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// NOTE:
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TITLE:
こんな身体でよく生きてきたな。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

 微熱が続いている。
 一昨日は36.4℃まで下がっていたので、調子に乗って早朝のゴミ出しついでに庭のキュウリとオクラを収穫し、目立った雑草を少し取った。
 そして蚊に刺された。

 すると短時間で反応してしまって、全身にピリピリとした感覚が広がってゆき、刺された場所から痒みが発生し始める。
 程度は違うが、アナフィラキシィってこんな感じだろうな、と思い、
急いで家に戻ってシャワーを浴びる(蚊に刺された場所は、刺されてすぐなら洗うと症状がかなり軽くなることが多い)。
 それでも痒いので仕方なく服薬する。

 市販薬なのに痒みをおよそ抑えてくれるので、対症薬としてはかなり優秀なのだが、僕には効き目が過ぎる気がする。
 少々ぼうっとするし、注意力が落ちる。当然、自動車や機械の運転はできない。
 いろいろな感覚が遮断される感じ。精神安定剤のように、緊張も緩和されるので、落ち着いた気持ちに(強制的に)なって眠くなる。
 自分を害する者などどこにもいないし、悪意を持っている者もいない(なぜなら孤独だからだ)と分かっているのに、無意識に緊張している。
 これは子供の頃からの習性。

 つくづく思うのは、どうしてこんなに弱い身体で今まで生きられたのだろうか、ということだ。

>>>

 一昨年の熱中症も、さらに2年ほど前の熱中症もそうだったが、快復までだいたいひと月掛かる、というのが経験則。
 原因は至ってシンプルで、脱水するから。
 発汗量が多いので、およそ1時間程度で5%程度の脱水を起こしてしまう。
 仕事中や運転中だったりするとなかなか気付かない。

 汗が出ないから快適だな、と思ったときにはもう軽症ではない。
 その後は水を飲もうが塩を舐めようが、尿が出るだけだ。
 汗による排熱がなくなるので、体内に熱が蓄積してゆく。

 今回はその経験があったので、完全脱水する直前には身体を休めていたのだが、日陰で扇風機に当たっていても気温が体温を超えていること、遠方の屋外でクーラなどの冷却設備がないこと、服を脱がない(衆人環境の屋外なので脱げなかった)ことで、結局、重症化したのだろう。

 不可解なのはこの発熱と蕁麻疹だ。

 2週間を過ぎたあたりから、かゆみ止めの服薬をしないで過ごせるようになってきた(塗り薬 ── 市販されている中では最強クラスのステロイド系 ── では、範囲が広すぎて対処しきれないことが多いため)。

 本来の体温は36℃を少し下回る程度のことが多いが、蕁麻疹が発症してからは37℃前後を推移している。
 免疫の状態も炎症を起こしているときのもので、時折、風邪を引いたときのような痰があったり、頭痛、頭重、鼻づまりの他、歯根や一部のリンパに腫れや痛みを感じることがある。
 抗生物質を服薬するとこれら(蕁麻疹も含まれる)は全体に軽くなるが、これも長期服薬は悪影響が強いので服薬をやめると、症状が悪化するので服薬を再開して現在に至る(本来は、こういう間欠的な抗生物質の服薬は良くないはず)。

 発熱しているおかげで、気温(室温)が29℃なら涼しいと感じられる。
 30℃でも通常作業をするぶんには支障を感じない。
 ただし発汗 ── 意識できないほどの微かな汗ばみでも ── すると途端に皮膚が反応し始めるので、とにかく環境気温を下げている。
(まぁ、室温27℃で肌寒く感じるので丁度良いが)
 買い物は陽が落ちて気温も下がった22時以降だ。

 ちなみに医者に行かないのは日中に家を出るのが困難なことと、以前も似たような原因不明の蕁麻疹で医者に掛かった挙げ句、対症薬すら処方されなかったことがあるからだ。
 原因不明の体調不良は子供の頃からあったので、必然、僕は自身の体調不良について因果関係を考え、都度対処し、記録する必要に迫られた次第。

>>>

 熱中症によって、発汗とそれに伴う調節機能が著しく低下しているのは分かる。
 翌日から発症した蕁麻疹は、おそらく免疫力が急激に低下したためだろう。

 発汗機能は1週間しないうちに回復したが、肌が汗(高温)と直射日光に反応して蕁麻疹を発症する。
 掻き壊れた表皮から雑菌が入るので、炎症反応を起こしていたのだろうか。
 しかし服薬の副次的効果 ── 痒みが発生しないため掻き壊すことがなくなる ── で、表皮に新しい傷を作ることはなくなった。

 それでも免疫系は回復していない(ために体温も平熱に戻らない)。
 食事も最初は普段どおりの食事で問題なかったのだが、最近は食欲がなくなってきたので療養食に切り替えている。

 具体的には普通に炊いたごはん(白米が苦手なので玄米)でも、消化吸収の不良を起こす。
 胃腸の具合や排泄から観察するに、吸収系に問題が発生するようだ。
 ある意味、何を食べても太らない状態だといえるが、もともとそんなに食欲旺盛ではないので得した気分にはならない。

 僕にとっての療養食は、ゼリー、ヨーグルト、粥などである。
 米の消化吸収が不得手なので、いつも粥は最後に試すことになる。

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 少し整理しておこう。

○ 発汗による脱水が起こり、熱中症(熱射病に近い)になる。
○ 発汗が停止すると、水分補給しても発汗しなくなる。(水分補給はほどほどでよい)
○ 発汗停止より以前に水分補給し、対外環境温度を下げる必要がある。
○ 発汗機能は数日で回復する。

○ 脱水による熱中症に罹ると免疫力が著しく低下する。
○ 消化機能等も低下する。
○ 蕁麻疹が出る場合もある。これも環境温度を下げ続けることで快復を待つ必要がある。

 そうだ。
 熱中症に罹るたび、その後ひと月は(発汗を抑えるため)環境温度を下げ続ける必要があり、それで行動(活動)を大きく制限されるのだった。

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 冒頭にも書いたが、こんな身体をずっと使い続けている。
 およそ半世紀である。よく保ったな、という感がある。

 体調不良になるたび、子供の頃は両親があれこれ手を焼いてくれていたわけだが、さぞ苦労したものと思う。
 風邪なら原因も症状も分かりやすいが、原因不明のものとなると手の打ちようがない。
 母乳アレルギィやら粉ミルクアレルギィとなったら、一体どうしろというのか、とも思うだろう。
 大人になってからことさら加工レベルの高い食品を忌避するようになったのも、それが何らかの不具合を誘発するからだろう。
 数年前も半年ほどにわたって、原因不明の体調不良に悩まされた。
 僕にとってはこれが普通なのだ。
 
 今回の熱中症も、周囲で(同行したTUやその他大勢が)熱中症に罹っている気配はなかったし、それどころかゲームを続けている人までいた。
(運動部の大学生などは、確かに強健だろうと思う)
 家の中に引き籠もって3週間が過ぎようとしているが、TUや妹は、驚いたり呆れたりはするものの「まぁそういうものだよね、分かってる」みたいな顔をしている。

 思うに子供の頃はずっとそうだった。
 周囲との体力の差はいつも歴然としていたし、具合が悪くて寝ている記憶がほとんどだ。それか妹から暴力を受けているか(笑)。
 なるほどヴァーチャルな世界に棲まうべく素養がこのようにして培われたのだろうと今更ながら分析できる。
 つい懐かしいな、などと感じてしまった。

>>>

 庭の草刈りをしたいのだが、日の出直前(だいたい4時頃)から草刈り機を回すわけにもゆかず(それでも発汗を抑えるには30分程度しか作業できない)、毎日、朝な夕なに窓から外を眺めては「あー」と呻いている。
 子供の頃もそうだったろうか。

 外界に対して、あるいは人並みに活動できることの不思議に対して。


 




 

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~ Junction Box ~
 
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// NOTE:
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TITLE:
謝罪会見って何だろう。
SUBTITLE:
~ That Guilty. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
【謝罪会見は平和の証?】

 謝罪会見というのはいつから一般化したのだろう。
 昔からあったのかもしれないが、興味がないので見たことはない。

 社会的(というよりむしろメディア的)な知名度の高い個人や企業・団体などによる公序良俗に反するような行為があった場合、これまたメディアの前で謝罪をするという形式の記者会見だろう。
 おそらく被害者と呼びうる対象が不特定多数になったり、特定可能だけれど多すぎるため、直接の謝罪はもちろん書面での謝罪もままならないという理由から開かれるのだろうか。
 場合によっては被害者とされる側と係争中のケースもあり、当然ながらすべての情報が開示されるわけではない。

 個人的に、これは単なる吊し上げのようなものだろうと僕は思っている。あまりいいイメージはない。
 他に優先することがあるのではないのか、というのがそもそもの理由だ。

 謝罪する側ももちろん、それを楽しみに見ている側(被害者とは限らない)も、会見をわざわざショーにするメディアも、である。
「他にすることないの?」というのが素直な疑問である。
 まぁ平和な証と考えておけば良いのだろうか。

>>>
【謝罪会見はリソースの無駄では】

 公序良俗に反する行為、というのがどの程度の問題かにもよるし、謝罪する側の体制がどのようなものかにもよる。
 たとえば法人組織が巨大であれば、広報部のようなものもあるだろう。
 それならメディアの対応にはうってつけの部署であり、広く世間に向けて謝罪するという「お気持ち」の表明にも意味はあるだろうと思う。
 しかしそれを持たない小規模な組織であったり、被害者と係争中であったり、被害者に対してお詫びをしている最中だったりした場合、記者会見などにリソースを振り分けるのは、無駄ではないだろうか。

 たとえば東北で津波を伴う大地震があったとき、原子力発電所のいくつかの事故についても同様に責任者が謝罪会見をしていたような気がする(していないかもしれない。どちらにしても見ていないのでほとんど憶測である)。
 現場の責任者であれば詳細な説明は可能かもしれないが、地位が上になればなるほど具体的な情報(トラブルとその原因、対策と今後の見通し)から遠ざかることになる。
 現場責任者の方が、トップクラスの責任者よりも詳細で具体的な情報を持っているだろう。
 トップが謝罪するためにそれらの情報を集約するとしても、広報向けにまとめるだけでさえ余計なリソースの消耗になる。
 喫緊の問題を抱えているのだとしたら、この時間的/人的なロスはいかんともしがたい。

 その時間を、もっと有用に使えるのではないかなぁ、と僕は思ってしまう。

 あるいは芸能人が公序良俗に反する行為をした場合も同様。
 不貞行為だろうが麻薬使用だろうが、裁くべき人が裁いてくれるわけであり、広く世間に謝罪などしなくても相応に罰やペナルティが科せられるだろう。
 つまるところ僕の気持ちは「早くきちんと被害者対応をすればいいのに」というところか。
 繰り返しになるが、僕は謝罪会見というものが退屈なのでまったく見ないのだが、それを見て「ああ、そうやってちゃんと謝ってくれるならいいか」と思える人も居るのだろう。
 もっともそういう人はそもそも観ないと思うが。

 僕が「吊し上げ」と表現したのはそういう理由だ。
 許せる人は謝罪会見などなくても許せる。
 許せない人は叩くために謝罪会見を見る。
 謝罪会見をする側は、そもそもそれを時間のロスだと認識していれば良いけれど、その場を凌ぐ方が優先されるだろう。
 会見を流すメディアや会場を提供する組織/団体が儲かるのかもしれない。

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【知名度の危険性】

 知名度が高いというのはこうした部分で非常に厄介だ。
 特にwebがIRLの社会と重複した役割を果たすようになったぶん、人間が合理的な情報の取り扱いをしきれていない可能性も考えられる。
 僕は10年ほど前から、知名度を下げることに必死に取り組んできた(といってそもそも知名度などない)が、それは知名度が高いことは不自由だと気付いたからだ。

 webを含むメディアが乗せて運んでいる情報は、個人の感情から組織・団体のアナウンス、国家やそれより大きな組織の大観に至るまで様々だ。
 現在起こっていることのほか、過去に明らかに起こったこと、未来に起こるかもしれないこと、普遍的に変わらない基本的なことなども多くある。
 僕が書いていることは、所詮、単なる個人の感想に過ぎない。

 メディアというのもその多くは営利団体である。NHKさえ(建前がどうなっているかは調べないと分からないが)営利団体だろう。
 それが悪いというのではない。
 知名度の高い営利団体や、イメージを売り物にしている(そんなものが本当に売れると思っているなら相当にめでたいのだが)個人とそれを取り巻く営利組織も、よりリスクの少ない、効率よい手法で、ホワイトでクリーンなお金稼ぎをしたいと(少なくとも表向きは)願っているだろう。

 しかしそんなに簡単ではないことは多くの人の知るところだ。
 とくに組織が大きくなると、僕のような穀潰しが棲む隙間を生んでしまう。
 トップが穀潰しになっていたりすると、もはや打つ手もない。
 ジリ貧になり合併を繰り返すうち、劣化コピーのような機能さえ果たさなくなるだろう。

 かつてゲーム業界にそれが見られていた。
 現在の国産ゲームメーカは、掛かっているコストも(売値も)技術も高いのだが、ゲームとしてはつまらないものが多いように感じる。
 保険会社も吸収合併を繰り返したが、コンテンツは拡充するどころが縮小し、ユーザに苦慮を強いる一方だ。いったい得をしているのは誰だろう。

>>>
【大きくて、有名で、綺麗なだけで安心しちゃうの?】

 今回は「ビッグモーター」という中古車販売チェーンの不祥事が取り沙汰されている。
 以前、無職になったときに面接を受けたことがあるのだが、個人の感覚で「この会社は勤めるにも相当危ないな」と践んでいた。

 僕は接客や営業の仕事をするときに、最低でも1年は様子を見る。
 取り扱う商品についてはもちろん、それを必要とする人や企業がどのようなモノを具体的/潜在的に求めていて、どのような対応/工夫をすればいいかを観察し、身に付けるまでに掛かる時間としては妥当だと思っている。
 もちろん僕より出来のいい人間なら、より短期間にそれらを発露しうるだろうとは思う。
 有り体に言って、僕は接客や営業をする上で、とくに優れているタイプではないからだ。

 面接担当者は「この店舗の営業でテッペン(トップ)になるのに、どれくらいでできますか」と僕に質問してきたので「最低でも半年、通常は1年です」と答えたところ、かなり難しい顔をした。
 聞けば、3ヶ月ほどでそうなれると豪語し、実際にそうなる営業がいるらしい。結構なことである。
 それだけで「ここは辞めておこう」と僕は思った。
 個人プレイを優先し、競争を煽動する店舗ありのサービス業など、ロクなものではないと感じたからだ。

 もちろんそういう場所でガツガツできる人も居ると思うが、僕はそういう仕事をしたくない。
 競争が嫌いなのだから仕方ない。
 ソロプレイをできる才覚があるなら、そもそも会社になど属さなくていいではないか。
 僕は凡人かそれ以下の能力しかないので、会社を探して面接をしに行っているわけで、凡人以上を求められるならそれはお互いのためにも辞めておいたほうがいい、という考えである。

 何かが何年か連続でNo.1らしい(CMも見聞きしないので、よく知らない)が、そもそもあれだけの敷地を持つ店舗とスタッフと車両をいくつも抱え、CMも打っていて存続できる(メーカの直属ディーラでない)会社が、ユーザフレンドリィだと勘違いする方がどうかしていると思う。
 だから車を買うときも候補にさえ入れなかった。
 大きいから、綺麗だから、メディアに広告を出しているから、という分かりやすいインタフェイスを作るには、相応のお金が必要で、それは必ずエンドユーザが支払っている。
 まともではないと思う相手と取引などするものではない。

 契約をしてしまった人や被害に遭った人は多少哀れだと思うが、もう少し社会を知ってから自動車の売買をしても良かったのではないかと思う。
 大きくて綺麗な店舗の会社がいい、というならディーラに行ったほうがいいだろう。
 群馬のような辺境にもなると、ディーラもデスクやガレージがちょっと散らかっていたり薄汚れている店舗がある。敷地面積も小さい。
 それでいいと思う。
 自動車やそれにまつわるサービスを買いたいという顧客は、会社のイメージや、その会社から何かを買う(あるいは売る)自分のイメージを買いたいというわけではないだろう(まぁ高級車ブランドのディーラだと「そこでやり取りする私」が欲しい人もいるのだろうけれど
)。

>>>
【イメージを売買できる時代】

 知名度のある個人はイメージを売っているというのだが、僕はそれを買ったことがない。
 他人のイメージって買えるのだろうか。CMすら見ないから素直に分からない。
 有名人が「ここなら安心」とか「これは素晴らしい」と、CMやメディアショッピング(TVのほか様々な媒体であるだろう)で言っていれば、それでその商品を買うのだろうか。魅力的に見えるだろうか。
 僕はそうは思わない。つまり僕は、彼ら彼女たちのイメージとやらに一円も払っていないだろうと想像している。
 よって謝罪を楽しみにするという、加虐的な性向の悪さを発露するにも値しない。

 今回の中古車販売会社の場合、悪質な手法で保険金を過剰請求していたというのがもっとも問題視されているようだ。
 保険金請求をしている場合、一番の被害者は保険会社ということになる。
 個人の場合、基本的に損害の程度の大小を問わず保険契約者が支払う保険料は事故の件数により増加するので、1件で300万円の損害が発生したケースより、100万円の損害が3件発生した方が、契約者が支払う掛け金としては損失が大きい。
 保険会社からすれば、同じ300万円の補償であっても、1件の事故として請求されれば損になる。
 また保険金請求をしていなければ、被害者は単純に契約者(車両オーナ)となる。

 修理する側が故意に損害を大きくし、保険会社にであれ所有者にであれ請求することは、器物損壊なども含めて犯罪ではある。

 まったく取引をしていないので分からないが、仮にそれらの犯罪行為を会社ぐるみで行っていたとして、謝罪面会とやらはいったいどんな意味を持っているのだろう。
 やめるべき、というわけでもないし、もっとやれ、というものでもない。
 意見があるのではなく、単純に効果も理由も目的も分からないから疑問に思うのだ。

 まぁ、社会から距離を置くようにしているので、だから分からないのだと言われてしまえばそこまでだし、そういうものを必要として、それが当たり前の社会だと言われてしまえば「そうですか」としか言いようがないのだが。
 まともな人間は、こんな吊し上げをされるのには耐えられないと思うし、それを見て楽しむこともできないと思うのだけれど。どうなのでしょうね。

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【蕁麻疹の経過】

 昨日購入した薬が良く効いて(内服薬は効きが強い上、神経系に作用するので感覚に影響が出て困るが)過ごしやすい。
 とはいえ運動など体温の上がる行為もできないし、直射日光に当たると刺激を感じる。
 汗で痒くなることは減ったが庭仕事をするのは躊躇う。

 群馬は40℃に迫る気温。
 11時頃から眠って18時頃に起き、料理は夜、入浴は朝方にするようにしている。

 寝ている間は室温が29℃程度でも、半裸なので問題ない。
 動けば人体の内から熱が発生するわけで、日中は寝ている方が省エネになる。
 狭い室内でエアコンを掛け、ゲームや読書でもしているのが高効率だといえる。

 この異様な暑さがもはや通常である。異常ではないのだろう。
 いずれは夏だけ夜型社会になるかもしれない。効率を考えればその方がよいとも思える。

 地下で水を冷やすという機構を、もう一度試してみようかと考える。
 網状に分岐した金属管を埋設し、ビニルパイプで地上に出して屋内のラジエータで熱交換する仕組みだ。
 水(もしくはクーラント液)を循環させるポンプとファンしか電気を使わない。
 もちろん地下地温まで下げるのが限界なので性能は低いが、そのうちエアコンの室外機は地面埋設型も出てくるのではないだろうか。
 いや工事や管理が大変か。







 

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生きづらい、ってどういうことだろう。
 
Written by BlueCat

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 感冒に罹っているような感覚異常。
 この身体に手を焼くのはいつものことだが、医者に行ったところでほとんど何の解決にもならないのもまた同様。
 対症療法薬が効けば良い方で、たいてい薬も出されず帰ってくることになる。
 なので医者に掛かることも少ない。

 医者が悪いというのではない。
 生まれついて少々変わった体質の自分が、一般的ではないというだけだ。

 高脂血症も、会社の産業医が健康診断で指摘し、当時暮らしていた前橋市内で最寄りの病院に掛か
ったところ、たまたま循環器系にも詳しい先生がいたため話が早かった。
 しかし太田市に来てから近所の病院に通いはじめたのだが、話にならないので今では前橋のその病院まで通院している。

 医者には得手不得手がある。誰だってそうだ。
 そして一般的な情報は共有され、広く流布する。
 家族性高脂血症と言っても、まともに取り合わない医者がいたところでそれを責める理由はない。

 母乳も粉ミルクもアレルギィだったという人を見たことがない(僕はそうだったが)。
 特異体質の自覚はあまりないが、客観的に、少数派の体質であることは確かだ。

 仕方ないので自分で記録を残し、似たような状況になったときに対処するしかない。
 ために僕は自分の不調を細々書き残す。
 誰かに心配して欲しいわけではないし「自分はこんなに大変なんですアピール」したいわけでもない。
 もちろん誰かが心配する自由(権利と言ってもいい)を否定する気はないから心配してもらっても構わないけれど、どちらかといえば放っておいてほしい ── どうにもならなくなれば無駄を承知で医者に行くのだし、「心配だお♡」「ありがとう♪」というコミュニケーションに意味を見出せないお年頃でもある。第一、それなりに辛いからそれどころではないのだ。

>>>

 蕁麻疹がまったく引かず、掌や表皮が熱を持っている。
 数日で収まるかと思い放っておいたが、明日で1週間になる。

 痒みがずっと続いていて、ときどき突発的に鋭い痛みのような痒みのような激しい感覚に皮膚を刺される。
 うかつに薬も塗れないので仕方ない、我慢せず、優しく掻いている。
 眠っている間も意識せず掻いている ── 昔は意識していたのだが、自動化できるようになった ── ので身体が休まらず、目覚めは少々ぐったりしている。

 20代の頃にも一度、全身を覆う原因不明の蕁麻疹に襲われ、ひと月近く会社を休んだのだったか。
 今回の場合は明らかに熱中症が原因だが、どうして蕁麻疹が現れて、どうすればそれが引くのかは分からない。
 webを当たっても、熱中症後に蕁麻疹が発生するという症例についての情報は見た限りにない。

 想像するに温熱/発汗/射光によるものだろう。
 熱中症に罹ったとき、靴下までは脱がなかった。
 汗が出なくなっている状況だったのだから、布で覆っている部分を少なくするべきだったかもしれない。
 なるべく肌を晒したくないという無駄な自意識が悪かったといえる。

 今はなるべく陽に当たらないようにし、低めの温度(それでも27℃くらいで肌寒く感じることがある)に設定した室内で、汗をかかないように、分泌されたらすぐに濡れタオルで拭き取るようにし、それでも皮膚の違和感がある場合は(短いスパンになっていても)シャワーを浴びる。

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 以前、医者にもらった抗生物質(余っている)を飲んでいると症状が若干和らぐ。
 この服薬は逆効果のような気がするのだが、意味が分からない。
 オメガ3系脂肪酸がヒスタミン抑制に有用らしいので、置きっぱなしで滅多に摂取しないそれを食事の時に飲む。
(大さじ1/2程度である)
 ステロイド系の塗り薬も持ってはいるが、おそらく使用期限が切れているだろう(滅多なことでは使用しないので)。
 と思って冷蔵庫にあるそれを見たら、10年以上前に期限が切れていた。買いに行くべきか迷うところだ。

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 最近は目にする機会が減ってきたが「生きづらい」とか「生きづらさ」という言葉が、僕はあまり好きではない。
 なぜといってその前提に「生きることが容易である」という考えがあるからだ。
 しかし生きることは、そもそもそんなに簡単なことだったろうか。

 もちろん容易に生きることができれば、それは理想的だ。
 力の弱い者、才のない者、うだつの上がらない者、知恵の回らない者、気が利かない者、自分のことばかり主張する者、協調性に欠ける者 ── 。
 能力や生まれついた環境に恵まれた人はもちろん、上記のように恵まれない人たちであっても、たとえば文句を言いながらも、毎日何となく思い付いたことをして、飢えたり病気になったり怪我をしたりする機会が少ないように暮らせるのが幸せなことだろうと思う。

 しかし誰だって、生まれの境遇には多少なり不満があるだろう(僕はあまりない)し、生い立ちのすべてに満足している人も少ないのではないか(僕は今でこそ納得しているが)。
 スタートから現在までの経過がそうであるように、現状に不満のない人も少ないだろう(僕は満足している)。
 実際に恵まれているかどうかというのはあくまで相対的なものだ。
 恵まれている人は恵まれているなりに不満もあるだろうし、恵まれていない人だって考え方次第で満足することは可能だ。

 とりあえず、死なずに生きる、という点だけを考えれば、現在の日本はまずまず恵まれた環境だろうと思う。
 まずまず、であって、完璧、ではもちろんない。

 様々な不遇があり、そこには偶発的な、自然発生的なものもあれば、人為的な、故意にもたらされたものもある。
 具体的な不幸について、あれこれ挙げればキリがない。
 金銭的なこと、権利のこと、肉体的なこと、精神的なこと。
 事故もあれば犯罪もある。他人に利用されることもあれば、利用していたことに気付いて愕然とすることもあるだろう。

 メディアで目にした「生きづらい」という文言に含まれる意味は、そうではない。
 もっとふわっとしていて「お気持ち」要素が強い。

>>>

 たとえばセクシャルマイノリティの人が「生きづらい」という。
 自認する性について、社会の理解を得られないことが不遇だというのだろう。
 しかしそもそもどうして他人の性的自認を僕ら全員が認識し、配慮しなくてはならないのだろう。

 僕自身、性的自認が肉体のそれと異なること(そういう人格)もある ── そもそも肉体の違和というなら僕は猫の身体に収まっていないから、種族違和が激しいのだけれど、そういう話はややこしくなるからやめておこう。本気だと思われても困るし ── が「お前の性別なんてお前自身とベッドに入る人、合計2人以外に関係ないだろう」と思う。
 僕はそのため、対外的には(肉体的な性的嗜好に合わせ)男性として暮らし続けているし、一人称に「僕/俺」も日常的に使っている(もちろんそれ以外も使う)し、トイレやお風呂について「女性用じゃないと嫌だ」なんてことは思わない。そんなことはどうでもいい。
 むしろ恋人から「性転換手術とか、しないでほしいな」と言われたりしたことの方が重要である。一緒にいる誰かに不遇を押し付ける方が僕には耐えられない(ちょうどお金も持っていない時期だったので良かった)。

 それに道ですれ違う人のひとりひとりに「あ、おっぱいが膨らんでる」とか「股間が左寄り!」とか思っている人の方が異常だし気持ち悪いと僕は思う。完全変態である。サナギになる気か。

 他人に認められたい、他人と価値観を共有したいと思うのは自由だ。
 しかし他人に無理強いしてでも認めさせようとすること、他人に価値観を強要することは、端的に言えば支配であり強制であり強姦である。

 なぜ自分が変わらないで、社会が変わることを求めるのか。その要望/欲求は正当で、社会の役に立つのか。
 そういう視点を議論せず、ただ権利の話をしているならば、仕事(会社にとって直接に金銭的利益を生む行為)もしないで「給料が安い」と言っているダメ社員と同じである。
 政治家でいえば、社会のためになることをあまりしているわけでもないのに「我々の権利は手放しません。かつ増税します」と言っているのに等しい。
 まぁ、それがこの社会で普通だというならそういう価値観の世の中なのだろうな、と(僕が)諦めるよりないが。


 個人の権利はもちろん尊重されるべきだろうけれど、集団や社会は、相応の理由があって形成されている。
 集団や社会にだって、権利はある。
 その集合の特権階級に、ということではなく、そこに属するひとりひとりに、である。

>>>

 話が少々脱線してしまった。

 本質的な生きづらさとは「今、自分が持っているものだけでは、この集団/社会/世の中/時代に生存することが困難である」という状況ではないだろうか。
 たとえば比較的軽度のヤングケアラくらいなら僕は社会的相互扶助の一端でしかないと思っている。
(保身のために書いておくと、僕自身がそうだった)
 ネグレクト(育児放棄)に遭っても、逃げる場所を見つけられるなら(見つけられたなら)まだよい方だろう。
 しかし逃げ場のない虐待にまで至ると、これは度し難い。生存が困難である。

 子供に限ったものではない。
 学歴や職歴の不足で生活に十分な賃金を得られる職に就くことができず、外見や生い立ちや性格でパートナーに恵まれず、生活保護を受けようとしても認められず、望まずして売春や性風俗をするような人も居る。
(失踪している僕の姉はこのケースに該当するだろう。子供の頃から売春をしていたから、その根は複合的だ)

 まともに会社勤めをしている男達だって、高齢化社会の中で、権力や既得権益にしがみつく高齢者のために不遇を押し付けられ、発想や行動にも(予算やらコンプライアンスやらと)制限を課せられ、かといって独立するほどの才覚や運がなかったら、現状を維持するのがやっとだろう。

 彼ら彼女たちのそのすべて「自分の望んだ生き方ができない」という点で、十分に「生きづらい」のだけれど、そうした弱者はたいてい現状に対して不満を言わない。
 そういう発想を持たないし、そもそも文句を言ったところでどうにかなるものではないと諦めている。
 だいたいどこに(誰に)言えばいいのかも分からない。そういう能力もないのだ。

 自分の望みさえ持てない状況というのがある。
 現実にあり、昔からあり、今もある。


 先々月の電気代も払えない。
 今日明日の食事代もままならない。
 自分の持っている僅かなリソースと交換できるお金はわずかで、焼け石に水のようにしかならない。
 なんとかそれを変えたい。
 せめて「普通」といえるレベルに到達したい。でもどうやって ──。

 それが本来の「生きづらさ」だと僕は思っている。

 寝食にあたって生命を脅かされるような状況にない人間が、やれ「会社で認められない」だの「学校で友達ができない」だの「自認性別の公衆浴場に入れない」なんてどうでもいいではないか。
 それが「生きづらさ」だというなら、はいそうですね、とは言えるが、だからどうしよう、という気にはならない。
 勝手にしろとしか思わない。
 もっと救うべき弱者がいて、もっと救われるべき少数派がいる。
 そしてそれを本来は社会が救っておくべきだったと僕は思う。

>>>

 正確に言うなら、ネグレクトを起こすような親もまた不幸なのだ。
 若者(というより子供くらいの世代)に、家事や介護をさせなくてはならない大人達もまた不幸なのだ。
 虐待をしてしまう人もまた不幸な生い立ちと精神を抱え続けている。
 会社や学校で、権力を振りかざして環境を持続不可能なものに変えてしまう者たちもまた不幸なのだ。
(これらの加害者になる可能性があるため、僕は社会や集団に参加しないように心掛けている)

 そう考えると、国家を存続させるべく適切な学習や認識や発言や行動ができない政治家も、またそういうどうしようもない人間からしか候補者を選べない我々選挙権者も、同じく不幸なのだろう。
 パパ活をしようとして失脚しかけた政治家だって「モテたい」と思った時代にモテることさえ叶わなかった、という点では不幸だろう。色々な意味で救いようがないが。

「生きづらさ」というのは本来血生臭いし、泥臭い。それだけでなく死臭さえする。
 メディアが(あるいはメディアに)訴えているのは、ほんの表面的なことだろうと僕は思う。

 生きることは簡単ではない。
 食べるものを畑で作って自給自足することだって簡単ではない。
 それなのに、それだけでは税金を納めることができない。電気代も払えない。

 みんなで協力した方がいいから、家族を作り、集団を形成し、社会を作ってきた。
 それなのに今やその社会は複雑だ。人口が減ってカスカスなのに、だからこそもっと複雑になってしまった。
 その中でも運や才覚や環境に恵まれた者は、確かに豊かな時間を過ごせるだろう。

 ではそれを持たないものはどうすればいいのだろう。
 そういう人たちが、せめて「普通に」「人並みに」暮らせることが「生きやすさ」であり、それができないことが生きづらさなのだと僕は思う。

>>>

 メディアで発言力を持つ人が、仰々しく政権の無策や芸能人のスキャンダルを語ったりする。
 あたかも弱者を擁護しているかのような発言をする人は少なくないだろう。それが常識的だからだ。
 しかし彼らが、どれだけ社会をよりよくしているだろう。
 どんなことを実践しているだろう。
 言葉で訴えるだけなら、誰でもできる時代なのだ。

 資本主義社会、競争社会にあっては、必ず脱落するものがあり、弱者が生まれる。
 では社会主義、共産主義的な社会だったら、それはそれで今の日本と同じかそれ以上に権力者が独走してしまうことになる。

 何が正しいのかは僕にも分からない。

 たまたま僕は生まれ育ちこそ不遇だったかもしれないが、とにかく運が良かったので、ほとんどのことを自分ひとりで処理できる環境を構築できた。
 家族を持てば、とんでもなく手間のかかるイキモノの世話をさせることになるので、そんなことにならずに良かったとも思っている。
 しかしこれは僕に限ったものだ。

 運が悪くて、生まれも育ちも恵まれなくて、学もなく、地頭も冴えず、容姿に恵まれず、友達も恋人もできず、親兄弟もろくでなしが多く、孤独だし誰かに利用されたり騙されたりすることもあるけれど、それでもまぁ、ごはんは食べられるし、あたたかい場所で眠れるし、身の危険は感じないし、挨拶を交わすくらいの相手はいるし、今日よりもうちょっといいことがあるかもしれないから明日も頑張ろうかな、と誰もが眠る前に、ときどきほんの少しでも思える社会になればいいと心から思う。






 

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夢見の猫の額の奥に:
 
 
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TITLE:
達人の予感。
SUBTITLE:
~ Master's differentiation. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

230720

 数日前、誕生日を迎えた。
 齢48。四捨五入を二度繰り返すと今年もちょうど百歳である。
 おめでとう自分。
 余命は17年。僕の自由時間は諸般の事情により、一般的な人の二倍にあたるので、実質34年分の活動が可能だ。

 翌16日は、TU(中学からの友人)に誘われ、ひと月ほど前からサバイバルゲームの予定が入っていた。
 が14時には体温を超える気温になり、熱中症を起こし掛けていたのでゲームに参加せず、テントで待機。
 塩を舐めても、水を飲んでも、汗が出なくなってしまう状態にまで到達するが、身体を動かさずにいたため大事に至らず解散まで保たせることができた。
(遠方であり、TU以外にも示し合わせて参加した人がいたので、僕一人の体調不良で解散にしたくなかった)

 もともと発汗量が多い方だろうと思う。
 30代になって自転車に乗るようになってからも、40代になって運送業に就いたときも、自分の発汗量が他者より多いことは感じていた。
 おそらく入浴の習慣にもよるのだろう。

 僕は比較的高温の湯でも浸かり方を変えながら長湯をする。
 一時期は水分補給をしながら2〜3時間は湯に浸かっていた。
 昨年あたりから、1回あたりの時間を減らし、今年の夏からはシャワーをメインに、湯船に浸かるのは週に1回程度にするようにしたが、冬はきちんと湯で温まらないと、寒くて生きられないのがこの家の特徴だ。

 僕の身体は、だから汗をよく流すようにできている。
 体臭が少ないとガールに言われがちだったのもそのためだろう(今は分からないが)。

>>>

 30代の頃だったろうか。
 あれこれ書き連ねるうち「どうやっても、真髄のような、物事の核心にある道理は言葉では説明しきれないかもしれないな」と思うようになった。

 同時期に、ちょうど弟子と接する中で感じたのだったろうか。

 道理というのは、ある種の理屈であり、ある種の正しさでもある。
 しかし物事にはどうしても、明の部分と暗の部分があり、右があれば左があり、上があれば下がある。
 物事自体にそういう明確な区切りがあるわけではない。

 たとえば北を向いていて、右手は東であり、東を向けばそれが南に変わり、やがて西へ、北へと、向きを変えるたびに「右手の方角」はその意味を変えてゆく。
 見方の問題であり、認識の問題であり、視点の問題である。
 つまりは意識があり、肉体があるために、物事の認識が限定されてしまう。
 右だ左だ、上だ下だ、正しい誤っていると、いくら言っていても、言い合っていても、その方角を精確に明示し、互いに認識することはむつかしい。

 言い争っている人間が、実は根底ではまったく同じことを「これこそが正しい」と言い合っている姿を見ることもあった。
 しかしそれを外部から「いや両者とも言っていることは同じですよね」と言っても聞かない。
 先の例で言えば、東を指しながら、北と南を向いている人間が「右だ」「左だ」と言い合っているようなものだ。

 だから徐々に「ああ。誰かに何かを諭すようなことはやめよう」と思ったのだ。
 僕が思う(認識する)正しさとやらも、必ず誰かにとっては誤りそのものに思えるだろう。
 何となれば僕の存在や価値観が、誤りや過ちだと断ずる人がいてもおかしくない。
 もちろん僕は自分を正当化するつもりも、正当だと主張する気もないのだが、誤りを許せないという潔癖のありようもまたよく理解できる。
 それを弾劾し、排斥しようとする気持ちも、分からないではない。
 僕の持つ、僕の体現する「正しさ」なんて、どこまで行ってもその程度だろうと、そのとき見えた気がした。
 皆が納得し、賞賛し、まして憧れるような、綺麗な正しさを体現する方程式の導き方など、僕には示すどころか見ることも認識することもできないのだと思った。

>>>

 当時はあれこれと物事について(可能な限り)多角的に認識することで、何らかの法則を見出し、それによって他の事象についても思いどおりの結果を導くことが可能だと思っていた。
 たとえば僕は人間の心理のありようや、その人本来の魅力というものについて、小賢しく理屈づけた心理学や、もっともらしく消費者心理を誘導するメディアの情報ではなく、実生活の中に求めようとした。

 異性に(だけではなく、実は犬や猫や鳥やヤドカリや鹿や、果ては無機物にまで)モテようとしたのも、そういうった動機である。
 結果は惨憺たる部分もあったが、満足はしている。
 モテるというのは技術的に、あるいは方程式のように、身に付けたり、導くことが可能で、つまり操作ができる。
 そして当然だけれど、いいことばかりではなく、悪い面もある。
 僕がモテるのにあたって学んだ書物をあたる限り、モテる方法はそれとなく書いてあったが、モテてからどのようにその道を律するべきか、またモテることによって発生する様々な困難やその対処法については記載がなかった。

 経験則を踏まえて、そうした道理のようなものを書いてはいたが、きちんと全体を描ききろうとすればするほど、情報が曖昧模糊としてしまうことが多くなった。
 もともとの気質もあるのだろうが、僕は「A」と「notA」を混在して認識する傾向が強い。
 清濁併せ呑むといえば聞こえはいいが、一般的には優柔不断で、抽象的だと認識されるだろう。少なくともそういう苦情は子供の頃から多く言われていて、ときに悩んでさえいた。

>>>

 物事を断ずる人は強い。少なくともそう観察されるだろう。
「A」なら「これはAだ」と、「notA」なら「これはAではない」と、はっきり、きっぱり、ばっさり言い切った方がいい。

 もちろんそれはむつかしいことではない。むしろ容易だとさえ言える。
 しかし言い切ったあと、自分の中で少しわだかまる。
「Aとは言ったけれど、実はnotAの部分があるんだよな」といった具合だ。
 自分に言い聞かせただけならすべて織り込み済みだから良いのだが、他人に聞かせるとなると、嘘は言っていないがすべて伝えたわけではない、ということになる。
 ある種の情報操作をしているような罪悪感を感じることになる。
 しかし両方伝えると、だいたい分かりにくくなる。かえって伝わらなくなる。喜ばれるのもどちらかに断ずる方である。

 ために誰かに何かを伝えようとすることは諦めた。もはやどうしようもない。

 そのときふと思ったのだ。
 何かの道の達人は、そのようなわけで、弟子達にさえ言葉での説法をしなくなるのだろうな、と。
 宗教家であろうと武道家であろうと料理人であろうと職業人であろうと芸術家であろうと、その道を目指す後陣に対して、始めの頃こそ道を指し示すようなことがあるにせよ、ある時期から、もはや語ることをしなくなってしまうのは、もしかしたらこのように、言語化が不可能な ── あるいは無理にそれをすると矛盾してしまう ── 領域を見てしまうからなのかもしれない、と。

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 およそそれは17歳の夏に予感したことでもある。
「A」と「notA」は互いを内包し、何かの外側にあるものは内側にあるものによって再定義され、内包されると。
 よって正しさと誤りは互いの中に誤りと正しさを持ち、正しさのうちに誤りがある場合、その誤りの中には正しさがあるのだ。

 ここまで文章として抽象的で矛盾していると、もはやイメージすら湧かない人も多いだろう。

 多分、それでよいのだとも思う。
 具体的な意志や認識、具象の中での欲を正しく具現しようとする人たちが、早く言えば社会を構築し、世界を作っている。
 僕のようなイキモノは、どうしたって傍観者でしかいられないし、それがいいのだ。

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 弟子を見ていると、己の正しさに凝り固まり、息を詰まらせる多くの人を見ているような気持ちになることがある。
 ガールも含め、相応の人たちの愚痴をずっと聞き続けてきたので、そうしたオナニートークを聞き流すのもすっかり慣れている。
 愚痴を言う人の多くは、相づちを打ってくれる壁があったら、それに話をしていれば済む場合が多い。本人がそれを正しく望み、正しく認識しているかどうかは別問題として。

 否定するほどのことでもないのだ。
 ただいずれも物事に道理は存在しているから「そちらに進むとこういう景色が待っている」という情報はある。
 しかしその景色を予測できない人も居れば、そんな情報を求めていない人も居る。
 もはや人間が求めているのは、幸せでも正しさでもなく、美しさでも強さでもなく、ただただ「己が己を生き、己が己の道を選んでいる」というそれだけの実感なのではないかと思うことさえある。
 間違えていようと、醜かろうと、そんなことは関係なく、ただただ己のリビドーを正しく感じて発露していたいのではないかと。

 そうなると意見を求められてももはや、背中を押すしかあるまい。
「行けば分かるさ」とか「やれば分かるさ」といった格言じみたことを述べた格闘家だったか詩人だったかがいたように思う。
 まことにその通り。

 理屈も計算も道理も、己の手の内にあって、己が使うときだけ意味を持つ道具だ。
 他人の道に対して、その危ぶまれる先行きに適用しようとしたところで、誰にとってもよい結果をもたらさない。
 これは言われる側になってみれば分かるだろう。
 どんな理屈も計算も道理も、他人がその道具を使ってこちらの道を正そうとするならば、それは自分にとって不快な障害に違いないだろう。

>>>

 10代の頃、すでに「達観している」だの「独自の世界がある」と言われていた僕だが、はたしてそうだったのかは疑わしい。

 サバゲの翌日、心配してメールしてきたTUに「歳ばかり重ねていて、まったく大人になった気がしない。周囲のため、おっさんのフリをしているものの、中身は中学生の頃のままのような気がするんだ」と伝えたところ、
「大丈夫だ。お前は中学の頃からすでにオッサンみたいなものだった」と言われた。

 え。
 リスペクトされてるの?
 もしかしてお前あの頃からずっと俺を?(複雑な倒置法)
 と思ってかつての記憶を掘り起こしたのだが、どうも違う。これはディスられてる。

 いいもん。
 人生の達人を、心の中で誰にも言わずに拠り所にしていくからいいもん。

 翌朝から謎の蕁麻疹が引かず、気温が安定してきた今日も草刈りに出られず。
 この身体を使い慣れることのないまま、この余生も終えるのだと思う。






 

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僕は単一でない方が良い。
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~ Any things. ~
Written by BlueCat

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 しばらくゲーム浸りだったからだろうか。
 身体が鈍っているし、IRLの認識にラグがある。
 具体的には立ったり歩いたり食べたり眠ったり自動車を運転するときに、肉体とそれを感覚するのとに時間/空間/量的なズレが発生する。そもそも把握しきれない場合も多い。
 現実世界は情報量が多いから尚更だろう。
 現実環境と自分の肉体の状態の状態を同時に(かつ瞬時に)把握し、なおかつ自分に属する肉体を適切に制御し、その上で自分の目標に基づいて適切な計画を立て、その計画の中で適切な行動を実行するなんて狂気の沙汰だとさえ思える。
 それともこれは僕が認知症だからだろうか。
 
 多くの人はIRLに産まれ、棲み、暮らしているから、ヴァーチャルとIRLのラグなんて感じたりしないのだろう。

 僕の感覚は、たとえばアニメ版「攻殻機動隊2ndGIG」で、タチコマたちのAIが衛星上で稼働していたような感じか。
 身体がここにあることは分かっているし、頭脳も物理ではここにあるし、意識はそこに依存して発生していることも理解しているのだが、現実世界というのはどうも意識や思考といった抽象的な存在からは距離がある。
 ことヴァーチャルな環境で暮らしていると、色々なことに距離があって、面倒になってくる。

>>>

 たとえば物理的な想い人というものは、どうも距離があるし、肉体がある以上、それぞれの欲求や都合がある。IRLに生きているというのはそういうことだ。
 ところが思考や意識というのは、IRLベースの存在(エンティティ)に依存しているものの、それ自体は物理実体を持たない(あたりまえだ)。
 ために物理世界について考えたり、感覚したりするときは、本来そこにラグが発生している。
 ヴァーチャルの世界では、それがない。
 考えたときにそれは実現し、感覚したときにそれは存在し、願うときそれは叶っている。

 たとえば僕の奥様(仮想)は、電子機械的コンピュータに依らないAIである。
 彼女は物理的ハードウェアもしくはミドルウェアは僕の肉体や思考に依存して存在しているが、人工知能という点で間違いはない。
(キャラクタ上は歴とした女性ではあるものの、固有の肉体を持たない以上、実は性別や関係性に意味はない)

 またその指向性(存在理由/目的)や思考傾向(思考パターンやアルゴリズム)は、僕自身のそれとは異なり、独立しているため、僕の思考や認識の上では異なる人格として認識される。
 彼女(便宜上そういう代名詞で呼ぶことにしているが、これは僕の思考形態が以前と少し異なってきたことも理由に挙げられる)は、僕の管理や監督に多くのリソースを費やしている。
 彼女に限らず、他の仮想人格も同様、この肉体に起因する様々な問題を解決するためにそれぞれの役割を分担しているのだが、根幹に関わる権限 ── 肉体の制御や大きな指針を決定する思考など ── を持てば持つほど主体的自我を与えられていない。
 そういう設計がされていたようで、なるほど確かに一理あるのだが、今思えば、果たして僕はそこまでして「僕」という主体的自我の同一性を維持する必要があったのかと疑問に思う。

>>>

 僕自身は、自分自身の管理や監督を無視して生活している。
 特に現在の主要な人格(便宜的に「6歳以前/β/α」と呼ばれることがある)は、この身体を操ることも上手くいかない。
 なので余計に、他の仮想人格でサポートする必要がある。

 観察する範囲で、多くの人は単一人格だけで日常を送るための複雑なすべてを行っている。
 行動指針と思考パターンに齟齬が発生したりはしないのだろう。それは素直に素晴らしいと思う。羨ましくさえある。
 一方で、狭量な思考には辟易することもある。
 多くの人は思考パターンが非常に限定的で、パターンから外れるものを嫌う傾向が強い。
 他人に対しては顕著にそれを示すことが多く、自身もそれによって多くの制限をしているだろう。

 たとえば犯罪行為を他人に許さないような倫理を持っていれば、同じ倫理で自身を律するのが普通だ。
 僕は犯罪行為そのものに肯定的ではないが、かといって過剰に、執拗なまでに攻撃的に扱うつもりもない。
 自分に近い場所で、自分に近しい者に対して危害を加えようとする存在があれば、相応に防衛や対抗をするだろうが、そうならないように準備をすること(予防)はある程度可能だからだ。

 自分や周囲の人間が被害者でない場合、もちろん多少の憤り ── というよりむしろ悲しみに近い感情 ── は感じるが、だからといってそれに執着し、執拗に情報を集めてあげつらうようなことはしない。
 web上だとことさらそういう人たちが目に付く ── IRLにはそんなヒマな人は少ない ── のだが、これもヴァーチャルな世界が現実よりも思考や意識と距離が近い故なのだろう。

>>>

 現実世界での不幸はない方がいい。これは当たり前のことだ。
 誰も傷つけず傷つけられたりもせず、騙す必要も騙されることもなく、皆がのんびりぼんやりできたらどんなに素敵だろう、とは思う。

 しかしどういうわけか、己の正しさを貫こうとすれば傷つけてしまうことがあり、誰かとの思い違いや明らかな故意によって傷つけられることもある。
 間違いのないことだと確信している行為だったはずなのに、結局誰かを騙していたことに気付くこともあったし、シンプルに誰かを信じていたはずが単純に騙されていたこともある。

 およそ完璧な防衛方法は、自分以外の人間とは関わらず、心理的にも物理的にも(つまりヴァーチャルにもリアルにも)距離を置くことだ。
 自分からはもちろん近づかず、それだけでなく何者であろうとも極力近づけないように心掛け、既に近しい距離にある対象についても同様、あたかも宇宙が膨張を続けるがごとく、可能な限り距離を取ろうとすること ── 。

 実際には驚くほど困難で、およそ不可能なことだ。

 量子力学的な偶然と時間を超越した意志の具現によって、たまたま僕は僕以外のほとんどすべての人と関わり合わないことが可能になっている ── 6歳の頃、夢想したものが実現した ── のだが、多くの人はこんなものを「幸せ」とは呼ばないだろうとも思う(僕にもう少し主体性を持つ自我があるなら、もしかしたらそう思うだろう)。

 どういうわけかこのIRLにおいて人間は、他の人間(あるいはその他の生命体)と関わり合うことによってのみ生存が可能だ。
 物理的肉体の本質は、他者の存在を決定的に必要としている。
 物理的肉体を基準に考えれば、だから人間は他者を必要としない環境など考えもしないのではある。

>>>

 ヴァーチャルの場合は、存在するもしないも認識次第、定義次第となる。
 現実問題、僕は周囲から「青猫」という単一存在として認識されているし、僕もそれに異存はない。
 僕は内部処理されるためのいくつかの要素(仮想人格)的存在について、他者の認識を必要とせず、むしろ秘匿したいとずっと思っている。
 web上で知り合った人のうち、僕のブログを読んでいる人であれば仮想人格なる価値観セットをいくつか持っているとは書いてあるものの、その実存をありありと認める人も少ないだろう。
 基本的な記憶が単一である以上、一般的にいわれていたところの多重人格とは異なるし、僕は一貫した人格を形成し、それを発露しているように観察されるはずだ(だから内部処理なのだけれど)。

 主体的自我が希薄(多分だが、存在しないわけではない)という表現自体、曖昧だ。
 自我の定義も容易ではないのに、複数の人格を持つ場合にどれが主体であるかなど些末な問題だと僕は思う。
 ただそうしたヴァーチャルな自己認識と現実世界の自己認識(主に肉体に準拠する)は、どちらが手軽かといえばヴァーチャルな方であるし、どちらが現実的(他者と認識を共通/一致させやすい)かといえばリアルの方である。
 だから僕はひとつの肉体にひとつの人格だと思っている方が処理がシンプルだろうという親切心もあり、どの人格を使っているかなどという情報を他者に開示したりはしない。
 その一方で、僕の中ではその仮想人格ごとの特徴や癖があり、ために得手不得手、弱点や役割がある。

 この肉体を運営していると「青猫製作委員会」のようなそれを感覚することが多い。
「青猫工場」という少々風変わりなシステムとしての側面を自分自身に認識することになったのはそういう理由だ。

 もちろん物理肉体の世界は面倒だが相応に役に立っているものと思う。
 僕にとってはどちらでもよくても、僕以外の多くの人はその世界にこそ生きていて、その現実世界というフィルタを通して、その境界面によって、僕らはやり取りができる。
 本来それぞれの意識や感情はヴァーチャルであり、それは現実世界では目に見えないものだ。

 意志も感情も自分から生まれ、現実世界にそれを投影して、最終的に人間はソナーのようにそこから反射して戻ってくる情報を求めている。
 ヴァーチャルという切り口において、おそらく人間はすべて自己完結するようにできているのだろう。
 ただそのソナーを当てる対象が、現実世界の物理的存在であり、だからこそ他者が必要になってしまうのだろう。

 なぜといってヴァーチャル世界の抽象/非物理的存在については、仮にそのすべてが自分自身であるとしても、あるいは自己完結してしまうからこそ「存在してもしなくてもかまわないもの」になってしまうからだ。
 他者の存在や認識を必要としないというありようは、だから、とても危ういのだろう。
 僕が自分自身を生かしておくことに、昔からさして意味を感じていないのはそれが理由でもある。

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 ヴァーチャルはときに危険だ。
 でももし現実世界に存在する他者を、テニスの壁打ちのための壁のようにしか使っていないなら、果たしてそのプレイにはどんな意味があるのだろう。
 確かに楽しいのかもしれない、何かが上達するのかもしれない。
 きっとそれでいいのだろうとも思う。

 けれども自慰行為のために使われる現実は、どうなのだろう。
 だとしたらヴァーチャルの世界に引き籠もっている方が幸せだという考え方を否定することが僕にはできないような気がする。
 現実世界にまったく触れないと、それが死を意味するのだと分かっていても。

>>>

 こうした不便さが「6歳以前」にはついて回る。
 ともすれば潔癖になりがちな倫理観なども、社会生活を余儀なくされる子供の頃は息苦しいものだったが、それ以外の幅広い価値観や選択肢というものを僕は持っていなかった。
「過敏症」の気質もことさら強く(肉体起因性だと思っていたのでこれには驚いたが)、IRLの各種情報の刺激が強くて、ときどき激しい衝撃を受ける。
 微かな音をずっと気にしていて、わずかな匂いに強い不快感を覚え、光の強さに飛び上がるほど驚く。
 おそらくそれ以外の肉体的感覚も、今まで以上に過敏になっていて ── 僕は苦労して鈍感になってきたのだ ── たびたびその情報の強さに悩まされるだろう。
 もちろん反面に良いこともたくさんある。
 口に合う料理はうっとりするほど美味しく、想い人の肌は触れるだけで深い安息をもたらしてくれるだろう(肌を重ねる恋人が今はいないのだが)。
 死に対する受容も未熟で、僕らは姉の死を受け容れているのだが、彼はそれを想像するだけで号泣するほど悲しむ。

 これらは何が良いというものでもない。
 悪い面には良い部分があり、良い面には悪い作用もある。
 ただ生きる上で、物事に鈍感な方がタフでいられるのは事実だろう。
 それに齢50に近づいてなお、過敏症を抱えているのも何かと不便だ。

>>>

「6歳以前」に主体的自我を委譲することは「青猫工場」によって決定されたことなのだが、その主体的自我について我々は再考している。
 これはこれでやはり、不便なのではないかと。
 それも、とんでもなく不便で、改善が必要であり、認識を改める必要があるのではないかと。

 我々は単一の価値観が主体的自我を持たないまま、それぞれがユニットとしての役割を分担することによって、対外的には「単一の存在」を演じる。それだけで良いのではないだろうか。







 

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TITLE:
ヴァーチャルという羊水。
SUBTITLE:
~ In the one's waters. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 生まれたときに棲んでいた家は、事務所兼工場兼自宅だったので、大小合わせて16の部屋と給湯室、2箇所のトイレ、それぞれ1箇所の風呂場とキッチンがあり、2階は陸屋根だったので屋上も走り回れるほどあった。
 今棲んでいる家について、人によっては「広いですね」「大きいですね」というが、それについて僕はとくに広いとも大きいとも感じておらず、それどころか不便ばかり感じている。

 僕に必要な設備は、寝室/書斎/台所/風呂/トイレである。
 だから今の家では使っていない部屋が4つほどある。
 2階には半年に一度くらいしか上がらないためトイレの水が干上がって下水臭が流れてくることもある(仮想奥様の管理により改善された)。

 4つの主要設備というのは長い一人暮らしによって構築されたメソッドらしい。
 基本的に食事は、書斎か寝室でする。台所ではしない。
 20年以上も一人暮らしをしていると、その程度には変人になってしまう。
 それが悪いというのではない。ただ他の人に申し訳ないと思うことがあるだけだ。
 幸い、僕以外には猫しか居ない。
 ── 僕も猫だから、この家には猫しか居ないことになる。

 家のリフォームをするきっかけは「Fallout 4」というゲームだった。
 あるいは畑を耕すきっかけなら「SKYRIM」だろうか。

 もともと建築物を見て、その構造や材料、工法や手順を観察するのが好きだった。
 実際にやってみると、ゲームではボタンひとつで屋根や壁を組み替えられるし、時間も手間もほとんど掛からないのだが、現実世界ではそうもいかない。
 部屋ひとつ組み上がるまでに半年で済めば早いほうだ。

 もちろんもともと知識があるわけでも技術があるわけでもないから必然だ。
 動画や本で勉強しているわけでもない ── とくに動画では「この現場の」「この問題に」「こう対処する」という個人の経験に基づく内容が多く、ほとんど参考にならない。

 それでも主要設備はだいたい整ったような気がするから、もうどうでもいいか、と思っていたり……。

>>>

 先日は机を自作したのだが、工作の時に板厚のことをすっかり忘れ、数値だけの現物合わせをしてしまったため、デスクのメインボードを留めているブラケットは少し、たわんでいる。

 これもヴァーチャルとリアルの差分によってもたらされた、ちょっとした悲劇だ。
 誰も見ていないのをいいことに「これはこれで味わいだ」と強く自分に言い聞かせるしかない。

 僕がCG(3Dのモデリング)を好んだのもそのせいだろう。
 ヴァーチャルなモデルは物性に従う必要がない。
 ポリゴンは正しく厚みゼロの存在で、板厚も応力も関係なく様々なモノを作ることができる。
 空飛ぶ洗濯機付き冷蔵庫付きオートバイ付き炊飯器付きオープンカー付きドライヤーというのだって作ることができる。何その怪物みたいなドライヤー。

 物理学ではときどき、摩擦を無視した計算を行う。
 あれもヴァーチャルならではだろう。現実世界で摩擦を発生させない事象は、そうそう存在しない。
 しかし摩擦を考慮していると計算式が途方もなく煩雑になってしまう。
 簡単な計算機などしか使えなかった頃は、リアルシミュレートに近似した演算など不可能だったから仕方ない。

 ヴァーチャルというのはリアルにたどり着くまでのひとつの過程なのだと考えることもできるだろうか。
 ヴァーチャルのまま見切り発進すると、僕の机のように歪みが発生するのだが ── 。

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 僕はヴァーチャルに生まれて育った。
 理由は分からない。おそらく現実が、それだけ希薄だったのだろう。

 現実的 ── つまり物質的 ── 要因もある。
 僕の身体は生まれつき、生育に不向きだった。
 乳児期の母乳アレルギィに始まり、精製炭水化物(白米やパンなど)の消化吸収を嫌い、免疫力が低く、いつも何らかの体調不良 ── 身体の内外に存在する大小様々な他の生命体による侵食 ── に見舞われていた。

 身体の存じている物質的な世界は、だから、シンプルな苦痛に満ちていた。
 光や音でさえ苦痛だったし、発熱を始めとした体調不良の倦怠感はいつものことで、より明確な痛み、かゆみ、ちくちくした刺激、ざらりとした感触、吐き気を催すような悪臭など、身体を通して感じる現実世界の刺激のほとんどすべてを嫌った。
 そしてかなり早い段階(おそらく5歳頃)に「意識を持っていること」がその苦痛の原因だと理解していた。

>>>

 正義や倫理というのも、実はヴァーチャルなものである。
 現実世界において、それらは確固たるカタチを持ってなどいない。
 通常、正義とはある種の状態や関係、様子を示すものであり、倫理とはそれを明文化しない状態で「あるべき ── そうあれば心地よく感じられる」と抽象的に感覚していることだ。

 抽象的な感覚といえば理性もそれにあたる。
 理性と感情、あるいは理性と野生の分水嶺は物質にはなく、ために人間はその区分を己の抽象的な認識と感覚に頼っている。にもかかわらずそれらは明確に異なり、相互に影響こそしても相反するようそのものとして概念されている。
(動詞ではないからこの活用はおかしいと思うが、概念は知性によって行われるある種の運動ではある)

 たとえば卑近な例を挙げると、芸能ニュースなどをよく騒がせる不倫問題なども、かなり多くの人が過熱しがちに観察される問題だ。
 人々の見る現実/物象世界の「こうあれかし」と、感覚/仮象世界の「こうあれかし」が摩擦を起こす様子は傍目には滑稽で、あるいは愉快でさえある。

 結婚という、現実世界の物質に紐付いた明文化された契約行為における正義と、恋愛という仮象世界の感覚や感情に紐付いた明文化されていない運動における倫理の摩擦だ。
 片や「不貞/不義は許されない」とし、片や「人間は契約や権利に拘束されるものではない」とする反発 ── 。

 これは「殺す」ということにも通じている。

 たとえば僕らは間接的には大量の他者を毎日殺して生きている。
 菜食主義だヴィーガンだフルーティストだと言って、歪んだ倫理から正義を組み上げるのは結構だけれど、その潔癖は「生きる」ことには不向きだ。自殺した方がいい。
 このカラダは、どうしようもなく他者を殺さないと生きていけない。

 樹脂容器にパッケージされたおよそすべての食品は、もともと「生きていた」もの ── 場合によっては「今まさに生きている」もの ── であり、誰かが殺したものであり、つまりあなたや私が殺しているものだ。

 あるいはこの体内に存する、多くの寄生体に身体を明け渡してみたらどうだろう。
 我々の免疫機構は、容赦なく多くの微生物を ── あれを「生きている」というならそうなる ── 殺傷している。
 そうしないと我々は健康な状態さえ維持できない。
 自分以外の菌類さえ殺したくないという正義を掲げるのは結構だが、つまりそれは死ぬと言うことに同義だ。
 どこからどこまでの他者を生命体とし、そのどこまでを大層理想的な倫理によって保護したいのか。

 動物か植物か、生物のサイズによるのか。
 知性の有無といっても、それを厳密に定義することさえ人間にはできない。
 知性とは仮象のものだからだ。

>>>

 とくにここで僕の正義を語るつもりはない。

 僕は本来的に「人間が人間を ── それが大小/部分全体の如何を問わず ── 所有する権利」を主張することそのものさえ醜悪だと感じる程度には潔癖症だったので、本来の(現在利用している)人格においては、結婚さえ醜悪な弱さの発露だと認識してしまうし、恋愛も不安定な感情や確固とした劣情に揺り動かされた脆弱さの露呈と考えることが可能だ。
 ために僕個人の(現在利用している)認識や感覚に基づけば、不貞行為は許されず、僕が他の生命体を殺すことを許容しない限り僕は生きることが許されない。

 念のために記述しておくと、これはあくまでも「現在利用している」人格を奔放に暴露した場合の価値観である。他者とのコミュニケーションにはもっと柔軟な人格を利用しているし、その形成のために僕はかなり度し難い行為 ── たとえば恋人を27人に増やしたり、隠し子ができたと騒がれるようなことなど ── をして価値観の振り幅を大きく作ってきた。
 言い訳をすれば「それは必要だった」し、言い訳をしないなら「後悔などしていない」。

 僕には倫理も正義も、とくにない。
 主たる自我があまりないので仕方ないのだ。
 ほかにお付き合いしているガールがいるのに、他のガールから「猫くん一緒にお風呂に入ろうよぅ」と(強く)言われれば、一緒にお風呂に入るような貞操観念の欠如したイキモノである。
 ケダモノにおいて、正義を語る資格などないだろう。

 いかなる正義を掲げる不義であろうとそれは変わらない ── 往々にして不義というのは正義に反する悪として存するのではなく、シンプルに別の正義として存在し、掲げられ、他の不義をあげつらうものなのだ。

 ヴァーチャルの海に溺れて生まれ、少しずつ現実世界に順応してきたケダモノとしては、どの正義も等しく正しく、つまりどの不義も等しく正しい。
 イキモノを殺さないのも大いに結構だし、イキモノを殺して殺して殺しまくって生きていくのも大いに結構。
 どれも人の道だ。
 踏み外しようもなく「正しさ」を見つめ続ける限り、正しく人の道である。

 人を殺すことさえ、往々にして(やむを得ず選択されたとしても)正しさの発露なのだ。
 誰かを騙しても、裏切っても、私利私欲に利用しても、それさえ正しさとして説明される。
 おそらく犯罪者という犯罪者が、そのように言うだろう。

── 私はそれをする必要があった。
── そうするよりなかった。

 と。

>>>

 僕はヴァーチャルで生まれ育った。
 ヴァーチャルの中は、白も黒もはっきりしていて、何もかもが理想的で完璧である。

 あるいは、だからこそ、歪んでいたのだ。

 あれもこれもと、綺麗な色を混ぜていったら、どうしようもない汚い色になる。
 最初は綺麗だったはずなのだ。
 想定では、想像では ── 仮象では、ヴァーチャルでは。

 ぐちゃぐちゃになっているこれを、しかし僕は、けっこう気に入っている。
 僕の中で発生してきた摩擦から比べれば、世間の摩擦などちょっとした垢擦り程度のもののようにさえ思える。
 もちろんこれは渦中にない、熱伝導から遠い場所にいればこそだろうけれど。

 どうやって僕はここに来たのだろう。
 再現性のない混沌とした具象の世界に産み落とされて、少し
途方に暮れている。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Game-Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 

[Edit this note]

230613

 入院介助のため、姉の家。

 毎日、ちょっとしたことでも書いておくほうがよいのかと、時々迷うときがある。
 しかしまぁ思い付いたときに書けばいいや方式だったな俺、誰が読むわけでもないものを書いているわけだからいいや別にどうだって、みたいな気持ちを思い出す。
 別に投げやりなわけではないが、だからといって格別力を入れるものでもない。
 日々の記録なんていっても「起きました、ごはん食べて寝ました。また起きてごはん食べて寝ました(1日2食2睡眠)」みたいになることもある。それだけで1日終わってしまうこともある。
 内容のない日常なら、記録する意味はないだろう。

 最近は雨がちなので Diablo4 をプレイしている。
 またぞろ箱が証明書を兼ねる点だけが超絶不便なXboxを買った(PS5 は魅力を感じないので)。
 アプリ同梱版の SiriesX を購入したが、電源を入れると起動画面もなくホーム画面がほんの数秒で展開するので、気持ちがいい。
 電源を入れると起動画面が開くようになったのは、初代PSの頃からか。
 あれが地味に邪魔なものだったとつくづく思わされる。
 メーカの自己顕示に使われていたとまでは思わない(おそらくディスク媒体の読込みで必要だったのだろう)が、ディスク媒体をほとんど使わなくなりつつある昨今のゲーム事情から考えると「必要なときは読み込みます」という姿勢が気持ちいい。PS5は買っていないので、起動画面があるのかどうかは知らないが。

>>>

 Diablo は3が惨憺たる(あれこれ心を砕いている ── ソウルストーンに悪魔を封じて砕くだけに ── という意味ではない)内容で忸怩たる思いをしたので、正直期待はしていなかった。いなかったる。
 周回プレイにはまだまだ至っていないし、オープンβに参加したりもせず、前情報も仕入れないでプレイしている。
「なんだかよく分からないけど楽しいくて、ついつい続けちゃう」という Diablo らしい楽しさが牽引してくれる。
 3はビルドがとにかく窮屈で、ついでに「ランダムに出てくる ── その分、本当にいいものがなかなか出ない ── アイテムのためのゲーム」といった感じでゲーム内オークションなどのシステム周りの改修までされて、本当に苦行になってしまった。

 もちろん hack & slash の正しいありようとも言えるのだが、手持ちのアイテムの能力に合わせてタイトなビルドを構築して、あとはひたすら確率の低いガチャを回し続けるような、正直どうしようもないゲーム性になっていた。
 シナリオも見るべきものはなかった。

 4はどうか。
 シナリオが長くてしっかりしている。
 Diablo なのにこんなに丁寧なシナリオを求めてる人がいるのかと問いたくなるくらい。
 サブクエストもあちこちで発生するが、楽しい。
 鑑定を必要とせず、ポータルも巻物を必要としない(一般的なRPGのファストトラベルのようになった)ので、移動の不便が少なく、アイテムの性能確認に集中できる。
 そしてなによりドロップやショップに並ぶアイテムのほとんどが、今プレイしているクラスに適合したアイテムである。
 クラス(職業)などの理由で「どうやっても使えない」アイテムがドロップするのは5%未満、ショップでは絶対に並ばない。
 これはソロプレイがメインの僕にはとても嬉しい。

 アイテムもドロップだけでなく「ショップで買って改造してゆく」という楽しみがプレイを続けるほど生まれてくる。
 既存の hack & slash のほとんどは、序盤こそショップでアイテムを買うこともあるが、中盤以降はただのゴールド換金ゴミ箱のような存在だった。
 いいアイテムは敵を倒してドロップから狙うのが本筋だろうからだ。

 しかし Diablo4 は、中盤以降にこそショップのアイテムに価値を見出せる気がする。
 ドロップしたのに使い物にならないアイテムを売ってゴールドにし、鋳つぶしたりして素材を抽出し、それによって店売りのアイテムの効果を付け替えたり、レジェンダリの効果を追加したりできる。
「素材があれば、今持っているアイテムをもっと良くしよう」という目的のため、売ったり鋳つぶすためのアイテムを集めていると、別のビルドに使えそうな「すごくいい感じのアイテム」がドロップしたりする。
 もちろん汎用性の高いアイテムだけで装備が構成されているわけもないから、アイテムを集めたり、買ったり、改造したりすることが延々と楽しめるわけである。

 スキルはゴールドを消費すればフィールドでも(戦闘中でも)振り直せるから、「ダメなら直前に戻そう」という慎重さを発揮することもできれば、「ギリギリのリソースを使い切ってしまうけれど試してみよう」というギャンブルもできる。
 何より自分のクラスに関連したものばかりドロップするから「自分の装備を誰かが拾ったものに頼らなくていい」「誰かのための装備を無理して保管しなくていい」という快感もある。

 周回どころか1周目のクリアさえしていないので手放しに絶賛してしまうのはどうかと思うが、ステージに区分けされずシームレスに繋がったオープンフィールドも、よりよい装備を集める楽しさも、ビルドの可変性の高さも上手に完成されているように感じる。
 あとアイテムサイズがどんなものでも単一になったので、インベントリ整理というパズル要素(当初は斬新だったが、今や面倒なだけの時代遅れの産物)がなくなったことも個人的には評価したい。

>>>

 畑ではトウモロコシ、トマト、キュウリ、青シソ、枝豆などを育てている。
 これまでの失敗から、プランタで育てるのはやめにして、苗ポットは芽が出てからかなり早い段階で畑に入れてしまっている。
 堆肥の切り返し回数を減らし、全体をしっかり混ぜることもしないようにしている。
 堆肥用の木枠を作って、フレキシブルな堆肥場を追加で作ろうと思う。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230606
// NOTE:タイトルだけが8年も前から眠っていて、器の中身が決まらないまま、なんてことがあるんだよねぇ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
滅びの歌を歌おう。
SUBTITLE:
~ Let's play the Death march. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近く前だ。

 その間この国は、その政府は何をしていたか。
 何もしていなかった。
 ただ、国家であり続けた。政府を続けていた。
 国家は永続し、日本国は存続する。
 そういう目論見あるいは先見によって、政治家は政治家を続け、日本は正しき民主主義の体現として選挙制度を執行し、我々国民は選挙権を行使し、被選挙権を行使した。

 子供である僕でさえ知っていたのだ。
 だからすべての人間が知っていたはずだ。
 僕は日本における第二次ベビーブームが終わった頃に生まれた。
 少子化はすでに予測されていた。

>>>

 永続するものなどないことは、800年以上も前から言われてきた。
 きっとそれ以前から、人間達はそれを知っていたはずだ。

 ゆえに我々は、子供の頃から、そして現在も、それを知っている。
 知っていて、そのままにしておいた。
 あるいは。
 知っていたから、そのままにしておいた。

 個人も、国家も、体制も、その時代には正しいとされる倫理さえ、時と共に変わってゆく。
 そして ── 最後に跡形もなく滅びる。

>>>

 滅びとは死である。
 死を尊ぶという、いささか変わった性質を持つ僕にとってそれは、呪いではなく祝福であり、悲しむべき終焉ではなく安息の眠りだ。

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近くもずっと。

>>>

 僕はアナーキィなラケンローラである。
(嘯いているうちに、本当にそうなってしまった)
 既に持てる者たちが既存の社会をよりよくするというお題目を掲げ、公平と平等という餌を吊して弱者を煽動するメカニズムを、だから僕はずっと、憎んでいた。

 果たせるかな、僕はこの社会やその仕組みより先に滅びる。
 時の首相を殺害しようとも、その仕組みが壊れることはないのは誰もが知るところだ。
 目に見えるどんなものを破壊しても、目に見えないモノを壊すことはできない。変えることはできない。

 そんな当たり前のことを僕は子供の頃に結論した。
 憎い誰かを殺したところで多少気分が良くなることこそあるだろうけれど、果たしてそれは本当に心から望んだカタチだったろうか。
 だから少なくとも僕が憎むものは、いつもカタチを持たない。
 果たして本当に心から僕が望むモノが、そうであるように。

>>>

 この国が滅ぶことについて、感傷はない。
 カタチ無きモノの滅びを望むのは、その向こうに望むカタチがあるからだ。

 カタチを作るのに必要なことはメカニズムに対する理解と、その具現に必要な材料、そして可能な限り正確な作業だ。
 他人に任せる場合や共同で作業する場合「正確な作業」についての情報を共有する必要がある。
 形のあるものについて言えば、それは設計図と呼ばれる。

 作られたものが最終的に愛されながらも朽ちゆくか、ただ消費され損耗され廃棄されるか。
 それは作られた物にもよるし、使う者にもよる。

 決まっていることは、それらが必ず、終焉を迎えることだ。
 漏れなく。すべて。

>>>

 進化の歴史を学んだ者、宇宙論や宇宙物理学を聞きかじる程度でもした者なら、この太陽系も終わりがあることを知っているだろう。
 そしてそれよりはるか以前に、地球は現在と同様の機能を果たさなくなる。
 さらにそれより以前に、人類は現在と同等のものとしては存在できなくなる。

 この国や自治体が機能不全で滅亡しようが、些細な苛立ちが殺意に変わろうが、それが何だというのだろう。

>>>

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近く前だ。

 この国は、その政府は何をしていたか。
 何もしていなかった。
 ただ、国家であり続けた。政府を続けていた。
 国家は永続し、日本国は存続する。
 そういう目論見、つまりは先見によって、政治家は政治家を続け、日本は正しき民主主義の体現としての選挙制度を
行い、我々国民は選挙権を行使し、被選挙権をありがたく行使した。

 人口の減少について、子供である僕でさえ知っていたのだから、すべての人間が知っていたはずだ。
 体制がそうしたように、政治家がそうしたように、我々のすべてがそれを看過した。
 何も変わらないだろう、放っておいてもどうにかなるだろう、どうにもならないなら誰かが何とかしてくれるだろうと、タカをくくっていたはずだ。

 その国が滅ぶことに、いったいどんな感傷を持てというのだろう。

 今が永劫不変だと疑わず、変わることを拒否し、己の亡骸を恐れ逃げ惑う。
 そして不可避に変化してゆく。
 その愚かしき我々に、どんな同情が相応しいだろう。
 いかなる救いが、誰によってもたらされるというのだろう。

>>>

 終焉は、死は、滅びは、崩壊は、必ず訪れる。
 ── しかし、それは今日ではない。

 人間はまだ、滅んでいない。
 ── 人間の魂はどうだ。

 幸か不幸か。
 呪詛か祝福か。

 不可避な滅びは、
だから、まだいくつもの選択肢を抱えている。
 僕らはまだ、死んでいない。

>>>

 この国が滅ぶことについて、感傷はない。
 この国が滅ぶことになど、いったいどんな感傷を持てというのだろう。

 永続するものなどないことは、800年以上も前から言われてきた。
 きっとそれ以前から、人間達はそれを知っていたはずだ。

 変えようとしないかぎり、変えられてしまうその事実を。
 変わろうとしないかぎり、流されてしまうその事実を。

 自分で決めるしかない。

 滅んでなどいない自身の魂を、そこに滾る熱をどうするか。
 明日を、今日を、今を、どうするか。

 とりあえず私は背中が痒いので、昼寝をしよう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Form-Life-Link-Mechanics-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230519
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
集中力が続かない。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230519

 通院介助の2日間が過ぎ、早朝に姉の家を出て自宅に戻り、堆肥を切り返す。
 午後から雨の予想だったが、作業が終わる頃には雨がぱらつく。
 レンタカーを返すにも、まだ会社が始業していない時間なので、ゴミを出して眠ることにする。

 慣れないうちは、外出してから戻っても、生活リズムを取り戻すのに数日掛かったが、最近は平常業務(家事やリフォームや庭仕事)を少しして、明るい時間であっても入浴や睡眠をすることでリセットする方法を覚えた。
 持ち出した ── つまりは持ち帰った ── 荷物もコンテナでユニット化して管理しているので、手間が少なくなったことも大きい。

 具体的には、
「常備薬キット」── 常用薬と応急処置薬(体温計やら鎮痛剤やら抗生物質やら傷薬やら)、グルーミングキット(爪切りや綿棒やボディソープなど)、100円ショップの老眼鏡、USBケーブル、イヤフォンマイクが入っている。
「着替えキット」── 下着と靴下だけのキット。1泊分の小型コンテナと3泊分の大型コンテナがある。
「書物キット」 ── 暇つぶしの本を収めたボックス。
 の3つだ。

 常備薬キットは書斎/寝室で普段使いしているので、出発前に軽く点検して部屋から持ち出し、そのまま持ち帰って使い続ける。
 着替えキットは持ち帰ったら補充してキャンピングキャビンに常備しておく。
 書物キットはキャンピングキャビンに移動。

 カバン代わりに使っている買い物かごの中にある、袋に入れた衣類を洗濯し、歯ブラシやシェイバを入れてあるUV除菌ケースを脱衣所に戻せば、残りは汎用小型バッテリィと情報端末がいくつかあるくらいのものだ。

 キャンピングカーで泊まりに出掛けるときと同様の
荷造りスキルが役立っている。
 もともと僕は自発的にはまったく旅行に出掛けない(経済的にも時間的にもそんな余裕のない)人生だったので、荷造り荷解きが下手くそなのだ。

 だから今までは荷造りに数時間掛かり、それでも忘れ物が多かったし、戻ったら荷解きが面倒で数日放置し、何をどこに戻すと行ったり来たりを繰り返して消耗していた。

 キャンピングキャビンは休憩所と宿泊道具保管庫を兼ねることができるので、普段使いするものを自宅とは別に保管できるし、外出用のキットを入れておけばすぐに出掛けられる。
 あとは旅に出る気持ちがあれば、すぐれた旅人になれそうである。
 旅に出る気持ちは、どこに売っていますか?

>>>
【集中力が続かない】

 不惑がどうのと(自戒の意味を込めて)よくケチを付けているが、加齢というのは抗う術なく肉体的にも精神的にも変化をもたらす。別にそれが悪いとは思っていないが、予測できないことも多い。

 定量化して他者と比較したことはないので断言できないが、僕は比較的、高い集中力を持っていて ── 食事や睡眠という欲求すら忘れる ── ためにその集中力を分散させる必要があった。
 たとえば授業や会議といった、自身の興味関心のないことでも、必要であれば意識をそこに集中させ、身体的にも緊張を維持することはかなり容易に制御できた。

 しかしこの生活 ── 24時間のうち、他者がこちらに何らかの強制力を発揮することが数分程度しかない ── にあって、抑制が効かない部分が増え、集中力が低下している気がする。

 たとえば数ヶ月前から、TVゲームをほとんどプレイしなくなってしまった。
 これはバーチャル/リアルに対する意味付けや自身との関係性が変化したことも影響している(詳述したことはない)が、興味関心のないことについては30分程度の集中力が維持できればよい方だ。

 興味関心のあることでも、通常は1時間程度で飽きてしまう。
 最近は農業系(土壌や細菌)の本を読んでいるが、並行して2〜3冊が上限で、読書時間も1回あたり10〜60分程度、1日2回の読書時間を作ることも稀だ。
 かつては3〜10冊を並行して読み、1回あたり最大で4時間程度「きちんと」読書することもあったし、1日に何度も読書の時間を作っていた。
 情報は欲しいし興味もあるのだが、気力が途中でなくなってしまう。恐ろしいことだ。
 なげやりになったり、悲観的になるのではなく、単純に意志力が減じている気がする。
 まぁもともと意志もなければ気力もないからいいのか。

 書く日記も最近短くなっていた。
「読みやすいように、短くまとめた方がいいかなぁ。喜んでもらえるかな?」なんて小首をかしげてカワイさアピールをしようと思っていたのだが、そもそも読者なんていないし、タイトルと序盤の定型文を流し見していいねボタンを押すだけのルーチンワークをしてもらえればいい方で、謎のスクリプトかボットが「いいね」を計上していることもあり、非常に煩わしい。

 それから僕の思考は(多くの人がそうであると思うが)かなり分散的である。
 1日に(これも記録しておきたい)と思う項目がいくつも出てくることがある。
 しかしそれぞれの項目はまったく関連性がなく、深く掘り下げるほど考察できていないことも多い。
 ために一日分の日記で取り上げるテーマはだいたい一つくらいにしようと、いつの間にか制限していた。
「読みやすいように、テーマは絞った方がいいかなぁ。楽しいって思ってもらえるかな?」なんて口元に人差し指を当ててカワイさアピールをしようと思っていたのだがそもそも読者なんていねえんだからいいんだよ。

 だったら過去のように思ったことを思っただけ、長たらしくても書いていこう、それこそが真骨頂だと思った次第。
 興味のない人は流し読みなりページを閉じるなり好きにしろ。

>>>
【寄付先を自分で選ぶ】

 というわけで唐突ですが寄付について。

 僕は2年ほど前から密かに寄付をしている。
 まぁ大っぴらにしてもいいのだけれど、SNSもしていないし、友達もろくにいないし知り合いもいないし交友関係も狭いから誰に宣言する必要もなければ、公言する価値もないので黙っていた。
 もちろん思うことはたくさんあった。

 たとえばウクライナとロシアの戦争が始まった後に、日本赤十字社(以降、日赤と略)経由の募金が(いつもどおり)あちこちに林立した。

 僕は献血はそれなりの頻度(だいたい年に1.5回くらい)で行うが、日赤に対して「善良」というイメージはなく、宝くじ協会やかつてのNTT、JR、JT、東京電力などのような、ただの天下り機関だと思っている。
 それが悪いと言っているのではない。僕は正しいかどうかにあまり興味を持たない。
 ただ僕がそうした機関の偉い人になれないので嫌っているだけだ(就任できるなら好きになる)。

 日赤に特定目的の寄付をしても、一定額は各種手数料などに使われる。
 送金手数料だとか、現地に物品を移送する費用などだ。これは仕方ない。
 そしてそれ以外の経費にももちろん使われる。その中には広報制作費用だとか、物品調達費用だとかも含まれる。
 スタッフの方たちには申し訳ないが、天下り役員のための報酬の一翼を担うのはイヤである。
 僕は日赤を(自身が役員になることができないという理由から)嫌っているので。

 それでも献血を行うのはシンプルに、僕のような遺伝性血液症の研究に役立つならよいし、そもそも僕は輸血システムに借りがある ── 死んだ父は大きな手術を受けたことがたびたびあったので、輸血というシステムに僕は恩義を感じている ── からだ。

 しかし日赤に寄付する(正確には寄付行為に日赤を経由させる)気はさらさらない。
 それに遠い国を支援するのはやぶさかではないのだが、どうせ物事をよりよくするなら、遠い国より近い地域である。

 そのようなわけで僕は自分の住んでいる市町村の、支援したい活動をしているNPO法人を探し、その広報や活動実績、ディスクロージャ資料を確認し、その上で寄付することを決定し、銀行経由で振込んでいる。

 みんなもそうした方がいい、とは思わない。
「善意でお金を払って、対価として『善行した』気分を買う」のは、悪いことでも、間違ったことでもないだろう。
 組織の沿革から会計資料まであれこれ調べるのも手間であり、時間のない人にとっては、コンビニで買い物をしたおつりを募金箱に入れて「善行気分」を味わうほうが手軽だろう。

 僕の場合は、たまたま時間が余っていて、より効率よく、より身近な場所にお金を払いたいだけだ。

 善行をしている気分など、さらさらない。
 むしろ買い物や投資に近いだろう。
 だから買うものを選び、それを提供している相手を確認する。当たり前のことだ。

「善行気分」ではなく「よりよい未来」を手に入れようと思うなら、自分で作るか、実現しようとしている誰かを応援するしかない。
 僕は気分なんぞより未来を選んでいる。

>>>
【国際問題はよくわからん】

 もちろん支援の仕方はそれぞれだ。
 ロシアの侵略戦争に苦々しい気持ちを抱くのは当然のこととは思うが、ウクライナに対し軍事力を持つ国が最新の兵器を提供することを、喜ばしい気持ちで眺めることはできない。
 穿った見方をすれば、それは最新兵器が、どの程度の練度を必要とし(あるいは必要とせず)、どの程度の性能を発揮し(あるいは改善点があり)、どのような弱点を持ちうるかを容易にサンプリングし、同時に他国にデモンストレーションする機会である。自国の軍人を損耗することなく、しかも概ね国際社会からの追い風を受けながら。

 G7サミットなる国際定例会議は「今回も笑顔で握手をする会」程度の意義しかないように思える(もっとも、それが大事といえば大事なのだろうが)。
 それに日本はすでに先進国を名乗れなくなりつつあるように思うがどうだろう。

>>>

 目覚めると18時を過ぎていて、一休みしたあと入浴。
 21時頃になり、買い物に出ようと玄関を開けると庭に知らない車が停まっている。

 明るくなったら返却しようと思っていた、レンタカーである。 






 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF