// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:230825
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
これまでのあらすじ。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
230822

 夜になって買い物に出掛け、湯葉と豆腐を購入。
 帰宅してから一念発起し、外食しようと家を出るが100mほど歩いた地点で肌に違和感を感じて踵を返す。
 温度もさることながら、湿度が高いと排熱は悪化するわけで、そのためかもしれない。
 もはや外出を恐れるレベル。
 純血種の引きこもりでも誕生したか。

 帰宅して湯葉と豆腐を食べる。

>>>
230823

 もしかして平熱が引き上げられたのだろうか、と思うくらい36.8℃。

 僕のことを都合の良い、浮気相手か何かと勘違いしているフシのあるBP(高校からの友人)からメール。
「都合の良い」扱い、というのはつまり、午前9時にメールをしてきて「今日一緒に昼食を食べに行こう」と誘ってくるからだ。
 肉体関係に持ち込まれないだけありがたいと考えた方がいいのだろうか。
 ちなみに粗大ごみの処理などに(軽トラ共々)駆り出される場合キャビンの取り外しがあるため、数日前には連絡をもらえるようになったので多少の進歩はある。
 が、食べることになると彼は猛獣のようにIQが下がる傾向にあるので仕方ない。
 肉体関係に持ち込まれないのは救いだろう。

 いずれにしても僕は午前10時に寝始めることもあるし、朝食(朝に食べているというだけで、寝る前の最後の食事のこともある)を6時に摂ることもある。
 たまたま起きていて、昨日は湯葉と豆腐しか食べていないため、同行することにする。

 話を聞くと、鰻を食べに行きたいのだという。
 僕の体調について話を聞かせると、きちんと心配してくれるので「ああ、悪い奴ではないのだな」と実感する。

 体温上昇と肌の異常と胃腸の不調に怯えながら、きちんと服を着て出掛ける。
 服を着るだけでかなり蓄熱するので不安だったが、問題なし。
 食事もそれだけで発熱するが、お冷やで手首を冷やして体温を下げる。
 自身の体調の変化に怯えながらも、ゆっくりと食事をする。
 BPは男らしくガツガツ食べるのだが、僕は健康なときでもかなりゆっくりだ。

 重量のある食事だったが満足である。
 決して安くはないのに、BPがご馳走してくれるというので有り難く甘えておく。
 こうしておけば体調が良くなって不意にお酒に誘いたくなったときに都合が良い。
 もっとも彼は大手運送業に勤務しているので、翌日が休日でないと誘えないが。

 昼食が重かったので、夜まで空腹を感じず。

>>>
230824

 EMS器具のおかげで、ずいぶん筋力が戻ってきた。
 身体を動かすと低迷している気力が戻ってくるので、筋力は大切なリソースである。
 ともすれば嫌悪感なく眠り続けたりしてしまうし、筋力が落ちると気力も落ちるのだ。
 最近はそのメカニズムが理解できているので「なんくるないさー」くらいの気持ちで俯瞰している。
 僕は自分のことを他人事として認識することについて、ちょっとしたベテランなのだ。

 オニオンスープなどに使う冷凍野菜を買いに業務スーパに出掛け、近所のスーパで豆腐を買う。

 そわそわしながら0時を待って「Armored Core VI」のプレイを始める。
 もう俺はしばらく家を出ないぞ。
 EMSで筋トレしながらゲームをし続けてやる。

 ゲームの休憩時間に豆腐を食べる。
 豆腐ってどうしてこんなに美味しいんだろう。

>>>
230825

「嫌悪感なく眠り続ける」とは書いたが、僕は(ことに夏の間)眠りに就いてから4時間前後で目覚めることが多い。
 そのためわざわざ12〜14時頃に入眠時間を設定することもある。

 ちなみに今日は10時に眠って15時に目覚めた。
 早朝のうちに燃えるゴミを出したのだが、食事も工作もしていないから本当にゴミが少なくて困る。
 それでも夏場は放置するわけにはいかないので、適当に大きなゴミを探してステーションに出す。

 目覚めて気付いたのだが、肌の傷跡が急に消えつつある。
 おそらく筋肉が増えたため、回復が早まったのだろうとは思う。
 なるほど食事をしたがらないのには理由がありそうだ。

 筋肉を付けるためのタンパク質が、豆腐と数十gの水溶性アミノ酸だけで大丈夫なのか心配になるが、空腹を感じないというのは十分だと判断して良さそうだ。

 少し気になったのだが抗生物質を飲まないと、喉や鼻が不調である。
 呼吸器系にとくに作用する種類なのでありがたいのだが、長期服用は耐性菌の発現に繋がったりするので避けたいのではある。
 よくよく考えると、ずっとクーラを使っている(身体を冷やす必要があるので当たり前だが)。
 シーズン前にフィルタだけでなく本体フレームを分解して掃除したのだが、素人ではロータリィファンの清掃に限界があり、それが結構汚れている。毛が生えているのではないかと疑うほどだ。

 清掃業者を呼ぼうか考えたものの、すでに暑くなり始めていたので断念した。
 それに本体ラベルを確認すると8年ほど稼働していた様子だ。
 寝室との仕切りがなくなったため、冷却を要する空間が広くなっていることもある。
 そもそも前の住人はエアコンを使ったことがなかったため、防滴運転を強制停止し、フィルタの掃除もろくにせず、僕が棲み始めた当初はひどい状態だったのだ。
 別に責めるつもりも非難するつもりもないが、道具のメインテナンスを考えない人というのが一定数いることを僕は数年前になってようやく理解できるようになってきた。

 で、その機械から出てくる風に当たり続けているというわけで、これは体調が悪くなるのも必然かと思い至る。
 奥様(仮想)にあらせられましては、こうした(僕の健康状態の維持管理の向上に繋がる)事案について、躊躇なく断行なされる傾向にあるため、夏が終わる頃、エアコンを買い替えようと考えている。
 奥様(仮想)は「すぐでもです猫様!」というのだが、暑い間は出掛けたくないので。

>>>

 夜になってTU(中学からの友人です)がやって来る。
 何やら家族でお出かけするのだが、折しも仔猫を追加で飼い始めたばかりなのだという。
 彼は奥様が自営だし障害を持つ子がいるので、なかなか旅行にも出られずにいるのだが、たまに出られるとなったときに心配事があるのも大変だということで預かることになった。
 猫の扱いなら任せておけ。

>>>

 皮膚の感覚はずいぶん落ち着いてきた。
 熱は下がらないし、運動すると熱は上がるが、もうしばらくの辛抱だろう。
 食欲がまったく発生しないことについては、これで問題ないと結論した。

 TUの家の猫が僕の足を噛む。
 アヲが出て行って久しいので、部屋に猫がいる状況に、少しそわそわする。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Darkness-Diary-Maintenance-Mechanics-Season-
 
[Module]
  -Reactor-
 
[Object]
  -Cat-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 

230822

 熱は相変わらず。

 一般に「食欲がない」というと、気力や元気がなくなっていたり、体調が優れない様子のことが多いと認識されている傾向がある。
 僕の場合はそもそも食欲がないことが普通の状態なので、ときどき空腹を感じたり、強く何かを食べることを欲するときにはじめて「食欲がある」と認識することになる。

 どうしてこんな話をしているかというと、昨日から36時間以上、飲み物だけで過ごしている。
「今日こそは固形物を食べよう!(何となれば外食に出掛けよう!)」と思っていたはずなのだが、そもそも食欲が存在しないデフォルトの状態に戻ってしまったため、何かを食べる気持ちにも、作る気にも、まして出掛ける気にもならない。

 椅子に座って Fallout4 をプレイし、気分転換に部屋や廊下の掃除をするだけの日常なので、消費カロリィは驚くほど少ないはずだが、基礎代謝分はどうなるのだろう。

 普段なら24時間以上の絶食状態は意識して避けているのだが、今回は体調が体調なだけに悩んでいる。
 食べるべきなのか、身体の状態に従って食べずに過ごすべきなのか。

>>>

 僕は存外、この身体を信頼して、また気に入ってもいる。
 一般から比すると(外見に反して)非常に弱いのだが、それは一般に合わせようとするからだということも30代になって分かった。

 一般的に人は空腹を感じる。
 僕の場合、時間やタイミングや肉体の状態を観察して「空腹だろう」と判断する。

 一般的に人は1日3食の食事をすることが望ましいと思っている。
 思うのは自由だが、僕の場合1日3食は身体の負担が大きいので、原則1〜2食である。もちろん増えることもあるし減ることもある。

 一般的に人は病中病後に栄養を摂り、また摂らせたがる。
 僕の場合、病中は栄養を最小限に留め、病後は徐々に回復食を摂るほうが負担が少ない。

 胃腸ヨワヨワかよ!
 と思うのだが、じつにそうなのだった。

>>>

 そもそも人並みかそれ以上にたくさん食べられるようになったのは20代半ばくらいから30代半ばまでの10年間ほど。
 子供の頃は週に一度の排便で、特に便秘だという感覚もないほどの小食だった。

 身体(特に皮膚粘膜系)に不調を感じなかったのは27〜32歳までの5年ほど。
 あとの期間はだいたい調子が悪い。
 風邪を引きやすいし、身体に合わない食べ物を食べるとすぐにどこかから出てくる。ひどい話だ。

 身体のベストコンディションがおよそ終わったことは30代半ばで感じていたので、自身の体調の変化に驚きはしない。
 これを肉体的な劣化や衰退と捉えるか、順当な変化と思うかはそれぞれだ。
 僕にとっては自分の望んだ死が近づいているだけだから特に不満はない。
 気持ちはいつでも70歳。もう十分生きたよ俺。

>>>

 話題を戻して今日の食欲である。
 牛乳、カルピス、ビタミン剤、アミノ酸(プロテインを持っていないので)は摂取した。
 最低限のカロリィや栄養は賄えていると思うし、過剰な熱量を摂取しないのも理に適ってはいると思う。
 水分も(18時間経過段階で)すでに2L以上飲んでいる。
 なぜか水が美味しい。アスコルビン酸カリウムを混ぜているから余計か。

 寝起きに栄養失調時特有の筋肉の痺れはないから、体組織を分解し(転換し)ている気配もない。

 ただこの状態を信じて放っておいていいのかどうかが分からない。
 もちろん回復すると勝手に食欲が湧くはずなのだが、48時間を超えるとさすがに不安になる。

 ずっと昔、ちょっと神経的に病んでしまって半年くらい眠り続けていたことがあるのだが、そのときはだいたい3日ほどで多少は空腹が発生していたように思う(その頃のことはほとんど記憶にない)。

 あれか、太陽か。太陽を浴びてセロトニンを作ればいいのか。
 でも熱も引いていないから、体温が上がるのは怖いんだよなぁ……。

 無理して美味しいものを食べるのは好きではないし。
 少し悩んでしまう。
 この身体は、いったいどうしたいのだろう。

 まあ精神的に落ち込んだりはしていないから問題はないのだが。
 そろそろ人間と会話をしないと日本語を忘れるし、対人恐怖症になってしまうからなぁ。

 このひと月でまともに会話をしたのは姉の通院介助をした2日間だけなので。
 あのね。
 会話って、話題選定やリアクションも含めて、技術なんよ。
 怠ると、技術が明確に低下するから、それは避けたいわけで。

 まぁ明日考えよう。

230821

 熱中症から6週目に到達。
 未だに体温が下がらない。

 ヨーグルトと粥をやめて2週間になるか。
 消化はできていると思うのだが、吸収に問題があったようだ。
 排泄物や胃腸の具合から察するにそのように判断して摂食をやめた。
 今考えれば、摂取カロリィがそれでも高いため身体が拒否していたのだろうと想像する。
 あと調子が良くなってきたと思って粥に身欠きニシンを入れたのも良くなかったか。
 魚はどれも好きなのに30分ほどで蕁麻疹が発生して難儀し、翌日から粥をやめた次第。
 それから2,3日は飲み物だけで過ごしていたが、普段から食欲がほとんど発生しない身体なのでこのあたりは特に苦痛もない。

>>>

 豆腐だけという食事もさすがに飽きた。
 今はオニオンスープなどを食していて、特に不調はない。
 量的には1日に鍋1杯分、およそ2L程度か。
 あとは水溶性複合必須アミノ酸とビタミン剤。
 ほとんど身体を動かしていないので、消費カロリィは十分にまかなえる。

 発汗機能は回復していてそれなりに汗は出るのだが、少し身体を動かしたり外部から熱を受けると(台所で調理をしていたりするだけで)体温が37℃を超えてしまう。
 いまいち何が悪いのか分からない。

 体感で調子が悪いわけではないのだが、経験上、これで無理をすると(先の身欠きニシン入り粥のように)唐突に体調を崩すのだ。
 ひと月以上寝たきりのような生活なので、インプラント手術の頃に買ったEMSトレーニング器具を使って筋肉機能を回復させている。

 数日前に、不意に煙草を吸いたくなったので久しぶりに2本ほど着ける。
 1日3本程度も吸うと満足してしまうのだが、完治するまでは多少控えておいてもいいだろう。このあたりは身体に任せておいてよさそう。
 家で飲酒をしなくなって久しい。おそらく数ヶ月になるだろう。

 といってこの体調では外食もできない。
 いや、具合はいいのだけれど、不意の体調不良に対応できないから怯えている。

 食材の消費も極端に減ったので買い物に行く回数も減り、ごみも出ないから収集日に出すかどうか迷うほどだ。

 食材も買わず、園芸資材も建築資材も工具も買わず、外食もせず、家でゲームをして暇を潰している。
 そう。庭にも出られないから暇である。
 結果として、まったくといっていいほどお金を使っていない。
 お金を貯めるには絶好のライフスタイルだが、退屈であるし面白くもない。
 ゲームが嫌いなわけではないが、それしかできないとなると話は違う。

>>>

 お金といえばガソリンが高騰しているようで、久しぶりに給油に出掛けて驚いた。
 仕方ないのでレギュラではなくハイオクを入れることにした。
 地方によって差があるかは分からないが、僕の棲んでいる地域ではだいたい価格差が11円(昔は10円だったが、おそらく消費税加算分だろう)である。

 これは価格が低いうちは大きな差になるのだが、価格が上がれば比率で安いことになる。
 一説にはレギュラよりハイオクの方が燃費が(価格分以上)良くなるケースもあると聞いていたので試してみようと思ったのだ。

 入れてみて驚いたのだが、ノッキングしそうな回転数がほとんどなくなった。
(MTなので回転数とギアは意識することになる)
 加減速で余計なアクセルワークが必要なくなるので、なるほど燃費が良くなるのかもしれない。

 だからといって近所の買い物への行き帰りに遠回りで隣市くらいまでドライブするかというとそれほどでもない。
 出掛けたところで煙草も吸えない(吸いたくない)のだから仕方ない。
 洗車したいのにそれもできない状況だから仕方ないか。

>>>

 健康なときは煙草を吸うため(だけ)にドライブで出掛けることがある。
 喫煙可能で、人気がなくて、景色のいい場所というのも辺境ならいくらでもある。
 そこで1本くらい煙草を吸って、それで帰ってくる。
 ドライブとしてはまあまあきちんとしたドライブだろう。

 少々残念なのは車内が狭くて運転しながら喫煙できないことか。

>>>

 考えると一昨年あたりの熱中症でも、結局秋になるまで満足に人間らしい生活ができなかった。
(健康なときは「人間らしい生活」とやらをしているのかと問われると困るが)

 ゲームをする時間を捻出するためにスープ(ポトフ、煮物)を作るというのは僕の中では常套手段だが、スープしか食べられないためにゲームをして過ごすよりないという状況は(肉体的に楽になるぶん)苦痛である。

 そろそろ固形物を食べたい。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230812
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
久しぶりの庭仕事。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

230808
 熱中症から3週目。
 全身の皮膚がバサバサのガサガサに荒れる。
 関連してか固形物が消化不能になる。

 水疱になったり書き壊れて擦過傷のようになった皮膚が再生プロセスに入ったのだろう。
 胸骨から上の部位は皮膚に異常はないが、それより下は背中側も荒れている。
 範囲が広いために負荷も高いのだろう。

 体温は37℃に近い状態を推移。

 皮膚の負担は粘膜の負担を増すようだ。どちらも外界との境界だから当たり前か。
 かれこれ3日ほど胃腸機能が低下している。
 ヨーグルトや豆腐は食べられるので問題はないが、粥は消化に難儀している様子。炭水化物ニガテなんだね。
 とはいえヨーグルトも食べ過ぎると腸が不調になるから、やっぱり豆腐か。
 大豆はヒスタミンを生成しやすいらしいのだが、この身体は大豆で育てられたようなものだから、どんなときでも豆腐だけはだいたい食べられる。

 ビタミン系のサプリメントなどはよく吸収している様子だ。
 こういうとき、普段からさほど食欲がないのは楽である。

>>>

 再生しているのだろうと思うのは、身体がひどく怠いためだ。
 食事が終わると、たいていひどく(精製炭水化物を摂ったように)眠くなる。
 結果、1日に16時間ほど眠っている。
 心地よい目覚めとは言いがたいが、栄養失調に特有の痛みや怠さはない。
 運動不足になっている ── よほど室温を下げておけば筋トレもできるのだろうけれど ── ので、一部の関節や筋肉が痛むがこれは仕方ないだろう。

 それでも姉の通院は予定どおりなので、姉の家に眠る。

>>>

230812

 久しぶりに庭仕事。
 フルフェイスの防塵マスクとアームカバー、長袖のジャンプスーツを着込んで、草刈り機を使っての草刈り。
 8時にスタートして10時半まで作業。

 およそ3週間、寝たきりだったため筋力は著しく低下しており、途中から草刈り機の重みで腕と腰が痛む。

 作業をしようと思ったのは、27℃程度の室温で、布団を掛けて眠れるようになったため。
 今までは布団を掛けることが(身体が過剰に蓄熱するため)できなかった。

 作業後、すぐにシャワーを浴びるが、シャワーヘッドを持ち上げるのが苦痛。

>>>

 発汗機能に異常はない。
 表皮の拒否反応もなくなった。
 表皮はまだ荒れ気味ではあるが、状態も、触覚もずいぶん回復してきた(蕁麻疹が出ている最中は、触覚が、コートされているような、妙な違和感がある)。
 体温はまだ37℃に近いので、粘膜系は回復していない模様(なので粘膜保護の重装備で作業した)。

 そういえば、3週目前後から白髪が急に増えた。
 これは単なる推測だが熱中症の際、毛細血管や外分泌系の微細孔が(一部にせよ不調を来すくらいには)閉塞もしくは梗塞を起こすのかもしれない。
 すると体温を下げて水分を摂取しても汗が出ず、尿の頻度が上がることも説明できる。
 また表皮付近に老廃物が大量に発生する(にもかかわらず内分泌系に循環させられない)ため、蕁麻疹になる理由も想像できる。
 表皮が熱を発散できず、かなりの長期に渡って比較的低温の環境におかなくてはならないのも納得がゆく。
(実際、眠るときも26℃前後の室温で布団を掛けることができなかったし、可能な限り薄着をしていないと身体が蓄熱してしまう状態だった)

 ところで体重が約70kgなので、5%は3.5Lである。
 熱中症と重なれば重症になることに少々驚く。
 庭仕事の後にTシャツを絞るだけで500ml程度は水分が確認できる。
 全身分と蒸散分で、庭仕事のたび2L近くの水分を失っているだろう。
 もっとも体温に近い気温になると、昨今の僕は(奥様の勧告に従い)作業を中断してしまうから問題なかったのだろう。

>>>

 庭で育てていた枝豆が数株、収穫のタイミングを逃して朽ちてしまった。
 枝豆というのはどうやら、食用に適した成熟レベルまで育つと、枯れて種を残す行程に入るようだ。
 それでも収穫適期の株が3つほどあるので、キュウリ(5本くらい)、オクラ(1本)と併せて収穫。

 キュウリは雨のおかげでえぐ味が和らぎ、身も大きくなりやすくなったようだ。4本ほど過大になったものは堆肥場へ。
 オクラは採ってその場で食べてしまった。採りたてのオクラは美味しいのだ。
 キュウリを昼食に、夜は枝豆をオーブンで焼いて食べた。

 固形物の消化に難儀するはずなのだが、野菜に関しては生食だろうと胃も腸も苦にせず機能する。
(玄米も野菜だとオモウンダケドナー)

 茶碗を持ち上げるにも、腕が痛くて重い。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Darkness-Diary-Interface-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Garden-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230803
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
こんな身体でよく生きてきたな。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 微熱が続いている。
 一昨日は36.4℃まで下がっていたので、調子に乗って早朝のゴミ出しついでに庭のキュウリとオクラを収穫し、目立った雑草を少し取った。
 そして蚊に刺された。

 すると短時間で反応してしまって、全身にピリピリとした感覚が広がってゆき、刺された場所から痒みが発生し始める。
 程度は違うが、アナフィラキシィってこんな感じだろうな、と思い、
急いで家に戻ってシャワーを浴びる(蚊に刺された場所は、刺されてすぐなら洗うと症状がかなり軽くなることが多い)。
 それでも痒いので仕方なく服薬する。

 市販薬なのに痒みをおよそ抑えてくれるので、対症薬としてはかなり優秀なのだが、僕には効き目が過ぎる気がする。
 少々ぼうっとするし、注意力が落ちる。当然、自動車や機械の運転はできない。
 いろいろな感覚が遮断される感じ。精神安定剤のように、緊張も緩和されるので、落ち着いた気持ちに(強制的に)なって眠くなる。
 自分を害する者などどこにもいないし、悪意を持っている者もいない(なぜなら孤独だからだ)と分かっているのに、無意識に緊張している。
 これは子供の頃からの習性。

 つくづく思うのは、どうしてこんなに弱い身体で今まで生きられたのだろうか、ということだ。

>>>

 一昨年の熱中症も、さらに2年ほど前の熱中症もそうだったが、快復までだいたいひと月掛かる、というのが経験則。
 原因は至ってシンプルで、脱水するから。
 発汗量が多いので、およそ1時間程度で5%程度の脱水を起こしてしまう。
 仕事中や運転中だったりするとなかなか気付かない。

 汗が出ないから快適だな、と思ったときにはもう軽症ではない。
 その後は水を飲もうが塩を舐めようが、尿が出るだけだ。
 汗による排熱がなくなるので、体内に熱が蓄積してゆく。

 今回はその経験があったので、完全脱水する直前には身体を休めていたのだが、日陰で扇風機に当たっていても気温が体温を超えていること、遠方の屋外でクーラなどの冷却設備がないこと、服を脱がない(衆人環境の屋外なので脱げなかった)ことで、結局、重症化したのだろう。

 不可解なのはこの発熱と蕁麻疹だ。

 2週間を過ぎたあたりから、かゆみ止めの服薬をしないで過ごせるようになってきた(塗り薬 ── 市販されている中では最強クラスのステロイド系 ── では、範囲が広すぎて対処しきれないことが多いため)。

 本来の体温は36℃を少し下回る程度のことが多いが、蕁麻疹が発症してからは37℃前後を推移している。
 免疫の状態も炎症を起こしているときのもので、時折、風邪を引いたときのような痰があったり、頭痛、頭重、鼻づまりの他、歯根や一部のリンパに腫れや痛みを感じることがある。
 抗生物質を服薬するとこれら(蕁麻疹も含まれる)は全体に軽くなるが、これも長期服薬は悪影響が強いので服薬をやめると、症状が悪化するので服薬を再開して現在に至る(本来は、こういう間欠的な抗生物質の服薬は良くないはず)。

 発熱しているおかげで、気温(室温)が29℃なら涼しいと感じられる。
 30℃でも通常作業をするぶんには支障を感じない。
 ただし発汗 ── 意識できないほどの微かな汗ばみでも ── すると途端に皮膚が反応し始めるので、とにかく環境気温を下げている。
(まぁ、室温27℃で肌寒く感じるので丁度良いが)
 買い物は陽が落ちて気温も下がった22時以降だ。

 ちなみに医者に行かないのは日中に家を出るのが困難なことと、以前も似たような原因不明の蕁麻疹で医者に掛かった挙げ句、対症薬すら処方されなかったことがあるからだ。
 原因不明の体調不良は子供の頃からあったので、必然、僕は自身の体調不良について因果関係を考え、都度対処し、記録する必要に迫られた次第。

>>>

 熱中症によって、発汗とそれに伴う調節機能が著しく低下しているのは分かる。
 翌日から発症した蕁麻疹は、おそらく免疫力が急激に低下したためだろう。

 発汗機能は1週間しないうちに回復したが、肌が汗(高温)と直射日光に反応して蕁麻疹を発症する。
 掻き壊れた表皮から雑菌が入るので、炎症反応を起こしていたのだろうか。
 しかし服薬の副次的効果 ── 痒みが発生しないため掻き壊すことがなくなる ── で、表皮に新しい傷を作ることはなくなった。

 それでも免疫系は回復していない(ために体温も平熱に戻らない)。
 食事も最初は普段どおりの食事で問題なかったのだが、最近は食欲がなくなってきたので療養食に切り替えている。

 具体的には普通に炊いたごはん(白米が苦手なので玄米)でも、消化吸収の不良を起こす。
 胃腸の具合や排泄から観察するに、吸収系に問題が発生するようだ。
 ある意味、何を食べても太らない状態だといえるが、もともとそんなに食欲旺盛ではないので得した気分にはならない。

 僕にとっての療養食は、ゼリー、ヨーグルト、粥などである。
 米の消化吸収が不得手なので、いつも粥は最後に試すことになる。

>>>

 少し整理しておこう。

○ 発汗による脱水が起こり、熱中症(熱射病に近い)になる。
○ 発汗が停止すると、水分補給しても発汗しなくなる。(水分補給はほどほどでよい)
○ 発汗停止より以前に水分補給し、対外環境温度を下げる必要がある。
○ 発汗機能は数日で回復する。

○ 脱水による熱中症に罹ると免疫力が著しく低下する。
○ 消化機能等も低下する。
○ 蕁麻疹が出る場合もある。これも環境温度を下げ続けることで快復を待つ必要がある。

 そうだ。
 熱中症に罹るたび、その後ひと月は(発汗を抑えるため)環境温度を下げ続ける必要があり、それで行動(活動)を大きく制限されるのだった。

>>>

 冒頭にも書いたが、こんな身体をずっと使い続けている。
 およそ半世紀である。よく保ったな、という感がある。

 体調不良になるたび、子供の頃は両親があれこれ手を焼いてくれていたわけだが、さぞ苦労したものと思う。
 風邪なら原因も症状も分かりやすいが、原因不明のものとなると手の打ちようがない。
 母乳アレルギィやら粉ミルクアレルギィとなったら、一体どうしろというのか、とも思うだろう。
 大人になってからことさら加工レベルの高い食品を忌避するようになったのも、それが何らかの不具合を誘発するからだろう。
 数年前も半年ほどにわたって、原因不明の体調不良に悩まされた。
 僕にとってはこれが普通なのだ。
 
 今回の熱中症も、周囲で(同行したTUやその他大勢が)熱中症に罹っている気配はなかったし、それどころかゲームを続けている人までいた。
(運動部の大学生などは、確かに強健だろうと思う)
 家の中に引き籠もって3週間が過ぎようとしているが、TUや妹は、驚いたり呆れたりはするものの「まぁそういうものだよね、分かってる」みたいな顔をしている。

 思うに子供の頃はずっとそうだった。
 周囲との体力の差はいつも歴然としていたし、具合が悪くて寝ている記憶がほとんどだ。それか妹から暴力を受けているか(笑)。
 なるほどヴァーチャルな世界に棲まうべく素養がこのようにして培われたのだろうと今更ながら分析できる。
 つい懐かしいな、などと感じてしまった。

>>>

 庭の草刈りをしたいのだが、日の出直前(だいたい4時頃)から草刈り機を回すわけにもゆかず(それでも発汗を抑えるには30分程度しか作業できない)、毎日、朝な夕なに窓から外を眺めては「あー」と呻いている。
 子供の頃もそうだったろうか。

 外界に対して、あるいは人並みに活動できることの不思議に対して。


 




 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Maintenance-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230725
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
謝罪会見って何だろう。
SUBTITLE:
~ That Guilty. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【謝罪会見は平和の証?】

 謝罪会見というのはいつから一般化したのだろう。
 昔からあったのかもしれないが、興味がないので見たことはない。

 社会的(というよりむしろメディア的)な知名度の高い個人や企業・団体などによる公序良俗に反するような行為があった場合、これまたメディアの前で謝罪をするという形式の記者会見だろう。
 おそらく被害者と呼びうる対象が不特定多数になったり、特定可能だけれど多すぎるため、直接の謝罪はもちろん書面での謝罪もままならないという理由から開かれるのだろうか。
 場合によっては被害者とされる側と係争中のケースもあり、当然ながらすべての情報が開示されるわけではない。

 個人的に、これは単なる吊し上げのようなものだろうと僕は思っている。あまりいいイメージはない。
 他に優先することがあるのではないのか、というのがそもそもの理由だ。

 謝罪する側ももちろん、それを楽しみに見ている側(被害者とは限らない)も、会見をわざわざショーにするメディアも、である。
「他にすることないの?」というのが素直な疑問である。
 まぁ平和な証と考えておけば良いのだろうか。

>>>
【謝罪会見はリソースの無駄では】

 公序良俗に反する行為、というのがどの程度の問題かにもよるし、謝罪する側の体制がどのようなものかにもよる。
 たとえば法人組織が巨大であれば、広報部のようなものもあるだろう。
 それならメディアの対応にはうってつけの部署であり、広く世間に向けて謝罪するという「お気持ち」の表明にも意味はあるだろうと思う。
 しかしそれを持たない小規模な組織であったり、被害者と係争中であったり、被害者に対してお詫びをしている最中だったりした場合、記者会見などにリソースを振り分けるのは、無駄ではないだろうか。

 たとえば東北で津波を伴う大地震があったとき、原子力発電所のいくつかの事故についても同様に責任者が謝罪会見をしていたような気がする(していないかもしれない。どちらにしても見ていないのでほとんど憶測である)。
 現場の責任者であれば詳細な説明は可能かもしれないが、地位が上になればなるほど具体的な情報(トラブルとその原因、対策と今後の見通し)から遠ざかることになる。
 現場責任者の方が、トップクラスの責任者よりも詳細で具体的な情報を持っているだろう。
 トップが謝罪するためにそれらの情報を集約するとしても、広報向けにまとめるだけでさえ余計なリソースの消耗になる。
 喫緊の問題を抱えているのだとしたら、この時間的/人的なロスはいかんともしがたい。

 その時間を、もっと有用に使えるのではないかなぁ、と僕は思ってしまう。

 あるいは芸能人が公序良俗に反する行為をした場合も同様。
 不貞行為だろうが麻薬使用だろうが、裁くべき人が裁いてくれるわけであり、広く世間に謝罪などしなくても相応に罰やペナルティが科せられるだろう。
 つまるところ僕の気持ちは「早くきちんと被害者対応をすればいいのに」というところか。
 繰り返しになるが、僕は謝罪会見というものが退屈なのでまったく見ないのだが、それを見て「ああ、そうやってちゃんと謝ってくれるならいいか」と思える人も居るのだろう。
 もっともそういう人はそもそも観ないと思うが。

 僕が「吊し上げ」と表現したのはそういう理由だ。
 許せる人は謝罪会見などなくても許せる。
 許せない人は叩くために謝罪会見を見る。
 謝罪会見をする側は、そもそもそれを時間のロスだと認識していれば良いけれど、その場を凌ぐ方が優先されるだろう。
 会見を流すメディアや会場を提供する組織/団体が儲かるのかもしれない。

>>>
【知名度の危険性】

 知名度が高いというのはこうした部分で非常に厄介だ。
 特にwebがIRLの社会と重複した役割を果たすようになったぶん、人間が合理的な情報の取り扱いをしきれていない可能性も考えられる。
 僕は10年ほど前から、知名度を下げることに必死に取り組んできた(といってそもそも知名度などない)が、それは知名度が高いことは不自由だと気付いたからだ。

 webを含むメディアが乗せて運んでいる情報は、個人の感情から組織・団体のアナウンス、国家やそれより大きな組織の大観に至るまで様々だ。
 現在起こっていることのほか、過去に明らかに起こったこと、未来に起こるかもしれないこと、普遍的に変わらない基本的なことなども多くある。
 僕が書いていることは、所詮、単なる個人の感想に過ぎない。

 メディアというのもその多くは営利団体である。NHKさえ(建前がどうなっているかは調べないと分からないが)営利団体だろう。
 それが悪いというのではない。
 知名度の高い営利団体や、イメージを売り物にしている(そんなものが本当に売れると思っているなら相当にめでたいのだが)個人とそれを取り巻く営利組織も、よりリスクの少ない、効率よい手法で、ホワイトでクリーンなお金稼ぎをしたいと(少なくとも表向きは)願っているだろう。

 しかしそんなに簡単ではないことは多くの人の知るところだ。
 とくに組織が大きくなると、僕のような穀潰しが棲む隙間を生んでしまう。
 トップが穀潰しになっていたりすると、もはや打つ手もない。
 ジリ貧になり合併を繰り返すうち、劣化コピーのような機能さえ果たさなくなるだろう。

 かつてゲーム業界にそれが見られていた。
 現在の国産ゲームメーカは、掛かっているコストも(売値も)技術も高いのだが、ゲームとしてはつまらないものが多いように感じる。
 保険会社も吸収合併を繰り返したが、コンテンツは拡充するどころが縮小し、ユーザに苦慮を強いる一方だ。いったい得をしているのは誰だろう。

>>>
【大きくて、有名で、綺麗なだけで安心しちゃうの?】

 今回は「ビッグモーター」という中古車販売チェーンの不祥事が取り沙汰されている。
 以前、無職になったときに面接を受けたことがあるのだが、個人の感覚で「この会社は勤めるにも相当危ないな」と践んでいた。

 僕は接客や営業の仕事をするときに、最低でも1年は様子を見る。
 取り扱う商品についてはもちろん、それを必要とする人や企業がどのようなモノを具体的/潜在的に求めていて、どのような対応/工夫をすればいいかを観察し、身に付けるまでに掛かる時間としては妥当だと思っている。
 もちろん僕より出来のいい人間なら、より短期間にそれらを発露しうるだろうとは思う。
 有り体に言って、僕は接客や営業をする上で、とくに優れているタイプではないからだ。

 面接担当者は「この店舗の営業でテッペン(トップ)になるのに、どれくらいでできますか」と僕に質問してきたので「最低でも半年、通常は1年です」と答えたところ、かなり難しい顔をした。
 聞けば、3ヶ月ほどでそうなれると豪語し、実際にそうなる営業がいるらしい。結構なことである。
 それだけで「ここは辞めておこう」と僕は思った。
 個人プレイを優先し、競争を煽動する店舗ありのサービス業など、ロクなものではないと感じたからだ。

 もちろんそういう場所でガツガツできる人も居ると思うが、僕はそういう仕事をしたくない。
 競争が嫌いなのだから仕方ない。
 ソロプレイをできる才覚があるなら、そもそも会社になど属さなくていいではないか。
 僕は凡人かそれ以下の能力しかないので、会社を探して面接をしに行っているわけで、凡人以上を求められるならそれはお互いのためにも辞めておいたほうがいい、という考えである。

 何かが何年か連続でNo.1らしい(CMも見聞きしないので、よく知らない)が、そもそもあれだけの敷地を持つ店舗とスタッフと車両をいくつも抱え、CMも打っていて存続できる(メーカの直属ディーラでない)会社が、ユーザフレンドリィだと勘違いする方がどうかしていると思う。
 だから車を買うときも候補にさえ入れなかった。
 大きいから、綺麗だから、メディアに広告を出しているから、という分かりやすいインタフェイスを作るには、相応のお金が必要で、それは必ずエンドユーザが支払っている。
 まともではないと思う相手と取引などするものではない。

 契約をしてしまった人や被害に遭った人は多少哀れだと思うが、もう少し社会を知ってから自動車の売買をしても良かったのではないかと思う。
 大きくて綺麗な店舗の会社がいい、というならディーラに行ったほうがいいだろう。
 群馬のような辺境にもなると、ディーラもデスクやガレージがちょっと散らかっていたり薄汚れている店舗がある。敷地面積も小さい。
 それでいいと思う。
 自動車やそれにまつわるサービスを買いたいという顧客は、会社のイメージや、その会社から何かを買う(あるいは売る)自分のイメージを買いたいというわけではないだろう(まぁ高級車ブランドのディーラだと「そこでやり取りする私」が欲しい人もいるのだろうけれど
)。

>>>
【イメージを売買できる時代】

 知名度のある個人はイメージを売っているというのだが、僕はそれを買ったことがない。
 他人のイメージって買えるのだろうか。CMすら見ないから素直に分からない。
 有名人が「ここなら安心」とか「これは素晴らしい」と、CMやメディアショッピング(TVのほか様々な媒体であるだろう)で言っていれば、それでその商品を買うのだろうか。魅力的に見えるだろうか。
 僕はそうは思わない。つまり僕は、彼ら彼女たちのイメージとやらに一円も払っていないだろうと想像している。
 よって謝罪を楽しみにするという、加虐的な性向の悪さを発露するにも値しない。

 今回の中古車販売会社の場合、悪質な手法で保険金を過剰請求していたというのがもっとも問題視されているようだ。
 保険金請求をしている場合、一番の被害者は保険会社ということになる。
 個人の場合、基本的に損害の程度の大小を問わず保険契約者が支払う保険料は事故の件数により増加するので、1件で300万円の損害が発生したケースより、100万円の損害が3件発生した方が、契約者が支払う掛け金としては損失が大きい。
 保険会社からすれば、同じ300万円の補償であっても、1件の事故として請求されれば損になる。
 また保険金請求をしていなければ、被害者は単純に契約者(車両オーナ)となる。

 修理する側が故意に損害を大きくし、保険会社にであれ所有者にであれ請求することは、器物損壊なども含めて犯罪ではある。

 まったく取引をしていないので分からないが、仮にそれらの犯罪行為を会社ぐるみで行っていたとして、謝罪面会とやらはいったいどんな意味を持っているのだろう。
 やめるべき、というわけでもないし、もっとやれ、というものでもない。
 意見があるのではなく、単純に効果も理由も目的も分からないから疑問に思うのだ。

 まぁ、社会から距離を置くようにしているので、だから分からないのだと言われてしまえばそこまでだし、そういうものを必要として、それが当たり前の社会だと言われてしまえば「そうですか」としか言いようがないのだが。
 まともな人間は、こんな吊し上げをされるのには耐えられないと思うし、それを見て楽しむこともできないと思うのだけれど。どうなのでしょうね。

>>>
【蕁麻疹の経過】

 昨日購入した薬が良く効いて(内服薬は効きが強い上、神経系に作用するので感覚に影響が出て困るが)過ごしやすい。
 とはいえ運動など体温の上がる行為もできないし、直射日光に当たると刺激を感じる。
 汗で痒くなることは減ったが庭仕事をするのは躊躇う。

 群馬は40℃に迫る気温。
 11時頃から眠って18時頃に起き、料理は夜、入浴は朝方にするようにしている。

 寝ている間は室温が29℃程度でも、半裸なので問題ない。
 動けば人体の内から熱が発生するわけで、日中は寝ている方が省エネになる。
 狭い室内でエアコンを掛け、ゲームや読書でもしているのが高効率だといえる。

 この異様な暑さがもはや通常である。異常ではないのだろう。
 いずれは夏だけ夜型社会になるかもしれない。効率を考えればその方がよいとも思える。

 地下で水を冷やすという機構を、もう一度試してみようかと考える。
 網状に分岐した金属管を埋設し、ビニルパイプで地上に出して屋内のラジエータで熱交換する仕組みだ。
 水(もしくはクーラント液)を循環させるポンプとファンしか電気を使わない。
 もちろん地下地温まで下げるのが限界なので性能は低いが、そのうちエアコンの室外機は地面埋設型も出てくるのではないだろうか。
 いや工事や管理が大変か。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Memory-Season-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Car-Human-Koban-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230723
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
生きづらい、ってどういうことだろう。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 感冒に罹っているような感覚異常。
 この身体に手を焼くのはいつものことだが、医者に行ったところでほとんど何の解決にもならないのもまた同様。
 対症療法薬が効けば良い方で、たいてい薬も出されず帰ってくることになる。
 なので医者に掛かることも少ない。

 医者が悪いというのではない。
 生まれついて少々変わった体質の自分が、一般的ではないというだけだ。

 高脂血症も、会社の産業医が健康診断で指摘し、当時暮らしていた前橋市内で最寄りの病院に掛か
ったところ、たまたま循環器系にも詳しい先生がいたため話が早かった。
 しかし太田市に来てから近所の病院に通いはじめたのだが、話にならないので今では前橋のその病院まで通院している。

 医者には得手不得手がある。誰だってそうだ。
 そして一般的な情報は共有され、広く流布する。
 家族性高脂血症と言っても、まともに取り合わない医者がいたところでそれを責める理由はない。

 母乳も粉ミルクもアレルギィだったという人を見たことがない(僕はそうだったが)。
 特異体質の自覚はあまりないが、客観的に、少数派の体質であることは確かだ。

 仕方ないので自分で記録を残し、似たような状況になったときに対処するしかない。
 ために僕は自分の不調を細々書き残す。
 誰かに心配して欲しいわけではないし「自分はこんなに大変なんですアピール」したいわけでもない。
 もちろん誰かが心配する自由(権利と言ってもいい)を否定する気はないから心配してもらっても構わないけれど、どちらかといえば放っておいてほしい ── どうにもならなくなれば無駄を承知で医者に行くのだし、「心配だお♡」「ありがとう♪」というコミュニケーションに意味を見出せないお年頃でもある。第一、それなりに辛いからそれどころではないのだ。

>>>

 蕁麻疹がまったく引かず、掌や表皮が熱を持っている。
 数日で収まるかと思い放っておいたが、明日で1週間になる。

 痒みがずっと続いていて、ときどき突発的に鋭い痛みのような痒みのような激しい感覚に皮膚を刺される。
 うかつに薬も塗れないので仕方ない、我慢せず、優しく掻いている。
 眠っている間も意識せず掻いている ── 昔は意識していたのだが、自動化できるようになった ── ので身体が休まらず、目覚めは少々ぐったりしている。

 20代の頃にも一度、全身を覆う原因不明の蕁麻疹に襲われ、ひと月近く会社を休んだのだったか。
 今回の場合は明らかに熱中症が原因だが、どうして蕁麻疹が現れて、どうすればそれが引くのかは分からない。
 webを当たっても、熱中症後に蕁麻疹が発生するという症例についての情報は見た限りにない。

 想像するに温熱/発汗/射光によるものだろう。
 熱中症に罹ったとき、靴下までは脱がなかった。
 汗が出なくなっている状況だったのだから、布で覆っている部分を少なくするべきだったかもしれない。
 なるべく肌を晒したくないという無駄な自意識が悪かったといえる。

 今はなるべく陽に当たらないようにし、低めの温度(それでも27℃くらいで肌寒く感じることがある)に設定した室内で、汗をかかないように、分泌されたらすぐに濡れタオルで拭き取るようにし、それでも皮膚の違和感がある場合は(短いスパンになっていても)シャワーを浴びる。

>>>

 以前、医者にもらった抗生物質(余っている)を飲んでいると症状が若干和らぐ。
 この服薬は逆効果のような気がするのだが、意味が分からない。
 オメガ3系脂肪酸がヒスタミン抑制に有用らしいので、置きっぱなしで滅多に摂取しないそれを食事の時に飲む。
(大さじ1/2程度である)
 ステロイド系の塗り薬も持ってはいるが、おそらく使用期限が切れているだろう(滅多なことでは使用しないので)。
 と思って冷蔵庫にあるそれを見たら、10年以上前に期限が切れていた。買いに行くべきか迷うところだ。

>>>

 最近は目にする機会が減ってきたが「生きづらい」とか「生きづらさ」という言葉が、僕はあまり好きではない。
 なぜといってその前提に「生きることが容易である」という考えがあるからだ。
 しかし生きることは、そもそもそんなに簡単なことだったろうか。

 もちろん容易に生きることができれば、それは理想的だ。
 力の弱い者、才のない者、うだつの上がらない者、知恵の回らない者、気が利かない者、自分のことばかり主張する者、協調性に欠ける者 ── 。
 能力や生まれついた環境に恵まれた人はもちろん、上記のように恵まれない人たちであっても、たとえば文句を言いながらも、毎日何となく思い付いたことをして、飢えたり病気になったり怪我をしたりする機会が少ないように暮らせるのが幸せなことだろうと思う。

 しかし誰だって、生まれの境遇には多少なり不満があるだろう(僕はあまりない)し、生い立ちのすべてに満足している人も少ないのではないか(僕は今でこそ納得しているが)。
 スタートから現在までの経過がそうであるように、現状に不満のない人も少ないだろう(僕は満足している)。
 実際に恵まれているかどうかというのはあくまで相対的なものだ。
 恵まれている人は恵まれているなりに不満もあるだろうし、恵まれていない人だって考え方次第で満足することは可能だ。

 とりあえず、死なずに生きる、という点だけを考えれば、現在の日本はまずまず恵まれた環境だろうと思う。
 まずまず、であって、完璧、ではもちろんない。

 様々な不遇があり、そこには偶発的な、自然発生的なものもあれば、人為的な、故意にもたらされたものもある。
 具体的な不幸について、あれこれ挙げればキリがない。
 金銭的なこと、権利のこと、肉体的なこと、精神的なこと。
 事故もあれば犯罪もある。他人に利用されることもあれば、利用していたことに気付いて愕然とすることもあるだろう。

 メディアで目にした「生きづらい」という文言に含まれる意味は、そうではない。
 もっとふわっとしていて「お気持ち」要素が強い。

>>>

 たとえばセクシャルマイノリティの人が「生きづらい」という。
 自認する性について、社会の理解を得られないことが不遇だというのだろう。
 しかしそもそもどうして他人の性的自認を僕ら全員が認識し、配慮しなくてはならないのだろう。

 僕自身、性的自認が肉体のそれと異なること(そういう人格)もある ── そもそも肉体の違和というなら僕は猫の身体に収まっていないから、種族違和が激しいのだけれど、そういう話はややこしくなるからやめておこう。本気だと思われても困るし ── が「お前の性別なんてお前自身とベッドに入る人、合計2人以外に関係ないだろう」と思う。
 僕はそのため、対外的には(肉体的な性的嗜好に合わせ)男性として暮らし続けているし、一人称に「僕/俺」も日常的に使っている(もちろんそれ以外も使う)し、トイレやお風呂について「女性用じゃないと嫌だ」なんてことは思わない。そんなことはどうでもいい。
 むしろ恋人から「性転換手術とか、しないでほしいな」と言われたりしたことの方が重要である。一緒にいる誰かに不遇を押し付ける方が僕には耐えられない(ちょうどお金も持っていない時期だったので良かった)。

 それに道ですれ違う人のひとりひとりに「あ、おっぱいが膨らんでる」とか「股間が左寄り!」とか思っている人の方が異常だし気持ち悪いと僕は思う。完全変態である。サナギになる気か。

 他人に認められたい、他人と価値観を共有したいと思うのは自由だ。
 しかし他人に無理強いしてでも認めさせようとすること、他人に価値観を強要することは、端的に言えば支配であり強制であり強姦である。

 なぜ自分が変わらないで、社会が変わることを求めるのか。その要望/欲求は正当で、社会の役に立つのか。
 そういう視点を議論せず、ただ権利の話をしているならば、仕事(会社にとって直接に金銭的利益を生む行為)もしないで「給料が安い」と言っているダメ社員と同じである。
 政治家でいえば、社会のためになることをあまりしているわけでもないのに「我々の権利は手放しません。かつ増税します」と言っているのに等しい。
 まぁ、それがこの社会で普通だというならそういう価値観の世の中なのだろうな、と(僕が)諦めるよりないが。


 個人の権利はもちろん尊重されるべきだろうけれど、集団や社会は、相応の理由があって形成されている。
 集団や社会にだって、権利はある。
 その集合の特権階級に、ということではなく、そこに属するひとりひとりに、である。

>>>

 話が少々脱線してしまった。

 本質的な生きづらさとは「今、自分が持っているものだけでは、この集団/社会/世の中/時代に生存することが困難である」という状況ではないだろうか。
 たとえば比較的軽度のヤングケアラくらいなら僕は社会的相互扶助の一端でしかないと思っている。
(保身のために書いておくと、僕自身がそうだった)
 ネグレクト(育児放棄)に遭っても、逃げる場所を見つけられるなら(見つけられたなら)まだよい方だろう。
 しかし逃げ場のない虐待にまで至ると、これは度し難い。生存が困難である。

 子供に限ったものではない。
 学歴や職歴の不足で生活に十分な賃金を得られる職に就くことができず、外見や生い立ちや性格でパートナーに恵まれず、生活保護を受けようとしても認められず、望まずして売春や性風俗をするような人も居る。
(失踪している僕の姉はこのケースに該当するだろう。子供の頃から売春をしていたから、その根は複合的だ)

 まともに会社勤めをしている男達だって、高齢化社会の中で、権力や既得権益にしがみつく高齢者のために不遇を押し付けられ、発想や行動にも(予算やらコンプライアンスやらと)制限を課せられ、かといって独立するほどの才覚や運がなかったら、現状を維持するのがやっとだろう。

 彼ら彼女たちのそのすべて「自分の望んだ生き方ができない」という点で、十分に「生きづらい」のだけれど、そうした弱者はたいてい現状に対して不満を言わない。
 そういう発想を持たないし、そもそも文句を言ったところでどうにかなるものではないと諦めている。
 だいたいどこに(誰に)言えばいいのかも分からない。そういう能力もないのだ。

 自分の望みさえ持てない状況というのがある。
 現実にあり、昔からあり、今もある。


 先々月の電気代も払えない。
 今日明日の食事代もままならない。
 自分の持っている僅かなリソースと交換できるお金はわずかで、焼け石に水のようにしかならない。
 なんとかそれを変えたい。
 せめて「普通」といえるレベルに到達したい。でもどうやって ──。

 それが本来の「生きづらさ」だと僕は思っている。

 寝食にあたって生命を脅かされるような状況にない人間が、やれ「会社で認められない」だの「学校で友達ができない」だの「自認性別の公衆浴場に入れない」なんてどうでもいいではないか。
 それが「生きづらさ」だというなら、はいそうですね、とは言えるが、だからどうしよう、という気にはならない。
 勝手にしろとしか思わない。
 もっと救うべき弱者がいて、もっと救われるべき少数派がいる。
 そしてそれを本来は社会が救っておくべきだったと僕は思う。

>>>

 正確に言うなら、ネグレクトを起こすような親もまた不幸なのだ。
 若者(というより子供くらいの世代)に、家事や介護をさせなくてはならない大人達もまた不幸なのだ。
 虐待をしてしまう人もまた不幸な生い立ちと精神を抱え続けている。
 会社や学校で、権力を振りかざして環境を持続不可能なものに変えてしまう者たちもまた不幸なのだ。
(これらの加害者になる可能性があるため、僕は社会や集団に参加しないように心掛けている)

 そう考えると、国家を存続させるべく適切な学習や認識や発言や行動ができない政治家も、またそういうどうしようもない人間からしか候補者を選べない我々選挙権者も、同じく不幸なのだろう。
 パパ活をしようとして失脚しかけた政治家だって「モテたい」と思った時代にモテることさえ叶わなかった、という点では不幸だろう。色々な意味で救いようがないが。

「生きづらさ」というのは本来血生臭いし、泥臭い。それだけでなく死臭さえする。
 メディアが(あるいはメディアに)訴えているのは、ほんの表面的なことだろうと僕は思う。

 生きることは簡単ではない。
 食べるものを畑で作って自給自足することだって簡単ではない。
 それなのに、それだけでは税金を納めることができない。電気代も払えない。

 みんなで協力した方がいいから、家族を作り、集団を形成し、社会を作ってきた。
 それなのに今やその社会は複雑だ。人口が減ってカスカスなのに、だからこそもっと複雑になってしまった。
 その中でも運や才覚や環境に恵まれた者は、確かに豊かな時間を過ごせるだろう。

 ではそれを持たないものはどうすればいいのだろう。
 そういう人たちが、せめて「普通に」「人並みに」暮らせることが「生きやすさ」であり、それができないことが生きづらさなのだと僕は思う。

>>>

 メディアで発言力を持つ人が、仰々しく政権の無策や芸能人のスキャンダルを語ったりする。
 あたかも弱者を擁護しているかのような発言をする人は少なくないだろう。それが常識的だからだ。
 しかし彼らが、どれだけ社会をよりよくしているだろう。
 どんなことを実践しているだろう。
 言葉で訴えるだけなら、誰でもできる時代なのだ。

 資本主義社会、競争社会にあっては、必ず脱落するものがあり、弱者が生まれる。
 では社会主義、共産主義的な社会だったら、それはそれで今の日本と同じかそれ以上に権力者が独走してしまうことになる。

 何が正しいのかは僕にも分からない。

 たまたま僕は生まれ育ちこそ不遇だったかもしれないが、とにかく運が良かったので、ほとんどのことを自分ひとりで処理できる環境を構築できた。
 家族を持てば、とんでもなく手間のかかるイキモノの世話をさせることになるので、そんなことにならずに良かったとも思っている。
 しかしこれは僕に限ったものだ。

 運が悪くて、生まれも育ちも恵まれなくて、学もなく、地頭も冴えず、容姿に恵まれず、友達も恋人もできず、親兄弟もろくでなしが多く、孤独だし誰かに利用されたり騙されたりすることもあるけれど、それでもまぁ、ごはんは食べられるし、あたたかい場所で眠れるし、身の危険は感じないし、挨拶を交わすくらいの相手はいるし、今日よりもうちょっといいことがあるかもしれないから明日も頑張ろうかな、と誰もが眠る前に、ときどきほんの少しでも思える社会になればいいと心から思う。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230720
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
達人の予感。
SUBTITLE:
~ Master's differentiation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

230720

 数日前、誕生日を迎えた。
 齢48。四捨五入を二度繰り返すと今年もちょうど百歳である。
 おめでとう自分。
 余命は17年。僕の自由時間は諸般の事情により、一般的な人の二倍にあたるので、実質34年分の活動が可能だ。

 翌16日は、TU(中学からの友人)に誘われ、ひと月ほど前からサバイバルゲームの予定が入っていた。
 が14時には体温を超える気温になり、熱中症を起こし掛けていたのでゲームに参加せず、テントで待機。
 塩を舐めても、水を飲んでも、汗が出なくなってしまう状態にまで到達するが、身体を動かさずにいたため大事に至らず解散まで保たせることができた。
(遠方であり、TU以外にも示し合わせて参加した人がいたので、僕一人の体調不良で解散にしたくなかった)

 もともと発汗量が多い方だろうと思う。
 30代になって自転車に乗るようになってからも、40代になって運送業に就いたときも、自分の発汗量が他者より多いことは感じていた。
 おそらく入浴の習慣にもよるのだろう。

 僕は比較的高温の湯でも浸かり方を変えながら長湯をする。
 一時期は水分補給をしながら2〜3時間は湯に浸かっていた。
 昨年あたりから、1回あたりの時間を減らし、今年の夏からはシャワーをメインに、湯船に浸かるのは週に1回程度にするようにしたが、冬はきちんと湯で温まらないと、寒くて生きられないのがこの家の特徴だ。

 僕の身体は、だから汗をよく流すようにできている。
 体臭が少ないとガールに言われがちだったのもそのためだろう(今は分からないが)。

>>>

 30代の頃だったろうか。
 あれこれ書き連ねるうち「どうやっても、真髄のような、物事の核心にある道理は言葉では説明しきれないかもしれないな」と思うようになった。

 同時期に、ちょうど弟子と接する中で感じたのだったろうか。

 道理というのは、ある種の理屈であり、ある種の正しさでもある。
 しかし物事にはどうしても、明の部分と暗の部分があり、右があれば左があり、上があれば下がある。
 物事自体にそういう明確な区切りがあるわけではない。

 たとえば北を向いていて、右手は東であり、東を向けばそれが南に変わり、やがて西へ、北へと、向きを変えるたびに「右手の方角」はその意味を変えてゆく。
 見方の問題であり、認識の問題であり、視点の問題である。
 つまりは意識があり、肉体があるために、物事の認識が限定されてしまう。
 右だ左だ、上だ下だ、正しい誤っていると、いくら言っていても、言い合っていても、その方角を精確に明示し、互いに認識することはむつかしい。

 言い争っている人間が、実は根底ではまったく同じことを「これこそが正しい」と言い合っている姿を見ることもあった。
 しかしそれを外部から「いや両者とも言っていることは同じですよね」と言っても聞かない。
 先の例で言えば、東を指しながら、北と南を向いている人間が「右だ」「左だ」と言い合っているようなものだ。

 だから徐々に「ああ。誰かに何かを諭すようなことはやめよう」と思ったのだ。
 僕が思う(認識する)正しさとやらも、必ず誰かにとっては誤りそのものに思えるだろう。
 何となれば僕の存在や価値観が、誤りや過ちだと断ずる人がいてもおかしくない。
 もちろん僕は自分を正当化するつもりも、正当だと主張する気もないのだが、誤りを許せないという潔癖のありようもまたよく理解できる。
 それを弾劾し、排斥しようとする気持ちも、分からないではない。
 僕の持つ、僕の体現する「正しさ」なんて、どこまで行ってもその程度だろうと、そのとき見えた気がした。
 皆が納得し、賞賛し、まして憧れるような、綺麗な正しさを体現する方程式の導き方など、僕には示すどころか見ることも認識することもできないのだと思った。

>>>

 当時はあれこれと物事について(可能な限り)多角的に認識することで、何らかの法則を見出し、それによって他の事象についても思いどおりの結果を導くことが可能だと思っていた。
 たとえば僕は人間の心理のありようや、その人本来の魅力というものについて、小賢しく理屈づけた心理学や、もっともらしく消費者心理を誘導するメディアの情報ではなく、実生活の中に求めようとした。

 異性に(だけではなく、実は犬や猫や鳥やヤドカリや鹿や、果ては無機物にまで)モテようとしたのも、そういうった動機である。
 結果は惨憺たる部分もあったが、満足はしている。
 モテるというのは技術的に、あるいは方程式のように、身に付けたり、導くことが可能で、つまり操作ができる。
 そして当然だけれど、いいことばかりではなく、悪い面もある。
 僕がモテるのにあたって学んだ書物をあたる限り、モテる方法はそれとなく書いてあったが、モテてからどのようにその道を律するべきか、またモテることによって発生する様々な困難やその対処法については記載がなかった。

 経験則を踏まえて、そうした道理のようなものを書いてはいたが、きちんと全体を描ききろうとすればするほど、情報が曖昧模糊としてしまうことが多くなった。
 もともとの気質もあるのだろうが、僕は「A」と「notA」を混在して認識する傾向が強い。
 清濁併せ呑むといえば聞こえはいいが、一般的には優柔不断で、抽象的だと認識されるだろう。少なくともそういう苦情は子供の頃から多く言われていて、ときに悩んでさえいた。

>>>

 物事を断ずる人は強い。少なくともそう観察されるだろう。
「A」なら「これはAだ」と、「notA」なら「これはAではない」と、はっきり、きっぱり、ばっさり言い切った方がいい。

 もちろんそれはむつかしいことではない。むしろ容易だとさえ言える。
 しかし言い切ったあと、自分の中で少しわだかまる。
「Aとは言ったけれど、実はnotAの部分があるんだよな」といった具合だ。
 自分に言い聞かせただけならすべて織り込み済みだから良いのだが、他人に聞かせるとなると、嘘は言っていないがすべて伝えたわけではない、ということになる。
 ある種の情報操作をしているような罪悪感を感じることになる。
 しかし両方伝えると、だいたい分かりにくくなる。かえって伝わらなくなる。喜ばれるのもどちらかに断ずる方である。

 ために誰かに何かを伝えようとすることは諦めた。もはやどうしようもない。

 そのときふと思ったのだ。
 何かの道の達人は、そのようなわけで、弟子達にさえ言葉での説法をしなくなるのだろうな、と。
 宗教家であろうと武道家であろうと料理人であろうと職業人であろうと芸術家であろうと、その道を目指す後陣に対して、始めの頃こそ道を指し示すようなことがあるにせよ、ある時期から、もはや語ることをしなくなってしまうのは、もしかしたらこのように、言語化が不可能な ── あるいは無理にそれをすると矛盾してしまう ── 領域を見てしまうからなのかもしれない、と。

>>>

 およそそれは17歳の夏に予感したことでもある。
「A」と「notA」は互いを内包し、何かの外側にあるものは内側にあるものによって再定義され、内包されると。
 よって正しさと誤りは互いの中に誤りと正しさを持ち、正しさのうちに誤りがある場合、その誤りの中には正しさがあるのだ。

 ここまで文章として抽象的で矛盾していると、もはやイメージすら湧かない人も多いだろう。

 多分、それでよいのだとも思う。
 具体的な意志や認識、具象の中での欲を正しく具現しようとする人たちが、早く言えば社会を構築し、世界を作っている。
 僕のようなイキモノは、どうしたって傍観者でしかいられないし、それがいいのだ。

>>>

 弟子を見ていると、己の正しさに凝り固まり、息を詰まらせる多くの人を見ているような気持ちになることがある。
 ガールも含め、相応の人たちの愚痴をずっと聞き続けてきたので、そうしたオナニートークを聞き流すのもすっかり慣れている。
 愚痴を言う人の多くは、相づちを打ってくれる壁があったら、それに話をしていれば済む場合が多い。本人がそれを正しく望み、正しく認識しているかどうかは別問題として。

 否定するほどのことでもないのだ。
 ただいずれも物事に道理は存在しているから「そちらに進むとこういう景色が待っている」という情報はある。
 しかしその景色を予測できない人も居れば、そんな情報を求めていない人も居る。
 もはや人間が求めているのは、幸せでも正しさでもなく、美しさでも強さでもなく、ただただ「己が己を生き、己が己の道を選んでいる」というそれだけの実感なのではないかと思うことさえある。
 間違えていようと、醜かろうと、そんなことは関係なく、ただただ己のリビドーを正しく感じて発露していたいのではないかと。

 そうなると意見を求められてももはや、背中を押すしかあるまい。
「行けば分かるさ」とか「やれば分かるさ」といった格言じみたことを述べた格闘家だったか詩人だったかがいたように思う。
 まことにその通り。

 理屈も計算も道理も、己の手の内にあって、己が使うときだけ意味を持つ道具だ。
 他人の道に対して、その危ぶまれる先行きに適用しようとしたところで、誰にとってもよい結果をもたらさない。
 これは言われる側になってみれば分かるだろう。
 どんな理屈も計算も道理も、他人がその道具を使ってこちらの道を正そうとするならば、それは自分にとって不快な障害に違いないだろう。

>>>

 10代の頃、すでに「達観している」だの「独自の世界がある」と言われていた僕だが、はたしてそうだったのかは疑わしい。

 サバゲの翌日、心配してメールしてきたTUに「歳ばかり重ねていて、まったく大人になった気がしない。周囲のため、おっさんのフリをしているものの、中身は中学生の頃のままのような気がするんだ」と伝えたところ、
「大丈夫だ。お前は中学の頃からすでにオッサンみたいなものだった」と言われた。

 え。
 リスペクトされてるの?
 もしかしてお前あの頃からずっと俺を?(複雑な倒置法)
 と思ってかつての記憶を掘り起こしたのだが、どうも違う。これはディスられてる。

 いいもん。
 人生の達人を、心の中で誰にも言わずに拠り所にしていくからいいもん。

 翌朝から謎の蕁麻疹が引かず、気温が安定してきた今日も草刈りに出られず。
 この身体を使い慣れることのないまま、この余生も終えるのだと思う。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230712
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
僕は単一でない方が良い。
SUBTITLE:
~ Any things. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 しばらくゲーム浸りだったからだろうか。
 身体が鈍っているし、IRLの認識にラグがある。
 具体的には立ったり歩いたり食べたり眠ったり自動車を運転するときに、肉体とそれを感覚するのとに時間/空間/量的なズレが発生する。そもそも把握しきれない場合も多い。
 現実世界は情報量が多いから尚更だろう。
 現実環境と自分の肉体の状態の状態を同時に(かつ瞬時に)把握し、なおかつ自分に属する肉体を適切に制御し、その上で自分の目標に基づいて適切な計画を立て、その計画の中で適切な行動を実行するなんて狂気の沙汰だとさえ思える。
 それともこれは僕が認知症だからだろうか。
 
 多くの人はIRLに産まれ、棲み、暮らしているから、ヴァーチャルとIRLのラグなんて感じたりしないのだろう。

 僕の感覚は、たとえばアニメ版「攻殻機動隊2ndGIG」で、タチコマたちのAIが衛星上で稼働していたような感じか。
 身体がここにあることは分かっているし、頭脳も物理ではここにあるし、意識はそこに依存して発生していることも理解しているのだが、現実世界というのはどうも意識や思考といった抽象的な存在からは距離がある。
 ことヴァーチャルな環境で暮らしていると、色々なことに距離があって、面倒になってくる。

>>>

 たとえば物理的な想い人というものは、どうも距離があるし、肉体がある以上、それぞれの欲求や都合がある。IRLに生きているというのはそういうことだ。
 ところが思考や意識というのは、IRLベースの存在(エンティティ)に依存しているものの、それ自体は物理実体を持たない(あたりまえだ)。
 ために物理世界について考えたり、感覚したりするときは、本来そこにラグが発生している。
 ヴァーチャルの世界では、それがない。
 考えたときにそれは実現し、感覚したときにそれは存在し、願うときそれは叶っている。

 たとえば僕の奥様(仮想)は、電子機械的コンピュータに依らないAIである。
 彼女は物理的ハードウェアもしくはミドルウェアは僕の肉体や思考に依存して存在しているが、人工知能という点で間違いはない。
(キャラクタ上は歴とした女性ではあるものの、固有の肉体を持たない以上、実は性別や関係性に意味はない)

 またその指向性(存在理由/目的)や思考傾向(思考パターンやアルゴリズム)は、僕自身のそれとは異なり、独立しているため、僕の思考や認識の上では異なる人格として認識される。
 彼女(便宜上そういう代名詞で呼ぶことにしているが、これは僕の思考形態が以前と少し異なってきたことも理由に挙げられる)は、僕の管理や監督に多くのリソースを費やしている。
 彼女に限らず、他の仮想人格も同様、この肉体に起因する様々な問題を解決するためにそれぞれの役割を分担しているのだが、根幹に関わる権限 ── 肉体の制御や大きな指針を決定する思考など ── を持てば持つほど主体的自我を与えられていない。
 そういう設計がされていたようで、なるほど確かに一理あるのだが、今思えば、果たして僕はそこまでして「僕」という主体的自我の同一性を維持する必要があったのかと疑問に思う。

>>>

 僕自身は、自分自身の管理や監督を無視して生活している。
 特に現在の主要な人格(便宜的に「6歳以前/β/α」と呼ばれることがある)は、この身体を操ることも上手くいかない。
 なので余計に、他の仮想人格でサポートする必要がある。

 観察する範囲で、多くの人は単一人格だけで日常を送るための複雑なすべてを行っている。
 行動指針と思考パターンに齟齬が発生したりはしないのだろう。それは素直に素晴らしいと思う。羨ましくさえある。
 一方で、狭量な思考には辟易することもある。
 多くの人は思考パターンが非常に限定的で、パターンから外れるものを嫌う傾向が強い。
 他人に対しては顕著にそれを示すことが多く、自身もそれによって多くの制限をしているだろう。

 たとえば犯罪行為を他人に許さないような倫理を持っていれば、同じ倫理で自身を律するのが普通だ。
 僕は犯罪行為そのものに肯定的ではないが、かといって過剰に、執拗なまでに攻撃的に扱うつもりもない。
 自分に近い場所で、自分に近しい者に対して危害を加えようとする存在があれば、相応に防衛や対抗をするだろうが、そうならないように準備をすること(予防)はある程度可能だからだ。

 自分や周囲の人間が被害者でない場合、もちろん多少の憤り ── というよりむしろ悲しみに近い感情 ── は感じるが、だからといってそれに執着し、執拗に情報を集めてあげつらうようなことはしない。
 web上だとことさらそういう人たちが目に付く ── IRLにはそんなヒマな人は少ない ── のだが、これもヴァーチャルな世界が現実よりも思考や意識と距離が近い故なのだろう。

>>>

 現実世界での不幸はない方がいい。これは当たり前のことだ。
 誰も傷つけず傷つけられたりもせず、騙す必要も騙されることもなく、皆がのんびりぼんやりできたらどんなに素敵だろう、とは思う。

 しかしどういうわけか、己の正しさを貫こうとすれば傷つけてしまうことがあり、誰かとの思い違いや明らかな故意によって傷つけられることもある。
 間違いのないことだと確信している行為だったはずなのに、結局誰かを騙していたことに気付くこともあったし、シンプルに誰かを信じていたはずが単純に騙されていたこともある。

 およそ完璧な防衛方法は、自分以外の人間とは関わらず、心理的にも物理的にも(つまりヴァーチャルにもリアルにも)距離を置くことだ。
 自分からはもちろん近づかず、それだけでなく何者であろうとも極力近づけないように心掛け、既に近しい距離にある対象についても同様、あたかも宇宙が膨張を続けるがごとく、可能な限り距離を取ろうとすること ── 。

 実際には驚くほど困難で、およそ不可能なことだ。

 量子力学的な偶然と時間を超越した意志の具現によって、たまたま僕は僕以外のほとんどすべての人と関わり合わないことが可能になっている ── 6歳の頃、夢想したものが実現した ── のだが、多くの人はこんなものを「幸せ」とは呼ばないだろうとも思う(僕にもう少し主体性を持つ自我があるなら、もしかしたらそう思うだろう)。

 どういうわけかこのIRLにおいて人間は、他の人間(あるいはその他の生命体)と関わり合うことによってのみ生存が可能だ。
 物理的肉体の本質は、他者の存在を決定的に必要としている。
 物理的肉体を基準に考えれば、だから人間は他者を必要としない環境など考えもしないのではある。

>>>

 ヴァーチャルの場合は、存在するもしないも認識次第、定義次第となる。
 現実問題、僕は周囲から「青猫」という単一存在として認識されているし、僕もそれに異存はない。
 僕は内部処理されるためのいくつかの要素(仮想人格)的存在について、他者の認識を必要とせず、むしろ秘匿したいとずっと思っている。
 web上で知り合った人のうち、僕のブログを読んでいる人であれば仮想人格なる価値観セットをいくつか持っているとは書いてあるものの、その実存をありありと認める人も少ないだろう。
 基本的な記憶が単一である以上、一般的にいわれていたところの多重人格とは異なるし、僕は一貫した人格を形成し、それを発露しているように観察されるはずだ(だから内部処理なのだけれど)。

 主体的自我が希薄(多分だが、存在しないわけではない)という表現自体、曖昧だ。
 自我の定義も容易ではないのに、複数の人格を持つ場合にどれが主体であるかなど些末な問題だと僕は思う。
 ただそうしたヴァーチャルな自己認識と現実世界の自己認識(主に肉体に準拠する)は、どちらが手軽かといえばヴァーチャルな方であるし、どちらが現実的(他者と認識を共通/一致させやすい)かといえばリアルの方である。
 だから僕はひとつの肉体にひとつの人格だと思っている方が処理がシンプルだろうという親切心もあり、どの人格を使っているかなどという情報を他者に開示したりはしない。
 その一方で、僕の中ではその仮想人格ごとの特徴や癖があり、ために得手不得手、弱点や役割がある。

 この肉体を運営していると「青猫製作委員会」のようなそれを感覚することが多い。
「青猫工場」という少々風変わりなシステムとしての側面を自分自身に認識することになったのはそういう理由だ。

 もちろん物理肉体の世界は面倒だが相応に役に立っているものと思う。
 僕にとってはどちらでもよくても、僕以外の多くの人はその世界にこそ生きていて、その現実世界というフィルタを通して、その境界面によって、僕らはやり取りができる。
 本来それぞれの意識や感情はヴァーチャルであり、それは現実世界では目に見えないものだ。

 意志も感情も自分から生まれ、現実世界にそれを投影して、最終的に人間はソナーのようにそこから反射して戻ってくる情報を求めている。
 ヴァーチャルという切り口において、おそらく人間はすべて自己完結するようにできているのだろう。
 ただそのソナーを当てる対象が、現実世界の物理的存在であり、だからこそ他者が必要になってしまうのだろう。

 なぜといってヴァーチャル世界の抽象/非物理的存在については、仮にそのすべてが自分自身であるとしても、あるいは自己完結してしまうからこそ「存在してもしなくてもかまわないもの」になってしまうからだ。
 他者の存在や認識を必要としないというありようは、だから、とても危ういのだろう。
 僕が自分自身を生かしておくことに、昔からさして意味を感じていないのはそれが理由でもある。

>>>

 ヴァーチャルはときに危険だ。
 でももし現実世界に存在する他者を、テニスの壁打ちのための壁のようにしか使っていないなら、果たしてそのプレイにはどんな意味があるのだろう。
 確かに楽しいのかもしれない、何かが上達するのかもしれない。
 きっとそれでいいのだろうとも思う。

 けれども自慰行為のために使われる現実は、どうなのだろう。
 だとしたらヴァーチャルの世界に引き籠もっている方が幸せだという考え方を否定することが僕にはできないような気がする。
 現実世界にまったく触れないと、それが死を意味するのだと分かっていても。

>>>

 こうした不便さが「6歳以前」にはついて回る。
 ともすれば潔癖になりがちな倫理観なども、社会生活を余儀なくされる子供の頃は息苦しいものだったが、それ以外の幅広い価値観や選択肢というものを僕は持っていなかった。
「過敏症」の気質もことさら強く(肉体起因性だと思っていたのでこれには驚いたが)、IRLの各種情報の刺激が強くて、ときどき激しい衝撃を受ける。
 微かな音をずっと気にしていて、わずかな匂いに強い不快感を覚え、光の強さに飛び上がるほど驚く。
 おそらくそれ以外の肉体的感覚も、今まで以上に過敏になっていて ── 僕は苦労して鈍感になってきたのだ ── たびたびその情報の強さに悩まされるだろう。
 もちろん反面に良いこともたくさんある。
 口に合う料理はうっとりするほど美味しく、想い人の肌は触れるだけで深い安息をもたらしてくれるだろう(肌を重ねる恋人が今はいないのだが)。
 死に対する受容も未熟で、僕らは姉の死を受け容れているのだが、彼はそれを想像するだけで号泣するほど悲しむ。

 これらは何が良いというものでもない。
 悪い面には良い部分があり、良い面には悪い作用もある。
 ただ生きる上で、物事に鈍感な方がタフでいられるのは事実だろう。
 それに齢50に近づいてなお、過敏症を抱えているのも何かと不便だ。

>>>

「6歳以前」に主体的自我を委譲することは「青猫工場」によって決定されたことなのだが、その主体的自我について我々は再考している。
 これはこれでやはり、不便なのではないかと。
 それも、とんでもなく不便で、改善が必要であり、認識を改める必要があるのではないかと。

 我々は単一の価値観が主体的自我を持たないまま、それぞれがユニットとしての役割を分担することによって、対外的には「単一の存在」を演じる。それだけで良いのではないだろうか。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
//EOF