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TITLE:
愚痴を聞かされた上、怒られる。
Written by BlueCat
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弟子から久しぶりに電話がある。
不惑を過ぎたのだからという理由でこれまで以上に頑なになる決心でもしたか、手段や哲学や思考は変えないのに結果が変わることを願っては、いつもと同じように不快な状況を作り上げたらしく愚痴をこぼす。
愚痴をこぼしたついでに、その記憶の中の不快や怒りが蘇ってきたのか、謂れのないことで不機嫌さをぶつけられてしまった。
といって僕はそれで気分を害したわけではない。むしろ面白かった。
僕には一切の非がないことも分かっていたので、こんなに理不尽に怒られて、八つ当たりされて、面白いなと思ったのだ。
もちろん弟子でなかったらタダでは済まさないとは思うが、そもそもタダでは済まさないような距離感の人間が、そうした八つ当たりをしてくるとも思えない。
弟子だからちょっと大目に見ている部分はあるだろうが、誰が僕に八つ当たりをしてきたからといって、気分を害する必要もないだろう。
その理不尽さや不条理は、シュールな可笑しみに溢れている。
わざわざあげつらうまでもなく気付けば人は反省するものだし、不条理な世の理不尽を面白おかしく受け流したとして、誰に害のあるものでもあるまい。
なるほど記憶に没入すると、人格のテーブルが単一でなおかつ狭い場合、今の気分は記憶に引きずられることになるようだ。
とくに弟子は器用な人間ではない。
人格は単一だし、思考回路もシーケンシャルで単一だ。
倫理的にも真面目であり、つまりは融通が利かない。僕のように不真面目で、いい加減で、ちゃらんぽらんなルンペンプロレタリアートとは根本から違うのである。
真面目な話、現行の思考が記憶に引きずられるというメカニズムは理解できる。
記憶力が高く、再現力が高く、ある種遊びのない潔癖さが、逃げ場のない自分自身を追い詰めるのだろう。
>>>
不惑を過ぎるとかなりの頻度で人間は頑固になる。
これは経年による学習の結果、情報の最適化によって判断基準が固着するためだろう。
これは ── 最適化を逆行すること=非効率化がなされることなので ── 意識的に剥がそうとしなければ、情報処理システムの宿命として避けられない。
同一性の高い思考回路や人格ほど、その固着が強固になる。
なぜといって同一の問題に複数のメソッドで対処するような非効率を、通常はしないからだ。それまでの経験上、もっとも効率的な選択をすれば、それが正解になる。
しかしそれはあくまでその個体における、その時点までの経験則に過ぎない。
だから頑固な人間は、ほとんどの場面では役立つかもしれないが、他者に対する理解力に欠け、また新しい局面で柔軟な対応が出来ないケースが多い。
ここから学べる教訓があるとすれば、今の自分に関係のないもの(過去の記憶であるとか、他人の感情であるとか)に引きずられるのは ── 本来的にはその快不快を問わず ── ろくなことがない、ということだろうか。
端的に言えば、自分の顔と感情には責任を持つのが大人だろうと僕は思っている。
誰かの行為で(そこに悪意や害意がなくても)不快感を露わにし、敵愾心を剥き出しにする人は老若男女を問わず一定数存在する。
彼ら彼女たちの多くは、結果的に、自分自身の感情に(その拠り所を誰かに明け渡しているという点からして)無責任で、自制能力が低いということが観察される。
不惑を過ぎるあたりから、どうやら人間はふたたび童心に戻り始め、周囲に甘えが出るようさえ思える。
情報処理システムの固着とは、知性の洗練ではなく、むしろ白痴に近づくことでさえあるのかもしれない。
つまるところ知性とは、迷い、悩み、考えや想像を巡らせ、あれこれと検討し、推論し、検証しようとする一連のプロセスそのものなのだろうか。
>>>
皆が皆、ギスギスしているように思えることがある。
理由は分からない。
正確さを求めるきっちりかっちりした理想や潔癖症が隙間や余裕のない思考様式を構築し、それを自分だけでなく環境にも当てはめるためイライラしてしまうのかな、とも思う。
僕もかつては極度の潔癖症だったから、満足に完璧を実現できない自分にさえ嫌気が差して、この世から消し去ろうと考えたものだ。
今はのんびりぼんやり、テキトーを身上としているので、自分にもイライラしないし、他人にも世界にも政治にもNHKにもイライラしない。
今日はキャンピングキャビンの照明の工作でいくつか失敗したが、失敗は楽しいものだ。
まぁ、イライラしても少々のこと、短時間のこと。
ちょっと手間で、ちょっと思いどおりにならないから腹が立って、もう一度同じことを繰り返すことにはなるけれど、どのみちこの手と頭を使ってするしかないので、腹を立てても仕方ない。
どうせ寝る時間も決まっていないし、明日の予定も特にないからかまうものか。
みんな正しさを持っていて、その正しさに自分を当てはめて、環境がその正しさに当てはまらないと機嫌を損ねる。
正しさに自分が当てはまらないから絶望しているなんてまだまともな方で、自分に当てはまるものを正しさだと公言する人間も少なからずいる。正しさってそんなに万能だったか。
昔から書いているが、僕は間違っていたいほうのイキモノだ。
法に触れない範囲なら、人の道さえ踏み外したいと思っているうちに猫になってしまった。
もちろん暴力、薬物、人権侵害、他者の身体財物を毀損するなどの行為はまっぴらごめんなので手を出したことはない。
いやそんなことを言っていても、道を歩くだけで誰かの道筋をほんの半歩先で踏んでいて、その誰かの進路を妨害し、つまりは権利を侵害しているかもしれない。その可能性を僕は否定できない。
だからといって引きこもりになっているというわけではないが。
>>>
正しい奴。いい奴。善良で優しい奴。なんでもいい。
そうでない奴だってそれはそれで勝手にすればいい。
自分以外の誰か ── つまりは社会 ── と接する中で、何かを演じようとしてしまったり、気付いたら何かを演じてしまっていて、それこそが自分だと思ってしまうこともあるだろう。
本人が望んでいなくても、自分以外の多くの人から望まれ、賞賛されれば、そちらの方がよいかと勝手に思い込んでしまうものだし、あるいは誰からも望まれていない本人だけの望みを痛々しく具現するよりよほど善良で優しいかも知れない。
何が正しいかなんて、社会性を捨てつつある僕が示せるものでもない。
孤独に過ごしていると、正しさなんてどうでも良くなる。ただ目的をより快適に、より簡単に、より安全に ── そして叶うならより廉価に ── 達成できればそれでいい。
倫理というのは自分ではなく他人のために己の中で抱えるものだ。
正しさという爆弾を抱えすぎて己の矛盾の海を恐る恐る覗き込んでいる人を見ると、後ろから突き飛ばしたくなる(笑)。
溺れてしまえば大層苦しいものでもある。
けれど誰が言ったところで、その正しさに大した意味がないなどと、自分で実感するまでは理解できないことなのだ。
怖いな、苦しいな、と言っているのはきっと、まだ溺れ足りないのだろう。
窒息して、己を失ってしまえば、そんなことでは悩まなくなるだろうとは思うのだけれど。
己が己であり、あると思い、ありたいと思うために、悩みは尽きない。
つまるところ環境があるために悩むのではなく、己があるから悩むのだけれど、まぁこれも実感できなければただの言葉遊びにしか見えないだろう。
>>>
子供の頃から、自由であることを至高と考えていた。
もちろん子供の頃は格別に不自由だった。
僕は少々特別だったかもしれないが、普遍的に考えても子供は大人より不自由だ。
だから早く大人になりたいと思ったし、経済的にも自立して、自由になりたいと思った。
会社員になったらなったで、自由に仕事をしたいと思った。
しかし自営をしてみると、(初めてだったから、という理由はあれど)自堕落でモノにならなかった。
自由が孤独に近しいものであると知ったのは、20代の終わり頃だったか。
不自由だけれど、仲間や親しい者や近しい者がいるという環境を、だから僕は切り捨てようと思った。
どういうわけか僕にとって自由は、本当にこの上もなく優れているものなのだ。
どのくらい優れているかというと、たぶん時間に等しいと思う。
時間は自分の命と同程度の価値があり、お金よりも優先されるものである。
自由はだから、お金よりも価値がある。
お金を出して自由が買えるなら、僕はそれを買う。
時間と自由は、およそ等しいので、どちらか一方を選ぶということができない。
あるいは1時間の不自由と引き換えに、1時間の自由が手に入るというならそれは価値があるかもしれない。
しかし失われる時間は2時間だから、ゼロサムになってしまって何の得もない。
けれどもお金で自由や時間が買えるなら、それは買うべきだ。ほかに買うものなんてないくらいだ。
仮にお金を失っても、その空っぽの時間を楽しむだけの知恵を僕は持っている。
一緒に過ごす人がいなくても、食べるものも飲むものも煙草がなくても、飢えていても、僕はその時間を、その自由を思う存分味わうことができる。
>>>
そうこうしているうちに、孤独になってしまった。
つまりそれは、本当に自由になったということだ。
孤独はストレスになり精神に悪影響を与える、などという人もいるようだが、僕はそれは嘘だと思う。
もちろん孤独がストレスになり、精神に悪影響を受ける人もいるだろうけれど、少なくとも僕はそれには当てはまらない。
思った通りの自由は(孤独は)本当に素晴らしい。
自慢する相手も、評価してくれる他人もいないから自堕落でも問題ないのが尚更いい。
狭い社会に視野を絞られ、そのウサギ小屋のような社会だけ眺めて孤独に苛まれ「自分には味方がいない」なんて嘯く人間があちこちにいるが、僕は彼ら彼女たちに問いたい。
それなら果たしてあなたは、誰かの味方であろうとしていますか、と。
誰の味方になるつもりもなく、ただ自分の正しさや寂しさを埋めてくれるエサを求めているだけの貧しい魂のために、一体誰が手を差し伸べるのですか魂まで呑み込まれてしまうかもしれないのにと。
僕は孤独だが、味方がいないとは思っていない。
むしろ味方しかいない(敵は切り捨てたり噛み殺してしまうので)。
孤高を気取るのは結構だけれど、孤高というのは誰も味方になってくれないという受け身な精神のなれの果てなどではなくて、誰の味方になるかを自分で決めることができるという、たったそれだけの、選択と意志の問題だと僕は思うのだ。
たまたま僕の場合は味方は居るけれど味方は要らないので、孤独を ── つまりは自由を維持できている。
たとえば味方が欲しいというのなら、自由を捨てて、不自由に足を取られながら、誰かの味方になるしかない。
黙って隅の方でいじけている盆暗の味方をするような間の抜けたお人好しなどいない。
だからそのお人好しに、あなたがなればいい。
あなたが誰かに味方するとき、誰かがあなたの味方になる。
だから「私には味方がいない」なんてアタマの悪い発言は、二度としないでほしい。
困っている人や、少し弱っている人を見つけたら、味方になってあげればいい。
あなた自身がそうだというなら、あなたが自分の味方になればいい。
何をしてもらえば嬉しいか、どんなふうに接したいか、いろいろ試してみればいい。
困っているなら困っていると、助けてほしいなら助けてほしいと、甘えたいなら甘えさせてほしいと、一度でいいから言ってみるといい。
なあに自分に対して言うのであれば、他人に言うほど高いハードルでもあるまい。
自分に対してさえそれを言うことが許せないから、他人にも言えないまま窒息しそうになっているのではないかと、少々心配になる。
誰にも頼らず甘えないような強い人間などいないし、仮に居たとしてもそれはあなたではない。
弟子から久しぶりに電話がある。
不惑を過ぎたのだからという理由でこれまで以上に頑なになる決心でもしたか、手段や哲学や思考は変えないのに結果が変わることを願っては、いつもと同じように不快な状況を作り上げたらしく愚痴をこぼす。
愚痴をこぼしたついでに、その記憶の中の不快や怒りが蘇ってきたのか、謂れのないことで不機嫌さをぶつけられてしまった。
といって僕はそれで気分を害したわけではない。むしろ面白かった。
僕には一切の非がないことも分かっていたので、こんなに理不尽に怒られて、八つ当たりされて、面白いなと思ったのだ。
もちろん弟子でなかったらタダでは済まさないとは思うが、そもそもタダでは済まさないような距離感の人間が、そうした八つ当たりをしてくるとも思えない。
弟子だからちょっと大目に見ている部分はあるだろうが、誰が僕に八つ当たりをしてきたからといって、気分を害する必要もないだろう。
その理不尽さや不条理は、シュールな可笑しみに溢れている。
わざわざあげつらうまでもなく気付けば人は反省するものだし、不条理な世の理不尽を面白おかしく受け流したとして、誰に害のあるものでもあるまい。
なるほど記憶に没入すると、人格のテーブルが単一でなおかつ狭い場合、今の気分は記憶に引きずられることになるようだ。
とくに弟子は器用な人間ではない。
人格は単一だし、思考回路もシーケンシャルで単一だ。
倫理的にも真面目であり、つまりは融通が利かない。僕のように不真面目で、いい加減で、ちゃらんぽらんなルンペンプロレタリアートとは根本から違うのである。
真面目な話、現行の思考が記憶に引きずられるというメカニズムは理解できる。
記憶力が高く、再現力が高く、ある種遊びのない潔癖さが、逃げ場のない自分自身を追い詰めるのだろう。
>>>
不惑を過ぎるとかなりの頻度で人間は頑固になる。
これは経年による学習の結果、情報の最適化によって判断基準が固着するためだろう。
これは ── 最適化を逆行すること=非効率化がなされることなので ── 意識的に剥がそうとしなければ、情報処理システムの宿命として避けられない。
同一性の高い思考回路や人格ほど、その固着が強固になる。
なぜといって同一の問題に複数のメソッドで対処するような非効率を、通常はしないからだ。それまでの経験上、もっとも効率的な選択をすれば、それが正解になる。
しかしそれはあくまでその個体における、その時点までの経験則に過ぎない。
だから頑固な人間は、ほとんどの場面では役立つかもしれないが、他者に対する理解力に欠け、また新しい局面で柔軟な対応が出来ないケースが多い。
ここから学べる教訓があるとすれば、今の自分に関係のないもの(過去の記憶であるとか、他人の感情であるとか)に引きずられるのは ── 本来的にはその快不快を問わず ── ろくなことがない、ということだろうか。
端的に言えば、自分の顔と感情には責任を持つのが大人だろうと僕は思っている。
誰かの行為で(そこに悪意や害意がなくても)不快感を露わにし、敵愾心を剥き出しにする人は老若男女を問わず一定数存在する。
彼ら彼女たちの多くは、結果的に、自分自身の感情に(その拠り所を誰かに明け渡しているという点からして)無責任で、自制能力が低いということが観察される。
不惑を過ぎるあたりから、どうやら人間はふたたび童心に戻り始め、周囲に甘えが出るようさえ思える。
情報処理システムの固着とは、知性の洗練ではなく、むしろ白痴に近づくことでさえあるのかもしれない。
つまるところ知性とは、迷い、悩み、考えや想像を巡らせ、あれこれと検討し、推論し、検証しようとする一連のプロセスそのものなのだろうか。
>>>
皆が皆、ギスギスしているように思えることがある。
理由は分からない。
正確さを求めるきっちりかっちりした理想や潔癖症が隙間や余裕のない思考様式を構築し、それを自分だけでなく環境にも当てはめるためイライラしてしまうのかな、とも思う。
僕もかつては極度の潔癖症だったから、満足に完璧を実現できない自分にさえ嫌気が差して、この世から消し去ろうと考えたものだ。
今はのんびりぼんやり、テキトーを身上としているので、自分にもイライラしないし、他人にも世界にも政治にもNHKにもイライラしない。
今日はキャンピングキャビンの照明の工作でいくつか失敗したが、失敗は楽しいものだ。
まぁ、イライラしても少々のこと、短時間のこと。
ちょっと手間で、ちょっと思いどおりにならないから腹が立って、もう一度同じことを繰り返すことにはなるけれど、どのみちこの手と頭を使ってするしかないので、腹を立てても仕方ない。
どうせ寝る時間も決まっていないし、明日の予定も特にないからかまうものか。
みんな正しさを持っていて、その正しさに自分を当てはめて、環境がその正しさに当てはまらないと機嫌を損ねる。
正しさに自分が当てはまらないから絶望しているなんてまだまともな方で、自分に当てはまるものを正しさだと公言する人間も少なからずいる。正しさってそんなに万能だったか。
昔から書いているが、僕は間違っていたいほうのイキモノだ。
法に触れない範囲なら、人の道さえ踏み外したいと思っているうちに猫になってしまった。
もちろん暴力、薬物、人権侵害、他者の身体財物を毀損するなどの行為はまっぴらごめんなので手を出したことはない。
いやそんなことを言っていても、道を歩くだけで誰かの道筋をほんの半歩先で踏んでいて、その誰かの進路を妨害し、つまりは権利を侵害しているかもしれない。その可能性を僕は否定できない。
だからといって引きこもりになっているというわけではないが。
>>>
正しい奴。いい奴。善良で優しい奴。なんでもいい。
そうでない奴だってそれはそれで勝手にすればいい。
自分以外の誰か ── つまりは社会 ── と接する中で、何かを演じようとしてしまったり、気付いたら何かを演じてしまっていて、それこそが自分だと思ってしまうこともあるだろう。
本人が望んでいなくても、自分以外の多くの人から望まれ、賞賛されれば、そちらの方がよいかと勝手に思い込んでしまうものだし、あるいは誰からも望まれていない本人だけの望みを痛々しく具現するよりよほど善良で優しいかも知れない。
何が正しいかなんて、社会性を捨てつつある僕が示せるものでもない。
孤独に過ごしていると、正しさなんてどうでも良くなる。ただ目的をより快適に、より簡単に、より安全に ── そして叶うならより廉価に ── 達成できればそれでいい。
倫理というのは自分ではなく他人のために己の中で抱えるものだ。
正しさという爆弾を抱えすぎて己の矛盾の海を恐る恐る覗き込んでいる人を見ると、後ろから突き飛ばしたくなる(笑)。
溺れてしまえば大層苦しいものでもある。
けれど誰が言ったところで、その正しさに大した意味がないなどと、自分で実感するまでは理解できないことなのだ。
怖いな、苦しいな、と言っているのはきっと、まだ溺れ足りないのだろう。
窒息して、己を失ってしまえば、そんなことでは悩まなくなるだろうとは思うのだけれど。
己が己であり、あると思い、ありたいと思うために、悩みは尽きない。
つまるところ環境があるために悩むのではなく、己があるから悩むのだけれど、まぁこれも実感できなければただの言葉遊びにしか見えないだろう。
>>>
子供の頃から、自由であることを至高と考えていた。
もちろん子供の頃は格別に不自由だった。
僕は少々特別だったかもしれないが、普遍的に考えても子供は大人より不自由だ。
だから早く大人になりたいと思ったし、経済的にも自立して、自由になりたいと思った。
会社員になったらなったで、自由に仕事をしたいと思った。
しかし自営をしてみると、(初めてだったから、という理由はあれど)自堕落でモノにならなかった。
自由が孤独に近しいものであると知ったのは、20代の終わり頃だったか。
不自由だけれど、仲間や親しい者や近しい者がいるという環境を、だから僕は切り捨てようと思った。
どういうわけか僕にとって自由は、本当にこの上もなく優れているものなのだ。
どのくらい優れているかというと、たぶん時間に等しいと思う。
時間は自分の命と同程度の価値があり、お金よりも優先されるものである。
自由はだから、お金よりも価値がある。
お金を出して自由が買えるなら、僕はそれを買う。
時間と自由は、およそ等しいので、どちらか一方を選ぶということができない。
あるいは1時間の不自由と引き換えに、1時間の自由が手に入るというならそれは価値があるかもしれない。
しかし失われる時間は2時間だから、ゼロサムになってしまって何の得もない。
けれどもお金で自由や時間が買えるなら、それは買うべきだ。ほかに買うものなんてないくらいだ。
仮にお金を失っても、その空っぽの時間を楽しむだけの知恵を僕は持っている。
一緒に過ごす人がいなくても、食べるものも飲むものも煙草がなくても、飢えていても、僕はその時間を、その自由を思う存分味わうことができる。
>>>
そうこうしているうちに、孤独になってしまった。
つまりそれは、本当に自由になったということだ。
孤独はストレスになり精神に悪影響を与える、などという人もいるようだが、僕はそれは嘘だと思う。
もちろん孤独がストレスになり、精神に悪影響を受ける人もいるだろうけれど、少なくとも僕はそれには当てはまらない。
思った通りの自由は(孤独は)本当に素晴らしい。
自慢する相手も、評価してくれる他人もいないから自堕落でも問題ないのが尚更いい。
狭い社会に視野を絞られ、そのウサギ小屋のような社会だけ眺めて孤独に苛まれ「自分には味方がいない」なんて嘯く人間があちこちにいるが、僕は彼ら彼女たちに問いたい。
それなら果たしてあなたは、誰かの味方であろうとしていますか、と。
誰の味方になるつもりもなく、ただ自分の正しさや寂しさを埋めてくれるエサを求めているだけの貧しい魂のために、一体誰が手を差し伸べるのですか魂まで呑み込まれてしまうかもしれないのにと。
僕は孤独だが、味方がいないとは思っていない。
むしろ味方しかいない(敵は切り捨てたり噛み殺してしまうので)。
孤高を気取るのは結構だけれど、孤高というのは誰も味方になってくれないという受け身な精神のなれの果てなどではなくて、誰の味方になるかを自分で決めることができるという、たったそれだけの、選択と意志の問題だと僕は思うのだ。
たまたま僕の場合は味方は居るけれど味方は要らないので、孤独を ── つまりは自由を維持できている。
たとえば味方が欲しいというのなら、自由を捨てて、不自由に足を取られながら、誰かの味方になるしかない。
黙って隅の方でいじけている盆暗の味方をするような間の抜けたお人好しなどいない。
だからそのお人好しに、あなたがなればいい。
あなたが誰かに味方するとき、誰かがあなたの味方になる。
だから「私には味方がいない」なんてアタマの悪い発言は、二度としないでほしい。
困っている人や、少し弱っている人を見つけたら、味方になってあげればいい。
あなた自身がそうだというなら、あなたが自分の味方になればいい。
何をしてもらえば嬉しいか、どんなふうに接したいか、いろいろ試してみればいい。
困っているなら困っていると、助けてほしいなら助けてほしいと、甘えたいなら甘えさせてほしいと、一度でいいから言ってみるといい。
なあに自分に対して言うのであれば、他人に言うほど高いハードルでもあるまい。
自分に対してさえそれを言うことが許せないから、他人にも言えないまま窒息しそうになっているのではないかと、少々心配になる。
誰にも頼らず甘えないような強い人間などいないし、仮に居たとしてもそれはあなたではない。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]
:青猫:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-
[Object]
-Camouflage-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
//EOF

