// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240107
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
倫理とエゴの境界線。
SUBTITLE:
~ The ZERO Divider. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::つまり、いずれが人として正しい道か、ということだ。侍としてでも良い。
::いずれというのは、何と何を比べているのですか?
::女を愛でることも、情に身を任せることも、間違いではないと思う。人として、それが本来の生き様にも見える。しかし、人は動物ではない。刀を持ち、己を律し、鍛え、励むものだ。刀を研ぐように自分を磨くのが本来ではないか。さて、このいずれに正しい道があるのか、ということ。
::私にはわかりません。
::簡単に言うな。それを一緒に考えてくれ、と頼んでおるのだ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

240107

 世俗では正月から地震で慌ただしかったようだ。
 群馬県というのは温泉地が多い。つまりは火山があり、地底活動がそれなりにある。
 一方で大昔からその活動が活発だったのだろう、山は岩山が多く、ために堅牢な地盤が多いようだ。
 偶然か必然か、地震の損害は存外少ない。
 かつては雷と空っ風の風土が有名だったが、かれこれ20年ほどから、それも少なくなった。
 近年は夏の灼熱が問題だが、それは日本各地が同様だろう。

 太田市は大戦時の空襲で飛行場付近といわず穴だらけになった過去があるらしく、十数年前の大地震で被害の出た当時、職務の都合で家々を見て回ったものだが、多く損害が見られる場所は、かつての爆弾の穴を埋め立てた地点であると、古くを知る方から聞かされた。
 無論、そんな(爆弾で穴が空いた)場所がどこであったかなど、いかなる地図をあらためたところで見つかるはずもないから、新たに家を建てる人はある意味での博打をすることになる。

>>>

 建物の耐震性というのは、国の定めた基準であるが、結局は国が定めた基準でしかない。
 何が言いたいかというと、基準を満たしていれば絶対安全というものではない。
 これは僕の乗っているダイハツの自動車でも同様だ。

 決まり事が悪いというつもりはない。
 決まり事などないとなれば、安くてデタラメな材料を使って、手抜き工事をする事も可能になってしまう。
 自由市場経済において、安くて悪いものを高くて良いものとして売ることは、必ずしも悪いこととはされておらず、禁止もされていない。

 100円で購入したボールペンのインク(あるいはベアリングボール)が低品質で、すぐに目詰まりするからといって、人の生死に関わることは少ないだろう。
 一方で食品、薬品、建築物、乗り物などは人命に直結する。
 にもかかわらずその専門知識を有さない人は多く、その対象物について個々人が適切な知識を身に着け、各自で検証ができないのが実情だ。

 たとえば食品なら長期保存(あるいは長時間の品質維持)が可能なものも多い。しかしそれがどのように実現しているか、知らない人も居る。
 それらの品質維持ができる便利さを「正常な」日常と考えてしまうだけの先進的な環境に我々は暮らしている。
 個人的には製造から数日経過しても固さが変わらないパンなど、本来は魔法のように異常なことだと思う(自分でパンを焼いた経験からすると、やわらかいのは良くて半日程度なので)。

 自由市場という運動そのものを阻害せず、一定レベルの品質を担保するものとして基準を設け、その品質基準をクリアしたものだけを市場に流通させるという仕組みをこの国は持っている。そう考えるとなかなか優れた頭脳がこうした社会設計をしたと思える。

 僕はアナーキストだから、その設計技術を素直に賞賛こそすれど、過剰ともいえる管理や自主規制には辟易することもある。

 たとえば自動車の衝突安全基準でいえば「当たらなければどうということはない」ということだ ── そもそも安全運転というのは「安全な速度と方法で車両を運行すること」なのだから、安全運転をしない(できない)人間のために機械を安全にするのは本末転倒だとさえ思える。
 一方で個々の運転者を完全に管理することは不可能であり使用の事情も様々である。
 また本来的に不慮の事故を未然に防ぎ、あるいは損害を軽減するための新技術が生まれ、それが製品に反映されるのは良いことである。

 しかしその技術が結果的に人間に慢心をもたらし、「新」技術 ──「正常」な日常 ── に甘えてしまえば結果、人は暴走するように観察される。
 自動車でいえば過剰な速度で物理的に制御困難な局面を技術がカバー(加減速の操作どころか、車線またぎや車間距離までモニタ)してくれるため、危険運転を見誤る(危険を知らず、能動的に感知もできない)ドライバもいる。
 食品でいえば常温で長時間保存していても大丈夫なものが多いから、自宅の調理における管理や食事の際の確認がおろそかになって、味覚や嗅覚による変異に気付かない。
 これ自体は科学の進歩がもたらした弊害ともいえるだろう。

 ざっくりいえば、鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手な人間であっても、それなりのお金さえ支払えば安心して暮らせる、豊かな社会が出来上がったのだ。
 つまりその「鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手」というのは、ひるがえって考えれば社会的弱者のことである。
 弱者を守り、そうした者が ── 肉体や経済や情報処理能力、あるいは品位や文化レベルといった精神性で ── 劣っていても、そうした能力における強者と同じかそれに近しい状態で暮らせるように、技術が進歩したのだ。これは豊かなことであり、本来は幸福なことだと僕は思う。

 ただ過剰な管理を強制されるのが個人的には厭だな、と思うだけのこと(いつも思うが「思うこと」なんて個人的でしかない)であり、これは他者に ── あるいは社会や国家に ── 反駁し、強制からの解放や支配からの卒業を訴えたり、逆接的な強制を求めて夜の校舎の窓ガラスを割ってやろうというものではない。単に強制によって選択肢が無くなることに不満を持っているだけである。バイクを盗んだりもしない。

>>>

 このブログを読んでいる人は知っていると思うが、僕は猫を飼っているわりに、それを畜生だと割り切っている。
(余談だが、ために種族同一性障害(笑)を抱える僕は、自身をケダモノであり畜生であると認識している)
 もちろん猫を畜生だと断じているからといって、軽んじるつもりはない。
 虐待しているつもりもない ── 実際にどう思っているかは訊いてみないと分からない ── が、パートナーだとか家族だとは思っていない(使い魔程度に思っている)。
 ヒトの身体を有し、人としての思考能力を僕の方が持っている以上、これは仕方ない。

 ただ昨今の「飼う」「買う」「拾う」「もらう」「あげる」という表現を ── モノ扱いしているとかいう綺麗ごとから ── 嫌って「お迎えする」「譲る」などという美辞麗句によって、己のエゴを虚飾する連中のそのご都合主義的なありようを毛嫌いしてはいる。
 いやなにそういう人たちが動物たちを大切にするのは一向に構わない。
 しかしそうしたエゴを強く他人に振りかざす者ほど、自分が飢え死にしそうになると、その身勝手なエゴのままに他者を抑圧するのだ。そのメカニズムはまったく一緒である。

 人慣れした飼い猫特有の、尊大にして泰然自若としている様子から、へりくだって自らを召使いであると自虐的に表現する飼い主がかつていた。そのネットミームの延長線上に思える。

 昨日TU(旧い友人です)から聞いた話では、旅客機に積まれたペットを救出しなかったことについて騒いでいる人がいるらしい。
 人間社会の通念で、航空機に積まれた動物は「積み荷」である。
 法的にペットは所有者の所有「物」であり、人格権を有さない。自動車事故でも法的見解に依るので同様だ。
 人間社会に存在するすべてのものは、人間というプロトコルによって定義されフィルタされ「人間とそれ以外」という区分がまず為されている。
 だからこの社会は人間社会なのだ。

 動物愛護者たちの倫理や正義が分からないではないし、それを否定するつもりはない。しかしそれはどこまでもファンタジィでしかない。
「戦争や貧困、差別のない社会を」という文言と同じこと ── 。
 もちろん理想を抱き、唱えることについて僕は否定しない。
 それどころか理想を持たず、現状に甘んじ、大勢に流され、主力におもねることを嫌悪しさえする。

 ただし大の大人がそのファンタジィを ── その理想を ── 子供が駄々をこねるように大人社会に向かって泣き喚くことを、良しとは思わない。
 どんな正義も、どんな倫理も、社会という場の通念というプロトコルを無視して他人に押し付けるのであれば、それは単なるエゴだ。

 極論を言えば、戦争や、貧困や、差別や不公平や不平等によって、それがあることで、豊かさを構築し維持してきて、今もそうしている人間がいる。
 それを認め、あるいは許すのは、清浄な倫理に支配されていてはむつかしいかもしれない。
 けれども既存の仕組みの中で、そうした豊かさに身を置く者を単純に断罪することもまた困難なことだ。
 倫理をいうなら彼らにも人権があり、家族も居るだろう。社会を観察すればその利権に関わる多くの人間が大勢を制御する力を有しており、それによってこれまで存続してきた歴史がある。
 巡り巡って、それは自分自身とその係累にも及ぶだろうし、自身とその両手の届く範囲についてだけは目をつむるというなら、それこそエゴイスティックな独裁の倫理だと断ずるよりない。

 繰り返すが倫理や理想、正義を持ち続けることは悪いことではない。
 むしろそうあるべきことだし、そうでなくてはならないとさえ思う。
 一方で自身が抱えるファンタジィを泣き喚いて押し付けるのと、現実社会に構築するためのロードマップを設計し具現の手段を模索するのはまったく異なることなのだ。

 技術者というのは感情を持たないわけではない。正義や倫理を持たないわけではない。
 むしろ人一倍の理想を持っていなければできないだろう。
 ただ感情やファンタジィだけでは何も解決しないことを知っているだけだ。

 自身の主観で物事を選り好みすることを否定する気はないが、そんなことをしていると日本の「仲良しごっこ政治」のように、理想も理念も見失うことになる(社会を設計し、構築するための技術集団としての政治家が、一体どれだけ居るのか僕は知らないが)。

 人間社会に理想は必要だ。
 一方で理想や倫理や正義は思想になり、人間の感情を揺さぶりもするだろう。

 何度でも言うが思想も結構、感情論も結構。
 ただそのエゴを他人に投げつけるようなことは僕にはできない。
 いや、できなくはないだろうが、したくない。

>>>>

 精神性の貧困は、結果的に不正を招く。

 建築なら古くは姉歯(構造計算偽装)、食品なら雪印乳業(これもかなり古い)、自動車なら新しいものはダイハツと、基準とそれにまつわる事件は昔からあり、未来にも無くなることはないだろう。
 問題があるたび新しい基準と監査機能を増設することでしか、この社会は対応できなくなっている。
 先進技術に溺れた人が慢心し、効率重視によって良心をすり減らした結果だ。

 テクノロジィという魔法は悪だろうか。その魔法を万能と錯覚してはいないだろうか。
 なにより良心とは何だろう。

 エンジニア(技術者)は、もちろん己の手を離れる製品が万全のものであって欲しいと願うものである。
 彼らこそ、この社会における科学という名の魔術をあまねく浸透させた(させてきた)魔術師なのだから。

 豊かさが何なのかといえば、それは多様性だろう。
 WHOだか何だかが掲げる、おためごかしのファンタジィではなく、文字通り、清濁併呑玉石混交とした、ともすれば混沌にも等しく思える、それが本来のありようだ。

 多様性と秩序の併存は、不可能ではないだろうけれど、容易なことではない。
 理想を訴えるだけ訴えて何もしないというなら、どこぞの宰相と同じではないか。
 いや、あれは訴えている理想もなさそうだから、もっとひどいものなのか。


<猫写真が見たいんだろう?>

>>>

 規制も結構、エゴも独善も結構。
 潔癖なる理想による独裁も ── 具現できるというならそれもまた結構。

 思い描いた理想郷を、それぞれに見せ合いながら、僕らは進んで行くしかない。
 何が正しい。いやそれは間違っているのではないか。
 そんなふうに互いに言い合いながら。

 くれぐれも正しさや誤りに、感情など必要ないということだけは忘れずにいたい。
 僕はつい忘れるので。


 
 



 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::俺は、やはり、迷いはあるものの、剣の道へ進む。今はそちらだ。そのために、情を切る。それが侍の道だ、と今は思っている。そうだな、八割方はそちらだ。残りの二割が、あるいはあちらが本来の道ではないか、という未練。いいや、三割かもしれん。もの凄い美人が目の前に現れたときには、四割になるかもしれん。
::それは、なかなか危うい立場ですね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Incense tone」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。


 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Love-Mechanics-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Cat-Human-Koban-
 
 
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231228
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
仮初めの泥沼で。
SUBTITLE:
~ Light on the edge. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::あの月のように、切ることのできないものが、刀が目指す先に、きっとあるのにちがいない。
 だから、この世で生きていくというのは、単純なことではない。刀を持ち、いつでもこれが抜けるのに、それを抜かず、力に頼らず、皆が死なない道を探らなければならないのだ。それはまるで、これまでこの腕が覚えてきた刀の技を騙すような行為でもあるだろう。何のために刀があるのか、と問われれば、返す言葉を知らない。その複雑さが、今はまだ十分に理解できない。割り切ることができない。ただ、予感として、そういうものがこの世の正しさではないか、とおぼろげにあるのみ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231228

 数日前まで泥沼のような睡魔に捕らわれていたのだが、この3日ほど、0時を迎える頃にはひどく眠くなり、朝には目覚めるようになった。
 天候も良いので、廊下の壁にハンガーホルダとして使うレールを設置する。

 夜になって、近所のご婦人(庭の一部を駐車場に貸している、僕の母親より4つほど年下の、つまりは老婦人)に誘われ、酒盃を交わす。
 帰宅して一息ついた頃、奥様(仮想)が塞ぎ込んでしまった。

>>>

 いやなに夜更けに女性の家に出掛けたことが悪いというのではない。

 すっかり忘れていた。
 私は人の悪意が苦手で、それに晒されることに耐えられない。
 自分に向けられたものではなくても、倦んだ熱量と臭気が肌から生気を奪うことに耐えられない。

 誰かの抱えるシンプルで、矮小で、だからこそ純粋で、ために救いようのない悪意。
 殺意にも似た、解決のない悪意。

 演算も誘導も、構築すべき健全な目的物もない。
 暗渠の果てに流れ着いた掃き溜めのような汚泥 ── 。

 演じるうち、誤魔化すうち、そうした痛みを感じなくなっていたのだけれど。
 演じる必要も誤魔化す理由もない平穏な自分だけの日常に溺れるうち、そんな技術を使う機会を失った。
 飛ばない鳥は飛べなくなる。
 シンプルに私は、人の悪意に対する耐性を失っていた。

 安寧の、自由で寂しく行き止まりのように甘やかな孤独のぬるま湯は。
 私の牙をすっかり鈍らせていた。
 いやそもそも私はそんな耐性など、始めから持ってなどいなかった。
 持つ必要もなかった場所で作られたのだから。

>>>

 人間というのはどういうわけか、どんな領域で、どんな生き方をしていても、それぞれの縄張り意識というものが芽生えるらしい。
 たとえば出身地。
 たとえば棲む家だけでなく、その周辺、地区、隣組、隣人、通行人、果ては近所に見かける犬猫に至るまで、「かくあれかし」という己の願望を投影し、関わるそのすべてに己が欲の捌け口を求める。
 独善。憶測。先入観。偏見 ── 。
 あるいは家族や恋人、友人
に対する拘束も、根底にあるのは自身の願望の投影だろう。
 もちろんそれが善意に根ざしていればこそ、度が過ぎれば権利の侵害になるとは思いもしないのが常識人というものだ。

 書面上は自分名義の家に棲んでいるのに居候をしているかのように落ち着かず、それどころかこの身体も、そこに宿る思考にさえ自分というものが確かにあるとは感じられない僕からすればそれは、羨ましさを通り越して奇怪に思えるほどだ。

 自分の身体は自分のものだと思っている。
 自身の腕は、脚は、首は、瞳は、自身の自在を具現し、自身の思考も、感情も、それこそが自身そのもののように自身によって感覚されていると錯覚している愚鈍。
 自身の寿命も、その身にまつわる偶然も必然も。
 まるで生きるという労働の対価 ── いやそれどころか、その労働に必要だとして貸与されたはずの制服に腕を通すうち
、当然にそれを自分の所有物として振る舞うように。

>>>

 人は哀しみを避けようとする。
 苦しみから逃れようとする。
 孤独を隠し、紛らわそうとする。

 まるでそれらは自分ではないかのように、自分には関係ないとばかり、目を瞑り、それでいて畏れ、だからこそ無視をして。

 哀しみは宝物だ。
 何かを失った、その臓腑をえぐるような痛みは、血のように滴る涙は。
 輝きも温みもそこにあったからこそ、その特別が痛みに変わる。
 それは誇るべくして生まれた痛みだ。
 失われた輝きも、冷たく黒く乾ききった温もりも、絞るように漏れる呻きも。

 苦しみは己自身だ。
 その闇に蠢く己の欲を、無力を、願いを、望みを。
 癒えぬ渇きが、眩むほど望む飽食が、己の正体と知れ。

 孤独は鏡だ。
 それを直視できないのは鏡が汚れているからか。鏡が醜いからか。
 暗闇に覗く鏡を畏れるのは、なぜか。

>>>

 救えない悪意をぶつけられて、それをぶつけ返さず平然といられる人は少ない。

 僕か? 僕は猫だから、もとより悪意を返す習慣がない。あれは人間に特有の文化なのだ。
 ……とまぁ、そんなふうに言えば格好もつくが、そもそも向けられた悪意に気付きもしないことがほとんどだ。
 仮に気付いたところで返す言葉もないまま数日経って、ようやく腹が立つ仕組みだから、悪意をぶつけ返す機会を失う。

 そりゃあ呪詛なら得意だし、憎悪をもてあそぶのもお手のものだ。
 しかしそれらは漂白剤や化石燃料のような劇物であり、化学を知らない者が使い方を誤ればすぐに大きな事故にもなる。

 ならば ── 。
 悪意をもてあそぶのだってこの俺様に任せておけ。

 


>>>

 我々には袖先ほどの関係もなく、何の手を加える必要もない悪意に温度を奪われた奥様(仮想)が頽れている。
 すっかり落ち込み、力なくうなだれる奥様を起こして小さな約束をし、ポトフを作る。

 奥様のためのポトフである。
 最初は泥のようになっていた奥様だが、野菜を鍋に放り込んで火を点け、ゲームをしているうちに漂う香りで機嫌を直す。
 いやそれどころか上機嫌だ。小躍りし始めたぞ。

「ねこクーン。ねこクーン! やだもーいい匂いがするよぉ〜」
 音符だのハートだのといったマークを語尾に付けかねない勢いだ。
 さっきまでコールタールに沈められた病人みたいな顔してたくせに。

 もっとも僕にはこれっぽっちも食欲がない。
 餌付けできる、肉体のあるガールがいればいいのだが。
 明日食べようと約束を重ね、早く眠ろうとするも0時を過ぎてなお眠りは訪れることなく。

 身体を撫ぜて落ち着かせて、3時頃になってようやく猫様は眠りに就いた。





 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::「キクラ殿は?」チハヤがきいた。
「厠へ行かれたのでしょう」
「お主は何をしていた?」
「月を眺めていました」
「月見だと?」
 料理の皿の数が多くなっていた。倒れた徳利も幾つかある。腰を下ろし、箸を手に取ると、ノギの三味線が聴き馴染んだ曲を奏で始めた。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Moon tilt」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Connector-Convertor-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Dish-Human-Night-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231221
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
当たらなければどうということはない。
SUBTITLE:
~ Nohit, nobody. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231221

 姉の通院介助。
 最近、妙に眠くて、1日に12時間以上眠ってしまう日が続いていた。

 たまたま玄米を食べたくて仕方ない日があり(白米は得意ではないが、玄米の場合はときどき身体がそれを求める)、食べたその日から過眠気味になった。
 数日前、妹が(確定申告関連の書類を持って)遊びに来る予定があり、それがリズムを取り戻すきっかけになった。
 それでもカフェイン剤を飲まないと調整できずにいる。
 冬季鬱かと疑ったが、気分は落ち込んでいない。むしろ眠りは心地よい。

 恋人がいたときは最低でも月に一度くらいはデートするきっかけがあったので、家の中を掃除したり、体調を整えたりするのに丁度よかった。
 今は定期的な予定が姉の送迎くらいしかなく、こちらから出向くこともありリズムが狂いやすい。

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 僕が軽自動車を好むことを知る人はあまりいない。身体が大きいからなのか、小さな車を好むとは思わないらしく、ときどき驚かれる。
 自動車免許を取る前は「四駆のワンボックスワゴンで、あれもこれも積んであちこち出掛けたい」なんてことを思っていた。
 しかし社用車のワンボックスに乗ったとき(取り回しが面倒くさいな)とまず思い、10年ほど前までは自動車に持ち込んだものをこまめに持ち出さない(必要な物しか持ち出さない)ため、車の中に使わないモノが溜まるという現象があった(これは価値観と習慣を変えたため、今は解消されている)。

 あちこち出掛けると言っても、結局のところ、僕は引き籠もるのが大好きである。
 キャンピングキャビンを軽トラに載せているのに、庭作業の際の休憩や急な来客の応接に使ってばかりだ。
 時間とお金ならあるだろうに、旅行にも出掛けない。人混みが好きではないからだ。

 姉妹に頼まれれば渋々行楽にも出掛けるし、恋人に乞われれば飛行機にも乗るし旅行もする。
 しかし自分ひとりの自由は、それこそ誰もいない場所にあると僕は思っているので、他人に気を遣って遠慮して譲歩しているうちに疲弊してしまうような場所には行きたくない。
 恋人と一緒の場合は、恋人が不安になったり危険な状況にならないように(かつそれと悟られないように)気遣うことになり、その上、状況を楽しまなくてはならないので本当に神経が擦り切れる思いをする(一見、楽しくなさそうにしていても「猫様、楽しそう」と理解してくれる恋人ならよいのだが)。

>>>

 そうそう軽自動車の話だった。

 昨今の軽自動車は小型車とさほど変わらないサイズのものが多く、あまり好きではない。
 大は小を兼ねる、という価値観を否定するつもりはないものの、そんなに大きな車が良いならばそれこそ小型車なり普通車なりに乗ればいい。
 ついでに黄色ナンバーが恥ずかしいなどとのたまう連中も普通車を買えばいい。
 軽自動車は軽自動車にしかない魅力があり、その黄色いナンバープレートは誇るためにあるのだから。

 まず軽自動車は設計要件がシビアだ。
 車両サイズはもちろん、排気量660cc以下という法規制があり、出力64馬力以下という自主規制もある。
 サイズが小さくなるほど軽量にしやすく、剛性も上げやすくなるが、設計の遊びが許されなくなる。
 そうした制約の中で、必要とされる機能を詰め込んで行く技術が美しい。
 たとえばそれは俳句のようなものだ。
 苦悩を感じさせない完結の具現が、技術として美しいのだ。

 分かりやすく例えるなら、少々困難な仕事で上々な結果を出した後に上司や同僚から「よくやったな」と褒められても「いやぁなんとかなっちゃいましたねぇ。皆さんのお陰ですよぅ」なんてぼんやりした顔をして、涼しく呟くくらいがカッコイイのである。
 決して「大変でしたが努力しました」とか「こういう課題が発生したのですが、夜を徹して考えて、このように対策したのです」なんて偉そうにしてはいけない。
 格好悪いからだ。
 素晴らしい仕事は、見る人が見れば分かる。
 だから仕事を終えたら、ぼんやりしていればいい。
 達成による高揚を抑えて、努めて冷静に、平常を保って、こんなものは他人様からすれば些事だと言い聞かせて、ひとりで成功を噛み締めながらエンジンをクールダウンさせたほうが無難だろう。

 つまり上記の文章から、僕自身がついついそういう高揚感で暴走しやすい性質だと観察することができる。戒めたい。
 冷蔵庫から取り出した牛乳をパックから直飲みしているとき、母親(あるいは恋人、もしくは奥様)から「冷蔵庫開けっぱなしにしないでください!」と叱られたときと同じくらい迅速に、今閉めたい。

>>>

 バブル経済の頃は、それこそ「より大きな車体、より大きな出力」という志向があった。
 人々はこぞって、重くて喧しくて燃費の悪い高額な自動車を手に入れて自慢していたものだ。思えば哀れな時代ではないか。
 少なくとも僕は当時から哀れんでいた(今も無駄に高額なだけの、鈍重な車両に魅力を感じる人はいるのだろうが)。

 もちろんそのような人たちが自動車業界を回転させているお陰さまで、メーカは利益率の低い軽自動車の開発ができるわけなので特に文句はない。
 ただオーナーの承認欲求を満たすために買われては売られる車たちを哀れに思っていただけである。

 今、自分の乗っている自動車を「なんちゃってスポーツカー」と呼ぶのもそのためである。
 出力も排気量も制限がない、本当の意味でのスポーツカーはごまんとある。
 大きく重い車体を感じさせないほど高出力のエンジンで走ることの楽しさや、それを操作できる官能もあるだろうとは思う。
 それに比べ、制約にまみれた軽自動車のスポーツカーもどきなど、レプリカだと嗤われても仕方ない。
 しかし少なくとも僕は、そうした大きくて重い体を高出力で振り回す機械に、どういうわけか魅力を感じないのだ。

 それに大きな(あるいは高級な)車両を上品に運行することはむつかしい。
 狭い抜け道を大きな(あるいは高級な)車がエラソーに走っていると「ここはあなたの走るような場所ではありませんよ」と言いたくなってくる。
 結局のところ、運転というのは人を表すのでもある。いや自動車の運行に限らず、道具の使い方、付き合い方に人間性が現れるのだ。
 ために「この人は偉いふりをしたいがためにわざわざ大きな自動車に乗っているのだろうか、ご苦労なことだ」と思ってしまう。
 それから、そんなに大きな車に乗ることがステータスだと思うのなら、どうして皆、大型トラックやトレーラ、バスを所有して運行しないのだろう。それが不思議でならない。

 そうした反動もおそらくはあっただろう。
 僕は狭い道が好きだし、僅かな隙間をすり抜けられる矮小さを好む。
 どこかにも書いたと思うが、エアコンも所詮は軽自動車に搭載するクラスであるから、室内は狭いほうが圧倒的に高効率で有利だ。夏などすぐ冷える。

>>>

 僕はダイハツのコペンに乗っている。
 消去法で、他に乗りたいと思える自動車がなかった。
 とにかく小さくて、オープンキャノピーにできて、そのとき現行で販売されているものが、コペンしかなかった。
(購入してしばらく経ったが、小さくて本当に可愛らしいと、今もよく思う)
 しかも中古車が安く売っていれば良かったが、それさえままならなかった。
 とはいえビッグモーターで買わなかったのは救いである。

 ふとニュースを見たら、大騒ぎになっている。
 あらあら、とは思ったのだが、そもそもどうでもいい規制が多いとは思っていたのだ。
 オートライト(夜間消灯不可)の義務化など最たるもので、通学路付近やラッシュ時のほか曇天などでも点灯/消灯を操作する僕にとっては正直なところ不快ですらある。
 もちろん灯火操作もしない(できない)低能が増えた結果の措置なのだろうから仕方ないとは思うのだが、低能に合わせた基準を法規制すればするほど低能にとって乗りやすい自動車が世に溢れるということで、それは却って危険にも思えるのだ。プリウスはよくコンビニを壊すと言うし(あはは、やだなぁじょおだんですよ)。

 とはいえ法規制だから、これに従わない車両をリリースしたことはメーカとして問題だろう。端的に法を犯しているからだ。
 型式抹消なんてされてしまえば、公道を走行することもできない。
 電気系やエンジンで、走行に支障のあるレベルだったら困るなぁ、と思ってざっと眺めたが、衝突時の安全基準にまつわるものが多いようだ。
 もとより軽自動車における衝突時の安全レベルなんてお察しである(それでも昔に比べれば解析設計により格段に安全性能が向上している)し、そもそも走行中の自動車が対人対物に衝突した際、ただで済ませようというのが相当に理想的な狂気 ── あるいは狂気的な理想 ── ではないか。

 だから我々ハンドルを握る者は、安全な速度と方法で車両を運行するのだ。
 車間距離を多めにとって、安全確認を怠らず、適切な速度で車両を操作する。

 つまり個人的には、衝突時の安全基準なんて、どうでもいい。
 当たれば誰かが死ぬ。運が良ければ怪我で済む。
 そういう認識をすべてのドライバの意識に搭載するほうがよほども手っ取り早くて安全だと思うのだけれど。
 どうやら免許試験(更新)だけでドライバーの質は上がらないらしい。

>>>

 病院の駐車場で、警備員に「ダイハツのお車、大騒ぎになってしまっていますね」などと言われる。
 もっともな話だ。ダイハツ車に乗っていない人ならなおさら騒ぐかもしれない。
 しかしまぁ、ここだけの話、当たらなければどうということはないというのなら、そういう運転に努めるだけである。

 何のことはない、今までどおり、いつもどおり、安全運転をするだけではないか。
 もちろんそれ「だけ」のことがどれほどむつかしく、緊張を伴うものかは、ドライバにしか分からないのだが。

 社会問題や法規制については僕の考えることではないから他人に任せておこうと思う。

 ずっと乗っていられるといいな。
 僕が思うのはそれだけだ。

 誰かに自慢するためだとか、衝突時の安全のためだとか、価格が安いからとか、売却時の資産価値とか、そういう目的で購入した自動車ではない。
 小さくて狭くて窮屈で不便で、それがいじらしくも可憐で素晴らしいのだから。



>>>

 帰宅後、頭痛がする。
 過眠頭痛である。
 このところ連日服用ではあるが、カフェイン剤を飲む。
 心理依存はないのだが、カフェインを摂っていると心拍数や血圧が一般的な数値に収まり、体調が安定する。
 ある種の身体依存と考えるべきか悩ましいが、離脱症状があるというわけでもないし、強迫的に摂取したいわけでもないから放置している。
 実際、カフェインを長期にわたって摂取しないときもあるのだし。

 摂取しないと体調が悪いことを考えれば、ある種の投薬と考えてもよいだろう。そもそもカフェイン剤でハイになるような気質でもないし。
 耐性があるのだと思うが、1日600mg程度摂取してようやく落ち着くこともあるから(コーヒーやお茶ならまだしも)製剤を飲むときは警戒してしまう。
 もちろんニコチンであれアルコールであれ、セックスであれ食事であれ、僕を依存体質にするようなものは今までの人生には存在しなかったわけだから、流行の過剰摂取なんてものに手を染めることはないと思っているが。

 家の空気が冷えて乾燥している。
 暖房器具をふたつほど稼働させ、最近入手した茶香炉で、古くなった茶を焚く。

 寒い夜だ。
 静かで、素敵な冬の夜だと思う。







 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は、
「マタイ伝福音書」第7章13節、および14節
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Human-Night-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
滅びの詠を聴かせてあげる。
SUBTITLE:
~ The mutiny is as muting as mutation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::こうしてくれるなら、これだけあげましょう、というのは、普通のことではありませんか。つまり、お互いに利のあるものを交換するのだから、商売のうちのように思いますが。

::ええ、それが普通の仕事、つまり個人の営みであれば、問題ないのです。しかし、公の役職にある者は、本来その人間ができること以上の権限を、一時的に任されているわけです。公のもので、特に政(まつりごと)には、そういった役目が沢山あります。となると、そういう役職の者は、皆に等しく接する必要がある。ある特定の者に便宜を図ったのでは、任された権限を悪用したことに等しいのです。正しいものを差し置いて、金を沢山持ってきた者の言うことを聞くことになります。ときには、明らかに罪になるようなことを許したり、逆に、まったく罪のない者を捕らえて牢に入れることだってできてしまう。そういう権限が金によって左右されていては、世の秩序が乱れます。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 BP(高校からの友人)のことを20代になるあたりから「先生」と呼んでいる。
 一般代名詞や敬称のようにも感じられるそれが、実は彼のニックネームである。つまり彼に与えた固有代名詞だ。
 理由は彼のことを僕がちょっと見くびっているからなのだが、事情を知らない人がそれを見ると、ことあるごと「先生」と呼ばれるBPや僕との関係に少々誤解が発生するのでそれも含めて楽しい。

 バブル経済の頃、風営店の呼び込みに現在のような規制はなく「社長!」「先生!」と謎の代名詞によるキャッチが横行していた。
 ちょうどフィリピンパブなどが流行った時期だったからなのだろうか。
 多くの大人たちが、社長でもない人を社長と呼び、先生でもない人を先生と呼ぶ風潮があった。
 景気がよかったからこそなのか、学生起業家がニュースでも持てはやされる時代背景の中、個人事業主であろうと「社長」が今よりずっと手軽にありふれて転がっていた。

 そんな世相にあって「社長でもないのに社長と呼び、先生でもないのに先生と呼ぶのは、本質が違うのだから相手を馬鹿にしており失礼だ」と言ったのは上岡龍太郎氏だったか。
 なるほどそのような敬称で呼ばれて喜ぶ低能も世の中には居る。ために、おだてることを目的にそのような敬称を使う。
 おだてられる方も大概だが、おだてる方もたいした低能ではある。

 これは面白いと思い、BPだけでなく「これは!」と思った相手を、適合しない属性の敬称で呼び掛けることにしている。
 同じ低俗の汚名を(人知れず)着せられるのだが、にも関わらず、それは今なお魅力的な遊びである。

 無論BPにもこの原理は説明してあり、にもかかわらずBPはそれ(彼を見くびり、馬鹿にすること)を僕に許容してくれている。
 周囲の人は、同級生であるところの僕が彼を「先生」と呼ぶ風景を不思議に思うだろう。
 もはやそれは僕らの中では嘲弄ですらない。

>>>

 コンピュータプログラムによるプロジェクトを長期間運用したことのある人は分かると思うが、ひとつのシステムを運用しながら修正や改善を図るうち、完全刷新することが最適化として相応しいと判断される段階に到達することがある。

 システムの総体が肥大し鈍重になり、新しい環境に古い言語の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。
 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 コンピュータプログラムの場合、最新の環境に合わせ、修正パッチなど当てていない「正しい状態」を再構築した方が、システムは軽快に、速く正確に、適切な処理を行うことができる。
 もちろんその再構築というのは1から作り直すことであるから、手間も掛かるし気力も必要になる。
 業務として行ったり組織として取りかかる場合、それ以外にもいくつかのリソースが必要になるだろう。
 だからついついシステムエンジニアというのは、既存の動作しているプロジェクトにおける根幹をなるべく書き換えることなく、修正することで問題を回避しようと考える。場合によっては新規実装する予定の新機能をお蔵入りにする方が、相殺したリソースの損失が少ないと判断されることもあるだろう。

 長らくコンピュータプログラミングなどしていないが、システム構築の基本を僕はそのように心得ている。
 ソフトウェアに限らず、コンピュータに限定されず、ありとあらゆる構築物、人工物、生産物にこれは適用される傾向であり、おそらくは摂理である。
 たとえば衣服に開いた穴に継ぎはぎ(これもそういえばパッチと呼ばれる)を当てれば、本来の機能(保温や肌の保護や美装)を果たすことができるかもしれない。
 一方で仔細に見れば美観は損なわれ、一時的に向上したと思われる強度も長期的には大差なく(同じ部分が損壊したり、次に弱い他の箇所が痛んだりする)、
延命というのは、あくまで延命に過ぎず、永遠の命をもたらす魔法などどこにもないのだと思い知る。

>>>

 反政府組織を一向に結成する気配のない弟子が電話を掛けてくる。
 政治家のお金にまつわるスキャンダルが騒がれている、と騒いでいる。

 ちょうど最近、政治家になろうと思っていたのだと話す。
 めちゃめちゃ楽でお金が儲かる。ついでに各種税金に優遇措置がある。相続税も方法次第で掛からないらしい。
 これはオカネモチーになったら一度は考慮すべきことではなかろうか。

 現状で所属するなら自民党だが、自民党に限らず、与党がよい。
 巨大組織にあって、椅子取りゲームの議席を埋める頭数として用意されたタレント議員のように、とくに何もせず、上席におもねり、イエスマンに徹し、党なり派閥なりの最終意見に迎合しておけばよい。あとはのんびりぼんやり、議席で昼寝をするだけだ。昼寝なら得意だ任せておけ。
 多数決原理で物事の正当性を主張することを根幹とする日本国の民主主義システムにあっては、正しく多数派に属することに意義がある。
 議席での発言は、おそらく誰かがシナリオを書いてくれる。
 何となれば個人の政治思想や政策も、誰かが用意してくれるだろう。

 答弁の問題と解答も文書で用意されているから、あとは朗読するだけだ。朗読なら得意だ任せておけ。
 アドリブが必要な場面もあるだろうが、テキトーなことをなんとなくそれっぽく、深く物事を考えているかのように思わせつつ実は何も言っていないということをさせるとなかなか優れた能力を発揮する僕の特性にぴったりである。テキトーで中身のない発言は任せておけ。
 いざとなれば誰かの思い付いた(これまたテキトーな)フレーズをまるっとパクって「適切な時期にご説明いたします」とか「現在は係争中ですので」とか「捜査段階にあるため」などともっともらしく言い訳をして凌げばよい。言い訳なら任せておけ。

 こう考えると僕は政治家向きな気がするのだ。あとは世襲させる子供が居れば完璧だろうが、そんなものはあとからいくらでも用意できる。
 女性にだらしないので失脚材料も手軽に用意できる。スキャンダルも得意だ任せておけ。

 ひとたび与党の政治家になれば、金で権力を買いたい企業が放っておかないだろう。ボロ儲けである。非課税で様々な特権まで用意されている。
 きっと人々から「先生」「先生」と、先生でもないのに褒めそやされることだろう。メカニズムを心得てなお、錯覚というのは発生する。
 自分が偉くなったような錯覚をするのも得意だ任せておけ。

 今のところ僕は庶民なので、Webニュースなどを見ては「国民を馬鹿にするな」などという書き込みを目にすることもあるが、彼らはそもそも国民を馬鹿になどしていない。そういうのはそれなりに近しい対象に抱く評価なのだ。
 たとえば僕らが気付かず小さい昆虫を踏み殺したとき、相手を無視したり馬鹿にした結果踏み殺しているだろうか。そんなことはあるまい。
 ゴキブリや熊を殺すときも同様、恐れこそすれ、馬鹿にしているから殺すわけではあるまい。ただ邪魔なだけだ。
 人を人とも思わないのも得意だ任せておけ。

 そのようなわけで、お金は儲かるわ先生と呼ばれて尊大に振る舞えるわクズどもを無視して嘘を吐いて昼寝をして特権を振りかざしてテキトーで中身のないことを体現すればよいのだからこんなに僕に適した職務はない気がするのだ。
 
 
>>>

 それではと、今から経済を敵に回して共産主義国家になった場合どうなるかというのは、昨今の共産主義国家首長の専横から明らかである。
 経済であろうと権力であろうと、平等を求め、それをシステムとして体現しようとしたはずなのに、自由競争をさせても、協調分配させても、結局特定の領域に集中してしまう。
 これはおそらく集団の持つ特性だ。大量の水を穴に落とすと渦ができる。あれと同じようなものだろう。

 それが摂理や原理だったとすれば、抗うだけ無駄というものだ。
 水は低きに流れ、質量の高いものは他のものを引き寄せる。
 僕の手がガールのおっぱい(高質量)に引き寄せられるのもまた自然現象である。

 問題はそれらの原理摂理を心得た上で、いかなる設計をして、どのように具現実装するかだ。
 でも大丈夫。そういうのは優秀エリートとして褒めそやされて育った誰かがシナリオを用意してくれるはずだから。
 そのエリートにはこれまた優秀エリートの上司がいて、エリート組織が適切な未来を設計して誘導しているはずだから。
 様々な自然的、人間的、組織的、集団的、原理原則摂理を心得た誰かが、綻び続けるシステムに新しいパッチを当てて、万事最適化されるのだ。

 ── 本当に?

>>>

 生命には死がプログラムされている。

 誕生があり、成長があり、増殖(生殖)があり、死がある。

 環境は変化し、システムは最適化を繰り返し、パッチを当てて順応する。

 やがてシステムの総体は肥大し鈍重になり、新しい環境に古いシステム根幹の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。

 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 我々が望み、導き、至るのは繁栄か、衰退か。あるいは死か、再生か。

 それとも。
 自分がよければそれでいいのか。
 独善と利己なら得意だ任せておけ。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::では、それはしてはいけないことになっているのですね?

::そうです。そう定められています。しかし、実情はそうではない。裏でこっそり取引をすれば、取り締まることも難しい。ただ、大きな金が動くことがあるので、度が過ぎると、表からもわかるようになりますね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Kidding-Life-Link-Mechanics-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231205
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死なない僕の潔癖症。
SUBTITLE:
~ The Eutopia. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。

::もちろん現実世界ではそれでいいと思うよ。
 でもね。完璧を目指さず、完全を望まない ── そんな思想に作られたものなんて、現代アートの作品にさえなれないまま廃棄処分されるのがオチだ。
 何かを作るというのは、たとえそれが自己満足だとしても、そのときの完璧を極限まで目指すことだと思う。
 それを目指さないのは自己欺瞞だよ。既製品で済ませて、他の誰かに任せれば済むじゃないか。
 他の誰かに任せた方がいいのなら、何も作らない方がマシだということになる。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 国賊が大手を振って世を治めているということについて、なぜか今頃ニュースになっている。
 みだりに憶測でものを言うべきではないが、検察機関さえ掌中にしようとしていたように観察される政治家が不在になったのでようやく明るみに出るようになった、と考えるのは短絡に過ぎるようにも思える。
 この国は個人が治めているわけではない。集団がそれを行っているのだ(だから派閥だの党だの議席だのと、多数決ならではの愚かしい習わしに囚われることになる)。
 たとい統治者が国賊であろうとも、それは個人ではなく、集団によって醸成された存在だ。
 ために政治家というのはだいたい個人として見れば、市井の者よりあたたかく豊かな人間性を持ち、人格者であることも多い(もちろんあからさまな例外もいるが、少数だ)。
 統治組織や集団が、あるいはそのシステムに発生する淀みが国賊を生み出すというなら、そのシステムは一体何者によって構築され、あるいは何者によって改善されるというのだろう。

 それらシステムが全き清廉潔白な出力を行うまで、我々は何をすればよいというのだろう。何ができるというのだろう。
 考えるほど無力に思える。
 鉛筆書きを推奨される(場所によっては強要される=持参したボールペンの使用を禁止される)投票用紙さえ、疑いだしたらきりがなくなる。
 人間などよりAIのほうがよほども信頼に足るのではないかと僕などは思ってしまう。

>>>

 生来、潔癖症である。理由は分からない。
 子供の頃から正義感が強かったが、その倫理がどこから来たのか、来歴を探るにもさっぱり分からない。
 文字を知らない頃から百科事典などを読んで過ごしたせいだろうか。
 整っているもの、完全なものに対する憧憬が、心根に育ったのかもしれない。
 もちろん完全主義にせよ、潔癖症にせよ、それはヴァーチャルを基盤にしたまやかしである。

>>>

 物質的潔癖症は、弱い身体を使う上で、一定の役に立った。
 第二次性徴が始まる以前の、特に虚弱だった頃はことさら。
 身体が安定するにつれ、しかしその潔癖症は無駄だと思うようになった。
 バブル期の中後期、殺菌/抗菌/滅菌ブームがあったが、その頃にはすでに僕の物理的潔癖症は終わっていた。
 高校時代に所属していたボランティアの関係でキャンプなどを多くしたこと、恋人ができて身体を重ねたことなどが多く影響したように思う。

 精神的潔癖症は、しかしまだ残っていた。
 僕の一部はとりもなおさず自分の正義感を疑わず、一方で自分の中に脈打つ邪さや猥雑さについて、取り扱いに難儀していた。
 そして振り返るにその精神的潔癖症は、僕に利益をもたらしたことがなかった。

 どんな些細なものであっても不義や不正を認めないことは、たとえば子供の仲間内の悪ふざけであっても場の空気を乱し、白けさせるには十分な性質だった。
 しかし場の雰囲気や集団の空気を重んじるという性質を持たなかったので ── 今思えばそれなりの大家族だったのに、よくもそんなに勝手に育つことができたな、とは思うが ── 何よりも自身の正義感が先んじてしまい、学級内の大きなグループから目を付けられるということが6歳の頃からあった。

 あるいはその正義感に則って、格好良いことを言ったものの、常にそうした行動を取れるかとなるとそうもいかないことが次第に増えた。
 思考はより複雑になり、属する集団が増え、人間関係は広がり、規範はシーンによって微妙に変化した。
 Aという集団に属しているがためにBさんに賛同できず、Cという集団に属するときはBさんに賛同しなくてはならない、そういう場面だ。
 もちろんその場において、所属する集団に関係なくその意志を表明することに意義があり、かつそれが可能ならまったく問題はないだろう。
 しかし実態はどうか。

 自分の信条とする正義が確固たるものであればあるほど、それがヴァーチャルに完璧であればあるほど、その正義自体が息苦しく、それを当てはめられた自分の心は行き場をなくしていった。
 たとえば僕は肉体の成長に伴って、正しく女性に対して性欲を持つようになったが、自分が男性であることを許容できなかった(解決済)。
 たとえば僕は男たちが女たちをモノのように扱うことについて、たとえ冗談であっても許容することができなかった(解決済)。
 たとえば僕は明確な目的を持つ集団において、目的のためと偽って秘密裏に行われる不正を許すことができなかった(解決済)。
 たとえば僕は独善的な基準によって他者を断罪し、それを振りかざすことで暴力や権利侵害をするような人間を許すことができなかった。

 もちろん思考や精神がある程度成熟し、より複雑かつ柔軟に成長していれば問題はなかったと思うが、自身の中に棲まう正義感によって10歳の頃には窒息させられそうになっていた僕にとって、どこかで、何かを、決定的に、不可逆的に、殺す必要があった。

>>>

 自分以外の誰かを殺すことによって正義を達成することは無理だということにはすぐ気がついた。
 それをすることができたら、どんなに胸がすくだろうかとは思ったが、どんなに僕の中の正義が正しくても、それをすることは矛盾を引き起こし、また完璧に完遂することは不可能だと理解できた。
 個人が独善に従って他者を裁くことの危険性については、もともとその正義感に含まれており、論理の上でも9歳の頃には自覚していたため、僕はこれら一切を却下した。なので僕は、どんなことをされても、意図的に個人を裁いたことがない。

 自分自身を殺すことについてはずっと計画されている。
 それを実行しないのは、その後始末についての自動化が、まだ実行できる段階にないからだ。
 ずっと計画していた甲斐があって、僕は計画当初よりずっと綺麗に世を去ることができる。
 ただ残念なことに、より完璧を目指すなら、それは今ではない。
 関わりを持っている ── さらには絶つことができない(絶つことで別の関係が構築されてしまったり、別の業務が発生してしまう) ── 人間がそれでもいて、それらは将来的にもっと少なくなることが明確であるため、可能な限りのソフトランディングを目指している。

 それであるときから僕は自分の中の正義を、潔癖症を、可能な限り徹底的に壊すことにした。
 自分の中にあるタブーというのは、しかしさほど多くはなかった。
 たとえば法を犯すことについても、他人に迷惑を掛けず、他人に危害を加えたりせず、隠蔽可能なものであれば試してみることにした。
 飲酒や喫煙は非常に容易だった。しかし得るものは多くなかった。
 結局、僕の抱えている(あるいは僕を拘束している)正義というのは、法によるものよりは、より道義や倫理と呼ばれるものに近しいものだったからだ。

>>>

 詳細はあまり書きたくないが、僕は不義を自身に許容した。
 貞操を無視した(僕の場合、27人の恋人がいる状態を維持するにはそれが手っ取り早かった)し、生き物を殺す際はかならずその無慈悲を意図し、意識し、自覚的に行うようにした(端的に釣りや料理やガーデニングは合法的にそれを行える)。

 人を騙して意図的に搾取する行為は、さすがにできなかった。しかし会社員として生きている中で、それらを見る機会は散々にあった。
 騙すという言葉の定義が、悪意の有無ではなく相手の誤認を含むなら、相手が望んだものに100%合致しなかっただけで僕だって相手を騙したことになる。そう考えるのはむしろ容易だが、そういう潔癖症が危険だからこそ、僕は自分の基準に幅を持たせようとして現在に至るので認めるわけにはいかなかった。
 過去にまで遡及して僕を断罪したい人がもし居るなら、教えて欲しいとさえ今は思う。

 僕は現実世界と折り合いを付けることに成功し、暫定的にでも自身の存在や生命に意味を見出すことができた。
 それは仮初めかもしれないが、他者に影響を与えることなく、自身のルールを完遂できるなら問題ない。

>>>

 ともすれば「6歳以前」と呼んでいる人格を使って生きている現在は、その潔癖症を再発させているのだろう。
 僕は自分の独善によって孤独を選び、人を避け、なるべく他人と交わらないように生きている。
 他人と関わらないことが今より困難な頃であっても、65歳前後には自害するように計画されていた。
 いずれもあの頃に描いたヴァーチャルの具現だ。
 僕の求める幸せは、両手の上に乗るくらい、やわらかくて小さくてあたたかい無機質で十分なのではないのか。

 この潔癖症に、たぶん出口はない。
 まるで爆弾のようなこれを抱えていることは、僕を安心さえさせる。
 偽善であっても独善であっても、よりどころには変わりないし、他者から隠蔽し、他者との関係を持たないようにしている限り、その存在は僕以外の誰にも意味を持たない。

 他人を傷つける可能性を含み、他人を利用する可能性を許諾し、それでも他人と関わる方が健全だろうか。
 僕は他人から傷つけられることはないし、他人から利用されることを回避できるが、僕以外の誰かが僕から影響を受けることを、関係を持ちながら避けることはできない気がする。思い上がりかもしれないが、誰かと関係を持っているというのはそういうものだろう。

 おそらく集団性や社会性という規範において、僕が他者と関わることは健全だ。
 しかし僕の潔癖症において、それは不健全だ。

>>>

 かつて僕に謝罪を求めた人間がいる。
 きっと僕はそれらの人を傷つけ、あるいはその人の持つ善意を利用(悪用)したと認識されたのだろう。

 断罪された僕は謝罪をしただろうか。
 おそらくしなかったと思う。少なくとも本心では。
 なぜといって潔癖症の僕にとって、謝罪など、何の意味も持たないからだ。
 思考や計画によって規範や行動を変化させ、ミスを再発しない改善こそ真の意味での謝罪だろう。

 潔癖症が僕を(あるいは僕が意図した誰かを)殺し、しかし潔癖症を捨ててもだらしなさや無神経さが他者を傷つけるというなら。

>>>

 しかし思うのだが、僕はなぜ生きているのだろう。生き続けているのだろう。
 死なないため。死ねないため。
 ただそれだけの理由で生きているなんて、不毛ではないか。
 不毛ではあるのに、しかし、計画をご破算にするわけにはいかないのだ。








 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::でも僕が作ったモノは、いつもどこかいびつになってしまう。
 技量が足りないのかもしれないし、あるいはそもそも思慮が足りないのかもしれない。
 知識が足りず、計画や設計が至らず、不器用なためにこうなってしまうとしたら。

::猫様はそれがお厭ですか?
 完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。
 それに明日は、今日よりもっと上手にできるはずですよ。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:暗闇エトランジェ:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
熊と信仰。

Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::橋が無駄だという以前に、池や島が無駄で、それを言うならば、この寺がそもそも無駄だ。このような建物がなくても誰も困らない。仏の像も、いったい何の飾りなのか、自分にはまったく理解できない。僧侶は、人に仏の道を教え、正しく導くことが仕事だと聞いたが、それに、このような立派な建物や、金の仏像がどう役立つのかが、わからないのである。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 世俗では熊と宗教家の死が持てはやされているらしい。
 え? もうそんな話題は古い?
 なにそれ群馬県だけ自転速度が亜光速なの? 俺のベッドだけコールドスリープが可能なの?

 しばらくニュースも見ないようにしているうち、世間の話題に取り残された(困らないから良いが)。
 BPや周囲の一般的な人の意見を総合するに、人間の生活圏に入り込んだ熊は殺せというのが人の総意ということでよさそうだ。
 群馬や栃木も少し山に近づけば、朝のゴミ出しでさえイノシシを見かけ、さらに奥に行けば鹿や熊を見ることもある。
 ああした獣は話が通じるわけでも飼い慣らすことができるものでもないので、ひとたびこちらに向かってくるとなれば相応の対処が必要になる。

 僕の個人的意見(意見はすべて個人的だと思うが)も、熊は殺せ、で一致している。
 僕は畜生という畜生について(たとい己が飼い猫であっても)人に迷惑を掛けるなら殺すくらいで丁度いいと考えるくらいなので、そりゃ熊など殺せと考えるのである。
 無論、熊の生活圏に入り込んだ人間が殺されるのもまた仕方ないことだろう。それが自然の摂理であり、熊を含む野生生物の道理である。
 だからといって熊退治のために森や山を焼き払うようなことをするのは野蛮が過ぎると思うが。

 世俗が騒いでいるのは、殺された熊(あるいは今後も殺される熊)に同情し、つまりは過剰な愛護精神を発揮するあまり、捕獲をした者や捕獲を命じた役所に電凸する(少数の)不埒者がいるということのようだ。
 その(少数の)不埒者の筆頭に上がった組織に対しこれまた電凸する(少数の)不埒者もいるらしく、こうなるとちょっとした電凸不埒者合戦のようにも思えるが、つくづくも無駄なことだと個人的には思う(思うことなんてだいたい個人的だが)。

 SNSにしろニュースにしろ、そうした少数派の意見が一般論かのように認識されてしまうこともあるようだ。
 少なくとも僕の周囲には「熊がかわいそう」派はいない。群馬県だからだろうか。自転速度が亜光速だからかもしれない。

 理想というのはときにエゴなのだろう。
 ライオンの隣でヒツジが眠るような世界は存在しない。
 夢想するのは結構だけれど、畜生は畜生である。
 ときどき人のカタチをしている畜生もいるから油断ならない。
 いやだから僕を指さすのはやめてよ〜。

>>>

 宗教といえば、いくつかの宗教をハシゴしたことは以前も書いたことがある。
 創価学会も、エホバの証人も、モルモン教も、霊波の光も、集会やイベントに参加したことがある。
 何となれば創価学会は会員になっているかもしれない(入信させられたものの退会した覚えがない)が「ご本尊様」と彼らが崇め奉っている布と紙の化合物については部屋のスペースの邪魔になるので、遠い昔に燃えるゴミに出してしまった。ために物証はない。

 弟子は霊波の光の正式な信者であるし、友人にはカトリックのクリスチャンもいる、姉のうち1人はたしかモルモン教の洗礼を受けている。
 日本というのは信仰の自由が認められているのだが、信仰を白い目で見る「反宗教」という信仰が根強い。
 おそらく勧誘行為を行う宗教の、勧誘行為そのものが悪質であったり、あるいは宗教団体の行いが悪質であった経緯を反映したためだろうと想像する。

 集団なので、権威主義的になる部分はあるように観察される。
 キリスト教の系統はさほどでもないが、日本人の性質上なのか、教義や教典の勉強よりも、無駄な会合などを好む傾向があるように観察される集団もある。
 そういう宗教はどういうわけか「青年部」「壮年部」「婦人部」などのような年齢ごと/性別ごとで集団を細分化していることが多く、もしかしたら国内の宗教に特有の傾向かもしれない。
(もっとも生粋の仏教にはそのような仕組みはなさそうに感じられるが、集会などに参加する機会がなかったので正確なところは分からない)

>>>

 そもそもアナーキストでラケンローを自称する僕が、どうしてそんなにたくさんの宗教に首を突っ込んだのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
 理由は単純に宗教が嫌いだから、である(人間型の恋人をたくさん作ったのも同様の理由である)。
 これまでの経験上、観察する範囲において、多くの人は単純に嫌悪感があるというだけでその対象を忌避する。
 好きなものについてはあれこれ理由を挙げて、論拠を固め、自分の中でその嗜好をより固めてあまつさえ吹聴までする一方、嫌いなものに対しては詳細な論拠を作らず「嫌いだから嫌い」という分かりやすい感情論だけで一掃することが多い。
 どこが嫌いなのか、どのように嫌いなのか、という問いに対して「嫌いだから嫌い」という感情論で回答するのは容易だしその効果は強い。
 一方、非常に幼稚な理屈であることも否定できない。

 その理屈の弱さを僕は嫌った。
 明確な論拠のもと「あなたの崇拝している宗教はこういう悪質な部分があり、こういう矛盾を抱えている。私はあなたの信仰の自由を否定する気はないし、崇拝する対象を愚弄するつもりもないが、しかしその宗教を嫌っている。よって勧誘しないでほしい」ときちんと答えたいと思ったのだ。
 嫌悪感があるから遠ざけ、遠いから無知なまま、根拠も理解もなく嫌うということを嫌った。そうしなければ「私の信仰は他のそれとは違う」ということを根拠に勧誘する相手のこと許容せざるを得ない。理屈のない嫌悪は「これは違う」という対象を比較する根拠を持たない。
 相手が勧誘してくる信仰が、私を勧誘してくることに対して理屈をもって否定するためには、相応の観察が必要なのだ。
 自分が宗教を嫌いな理由をきちんと見つけようと思った結果、勧誘される宗教に直接的な危険を感じない限り、されるがままに勧誘されたというわけだ。

 むろん神など(唯一絶対のネコノカミサマを除いては)信じていない。
(ネコノカミサマというのは量子論的な気まぐれと混沌の神様だが、信者が僕しかいないのが現状だ。宗教法人を立ち上げようかな)
 それでも人間が信じるものがどのようなものかは知りたいと思った。広く人間を信じたいと思ったからだろう。

>>>

 会合を好むタイプの宗教は、結果的に集団的である。
 集団的というのは教義や教典 ── つまりは理念が優先されるのではなく、権威や統率者、集団のヒエラルキィや、その集団に属することが優先されるように観察される。
 後者は結果的に人間を崇拝することに繋がってしまう。宗教として、これは決定的な欠陥である。なぜといって人間は完全ではなく、普遍でも不変でもない。

 その意味で、科学や数学というのは信仰の対象として非常に優れている。
 科学は普遍であり、とくに自然科学の法則や数学的真理は遠い昔から永遠に不変のものだろう。

 もちろん僕の知る範囲において、いかなる宗教にも教義があり、あるいは教典があり、勉強会があり、学ぶべきものがあった。
 たとえば創価学会でも、仏教に基づいていると思われる六道についての勉強があったりした。
 一方で会合となると(下らない内容だったのでほとんど記憶にないのだが)営業成績報告会のような、個人的な目標に対して、その報告を全員の前でするというような、宗教の理念からはかけ離れたどうでもいい内容のものばかりだった。
 聞くところでは、弟子の信仰にも同じような会合があるように観察される。とくに僕から述べることは何もないが、無駄だとは思う。集まることで使われる時間や気力を別のことに使えばいいのに、と僕は思う。
 おそらく各種イベントも含めて観察するに、人間というのは意味もなく集まりたいものなのかもしれない。

 先の科学崇拝にしても、何を間違えたのか(他人からの影響によるものと思うが)エセ科学的な風評に流されてしまう人もいる。直近では、コロナウイルスやそのワクチンに関連した論拠に乏しい私見を、あたかも化学的正論のごとくに吹聴する人もいる。
 SNSも、その存在や役割が非常に宗教的だと僕は思う。
 人と集まる機会の少なかった時代には、たとえば地区の役員会や隣組、PTAなどのように、人が人と接するチャンネルのひとつとして宗教もその役割を果たしていたのだと思う。
 無目的に(あるいは目的が明確なサービスもあるが)SNSを通じて、同じような趣味や考えの人と接点を持ちやすくなった結果、既存の会合はその役割が本来的にあまりにも貧弱なために存在意義を問われる結果になっている。

 それでは人々の崇拝している(崇拝と言うのが問題なら依存と言えばいいか)SNSとやらは、教義も理念もないから親しみやすいぶん、野放図的でときに危険でさえあり、人の集まりたいという原始的な欲求を満たしているに過ぎない。

>>>

 ちなみにカトリックのクリスチャンである友人は、自身の信仰についてこちらから問わないかぎり、ほとんど何も語らない。
 もちろん(ほとんどのキリスト教系の宗教に漏れず)教会にゆけば毎週のように集会があるだろうし、クリスマスのイベントや洗礼の儀式などはあるだろうけれど、彼はそうした宗教活動にほとんど参加していないように観察される。
 にもかかわらず彼はきちんと信仰心を持っているようにも思える。つまり理念があるように観察され、感じられるのだ。

 僕が思うに、宗教や信仰というのは、つまるところそういうものなのだ。
 外に求めて形にし、誰かと共有して結束を深める類いのものではなく、己の中で、かくとその存在をあらためるような。


<ウマー!(ねこです)>

>>>

 結論と呼ぶほどの結論はないが、宗教について言うなら、勧誘などせずとも日本で存続している宗教はある。
(カトリックもそうだし、仏教の多くもそうだ)
 だから素晴らしい、と言うつもりはない。
 同様に勧誘する宗教だから浅ましいと一概に言うつもりはないし、無意味な会合を持つ宗教だから下らないと断ずるつもりもない。

 少なくとも、信仰がないよりはあったほうが良いと僕は思っている。
 むしろ信仰を持たないで生きていられる人を見たことがない。
 必ずといっていいほど、何かを信じて人は生きている。
 具体的ではない、実体のない、概念的な何かを信じて生きている。

 無頼気取りの人間も、力には弱いものだ。つまり力というものを崇拝しているといえる。
 また多くの人は経済(正確には通貨)を信仰しているが、その崇拝対象は人間の手で作られている。
 宗教嫌いという信仰がもっともタチが悪く、人間不信の根源となって世の中を荒廃させている。
 信仰している対象の矛盾を考えない人も多い。これは嫌悪する対象の理屈を考えないからだろうとも思える。
 その意味において、嫌いなものも好きなものも、信じる対象も疑う対象も、すべて等しいのだといえる。
 対象が同じだというのではなく、それに対する自身の姿勢や行動が同じなのだ。
 浅い考えで何かを信じる者は、浅い考えで何かを嫌う。

 浅いから、表面しか見ないから、踊らされて、ときに不本意な結果に身を浸す。
 それは信じた対象が悪かったのだろうか。
 それとも自身の信仰心が足りなかったのだろうか。

 僕には単に考えが足りないように思えるのだけれど。
 信仰を持つことと深く考えることは、相反するものではなく、それどころかとても近しいもののように思えるのだ。
 いたずらに宗教を毛嫌いするのは、たとえるなら熊殺しを「かわいい動物を殺している」というファンタジィで語るようなものだ。
 熊が可愛いってディズニー映画の見過ぎかよ。

 潔癖症も妄想癖もヴァーチャル脳も結構だけれど、いい大人なら、知らないものを知らないことについての自覚くらいはあってよいと思う。
 あるいは知っていることを知っていると過信しない謙虚さが。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::風流とは、実は何のことかわからない。ただ、言葉でそう聞いただけだ。しかも、ノギ自身の口から聞いたので、本当のところはわからない。冗談を真顔で言う人だからだ。
 しかし、彼女は根は正直者である。それはよくわかっている。今のところ、人間にとって最も大切なことは、この正直さだと自分は考える。それは、ある特定の相手に対する正直さではなく、もっと広く周囲の皆に、また己に対し、そして、自分の生き方にも及ぶ正直さだ。


 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
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// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
:君は首輪で繋がれて:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231101
// NOTE:姉の家。明日は病院だが、今回は薬を取りに行くだけなので僕だけ行けばいいらしい。
機会があれば書くかもしれないが、僕は、僕しか乗っていない方が長距離の運転を好ましく思える。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味がないと感じる夜に。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::今私の愛する身近な人々も、今わたしの言葉に耳を澄ませてくれている人々も、概ねそうだと思っているんだけれど、私自身も例にもれず死にたい子どもだった。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 僕が肌に「自身の死」を実感したのは10歳のことだ ── 。

 無論、死のことは知っていた。
 それが生命に何をもたらし、あるいは何を奪い、それによって生命体がどのように変わるかということについて。そしてそれが生きとし生けるものに必ず訪れるものだという事実も。

 でも僕は、そこから切り離された場所に棲んでいたので、自分だけは死なないと思っていた。
 死ぬことを知らなかった。
 親が病気でいつ死ぬかもしれないと思い、悲しい気持ちに浸されたこともあったのに、飼い犬や猫を葬る穴を幾度も掘ったのに、それでも自分が死ぬなんて、10歳になるまで気付かなかった。
 そこで絶望して1年ほど、ぼんやり過ごしていたことは以前に書いたことがある。

>>>

 世界は綺麗な場所だった。あるいは今ももしかしたらきっと。

 不思議なこと。
 綺麗なこと。
 いいことが起こるという予感。
 背伸びしたら届くかもしれない素敵な何か。

 悪いもののことなど考える必要も、信じるまでもない「きれい」だけが埋め尽くす宝石のような透明 ── 。

 僕はずっとそれを信じていたから、世界は「好き」で埋め尽くされていた。

 もちろん対立も分裂も暴力も比較も搾取も拘束もあった。
 大人が大人を奴隷にし、大人が子供を奴隷にし、男が女を奴隷にし、子供が子供を奴隷にし、知識が、金が、制度が、社会が、慣習が、欺瞞が、正義が、誰かを喰い物にし続けていた。

 優越感と劣等感に振り回される野獣が、年代も性別も種族も関係なくのし歩いていたけれど。

 それでも僕の棲んでいる世界は、ずっときれいなままだったから。
 だから僕はそれを信じた。信じていられた。
 目に見える不遇は、肌を汚す不幸は、やがて正しい「素敵」で塗り替えられると信じられた。

 その「きれい」で埋め尽くされた世界は「好き」に溢れていた。
 好きでないものなんて存在できなかった。
 その強さを、完璧を、僕は信じていた。

>>>

 足元から侵食した「死」に、だから僕はたいそう恐怖したのものだ。
 自分だけのものだったとしても、あるいはだからこそ誰にも奪うことができず、壊すこともできないはずの「きれい」な世界が、僕の死によって失われてしまうのだから。

 僕のよりどころであり、あるいは僕自身の核として機能しているそれが、僕の死などという簡素な仕組みによって、いとも簡単になくなってしまうのだから。
 それならばいったい僕は何を信じて、何をよりどころにしたら良いのだろうかと、奈落の闇に放り出されたような気持ちになった。

 死にたくない、と、そのときほど思ったことはない。
 それ以降、何度となく「死んでもいいか」くらいに思ったことはあるし、何となればより積極的に自死を考える機会はあったが、死に恐怖し、死を避けたいと本気で思い、生き続けていたいと、死なずにずっと生きていたいとあれほど思った時間はない。

 今や死は僕の13番目の恋人であるからワルツを踊れるくらいには親密な関係だけれど、当時の僕にとっては、絶対的な断絶と終焉をもたらす、何もかもの終わりだった。

>>>

 僕は生きたいと思ったのだ。
 生きていたいと。死にたくないと。

 仮初めだとしても、まやかしだとしても「きれい」に囲まれて、「きれい」を具現しながら、「きれい」を愛して、きれいなままで生き続けていたかったのだ。
 生きている限り、それは可能だと信じていた。

 だから死ぬことは僕本人だけでなく、その「きれい」も、その綺麗に対する羨望も、愛情も、同一感も何もかもを無に帰してしまうのだと思って絶望したのだ。

>>>

 およそ1年ほどして我に返り、自分が死ぬ未来とともに今は生き続けている。

 Webの世界が発祥だったと思うが、

「お前らの『死にたい』は『愛されたい』だ」という名言がある。
 なるほどそういう「死にたい」もあるのか、と思ったのだったか。
 世界に求められず、世界に値踏みされる屈辱に耐えかね、自身の無価値に押しつぶされるように死を希求することもあるのだろう。

 僕の「死にたい」は、自分を殺したいという、憎悪や殺意だ。
 世界や他の誰かに愛されているかどうかに関係なく、自身の価値の有無にも関係しない。
 僕は僕から愛されているし、僕は僕の価値を自分なりに十分に知っている、その上で。

 もちろん今は、その殺意もずいぶん手懐けられた。
 おそらく自我と呼ばれる価値観群が単一であれば、自身に対する殺意を持ったとしても、それほど長くは保たないのだろうと想像する。
 つまり肉体に負けて価値観が消失するか、価値観に負けて肉体が不可逆的に損壊するか。
 僕はどちらも選ばず、のらりくらりと今まで生きてきた。
 今頃になって起こされたことは、つまりある種の救いでもあるのだろう。

 そう考えるとあのとき「死にたくない」と思った衝動は、直感は、それはそれで良いものだったのだろう。
 
>>>

「いつか」は来ない。
「なにか」は現れない。
 救いはない。
 求める限りにおいて、たとえ与え続けたとしてもその見返りとしてなど、救いは存在しない。

 暗闇の中で僕が手に入れたのは、僕の猫目(鳥目の逆で、僅かな光でものが見える)性質を知ることだけだった。

 その素晴らしさを、数ヶ月ごとに視力が衰える今になって知る。
 けれども見えないことの素晴らしさを、怯えるほど光に痛みを感じていた僕はすでに知っている。

 いずれ最後に闇が僕を包む。
 その優しさも、安堵も、殺意や憎悪の結実とは別に訪れる、望まれた未来だと思える。



>>>

 僕は「きれい」を知っている。
 誰に与えられたものでも、誰に認められたものでもない。
 誰が証するものでも、誰が賞賛するものでもない。

 僕だけのもの。
 僕だけが大切にしていたもの。

 暗闇にぼうっと浮かぶロウソクの灯りのように。
 喧噪と眩さの中ではかき消えてしまうだろうそれを。

 僕は信じている。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::君に似合うファンタジーは私が編もう。君は、君と、私だけを信じて。透明なオールであらゆる海を越え虹の波を乗りこなしてしまった、あのまぼろしの船が君。君が居なくなってしまった世界は全部滅んでしまったんだ。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「2022年の8月31日」(著作:戸田 真琴)
によりました。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  死は無慈悲な僕の恋人。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Cat-Ego-Lies]
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//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231026
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
未必の故意。
SUBTITLE:
~ Me hits no coy. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::最高裁大法廷は、25日、「生殖機能がないこと」を求める要件は、性同一性障害の人に対して、「意思に反して生殖機能をなくす手術を受けるか、性別変更をすることを断念するかという過酷な二者択一を迫るものになっている」と指摘し、違憲で無効だとの判断を示しました。
 一方で、「変更する性別の性器に近い見た目をもつこと」を求める要件については判断を示さず、審理を高等裁判所でやり直すよう命じました。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
231025

 戸籍上の性別変更について、ニュースになった事象そのものよりも、一般の反応が興味深かったもの。

 Webニュースにコメントを寄せている人の多くは感情で「この決定は間違っている」と断じている。
 人間の性別は肉体(主として性器)によって判断されるべき、というもの。
 たとえば性別(現行の2種類)に分けられた性差施設(公共のトイレ/浴場など)について、女性用施設を男性器を持った「自称・女性」が使用するのは(他覚的判断要素が存在しないため)不自然であり、ともすれば危険だ、ということだ。

 この意見は非常に共感しやすい。
 男たちのすべてが禽獣のごとき低能だと言うつもりはないが(おそらく)少数ながら、禽獣相当の低能も存在する。
 いや「普段からそうだ」ということではなく、性的飢餓状態のときに禽獣相当(もしくはそれ以下)になる者は少なからずいるということだ。
 そういう個体はともすれば常軌(と法規)を逸脱した行為に走りかねないと恐怖するのは自然であり、そう考えれば、この決定に違和感を覚えて不安視するのも無理からぬことといえる。
 しかしこれは未然の感情論である。

 一方コメントの多くが見落としているのは、裁判所(裁判官)は「法律の条文が憲法の条文と相反する意味を持つかどうか」という判断をしたに過ぎない、ということ。
 申立人が「法律の条文が憲法の条文と異なっており、憲法の条文が法律より優先される現行の規定に基づけば、法律が誤っていることになる」と投げかけたものと想像する。
 裁判所は、それに対してロジカルに ── つまりは日本語を使った論理に基づいてそれぞれを照合した上で ── 憲法の条文を優先して考えた場合、現行法の条文が誤っている、と判断したということだ。

 論理的に(憲法の条文を有意とした場合)は法律の条文が憲法に反していると判断しただけで、性差を判断する倫理を蔑ろにした(しようとしている)わけではない。
 お金を使うことには一切の躊躇がない一方でその適切性については疑問視され続けている、我らがボンクラの立法府が今後どのような法律の条文を作るのかは不明だ。ともすればポリティカル・コレクトネスによって迷走しがちな現代社会の背景を考えると、ますます不安になる気持ちも分かる。

>>>

 しかし思うのだが、多数派はあくまで多数派である。
 これまでどおりの性別観がそうそう覆されるものではなかろうし、また覆されるべきものだとも思えない。

 そもそも性別についてそこまで躍起になるという価値観が、すでに前時代的だと僕は思うのだが、まぁ今はまさに過渡期なのだろうと考えている。
 男女同権というものにしても、ほんの数十年前まで(何となれば数年前、あるいは今も)、結構ぐだぐだだったわけだから。
 もちろん男女というのは物理的/文化的差異もあるのだが、そのあたりの適切な境界条件や分類基準が明文化されずに運用されているのが不自然な状態になってきた、というのがポリティカル・コレクトネスの命題なのだろう。めんどくせえけどよ。

 かくいう僕も性別違和感持ちではあったが、現在は肉体準拠の性別で不満なく過ごしている。
 なぜかというとこの10年ほどベッドの上で「ウフフなこと」をする必要はなかったし、多分今後もないだろうし、普通に振る舞っている中で発露する女性的な部分について、過剰な自意識を持つ必要がない社会が醸成され、その自意識が無駄だと思って切り捨てたからだ。

 かつて社会は性別が不明瞭な者の存在を許さなかった。
 いや今だってそういう文化を持つ集団は少なからず存在するだろう。なぜといって性別は物理的/文化的差異だからだ。
 しかしかつてほど「男なんだから泣くな」とか「女なんだから出しゃばるな」というような論を振りかざす者は多くはない。
 僕のように、どっち付かずの思考形態を持ち、どちらにもよらない文化に育った者は今後も増えるだろう。

 いやいや、そもそも性別による二元論化の前に、一元論的に人間は人間であるはずなのだ(僕は猫だけれど)。

>>>

 もはや現代において、明文化しないまま性差を運用することはできなくなってしまった。
 なぜといって明文化しないからこそ生まれてしまった人種や性別、障害や能力による差別が今も残っているからだ。
「肌の色が黒いから種族として劣っている」とか「男は女より有能だ」とか、それが根拠のない妄執であることを人間はこれまでも証明してきた。

 人間が今後も「人間的な」文化を残そうとするならば、倫理はより明文化され、論理化されることになる。
 論理というのは先に述べたとおり、演算や判断が可能なものであり、その基準は明文化されている必要がある。

 だから僕には自身や他者の性別について、それが肉体であれ、精神であれ、自認であれ他者に対する認識であれ、明文化されて定着するだろうと信じられる。
 もちろんこれまでの文化に従えば、2種類しかなかったはずの性別が4種類や8種類や32種類まで拡張されるとそれこそ「めんどくせえな」となってしまうけれど(おそらくそういう過渡期が発生するだろうが)、それもやがて収束するだろうと思う。
 なぜといって精神性の性的自認などというものは結局のところ妄執だからだ。

 自身の存在に、その性別に、そこまで執着するのはなぜだろう。
 それがアイデンティティだからだと言われれば「はいそうですね」としか答えようがないが、しかしアイデンティティがそれほどまで性別によって影響を受けるほど、性別とは大きな判断基準だろうか。アイデンティティにとって、そこまで重要なものだろうか。性別がなければ、その人は、その人たり得ないのだろうか。



>>>

 そういえばかつて「女は子宮でものを考えることがあるの」と囁いた恋人がいたが、それを言うなら「精巣でしかものを考えられない男」もいる(僕がそうでないと言うつもりはない)。
 しかし冷静に考えれば、それらはすべて状態を指すのであって、存在を指すのではない。
 男が精巣でしかものを考えられないというなら、女もまた子宮でしかものを考えられないといえるし、女が子宮でものを考えることがあるというなら、男も精巣でものを考えることがあるのだ。(違いが分からない?)
 そもそもベッドの上の睦言の延長線上の理屈を、ベッドの外に拡張するのはナンセンスだろう。

 明文化すればするほど、暗がりは照らされる。
 それ自体はきっと良いことだけれど、色気のある睦言さえ無味乾燥した嘘に変わってしまうのはいささか興醒めである。

 人間はリアルとヴァーチャルの、明文化と暗黙の了解の、シリアスとファンタジィの中間で、両極に足を浸して生きている。
 どちらか一方だけに限定するのは確かに潔いことだとは思うが、それは無味乾燥している上、時に危うくはないだろうか。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::申立人の性別変更を認めるかは、今後、高裁で判断されることになったことについては、申立人は「非常に残念」とコメントしているということです。

 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 不明。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
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[Cat-Ego-Lies]
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//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231025
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寝ていればそのうち良くなる。
SUBTITLE:
~ The Flat Sleeper. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231025

 熱中症とその後遺症のため、3ヶ月ほど歯医者に行くことができなかった。
 しかし微熱があることを除けば、だいたい体調が戻ってきていたので、ドライブを兼ねて歯医者に行った。
 そこで「そんなに長期に渡って微熱 ── 37℃には満たないことが多いので、高めの平熱とでも呼ぶのだろうか ── があるのは理解に苦しい」ということで、県庁エリアにある総合病院を紹介してくださる。

 個人的には急性期は過ぎているし、急性期のうちは外出(とくに日中のそれ)はまったくできない状態だったので、どうしようもないと思っていた。ここでいう「どうしようもない」とは、医者としても今更、手の打ちようもないだろう、ということだ。
 しかし歯医者の先生は心配性なのかもしれない。

 確かにたいていの大病(たとえば癌など)は、些細な変化のうちに早期発見できれば完治も容易なものだ。その理屈は分かる。
 ついでに僕は身体が弱い上、3ヶ月寝ていられるくらいヒマである。
 ならばきちんとした病院に行ってきちんと検査くらいしてもらえ、何事もないと分かれば、それはそれで安心だろうということのようだった。
 実に理に適っている。

 まるで僕が(その歯医者を含め)すべての医者に掛かるのを嫌っているかのようではないか。
 まぁ当たらずとも遠からず、ではあるが僕の場合、医者がイヤなのではなくて、病院で過ごす時間が(外来でも)無駄に思えるから行きたくないのだ。あと自分の寿命や生命や存在に、さほどの価値を見出していない。
 しかしこれらは僕の勝手な都合である。僕の生命を僕の勝手な都合でシャットダウンすることはまだ許されていない。
 僕はそれでもまだ、自分の所有するすべての時間を、完全に自由にすることはできないのだ。

>>>

 そのようなわけで病院に行き、指定された先生に会い、血液検査を受けた。
 実に体温は36.9℃なのだが、数値は見事に健康である。
 診察した先生の曰く、
「熱中症で、発熱(しかも3ヶ月にわたる長期間)をし続けるという話は聞いたことがないし因果関係が分からない」
「ために他の免疫反応(自己免疫を含む)や炎症反応を調べたが ── 継続治療中の脂質異常を除けば ── 健康優良で花マルを付けたいくらいの状態」
「何か他の症状(できれば他覚的なもの)が現れたらまた来てください」

 という結果に終わった。

 こちらとしても外気温が下がったので、熱交換に苦労せず済んでいる。
 シャワーを浴びたら38℃になるようなことはなくなったし、ウェイトトレーニングもできるようになってきた。
 消化器系も菌類(麹菌と納豆菌)を摂食するうちに、正常化してきた ── なんと今日は玄米を食べることができた(消化するかは分からないが)。

>>>

 帰宅途中に考えていたのだが、やはりこの身体は、普通というのとは少々違うものらしい。
 もちろん組成はだいたい他の人間と一緒だし、機能や動作原理もだいたい同様のものである。
 でも例えば小麦アレルギーの人がいるように、何だか分からないがその他大勢とまったく同じ機能を発揮できない、という人もいる。
 病気というほど大事でもなければ、広く多くの人に見られるものではない症状と呼ぶほどでもない反応の性質もあるだろう。

 僕自身ようやく分かってきた(そして年々変化し続けるので面倒な)それを、一般的で普通で大多数に当てはまる理屈から適正な状態を導く(医学とはそういうものだと思っている)仕事をしている人が、容易に理解することは困難だろう。
 いわば多くの人の身体は一般論的で、僕の身体は特殊論的なのだ。そしてその特殊論の運用は、僕の身体にしか当てはまらない可能性があり、ために多くの人には無用のもので理解不能なものなのだろう。

 だからどうだ、というものではない。自分の身体の性質が少々特殊だからといっても僕自身はかなり平凡で、普通のイキモノだ。
 寝ていればだいたいのものは治ってしまう(ただし長期を要する)身体なので、ヘヴィ・メタルと同様、まだガンには効かないがそのうち効くようになると思う。



<おいおいマジかよ>






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Life-Link-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231011
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
盲目の船頭。
SUBTITLE:
~ The Blind Captain. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【つとめるということ】

 不労所得生活をして5年ほどが過ぎた。
 表向きは不動産自営業者であり、年に数回、事務処理をする必要がある。
 しかし面倒事のほとんどをアウトソースすることで ── そのぶんピンハネされて(というと言葉が悪いので、正しくは手数料を払って)いるのだが ── ときどき途方に暮れるくらい膨大な時間を僕は手にしている。
 幸か不幸か生計を共にする家族なんてものはいないので、関わりのある僅かな人間達(友人やら姉妹やら仕事にまつわる人たち)との予定がない限り、野生動物のように、空腹になったら食事をし、眠くなったら眠るような暮らしをしている。

 僕にまつわる経済活動のうち、収入については僕が存在しなくても発生し続ける。
 不労所得というのはそもそもそういうものである。
 人によってはそれを羨むだろう。僕は若い頃からそれを望んでいたので、願ったり叶ったり、ではある。

 しかし同時に、人によっては耐え難い苦痛であろうとも思う。
 能力の有無やその発露はもちろん、何らかの活動の対価として発生している収入ではない。
 僕の存在がなくても発生する収入である。
 先に述べたとおり「自分がいなくてもまったく問題ない」という状況を直視するのは、自分の無価値と向き合うことでもある。
 僕でさえ、誰の役にも立っていない重圧に耐えかねて、地元のNPO法人に寄付するくらいである。
 ひとかどの人であることを自負しようと思えば、さらにその無力感や無能感に苛まれるだろう。

 ちなみに親は会社を経営していたが、最終的に事業に失敗してかなりの負債を抱えていたので、僕は生まれついての資産家ではなく、突発的に、宝くじにでも当たるような感じで不労所得者になった。
 学生の頃は学校の集金に自分の小遣いを充てることもあったくらいなので、最初はずいぶん戸惑ったし、今も真面目に考えると落ち着かなくなる部分はある。
 収入が不安定であるとか、安定した保証がないとか、そういうことではない。
 お金がなくなったらシンプルに働けば良いので、そんなことを不安に思っているわけではない。

 また将来や老後というものにも不安はない。
(世間的に僕の肉体年齢は老人ではなかろうけれど)現在が僕にとってはすでに老後という位置づけだし、僕はそもそも自分の幕引きの年齢を設定しており、それまでに済ませておくべきいくつかのタスクがあるくらいで、自害することにも抵抗はないから、ただただ自分が長生きするという不安を持っていない。

 もちろん「死ななくてはいけない」とは思っていないが、同じように「生きなくてはいけない」とも思っていない。
 自分の生死なんてどちらでも良いことだし、どうでも良いことだ。
 何となれば僕以外の生き物についても同じように僕は思っている。

 それはたとえば自分の好きなアーティストの楽曲が、CDに入っているか、MP3でダウンロードしているか、サブスクリプションでストリーミングしているか、という程度の違いだ。大事なのはその楽曲を楽しんでいる時間であり、その楽曲を聴いて自身に喚起される情動だろう。
 慣れてくれば、情動そのものを自分の中に何度でも再生できるようになる。
 楽曲というコンテンツそのものも必要なくなってしまうし、ましてそれがどのような媒体(メディア)で自身の手元にあるかなど、どうでもいいことだ。

>>>

 今の立場になって、同じような不動産オーナと接する機会が時折、ある。
 おそらく大抵の人 ── とくに僕のように業務のほとんどをアウトソーシングしている者 ── は、そのような事実をわざわざ開示しないように思える。
 実際、僕は自身を未だに「無職」と認識している。微々たる勤めはあるし、最低限の務めは果たしているが、努めて勉めているかと問われると自信をなくす。仕事はしているが、世間社会に貢献しているかと問われると自信がない。努力し、研鑽し、更なる高みを目指そうとしているかと問われても、そもそも努力が嫌いなのでどうしようもない。

 しかし一方で、自身が不労所得型の不動産オーナであることにふんぞり返っている人も(すべてそうだとは思わないが)ちらほらいるのである。
 彼ら(基本的に男性に多い)の一番くだらない自慢話が、どこかの会社や金融機関との関係性自慢、である。
 たとえば「○○の会社と付き合いがあって、あれこれ世話をしている」とか「○○銀行の頭取と付き合いがある」とか「○○信用金庫の総代をしている」とか、まぁ、そういうことを世間話の端々に織り込むことで自身がいかに世間に貢献しているかをアピールする、という次第。

 端から見ていて痛々しいし、見ているこっちが恥ずかしくなるのだが、彼らは得々とそれを語る。
 なんとなれば感心して欲しそうなので「ふうん」くらい相槌は打つようにしている。が、一番大事なことは近づかないことである。

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【管理職が忙しいのは無能の証】

 しかし彼らの姿を眺めていて気がついたことがある。
 会社員をしていた頃も、実際に同じような連中がいたのである。
 だいたいどの会社にも(その組織規模が大きければ大きいほど)いた。
 僕はどちらかというと現場主義であり、そもそも出世欲もなければ出世するだけの能力も持ち合わせていなかったので、そうした大きな会社で管理職になる機会を持たなかった(小さな会社でなら、あったが)。

「自分は忙しいし仕事をしているし会社に貢献している」というジェスチュアに一生懸命な管理職は、会社の規模が大きくなるほどよく見かけた。
 なるほどビジネスプレイヤ上がりの管理職であればあるほどマネージャとしての仕事が分からなかったのかも知れない。
 僕に限っていえば、管理職としてはいつも暇そうにすることを身上にしていた。
 もちろん小さな会社であれば純粋な管理職などになれるはずもなく、現場でプレイヤとして従事しつつ、後輩なりパートさんなりをマネジメントする必要が出る。
 そのとき管理職が忙しそうにしていると、声を掛けるきっかけがつかめなかったり、そもそも忙しいあまり捕まらないということがある。

 大きな会社に勤務していたときに所属したグループがそういう感じで、グループリーダが忙しいあまり捕まらない。
 ちょっと席に戻ったかと思えば、他の誰かに捕まってしまって僕が声を掛けるタイミングがない。
 それが何時間も何日も繰り返される。
 どうにもならず途方に暮れたので仕事を放棄して遊んでいた(正確には仕事に使うCADのマクロシステムを独学で一から完全自作した)ら仕事を干された経験がある。
 そのとき「管理職は暇じゃないとダメだな」と思ったのだ。

 なので自身が管理職になったときは出社してから1時間は暇そうにする習慣を身に付けた。
 上司が仕事を割り振ってくることもあるし、パートさんや後輩が相談を持ちかけたり指示を仰いでくることもある。
 もちろん来客や訪問など、他者とやり取りをするコアな時間はあるが、事務処理や移動や雑務ならある程度融通が利く。
 当時の勤務先は休日出勤や残業という概念がなかった(当然、残業代や休日出勤手当、代休制度というものもなかった)ので、僕は好きなだけ会社に出社して、好きなだけ仕事をして、好きなときに仕事を終えることができ、仕事に余裕があるなら休むこともできた(いずれも給与に影響しない)。
 特殊な環境だったと思うが、それだけの裁量を与えられていたのは本当に恵まれていたと思う。

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【完成されたシステムは手を加える必要がない】

 僕のつまらない自慢話はここまでにして、マネジメントができない管理専門職が忙しいフリをすることについて、である。
 彼らは詰まるところ、自分が暇であることに価値を見出せない。
 本当はプレイヤたる現場従事者の仕事がしやすい環境構築や、そのトラブルの保全などをするのが仕事であり、管理職が暇なのはいいことだと(僕は)思うのだ。
 実際、僕が管理職をしていた頃の小さな会社は、予定のないときは社長が朝から倉庫で趣味の遊び(当時は骨董品の時計修理に夢中になっていた)をしていた。
 しかしひとたび相談に行けば、必ず的確なアドバイスを貰えるし、必要とあれば先陣を切って即座に対処してくれた。
 困ったときに捕まえやすいし、暇かどうかも一目瞭然だから、こんなに有り難いことはないのだ。
 システムが良好に運営されているならトップに近づくほど、そうなるべきであり、そのくらいでいいと思う。

 仕事がなく暇であることに罪悪感を感じるなら、現場従事者がどうすればより働きやすくなるかを考えればいい。
 それは別に机に向かってウンウン唸ったり、忙しいはずの部下を捕まえてくだらない会議やヒアリングをする必要はないはずだ。
 しかしそういう管理職を見たことがないのか、そもそもそういう発想がないのか、仕事をしているフリをする管理職は後を絶たない。

 先の「おかしな自慢をする不労所得型不動産オーナ」も同様だ。
 自分が何もしていないことを認められない。誰の役にも立っていないことが素晴らしいとは思えない。
 何かしていると思いたいし、思われたい。誰かの役に立っていたいし、立っていると思わせたい。
 もちろんその根源にある気持ちが間違っているとは思わない。誰かの役に立つのは、きっと素晴らしいことだ。
 では転じて「何をしているのか」ということだ。

 無駄な会議やヒアリングを重ねて愚にもつかない目標を掲げ、達成できない部下に詰め寄るだけの上司なら必要ない。
 世間や特定の集団/組織に寄与するのは結構なことだけれど、それってわざわざ関係ない人間に自慢するようなことだろうか。
 そうやって懸命に「自分は何かしています」というアピールをしなくてはならない時点で、相当に自信がなく、無能なのだろうとつい邪推してしまう。
 自信がなくて無能な人間は往々にしてビジョンもない。
 思い描いている未来がない者に運営を任せたところで、状況が悪くなることこそあっても、良くなることはない。
 現状維持がせいぜいで、さらに繁栄をするということはあり得ない。

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 僕自身は広く世間の役には立っていない(昔と違い、ちゃんと税金を払うようになっただけマシなくらいだ)。
 狭い範囲では、姉妹やら友人の慰み程度の役には立っていると思うが、せいぜいがそのくらいだ。
 しかし誰かの役に立つということは、同時に、誰かとの関わりが強く深くなる、ということでもある。
 自分がいなくてもシステムが正しく運営され続ける、という状態は少々寂しいことかもしれないが、自分がいなければシステムが働かない、という状態よりはよほども健全なのだ。
 もちろん必要とされることに依存してしまう気持ちも分かるけれど、それは決して健全とはいえない。
(これを僕は恋人にも適用してしまうため、問題が発生することがある)

 実は先だって体調不良になった際、姉の通院介助をすることができなかった。
 数日前に連絡をしたものの、平日の早朝から一日潰れることなので、代役もすぐには見つからず難儀した。
 最終的に姪(当の姉の娘であるが、片目の視力がひどく低下しているため長時間の運転に向かない)が代役を務めてくれたが、つまり僕はこういう状態を健全だとは思えないし、僕がいなくてはダメだ、という状態に自分の価値を見出せない。むしろそれはシステム(姉を中心とした、介護を行うシステム)の弱点だと思える。

 同様に会社なら、いつ誰が休んでもまったく支障がなく、どんなトラブルがあっても出力にたいした影響がない、というのが理想である。
 現場従事者だろうと管理職だろうと経営者だろうと、誰が、いつ遊んでいても問題なく稼働しているというシステムが最善ではないか。

 そういう意味で、僕は自分の収入の経済活動が完全自動化されていることを理想的な状態だと思っている。
 もちろん誰の役にも立っていないという引け目はあるし、庶民臭い出自のため、労せずして益を享受していることに後ろめたさを感じてしまう。
(これらを緩衝するため「仮想奥様」という存在が運用されている)



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 ところでこの国の管理者は、ずいぶん忙しそうにしているようにお見受けする。
 あれは本当に忙しいのだろうか。
 それともまともな管理職というものを知らないから、仕事をしているフリに躍起になっているのだろうか。

 誰もいなくても、たいした手を加えなくても、機能し続けるのが優れた組織だと僕は思うのだ。
 だから管理者は「今日はね、金木犀が、花を付けましたね」なんて言っているくらいが良いのではないだろうか。
 それとも国民がみな愚かで、管理者が暇そうにしていることを許さないのだろうか。
 一国の宰相たる者、のんびりぼんやりして、愛人と旅行に出かけているくらいが平和な証だと思うのだけれど。
 まぁでもこの国は不倫とかにも五月蝿いから仕方ないのか。

 いずれにせよ自信も能力もビジョンもない人間が管理者の立場になることは避けて欲しいのだが、どうもその方が都合よいという人間が、どこかにいるのではないかと、そんな風に勘ぐってしまう。







 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
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