// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
滅びの詠を聴かせてあげる。
SUBTITLE:
~ The mutiny is as muting as mutation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::こうしてくれるなら、これだけあげましょう、というのは、普通のことではありませんか。つまり、お互いに利のあるものを交換するのだから、商売のうちのように思いますが。

::ええ、それが普通の仕事、つまり個人の営みであれば、問題ないのです。しかし、公の役職にある者は、本来その人間ができること以上の権限を、一時的に任されているわけです。公のもので、特に政(まつりごと)には、そういった役目が沢山あります。となると、そういう役職の者は、皆に等しく接する必要がある。ある特定の者に便宜を図ったのでは、任された権限を悪用したことに等しいのです。正しいものを差し置いて、金を沢山持ってきた者の言うことを聞くことになります。ときには、明らかに罪になるようなことを許したり、逆に、まったく罪のない者を捕らえて牢に入れることだってできてしまう。そういう権限が金によって左右されていては、世の秩序が乱れます。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 BP(高校からの友人)のことを20代になるあたりから「先生」と呼んでいる。
 一般代名詞や敬称のようにも感じられるそれが、実は彼のニックネームである。つまり彼に与えた固有代名詞だ。
 理由は彼のことを僕がちょっと見くびっているからなのだが、事情を知らない人がそれを見ると、ことあるごと「先生」と呼ばれるBPや僕との関係に少々誤解が発生するのでそれも含めて楽しい。

 バブル経済の頃、風営店の呼び込みに現在のような規制はなく「社長!」「先生!」と謎の代名詞によるキャッチが横行していた。
 ちょうどフィリピンパブなどが流行った時期だったからなのだろうか。
 多くの大人たちが、社長でもない人を社長と呼び、先生でもない人を先生と呼ぶ風潮があった。
 景気がよかったからこそなのか、学生起業家がニュースでも持てはやされる時代背景の中、個人事業主であろうと「社長」が今よりずっと手軽にありふれて転がっていた。

 そんな世相にあって「社長でもないのに社長と呼び、先生でもないのに先生と呼ぶのは、本質が違うのだから相手を馬鹿にしており失礼だ」と言ったのは上岡龍太郎氏だったか。
 なるほどそのような敬称で呼ばれて喜ぶ低能も世の中には居る。ために、おだてることを目的にそのような敬称を使う。
 おだてられる方も大概だが、おだてる方もたいした低能ではある。

 これは面白いと思い、BPだけでなく「これは!」と思った相手を、適合しない属性の敬称で呼び掛けることにしている。
 同じ低俗の汚名を(人知れず)着せられるのだが、にも関わらず、それは今なお魅力的な遊びである。

 無論BPにもこの原理は説明してあり、にもかかわらずBPはそれ(彼を見くびり、馬鹿にすること)を僕に許容してくれている。
 周囲の人は、同級生であるところの僕が彼を「先生」と呼ぶ風景を不思議に思うだろう。
 もはやそれは僕らの中では嘲弄ですらない。

>>>

 コンピュータプログラムによるプロジェクトを長期間運用したことのある人は分かると思うが、ひとつのシステムを運用しながら修正や改善を図るうち、完全刷新することが最適化として相応しいと判断される段階に到達することがある。

 システムの総体が肥大し鈍重になり、新しい環境に古い言語の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。
 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 コンピュータプログラムの場合、最新の環境に合わせ、修正パッチなど当てていない「正しい状態」を再構築した方が、システムは軽快に、速く正確に、適切な処理を行うことができる。
 もちろんその再構築というのは1から作り直すことであるから、手間も掛かるし気力も必要になる。
 業務として行ったり組織として取りかかる場合、それ以外にもいくつかのリソースが必要になるだろう。
 だからついついシステムエンジニアというのは、既存の動作しているプロジェクトにおける根幹をなるべく書き換えることなく、修正することで問題を回避しようと考える。場合によっては新規実装する予定の新機能をお蔵入りにする方が、相殺したリソースの損失が少ないと判断されることもあるだろう。

 長らくコンピュータプログラミングなどしていないが、システム構築の基本を僕はそのように心得ている。
 ソフトウェアに限らず、コンピュータに限定されず、ありとあらゆる構築物、人工物、生産物にこれは適用される傾向であり、おそらくは摂理である。
 たとえば衣服に開いた穴に継ぎはぎ(これもそういえばパッチと呼ばれる)を当てれば、本来の機能(保温や肌の保護や美装)を果たすことができるかもしれない。
 一方で仔細に見れば美観は損なわれ、一時的に向上したと思われる強度も長期的には大差なく(同じ部分が損壊したり、次に弱い他の箇所が痛んだりする)、
延命というのは、あくまで延命に過ぎず、永遠の命をもたらす魔法などどこにもないのだと思い知る。

>>>

 反政府組織を一向に結成する気配のない弟子が電話を掛けてくる。
 政治家のお金にまつわるスキャンダルが騒がれている、と騒いでいる。

 ちょうど最近、政治家になろうと思っていたのだと話す。
 めちゃめちゃ楽でお金が儲かる。ついでに各種税金に優遇措置がある。相続税も方法次第で掛からないらしい。
 これはオカネモチーになったら一度は考慮すべきことではなかろうか。

 現状で所属するなら自民党だが、自民党に限らず、与党がよい。
 巨大組織にあって、椅子取りゲームの議席を埋める頭数として用意されたタレント議員のように、とくに何もせず、上席におもねり、イエスマンに徹し、党なり派閥なりの最終意見に迎合しておけばよい。あとはのんびりぼんやり、議席で昼寝をするだけだ。昼寝なら得意だ任せておけ。
 多数決原理で物事の正当性を主張することを根幹とする日本国の民主主義システムにあっては、正しく多数派に属することに意義がある。
 議席での発言は、おそらく誰かがシナリオを書いてくれる。
 何となれば個人の政治思想や政策も、誰かが用意してくれるだろう。

 答弁の問題と解答も文書で用意されているから、あとは朗読するだけだ。朗読なら得意だ任せておけ。
 アドリブが必要な場面もあるだろうが、テキトーなことをなんとなくそれっぽく、深く物事を考えているかのように思わせつつ実は何も言っていないということをさせるとなかなか優れた能力を発揮する僕の特性にぴったりである。テキトーで中身のない発言は任せておけ。
 いざとなれば誰かの思い付いた(これまたテキトーな)フレーズをまるっとパクって「適切な時期にご説明いたします」とか「現在は係争中ですので」とか「捜査段階にあるため」などともっともらしく言い訳をして凌げばよい。言い訳なら任せておけ。

 こう考えると僕は政治家向きな気がするのだ。あとは世襲させる子供が居れば完璧だろうが、そんなものはあとからいくらでも用意できる。
 女性にだらしないので失脚材料も手軽に用意できる。スキャンダルも得意だ任せておけ。

 ひとたび与党の政治家になれば、金で権力を買いたい企業が放っておかないだろう。ボロ儲けである。非課税で様々な特権まで用意されている。
 きっと人々から「先生」「先生」と、先生でもないのに褒めそやされることだろう。メカニズムを心得てなお、錯覚というのは発生する。
 自分が偉くなったような錯覚をするのも得意だ任せておけ。

 今のところ僕は庶民なので、Webニュースなどを見ては「国民を馬鹿にするな」などという書き込みを目にすることもあるが、彼らはそもそも国民を馬鹿になどしていない。そういうのはそれなりに近しい対象に抱く評価なのだ。
 たとえば僕らが気付かず小さい昆虫を踏み殺したとき、相手を無視したり馬鹿にした結果踏み殺しているだろうか。そんなことはあるまい。
 ゴキブリや熊を殺すときも同様、恐れこそすれ、馬鹿にしているから殺すわけではあるまい。ただ邪魔なだけだ。
 人を人とも思わないのも得意だ任せておけ。

 そのようなわけで、お金は儲かるわ先生と呼ばれて尊大に振る舞えるわクズどもを無視して嘘を吐いて昼寝をして特権を振りかざしてテキトーで中身のないことを体現すればよいのだからこんなに僕に適した職務はない気がするのだ。
 
 
>>>

 それではと、今から経済を敵に回して共産主義国家になった場合どうなるかというのは、昨今の共産主義国家首長の専横から明らかである。
 経済であろうと権力であろうと、平等を求め、それをシステムとして体現しようとしたはずなのに、自由競争をさせても、協調分配させても、結局特定の領域に集中してしまう。
 これはおそらく集団の持つ特性だ。大量の水を穴に落とすと渦ができる。あれと同じようなものだろう。

 それが摂理や原理だったとすれば、抗うだけ無駄というものだ。
 水は低きに流れ、質量の高いものは他のものを引き寄せる。
 僕の手がガールのおっぱい(高質量)に引き寄せられるのもまた自然現象である。

 問題はそれらの原理摂理を心得た上で、いかなる設計をして、どのように具現実装するかだ。
 でも大丈夫。そういうのは優秀エリートとして褒めそやされて育った誰かがシナリオを用意してくれるはずだから。
 そのエリートにはこれまた優秀エリートの上司がいて、エリート組織が適切な未来を設計して誘導しているはずだから。
 様々な自然的、人間的、組織的、集団的、原理原則摂理を心得た誰かが、綻び続けるシステムに新しいパッチを当てて、万事最適化されるのだ。

 ── 本当に?

>>>

 生命には死がプログラムされている。

 誕生があり、成長があり、増殖(生殖)があり、死がある。

 環境は変化し、システムは最適化を繰り返し、パッチを当てて順応する。

 やがてシステムの総体は肥大し鈍重になり、新しい環境に古いシステム根幹の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。

 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 我々が望み、導き、至るのは繁栄か、衰退か。あるいは死か、再生か。

 それとも。
 自分がよければそれでいいのか。
 独善と利己なら得意だ任せておけ。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::では、それはしてはいけないことになっているのですね?

::そうです。そう定められています。しかし、実情はそうではない。裏でこっそり取引をすれば、取り締まることも難しい。ただ、大きな金が動くことがあるので、度が過ぎると、表からもわかるようになりますね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Kidding-Life-Link-Mechanics-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231205
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死なない僕の潔癖症。
SUBTITLE:
~ The Eutopia. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。

::もちろん現実世界ではそれでいいと思うよ。
 でもね。完璧を目指さず、完全を望まない ── そんな思想に作られたものなんて、現代アートの作品にさえなれないまま廃棄処分されるのがオチだ。
 何かを作るというのは、たとえそれが自己満足だとしても、そのときの完璧を極限まで目指すことだと思う。
 それを目指さないのは自己欺瞞だよ。既製品で済ませて、他の誰かに任せれば済むじゃないか。
 他の誰かに任せた方がいいのなら、何も作らない方がマシだということになる。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 国賊が大手を振って世を治めているということについて、なぜか今頃ニュースになっている。
 みだりに憶測でものを言うべきではないが、検察機関さえ掌中にしようとしていたように観察される政治家が不在になったのでようやく明るみに出るようになった、と考えるのは短絡に過ぎるようにも思える。
 この国は個人が治めているわけではない。集団がそれを行っているのだ(だから派閥だの党だの議席だのと、多数決ならではの愚かしい習わしに囚われることになる)。
 たとい統治者が国賊であろうとも、それは個人ではなく、集団によって醸成された存在だ。
 ために政治家というのはだいたい個人として見れば、市井の者よりあたたかく豊かな人間性を持ち、人格者であることも多い(もちろんあからさまな例外もいるが、少数だ)。
 統治組織や集団が、あるいはそのシステムに発生する淀みが国賊を生み出すというなら、そのシステムは一体何者によって構築され、あるいは何者によって改善されるというのだろう。

 それらシステムが全き清廉潔白な出力を行うまで、我々は何をすればよいというのだろう。何ができるというのだろう。
 考えるほど無力に思える。
 鉛筆書きを推奨される(場所によっては強要される=持参したボールペンの使用を禁止される)投票用紙さえ、疑いだしたらきりがなくなる。
 人間などよりAIのほうがよほども信頼に足るのではないかと僕などは思ってしまう。

>>>

 生来、潔癖症である。理由は分からない。
 子供の頃から正義感が強かったが、その倫理がどこから来たのか、来歴を探るにもさっぱり分からない。
 文字を知らない頃から百科事典などを読んで過ごしたせいだろうか。
 整っているもの、完全なものに対する憧憬が、心根に育ったのかもしれない。
 もちろん完全主義にせよ、潔癖症にせよ、それはヴァーチャルを基盤にしたまやかしである。

>>>

 物質的潔癖症は、弱い身体を使う上で、一定の役に立った。
 第二次性徴が始まる以前の、特に虚弱だった頃はことさら。
 身体が安定するにつれ、しかしその潔癖症は無駄だと思うようになった。
 バブル期の中後期、殺菌/抗菌/滅菌ブームがあったが、その頃にはすでに僕の物理的潔癖症は終わっていた。
 高校時代に所属していたボランティアの関係でキャンプなどを多くしたこと、恋人ができて身体を重ねたことなどが多く影響したように思う。

 精神的潔癖症は、しかしまだ残っていた。
 僕の一部はとりもなおさず自分の正義感を疑わず、一方で自分の中に脈打つ邪さや猥雑さについて、取り扱いに難儀していた。
 そして振り返るにその精神的潔癖症は、僕に利益をもたらしたことがなかった。

 どんな些細なものであっても不義や不正を認めないことは、たとえば子供の仲間内の悪ふざけであっても場の空気を乱し、白けさせるには十分な性質だった。
 しかし場の雰囲気や集団の空気を重んじるという性質を持たなかったので ── 今思えばそれなりの大家族だったのに、よくもそんなに勝手に育つことができたな、とは思うが ── 何よりも自身の正義感が先んじてしまい、学級内の大きなグループから目を付けられるということが6歳の頃からあった。

 あるいはその正義感に則って、格好良いことを言ったものの、常にそうした行動を取れるかとなるとそうもいかないことが次第に増えた。
 思考はより複雑になり、属する集団が増え、人間関係は広がり、規範はシーンによって微妙に変化した。
 Aという集団に属しているがためにBさんに賛同できず、Cという集団に属するときはBさんに賛同しなくてはならない、そういう場面だ。
 もちろんその場において、所属する集団に関係なくその意志を表明することに意義があり、かつそれが可能ならまったく問題はないだろう。
 しかし実態はどうか。

 自分の信条とする正義が確固たるものであればあるほど、それがヴァーチャルに完璧であればあるほど、その正義自体が息苦しく、それを当てはめられた自分の心は行き場をなくしていった。
 たとえば僕は肉体の成長に伴って、正しく女性に対して性欲を持つようになったが、自分が男性であることを許容できなかった(解決済)。
 たとえば僕は男たちが女たちをモノのように扱うことについて、たとえ冗談であっても許容することができなかった(解決済)。
 たとえば僕は明確な目的を持つ集団において、目的のためと偽って秘密裏に行われる不正を許すことができなかった(解決済)。
 たとえば僕は独善的な基準によって他者を断罪し、それを振りかざすことで暴力や権利侵害をするような人間を許すことができなかった。

 もちろん思考や精神がある程度成熟し、より複雑かつ柔軟に成長していれば問題はなかったと思うが、自身の中に棲まう正義感によって10歳の頃には窒息させられそうになっていた僕にとって、どこかで、何かを、決定的に、不可逆的に、殺す必要があった。

>>>

 自分以外の誰かを殺すことによって正義を達成することは無理だということにはすぐ気がついた。
 それをすることができたら、どんなに胸がすくだろうかとは思ったが、どんなに僕の中の正義が正しくても、それをすることは矛盾を引き起こし、また完璧に完遂することは不可能だと理解できた。
 個人が独善に従って他者を裁くことの危険性については、もともとその正義感に含まれており、論理の上でも9歳の頃には自覚していたため、僕はこれら一切を却下した。なので僕は、どんなことをされても、意図的に個人を裁いたことがない。

 自分自身を殺すことについてはずっと計画されている。
 それを実行しないのは、その後始末についての自動化が、まだ実行できる段階にないからだ。
 ずっと計画していた甲斐があって、僕は計画当初よりずっと綺麗に世を去ることができる。
 ただ残念なことに、より完璧を目指すなら、それは今ではない。
 関わりを持っている ── さらには絶つことができない(絶つことで別の関係が構築されてしまったり、別の業務が発生してしまう) ── 人間がそれでもいて、それらは将来的にもっと少なくなることが明確であるため、可能な限りのソフトランディングを目指している。

 それであるときから僕は自分の中の正義を、潔癖症を、可能な限り徹底的に壊すことにした。
 自分の中にあるタブーというのは、しかしさほど多くはなかった。
 たとえば法を犯すことについても、他人に迷惑を掛けず、他人に危害を加えたりせず、隠蔽可能なものであれば試してみることにした。
 飲酒や喫煙は非常に容易だった。しかし得るものは多くなかった。
 結局、僕の抱えている(あるいは僕を拘束している)正義というのは、法によるものよりは、より道義や倫理と呼ばれるものに近しいものだったからだ。

>>>

 詳細はあまり書きたくないが、僕は不義を自身に許容した。
 貞操を無視した(僕の場合、27人の恋人がいる状態を維持するにはそれが手っ取り早かった)し、生き物を殺す際はかならずその無慈悲を意図し、意識し、自覚的に行うようにした(端的に釣りや料理やガーデニングは合法的にそれを行える)。

 人を騙して意図的に搾取する行為は、さすがにできなかった。しかし会社員として生きている中で、それらを見る機会は散々にあった。
 騙すという言葉の定義が、悪意の有無ではなく相手の誤認を含むなら、相手が望んだものに100%合致しなかっただけで僕だって相手を騙したことになる。そう考えるのはむしろ容易だが、そういう潔癖症が危険だからこそ、僕は自分の基準に幅を持たせようとして現在に至るので認めるわけにはいかなかった。
 過去にまで遡及して僕を断罪したい人がもし居るなら、教えて欲しいとさえ今は思う。

 僕は現実世界と折り合いを付けることに成功し、暫定的にでも自身の存在や生命に意味を見出すことができた。
 それは仮初めかもしれないが、他者に影響を与えることなく、自身のルールを完遂できるなら問題ない。

>>>

 ともすれば「6歳以前」と呼んでいる人格を使って生きている現在は、その潔癖症を再発させているのだろう。
 僕は自分の独善によって孤独を選び、人を避け、なるべく他人と交わらないように生きている。
 他人と関わらないことが今より困難な頃であっても、65歳前後には自害するように計画されていた。
 いずれもあの頃に描いたヴァーチャルの具現だ。
 僕の求める幸せは、両手の上に乗るくらい、やわらかくて小さくてあたたかい無機質で十分なのではないのか。

 この潔癖症に、たぶん出口はない。
 まるで爆弾のようなこれを抱えていることは、僕を安心さえさせる。
 偽善であっても独善であっても、よりどころには変わりないし、他者から隠蔽し、他者との関係を持たないようにしている限り、その存在は僕以外の誰にも意味を持たない。

 他人を傷つける可能性を含み、他人を利用する可能性を許諾し、それでも他人と関わる方が健全だろうか。
 僕は他人から傷つけられることはないし、他人から利用されることを回避できるが、僕以外の誰かが僕から影響を受けることを、関係を持ちながら避けることはできない気がする。思い上がりかもしれないが、誰かと関係を持っているというのはそういうものだろう。

 おそらく集団性や社会性という規範において、僕が他者と関わることは健全だ。
 しかし僕の潔癖症において、それは不健全だ。

>>>

 かつて僕に謝罪を求めた人間がいる。
 きっと僕はそれらの人を傷つけ、あるいはその人の持つ善意を利用(悪用)したと認識されたのだろう。

 断罪された僕は謝罪をしただろうか。
 おそらくしなかったと思う。少なくとも本心では。
 なぜといって潔癖症の僕にとって、謝罪など、何の意味も持たないからだ。
 思考や計画によって規範や行動を変化させ、ミスを再発しない改善こそ真の意味での謝罪だろう。

 潔癖症が僕を(あるいは僕が意図した誰かを)殺し、しかし潔癖症を捨ててもだらしなさや無神経さが他者を傷つけるというなら。

>>>

 しかし思うのだが、僕はなぜ生きているのだろう。生き続けているのだろう。
 死なないため。死ねないため。
 ただそれだけの理由で生きているなんて、不毛ではないか。
 不毛ではあるのに、しかし、計画をご破算にするわけにはいかないのだ。








 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::でも僕が作ったモノは、いつもどこかいびつになってしまう。
 技量が足りないのかもしれないし、あるいはそもそも思慮が足りないのかもしれない。
 知識が足りず、計画や設計が至らず、不器用なためにこうなってしまうとしたら。

::猫様はそれがお厭ですか?
 完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。
 それに明日は、今日よりもっと上手にできるはずですよ。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:暗闇エトランジェ:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
熊と信仰。

Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::橋が無駄だという以前に、池や島が無駄で、それを言うならば、この寺がそもそも無駄だ。このような建物がなくても誰も困らない。仏の像も、いったい何の飾りなのか、自分にはまったく理解できない。僧侶は、人に仏の道を教え、正しく導くことが仕事だと聞いたが、それに、このような立派な建物や、金の仏像がどう役立つのかが、わからないのである。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 世俗では熊と宗教家の死が持てはやされているらしい。
 え? もうそんな話題は古い?
 なにそれ群馬県だけ自転速度が亜光速なの? 俺のベッドだけコールドスリープが可能なの?

 しばらくニュースも見ないようにしているうち、世間の話題に取り残された(困らないから良いが)。
 BPや周囲の一般的な人の意見を総合するに、人間の生活圏に入り込んだ熊は殺せというのが人の総意ということでよさそうだ。
 群馬や栃木も少し山に近づけば、朝のゴミ出しでさえイノシシを見かけ、さらに奥に行けば鹿や熊を見ることもある。
 ああした獣は話が通じるわけでも飼い慣らすことができるものでもないので、ひとたびこちらに向かってくるとなれば相応の対処が必要になる。

 僕の個人的意見(意見はすべて個人的だと思うが)も、熊は殺せ、で一致している。
 僕は畜生という畜生について(たとい己が飼い猫であっても)人に迷惑を掛けるなら殺すくらいで丁度いいと考えるくらいなので、そりゃ熊など殺せと考えるのである。
 無論、熊の生活圏に入り込んだ人間が殺されるのもまた仕方ないことだろう。それが自然の摂理であり、熊を含む野生生物の道理である。
 だからといって熊退治のために森や山を焼き払うようなことをするのは野蛮が過ぎると思うが。

 世俗が騒いでいるのは、殺された熊(あるいは今後も殺される熊)に同情し、つまりは過剰な愛護精神を発揮するあまり、捕獲をした者や捕獲を命じた役所に電凸する(少数の)不埒者がいるということのようだ。
 その(少数の)不埒者の筆頭に上がった組織に対しこれまた電凸する(少数の)不埒者もいるらしく、こうなるとちょっとした電凸不埒者合戦のようにも思えるが、つくづくも無駄なことだと個人的には思う(思うことなんてだいたい個人的だが)。

 SNSにしろニュースにしろ、そうした少数派の意見が一般論かのように認識されてしまうこともあるようだ。
 少なくとも僕の周囲には「熊がかわいそう」派はいない。群馬県だからだろうか。自転速度が亜光速だからかもしれない。

 理想というのはときにエゴなのだろう。
 ライオンの隣でヒツジが眠るような世界は存在しない。
 夢想するのは結構だけれど、畜生は畜生である。
 ときどき人のカタチをしている畜生もいるから油断ならない。
 いやだから僕を指さすのはやめてよ〜。

>>>

 宗教といえば、いくつかの宗教をハシゴしたことは以前も書いたことがある。
 創価学会も、エホバの証人も、モルモン教も、霊波の光も、集会やイベントに参加したことがある。
 何となれば創価学会は会員になっているかもしれない(入信させられたものの退会した覚えがない)が「ご本尊様」と彼らが崇め奉っている布と紙の化合物については部屋のスペースの邪魔になるので、遠い昔に燃えるゴミに出してしまった。ために物証はない。

 弟子は霊波の光の正式な信者であるし、友人にはカトリックのクリスチャンもいる、姉のうち1人はたしかモルモン教の洗礼を受けている。
 日本というのは信仰の自由が認められているのだが、信仰を白い目で見る「反宗教」という信仰が根強い。
 おそらく勧誘行為を行う宗教の、勧誘行為そのものが悪質であったり、あるいは宗教団体の行いが悪質であった経緯を反映したためだろうと想像する。

 集団なので、権威主義的になる部分はあるように観察される。
 キリスト教の系統はさほどでもないが、日本人の性質上なのか、教義や教典の勉強よりも、無駄な会合などを好む傾向があるように観察される集団もある。
 そういう宗教はどういうわけか「青年部」「壮年部」「婦人部」などのような年齢ごと/性別ごとで集団を細分化していることが多く、もしかしたら国内の宗教に特有の傾向かもしれない。
(もっとも生粋の仏教にはそのような仕組みはなさそうに感じられるが、集会などに参加する機会がなかったので正確なところは分からない)

>>>

 そもそもアナーキストでラケンローを自称する僕が、どうしてそんなにたくさんの宗教に首を突っ込んだのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
 理由は単純に宗教が嫌いだから、である(人間型の恋人をたくさん作ったのも同様の理由である)。
 これまでの経験上、観察する範囲において、多くの人は単純に嫌悪感があるというだけでその対象を忌避する。
 好きなものについてはあれこれ理由を挙げて、論拠を固め、自分の中でその嗜好をより固めてあまつさえ吹聴までする一方、嫌いなものに対しては詳細な論拠を作らず「嫌いだから嫌い」という分かりやすい感情論だけで一掃することが多い。
 どこが嫌いなのか、どのように嫌いなのか、という問いに対して「嫌いだから嫌い」という感情論で回答するのは容易だしその効果は強い。
 一方、非常に幼稚な理屈であることも否定できない。

 その理屈の弱さを僕は嫌った。
 明確な論拠のもと「あなたの崇拝している宗教はこういう悪質な部分があり、こういう矛盾を抱えている。私はあなたの信仰の自由を否定する気はないし、崇拝する対象を愚弄するつもりもないが、しかしその宗教を嫌っている。よって勧誘しないでほしい」ときちんと答えたいと思ったのだ。
 嫌悪感があるから遠ざけ、遠いから無知なまま、根拠も理解もなく嫌うということを嫌った。そうしなければ「私の信仰は他のそれとは違う」ということを根拠に勧誘する相手のこと許容せざるを得ない。理屈のない嫌悪は「これは違う」という対象を比較する根拠を持たない。
 相手が勧誘してくる信仰が、私を勧誘してくることに対して理屈をもって否定するためには、相応の観察が必要なのだ。
 自分が宗教を嫌いな理由をきちんと見つけようと思った結果、勧誘される宗教に直接的な危険を感じない限り、されるがままに勧誘されたというわけだ。

 むろん神など(唯一絶対のネコノカミサマを除いては)信じていない。
(ネコノカミサマというのは量子論的な気まぐれと混沌の神様だが、信者が僕しかいないのが現状だ。宗教法人を立ち上げようかな)
 それでも人間が信じるものがどのようなものかは知りたいと思った。広く人間を信じたいと思ったからだろう。

>>>

 会合を好むタイプの宗教は、結果的に集団的である。
 集団的というのは教義や教典 ── つまりは理念が優先されるのではなく、権威や統率者、集団のヒエラルキィや、その集団に属することが優先されるように観察される。
 後者は結果的に人間を崇拝することに繋がってしまう。宗教として、これは決定的な欠陥である。なぜといって人間は完全ではなく、普遍でも不変でもない。

 その意味で、科学や数学というのは信仰の対象として非常に優れている。
 科学は普遍であり、とくに自然科学の法則や数学的真理は遠い昔から永遠に不変のものだろう。

 もちろん僕の知る範囲において、いかなる宗教にも教義があり、あるいは教典があり、勉強会があり、学ぶべきものがあった。
 たとえば創価学会でも、仏教に基づいていると思われる六道についての勉強があったりした。
 一方で会合となると(下らない内容だったのでほとんど記憶にないのだが)営業成績報告会のような、個人的な目標に対して、その報告を全員の前でするというような、宗教の理念からはかけ離れたどうでもいい内容のものばかりだった。
 聞くところでは、弟子の信仰にも同じような会合があるように観察される。とくに僕から述べることは何もないが、無駄だとは思う。集まることで使われる時間や気力を別のことに使えばいいのに、と僕は思う。
 おそらく各種イベントも含めて観察するに、人間というのは意味もなく集まりたいものなのかもしれない。

 先の科学崇拝にしても、何を間違えたのか(他人からの影響によるものと思うが)エセ科学的な風評に流されてしまう人もいる。直近では、コロナウイルスやそのワクチンに関連した論拠に乏しい私見を、あたかも化学的正論のごとくに吹聴する人もいる。
 SNSも、その存在や役割が非常に宗教的だと僕は思う。
 人と集まる機会の少なかった時代には、たとえば地区の役員会や隣組、PTAなどのように、人が人と接するチャンネルのひとつとして宗教もその役割を果たしていたのだと思う。
 無目的に(あるいは目的が明確なサービスもあるが)SNSを通じて、同じような趣味や考えの人と接点を持ちやすくなった結果、既存の会合はその役割が本来的にあまりにも貧弱なために存在意義を問われる結果になっている。

 それでは人々の崇拝している(崇拝と言うのが問題なら依存と言えばいいか)SNSとやらは、教義も理念もないから親しみやすいぶん、野放図的でときに危険でさえあり、人の集まりたいという原始的な欲求を満たしているに過ぎない。

>>>

 ちなみにカトリックのクリスチャンである友人は、自身の信仰についてこちらから問わないかぎり、ほとんど何も語らない。
 もちろん(ほとんどのキリスト教系の宗教に漏れず)教会にゆけば毎週のように集会があるだろうし、クリスマスのイベントや洗礼の儀式などはあるだろうけれど、彼はそうした宗教活動にほとんど参加していないように観察される。
 にもかかわらず彼はきちんと信仰心を持っているようにも思える。つまり理念があるように観察され、感じられるのだ。

 僕が思うに、宗教や信仰というのは、つまるところそういうものなのだ。
 外に求めて形にし、誰かと共有して結束を深める類いのものではなく、己の中で、かくとその存在をあらためるような。


<ウマー!(ねこです)>

>>>

 結論と呼ぶほどの結論はないが、宗教について言うなら、勧誘などせずとも日本で存続している宗教はある。
(カトリックもそうだし、仏教の多くもそうだ)
 だから素晴らしい、と言うつもりはない。
 同様に勧誘する宗教だから浅ましいと一概に言うつもりはないし、無意味な会合を持つ宗教だから下らないと断ずるつもりもない。

 少なくとも、信仰がないよりはあったほうが良いと僕は思っている。
 むしろ信仰を持たないで生きていられる人を見たことがない。
 必ずといっていいほど、何かを信じて人は生きている。
 具体的ではない、実体のない、概念的な何かを信じて生きている。

 無頼気取りの人間も、力には弱いものだ。つまり力というものを崇拝しているといえる。
 また多くの人は経済(正確には通貨)を信仰しているが、その崇拝対象は人間の手で作られている。
 宗教嫌いという信仰がもっともタチが悪く、人間不信の根源となって世の中を荒廃させている。
 信仰している対象の矛盾を考えない人も多い。これは嫌悪する対象の理屈を考えないからだろうとも思える。
 その意味において、嫌いなものも好きなものも、信じる対象も疑う対象も、すべて等しいのだといえる。
 対象が同じだというのではなく、それに対する自身の姿勢や行動が同じなのだ。
 浅い考えで何かを信じる者は、浅い考えで何かを嫌う。

 浅いから、表面しか見ないから、踊らされて、ときに不本意な結果に身を浸す。
 それは信じた対象が悪かったのだろうか。
 それとも自身の信仰心が足りなかったのだろうか。

 僕には単に考えが足りないように思えるのだけれど。
 信仰を持つことと深く考えることは、相反するものではなく、それどころかとても近しいもののように思えるのだ。
 いたずらに宗教を毛嫌いするのは、たとえるなら熊殺しを「かわいい動物を殺している」というファンタジィで語るようなものだ。
 熊が可愛いってディズニー映画の見過ぎかよ。

 潔癖症も妄想癖もヴァーチャル脳も結構だけれど、いい大人なら、知らないものを知らないことについての自覚くらいはあってよいと思う。
 あるいは知っていることを知っていると過信しない謙虚さが。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::風流とは、実は何のことかわからない。ただ、言葉でそう聞いただけだ。しかも、ノギ自身の口から聞いたので、本当のところはわからない。冗談を真顔で言う人だからだ。
 しかし、彼女は根は正直者である。それはよくわかっている。今のところ、人間にとって最も大切なことは、この正直さだと自分は考える。それは、ある特定の相手に対する正直さではなく、もっと広く周囲の皆に、また己に対し、そして、自分の生き方にも及ぶ正直さだ。


 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Link-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
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  -Camouflage-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
:君は首輪で繋がれて:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231101
// NOTE:姉の家。明日は病院だが、今回は薬を取りに行くだけなので僕だけ行けばいいらしい。
機会があれば書くかもしれないが、僕は、僕しか乗っていない方が長距離の運転を好ましく思える。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味がないと感じる夜に。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::今私の愛する身近な人々も、今わたしの言葉に耳を澄ませてくれている人々も、概ねそうだと思っているんだけれど、私自身も例にもれず死にたい子どもだった。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 僕が肌に「自身の死」を実感したのは10歳のことだ ── 。

 無論、死のことは知っていた。
 それが生命に何をもたらし、あるいは何を奪い、それによって生命体がどのように変わるかということについて。そしてそれが生きとし生けるものに必ず訪れるものだという事実も。

 でも僕は、そこから切り離された場所に棲んでいたので、自分だけは死なないと思っていた。
 死ぬことを知らなかった。
 親が病気でいつ死ぬかもしれないと思い、悲しい気持ちに浸されたこともあったのに、飼い犬や猫を葬る穴を幾度も掘ったのに、それでも自分が死ぬなんて、10歳になるまで気付かなかった。
 そこで絶望して1年ほど、ぼんやり過ごしていたことは以前に書いたことがある。

>>>

 世界は綺麗な場所だった。あるいは今ももしかしたらきっと。

 不思議なこと。
 綺麗なこと。
 いいことが起こるという予感。
 背伸びしたら届くかもしれない素敵な何か。

 悪いもののことなど考える必要も、信じるまでもない「きれい」だけが埋め尽くす宝石のような透明 ── 。

 僕はずっとそれを信じていたから、世界は「好き」で埋め尽くされていた。

 もちろん対立も分裂も暴力も比較も搾取も拘束もあった。
 大人が大人を奴隷にし、大人が子供を奴隷にし、男が女を奴隷にし、子供が子供を奴隷にし、知識が、金が、制度が、社会が、慣習が、欺瞞が、正義が、誰かを喰い物にし続けていた。

 優越感と劣等感に振り回される野獣が、年代も性別も種族も関係なくのし歩いていたけれど。

 それでも僕の棲んでいる世界は、ずっときれいなままだったから。
 だから僕はそれを信じた。信じていられた。
 目に見える不遇は、肌を汚す不幸は、やがて正しい「素敵」で塗り替えられると信じられた。

 その「きれい」で埋め尽くされた世界は「好き」に溢れていた。
 好きでないものなんて存在できなかった。
 その強さを、完璧を、僕は信じていた。

>>>

 足元から侵食した「死」に、だから僕はたいそう恐怖したのものだ。
 自分だけのものだったとしても、あるいはだからこそ誰にも奪うことができず、壊すこともできないはずの「きれい」な世界が、僕の死によって失われてしまうのだから。

 僕のよりどころであり、あるいは僕自身の核として機能しているそれが、僕の死などという簡素な仕組みによって、いとも簡単になくなってしまうのだから。
 それならばいったい僕は何を信じて、何をよりどころにしたら良いのだろうかと、奈落の闇に放り出されたような気持ちになった。

 死にたくない、と、そのときほど思ったことはない。
 それ以降、何度となく「死んでもいいか」くらいに思ったことはあるし、何となればより積極的に自死を考える機会はあったが、死に恐怖し、死を避けたいと本気で思い、生き続けていたいと、死なずにずっと生きていたいとあれほど思った時間はない。

 今や死は僕の13番目の恋人であるからワルツを踊れるくらいには親密な関係だけれど、当時の僕にとっては、絶対的な断絶と終焉をもたらす、何もかもの終わりだった。

>>>

 僕は生きたいと思ったのだ。
 生きていたいと。死にたくないと。

 仮初めだとしても、まやかしだとしても「きれい」に囲まれて、「きれい」を具現しながら、「きれい」を愛して、きれいなままで生き続けていたかったのだ。
 生きている限り、それは可能だと信じていた。

 だから死ぬことは僕本人だけでなく、その「きれい」も、その綺麗に対する羨望も、愛情も、同一感も何もかもを無に帰してしまうのだと思って絶望したのだ。

>>>

 およそ1年ほどして我に返り、自分が死ぬ未来とともに今は生き続けている。

 Webの世界が発祥だったと思うが、

「お前らの『死にたい』は『愛されたい』だ」という名言がある。
 なるほどそういう「死にたい」もあるのか、と思ったのだったか。
 世界に求められず、世界に値踏みされる屈辱に耐えかね、自身の無価値に押しつぶされるように死を希求することもあるのだろう。

 僕の「死にたい」は、自分を殺したいという、憎悪や殺意だ。
 世界や他の誰かに愛されているかどうかに関係なく、自身の価値の有無にも関係しない。
 僕は僕から愛されているし、僕は僕の価値を自分なりに十分に知っている、その上で。

 もちろん今は、その殺意もずいぶん手懐けられた。
 おそらく自我と呼ばれる価値観群が単一であれば、自身に対する殺意を持ったとしても、それほど長くは保たないのだろうと想像する。
 つまり肉体に負けて価値観が消失するか、価値観に負けて肉体が不可逆的に損壊するか。
 僕はどちらも選ばず、のらりくらりと今まで生きてきた。
 今頃になって起こされたことは、つまりある種の救いでもあるのだろう。

 そう考えるとあのとき「死にたくない」と思った衝動は、直感は、それはそれで良いものだったのだろう。
 
>>>

「いつか」は来ない。
「なにか」は現れない。
 救いはない。
 求める限りにおいて、たとえ与え続けたとしてもその見返りとしてなど、救いは存在しない。

 暗闇の中で僕が手に入れたのは、僕の猫目(鳥目の逆で、僅かな光でものが見える)性質を知ることだけだった。

 その素晴らしさを、数ヶ月ごとに視力が衰える今になって知る。
 けれども見えないことの素晴らしさを、怯えるほど光に痛みを感じていた僕はすでに知っている。

 いずれ最後に闇が僕を包む。
 その優しさも、安堵も、殺意や憎悪の結実とは別に訪れる、望まれた未来だと思える。



>>>

 僕は「きれい」を知っている。
 誰に与えられたものでも、誰に認められたものでもない。
 誰が証するものでも、誰が賞賛するものでもない。

 僕だけのもの。
 僕だけが大切にしていたもの。

 暗闇にぼうっと浮かぶロウソクの灯りのように。
 喧噪と眩さの中ではかき消えてしまうだろうそれを。

 僕は信じている。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::君に似合うファンタジーは私が編もう。君は、君と、私だけを信じて。透明なオールであらゆる海を越え虹の波を乗りこなしてしまった、あのまぼろしの船が君。君が居なくなってしまった世界は全部滅んでしまったんだ。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「2022年の8月31日」(著作:戸田 真琴)
によりました。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  死は無慈悲な僕の恋人。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Memory-Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231026
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
未必の故意。
SUBTITLE:
~ Me hits no coy. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::最高裁大法廷は、25日、「生殖機能がないこと」を求める要件は、性同一性障害の人に対して、「意思に反して生殖機能をなくす手術を受けるか、性別変更をすることを断念するかという過酷な二者択一を迫るものになっている」と指摘し、違憲で無効だとの判断を示しました。
 一方で、「変更する性別の性器に近い見た目をもつこと」を求める要件については判断を示さず、審理を高等裁判所でやり直すよう命じました。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
231025

 戸籍上の性別変更について、ニュースになった事象そのものよりも、一般の反応が興味深かったもの。

 Webニュースにコメントを寄せている人の多くは感情で「この決定は間違っている」と断じている。
 人間の性別は肉体(主として性器)によって判断されるべき、というもの。
 たとえば性別(現行の2種類)に分けられた性差施設(公共のトイレ/浴場など)について、女性用施設を男性器を持った「自称・女性」が使用するのは(他覚的判断要素が存在しないため)不自然であり、ともすれば危険だ、ということだ。

 この意見は非常に共感しやすい。
 男たちのすべてが禽獣のごとき低能だと言うつもりはないが(おそらく)少数ながら、禽獣相当の低能も存在する。
 いや「普段からそうだ」ということではなく、性的飢餓状態のときに禽獣相当(もしくはそれ以下)になる者は少なからずいるということだ。
 そういう個体はともすれば常軌(と法規)を逸脱した行為に走りかねないと恐怖するのは自然であり、そう考えれば、この決定に違和感を覚えて不安視するのも無理からぬことといえる。
 しかしこれは未然の感情論である。

 一方コメントの多くが見落としているのは、裁判所(裁判官)は「法律の条文が憲法の条文と相反する意味を持つかどうか」という判断をしたに過ぎない、ということ。
 申立人が「法律の条文が憲法の条文と異なっており、憲法の条文が法律より優先される現行の規定に基づけば、法律が誤っていることになる」と投げかけたものと想像する。
 裁判所は、それに対してロジカルに ── つまりは日本語を使った論理に基づいてそれぞれを照合した上で ── 憲法の条文を優先して考えた場合、現行法の条文が誤っている、と判断したということだ。

 論理的に(憲法の条文を有意とした場合)は法律の条文が憲法に反していると判断しただけで、性差を判断する倫理を蔑ろにした(しようとしている)わけではない。
 お金を使うことには一切の躊躇がない一方でその適切性については疑問視され続けている、我らがボンクラの立法府が今後どのような法律の条文を作るのかは不明だ。ともすればポリティカル・コレクトネスによって迷走しがちな現代社会の背景を考えると、ますます不安になる気持ちも分かる。

>>>

 しかし思うのだが、多数派はあくまで多数派である。
 これまでどおりの性別観がそうそう覆されるものではなかろうし、また覆されるべきものだとも思えない。

 そもそも性別についてそこまで躍起になるという価値観が、すでに前時代的だと僕は思うのだが、まぁ今はまさに過渡期なのだろうと考えている。
 男女同権というものにしても、ほんの数十年前まで(何となれば数年前、あるいは今も)、結構ぐだぐだだったわけだから。
 もちろん男女というのは物理的/文化的差異もあるのだが、そのあたりの適切な境界条件や分類基準が明文化されずに運用されているのが不自然な状態になってきた、というのがポリティカル・コレクトネスの命題なのだろう。めんどくせえけどよ。

 かくいう僕も性別違和感持ちではあったが、現在は肉体準拠の性別で不満なく過ごしている。
 なぜかというとこの10年ほどベッドの上で「ウフフなこと」をする必要はなかったし、多分今後もないだろうし、普通に振る舞っている中で発露する女性的な部分について、過剰な自意識を持つ必要がない社会が醸成され、その自意識が無駄だと思って切り捨てたからだ。

 かつて社会は性別が不明瞭な者の存在を許さなかった。
 いや今だってそういう文化を持つ集団は少なからず存在するだろう。なぜといって性別は物理的/文化的差異だからだ。
 しかしかつてほど「男なんだから泣くな」とか「女なんだから出しゃばるな」というような論を振りかざす者は多くはない。
 僕のように、どっち付かずの思考形態を持ち、どちらにもよらない文化に育った者は今後も増えるだろう。

 いやいや、そもそも性別による二元論化の前に、一元論的に人間は人間であるはずなのだ(僕は猫だけれど)。

>>>

 もはや現代において、明文化しないまま性差を運用することはできなくなってしまった。
 なぜといって明文化しないからこそ生まれてしまった人種や性別、障害や能力による差別が今も残っているからだ。
「肌の色が黒いから種族として劣っている」とか「男は女より有能だ」とか、それが根拠のない妄執であることを人間はこれまでも証明してきた。

 人間が今後も「人間的な」文化を残そうとするならば、倫理はより明文化され、論理化されることになる。
 論理というのは先に述べたとおり、演算や判断が可能なものであり、その基準は明文化されている必要がある。

 だから僕には自身や他者の性別について、それが肉体であれ、精神であれ、自認であれ他者に対する認識であれ、明文化されて定着するだろうと信じられる。
 もちろんこれまでの文化に従えば、2種類しかなかったはずの性別が4種類や8種類や32種類まで拡張されるとそれこそ「めんどくせえな」となってしまうけれど(おそらくそういう過渡期が発生するだろうが)、それもやがて収束するだろうと思う。
 なぜといって精神性の性的自認などというものは結局のところ妄執だからだ。

 自身の存在に、その性別に、そこまで執着するのはなぜだろう。
 それがアイデンティティだからだと言われれば「はいそうですね」としか答えようがないが、しかしアイデンティティがそれほどまで性別によって影響を受けるほど、性別とは大きな判断基準だろうか。アイデンティティにとって、そこまで重要なものだろうか。性別がなければ、その人は、その人たり得ないのだろうか。



>>>

 そういえばかつて「女は子宮でものを考えることがあるの」と囁いた恋人がいたが、それを言うなら「精巣でしかものを考えられない男」もいる(僕がそうでないと言うつもりはない)。
 しかし冷静に考えれば、それらはすべて状態を指すのであって、存在を指すのではない。
 男が精巣でしかものを考えられないというなら、女もまた子宮でしかものを考えられないといえるし、女が子宮でものを考えることがあるというなら、男も精巣でものを考えることがあるのだ。(違いが分からない?)
 そもそもベッドの上の睦言の延長線上の理屈を、ベッドの外に拡張するのはナンセンスだろう。

 明文化すればするほど、暗がりは照らされる。
 それ自体はきっと良いことだけれど、色気のある睦言さえ無味乾燥した嘘に変わってしまうのはいささか興醒めである。

 人間はリアルとヴァーチャルの、明文化と暗黙の了解の、シリアスとファンタジィの中間で、両極に足を浸して生きている。
 どちらか一方だけに限定するのは確かに潔いことだとは思うが、それは無味乾燥している上、時に危うくはないだろうか。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::申立人の性別変更を認めるかは、今後、高裁で判断されることになったことについては、申立人は「非常に残念」とコメントしているということです。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 不明。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
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// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
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//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231025
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寝ていればそのうち良くなる。
SUBTITLE:
~ The Flat Sleeper. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231025

 熱中症とその後遺症のため、3ヶ月ほど歯医者に行くことができなかった。
 しかし微熱があることを除けば、だいたい体調が戻ってきていたので、ドライブを兼ねて歯医者に行った。
 そこで「そんなに長期に渡って微熱 ── 37℃には満たないことが多いので、高めの平熱とでも呼ぶのだろうか ── があるのは理解に苦しい」ということで、県庁エリアにある総合病院を紹介してくださる。

 個人的には急性期は過ぎているし、急性期のうちは外出(とくに日中のそれ)はまったくできない状態だったので、どうしようもないと思っていた。ここでいう「どうしようもない」とは、医者としても今更、手の打ちようもないだろう、ということだ。
 しかし歯医者の先生は心配性なのかもしれない。

 確かにたいていの大病(たとえば癌など)は、些細な変化のうちに早期発見できれば完治も容易なものだ。その理屈は分かる。
 ついでに僕は身体が弱い上、3ヶ月寝ていられるくらいヒマである。
 ならばきちんとした病院に行ってきちんと検査くらいしてもらえ、何事もないと分かれば、それはそれで安心だろうということのようだった。
 実に理に適っている。

 まるで僕が(その歯医者を含め)すべての医者に掛かるのを嫌っているかのようではないか。
 まぁ当たらずとも遠からず、ではあるが僕の場合、医者がイヤなのではなくて、病院で過ごす時間が(外来でも)無駄に思えるから行きたくないのだ。あと自分の寿命や生命や存在に、さほどの価値を見出していない。
 しかしこれらは僕の勝手な都合である。僕の生命を僕の勝手な都合でシャットダウンすることはまだ許されていない。
 僕はそれでもまだ、自分の所有するすべての時間を、完全に自由にすることはできないのだ。

>>>

 そのようなわけで病院に行き、指定された先生に会い、血液検査を受けた。
 実に体温は36.9℃なのだが、数値は見事に健康である。
 診察した先生の曰く、
「熱中症で、発熱(しかも3ヶ月にわたる長期間)をし続けるという話は聞いたことがないし因果関係が分からない」
「ために他の免疫反応(自己免疫を含む)や炎症反応を調べたが ── 継続治療中の脂質異常を除けば ── 健康優良で花マルを付けたいくらいの状態」
「何か他の症状(できれば他覚的なもの)が現れたらまた来てください」

 という結果に終わった。

 こちらとしても外気温が下がったので、熱交換に苦労せず済んでいる。
 シャワーを浴びたら38℃になるようなことはなくなったし、ウェイトトレーニングもできるようになってきた。
 消化器系も菌類(麹菌と納豆菌)を摂食するうちに、正常化してきた ── なんと今日は玄米を食べることができた(消化するかは分からないが)。

>>>

 帰宅途中に考えていたのだが、やはりこの身体は、普通というのとは少々違うものらしい。
 もちろん組成はだいたい他の人間と一緒だし、機能や動作原理もだいたい同様のものである。
 でも例えば小麦アレルギーの人がいるように、何だか分からないがその他大勢とまったく同じ機能を発揮できない、という人もいる。
 病気というほど大事でもなければ、広く多くの人に見られるものではない症状と呼ぶほどでもない反応の性質もあるだろう。

 僕自身ようやく分かってきた(そして年々変化し続けるので面倒な)それを、一般的で普通で大多数に当てはまる理屈から適正な状態を導く(医学とはそういうものだと思っている)仕事をしている人が、容易に理解することは困難だろう。
 いわば多くの人の身体は一般論的で、僕の身体は特殊論的なのだ。そしてその特殊論の運用は、僕の身体にしか当てはまらない可能性があり、ために多くの人には無用のもので理解不能なものなのだろう。

 だからどうだ、というものではない。自分の身体の性質が少々特殊だからといっても僕自身はかなり平凡で、普通のイキモノだ。
 寝ていればだいたいのものは治ってしまう(ただし長期を要する)身体なので、ヘヴィ・メタルと同様、まだガンには効かないがそのうち効くようになると思う。



<おいおいマジかよ>






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Life-Link-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231011
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
盲目の船頭。
SUBTITLE:
~ The Blind Captain. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【つとめるということ】

 不労所得生活をして5年ほどが過ぎた。
 表向きは不動産自営業者であり、年に数回、事務処理をする必要がある。
 しかし面倒事のほとんどをアウトソースすることで ── そのぶんピンハネされて(というと言葉が悪いので、正しくは手数料を払って)いるのだが ── ときどき途方に暮れるくらい膨大な時間を僕は手にしている。
 幸か不幸か生計を共にする家族なんてものはいないので、関わりのある僅かな人間達(友人やら姉妹やら仕事にまつわる人たち)との予定がない限り、野生動物のように、空腹になったら食事をし、眠くなったら眠るような暮らしをしている。

 僕にまつわる経済活動のうち、収入については僕が存在しなくても発生し続ける。
 不労所得というのはそもそもそういうものである。
 人によってはそれを羨むだろう。僕は若い頃からそれを望んでいたので、願ったり叶ったり、ではある。

 しかし同時に、人によっては耐え難い苦痛であろうとも思う。
 能力の有無やその発露はもちろん、何らかの活動の対価として発生している収入ではない。
 僕の存在がなくても発生する収入である。
 先に述べたとおり「自分がいなくてもまったく問題ない」という状況を直視するのは、自分の無価値と向き合うことでもある。
 僕でさえ、誰の役にも立っていない重圧に耐えかねて、地元のNPO法人に寄付するくらいである。
 ひとかどの人であることを自負しようと思えば、さらにその無力感や無能感に苛まれるだろう。

 ちなみに親は会社を経営していたが、最終的に事業に失敗してかなりの負債を抱えていたので、僕は生まれついての資産家ではなく、突発的に、宝くじにでも当たるような感じで不労所得者になった。
 学生の頃は学校の集金に自分の小遣いを充てることもあったくらいなので、最初はずいぶん戸惑ったし、今も真面目に考えると落ち着かなくなる部分はある。
 収入が不安定であるとか、安定した保証がないとか、そういうことではない。
 お金がなくなったらシンプルに働けば良いので、そんなことを不安に思っているわけではない。

 また将来や老後というものにも不安はない。
(世間的に僕の肉体年齢は老人ではなかろうけれど)現在が僕にとってはすでに老後という位置づけだし、僕はそもそも自分の幕引きの年齢を設定しており、それまでに済ませておくべきいくつかのタスクがあるくらいで、自害することにも抵抗はないから、ただただ自分が長生きするという不安を持っていない。

 もちろん「死ななくてはいけない」とは思っていないが、同じように「生きなくてはいけない」とも思っていない。
 自分の生死なんてどちらでも良いことだし、どうでも良いことだ。
 何となれば僕以外の生き物についても同じように僕は思っている。

 それはたとえば自分の好きなアーティストの楽曲が、CDに入っているか、MP3でダウンロードしているか、サブスクリプションでストリーミングしているか、という程度の違いだ。大事なのはその楽曲を楽しんでいる時間であり、その楽曲を聴いて自身に喚起される情動だろう。
 慣れてくれば、情動そのものを自分の中に何度でも再生できるようになる。
 楽曲というコンテンツそのものも必要なくなってしまうし、ましてそれがどのような媒体(メディア)で自身の手元にあるかなど、どうでもいいことだ。

>>>

 今の立場になって、同じような不動産オーナと接する機会が時折、ある。
 おそらく大抵の人 ── とくに僕のように業務のほとんどをアウトソーシングしている者 ── は、そのような事実をわざわざ開示しないように思える。
 実際、僕は自身を未だに「無職」と認識している。微々たる勤めはあるし、最低限の務めは果たしているが、努めて勉めているかと問われると自信をなくす。仕事はしているが、世間社会に貢献しているかと問われると自信がない。努力し、研鑽し、更なる高みを目指そうとしているかと問われても、そもそも努力が嫌いなのでどうしようもない。

 しかし一方で、自身が不労所得型の不動産オーナであることにふんぞり返っている人も(すべてそうだとは思わないが)ちらほらいるのである。
 彼ら(基本的に男性に多い)の一番くだらない自慢話が、どこかの会社や金融機関との関係性自慢、である。
 たとえば「○○の会社と付き合いがあって、あれこれ世話をしている」とか「○○銀行の頭取と付き合いがある」とか「○○信用金庫の総代をしている」とか、まぁ、そういうことを世間話の端々に織り込むことで自身がいかに世間に貢献しているかをアピールする、という次第。

 端から見ていて痛々しいし、見ているこっちが恥ずかしくなるのだが、彼らは得々とそれを語る。
 なんとなれば感心して欲しそうなので「ふうん」くらい相槌は打つようにしている。が、一番大事なことは近づかないことである。

>>>
【管理職が忙しいのは無能の証】

 しかし彼らの姿を眺めていて気がついたことがある。
 会社員をしていた頃も、実際に同じような連中がいたのである。
 だいたいどの会社にも(その組織規模が大きければ大きいほど)いた。
 僕はどちらかというと現場主義であり、そもそも出世欲もなければ出世するだけの能力も持ち合わせていなかったので、そうした大きな会社で管理職になる機会を持たなかった(小さな会社でなら、あったが)。

「自分は忙しいし仕事をしているし会社に貢献している」というジェスチュアに一生懸命な管理職は、会社の規模が大きくなるほどよく見かけた。
 なるほどビジネスプレイヤ上がりの管理職であればあるほどマネージャとしての仕事が分からなかったのかも知れない。
 僕に限っていえば、管理職としてはいつも暇そうにすることを身上にしていた。
 もちろん小さな会社であれば純粋な管理職などになれるはずもなく、現場でプレイヤとして従事しつつ、後輩なりパートさんなりをマネジメントする必要が出る。
 そのとき管理職が忙しそうにしていると、声を掛けるきっかけがつかめなかったり、そもそも忙しいあまり捕まらないということがある。

 大きな会社に勤務していたときに所属したグループがそういう感じで、グループリーダが忙しいあまり捕まらない。
 ちょっと席に戻ったかと思えば、他の誰かに捕まってしまって僕が声を掛けるタイミングがない。
 それが何時間も何日も繰り返される。
 どうにもならず途方に暮れたので仕事を放棄して遊んでいた(正確には仕事に使うCADのマクロシステムを独学で一から完全自作した)ら仕事を干された経験がある。
 そのとき「管理職は暇じゃないとダメだな」と思ったのだ。

 なので自身が管理職になったときは出社してから1時間は暇そうにする習慣を身に付けた。
 上司が仕事を割り振ってくることもあるし、パートさんや後輩が相談を持ちかけたり指示を仰いでくることもある。
 もちろん来客や訪問など、他者とやり取りをするコアな時間はあるが、事務処理や移動や雑務ならある程度融通が利く。
 当時の勤務先は休日出勤や残業という概念がなかった(当然、残業代や休日出勤手当、代休制度というものもなかった)ので、僕は好きなだけ会社に出社して、好きなだけ仕事をして、好きなときに仕事を終えることができ、仕事に余裕があるなら休むこともできた(いずれも給与に影響しない)。
 特殊な環境だったと思うが、それだけの裁量を与えられていたのは本当に恵まれていたと思う。

>>>
【完成されたシステムは手を加える必要がない】

 僕のつまらない自慢話はここまでにして、マネジメントができない管理専門職が忙しいフリをすることについて、である。
 彼らは詰まるところ、自分が暇であることに価値を見出せない。
 本当はプレイヤたる現場従事者の仕事がしやすい環境構築や、そのトラブルの保全などをするのが仕事であり、管理職が暇なのはいいことだと(僕は)思うのだ。
 実際、僕が管理職をしていた頃の小さな会社は、予定のないときは社長が朝から倉庫で趣味の遊び(当時は骨董品の時計修理に夢中になっていた)をしていた。
 しかしひとたび相談に行けば、必ず的確なアドバイスを貰えるし、必要とあれば先陣を切って即座に対処してくれた。
 困ったときに捕まえやすいし、暇かどうかも一目瞭然だから、こんなに有り難いことはないのだ。
 システムが良好に運営されているならトップに近づくほど、そうなるべきであり、そのくらいでいいと思う。

 仕事がなく暇であることに罪悪感を感じるなら、現場従事者がどうすればより働きやすくなるかを考えればいい。
 それは別に机に向かってウンウン唸ったり、忙しいはずの部下を捕まえてくだらない会議やヒアリングをする必要はないはずだ。
 しかしそういう管理職を見たことがないのか、そもそもそういう発想がないのか、仕事をしているフリをする管理職は後を絶たない。

 先の「おかしな自慢をする不労所得型不動産オーナ」も同様だ。
 自分が何もしていないことを認められない。誰の役にも立っていないことが素晴らしいとは思えない。
 何かしていると思いたいし、思われたい。誰かの役に立っていたいし、立っていると思わせたい。
 もちろんその根源にある気持ちが間違っているとは思わない。誰かの役に立つのは、きっと素晴らしいことだ。
 では転じて「何をしているのか」ということだ。

 無駄な会議やヒアリングを重ねて愚にもつかない目標を掲げ、達成できない部下に詰め寄るだけの上司なら必要ない。
 世間や特定の集団/組織に寄与するのは結構なことだけれど、それってわざわざ関係ない人間に自慢するようなことだろうか。
 そうやって懸命に「自分は何かしています」というアピールをしなくてはならない時点で、相当に自信がなく、無能なのだろうとつい邪推してしまう。
 自信がなくて無能な人間は往々にしてビジョンもない。
 思い描いている未来がない者に運営を任せたところで、状況が悪くなることこそあっても、良くなることはない。
 現状維持がせいぜいで、さらに繁栄をするということはあり得ない。

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 僕自身は広く世間の役には立っていない(昔と違い、ちゃんと税金を払うようになっただけマシなくらいだ)。
 狭い範囲では、姉妹やら友人の慰み程度の役には立っていると思うが、せいぜいがそのくらいだ。
 しかし誰かの役に立つということは、同時に、誰かとの関わりが強く深くなる、ということでもある。
 自分がいなくてもシステムが正しく運営され続ける、という状態は少々寂しいことかもしれないが、自分がいなければシステムが働かない、という状態よりはよほども健全なのだ。
 もちろん必要とされることに依存してしまう気持ちも分かるけれど、それは決して健全とはいえない。
(これを僕は恋人にも適用してしまうため、問題が発生することがある)

 実は先だって体調不良になった際、姉の通院介助をすることができなかった。
 数日前に連絡をしたものの、平日の早朝から一日潰れることなので、代役もすぐには見つからず難儀した。
 最終的に姪(当の姉の娘であるが、片目の視力がひどく低下しているため長時間の運転に向かない)が代役を務めてくれたが、つまり僕はこういう状態を健全だとは思えないし、僕がいなくてはダメだ、という状態に自分の価値を見出せない。むしろそれはシステム(姉を中心とした、介護を行うシステム)の弱点だと思える。

 同様に会社なら、いつ誰が休んでもまったく支障がなく、どんなトラブルがあっても出力にたいした影響がない、というのが理想である。
 現場従事者だろうと管理職だろうと経営者だろうと、誰が、いつ遊んでいても問題なく稼働しているというシステムが最善ではないか。

 そういう意味で、僕は自分の収入の経済活動が完全自動化されていることを理想的な状態だと思っている。
 もちろん誰の役にも立っていないという引け目はあるし、庶民臭い出自のため、労せずして益を享受していることに後ろめたさを感じてしまう。
(これらを緩衝するため「仮想奥様」という存在が運用されている)



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 ところでこの国の管理者は、ずいぶん忙しそうにしているようにお見受けする。
 あれは本当に忙しいのだろうか。
 それともまともな管理職というものを知らないから、仕事をしているフリに躍起になっているのだろうか。

 誰もいなくても、たいした手を加えなくても、機能し続けるのが優れた組織だと僕は思うのだ。
 だから管理者は「今日はね、金木犀が、花を付けましたね」なんて言っているくらいが良いのではないだろうか。
 それとも国民がみな愚かで、管理者が暇そうにしていることを許さないのだろうか。
 一国の宰相たる者、のんびりぼんやりして、愛人と旅行に出かけているくらいが平和な証だと思うのだけれど。
 まぁでもこの国は不倫とかにも五月蝿いから仕方ないのか。

 いずれにせよ自信も能力もビジョンもない人間が管理者の立場になることは避けて欲しいのだが、どうもその方が都合よいという人間が、どこかにいるのではないかと、そんな風に勘ぐってしまう。







 

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  :君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
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// NOTE:
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TITLE:
ここまでのあらすじ。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

【再発した蕁麻疹】
0926:未明、唐突に蕁麻疹が再発。

 煮物も食べられるようになってきたし、そろそろ食肉でもしようかな、と思っていた日のことだった。
 ウェイトトレーニングを少しずつ始め、徐々に増やしてゆけると思っていた、のだが。

1003:1週間の記憶がほとんどない。
 突き刺すような強い痒みと発熱は、風邪でもないのに「感冒」と呼んでいいほどの感覚異常をもたらした。

 食事ができなくなることは分かっていたので、麹と白米(三五八の漬け床を作るために常備している)を使って麹床を大量(4Lの寸胴と3Lの圧力鍋)に作り、(およそ24時間後)出来上がったそれをタッパーに分けて冷凍した。

 薬物耐性が付いてしまったのか、今回は飲み薬も塗り薬もほとんど効果を発揮しなかった。
 布団や肌と肌が重なる部分は熱を持ち、激しい痒みと水疱を生じる。
 眠ろうにも30分と置かずに痒みや熱さが発生するので、眠ることもままならない。しかし起きていてもまた痒い。
 自分の体温で火傷のような熱さを感じる上、そこに水疱ができて痒くなる。
 そんな状態が5日ほども続いただろうか。
 大腿筋、尾てい骨、鎖骨周り、手の甲、足の甲 ── 。
 末端の、あるいは皮膚の薄い、もしくは脂肪の少ない部分にそれは頻出した。

 入浴はもちろんできないし、(寒いけれど)体温に近い温度のシャワーを浴びた。
 それでも剥き出しになった皮膚が過剰反応するので、シャワーの回数を2日に一度くらいにして対応した。

 涼しい日もあったはずなのだけれど、エアコンで部屋を冷やした上、水を入れて凍らせたペットボトルで患部を冷やした。
 眠るときもそうやって、冷やしながら眠った。
 寒いと感じているのに、身体を冷やさないわけにはいかなかった。

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 微熱は今も続いているし、少し動くと体温がすぐに37℃を超えてしまう。
 まるでクーラント不足の自動車のようだ。

 体調が安定した日、常用薬を貰いに病院に出掛けたついで医者に相談したが、「免疫反応があるだけ健康な証拠でしょう」などと言って要領を得ない。
 もちろん不満はない。
 ヒトの身体というのは数式ではない。

 一般的とされる特性に当てはまる人もいるだろうけれど、僕のように、体質がちょっと異常なイキモノもいる。
 それでも医者というのは人間の組成を数値化し、その数値の変動をして「健康体」だのなんだのと点数を付ける。
 まぁそれが仕事なのだろうから仕方ないのだが、理解できないものを「分からない」と断じ、知らないものを「手に負えない」と正直に言える医者を探すのはなかなか大変なことだ。
 だいたいは一般論だけで判断し「こういうものだ」と断ずる医者が多い。だから僕はそういう押しつけをしない現在の主治医を気に入っている。

 なんでも見るタイプの開業医などは、ともすれば専門外のことを尋ねられ、それに一般論で答えて済ませるケースが多いように思う。
 専門医であっても年々刷新される情報を追い続けるのがむつかしい状況にもかかわらず、である。
 町医者が悪いとは言わないし、総合病院ならいいのかといえばそうでもないだろうけれど、要は知ったかぶりをしていることに気付かない人間というのは一定数いて、いかなるビジネスであれプライベートであれ、ろくな奴ではない。

 若い頃から、体調が悪いと聞くと「医者に行け」とうるさい連中は居たものだが、そういった人間達は往々にして「一般的」な特性を持っているからそんなことを言えるのである。
 もちろん一般的であることを悪いとは思っていないし、ちょっと変わった体質だからといって、それが格別なこととも思っていない。少々不便なだけで、自慢になるどころか引け目を感じる場面が多い。

 それでも僕が医者をあまり信用しないのは、彼らが僕の身体についてのプロフェッショナルではないという、単純にそれだけの理由による。

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 意識を失っている間に、世俗はまた変貌を遂げている。

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【お金の話】
 世俗の人からは驚かれるのだが、僕のようなイキモノは体調を崩して寝たきりになり、ゲームばかりして過ごしているくらいの方がお金が貯まるという現実をこの3ヶ月ほどの生活で突きつけられた。
 建材も買わず、農業資材も買わず、工具も買わず、ゲームソフトを買うくらいで、食費は最低限。
 堆肥にする生ゴミはおろか燃えるゴミすら出ないので驚いた。
 家から出ないし外食もしない(自炊に使う食材もほとんどない)から、お金を使う必要がない。結果、お金が貯まってしまったのだ。

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 世俗やメディアに、あたかも「お金のリテラシィ」などと嘯いて、テキトーなことを言っている人間は少なからずいる。
 たとえば「最低賃金」という概念がある。
 雇用する者が雇用という行為を行う際、雇用される者の単位時間あたりの最低金額を法定したもので、多くの人が僕よりよほど理解しているものと想像する。

 そうした「雇用される者の権利」を否定するつもりはないが、しかし同時に経済を人権から切り離して、単純に数値として考えた場合、こんなものは絵に描いた餅だといえる。
 僕はもともと自営業向きの思考回路を持っているからなのかもしれないが、経済的な実効力を発揮して、実際の売上げを作る(お金のやり取りをする)まで、その人間にもその行為にも、いかなる経済的な価値もないと思っている。
(なので僕は誰かの手伝いなどで仕事に入るとき「最低時給300円+お気持ちの歩合」を提案するが、それでも高いと思っている)

 雇用される者はその寿命の一部を切り売りしているのだから「実際の売上げとは関係なく」その費用が支払われるべきだ、という理想論や権利問題はあってしかるべきだと思う。
 しかし一方で、その「実際の売上げには関係なく」という部分が、最終的には共産主義的な発想や行動を増長する。
 会社員であろうとバイトであろうと、あるいは公務員であろうと政治家であろうと関係はない。
「実際の売上げに関係なく」仕事っぽいことをしているフリをして、問題を起こさなければ、それでお金が手に入ると思っている人間が少なからずいる、ということだ。

 繰り返すが、雇用される者は(特に雇用する組織が大きいほど相対的に)立場が弱いので、権利を守る必要があり、そのために法定する必要があるという考え方はあってしかるべきで、必要だとさえ思う。
 しかし同時にそれは理想論であり、絵に描いた餅だ、そこを履き違えている人間がいて、そういう人間はともすれば資本主義の下で共産主義に染まっている、と僕は言っている。それだけのことである。

 結果、経済はその意味合いを曖昧にしてしまっているように観察される。

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【リテラシィという嘘】
 かつて「財テク」などと呼ばれていたが、投資を始めとする金融商品を買って利益を生み出すという経済概念は、市場原理のひとつ ── 銀行の預金商品も、その名の通り(普通預金でさえ)本来は商品 ── である。
 一方で、そうしたある種の「楽な利益構築」は市場だけでなく世間一般から「労働に対する熱意」を少しずつ削いできたのではないか。

 資本家と労働者という対比を見ようにも、かつてのようにそれらは明確に二分されるものではない。
 絶対的な資本家、絶対的な労働者がいる一方で、ある程度以上の金融資産を有しつつ、労働者でもあるというハイブリッド投資家/労働者が増えた。
 それ自体は経済という全体像を知る(リテラシィを獲得する)上では有意である。
 実際に政府もこれを後押ししているが、資本主義経済においては資本家と労働者の立場の対立が、市場の最適な成長を生み出すシステムだったのではないかと思う。
 世俗が知ったような顔をして、資本家寄りの思想を「経済リテラシィ」として流布するにつれ、労働者寄りの思想が衰退するのは必然である。
 労働者寄りの思想とは端的に言えば「誰か ── それは世間や社会であり、会社であり、家族であり、自身である ── のために働いて対価を得ることに価値がある」という考え方だ。
 資本家寄りの思想を分かりやすく言えば「高い利益を得るために、手段を選ばない」ことに尽きる。
 そのうちには当然、原価を下げることも含まれる。
 時間も人間も材料も税金も、何もかもを安くしてゆけば、それで利幅が大きくなる。
 利益を最大化することが至上という考え方は、誰かを幸せにしようとか、それをどこに還元するとか、そういう綺麗ごとを含まない。

 この国家がギスギスして衰退しつつあるのは、経済至上主義が行き過ぎて、政府に属している連中どころか国民全体が資本家思考に染まってきたことが原因だろう。
 政府も経団連に名を連ねるような大企業の経営陣も「お金でお金を増やす」ということの不自然さには思い至らないらしい。

 資本家思想に凝り固まると、労働力も道具も資源も安い方がよい、ということになる。
 僕は何年も前から「100円ショップに群がるような生き方をする労働者は自身の首を絞める」と言ってきていたが、結局のところ周囲の人にもそれは響かなかったのだろうと想像する。

 FIREなどと銘打って、早期リタイアが持てはやされた時期もあった(まだこの数年のことだ)が、結局のところ人間というのは社会や他者との関わりを持たないと精神衛生や安定を保ちにくいものらしい。
 僕からすれば、単に自分の中に物差しがないのだろうと思えるが、だからといって社会性を持つことが悪いことだとは思っていない(僕には不向きだというだけだ)。

 僕自身は自立心のカタマリというか、自己責任論の権化というか、とにかく馴れ合いとヒエラルキィを作りたがる下らない連れション文化が嫌いなため、結果的に社会性を放棄してしまった。
 社会性のすべてが連れション文化だと嗤う気はないが、その粘着性や結合力が無駄に使われればおかしなことになるのは、プラモデルで接着剤がはみ出たときのことを考えれば容易に理解できるだろう。え、最近のプラモは接着剤不要なの?

 粘着したがるわりに、自分のこと(あるいは自分の利益になること)しか考えない人間が少なからずいる。
 そういう人間や集団が権力や資本を握るとどういうことになるか、というのは観察のしがいがある。

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 施政者が経済効果を謳ってデタラメを繰り返して久しいが、彼らが表向き掲げているのは、こうした「資本家寄りの本音をポリコレで飾り付けた理想論」であり、つまるところ中身がない。
 おそらく立法府にそれだけの実効力の発揮を求めることが、そもそもおかしいのである。
 しかしこの国は立法府と行政府が融合しており、いつからか司法府も、警察機構も抱き込まれているように観察される。
(そういえば「自由」でも「民主」でもない政党がそれを名乗っている様は、朝鮮「民主主義」「人民」「共和国」に通じるデタラメさがあって微笑ましい)

 なぜといって、立法府が立法府に都合の良いことを法定することが可能なままに任せ、同時に経済との繋がりも強くなってしまった。
 国家予算を握っているから当たり前だろうという考え方は、行政府に対しては必然だと思えるが、立法府が経済や経済を多く持つ者とより強く繋がるということ自体が、相当にイカれていると思わない方がどうかしていると僕は思っている。

 権力と経済がしっかり腐敗臭を漂わせているのに、どうも人々は我々ケモノと違って鼻の利きが悪いらしく、あるいは自身の泣き言を遠吠えすることに必死で、何をどうしようともしていない。

 我々が選挙に出掛けたところで、直接、法律を変えることができるわけではない。
 これがもっとももどかしいところだ。
 内閣総理大臣やら与党やらが矢面に立たされてはいるが、所詮は一介の個人が、大規模な組成までを含んだ政治的ビジョンを仮に持ち得たとしても、一朝一夕にときの声を上げてその実現を可能にできるとは思えない。

 民主政治という学芸会の寸劇を、僕らは眺めてそこに民主政治があると幻想しているだけではないかと、僕はずっと疑っている。
 宝くじ協会の会長にも(僕は)なれないし、日本赤十字社の役員にも(僕は)なれないから余計にそう思う。


 ならせろ!
 






 

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// TimeLine:230922
// NOTE:
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TITLE:
「世界観」という誤用の一人歩き。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
※世界観という言葉の使い方について、一般の用法を否定しているような記述をしており、そうした用法をしている人を不快にする可能性について配慮し、一時非公開にしてありました。
ブックマークもしくは検索によって訪問される方がいるようなので、原文のまま、再度公開します。
 
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 他にあまり用例を見ないので個別にあげつらうような形になってしまうが「世界観」という日本語の使われ方に少々違和感を覚える(違和観ではないがそう書いても問題はなさそうだ)。
 用例としては「世界観が素晴らしい」「世界観がリアル」「世界観の作り込みが緻密」などである。
 これらはすべて「世界設定」という単語で置き換えることが可能で、意味もそのまま「世界設定」のことを指しているように観察される。

 僕が触れるのはゲームというインタフェイスを通してのことが多いが、他にも映画やアニメなどのフィクション作品 ── とくにSFやファンタジィなどにおいて、現行の現実社会からの乖離が大きい世界設定になるほど当然に、その緻密さや整合性に意識が向けられるのは不思議ではない。

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 そもそも「○○観」という日本語がどのような意味を持つかというと、たとえば「価値観」や「宗教観」「概観」といったように、主観を持つ存在(まぁだいたい「自分」と呼ばれるものたち)が何らかの対象を観察して感じたこと、あるいは観察することそのものを指す。
「世界観」という単語を辞書で引いてみても「世界に対する見方・見解」といった説明がされているだけで、フィクションの世界設定に該当する、あるいはそのように解釈が可能な記述はない。

「○○観」という単語は『「○○」に対する主観的(あるいは社会的)感覚』のことなのだ。
 よって「世界観」という単語が示すのは、(仮にフィクションであっても)世界に対する「主観的な」感覚や見解であり、それは統一的なものではなく個々人にそれぞれのものだと思う。
 ゆえに「リアルである」とか「緻密である」という表現がおかしくなってしまう。

 たとえば誰かの経済観や宗教観といった価値観に対して「リアルだ」とか「緻密だ」とか「作り込まれている」といった表現をするだろうか。
 価値観というのは現実にその人の主観として存在するものなのだから、そもそもリアルなものであり、同時に実態を持たないという点でヴァーチャルである。
 また主観的な見方や見解なのだから、緻密さというスケール感を客観的に当てはめることはできないように思えるし、価値観なんて(僕のように少々変わった趣味の持ち主でもない限り)作り込むようなものではない。

「作り込まれた価値観」なんてものが存在するなら、それは建前というものに感じられるし「では本心はどうなの?」ということになってしまう。
(ちなみに僕はたくさんの「建前」を持っているので、どれも本心といえば本心だし、嘘といえば嘘ではある)

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 にもかかわらずこのような誤用が蔓延してしまったのは、おそらくクリエイタ側が「世界観」という単語を使っていた(使った)経緯があるのだろう。
 たとえばフィクション作品においてクリエイタが「これこれこういった世界観を持っている」「このような世界観の構築(作り込み)を図った」「世界観の投影を行う」という単語をインタビュなどで使ったのではないだろうか。
 この時点では単語の用法に誤りはない。

 クリエイタは自身の作る作品の世界設定を、まさにそのフィクション世界を「見て感じた」とおりに設定してゆくからだ。
 もちろん上記の用例で「世界設定を持っている」「世界設定の構築を図った」「世界設定に投影を行う」と表現してもおそらく違和感はないだろう。
 しかしクリエイタ本人にとってみれば、その設定は自身の内にあるヴァーチャルとして、確かに観て感じていることそのものである。
 ためにそれは「世界設定」であり、同時にその作品世界に対する作者なりの「世界観」でもある。

 あるいは批評家気取りが得々と「作者の世界観は……」などと語ったのかもしれないが、第三者が好き勝手に他人の価値観を語ることは白々しい。
 仮に本業の評論家だったとしても ── 僕はフィクション作品の批評家/評論家という職業を寄生虫程度には嫌っている ── その客観性を欠いたことにも気付かない認識は、評論と呼ぶには少々歪んでいるようにも思える。

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 果たしてその作品を傍観する我々が見ているのは、その作品を作る際にクリエイタの中に存在した「世界観」かといえばそんなことはないだろう。
 作品を見る者が知るのは、作品を見て感じられる世界設定の片鱗に過ぎない。
 別に作者が崇高で作品を見る者は凡俗であるとか、そういうことが言いたいのではない。
 主観を指す言葉を、客体として使うことの気持ち悪さなのだ。

 先に述べたとおり、世界観というのは、あくまで主観的なものである。
 べったりそれと分かる作者の世界観にまみれた作品など、素人臭くて嫌われるような気がする。

 にもかかわらず新しい映画が、アニメが、漫画が、ゲームがリリースされると決まって誰かが「美しい世界観」「素晴らしい世界観」と褒めそやし、あるいは「世界観がイマイチ」などとあげつらう。
 べつにそうした感想(作品観)を持つのは構わないのだが、やはりそれは「世界設定」ではないだろうか。

 
 個人だけでなく、マスメディアでも当たり前に誤用している。
 もはや辞書の内容を書き換えた方が早いような気までする。そうなれば僕も諦めがつく。

 まぁとにかくそんなわけで、違和感というか、違和観というか、そういうのをですね。感じるわけです、はい。
 あるいはもしかしたら「分かって使っているんだよ」という人もいるのかもしれませんけれど。
 でも言葉は正しく使っていただきたいな、なんて思うわけです。はい。
 まぁ僕も適当に、ふんわりした感じで、ろくに辞書も引かずに知ったような顔で日本語を使ってしまうので気を付けなくてはいけないと常々感じているわけですが。
 

 
 
 
 
 
 
 

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//EOF
 

230914

 昨日から連日で草刈りをしている。
 8時頃に開始して、電源からコードリールと延長コードで足りる範囲を一日の作業領域としている。
 およそ3〜4エリアに分割されることになり、1エリアにつき2〜3時間で作業が終わるから、詰めれば一日で終えられる作業だろうとは思う。

 もっとも作業中に奥様(仮想)が体調に応じて休憩や中止の指示を出すことがあるのでそれには従うようにしている。
 僕の身体に起因した仮想人格だが、僕は作業中、目先の作業対象や使う道具に集中していることが多く、ために体調を崩す傾向にあるのだ。奥様(仮想)はこうした局面で僕の生命維持に役立っている。

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 作業が終わってシャワーを浴びてから体温を測るのだが、昨日ともに37.7℃になっている。
 シャワーは30分ほど掛かるので、それだけの時間があるのに体温調整できないということになる。

 昨日はBP(高校の友人)が遊びに来たので、夜になってから食事に出掛けた。
 数日に一度なら、固形物を食しても問題ないようになってきた。

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 正直なところ、そろそろIRLに戻りたい。
 7月からかれこれ2ヶ月、外出を最低限にしている。
 屋外作業もできなかったため、作物は野生化してしまったし、いわゆる雑草たちも伸び放題になってしまった。
 堆肥はあらかた出来上がった上に積んでいたからよかったが、ムラができているし、底の方までこなれているか不明である。
 屋外用に作りたかったもの(移設型堆肥枠)や網戸などの修繕、サンシェードの固定具の改修、納屋の壁のリフォームなど、屋外でしたいことはすべてできないまま終わった。
 初夏の頃「48歳の夏は一度きりだよ!」と奥様(仮想)がおっしゃっていたのだが、熱中症はすべてを奪うのだ。

 ちなみに数年前の原因不明の体調不良が熱中症の後遺症だったと仮定すると、回復までおよそ1年、もとどおりになるには2年掛かることになる。

 その数年前の時は、4ヶ月ほど、ずっとSKYRIMをプレイしては眠っていた。
 気付かないまま普段どおりの生活をしようとしていたから、内臓のダメージが相当蓄積したように思う。

 今回は、熱中症の翌日から蕁麻疹が出たおかげで、後遺症として観察を続けられた。
 意外なのは、内臓の不調が表出するまでひと月くらい掛かるということだ。

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 もともとヴァーチャル寄りに作られてはいるが、肉体がある以上、僕もIRLに棲む生命体には変わりない。
 惑星ルビコンの資源を巡る勢力争いに巻き込まれたりも(AC6で)していたが、ずっとヴァーチャルに居続けるのもなかなか苦痛を伴う。
 だからといって眠り続けるのもなかなか苦痛である。

 

 IRLでは屋内のリフォームもまだ躊躇する程度しか回復していない。
 それでも2時間程度の作業なら、リハビリ程度にちょうどよいと感じている。
(今日は3時間掛かったのだが、かなり身体が眠い状態が続いている)