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「世界観」という誤用の一人歩き。
Written by BlueCat

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※世界観という言葉の使い方について、一般の用法を否定しているような記述をしており、そうした用法をしている人を不快にする可能性について配慮し、一時非公開にしてありました。
ブックマークもしくは検索によって訪問される方がいるようなので、原文のまま、再度公開します。
 
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 他にあまり用例を見ないので個別にあげつらうような形になってしまうが「世界観」という日本語の使われ方に少々違和感を覚える(違和観ではないがそう書いても問題はなさそうだ)。
 用例としては「世界観が素晴らしい」「世界観がリアル」「世界観の作り込みが緻密」などである。
 これらはすべて「世界設定」という単語で置き換えることが可能で、意味もそのまま「世界設定」のことを指しているように観察される。

 僕が触れるのはゲームというインタフェイスを通してのことが多いが、他にも映画やアニメなどのフィクション作品 ── とくにSFやファンタジィなどにおいて、現行の現実社会からの乖離が大きい世界設定になるほど当然に、その緻密さや整合性に意識が向けられるのは不思議ではない。

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 そもそも「○○観」という日本語がどのような意味を持つかというと、たとえば「価値観」や「宗教観」「概観」といったように、主観を持つ存在(まぁだいたい「自分」と呼ばれるものたち)が何らかの対象を観察して感じたこと、あるいは観察することそのものを指す。
「世界観」という単語を辞書で引いてみても「世界に対する見方・見解」といった説明がされているだけで、フィクションの世界設定に該当する、あるいはそのように解釈が可能な記述はない。

「○○観」という単語は『「○○」に対する主観的(あるいは社会的)感覚』のことなのだ。
 よって「世界観」という単語が示すのは、(仮にフィクションであっても)世界に対する「主観的な」感覚や見解であり、それは統一的なものではなく個々人にそれぞれのものだと思う。
 ゆえに「リアルである」とか「緻密である」という表現がおかしくなってしまう。

 たとえば誰かの経済観や宗教観といった価値観に対して「リアルだ」とか「緻密だ」とか「作り込まれている」といった表現をするだろうか。
 価値観というのは現実にその人の主観として存在するものなのだから、そもそもリアルなものであり、同時に実態を持たないという点でヴァーチャルである。
 また主観的な見方や見解なのだから、緻密さというスケール感を客観的に当てはめることはできないように思えるし、価値観なんて(僕のように少々変わった趣味の持ち主でもない限り)作り込むようなものではない。

「作り込まれた価値観」なんてものが存在するなら、それは建前というものに感じられるし「では本心はどうなの?」ということになってしまう。
(ちなみに僕はたくさんの「建前」を持っているので、どれも本心といえば本心だし、嘘といえば嘘ではある)

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 にもかかわらずこのような誤用が蔓延してしまったのは、おそらくクリエイタ側が「世界観」という単語を使っていた(使った)経緯があるのだろう。
 たとえばフィクション作品においてクリエイタが「これこれこういった世界観を持っている」「このような世界観の構築(作り込み)を図った」「世界観の投影を行う」という単語をインタビュなどで使ったのではないだろうか。
 この時点では単語の用法に誤りはない。

 クリエイタは自身の作る作品の世界設定を、まさにそのフィクション世界を「見て感じた」とおりに設定してゆくからだ。
 もちろん上記の用例で「世界設定を持っている」「世界設定の構築を図った」「世界設定に投影を行う」と表現してもおそらく違和感はないだろう。
 しかしクリエイタ本人にとってみれば、その設定は自身の内にあるヴァーチャルとして、確かに観て感じていることそのものである。
 ためにそれは「世界設定」であり、同時にその作品世界に対する作者なりの「世界観」でもある。

 あるいは批評家気取りが得々と「作者の世界観は……」などと語ったのかもしれないが、第三者が好き勝手に他人の価値観を語ることは白々しい。
 仮に本業の評論家だったとしても ── 僕はフィクション作品の批評家/評論家という職業を寄生虫程度には嫌っている ── その客観性を欠いたことにも気付かない認識は、評論と呼ぶには少々歪んでいるようにも思える。

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 果たしてその作品を傍観する我々が見ているのは、その作品を作る際にクリエイタの中に存在した「世界観」かといえばそんなことはないだろう。
 作品を見る者が知るのは、作品を見て感じられる世界設定の片鱗に過ぎない。
 別に作者が崇高で作品を見る者は凡俗であるとか、そういうことが言いたいのではない。
 主観を指す言葉を、客体として使うことの気持ち悪さなのだ。

 先に述べたとおり、世界観というのは、あくまで主観的なものである。
 べったりそれと分かる作者の世界観にまみれた作品など、素人臭くて嫌われるような気がする。

 にもかかわらず新しい映画が、アニメが、漫画が、ゲームがリリースされると決まって誰かが「美しい世界観」「素晴らしい世界観」と褒めそやし、あるいは「世界観がイマイチ」などとあげつらう。
 べつにそうした感想(作品観)を持つのは構わないのだが、やはりそれは「世界設定」ではないだろうか。

 
 個人だけでなく、マスメディアでも当たり前に誤用している。
 もはや辞書の内容を書き換えた方が早いような気までする。そうなれば僕も諦めがつく。

 まぁとにかくそんなわけで、違和感というか、違和観というか、そういうのをですね。感じるわけです、はい。
 あるいはもしかしたら「分かって使っているんだよ」という人もいるのかもしれませんけれど。
 でも言葉は正しく使っていただきたいな、なんて思うわけです。はい。
 まぁ僕も適当に、ふんわりした感じで、ろくに辞書も引かずに知ったような顔で日本語を使ってしまうので気を付けなくてはいけないと常々感じているわけですが。
 

 
 
 
 
 
 
 

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