::ある現象について私たちが入手できる情報は,現象全体から見ればきわめて限られた「ある瞬間の部分的な情報」であるのが普通である.人間は,全体を全体のまま一度に理解することはできないからである.
 ならば,どうしたら全体を理解できるのか? 入手可能な「ある瞬間の部分的な情報」を活用して知るしかないのである.微分方程式は,そうした「ある瞬間の部分的な情報」を量的な関係で表現し,現象の全体像を描く数学的な手法である,ということもできる.
 ただし,ここで注意してほしいのは,「ある瞬間の部分的な情報」は,たんなる断片的な情報ではない,ということである.じつはここに,微分方程式の大前提がある.微分方程式が活用する「ある瞬間の部分的な情報」は,「現象全体を支配する法則を反映した情報」なのである.

 

 

 

 


 

 

 

150903

 

 

「私には(どこにも/だれも)味方がいない」という発言を、これまでの人生で4回ほど聞いたことがある。
 彼ら/彼女たちが、どのような経緯で、どのような理由で、どのような心理から、どのような背景原理が働き、何を求めてこんなことを言うのか、僕には分からなかった。
 もちろん、今も分からない。

 

 

 最初こそ「おお、そうであったか。おぬしには味方がいないのであるな」と思ったものの、それは大間違いであることが(数年を経たのち)分かる。
 彼女(最初にそれを私に言ったのは女性である)には、実に味方がいた。
 それほど多くはなかったかもしれないが、ひとりやふたりではなく、深く繋がる味方が、いた。
(インディアン風にいえば、3つ以上は「いっぱい」である)

 

 

 僕はとにかく驚いた。
 当時の彼女の言動の多くは、味方がおらず、孤立無援であるという意識がにじみ出ていた。
 今だからはっきり言ってしまえるが、単なる「ヒロイズム酔い」である。
 しかし実情が分からない以上、駅で突然、嘔吐し始めた人が単なる酔っ払いなのか、それとも別の病気などの理由で具合の悪い人なのか、それは分からないのである。

 

 

 そこで僕は考えた。
 そもそも「私には味方がいない」なんて言葉を、僕はまず口にしない。したくないし、できない。
 いや、すればできる訳だから、できないわけではないのだけれど、やはりすることはできないと感じる。
 なぜか。
 味方がいる人間は通常「私には味方がいない」なんて言わない。
 味方がいるのにそんなことを言えば嘘になる。

 

 

 すなわちその味方との「信頼」など存在しない。
 さぞやその嘘で塗り固めた信頼は、金メッキのように薄っぺらく光輝いていることであろう。
 その「味方」とやらは、いいように自分の姿を取り繕うための道具であり、慰みものとして利用されるだけである。

 

 

 味方をばかにするな、と思う。
 当人がその場にいるとかいないという問題ではない。
 味方や友達というのは心の中に棲むイキモノである。
 最後の最後、何もなくなってしまったときにでも、むしろそのときにこそ、心の中で自分を支え、励ましてくれるイキモノである。

 

 

 味方であるはずのところの人間を「味方ではない」とどこかで少しでも思っているならば、それは味方などではない。
 もちろん、その発言者当人も、味方同士などではない。

 

 

 一方、味方のいない人間ならばどうだろう。
「私には味方がいない」なんてことを、いったい誰に言うのだろう。
 僕ならそんなことは言えない。味方でない人間に言うのは、あまりにもさもしい。
 味方予備軍(そんなものがあるのか?)に言うのも、ずいぶんではないだろうか。
 味方に言っているとしたら、もはや金メッキの信頼関係は消失している。

 

 

 そのため、僕は「味方がいない」なんてことは、口が裂けても言えない。
 僕の味方をしてくれる(くれている/くれるであろう)人に失礼であるし、味方でない人に言う必要はない。

 

 

 これらの(きわめて限定的な)考察から、
「わたしには味方がいない」と平気で言える人間というのは「自分のことしか考えられなくなっていて、しかもその自分に酔いしれている」だけの少し可哀想な人だと分かる。
 もちろん、これは状態であろう、と思う。思いたい。思えたらいいと感じる。思えるんじゃないだろうか。思うことができたらどんなにいいだろう。思ってもいいのではないか。

 

 

 いや、無理だ。

 

 

 この特性は、生命の本能に起因している。
 本能が強ければ、結果的にそれは発露する。
「自分のことしか考えられない病」がもともとあるところに発作が起こって「私には味方がいない」と発言するのである。
 なぜならば、自分が自分のことばかり考えているからこそ、他者も「自分のことしか考えていない」と思うし、他人は自分の味方などしてくれないと考えるのである。
 自分がそういう病気だからこれは仕方ない。

 

 

 そうでなければ「味方がいない」なんて発言はできないのではないだろうか。
 自分がいつも誰かの味方をしたいと願い、行動しているならば、違う発想になり、違う発言が生まれ、違う行動をするだろう。

 

 

 そうした自己愛(のビョーキ)に充ち満ちた人が、自己愛をこじらせた結果「私のことをあなたも考えてくれていない」という意味で発言されるのかもしれない。
 それならせめて「Hey ユー、私のこと、もうちょっと味方してくれてもいいんだYO?」と正しく(できるだけ可愛らしく)言ってほしいものである。

 

 

「私には味方がいない」という発言は、そもそも自身に向かって発言されている。
「私には味方がいないからあなたを倒してもっと強い奴に会いに行く」でもなければ、
「私と契約して味方になってよ」でもない。

 

 

 発言の意味に対する回答が「ああ、そう」くらいしか思い浮かばないのである。
 YesもNoもないのである。
 それを堂々と言ってのけられることかれこれ4回である僕はちょっとしたベテランであるのだけれど、それはそれで(僕の方こそ)人としてちょっと問題なのではないかと、3回目あたりから思い始めている。

 

 

 とにかく4回のうち、一度の例外もなく、彼ら/彼女たちにはそれはそれは大層な味方がいた。
 にもかかわらず「味方がいない」と宣言(あるいは、あれは独り言だろうか)してしまえる構造が、僕の想像を超えていた。

 

 

 もちろん、僕の人間に対する見積りはおおむね甘く、楽観的に過ぎるのかもしれない。
 しかし、人間に絶望して生き続けられるほど、僕は弱くも図々しくもない。
 あるいは人間や未来に希望を持ち続けなければ成り立たない精神構造こそ脆弱でふてぶてしいというのなら、それはそれでかまわない。
 僕は姿勢について語っているだけで、それに対する評価は人それぞれだろうし、評価に価値があるとは思っていない。
 姿勢にこそ価値がある。

 

 

 もとより僕には「敵味方」「味方/非味方」という概念がない。
 まったくこれっぽっちもないのである。
 いわば、戦場で、味方を援護し敵兵を行動不能にした後、その敵兵の手当や撤退支援をする勢いである。
 敵に送るのは塩だけでは足りないだろう、という発想がいつもあるタイプである。

 

 

 あまり冗談を言っているとまた笑われるのでほどほどにしておくが、そもそも冗句である。

 

 

 

 

 



::ところが,である.本当のところ,この前提には大きな思考的な飛躍があるのである.よく考えてみてほしい.全体像が分かる前に,どうして「この部分の情報は全体の情報を反映している」と言えるのか.教科書には露わに書かれていないが,そんな保証はどこにもないはずである.
 このような見方をするときに大事なのは,着目している領域での支配則が,全体の領域でもそのまま成り立っているかどうかを確認することである.微分方程式の解は,それが現象を正しく記述している解であると確認できたときに初めて,その正当さが認められる.したがって,微分方程式では,解が実際の現象と合致するかどうかを確かめる検証作業が欠かせないのである.たまたま合致していればメデタシメデタシ,合致しなければまた微分方程式を組み立て直して再度確かめる.という動作が基本になるのである.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 引用は、
「4 時間軸を入れる」 From 「直感でわかる微分積分」( p.112~113 )
(著作:畑村 洋太郎 / 発行:岩波書店)
 によりました。