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TITLE:
ヴァーチャルという羊水。
SUBTITLE:
~ In the one's waters. ~
Written by BlueCat

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 生まれたときに棲んでいた家は、事務所兼工場兼自宅だったので、大小合わせて16の部屋と給湯室、2箇所のトイレ、それぞれ1箇所の風呂場とキッチンがあり、2階は陸屋根だったので屋上も走り回れるほどあった。
 今棲んでいる家について、人によっては「広いですね」「大きいですね」というが、それについて僕はとくに広いとも大きいとも感じておらず、それどころか不便ばかり感じている。

 僕に必要な設備は、寝室/書斎/台所/風呂/トイレである。
 だから今の家では使っていない部屋が4つほどある。
 2階には半年に一度くらいしか上がらないためトイレの水が干上がって下水臭が流れてくることもある(仮想奥様の管理により改善された)。

 4つの主要設備というのは長い一人暮らしによって構築されたメソッドらしい。
 基本的に食事は、書斎か寝室でする。台所ではしない。
 20年以上も一人暮らしをしていると、その程度には変人になってしまう。
 それが悪いというのではない。ただ他の人に申し訳ないと思うことがあるだけだ。
 幸い、僕以外には猫しか居ない。
 ── 僕も猫だから、この家には猫しか居ないことになる。

 家のリフォームをするきっかけは「Fallout 4」というゲームだった。
 あるいは畑を耕すきっかけなら「SKYRIM」だろうか。

 もともと建築物を見て、その構造や材料、工法や手順を観察するのが好きだった。
 実際にやってみると、ゲームではボタンひとつで屋根や壁を組み替えられるし、時間も手間もほとんど掛からないのだが、現実世界ではそうもいかない。
 部屋ひとつ組み上がるまでに半年で済めば早いほうだ。

 もちろんもともと知識があるわけでも技術があるわけでもないから必然だ。
 動画や本で勉強しているわけでもない ── とくに動画では「この現場の」「この問題に」「こう対処する」という個人の経験に基づく内容が多く、ほとんど参考にならない。

 それでも主要設備はだいたい整ったような気がするから、もうどうでもいいか、と思っていたり……。

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 先日は机を自作したのだが、工作の時に板厚のことをすっかり忘れ、数値だけの現物合わせをしてしまったため、デスクのメインボードを留めているブラケットは少し、たわんでいる。

 これもヴァーチャルとリアルの差分によってもたらされた、ちょっとした悲劇だ。
 誰も見ていないのをいいことに「これはこれで味わいだ」と強く自分に言い聞かせるしかない。

 僕がCG(3Dのモデリング)を好んだのもそのせいだろう。
 ヴァーチャルなモデルは物性に従う必要がない。
 ポリゴンは正しく厚みゼロの存在で、板厚も応力も関係なく様々なモノを作ることができる。
 空飛ぶ洗濯機付き冷蔵庫付きオートバイ付き炊飯器付きオープンカー付きドライヤーというのだって作ることができる。何その怪物みたいなドライヤー。

 物理学ではときどき、摩擦を無視した計算を行う。
 あれもヴァーチャルならではだろう。現実世界で摩擦を発生させない事象は、そうそう存在しない。
 しかし摩擦を考慮していると計算式が途方もなく煩雑になってしまう。
 簡単な計算機などしか使えなかった頃は、リアルシミュレートに近似した演算など不可能だったから仕方ない。

 ヴァーチャルというのはリアルにたどり着くまでのひとつの過程なのだと考えることもできるだろうか。
 ヴァーチャルのまま見切り発進すると、僕の机のように歪みが発生するのだが ── 。

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 僕はヴァーチャルに生まれて育った。
 理由は分からない。おそらく現実が、それだけ希薄だったのだろう。

 現実的 ── つまり物質的 ── 要因もある。
 僕の身体は生まれつき、生育に不向きだった。
 乳児期の母乳アレルギィに始まり、精製炭水化物(白米やパンなど)の消化吸収を嫌い、免疫力が低く、いつも何らかの体調不良 ── 身体の内外に存在する大小様々な他の生命体による侵食 ── に見舞われていた。

 身体の存じている物質的な世界は、だから、シンプルな苦痛に満ちていた。
 光や音でさえ苦痛だったし、発熱を始めとした体調不良の倦怠感はいつものことで、より明確な痛み、かゆみ、ちくちくした刺激、ざらりとした感触、吐き気を催すような悪臭など、身体を通して感じる現実世界の刺激のほとんどすべてを嫌った。
 そしてかなり早い段階(おそらく5歳頃)に「意識を持っていること」がその苦痛の原因だと理解していた。

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 正義や倫理というのも、実はヴァーチャルなものである。
 現実世界において、それらは確固たるカタチを持ってなどいない。
 通常、正義とはある種の状態や関係、様子を示すものであり、倫理とはそれを明文化しない状態で「あるべき ── そうあれば心地よく感じられる」と抽象的に感覚していることだ。

 抽象的な感覚といえば理性もそれにあたる。
 理性と感情、あるいは理性と野生の分水嶺は物質にはなく、ために人間はその区分を己の抽象的な認識と感覚に頼っている。にもかかわらずそれらは明確に異なり、相互に影響こそしても相反するようそのものとして概念されている。
(動詞ではないからこの活用はおかしいと思うが、概念は知性によって行われるある種の運動ではある)

 たとえば卑近な例を挙げると、芸能ニュースなどをよく騒がせる不倫問題なども、かなり多くの人が過熱しがちに観察される問題だ。
 人々の見る現実/物象世界の「こうあれかし」と、感覚/仮象世界の「こうあれかし」が摩擦を起こす様子は傍目には滑稽で、あるいは愉快でさえある。

 結婚という、現実世界の物質に紐付いた明文化された契約行為における正義と、恋愛という仮象世界の感覚や感情に紐付いた明文化されていない運動における倫理の摩擦だ。
 片や「不貞/不義は許されない」とし、片や「人間は契約や権利に拘束されるものではない」とする反発 ── 。

 これは「殺す」ということにも通じている。

 たとえば僕らは間接的には大量の他者を毎日殺して生きている。
 菜食主義だヴィーガンだフルーティストだと言って、歪んだ倫理から正義を組み上げるのは結構だけれど、その潔癖は「生きる」ことには不向きだ。自殺した方がいい。
 このカラダは、どうしようもなく他者を殺さないと生きていけない。

 樹脂容器にパッケージされたおよそすべての食品は、もともと「生きていた」もの ── 場合によっては「今まさに生きている」もの ── であり、誰かが殺したものであり、つまりあなたや私が殺しているものだ。

 あるいはこの体内に存する、多くの寄生体に身体を明け渡してみたらどうだろう。
 我々の免疫機構は、容赦なく多くの微生物を ── あれを「生きている」というならそうなる ── 殺傷している。
 そうしないと我々は健康な状態さえ維持できない。
 自分以外の菌類さえ殺したくないという正義を掲げるのは結構だが、つまりそれは死ぬと言うことに同義だ。
 どこからどこまでの他者を生命体とし、そのどこまでを大層理想的な倫理によって保護したいのか。

 動物か植物か、生物のサイズによるのか。
 知性の有無といっても、それを厳密に定義することさえ人間にはできない。
 知性とは仮象のものだからだ。

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 とくにここで僕の正義を語るつもりはない。

 僕は本来的に「人間が人間を ── それが大小/部分全体の如何を問わず ── 所有する権利」を主張することそのものさえ醜悪だと感じる程度には潔癖症だったので、本来の(現在利用している)人格においては、結婚さえ醜悪な弱さの発露だと認識してしまうし、恋愛も不安定な感情や確固とした劣情に揺り動かされた脆弱さの露呈と考えることが可能だ。
 ために僕個人の(現在利用している)認識や感覚に基づけば、不貞行為は許されず、僕が他の生命体を殺すことを許容しない限り僕は生きることが許されない。

 念のために記述しておくと、これはあくまでも「現在利用している」人格を奔放に暴露した場合の価値観である。他者とのコミュニケーションにはもっと柔軟な人格を利用しているし、その形成のために僕はかなり度し難い行為 ── たとえば恋人を27人に増やしたり、隠し子ができたと騒がれるようなことなど ── をして価値観の振り幅を大きく作ってきた。
 言い訳をすれば「それは必要だった」し、言い訳をしないなら「後悔などしていない」。

 僕には倫理も正義も、とくにない。
 主たる自我があまりないので仕方ないのだ。
 ほかにお付き合いしているガールがいるのに、他のガールから「猫くん一緒にお風呂に入ろうよぅ」と(強く)言われれば、一緒にお風呂に入るような貞操観念の欠如したイキモノである。
 ケダモノにおいて、正義を語る資格などないだろう。

 いかなる正義を掲げる不義であろうとそれは変わらない ── 往々にして不義というのは正義に反する悪として存するのではなく、シンプルに別の正義として存在し、掲げられ、他の不義をあげつらうものなのだ。

 ヴァーチャルの海に溺れて生まれ、少しずつ現実世界に順応してきたケダモノとしては、どの正義も等しく正しく、つまりどの不義も等しく正しい。
 イキモノを殺さないのも大いに結構だし、イキモノを殺して殺して殺しまくって生きていくのも大いに結構。
 どれも人の道だ。
 踏み外しようもなく「正しさ」を見つめ続ける限り、正しく人の道である。

 人を殺すことさえ、往々にして(やむを得ず選択されたとしても)正しさの発露なのだ。
 誰かを騙しても、裏切っても、私利私欲に利用しても、それさえ正しさとして説明される。
 おそらく犯罪者という犯罪者が、そのように言うだろう。

── 私はそれをする必要があった。
── そうするよりなかった。

 と。

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 僕はヴァーチャルで生まれ育った。
 ヴァーチャルの中は、白も黒もはっきりしていて、何もかもが理想的で完璧である。

 あるいは、だからこそ、歪んでいたのだ。

 あれもこれもと、綺麗な色を混ぜていったら、どうしようもない汚い色になる。
 最初は綺麗だったはずなのだ。
 想定では、想像では ── 仮象では、ヴァーチャルでは。

 ぐちゃぐちゃになっているこれを、しかし僕は、けっこう気に入っている。
 僕の中で発生してきた摩擦から比べれば、世間の摩擦などちょっとした垢擦り程度のもののようにさえ思える。
 もちろんこれは渦中にない、熱伝導から遠い場所にいればこそだろうけれど。

 どうやって僕はここに来たのだろう。
 再現性のない混沌とした具象の世界に産み落とされて、少し
途方に暮れている。






 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Game-Human-Memory-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
:君は首輪で繋がれて:
夢見の猫の額の奥に:
 
 
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