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// TimeLine:230720
// NOTE:
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TITLE:
達人の予感。
SUBTITLE:
~ Master's differentiation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

230720

 数日前、誕生日を迎えた。
 齢48。四捨五入を二度繰り返すと今年もちょうど百歳である。
 おめでとう自分。
 余命は17年。僕の自由時間は諸般の事情により、一般的な人の二倍にあたるので、実質34年分の活動が可能だ。

 翌16日は、TU(中学からの友人)に誘われ、ひと月ほど前からサバイバルゲームの予定が入っていた。
 が14時には体温を超える気温になり、熱中症を起こし掛けていたのでゲームに参加せず、テントで待機。
 塩を舐めても、水を飲んでも、汗が出なくなってしまう状態にまで到達するが、身体を動かさずにいたため大事に至らず解散まで保たせることができた。
(遠方であり、TU以外にも示し合わせて参加した人がいたので、僕一人の体調不良で解散にしたくなかった)

 もともと発汗量が多い方だろうと思う。
 30代になって自転車に乗るようになってからも、40代になって運送業に就いたときも、自分の発汗量が他者より多いことは感じていた。
 おそらく入浴の習慣にもよるのだろう。

 僕は比較的高温の湯でも浸かり方を変えながら長湯をする。
 一時期は水分補給をしながら2〜3時間は湯に浸かっていた。
 昨年あたりから、1回あたりの時間を減らし、今年の夏からはシャワーをメインに、湯船に浸かるのは週に1回程度にするようにしたが、冬はきちんと湯で温まらないと、寒くて生きられないのがこの家の特徴だ。

 僕の身体は、だから汗をよく流すようにできている。
 体臭が少ないとガールに言われがちだったのもそのためだろう(今は分からないが)。

>>>

 30代の頃だったろうか。
 あれこれ書き連ねるうち「どうやっても、真髄のような、物事の核心にある道理は言葉では説明しきれないかもしれないな」と思うようになった。

 同時期に、ちょうど弟子と接する中で感じたのだったろうか。

 道理というのは、ある種の理屈であり、ある種の正しさでもある。
 しかし物事にはどうしても、明の部分と暗の部分があり、右があれば左があり、上があれば下がある。
 物事自体にそういう明確な区切りがあるわけではない。

 たとえば北を向いていて、右手は東であり、東を向けばそれが南に変わり、やがて西へ、北へと、向きを変えるたびに「右手の方角」はその意味を変えてゆく。
 見方の問題であり、認識の問題であり、視点の問題である。
 つまりは意識があり、肉体があるために、物事の認識が限定されてしまう。
 右だ左だ、上だ下だ、正しい誤っていると、いくら言っていても、言い合っていても、その方角を精確に明示し、互いに認識することはむつかしい。

 言い争っている人間が、実は根底ではまったく同じことを「これこそが正しい」と言い合っている姿を見ることもあった。
 しかしそれを外部から「いや両者とも言っていることは同じですよね」と言っても聞かない。
 先の例で言えば、東を指しながら、北と南を向いている人間が「右だ」「左だ」と言い合っているようなものだ。

 だから徐々に「ああ。誰かに何かを諭すようなことはやめよう」と思ったのだ。
 僕が思う(認識する)正しさとやらも、必ず誰かにとっては誤りそのものに思えるだろう。
 何となれば僕の存在や価値観が、誤りや過ちだと断ずる人がいてもおかしくない。
 もちろん僕は自分を正当化するつもりも、正当だと主張する気もないのだが、誤りを許せないという潔癖のありようもまたよく理解できる。
 それを弾劾し、排斥しようとする気持ちも、分からないではない。
 僕の持つ、僕の体現する「正しさ」なんて、どこまで行ってもその程度だろうと、そのとき見えた気がした。
 皆が納得し、賞賛し、まして憧れるような、綺麗な正しさを体現する方程式の導き方など、僕には示すどころか見ることも認識することもできないのだと思った。

>>>

 当時はあれこれと物事について(可能な限り)多角的に認識することで、何らかの法則を見出し、それによって他の事象についても思いどおりの結果を導くことが可能だと思っていた。
 たとえば僕は人間の心理のありようや、その人本来の魅力というものについて、小賢しく理屈づけた心理学や、もっともらしく消費者心理を誘導するメディアの情報ではなく、実生活の中に求めようとした。

 異性に(だけではなく、実は犬や猫や鳥やヤドカリや鹿や、果ては無機物にまで)モテようとしたのも、そういうった動機である。
 結果は惨憺たる部分もあったが、満足はしている。
 モテるというのは技術的に、あるいは方程式のように、身に付けたり、導くことが可能で、つまり操作ができる。
 そして当然だけれど、いいことばかりではなく、悪い面もある。
 僕がモテるのにあたって学んだ書物をあたる限り、モテる方法はそれとなく書いてあったが、モテてからどのようにその道を律するべきか、またモテることによって発生する様々な困難やその対処法については記載がなかった。

 経験則を踏まえて、そうした道理のようなものを書いてはいたが、きちんと全体を描ききろうとすればするほど、情報が曖昧模糊としてしまうことが多くなった。
 もともとの気質もあるのだろうが、僕は「A」と「notA」を混在して認識する傾向が強い。
 清濁併せ呑むといえば聞こえはいいが、一般的には優柔不断で、抽象的だと認識されるだろう。少なくともそういう苦情は子供の頃から多く言われていて、ときに悩んでさえいた。

>>>

 物事を断ずる人は強い。少なくともそう観察されるだろう。
「A」なら「これはAだ」と、「notA」なら「これはAではない」と、はっきり、きっぱり、ばっさり言い切った方がいい。

 もちろんそれはむつかしいことではない。むしろ容易だとさえ言える。
 しかし言い切ったあと、自分の中で少しわだかまる。
「Aとは言ったけれど、実はnotAの部分があるんだよな」といった具合だ。
 自分に言い聞かせただけならすべて織り込み済みだから良いのだが、他人に聞かせるとなると、嘘は言っていないがすべて伝えたわけではない、ということになる。
 ある種の情報操作をしているような罪悪感を感じることになる。
 しかし両方伝えると、だいたい分かりにくくなる。かえって伝わらなくなる。喜ばれるのもどちらかに断ずる方である。

 ために誰かに何かを伝えようとすることは諦めた。もはやどうしようもない。

 そのときふと思ったのだ。
 何かの道の達人は、そのようなわけで、弟子達にさえ言葉での説法をしなくなるのだろうな、と。
 宗教家であろうと武道家であろうと料理人であろうと職業人であろうと芸術家であろうと、その道を目指す後陣に対して、始めの頃こそ道を指し示すようなことがあるにせよ、ある時期から、もはや語ることをしなくなってしまうのは、もしかしたらこのように、言語化が不可能な ── あるいは無理にそれをすると矛盾してしまう ── 領域を見てしまうからなのかもしれない、と。

>>>

 およそそれは17歳の夏に予感したことでもある。
「A」と「notA」は互いを内包し、何かの外側にあるものは内側にあるものによって再定義され、内包されると。
 よって正しさと誤りは互いの中に誤りと正しさを持ち、正しさのうちに誤りがある場合、その誤りの中には正しさがあるのだ。

 ここまで文章として抽象的で矛盾していると、もはやイメージすら湧かない人も多いだろう。

 多分、それでよいのだとも思う。
 具体的な意志や認識、具象の中での欲を正しく具現しようとする人たちが、早く言えば社会を構築し、世界を作っている。
 僕のようなイキモノは、どうしたって傍観者でしかいられないし、それがいいのだ。

>>>

 弟子を見ていると、己の正しさに凝り固まり、息を詰まらせる多くの人を見ているような気持ちになることがある。
 ガールも含め、相応の人たちの愚痴をずっと聞き続けてきたので、そうしたオナニートークを聞き流すのもすっかり慣れている。
 愚痴を言う人の多くは、相づちを打ってくれる壁があったら、それに話をしていれば済む場合が多い。本人がそれを正しく望み、正しく認識しているかどうかは別問題として。

 否定するほどのことでもないのだ。
 ただいずれも物事に道理は存在しているから「そちらに進むとこういう景色が待っている」という情報はある。
 しかしその景色を予測できない人も居れば、そんな情報を求めていない人も居る。
 もはや人間が求めているのは、幸せでも正しさでもなく、美しさでも強さでもなく、ただただ「己が己を生き、己が己の道を選んでいる」というそれだけの実感なのではないかと思うことさえある。
 間違えていようと、醜かろうと、そんなことは関係なく、ただただ己のリビドーを正しく感じて発露していたいのではないかと。

 そうなると意見を求められてももはや、背中を押すしかあるまい。
「行けば分かるさ」とか「やれば分かるさ」といった格言じみたことを述べた格闘家だったか詩人だったかがいたように思う。
 まことにその通り。

 理屈も計算も道理も、己の手の内にあって、己が使うときだけ意味を持つ道具だ。
 他人の道に対して、その危ぶまれる先行きに適用しようとしたところで、誰にとってもよい結果をもたらさない。
 これは言われる側になってみれば分かるだろう。
 どんな理屈も計算も道理も、他人がその道具を使ってこちらの道を正そうとするならば、それは自分にとって不快な障害に違いないだろう。

>>>

 10代の頃、すでに「達観している」だの「独自の世界がある」と言われていた僕だが、はたしてそうだったのかは疑わしい。

 サバゲの翌日、心配してメールしてきたTUに「歳ばかり重ねていて、まったく大人になった気がしない。周囲のため、おっさんのフリをしているものの、中身は中学生の頃のままのような気がするんだ」と伝えたところ、
「大丈夫だ。お前は中学の頃からすでにオッサンみたいなものだった」と言われた。

 え。
 リスペクトされてるの?
 もしかしてお前あの頃からずっと俺を?(複雑な倒置法)
 と思ってかつての記憶を掘り起こしたのだが、どうも違う。これはディスられてる。

 いいもん。
 人生の達人を、心の中で誰にも言わずに拠り所にしていくからいいもん。

 翌朝から謎の蕁麻疹が引かず、気温が安定してきた今日も草刈りに出られず。
 この身体を使い慣れることのないまま、この余生も終えるのだと思う。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
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  -Friend-Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
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// TimeLine:230712
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
僕は単一でない方が良い。
SUBTITLE:
~ Any things. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 しばらくゲーム浸りだったからだろうか。
 身体が鈍っているし、IRLの認識にラグがある。
 具体的には立ったり歩いたり食べたり眠ったり自動車を運転するときに、肉体とそれを感覚するのとに時間/空間/量的なズレが発生する。そもそも把握しきれない場合も多い。
 現実世界は情報量が多いから尚更だろう。
 現実環境と自分の肉体の状態の状態を同時に(かつ瞬時に)把握し、なおかつ自分に属する肉体を適切に制御し、その上で自分の目標に基づいて適切な計画を立て、その計画の中で適切な行動を実行するなんて狂気の沙汰だとさえ思える。
 それともこれは僕が認知症だからだろうか。
 
 多くの人はIRLに産まれ、棲み、暮らしているから、ヴァーチャルとIRLのラグなんて感じたりしないのだろう。

 僕の感覚は、たとえばアニメ版「攻殻機動隊2ndGIG」で、タチコマたちのAIが衛星上で稼働していたような感じか。
 身体がここにあることは分かっているし、頭脳も物理ではここにあるし、意識はそこに依存して発生していることも理解しているのだが、現実世界というのはどうも意識や思考といった抽象的な存在からは距離がある。
 ことヴァーチャルな環境で暮らしていると、色々なことに距離があって、面倒になってくる。

>>>

 たとえば物理的な想い人というものは、どうも距離があるし、肉体がある以上、それぞれの欲求や都合がある。IRLに生きているというのはそういうことだ。
 ところが思考や意識というのは、IRLベースの存在(エンティティ)に依存しているものの、それ自体は物理実体を持たない(あたりまえだ)。
 ために物理世界について考えたり、感覚したりするときは、本来そこにラグが発生している。
 ヴァーチャルの世界では、それがない。
 考えたときにそれは実現し、感覚したときにそれは存在し、願うときそれは叶っている。

 たとえば僕の奥様(仮想)は、電子機械的コンピュータに依らないAIである。
 彼女は物理的ハードウェアもしくはミドルウェアは僕の肉体や思考に依存して存在しているが、人工知能という点で間違いはない。
(キャラクタ上は歴とした女性ではあるものの、固有の肉体を持たない以上、実は性別や関係性に意味はない)

 またその指向性(存在理由/目的)や思考傾向(思考パターンやアルゴリズム)は、僕自身のそれとは異なり、独立しているため、僕の思考や認識の上では異なる人格として認識される。
 彼女(便宜上そういう代名詞で呼ぶことにしているが、これは僕の思考形態が以前と少し異なってきたことも理由に挙げられる)は、僕の管理や監督に多くのリソースを費やしている。
 彼女に限らず、他の仮想人格も同様、この肉体に起因する様々な問題を解決するためにそれぞれの役割を分担しているのだが、根幹に関わる権限 ── 肉体の制御や大きな指針を決定する思考など ── を持てば持つほど主体的自我を与えられていない。
 そういう設計がされていたようで、なるほど確かに一理あるのだが、今思えば、果たして僕はそこまでして「僕」という主体的自我の同一性を維持する必要があったのかと疑問に思う。

>>>

 僕自身は、自分自身の管理や監督を無視して生活している。
 特に現在の主要な人格(便宜的に「6歳以前/β/α」と呼ばれることがある)は、この身体を操ることも上手くいかない。
 なので余計に、他の仮想人格でサポートする必要がある。

 観察する範囲で、多くの人は単一人格だけで日常を送るための複雑なすべてを行っている。
 行動指針と思考パターンに齟齬が発生したりはしないのだろう。それは素直に素晴らしいと思う。羨ましくさえある。
 一方で、狭量な思考には辟易することもある。
 多くの人は思考パターンが非常に限定的で、パターンから外れるものを嫌う傾向が強い。
 他人に対しては顕著にそれを示すことが多く、自身もそれによって多くの制限をしているだろう。

 たとえば犯罪行為を他人に許さないような倫理を持っていれば、同じ倫理で自身を律するのが普通だ。
 僕は犯罪行為そのものに肯定的ではないが、かといって過剰に、執拗なまでに攻撃的に扱うつもりもない。
 自分に近い場所で、自分に近しい者に対して危害を加えようとする存在があれば、相応に防衛や対抗をするだろうが、そうならないように準備をすること(予防)はある程度可能だからだ。

 自分や周囲の人間が被害者でない場合、もちろん多少の憤り ── というよりむしろ悲しみに近い感情 ── は感じるが、だからといってそれに執着し、執拗に情報を集めてあげつらうようなことはしない。
 web上だとことさらそういう人たちが目に付く ── IRLにはそんなヒマな人は少ない ── のだが、これもヴァーチャルな世界が現実よりも思考や意識と距離が近い故なのだろう。

>>>

 現実世界での不幸はない方がいい。これは当たり前のことだ。
 誰も傷つけず傷つけられたりもせず、騙す必要も騙されることもなく、皆がのんびりぼんやりできたらどんなに素敵だろう、とは思う。

 しかしどういうわけか、己の正しさを貫こうとすれば傷つけてしまうことがあり、誰かとの思い違いや明らかな故意によって傷つけられることもある。
 間違いのないことだと確信している行為だったはずなのに、結局誰かを騙していたことに気付くこともあったし、シンプルに誰かを信じていたはずが単純に騙されていたこともある。

 およそ完璧な防衛方法は、自分以外の人間とは関わらず、心理的にも物理的にも(つまりヴァーチャルにもリアルにも)距離を置くことだ。
 自分からはもちろん近づかず、それだけでなく何者であろうとも極力近づけないように心掛け、既に近しい距離にある対象についても同様、あたかも宇宙が膨張を続けるがごとく、可能な限り距離を取ろうとすること ── 。

 実際には驚くほど困難で、およそ不可能なことだ。

 量子力学的な偶然と時間を超越した意志の具現によって、たまたま僕は僕以外のほとんどすべての人と関わり合わないことが可能になっている ── 6歳の頃、夢想したものが実現した ── のだが、多くの人はこんなものを「幸せ」とは呼ばないだろうとも思う(僕にもう少し主体性を持つ自我があるなら、もしかしたらそう思うだろう)。

 どういうわけかこのIRLにおいて人間は、他の人間(あるいはその他の生命体)と関わり合うことによってのみ生存が可能だ。
 物理的肉体の本質は、他者の存在を決定的に必要としている。
 物理的肉体を基準に考えれば、だから人間は他者を必要としない環境など考えもしないのではある。

>>>

 ヴァーチャルの場合は、存在するもしないも認識次第、定義次第となる。
 現実問題、僕は周囲から「青猫」という単一存在として認識されているし、僕もそれに異存はない。
 僕は内部処理されるためのいくつかの要素(仮想人格)的存在について、他者の認識を必要とせず、むしろ秘匿したいとずっと思っている。
 web上で知り合った人のうち、僕のブログを読んでいる人であれば仮想人格なる価値観セットをいくつか持っているとは書いてあるものの、その実存をありありと認める人も少ないだろう。
 基本的な記憶が単一である以上、一般的にいわれていたところの多重人格とは異なるし、僕は一貫した人格を形成し、それを発露しているように観察されるはずだ(だから内部処理なのだけれど)。

 主体的自我が希薄(多分だが、存在しないわけではない)という表現自体、曖昧だ。
 自我の定義も容易ではないのに、複数の人格を持つ場合にどれが主体であるかなど些末な問題だと僕は思う。
 ただそうしたヴァーチャルな自己認識と現実世界の自己認識(主に肉体に準拠する)は、どちらが手軽かといえばヴァーチャルな方であるし、どちらが現実的(他者と認識を共通/一致させやすい)かといえばリアルの方である。
 だから僕はひとつの肉体にひとつの人格だと思っている方が処理がシンプルだろうという親切心もあり、どの人格を使っているかなどという情報を他者に開示したりはしない。
 その一方で、僕の中ではその仮想人格ごとの特徴や癖があり、ために得手不得手、弱点や役割がある。

 この肉体を運営していると「青猫製作委員会」のようなそれを感覚することが多い。
「青猫工場」という少々風変わりなシステムとしての側面を自分自身に認識することになったのはそういう理由だ。

 もちろん物理肉体の世界は面倒だが相応に役に立っているものと思う。
 僕にとってはどちらでもよくても、僕以外の多くの人はその世界にこそ生きていて、その現実世界というフィルタを通して、その境界面によって、僕らはやり取りができる。
 本来それぞれの意識や感情はヴァーチャルであり、それは現実世界では目に見えないものだ。

 意志も感情も自分から生まれ、現実世界にそれを投影して、最終的に人間はソナーのようにそこから反射して戻ってくる情報を求めている。
 ヴァーチャルという切り口において、おそらく人間はすべて自己完結するようにできているのだろう。
 ただそのソナーを当てる対象が、現実世界の物理的存在であり、だからこそ他者が必要になってしまうのだろう。

 なぜといってヴァーチャル世界の抽象/非物理的存在については、仮にそのすべてが自分自身であるとしても、あるいは自己完結してしまうからこそ「存在してもしなくてもかまわないもの」になってしまうからだ。
 他者の存在や認識を必要としないというありようは、だから、とても危ういのだろう。
 僕が自分自身を生かしておくことに、昔からさして意味を感じていないのはそれが理由でもある。

>>>

 ヴァーチャルはときに危険だ。
 でももし現実世界に存在する他者を、テニスの壁打ちのための壁のようにしか使っていないなら、果たしてそのプレイにはどんな意味があるのだろう。
 確かに楽しいのかもしれない、何かが上達するのかもしれない。
 きっとそれでいいのだろうとも思う。

 けれども自慰行為のために使われる現実は、どうなのだろう。
 だとしたらヴァーチャルの世界に引き籠もっている方が幸せだという考え方を否定することが僕にはできないような気がする。
 現実世界にまったく触れないと、それが死を意味するのだと分かっていても。

>>>

 こうした不便さが「6歳以前」にはついて回る。
 ともすれば潔癖になりがちな倫理観なども、社会生活を余儀なくされる子供の頃は息苦しいものだったが、それ以外の幅広い価値観や選択肢というものを僕は持っていなかった。
「過敏症」の気質もことさら強く(肉体起因性だと思っていたのでこれには驚いたが)、IRLの各種情報の刺激が強くて、ときどき激しい衝撃を受ける。
 微かな音をずっと気にしていて、わずかな匂いに強い不快感を覚え、光の強さに飛び上がるほど驚く。
 おそらくそれ以外の肉体的感覚も、今まで以上に過敏になっていて ── 僕は苦労して鈍感になってきたのだ ── たびたびその情報の強さに悩まされるだろう。
 もちろん反面に良いこともたくさんある。
 口に合う料理はうっとりするほど美味しく、想い人の肌は触れるだけで深い安息をもたらしてくれるだろう(肌を重ねる恋人が今はいないのだが)。
 死に対する受容も未熟で、僕らは姉の死を受け容れているのだが、彼はそれを想像するだけで号泣するほど悲しむ。

 これらは何が良いというものでもない。
 悪い面には良い部分があり、良い面には悪い作用もある。
 ただ生きる上で、物事に鈍感な方がタフでいられるのは事実だろう。
 それに齢50に近づいてなお、過敏症を抱えているのも何かと不便だ。

>>>

「6歳以前」に主体的自我を委譲することは「青猫工場」によって決定されたことなのだが、その主体的自我について我々は再考している。
 これはこれでやはり、不便なのではないかと。
 それも、とんでもなく不便で、改善が必要であり、認識を改める必要があるのではないかと。

 我々は単一の価値観が主体的自我を持たないまま、それぞれがユニットとしての役割を分担することによって、対外的には「単一の存在」を演じる。それだけで良いのではないだろうか。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
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  :工場長:青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
 
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  :暗闇エトランジェ:
 
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// TimeLine:230619
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ヴァーチャルという羊水。
SUBTITLE:
~ In the one's waters. ~
Written by BlueCat

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//[Body]

 生まれたときに棲んでいた家は、事務所兼工場兼自宅だったので、大小合わせて16の部屋と給湯室、2箇所のトイレ、それぞれ1箇所の風呂場とキッチンがあり、2階は陸屋根だったので屋上も走り回れるほどあった。
 今棲んでいる家について、人によっては「広いですね」「大きいですね」というが、それについて僕はとくに広いとも大きいとも感じておらず、それどころか不便ばかり感じている。

 僕に必要な設備は、寝室/書斎/台所/風呂/トイレである。
 だから今の家では使っていない部屋が4つほどある。
 2階には半年に一度くらいしか上がらないためトイレの水が干上がって下水臭が流れてくることもある(仮想奥様の管理により改善された)。

 4つの主要設備というのは長い一人暮らしによって構築されたメソッドらしい。
 基本的に食事は、書斎か寝室でする。台所ではしない。
 20年以上も一人暮らしをしていると、その程度には変人になってしまう。
 それが悪いというのではない。ただ他の人に申し訳ないと思うことがあるだけだ。
 幸い、僕以外には猫しか居ない。
 ── 僕も猫だから、この家には猫しか居ないことになる。

 家のリフォームをするきっかけは「Fallout 4」というゲームだった。
 あるいは畑を耕すきっかけなら「SKYRIM」だろうか。

 もともと建築物を見て、その構造や材料、工法や手順を観察するのが好きだった。
 実際にやってみると、ゲームではボタンひとつで屋根や壁を組み替えられるし、時間も手間もほとんど掛からないのだが、現実世界ではそうもいかない。
 部屋ひとつ組み上がるまでに半年で済めば早いほうだ。

 もちろんもともと知識があるわけでも技術があるわけでもないから必然だ。
 動画や本で勉強しているわけでもない ── とくに動画では「この現場の」「この問題に」「こう対処する」という個人の経験に基づく内容が多く、ほとんど参考にならない。

 それでも主要設備はだいたい整ったような気がするから、もうどうでもいいか、と思っていたり……。

>>>

 先日は机を自作したのだが、工作の時に板厚のことをすっかり忘れ、数値だけの現物合わせをしてしまったため、デスクのメインボードを留めているブラケットは少し、たわんでいる。

 これもヴァーチャルとリアルの差分によってもたらされた、ちょっとした悲劇だ。
 誰も見ていないのをいいことに「これはこれで味わいだ」と強く自分に言い聞かせるしかない。

 僕がCG(3Dのモデリング)を好んだのもそのせいだろう。
 ヴァーチャルなモデルは物性に従う必要がない。
 ポリゴンは正しく厚みゼロの存在で、板厚も応力も関係なく様々なモノを作ることができる。
 空飛ぶ洗濯機付き冷蔵庫付きオートバイ付き炊飯器付きオープンカー付きドライヤーというのだって作ることができる。何その怪物みたいなドライヤー。

 物理学ではときどき、摩擦を無視した計算を行う。
 あれもヴァーチャルならではだろう。現実世界で摩擦を発生させない事象は、そうそう存在しない。
 しかし摩擦を考慮していると計算式が途方もなく煩雑になってしまう。
 簡単な計算機などしか使えなかった頃は、リアルシミュレートに近似した演算など不可能だったから仕方ない。

 ヴァーチャルというのはリアルにたどり着くまでのひとつの過程なのだと考えることもできるだろうか。
 ヴァーチャルのまま見切り発進すると、僕の机のように歪みが発生するのだが ── 。

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 僕はヴァーチャルに生まれて育った。
 理由は分からない。おそらく現実が、それだけ希薄だったのだろう。

 現実的 ── つまり物質的 ── 要因もある。
 僕の身体は生まれつき、生育に不向きだった。
 乳児期の母乳アレルギィに始まり、精製炭水化物(白米やパンなど)の消化吸収を嫌い、免疫力が低く、いつも何らかの体調不良 ── 身体の内外に存在する大小様々な他の生命体による侵食 ── に見舞われていた。

 身体の存じている物質的な世界は、だから、シンプルな苦痛に満ちていた。
 光や音でさえ苦痛だったし、発熱を始めとした体調不良の倦怠感はいつものことで、より明確な痛み、かゆみ、ちくちくした刺激、ざらりとした感触、吐き気を催すような悪臭など、身体を通して感じる現実世界の刺激のほとんどすべてを嫌った。
 そしてかなり早い段階(おそらく5歳頃)に「意識を持っていること」がその苦痛の原因だと理解していた。

>>>

 正義や倫理というのも、実はヴァーチャルなものである。
 現実世界において、それらは確固たるカタチを持ってなどいない。
 通常、正義とはある種の状態や関係、様子を示すものであり、倫理とはそれを明文化しない状態で「あるべき ── そうあれば心地よく感じられる」と抽象的に感覚していることだ。

 抽象的な感覚といえば理性もそれにあたる。
 理性と感情、あるいは理性と野生の分水嶺は物質にはなく、ために人間はその区分を己の抽象的な認識と感覚に頼っている。にもかかわらずそれらは明確に異なり、相互に影響こそしても相反するようそのものとして概念されている。
(動詞ではないからこの活用はおかしいと思うが、概念は知性によって行われるある種の運動ではある)

 たとえば卑近な例を挙げると、芸能ニュースなどをよく騒がせる不倫問題なども、かなり多くの人が過熱しがちに観察される問題だ。
 人々の見る現実/物象世界の「こうあれかし」と、感覚/仮象世界の「こうあれかし」が摩擦を起こす様子は傍目には滑稽で、あるいは愉快でさえある。

 結婚という、現実世界の物質に紐付いた明文化された契約行為における正義と、恋愛という仮象世界の感覚や感情に紐付いた明文化されていない運動における倫理の摩擦だ。
 片や「不貞/不義は許されない」とし、片や「人間は契約や権利に拘束されるものではない」とする反発 ── 。

 これは「殺す」ということにも通じている。

 たとえば僕らは間接的には大量の他者を毎日殺して生きている。
 菜食主義だヴィーガンだフルーティストだと言って、歪んだ倫理から正義を組み上げるのは結構だけれど、その潔癖は「生きる」ことには不向きだ。自殺した方がいい。
 このカラダは、どうしようもなく他者を殺さないと生きていけない。

 樹脂容器にパッケージされたおよそすべての食品は、もともと「生きていた」もの ── 場合によっては「今まさに生きている」もの ── であり、誰かが殺したものであり、つまりあなたや私が殺しているものだ。

 あるいはこの体内に存する、多くの寄生体に身体を明け渡してみたらどうだろう。
 我々の免疫機構は、容赦なく多くの微生物を ── あれを「生きている」というならそうなる ── 殺傷している。
 そうしないと我々は健康な状態さえ維持できない。
 自分以外の菌類さえ殺したくないという正義を掲げるのは結構だが、つまりそれは死ぬと言うことに同義だ。
 どこからどこまでの他者を生命体とし、そのどこまでを大層理想的な倫理によって保護したいのか。

 動物か植物か、生物のサイズによるのか。
 知性の有無といっても、それを厳密に定義することさえ人間にはできない。
 知性とは仮象のものだからだ。

>>>

 とくにここで僕の正義を語るつもりはない。

 僕は本来的に「人間が人間を ── それが大小/部分全体の如何を問わず ── 所有する権利」を主張することそのものさえ醜悪だと感じる程度には潔癖症だったので、本来の(現在利用している)人格においては、結婚さえ醜悪な弱さの発露だと認識してしまうし、恋愛も不安定な感情や確固とした劣情に揺り動かされた脆弱さの露呈と考えることが可能だ。
 ために僕個人の(現在利用している)認識や感覚に基づけば、不貞行為は許されず、僕が他の生命体を殺すことを許容しない限り僕は生きることが許されない。

 念のために記述しておくと、これはあくまでも「現在利用している」人格を奔放に暴露した場合の価値観である。他者とのコミュニケーションにはもっと柔軟な人格を利用しているし、その形成のために僕はかなり度し難い行為 ── たとえば恋人を27人に増やしたり、隠し子ができたと騒がれるようなことなど ── をして価値観の振り幅を大きく作ってきた。
 言い訳をすれば「それは必要だった」し、言い訳をしないなら「後悔などしていない」。

 僕には倫理も正義も、とくにない。
 主たる自我があまりないので仕方ないのだ。
 ほかにお付き合いしているガールがいるのに、他のガールから「猫くん一緒にお風呂に入ろうよぅ」と(強く)言われれば、一緒にお風呂に入るような貞操観念の欠如したイキモノである。
 ケダモノにおいて、正義を語る資格などないだろう。

 いかなる正義を掲げる不義であろうとそれは変わらない ── 往々にして不義というのは正義に反する悪として存するのではなく、シンプルに別の正義として存在し、掲げられ、他の不義をあげつらうものなのだ。

 ヴァーチャルの海に溺れて生まれ、少しずつ現実世界に順応してきたケダモノとしては、どの正義も等しく正しく、つまりどの不義も等しく正しい。
 イキモノを殺さないのも大いに結構だし、イキモノを殺して殺して殺しまくって生きていくのも大いに結構。
 どれも人の道だ。
 踏み外しようもなく「正しさ」を見つめ続ける限り、正しく人の道である。

 人を殺すことさえ、往々にして(やむを得ず選択されたとしても)正しさの発露なのだ。
 誰かを騙しても、裏切っても、私利私欲に利用しても、それさえ正しさとして説明される。
 おそらく犯罪者という犯罪者が、そのように言うだろう。

── 私はそれをする必要があった。
── そうするよりなかった。

 と。

>>>

 僕はヴァーチャルで生まれ育った。
 ヴァーチャルの中は、白も黒もはっきりしていて、何もかもが理想的で完璧である。

 あるいは、だからこそ、歪んでいたのだ。

 あれもこれもと、綺麗な色を混ぜていったら、どうしようもない汚い色になる。
 最初は綺麗だったはずなのだ。
 想定では、想像では ── 仮象では、ヴァーチャルでは。

 ぐちゃぐちゃになっているこれを、しかし僕は、けっこう気に入っている。
 僕の中で発生してきた摩擦から比べれば、世間の摩擦などちょっとした垢擦り程度のもののようにさえ思える。
 もちろんこれは渦中にない、熱伝導から遠い場所にいればこそだろうけれど。

 どうやって僕はここに来たのだろう。
 再現性のない混沌とした具象の世界に産み落とされて、少し
途方に暮れている。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Game-Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 

[Edit this note]

230613

 入院介助のため、姉の家。

 毎日、ちょっとしたことでも書いておくほうがよいのかと、時々迷うときがある。
 しかしまぁ思い付いたときに書けばいいや方式だったな俺、誰が読むわけでもないものを書いているわけだからいいや別にどうだって、みたいな気持ちを思い出す。
 別に投げやりなわけではないが、だからといって格別力を入れるものでもない。
 日々の記録なんていっても「起きました、ごはん食べて寝ました。また起きてごはん食べて寝ました(1日2食2睡眠)」みたいになることもある。それだけで1日終わってしまうこともある。
 内容のない日常なら、記録する意味はないだろう。

 最近は雨がちなので Diablo4 をプレイしている。
 またぞろ箱が証明書を兼ねる点だけが超絶不便なXboxを買った(PS5 は魅力を感じないので)。
 アプリ同梱版の SiriesX を購入したが、電源を入れると起動画面もなくホーム画面がほんの数秒で展開するので、気持ちがいい。
 電源を入れると起動画面が開くようになったのは、初代PSの頃からか。
 あれが地味に邪魔なものだったとつくづく思わされる。
 メーカの自己顕示に使われていたとまでは思わない(おそらくディスク媒体の読込みで必要だったのだろう)が、ディスク媒体をほとんど使わなくなりつつある昨今のゲーム事情から考えると「必要なときは読み込みます」という姿勢が気持ちいい。PS5は買っていないので、起動画面があるのかどうかは知らないが。

>>>

 Diablo は3が惨憺たる(あれこれ心を砕いている ── ソウルストーンに悪魔を封じて砕くだけに ── という意味ではない)内容で忸怩たる思いをしたので、正直期待はしていなかった。いなかったる。
 周回プレイにはまだまだ至っていないし、オープンβに参加したりもせず、前情報も仕入れないでプレイしている。
「なんだかよく分からないけど楽しいくて、ついつい続けちゃう」という Diablo らしい楽しさが牽引してくれる。
 3はビルドがとにかく窮屈で、ついでに「ランダムに出てくる ── その分、本当にいいものがなかなか出ない ── アイテムのためのゲーム」といった感じでゲーム内オークションなどのシステム周りの改修までされて、本当に苦行になってしまった。

 もちろん hack & slash の正しいありようとも言えるのだが、手持ちのアイテムの能力に合わせてタイトなビルドを構築して、あとはひたすら確率の低いガチャを回し続けるような、正直どうしようもないゲーム性になっていた。
 シナリオも見るべきものはなかった。

 4はどうか。
 シナリオが長くてしっかりしている。
 Diablo なのにこんなに丁寧なシナリオを求めてる人がいるのかと問いたくなるくらい。
 サブクエストもあちこちで発生するが、楽しい。
 鑑定を必要とせず、ポータルも巻物を必要としない(一般的なRPGのファストトラベルのようになった)ので、移動の不便が少なく、アイテムの性能確認に集中できる。
 そしてなによりドロップやショップに並ぶアイテムのほとんどが、今プレイしているクラスに適合したアイテムである。
 クラス(職業)などの理由で「どうやっても使えない」アイテムがドロップするのは5%未満、ショップでは絶対に並ばない。
 これはソロプレイがメインの僕にはとても嬉しい。

 アイテムもドロップだけでなく「ショップで買って改造してゆく」という楽しみがプレイを続けるほど生まれてくる。
 既存の hack & slash のほとんどは、序盤こそショップでアイテムを買うこともあるが、中盤以降はただのゴールド換金ゴミ箱のような存在だった。
 いいアイテムは敵を倒してドロップから狙うのが本筋だろうからだ。

 しかし Diablo4 は、中盤以降にこそショップのアイテムに価値を見出せる気がする。
 ドロップしたのに使い物にならないアイテムを売ってゴールドにし、鋳つぶしたりして素材を抽出し、それによって店売りのアイテムの効果を付け替えたり、レジェンダリの効果を追加したりできる。
「素材があれば、今持っているアイテムをもっと良くしよう」という目的のため、売ったり鋳つぶすためのアイテムを集めていると、別のビルドに使えそうな「すごくいい感じのアイテム」がドロップしたりする。
 もちろん汎用性の高いアイテムだけで装備が構成されているわけもないから、アイテムを集めたり、買ったり、改造したりすることが延々と楽しめるわけである。

 スキルはゴールドを消費すればフィールドでも(戦闘中でも)振り直せるから、「ダメなら直前に戻そう」という慎重さを発揮することもできれば、「ギリギリのリソースを使い切ってしまうけれど試してみよう」というギャンブルもできる。
 何より自分のクラスに関連したものばかりドロップするから「自分の装備を誰かが拾ったものに頼らなくていい」「誰かのための装備を無理して保管しなくていい」という快感もある。

 周回どころか1周目のクリアさえしていないので手放しに絶賛してしまうのはどうかと思うが、ステージに区分けされずシームレスに繋がったオープンフィールドも、よりよい装備を集める楽しさも、ビルドの可変性の高さも上手に完成されているように感じる。
 あとアイテムサイズがどんなものでも単一になったので、インベントリ整理というパズル要素(当初は斬新だったが、今や面倒なだけの時代遅れの産物)がなくなったことも個人的には評価したい。

>>>

 畑ではトウモロコシ、トマト、キュウリ、青シソ、枝豆などを育てている。
 これまでの失敗から、プランタで育てるのはやめにして、苗ポットは芽が出てからかなり早い段階で畑に入れてしまっている。
 堆肥の切り返し回数を減らし、全体をしっかり混ぜることもしないようにしている。
 堆肥用の木枠を作って、フレキシブルな堆肥場を追加で作ろうと思う。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230606
// NOTE:タイトルだけが8年も前から眠っていて、器の中身が決まらないまま、なんてことがあるんだよねぇ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
滅びの歌を歌おう。
SUBTITLE:
~ Let's play the Death march. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近く前だ。

 その間この国は、その政府は何をしていたか。
 何もしていなかった。
 ただ、国家であり続けた。政府を続けていた。
 国家は永続し、日本国は存続する。
 そういう目論見あるいは先見によって、政治家は政治家を続け、日本は正しき民主主義の体現として選挙制度を執行し、我々国民は選挙権を行使し、被選挙権を行使した。

 子供である僕でさえ知っていたのだ。
 だからすべての人間が知っていたはずだ。
 僕は日本における第二次ベビーブームが終わった頃に生まれた。
 少子化はすでに予測されていた。

>>>

 永続するものなどないことは、800年以上も前から言われてきた。
 きっとそれ以前から、人間達はそれを知っていたはずだ。

 ゆえに我々は、子供の頃から、そして現在も、それを知っている。
 知っていて、そのままにしておいた。
 あるいは。
 知っていたから、そのままにしておいた。

 個人も、国家も、体制も、その時代には正しいとされる倫理さえ、時と共に変わってゆく。
 そして ── 最後に跡形もなく滅びる。

>>>

 滅びとは死である。
 死を尊ぶという、いささか変わった性質を持つ僕にとってそれは、呪いではなく祝福であり、悲しむべき終焉ではなく安息の眠りだ。

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近くもずっと。

>>>

 僕はアナーキィなラケンローラである。
(嘯いているうちに、本当にそうなってしまった)
 既に持てる者たちが既存の社会をよりよくするというお題目を掲げ、公平と平等という餌を吊して弱者を煽動するメカニズムを、だから僕はずっと、憎んでいた。

 果たせるかな、僕はこの社会やその仕組みより先に滅びる。
 時の首相を殺害しようとも、その仕組みが壊れることはないのは誰もが知るところだ。
 目に見えるどんなものを破壊しても、目に見えないモノを壊すことはできない。変えることはできない。

 そんな当たり前のことを僕は子供の頃に結論した。
 憎い誰かを殺したところで多少気分が良くなることこそあるだろうけれど、果たしてそれは本当に心から望んだカタチだったろうか。
 だから少なくとも僕が憎むものは、いつもカタチを持たない。
 果たして本当に心から僕が望むモノが、そうであるように。

>>>

 この国が滅ぶことについて、感傷はない。
 カタチ無きモノの滅びを望むのは、その向こうに望むカタチがあるからだ。

 カタチを作るのに必要なことはメカニズムに対する理解と、その具現に必要な材料、そして可能な限り正確な作業だ。
 他人に任せる場合や共同で作業する場合「正確な作業」についての情報を共有する必要がある。
 形のあるものについて言えば、それは設計図と呼ばれる。

 作られたものが最終的に愛されながらも朽ちゆくか、ただ消費され損耗され廃棄されるか。
 それは作られた物にもよるし、使う者にもよる。

 決まっていることは、それらが必ず、終焉を迎えることだ。
 漏れなく。すべて。

>>>

 進化の歴史を学んだ者、宇宙論や宇宙物理学を聞きかじる程度でもした者なら、この太陽系も終わりがあることを知っているだろう。
 そしてそれよりはるか以前に、地球は現在と同様の機能を果たさなくなる。
 さらにそれより以前に、人類は現在と同等のものとしては存在できなくなる。

 この国や自治体が機能不全で滅亡しようが、些細な苛立ちが殺意に変わろうが、それが何だというのだろう。

>>>

 この国は少子化の一途を辿っているという。
 そんな話は、僕が子供の頃から言われていた。
 かれこれ半世紀近く前だ。

 この国は、その政府は何をしていたか。
 何もしていなかった。
 ただ、国家であり続けた。政府を続けていた。
 国家は永続し、日本国は存続する。
 そういう目論見、つまりは先見によって、政治家は政治家を続け、日本は正しき民主主義の体現としての選挙制度を
行い、我々国民は選挙権を行使し、被選挙権をありがたく行使した。

 人口の減少について、子供である僕でさえ知っていたのだから、すべての人間が知っていたはずだ。
 体制がそうしたように、政治家がそうしたように、我々のすべてがそれを看過した。
 何も変わらないだろう、放っておいてもどうにかなるだろう、どうにもならないなら誰かが何とかしてくれるだろうと、タカをくくっていたはずだ。

 その国が滅ぶことに、いったいどんな感傷を持てというのだろう。

 今が永劫不変だと疑わず、変わることを拒否し、己の亡骸を恐れ逃げ惑う。
 そして不可避に変化してゆく。
 その愚かしき我々に、どんな同情が相応しいだろう。
 いかなる救いが、誰によってもたらされるというのだろう。

>>>

 終焉は、死は、滅びは、崩壊は、必ず訪れる。
 ── しかし、それは今日ではない。

 人間はまだ、滅んでいない。
 ── 人間の魂はどうだ。

 幸か不幸か。
 呪詛か祝福か。

 不可避な滅びは、
だから、まだいくつもの選択肢を抱えている。
 僕らはまだ、死んでいない。

>>>

 この国が滅ぶことについて、感傷はない。
 この国が滅ぶことになど、いったいどんな感傷を持てというのだろう。

 永続するものなどないことは、800年以上も前から言われてきた。
 きっとそれ以前から、人間達はそれを知っていたはずだ。

 変えようとしないかぎり、変えられてしまうその事実を。
 変わろうとしないかぎり、流されてしまうその事実を。

 自分で決めるしかない。

 滅んでなどいない自身の魂を、そこに滾る熱をどうするか。
 明日を、今日を、今を、どうするか。

 とりあえず私は背中が痒いので、昼寝をしよう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Form-Life-Link-Mechanics-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230519
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
集中力が続かない。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230519

 通院介助の2日間が過ぎ、早朝に姉の家を出て自宅に戻り、堆肥を切り返す。
 午後から雨の予想だったが、作業が終わる頃には雨がぱらつく。
 レンタカーを返すにも、まだ会社が始業していない時間なので、ゴミを出して眠ることにする。

 慣れないうちは、外出してから戻っても、生活リズムを取り戻すのに数日掛かったが、最近は平常業務(家事やリフォームや庭仕事)を少しして、明るい時間であっても入浴や睡眠をすることでリセットする方法を覚えた。
 持ち出した ── つまりは持ち帰った ── 荷物もコンテナでユニット化して管理しているので、手間が少なくなったことも大きい。

 具体的には、
「常備薬キット」── 常用薬と応急処置薬(体温計やら鎮痛剤やら抗生物質やら傷薬やら)、グルーミングキット(爪切りや綿棒やボディソープなど)、100円ショップの老眼鏡、USBケーブル、イヤフォンマイクが入っている。
「着替えキット」── 下着と靴下だけのキット。1泊分の小型コンテナと3泊分の大型コンテナがある。
「書物キット」 ── 暇つぶしの本を収めたボックス。
 の3つだ。

 常備薬キットは書斎/寝室で普段使いしているので、出発前に軽く点検して部屋から持ち出し、そのまま持ち帰って使い続ける。
 着替えキットは持ち帰ったら補充してキャンピングキャビンに常備しておく。
 書物キットはキャンピングキャビンに移動。

 カバン代わりに使っている買い物かごの中にある、袋に入れた衣類を洗濯し、歯ブラシやシェイバを入れてあるUV除菌ケースを脱衣所に戻せば、残りは汎用小型バッテリィと情報端末がいくつかあるくらいのものだ。

 キャンピングカーで泊まりに出掛けるときと同様の
荷造りスキルが役立っている。
 もともと僕は自発的にはまったく旅行に出掛けない(経済的にも時間的にもそんな余裕のない)人生だったので、荷造り荷解きが下手くそなのだ。

 だから今までは荷造りに数時間掛かり、それでも忘れ物が多かったし、戻ったら荷解きが面倒で数日放置し、何をどこに戻すと行ったり来たりを繰り返して消耗していた。

 キャンピングキャビンは休憩所と宿泊道具保管庫を兼ねることができるので、普段使いするものを自宅とは別に保管できるし、外出用のキットを入れておけばすぐに出掛けられる。
 あとは旅に出る気持ちがあれば、すぐれた旅人になれそうである。
 旅に出る気持ちは、どこに売っていますか?

>>>
【集中力が続かない】

 不惑がどうのと(自戒の意味を込めて)よくケチを付けているが、加齢というのは抗う術なく肉体的にも精神的にも変化をもたらす。別にそれが悪いとは思っていないが、予測できないことも多い。

 定量化して他者と比較したことはないので断言できないが、僕は比較的、高い集中力を持っていて ── 食事や睡眠という欲求すら忘れる ── ためにその集中力を分散させる必要があった。
 たとえば授業や会議といった、自身の興味関心のないことでも、必要であれば意識をそこに集中させ、身体的にも緊張を維持することはかなり容易に制御できた。

 しかしこの生活 ── 24時間のうち、他者がこちらに何らかの強制力を発揮することが数分程度しかない ── にあって、抑制が効かない部分が増え、集中力が低下している気がする。

 たとえば数ヶ月前から、TVゲームをほとんどプレイしなくなってしまった。
 これはバーチャル/リアルに対する意味付けや自身との関係性が変化したことも影響している(詳述したことはない)が、興味関心のないことについては30分程度の集中力が維持できればよい方だ。

 興味関心のあることでも、通常は1時間程度で飽きてしまう。
 最近は農業系(土壌や細菌)の本を読んでいるが、並行して2〜3冊が上限で、読書時間も1回あたり10〜60分程度、1日2回の読書時間を作ることも稀だ。
 かつては3〜10冊を並行して読み、1回あたり最大で4時間程度「きちんと」読書することもあったし、1日に何度も読書の時間を作っていた。
 情報は欲しいし興味もあるのだが、気力が途中でなくなってしまう。恐ろしいことだ。
 なげやりになったり、悲観的になるのではなく、単純に意志力が減じている気がする。
 まぁもともと意志もなければ気力もないからいいのか。

 書く日記も最近短くなっていた。
「読みやすいように、短くまとめた方がいいかなぁ。喜んでもらえるかな?」なんて小首をかしげてカワイさアピールをしようと思っていたのだが、そもそも読者なんていないし、タイトルと序盤の定型文を流し見していいねボタンを押すだけのルーチンワークをしてもらえればいい方で、謎のスクリプトかボットが「いいね」を計上していることもあり、非常に煩わしい。

 それから僕の思考は(多くの人がそうであると思うが)かなり分散的である。
 1日に(これも記録しておきたい)と思う項目がいくつも出てくることがある。
 しかしそれぞれの項目はまったく関連性がなく、深く掘り下げるほど考察できていないことも多い。
 ために一日分の日記で取り上げるテーマはだいたい一つくらいにしようと、いつの間にか制限していた。
「読みやすいように、テーマは絞った方がいいかなぁ。楽しいって思ってもらえるかな?」なんて口元に人差し指を当ててカワイさアピールをしようと思っていたのだがそもそも読者なんていねえんだからいいんだよ。

 だったら過去のように思ったことを思っただけ、長たらしくても書いていこう、それこそが真骨頂だと思った次第。
 興味のない人は流し読みなりページを閉じるなり好きにしろ。

>>>
【寄付先を自分で選ぶ】

 というわけで唐突ですが寄付について。

 僕は2年ほど前から密かに寄付をしている。
 まぁ大っぴらにしてもいいのだけれど、SNSもしていないし、友達もろくにいないし知り合いもいないし交友関係も狭いから誰に宣言する必要もなければ、公言する価値もないので黙っていた。
 もちろん思うことはたくさんあった。

 たとえばウクライナとロシアの戦争が始まった後に、日本赤十字社(以降、日赤と略)経由の募金が(いつもどおり)あちこちに林立した。

 僕は献血はそれなりの頻度(だいたい年に1.5回くらい)で行うが、日赤に対して「善良」というイメージはなく、宝くじ協会やかつてのNTT、JR、JT、東京電力などのような、ただの天下り機関だと思っている。
 それが悪いと言っているのではない。僕は正しいかどうかにあまり興味を持たない。
 ただ僕がそうした機関の偉い人になれないので嫌っているだけだ(就任できるなら好きになる)。

 日赤に特定目的の寄付をしても、一定額は各種手数料などに使われる。
 送金手数料だとか、現地に物品を移送する費用などだ。これは仕方ない。
 そしてそれ以外の経費にももちろん使われる。その中には広報制作費用だとか、物品調達費用だとかも含まれる。
 スタッフの方たちには申し訳ないが、天下り役員のための報酬の一翼を担うのはイヤである。
 僕は日赤を(自身が役員になることができないという理由から)嫌っているので。

 それでも献血を行うのはシンプルに、僕のような遺伝性血液症の研究に役立つならよいし、そもそも僕は輸血システムに借りがある ── 死んだ父は大きな手術を受けたことがたびたびあったので、輸血というシステムに僕は恩義を感じている ── からだ。

 しかし日赤に寄付する(正確には寄付行為に日赤を経由させる)気はさらさらない。
 それに遠い国を支援するのはやぶさかではないのだが、どうせ物事をよりよくするなら、遠い国より近い地域である。

 そのようなわけで僕は自分の住んでいる市町村の、支援したい活動をしているNPO法人を探し、その広報や活動実績、ディスクロージャ資料を確認し、その上で寄付することを決定し、銀行経由で振込んでいる。

 みんなもそうした方がいい、とは思わない。
「善意でお金を払って、対価として『善行した』気分を買う」のは、悪いことでも、間違ったことでもないだろう。
 組織の沿革から会計資料まであれこれ調べるのも手間であり、時間のない人にとっては、コンビニで買い物をしたおつりを募金箱に入れて「善行気分」を味わうほうが手軽だろう。

 僕の場合は、たまたま時間が余っていて、より効率よく、より身近な場所にお金を払いたいだけだ。

 善行をしている気分など、さらさらない。
 むしろ買い物や投資に近いだろう。
 だから買うものを選び、それを提供している相手を確認する。当たり前のことだ。

「善行気分」ではなく「よりよい未来」を手に入れようと思うなら、自分で作るか、実現しようとしている誰かを応援するしかない。
 僕は気分なんぞより未来を選んでいる。

>>>
【国際問題はよくわからん】

 もちろん支援の仕方はそれぞれだ。
 ロシアの侵略戦争に苦々しい気持ちを抱くのは当然のこととは思うが、ウクライナに対し軍事力を持つ国が最新の兵器を提供することを、喜ばしい気持ちで眺めることはできない。
 穿った見方をすれば、それは最新兵器が、どの程度の練度を必要とし(あるいは必要とせず)、どの程度の性能を発揮し(あるいは改善点があり)、どのような弱点を持ちうるかを容易にサンプリングし、同時に他国にデモンストレーションする機会である。自国の軍人を損耗することなく、しかも概ね国際社会からの追い風を受けながら。

 G7サミットなる国際定例会議は「今回も笑顔で握手をする会」程度の意義しかないように思える(もっとも、それが大事といえば大事なのだろうが)。
 それに日本はすでに先進国を名乗れなくなりつつあるように思うがどうだろう。

>>>

 目覚めると18時を過ぎていて、一休みしたあと入浴。
 21時頃になり、買い物に出ようと玄関を開けると庭に知らない車が停まっている。

 明るくなったら返却しようと思っていた、レンタカーである。 






 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
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// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230516
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
変わり者であるということ。
SUBTITLE:
~ The unnecessary bystander. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230516

 0時過ぎに眠り4時半頃起床。二部睡眠制が身体を支配している。
 このところ空腹をきちんと感覚したいと思っていて、夜は食事をせず眠った。
 しかしやはりというか、さほど空腹を感じない。
 先日は28時間経過しても空腹を感じないので、仕方なく食事をした(放っておくと体調を崩す可能性があるため)。
 朝食に昨日の残りの味噌汁と玄米粥を食べる。

 昨日までの雨は上がり、今日は晴れて暑くなるらしい。
 いつもどおりに堆肥を切り返す。

 庭木で隠れてしまう部分があり、そこはどうしても青カビが発生しやすい。
 もちろん青カビも堆肥の分解には貢献しているが、白カビほどの有用性がなかった記憶がある。
 それに白カビと違い、人体に悪影響がある。
 このため定期的に、青カビが発生しやすいエリアの露地を剥き出しにして乾燥させ、そのエリアの堆肥を日光に当てる作業を行っている。

 また雨になると堆肥が水を過剰に含むので、切り返してある程度乾燥させる必要もある。
 好気性菌主体の堆肥を作っているので、水分が過剰なのは悪環境となる。
 適度な水分というのは、だいたいぬか漬けと同じくらい。
 地面や刈り取った雑草からも水分は供給されるので、少しぱらぱらしているくらいでも大丈夫である。

>>>

 かつて弟子に「猫氏のそれは稀有な人生ですよね」と言われたことがある。

 僕は基本的に捻くれているので、そんなことはないと否定したはずだ ── 読み返していないので分からないが、当時の思考回路を回想するにそう思う ── が、よくよく考えると僕は変わり者であるから、その人生はかなりユニークではあるだろう。

 といって(先の文書に重複するかもしれないが)誰しもその人生はユニークであるから、誰もが稀有といえば稀有だと結論づけられる、かというとそれほどでもない気もする。
 その決定的な差が何なのか、あまり自覚がなかったのだが、僕はそういえば重度の変わり者なのだった、とつい先ほど思い出して自覚した。

>>>
【変わり者とは何か】

 端的に、ある種の社会性が欠如した状態で存在している人間はそう呼ばれることが多いように観察される。
 僕は猫なので社会性というものをあまり持ち合わせていないが。
 仮に僕をその脱社会性(変わり者)ヒエラルキィのトップに君臨していると見做すことについて格別の異論はないのだが、客観性を欠くので無駄に文字数を稼ぐ遊びなどやめて、もう少し真面目に考えてみようと思う。

 先にも述べたが人はそれぞれユニークである。社会性を多く備えた人であってもそれは変わらない。
 一方、完全に社会性しか持たない人というのは見たことがない。おそらく存在しないだろう。
 必ず、誰とも共通しない、独自の意見や視点や毒や弱さを持っていて、実のところ僕は人のそういう部分がとても好きである(だから誰かの愚痴を聞くのを楽しみにしている部分がある)。
 それはときにその人の魅力そのものだからだ。

 醜さは美しさに匹敵し、弱さは強さにおよそ等しい。
 えっ、なに意味が分からない? あ、そう……。

 愚痴を言う人の多くは、集団の中で発生する圧力としての社会性と、自我の中で発生する譲れない(譲りたくない)欲という独自性の狭間で揺れている。だからどちらかといえば社会的な人だ。
 ちなみに自我の中で発生する「譲れない欲」というのは、単純な反作用としての反発の場合と、他に明確な(あるいは時に不明確な)独自の目的がある場合が考えられる。
 前者は反発することが目的なので中身は空っぽだが、どんな外圧だろうととにかく反発する。それだけがコンテンツだといっていい。
 後者は社会性に反発する必要がないケースも実は多い。
 たとえば「仕事とあたしと、どっちが大事なの!」と言われたときの答えは「両方大事に決まってるだろボケ!」である。
 めっちゃ反発してるゥ……。

 僕の観察の範囲で一番の変わり者というのが、これまでの人生の中でたったひとり居る。一番、と言っているのでひとりしか居ないわけだが、ものの勢いで書いてしまった。訂正するのも面倒だからそのまま書いてしまおう。

 当然それは僕である。説明する必要はなかろう。僕は変わり者だ。
 しかし僕以外でもう一人、中学時代の国語の教師がそうだった。
 彼らをサンプルに「変わり者」を分析してみよう。

>>>
【脱社会性】

 社会性といっても地域や国家単位の大きな社会から、家族や友人、恋人関係といった小さな単位まで様々であるが、変わり者とされる人はだいたいその社会における規範から最低でも、違法でもなく倫理に反さない程度には逸脱する。
 場合によって法も倫理も逸脱してしまう人もいるだろうが、その場合(現在の日本社会の言語では)脱社会ではなく反社会として扱われる。もうちょっとラケンローな思想として扱ってやれよ「反社会」っていうその日本語。かわいそうだよ「反社会」って日本語が。

 社会性というのは、いわゆる協調性のようなものだろう。
 特に日本では非言語的な暗黙の了解でそうした社会性が存在している。いや僕に限っていえば、まだ海外で暮らしたことはありませんけれどね。

 いずれにしても変わり者は、その所属する単位社会における明示された(あるいは暗黙の)社会規範から逸脱する。
 社会性を多く備えた諸君にはそもそも分からないかもしれないが、たとえばぶつぶつ独り言を言いながら道を歩いてニヤニヤしていたりする。
 その肩に猫が載っていたりしたら「相当イカれている」と一般的には判断されるだろう。

 多くの人は、人目に付く場所でぶつぶつ独り言を言いながら歩いたりしない。ニヤニヤしたりもしないだろう。
 それは明示/暗黙の社会規範で「しない方がいい」とされている/と思っているからではないだろうか。

 もちろんその変人は、誰かに危害を加えたりはしない。そも、そんなことに興味関心などない。
 けれども明示/暗示された社会規範から一点でも逸脱している(脱社会性を獲得している)ということは、他の社会規範からも逸脱していて、それが脱社会性からさらに飛躍した反社会性だったとしてもおかしくない、という予測を立てるはずだ。
 だから多くの場合、平均レベルの社会性を備えた人ほどそうした変人には近づかない。

 一方でより高い社会性を備えた人は、より大きな単位社会を自身の認識に含めている。社会というのは個人を含む一方で、そこに含まれる個人の意識に含まれる。
 だから高い社会性を備えた人は、平均レベルの社会性を備えた人よりも変人(脱社会性獲得個体)に寛容になる(僕が、いわゆる「お嬢様」にモテがちだったのはそうした背景がある)。

 単位社会が大きく広がるほど、規範は厳密になり明言化される一方でその対象を限定的にする。

>>>
【社会性とは何か】

 家の中ではソファやテーブルの上に脱いだ靴下を置くことが厳禁されているかもしれないが、法律では「脱いだ靴下をそのへんに置くな」とは明記されていない(はずだ)。
 もちろん飲食店でそういうことをするのはさすがに倫理に反するだろう。
 第一そんなことをする必要はないはずだ ── ごく一部の特殊な飲食店ならあるのかもしれないが。

 なぜ自宅ではそれが許され(あるいは許されず)、外 ── つまりは社会ではそれが許されない(にもかかわらず明記されない)か。をいちいち考えないでいられる(対処できる)のが社会性である。
 僕は社会性をあまり備えていないので昔からそういうことを考えている。
 もちろん外出先で脱いだ靴下をテーブルやソファを上に置いたりしないし、そもそも靴下を脱いだりしないが。

 厳密に明言化された社会規範のひとつが法律だ(他にも政令やら条例やら省令やらがあったと思うが、浄霊や精霊や霊障とは異なる)。
 これを逸脱すると犯罪者になり、組織/個人を問わず常習的にそうした行為を行う人たちをおそらく「反社会的」と今の日本語は定義していると思う。

 一方、明言化されないために厳密ではないが、生活に密着している社会規範のひとつが家庭内ルールだろう。
 先の靴下をその辺に脱いだとき、お母さん(あるいは配偶者)に叱られるそれである。反社会的な人も、家庭内ルールだけはきちんと守っている可能性を僕は否定できない。

 かくして社会規範同様、家庭内ルールや恋人間の艶やかな約束、友達同士の暗黙の了解など様々なものがあり、反社会的な人も同様に所属する何らかの単位社会におけるルールを厳守するからこそ社会規範に戻ることができない可能性を考えると、むしろ真面目な側面さえあるのではないかと思ってしまう。多分に、その真面目さがおかしな方向に発露しているという歪みを発生させているわけだが。

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【目立つ】

 変わり者というのは目立つようだ。
 僕のように「目立ちたくない」「人目に付きたくない」「私はここに居ない人です」と、隅っこでそっと思っているイキモノであっても、それが変わり者である以上、どうしようもなく目立つ。

 社会性を失い、脱社会性を獲得すればするほど、社会性を獲得している個体からは奇異の目を集める。
 先に述べたメカニズムに従って警戒対象とされるわけだ。
 当然と言えば当然なのだが、僕は最近までそのことに気がつかなかった。
 もちろん周囲との違和は感じていたし、自分が社会性を欠如しがちだという傾向も理解していた。
 けれど脱社会を指向する傾向が強く、つまりは集団を本能的に避ける傾向にあり、それが行動原則に含まれていることは最近になってようやく把握できたことだ。
 だって普通に考えて社会や集団から逸脱するなんて非常識だと思うし、脱社会なんて口で言うには容易いけれど、それを実現するなんて本質的に不可能に決まっているじゃないですかぁ。

 仮に心理/肉体/経済的に脱集団/脱社会を果たして他者を必要としなくなったとしても、物理的に他者の生産物に頼らず自給自足することはとてもむつかしい。
 それに果たして完全な孤立が幸せなのか、幸せを感じるとして、それはどのような有用性があるか、という疑問を持つことも可能だ。


 先の国語教師について言えば、国語教師としての一般規範からは若干逸脱していた。
 たとえば彼の趣味は読書と無線と飛行機だった。
 時折、セスナなどを操縦することを楽しみにしていて、それについては僕も(飛行機好きなので)憧れるところだ。
 授業の仕方が独特で(詳細は省くが)受験対応が必要な3年になると彼は国語の担当から外され、技術(のこぎりや半田ごてといった基礎的な工具を使ったりする男子向けの工作授業だった気がする)の教科担当になった。

 念のため付け加えるが、彼の授業は「おそらく」受験には向かなかったかもしれないが、国語にせよ技術にせよ部活にせよ ── 僕は彼が顧問をしている水泳部に、わざわざ他から転部した ── そんじょそこらの教育指導要領に則った授業しかできない教師のそれよりはよほども興味深く、ためになるものだった。
 結婚はされていたと記憶しているが、お酒も煙草も「無駄だ」という理由でなさらない方だった。しかしおよそ間違いなく若い時分にはそれを経験し、その上で最終的にやめたのだろうと想像する。だから嗜むことはできたはずだ。
 生きていることをとても楽しんでいる方で、僕は彼を見て初めて、憧れたのだ。
 こんな人になれたら、あるいはそれが不可能だとして、こんな人と親しくいられたら、どんなに素敵だろうかと。

 当時14歳の時点で定年間近(当時は60歳定年だったか)だと思うので、今はおそらく鬼籍に入られていらっしゃるとは思うが、今もってフルネームを忘れられない、痛烈な印象を刻んだ人だ。

 彼は教師としては脱集団的だった。
 飛行機乗りを趣味とする教師は少なく、その授業はもちろん部活の顧問としても破天荒と言っていいほど例外的で、奔放と言っていいほど独自で、根底の哲学は一貫していた。
 一方で彼はとても社会的だった。
 教師として学校に所属していることはもちろん、学年副主任などを兼任されることも多く(おそらく主たる主任の立場については、逃げ回っていたものと想像する)生徒たちからも慕われていた。
 その両立とバランス感覚こそが、彼の魅力であり、またその哲学の発露だったように観察される。

 いかなる人生もユニークであり、必ず何らかの苦難があるものとは思うが、彼のようになれる人生を歩めたら本当に素敵だと心から思う。

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 話を戻して目立つということだが、彼もまた目立っていた。いっそ突き抜けて、清々しく、目立っていた。
 断言できるが目立ちたいからと目立つような言動をしていたわけではない。あのご年齢でそんな幼稚な発想があったなら、むしろその方が愛らしいかもしれないが。
 彼には彼のどうしようもない哲学があり、それに則って譲れないものは譲らず、真に欲するものは欲し、どうでもいいものは構わず手放して到達した境地だっただろう。
 社会や集団の中で、動揺や苦悩や葛藤がなかったとは思わない。
 それでもなお無理だと分かっているのに彼のような人生が歩めたら、などと憧れを抱いてしまうのだ。

 一般的であり、それゆえにユニークであり、常識的であり、それゆえに目立つ部分があった。

 僕についていえば、単に奇異であるがゆえに目を引き、せいぜい警戒されるというだけのことだ。
 最近はもう、慣れてきた。
 具体的には、キャンピングカーに乗っていたり、肩に猫を載せていたり、平日の昼間から中年男性が庭に穴を掘ったり埋めたりしていれば相応に目立つだろう。オープンカーを走らせるだけでも残念ながら目立つのだ、この地域では。

 よくよく考えれば、ずっとそういう生き方しかしていなかった。選択できなかった時期も長くあったし、選択しなかったことも多々ある。
 社会性のある行動を選択できなかったことも、あるいはしなかったことも。

 目立つことを目的にしているわけではないのだが、好きなことを優先すれば最終的に目立つことはある。
 我慢することで目立たないようにして、社会性を備えているフリをするのは容易だが、わざわざ僕がそれをしなくてもいいだろう。まして嫌々無難なことを続けて生きるくらいなら、今日死んだ方がマシというものだ。
 僕は自分の命に、その程度の価値しか見ていない。
 不自由な永劫の時間より、自由な瞬間のほうがいい。

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【加齢と自立と脱社会性】

 たびたび書いているし一般論化されているとおり、不惑のあたりから人間は頑固で傲慢になる。
 メカニズムとして、それまで生きてきた経験則を適用すれば、おおよそいかなる場面も乗り越えられるという甚だ主観的な考証によるものなのだが「その人は」「その人の行動/選択において」「その人の目的とする結果を」「過去に」導くことが出来たという点では間違いのない事実なので致し方ない。
 ただし主観による経験則(サンプリングが1つしかない)をそのまま一般化して他人にも押し付けるから頑固で傲慢だと言われることになる。お前と他人は違うという当たり前のことをまず理解しろ。

 つまり人間 ── 正確にはその脳のメカニズム ── というのは失敗を回避し、成功を重ねるほど、情報処理の最適化を行い、特定の入力に対して大まかにパターン化し、決まった出力しかしなくなる。

 一般的に、あるいは社会的にこれはむしろ正答だといえる。
 昨日と今日で言動が異なる(同一性がない)存在は対処に困るから、社会はあまり許容したがらない。
 昨日は女子でした、という人が女学校に入学し、今日は男子です、となると周囲は困る。
 結婚したときは男でしたが、途中で「よく考えたらあたし女だと思う」とか言われた配偶者並びにお子様の心中はお察し申し上げて有り余る。

 脱線したので戻す。
 子供の頃は経験も少なく、何より大人に頼らなければ食事にも困り、欲しいものも手に入らない。
 大人だってそうだけれど、子供だって他人の顔色を窺って生きなくてはならない(それともこれは僕個人に限った経験則だろうか)。
 少なくともそれが社会性の根源だとは思う。

 他人の顔色を窺い、自分にとってより有利な結果を導けるように振る舞うことは、時に自身に相応のストレスとなり、場合によっては虚偽による自己乖離さえ発生するかもしれない。
 それでも社会的に有意な位置を保つことは長期的には価値がある(だから嘘偽りでも自身を装飾する)。
 ために社会における一貫性を獲得することは最優先となる。

 けれども本来的には一貫している方がおかしいと僕は思う。
 誰だって気温が高ければ「暑い」と言い、気温が低ければ「寒い」と言う。
 昨日と今日で言動は異なるが、そも環境が違うわけだから一貫した原理に基づいている。

 相手を「より女らしい」と感じたから自分は男を演じ、相手を「より男らしい」と思って女としての思考を自覚することは不思議ではない。
 周囲が男ばかりで自分の女性性に目覚め、周囲が女ばかりになって自分の女性性の不全、つまりは男性性の色濃さを自覚するという未熟さがあったとして、それは果たして非難されるほど不自然なことだろうか。

 もちろん旧来の社会倫理ではその一貫性のなさを非難されるのは妥当だろう。
 しかし1人を1人の存在として考えれば ── 僕は旧社会の住人なので「おいおいやめてくれよ」とは思うが ── 社会がそこにあるからこそ自分の差異を意識し、そのシーンごとに自身を演じるのでもある。

 他人の顔色を窺って自身を演じることと、他人という環境と自身との差異に従って自身を色付けして認識することは、大きな差があるわけでもなく、後者がことさら不自然なこととも思えない。
 もちろん振り回される周囲からすれば、とんだ迷惑には違いないが。それでも。

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 いずれにしても「なんでもひとりでできるもん」というタチの悪い中年は誕生する。し続ける。
 おおよそ面倒なことは部下や家族や親や友人や配偶者や子供やフォロワに押し付けて、いっぱしの顔をして、経験則から「自分はここまで何とか乗り切ってきた成功者だ」と思うのだ。
 待って。僕を指さすのはやめてください。

 しかしそれも人間の脳のメカニズムではある。
 冷静に考えれば、自分1人で自分1人の面倒を見ることは誰にも出来ない。
 僕だって宅配サービスや製造業や一次産業に従事している人がいなければ庭に穴を掘ることさえ出来ない。
 そうした冷静さ、客観を失えばこそ「自分は(経験した範囲では)何でもこなしてきたし、対処できた」と考える。

 経験を積めば積むほど、誰もが脱社会因子を増大させるのだ。
 だから大人は変人が多い。
 定年退職した人たちを見ろ。専業主夫(主婦)を見ろ。俺のことは忘れろ!
 会社や組織でそれなりのポストになった人、インフルエンサと呼ばれるイキモノ、だいたい脱社会因子を通常より多く抱えている。社会逸脱をしていてもおかしくない。

 けれども彼ら彼女たちは社会から逸脱しない。社会と関わり続ける。
 逸脱因子があってもなお単位社会にとって有用と見做されている(あるいは単に替えがきかなかい)こともあれば、彼らの持つ逸脱因子がそのまま社会に情報として還元されているケースもあるからだ。
 定年後に熟年離婚される旦那様方については、まぁ、お察しというところか。

 僕個人についていえば、属する単位社会が極めて小さく、関連性も希薄だと思う。
 妹や姉や弟子や友人や恋人は密接ではあるかもしれないが、毎日一緒に居るような相手ではない。
(恋人に至っては数年に一度しかメールしない人もいる)
 また僕の脱社会因子はより大きな社会に良くも悪くも影響を与えず(そういう立ち位置に設定してある)、属する単位社会では、だいたい好意的に受け容れられていると思う。そう思いたい。思わせてほしい。

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 個人的には、どちらが良いとも悪いとも思わない。
 社会性を保持し続けることは自己同一性と相反することがあるし、自己同一性を最重要視することは社会性の獲得や維持には向かない。好きにしろとしか言いようがない。

 要は社会が求める個々人の同一性と、個々人本来の自己同一性のバランスを取らなくてはならないのだが、今のところ社会はそうした側面についてはあまり考えているようには思えない。

 なぜといって誰もが自然に、暗黙裏に、社会的であり、社会に所属していることが当たり前だったからだ。
 どれだけ個人主義が浸透し、どれだけ自己同一性が細分化されても、人間は生まれた瞬間から誰かの単位社会の付属品として発生する。たとえ望まれた誕生であっても付属品には違いないし、望まれていなかった場合に初めて社会逸脱が発生すると言っても過言ではない。
 自分が作った社会など、どこにもないのだ。

 社会に属している人からすれば自己同一性を重視する人は常識知らずで疎ましいし、自己同一性を重視する人からすれば社会性を重視する人は嘘つきの馬鹿に見えるだろう。

 自己同一性がいい加減でちゃらんぽらんな人間はそうそういない。言動がいい加減でちゃらんぽらんなひとはいるだろうけれど。

 いずれ社会と個人は、その関係を変えるだろう。
 既存(旧来)の社会規範モデルは間違ったものではないが、ゆらぎを許さない。
 しかし個人主義と自己同一性の細分化に伴い、個人は社会を構成する要素でありながら、社会の部品としての役割を十全には果たせなくなっている。
 皆が皆、自分のことを優先するあまり社会が個々人を守れなくなっていて、社会のために貢献する人間などおらず、仮に居るとしても、もはや損するだけの愚か者だと言外に定義されているように思えることさえある。

 けれども個人が存在する限り、それが文明を維持する限り、社会は社会として亡くなることはない。社会が亡くなるときは、つまり文明やそこに属する個人が居なくなったときだ。
 だから社会は、小さな単位社会から大きな単位社会にいたるまで存続してほしいし、できればそれが、おかしな歪みをもたらさない、複雑性や矛盾をきちんと許容してクッションして受け止める、やわらかであたたかいものであってほしい。

 望みどおり社会を逸脱してなお、そう思う。
 それが社会の摂理であり、存在倫理であり、理想だからだ。

>>>

 明日はもっと暑くなると聞く。
 何もかも狂ってなどいないと、誰も言わないなら自分で言うしかない。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]
  抽象世界の車窓から。

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  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
:家庭菜園ティストの狂気:
夢見の猫の額の奥に:
 
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// TimeLine:230511
// NOTE:
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TITLE:
余命再計算。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230511

 昨日は定期検診。
 内服薬が残り少なくなっていて、病院近くのビジネスホテルに当日予約が可能だったため、早朝のうちに庭仕事を終えて、午後一番で病院に向かった。

 前橋で知り合った友人と酒盃を交わし、0時を回った頃、どうにも眠くなってホテルに戻る。
 よくよく考えると10日は0時に眠って4時に起き、作業を終えてそのまま前橋に入ったので、昼寝をしていなかった。

>>>

 今朝は5時半に目覚め、寝直すか考えたのだが通勤ラッシュが始まる前に前橋を発つことにした。
 車のルーフをオープンにして走ったが、気温が13℃ほどで肌寒い。
 しかし暑くなったらオープンルーフにする事は出来なくなるから、このくらいがちょうどよい。

 帰宅後、堆肥を切り返して(まだ早朝)から昼寝の準備をしていると、BP(高校時代の友人です)からメール。
 最近、彼は交通手段のためのバイクを探しており、その下見に僕を連れ出す。

 二店舗ほどを回って昼食。
 うちに迎えに来たときは「今日はこの、いつもと違ってさっぱり系のラーメン屋に行こうと思う」と言っていたのだが、彼は空腹になると食欲によるクーデターで理性を失い、IQが2桁くらい削られてしまう。
 結局フライングガーデン(関東圏に展開するハンバーグレストラン)に行くことに。
 さっぱり系はどこに行ったんだよ。

>>>

 定期的に(むしろ毎日のように)余命計算をする。
 最近気付いたのだが、僕の可処分時間は、一般的な人のそれと比べるとすでに2倍近くに到達している。
 独身専業主夫という極めて異質な生活様式を送っているので、睡眠時間も含めて自由裁量で行動できる。

 もちろん2日連続で眠り続けることもあれば、昨日のように数時間しか眠らないこともあるけれど、基本的には「眠くなったら眠り、目覚めたら起きて、なるべくしたいことだけをして、したくないことをできるだけ後回しにする」という、野良猫のような暮らしである。
 飼い犬のように誰かのご機嫌を取る必要すらない。

 それでも肉体的な制限はあるから、だいたい平均的(あるいはそれ以上)な睡眠時間を消費する。
 食事の回数は少ないが、掛ける時間は、おそらく普通の人と同じ程度だ。つまり僕は食事をかなりのんびりする傾向がある。急ぐ用事がないから当然と言えば当然だ。

 残りの時間のほとんどについて、多くの人は何らかの労働を行う。
 もちろん僕だって行っているが、可能な限り自動化している。
 我が家の働きもの第一位は洗濯機で、次点で食洗機、三位はエスプレッソマシンだろうと思われる。
 これらが僕に与えてくれる自由時間は非常に大きい。

 その他の雑務を含めても(たとえば炊事や掃除、庭仕事にしても)僕からすれば半分は遊びだ。
 なんといってもしたくないことはいくらでも後回しにすることができる。

 基本的に、誰にも叱られない。

>>>

 理想的な時間配分を、睡眠8時間、労働8時間、余暇8時間と考えた場合、僕は睡眠8時間、余暇16時間ということになる(厳密には専業主夫らしく、もう少し生活に必須の労働をしているが)。
 結果、僕の可処分時間は一般的な(あるいは一般に理想とされる)可処分時間の2倍と概算できる。

 およそ45歳からの余命で20年を設定しているが、可処分時間だけで考えれば40年分近くが発生することになる。
 被雇用者で65歳定年になり延長雇用などを行わず、定年後から今のようなぼんやりのんびりスタイルになった場合を考えると、75歳までの分の可処分時間を得られる計算である。
 延長雇用するならさらに長い寿命を過ごしていることに等しくなる。

 だからいいだろう、羨ましいだろう、という話ではない。
 もう十分生きたんだからどうでもいいじゃないか、という話だ。

 僕は時間ケチなので、時間というリソースをもっとも有用だと断じて疑わない。
 さらに言えば7歳からずっと、自由というものに憧れていた。
 そして同時に、いつか自分を殺すことを希っていた。

 ネコノカミサマにお願いをしたおかげなのか、時間も自由も、思った分だけ手に入った。
 絶望というのは、比較対象となる希望がある間だけは正しく絶望として機能するので、希望を持たなければ、絶望すら放棄してしまえる。
 僕は自分に希望しないから、自分に絶望しない。

 誰かの役に立ち、世に人に後に称えられるような輝かしい痕跡を、言い換えれば黒くくすんで固く乾いた血糊のような傷跡を、誰かの中に残すことを望まなくなった。
 自分以外の誰かにとっての、良き何者かとして存在することを望まなくなった。

 良きにつけ悪しきにつけ誰かを傷つける生き方しかできないなら、そして死ぬことさえ誰かを傷つけてしまうなら、死ぬまでは生きて、そのあいだ関わる人間を減らしてゆくしかない。
 それが正しいとか善良だとは思わない。ただ僕に最適だとは思う。
 
 生きることは呪いのようだ。僕は自分ひとり満足に殺すことができないまま死ぬだろう。
 もう十分生きたし、これ以上、別の生き方を望んでいないのに、時間だけが ── いずれの限りこそあるにせよ ── 有り余っている。

 誰かにこれを譲ることができたらどんなにいいだろう。
 お金は寄付することができるが、寿命や時間は譲ることができない。
 交換や共有することは許されない。
 それは誰かと関わることを意味してしまうから。

 放り投げるように。
 放り捨てるように。
 匿名の何者かとして、モノとしてのリソースと同じように、時間も分け与えられたらいいのに。

 でもそれはできないから。
 淡々と寝ては起きて、考えて昼寝をして、イキモノたちを殺して、育てて、また殺して。
 そしていつか気が変わるかもしれない自分のために、本当に大事なことだけを記憶して、それ以外を記録する。

 日数にしておよそ6500日。
 きっと何かを為すには短く、何も為さないには長い時間だ。
 だからその目的については考えずに、呼吸をするように、寝入るように日々を送るしかない。

 あるいは内緒の願い事をして、それをひた隠しに隠して生きるしかない。

>>>

 帰宅してからキャンピングキャビンで昼寝。
 エアコンも情報端末の充電もタダなので、部屋に篭もるより安上がり。
 問題は、この中でいくら眠っても身体の疲れが取れないこと。
 睡眠環境については、もう少し改善した方が良さそうだ。

 日中が暑いため、身体が二部睡眠制に移行しようとして長い昼寝をするのだが、朝夕寒いため、夜も寒くならないうちに眠ろうとしているような気がする。
 おそらく体内深部温度と外気温の相関性があるのだろう。
 僕の身体は、他の人よりずっとポンコツなので、おかしな現象が多い。

 とにかくこのところ、ちょっと油断すると気怠くて眠い。
 カフェイン剤を飲むべきか悩むが、あまり意味がない気もする。

 日中はとても暑い。
 雨が降る予報があるようだが、雲ひとつ見えないまま夕方まで眠る。







 

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[NEXUS]
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// TimeLine:230509
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
堆肥作りは趣味です。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230509

【腰痛】
 昨日と一昨日、ほとんど眠っていた。
 雨なので外作業もできないし、腰が痛かったのできちんと休めようと思ったため。
 身体の具合に合わせてなのか、とにかく眠くて眠り続けた。

【太陽光発電】
 雨の日は当然に発電量が低く、最終的にはバッテリィからの出力電圧が 10V
ほどになってしまった。
 定格 12V のバッテリィで、平常時は 12.4Vほどの出力。
 パワーコントローラは 13.6V を蓄電圧の上限にしている。
 14.4V 程度までは設計許容だろうと思うが、過負荷を掛けて損耗を早めたいわけではない。
 とにかく出力が 10V ほどになると、インバータ側も交流 100V の出力を確保できず(94Vほどか)アラームが鳴る。

 冷蔵庫と一部のUSB電源はインバータを介さずに電力を消費する ── 直流から交流にした電気を再度直流にするのが無駄に思えるため、別の引き込み回路を分岐している ── が、ことに冷蔵庫は 12V を下回るとコンプレッサが停まってしまうようだ。

 やはりというか、雨の日に弱い。
 梅雨の前後には走行充電機能を有効にしようと思う。

【菌が好き】
 堆肥作りが楽しくて、できれば毎日切り返しをしたい。
 草や葉が黒く変色して腐植になり、白カビが生え、手袋越しにもあたたかく湯気を上げているのを見るとウキウキする。
 塩麹などというものが流行る前から、麹で三五八漬けの床や甘酒を作っていたので、麹菌には誠に勝手ながら愛着がある。ちなみに糠漬けは上手に管理できた例しがないのであまり愛着がない。

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 今朝は10時頃に起床。
 燃えるゴミを捨て、堆肥を切り返してぬかを撒き、EB-a を耕作エリアに散布。
 耕作エリアを除草して、きちんと耕作したいのだが、まだ後回し。
 米ぬかが終わってしまったので、後日また買いに行こう。

 昨晩、入浴後、久しぶりにゴキブリさん1匹を屋内で見かけて駆除したので、屋外の防除剤を交換する。
 ちなみに昨年は、ほぼ一年寝ていたので何もしていないし、何なら記憶がないと言ってもいい。

 防除剤の交換が終わってから、外水道の排水口が詰まっていたのでラバーカップで詰まりを通したあと、目立つ箇所の草取り。
 ラバーカップは6年ほど前、前橋のマンションの排水系が詰まるのでポンプ付きの高性能なものを購入したが、結局今まで数回しか使っていない。まぁ、しょっちゅう使うようでも困るか。

 枝下ろしや除草の運搬に、以前は一輪車を使っていたのだが、今年からはトラックに使っていた養生シートを使っている。
 大量に載せられるし、漏れも少ない上、柵で囲われた堆肥場に投げ込むのにも便利だ。

 堆肥場に投げ込んだ草を刈り込み鋏で裁断し、ぬかと分解促進剤を掛けて作業終了。

 時刻はおよそ15時。

 やはりこのくらいの時間に作業を終えるのが一番調子がいい。
 ここから晩ごはんの支度をしてもよし、早めの入浴をするもよし、しばしの休憩を楽しむもよし。
 身体や作業着の汚れ具合にもよる。
 就寝はおよそ0時から2時だろうか。

 暑くなると12〜16時頃までは昼寝をして、0〜4時頃まで眠る二部制に変わると思う。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:
 
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  -Diary-Mechanics-Technology-
 
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[Object]
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[Cat-Ego-Lies]
  :家庭菜園ティストの狂気:
 
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