なのだから、緻密さというスケール感を客観的に当てはめることはできないように思えるし、価値観なんて(僕のように少々変わった趣味の持ち主でもない限り)作り込むようなものではない。

「作り込まれた価値観」なんてものが存在するなら、それは建前というものに感じられるし「では本心はどうなの?」ということになってしまう。
(ちなみに僕はたくさんの「建前」を持っているので、どれも本心といえば本心だし、嘘といえば嘘ではある)

>>>


 にもかかわらずこのような誤用が蔓延してしまったのは、おそらくクリエイタ側が「世界観」という単語を使っていた(使った)経緯があるのだろう。
 たとえばフィクション作品においてクリエイタが「これこれこういった世界観を持っている」「このような世界観の構築(作り込み)を図った」「世界観の投影を行う」という単語をインタビュなどで使ったのではないだろうか。
 この時点では単語の用法に誤りはない。

 クリエイタは自身の作る作品の世界設定を、まさにそのフィクション世界を「見て感じた」とおりに設定してゆくからだ。
 もちろん上記の用例で「世界設定を持っている」「世界設定の構築を図った」「世界設定に投影を行う」と表現してもおそらく違和感はないだろう。
 しかしクリエイタ本人にとってみれば、その設定は自身の内にあるヴァーチャルとして、確かに観て感じていることそのものである。
 ためにそれは「世界設定」であり、同時にその作品世界に対する作者なりの「世界観」でもある。

 あるいは批評家気取りが得々と「作者の世界観は……」などと語ったのかもしれないが、第三者が好き勝手に他人の価値観を語ることは白々しい。
 仮に本業の評論家だったとしても ── 僕はフィクション作品の批評家/評論家という職業を寄生虫程度には嫌っている ── その客観性を欠いたことにも気付かない認識は、評論と呼ぶには少々歪んでいるようにも思える。

>>>

 果たしてその作品を傍観する我々が見ているのは、その作品を作る際にクリエイタの中に存在した「世界観」かといえばそんなことはないだろう。
 作品を見る者が知るのは、作品を見て感じられる世界設定の片鱗に過ぎない。
 別に作者が崇高で作品を見る者は凡俗であるとか、そういうことが言いたいのではない。
 主観を指す言葉を、客体として使うことの気持ち悪さなのだ。

 先に述べたとおり、世界観というのは、あくまで主観的なものである。
 べったりそれと分かる作者の世界観にまみれた作品など、素人臭くて嫌われるような気がする。

 にもかかわらず新しい映画が、アニメが、漫画が、ゲームがリリースされると決まって誰かが「美しい世界観」「素晴らしい世界観」と褒めそやし、あるいは「世界観がイマイチ」などとあげつらう。
 べつにそうした感想(作品観)を持つのは構わないのだが、やはりそれは「世界設定」ではないだろうか。

 
 個人だけでなく、マスメディアでも当たり前に誤用している。
 もはや辞書の内容を書き換えた方が早いような気までする。そうなれば僕も諦めがつく。

 まぁとにかくそんなわけで、違和感というか、違和観というか、そういうのをですね。感じるわけです、はい。
 あるいはもしかしたら「分かって使っているんだよ」という人もいるのかもしれませんけれど。
 でも言葉は正しく使っていただきたいな、なんて思うわけです。はい。
 まぁ僕も適当に、ふんわりした感じで、ろくに辞書も引かずに知ったような顔で日本語を使ってしまうので気を付けなくてはいけないと常々感じているわけですが。
 

 
 
 
 
 
 
 

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230914

 昨日から連日で草刈りをしている。
 8時頃に開始して、電源からコードリールと延長コードで足りる範囲を一日の作業領域としている。
 およそ3〜4エリアに分割されることになり、1エリアにつき2〜3時間で作業が終わるから、詰めれば一日で終えられる作業だろうとは思う。

 もっとも作業中に奥様(仮想)が体調に応じて休憩や中止の指示を出すことがあるのでそれには従うようにしている。
 僕の身体に起因した仮想人格だが、僕は作業中、目先の作業対象や使う道具に集中していることが多く、ために体調を崩す傾向にあるのだ。奥様(仮想)はこうした局面で僕の生命維持に役立っている。

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 作業が終わってシャワーを浴びてから体温を測るのだが、昨日ともに37.7℃になっている。
 シャワーは30分ほど掛かるので、それだけの時間があるのに体温調整できないということになる。

 昨日はBP(高校の友人)が遊びに来たので、夜になってから食事に出掛けた。
 数日に一度なら、固形物を食しても問題ないようになってきた。

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 正直なところ、そろそろIRLに戻りたい。
 7月からかれこれ2ヶ月、外出を最低限にしている。
 屋外作業もできなかったため、作物は野生化してしまったし、いわゆる雑草たちも伸び放題になってしまった。
 堆肥はあらかた出来上がった上に積んでいたからよかったが、ムラができているし、底の方までこなれているか不明である。
 屋外用に作りたかったもの(移設型堆肥枠)や網戸などの修繕、サンシェードの固定具の改修、納屋の壁のリフォームなど、屋外でしたいことはすべてできないまま終わった。
 初夏の頃「48歳の夏は一度きりだよ!」と奥様(仮想)がおっしゃっていたのだが、熱中症はすべてを奪うのだ。

 ちなみに数年前の原因不明の体調不良が熱中症の後遺症だったと仮定すると、回復までおよそ1年、もとどおりになるには2年掛かることになる。

 その数年前の時は、4ヶ月ほど、ずっとSKYRIMをプレイしては眠っていた。
 気付かないまま普段どおりの生活をしようとしていたから、内臓のダメージが相当蓄積したように思う。

 今回は、熱中症の翌日から蕁麻疹が出たおかげで、後遺症として観察を続けられた。
 意外なのは、内臓の不調が表出するまでひと月くらい掛かるということだ。

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 もともとヴァーチャル寄りに作られてはいるが、肉体がある以上、僕もIRLに棲む生命体には変わりない。
 惑星ルビコンの資源を巡る勢力争いに巻き込まれたりも(AC6で)していたが、ずっとヴァーチャルに居続けるのもなかなか苦痛を伴う。
 だからといって眠り続けるのもなかなか苦痛である。

 

 IRLでは屋内のリフォームもまだ躊躇する程度しか回復していない。
 それでも2時間程度の作業なら、リハビリ程度にちょうどよいと感じている。
(今日は3時間掛かったのだが、かなり身体が眠い状態が続いている)

230910

 数日前から、体温が37を超えたままだ。
 体調がずいぶん良くなった気がして、玄米粥を食べたのが良くなかったか、お腹を下してしまい、それからひどい倦怠感が続いている。
 数時間起きて、暴力的な眠りに打ち倒されて数時間眠る、というのを繰り返している。

 豆腐や味噌汁を一日一度食しているだけで何日過ぎただろう。
 不思議なのは、もはや空腹を感じないことに対して危機感を持たなくなったこと。

 よくよく考えれば、子供の頃は本当に小食だった。
 どうにもならない空腹を感じることもあったが、そういうときは砂糖水(ジュース類の比喩ではなく、直喩として上白糖を溶かした水道水)を飲んで凌ぐ術を身に付けた。

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 油脂類や穀物類を、どういうわけかこの身体は好まないらしい。
(野菜類と大豆製品はとにかく好む、というのはお腹を下さないことからも分かる)

 体調の悪さが表出する箇所が、表皮から始まり、胃→小腸→大腸(現在)といった体感がある。
 なぜこんなにゆるりと具合の悪い場所が推移していくのかは不明。

 そういえば数年前も、同じような謎の不調不良で、食事もままならず眠っていた時期があったことを思い出す。
 あの夏も、たしかバイト先で熱中症に罹ったような。

>>>

 医者に掛かればいいのかもしれないが、僕のような特異体質に対する知見を深く持つ者は少ない。
 多くの人間に当てはまることを勧められて従ったり、多数派と同じ処置をした結果、悪化するケースがなかったわけではないからだ。
(ために、そういう変な体質に対して理解のない医者に僕は掛からない)

 それとも点滴を数十分も入れてもらえば、簡単に回復できるのだろうか。


 早朝、草刈りをしようかと悩むが、無理をしない方がよいと判断してゲームをして過ごす。
 いつになったら庭の管理に手を出せるやら。

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// NOTE:
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TITLE:
自身という呪い。
SUBTITLE:
~ Mind cage. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 人間というのは、自分という名の檻に閉じ込められた獣なのだろうと思うことがある。
 時にその事実
は哀れで滑稽で、そして無力で虚しい。
 なべて等しくみな人間かと、哀れむこともあるのだが、そういう動物なのだろうから仕方ない。

 おおよそ広く観察する範囲において、この「自分」という呪いに掛かっていない人は極めて少ない。
 身体だって十分に自分を限定し制限する檻であり、その未熟な檻が成熟するまでには他者の力を借りなくてはならず、その他者は必ず「自分」を束縛する檻になる。あるいは柵(しがらみ)と言い換えてもいい。

>>>

 それではその柵が広く緩かったらどうなるかといえば、それはそれである種の檻には違いないのだ。
 卑近な例だが僕は子供の頃、親(父親)は放任主義で、子供(特に僕)に関して無関心なのだと思っていた。
 もちろん経営していた会社が倒産し、負債と病気と子供を抱えた状態で配偶者と別れるというのが一度に重なったわけだから、その苦労は僕の想像を超える。
 しかし当の「子供」たる僕にしてみれば、そんな苦労はそれこそ想像もつかないものだったし、4歳の時点で(当時2歳の妹があまりに我が儘だったため)「僕はわがままを言わないようにしよう」と心に決めた経緯があったので、必然に手の掛かる妹が父親の愛情を独占しようといつも奮闘していた。

 妬ましいということはなく、微笑ましい気持ちでいつも眺めていた。
(ときに、その過ぎる我が儘をいさめる必要はあったが)

 僕は学業の成績こそ学年で目を引くほど優秀だったが、とにかく非常識な人間だったろうと思う。
 学校で猫を飼ったり、宿題というものをまったくしてこなかったり、それから女物の服(姉のお下がりである)を平気で着ていたのでいじめられることもあった。
 おそらく学校の先生も、何らか、親に連絡はしたのではないかと思う。

 それで僕は親から何か、学校での生活について言われたことがあるかというと、まったくない。
 成績について「これは!」と褒められたこともないし、宿題をしなさいと言われたことも、しないことを咎められたことも、猫を抱えて登校していることを注意されたこともない。
 もちろん僕が学校生活について何も言わなかったことも事実だ。
 クラスで1人だけテストで100点だった、なんてわざわざ報告していたらきりがないし、宿題をいつも忘れているということを自宅にいると忘れている。同様に自宅に居る猫はすでに学校に居ないので、思い至ることがない。

 かの4歳の決意以来「僕のことを見て欲しい」という気持ちが希薄だったのだろう。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉が事実なら、逆接的に求めないから与えられなかった。
 もちろん欲しかったわけでもない。

 ではその放任主義の緩さの中で、僕は自分の自由(深夜にTVを観たりラジオを聴いたり)を満喫していたわけだが、果たして大人になったとき「自分は父親から愛されていたのか」と自問すれば「妹ほどではないな」と即答できるほどだった。
 手の掛からない子を演じることを決定したのだから当然なのだが、それが好いとか嫌いということではなく、単純に「さして愛されていなかったのだろう」(自分も大して愛着を持っているわけではないし)と思い至る結果を生んだのだ。

 実のところこれは親のせいばかりでもない。なぜといって、僕の場合は自分で手の掛からない子供としての自身を構築することを決定したわけだから。
 愛されたかったら「妹より僕を!」と妹を退ける勢いで自己顕示していた方が良かっただろう。
 単純にそんな欲がなかったわけだが。
(それにある時期から僕は父親を蔑み、いつか殺す必要があると考えるようになっていたし)

 そして近年、改めて振り返ると、僕はたいそう父親からも愛されていた。
 ただお互いに、それを上手に表現し、やり取りすることができなかっただけだ。

 つまり放任主義によって柵を広くて緩くし、檻に閉じ込めないようにしたところで、それも何らかの柵として作用するのだ。
 あるいは環境がどれほど努力したところで、自分が望まないものは手に入らないものだし、望んだとしても本人が適切な努力をしなければやはり手に入らない。

>>>

 僕のように希薄な自我の上に複数の人格を載せていると「自分」の呪いはますます薄くなる。
 世の中のだいたいのことは「Aとも言えるしBとも言える。notAともnotBとも言える」ことの連続だ。

 子供の頃などは「果たして自分はここで何を選択すればいいのか」と分からなくなることもしばしばあった。
 環境が求めていることと自分の許容範囲との妥協点を探り、それを終着点として自身の言動を制御しようというおかしなアルゴリズム(思考様式)が僕にはあるのだ。

 それでも好き嫌いはあるし、許せないこともある。
 ただその感情によって切り出される視界は、なかなか自分を制限してしまうのも事実だ。
 そして多くの人はその自我を「好き嫌い」によって切り取って自らを制限してゆく。
「自分はこういうものだ」「自分はこう考えるものだ」「自分はこのように反応するはずだ」と意識せず無選択的に選択している様は、スピーディではあるが自由には見えない。

>>>

 未だに他人の愚痴を聞くことがあるので楽しく拝聴するのだが、その強く固執した「好き嫌い」こそがその人を苦しめていることを、どのように理解してもらえばいいのかと苦悩することもある。
 しかしそれぞれに肉体があり、その肉体に起因した過去もある(肉体がなければ、きっともっと自由に他人になれるだろう)。
 過去があるから人間関係が固着し、流動的でないために摩擦が起きる。

 下世話な表現をすれば、仕事をしなければ収入が得られないことが多いし、1人で生きるには不器用な者が多い。
 感情で結びついた好ましい(あるいは好ましかった)誰かと共に生きる(生きるためにその必要がある)者もいる。
 誰でも炊事洗濯ができて、高い場所にも手が届き、重いものを運べて、家のリフォームや庭木の剪定もできて、電気工事もなんとなくやってみたらできた、というようにはならないし、自分の孤独を自分で埋めるようなイキモノは、基本的に変人扱いされる。
(そのように俯瞰して考えると、僕は極めて特殊な個体のようだ。まぁ猫だから必然か)

 配偶者であれ親であれ子であれ友人であれ同僚であれ恋人であれ、誰かの手を頼って人間関係が生まれ、あるいはその人間関係があるから誰かに頼ることができ、あるいは誰かに頼られることがある。
 そしてそれは漏れなく何らかの摩擦を生み、自身という檻を強固にする。

 気に入った檻ならそれはよいことだ。
 幸せは檻にある。実に人間は家に棲むではないか。

 荒野に放り出され、雨風に打たれ、無能な個体は獲物を取れないどころかむしろ獲物にされるような生き方は自由だが過酷だ。
 それに比べれば、檻で暮らすのも「まし」だと思う。
 しかし檻が気に入らないとなれば、それを望むなら、相応の適切な努力 ── 努力という言葉が僕は嫌いなので正確にいえば、計画と実行/演算と出力 ── によって未来を変えるしかない。

 そして変えた未来も、結局は檻なのだ。
 自分が自分であり、自分という欲を捨てられない以上、人はなべて等しく、自分という檻から出られない。

>>>

 きっとそれはある種の呪いだろう。

 人は与えられた環境という呪いを操作できないことによって無力感を植え付けられ、その無力感のまま自分の環境を選択しては、その環境に不満を抱く。

 あるいはどこかで環境を操作することを学ぶことは可能だ。
 環境が操作できるとなれば、自身は無力などではないと知ることができる。
 もちろんその「環境」に他人が含まれていると、これはこれでその人に対する柵を作ってしまうことになり、呪いを作ることになるわけだから、たいそう恐ろしいことなのだけれど ── 。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Ecology-Engineering-Interface-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
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// TimeLine:230826-230828
// NOTE:
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TITLE:
AC6。webニュースのこと。政治のこと。僕の身体。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

230826

 予定のある日とその前日以外、起床と就寝と食事は身体任せである。
(前日は「時差ボケ」解消の調整日として使われる)

 アラームに対する条件反射によってベッドから身体を無理矢理引き剥がすような起床をしなくなって久しい。
 目覚めるときには、すでに頭が何かを考えていることが多い。稀に夢を見ていることもある。
 多くはそのとき集中的に考えていることが継続審議されている。

 ゲームだったらその攻略や操作の反復。音楽が流れていることもあるし、読んでいる本の内容について考えていることもある。
 ものを作っているときはその設計や作業工程、仕上げの方法や道具について考えていたりする。
「あ、あの材料が足りない」などという情報は、ホワイトボードに書いて忘れるようにしているが、寝ている間に他の必要なものを思い付くケースもある。

 そうして考えながら「あ」と、身体が目覚めることを知るのだ。
 夢の場合はヴァーチャルから現実に認識を移動するのに時間が掛かるが、IRLのことを考えていた場合、ほんとうに「すっ」と目覚める。

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 目覚めてまず、身体を動かさずじっとしていることが多い。
 たいていは目を閉じたまま、身体の状態を確認する。
 まず思い出すことは、この身体が人間のそれであること。

 こうして文字を書いているから考えもしない人が多いが、僕は猫である。

 痺れや痛み、暑さや寒さ、汗による不快感などを確認する。
 それらがなければ、足と手の先を感覚する。
 夢を見ていた場合、身体の末端に到達するまで、少し時間が掛かる。
 指先を動かす。手首足首を、少し動かす。
 そうやって末端から徐々に身体を動かして、腕や脚の皮膚、関節を撫で、皮膚の状態やその感覚を確認する。

 身体の感覚をある程度確認したら、意識をはっきりとIRLに移動させる。
「今日も生きている」とこのときに思う。
 余命計算が為され、残りの人生の最初の一日であることを思う。

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 目覚めのとき、手足に軽い痺れがあった。

 筋肉痛のそれに似ているが、そうではない。
 軽い栄養失調の前触れだ。
 確かにしばらくまともなものを摂食していない。

 豆腐は美味しいが栄養は偏っているし、サプリメントで補うにしても僕は頻繁に飲み忘れる。
 僕はそれを思い出す。
 土日の外出は好きではないが、ピークオフを狙い、蕎麦を食しに出掛けることを画策する。

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 食事をして気付いたのだが僕の身体は今、胴体と頭部、頸部での発汗がほとんどである。
 四肢からほとんど発汗せず、表皮、とくに膝などの関節部は手に触れてひんやり感じるほど冷えている。

 どのような経緯でかは不明だが、静脈から毛細血管に熱が乗って表皮で発散されないようだ。
 四肢で熱を発散できないため、身体を動かしたり環境温度が高いと胴体部が過熱してしまうのだろう。
 毛細管類が元通りの機能を回復するのにどの程度掛かり、またどの程度まで機能を回復するのかは不明だ。

 夜、TUが猫を迎えにやって来る。

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230827

 昨日に引き続き、(熱は引かないが)体調がいい。
 特に皮膚感覚が抜群だ。傷跡もほとんど見えなくなった。

 調子に乗って、少しだけ庭で作業するが、あっという間に体温が37℃を超えるので退避。

 夕刻近くになって、久しぶりに洗車。
 僕は基本的に洗車の必要を感じない性格なのだが、オープンカーに(真夏は絶対にしないが)できないという選択の余地がなくなることを嫌うので、ほどほどの頻度で洗車をする一方、雨が続くときは完全放置する傾向がある。

 腕や背中の筋肉も落ちているので、少しだけウェイトトレーニングをする。
 あっという間に体温が上がり、息が上がらない程度の運動だったが37.4℃にまで到達した。

 夜は久しぶりに外で飲酒を含めた食事。
 単純に温度と湿度が下がってきたこともあるが、夜の空気が肌に心地よいと感じられるようになった。
(前回は100mほど歩いて、刺激に耐えられず引き返したので)

 2時間ほどかけて食事をし、肉類もしっかり食べた。
 消化状況もまずまず。

 僕は食事をするときに口に含んでから箸を置き、目を閉じて舌触りや歯ごたえや香りや味を感覚してから咀嚼をし、それらの変化を楽しみ、呑み込んで胃袋に落ちるのを感覚し、わずかに口を開いて余韻を味わい、ようやく目を開ける。
 お酒でも似たようなことをするので、ほとんどの店で、最初から記憶されることになる。
 そもそも箸置きを使わない人もいるだろうし、酒席でもそんなに悠長に飲食する人は少ないから理解はできる。

 また酒杯を重ねても、椅子の背もたれに背を付けず、肘をついて前屈みになることもない。
 それらのいずれかをするときは、すでに頭も身体も泥酔している状態なので、それ以上飲ませないよう、黒猫氏あたりが帰宅を促すようにできている。
 味も分からないのに料理や酒を取り込み続けるなど、カフェインであれニコチンであれその他の薬物であれ、同じような中毒や依存症に違いない。

 観察の範囲で、多くの人は何らかの中毒にはなっているように思える。
 僕はコンピュータドライブ中毒である。食事や入浴、睡眠を除けば、コンピュータにずっと触れていたい。

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230828

 体調もいいし気温にも耐えられる。
 体温は相変わらず36.8℃だが、調子がいいのだから少し作業をしようと思い、ナビ用に加工するつもりで外してあるダッシュボードパネルの加工を開始する。
 ちなみにナビを取り付けてから半年ほど、パネルを外した剥き出しの状態になっている。
 個人的にはそういうジャンクっぽく見た目を仕上げないのも十分魅力的だと思う。

 樹脂はABSだろうと思うが、厚みがあって少々固い。
 パネルに罫書き線は書いてあるので、ドリルで10mm間隔に穴を空け、切断の足掛かりを作る。
 しかしカッターでは良く切れず、ニッパでは刃が思うように入らない。
 工具を見るため、ホームセンタに出掛ける。

 帰宅は14時。
 カットが終わったら、レザークラフトの道具と革が10年ほど寝ているので、それを使ってカバーを作る予定。
 まだ先は長い。

 今日は固形物を摂食しなくてもよいだろう。

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【AC6】
 エースコンバットではなく、アーマードコアの方。

 現在3周目。全体に良くできていると感じる。
 建造物はトラス構造の微細に至るまで精緻にモデリングされ、レンダリング技術も(ハードウェアの裏打ちがあってこそだろうが)とても美しい。
 プレイ画面で被写界深度が強いあまり、ジオラマでも見ているような感覚になることはあるが、それも含めて楽しい。

 当初はボス戦で「なんちゃらソウル」みたいな作りに感じられる部分もあり正直辟易していたが、操作の技量が向上し、機体性能が上がるにつれ、爽快なゲームに変わってゆく。
(当初は絶望的にボスが強く感じられるので)
 そういったレベルデザインなのだろうけれど、シナリオが分岐するミッションで、受けたのにどう考えてもクリアできない、という場面が1周目にはたびたびあった。
 また別ルートの周回を終えてエンディングを見るたび、次の周回で新たな要素や分岐が発生するようだ。
(現在の3周目まではそう)

 1周目では、登場する女性(の人格を持つ)キャラクタが(僕が弱いために他のルートを選べず)「激おこ」になってしまうのだが、過去の恋人との修羅場を彷彿とさせられて非常にやるせない思いをした。
「違うん。そうじゃなくて。誤解だから。そういうつもりじゃなかったから」と言い訳しながら戦闘を繰り返してボロ負けする、というのを繰り返した。
 何度も何度も冷たくなじられ、硬直した態度で突き放され、最後に怒りに震え、あるいは寂しそうに独りごちる捨て台詞は、涙するほどつらかった。
 シナリオライタは女性によく怒られた経験があるんじゃないかと思うほど「女の怒り」を上手に描けていたと思う。メンタル削られるからやめてほしい。

 2周目では別の女性キャラ(こちらはこちらで命の恩人)と敵対するルートに進行したが、そちらは今までのACにありがちな「豪傑な女戦士」という感じで、まぁ、ちょっといろいろ切ないのだけれど、メンタルをいじめられないのでよかった。
 敵対するキャラクタは、どうしようもないクズキャラもいる一方、部下思いの熱血軍人であったり、つくづく「いい人だなぁ」と思うキャラが多かった。
 だいたい屠るんですけどね。

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【ビッグモータのニュース】
 ネットニュースのコメントを観察する範囲で損保ジャパンがひどく叩かれているが、東海日動と三井住友はうまく逃げたのだろうか。
 それとも金融庁も絡めた情報操作でもあったのだろうか。
 そもそもT社とM社は系列こそ違うものの、自動車保険はT社ベースの商品を売っていたと記憶している。
(M社は独自の自動車保険を持たない)

 それを考えると、損保ジャパンだけが矢面に立たされて火を着けられている様は、少々異様に思える。
 怒りを募らせるオーディエンス・コメンテータたちは、まぁ、叩く相手がいれば誰でもよいのかもしれない。

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【ちょっと政治の話】
 かねてから弟子には「反政府組織を樹立しなよユー」と言っているのだが、婚活に忙しいとか、普通の人生を歩みたいとか、逃げてばかりである。
 僕は猫なので、そういうことは致しません。

 多数決というのは、人間の社会性が引力のように互いを引き寄せ合う機能を上手く利用したものだったのかもしれない。
 少なくとも集合の中で、少数に若干の不利を強いても多数に有効な方策を採るほうが合理的だというのはもっともな話だ。
 一方で昨今は、少数の強者のために、多数の弱者を虐げる方策が採られている気もする。

 いわゆる「政治家の、政治家による、政治家のための政治」である(誰も言ってないね。ごめんね)。
 これが多数決原理の選挙制度を利用した民主主義政治と銘打って、法治国家で施行されている。
 法を変えられるのは立法府に在籍されておられる政治家の皆様だから、これはもうどうしようもない。

 選挙に行く人が少なくなるのも無理はなかろう。
 結局のところ、彼らのそれは「連れション文化圏」そのままだ。
「○○ちゃんがこう言ってるから私もそうする」といった感じで、そのような同調によって議席をより多く集めている政党がもっともらしく政策を決めるのだろう。

 本来、代議士は、その地域に住む人々の意見を広く集約し、それを議場に反映させることが仕事ではないかとも思うのだが、そんな時代は終わったのかもしれない。
 たくさんの金正恩が「連れション文化圏」に飼い慣らされて、政治ごっこを続けているように思えることもある。
 もちろんそれは僕が社会性のほとんどを放棄して生きていられるからだろうとは思う。
 連れション文化が嫌いなあまり会社員すら勤まらず、とうとうただの猫になってしまった。

 それにしてもごっこというなら首相もごっこ遊びをしているだけかもしれない。

 安倍首相は好きではなかった(嫌いだった)が、本人のそれか、誰かに言われた目標であるかに向かって、政治をしていたとは思う。
 おそらく「連れション文化圏」のメカニズムを考えれば、後者である可能性が高いとは思うが。
 いずれにしても有能であるはずの人々が、一般の人々を蔑ろにするように観察されることもある現在の政府は、社会主義的であり封建的でもある。

 マイノリティに過剰な権利を与えようと倫理に振り回される現代国家こそが素晴らしいなんてこれっぽっちも思わないが、能力がなかったり、何らかの弱さや不具合を抱えていたりする人でも、不幸に溺れている人でも、もっとのほほんと過ごせるような社会であればいいのにと願う。

 だから「反政府組織を結成しなよ」と弟子にけしかけるのだが、昔から彼
は僕の言うことを聞かないのだ。






 

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[Object]
  -Car-Computer-Friend-Game-Poison-Tool-
 
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  :夢見の猫の額の奥に:暗闇エトランジェ:
 
 
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