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TITLE:
変わり者であるということ。
SUBTITLE:
~ The unnecessary bystander. ~
Written by BlueCat
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230516
0時過ぎに眠り4時半頃起床。二部睡眠制が身体を支配している。
このところ空腹をきちんと感覚したいと思っていて、夜は食事をせず眠った。
しかしやはりというか、さほど空腹を感じない。
先日は28時間経過しても空腹を感じないので、仕方なく食事をした(放っておくと体調を崩す可能性があるため)。
朝食に昨日の残りの味噌汁と玄米粥を食べる。
昨日までの雨は上がり、今日は晴れて暑くなるらしい。
いつもどおりに堆肥を切り返す。
庭木で隠れてしまう部分があり、そこはどうしても青カビが発生しやすい。
もちろん青カビも堆肥の分解には貢献しているが、白カビほどの有用性がなかった記憶がある。
それに白カビと違い、人体に悪影響がある。
このため定期的に、青カビが発生しやすいエリアの露地を剥き出しにして乾燥させ、そのエリアの堆肥を日光に当てる作業を行っている。
また雨になると堆肥が水を過剰に含むので、切り返してある程度乾燥させる必要もある。
好気性菌主体の堆肥を作っているので、水分が過剰なのは悪環境となる。
適度な水分というのは、だいたいぬか漬けと同じくらい。
地面や刈り取った雑草からも水分は供給されるので、少しぱらぱらしているくらいでも大丈夫である。
>>>
かつて弟子に「猫氏のそれは稀有な人生ですよね」と言われたことがある。
僕は基本的に捻くれているので、そんなことはないと否定したはずだ ── 読み返していないので分からないが、当時の思考回路を回想するにそう思う ── が、よくよく考えると僕は変わり者であるから、その人生はかなりユニークではあるだろう。
といって(先の文書に重複するかもしれないが)誰しもその人生はユニークであるから、誰もが稀有といえば稀有だと結論づけられる、かというとそれほどでもない気もする。
その決定的な差が何なのか、あまり自覚がなかったのだが、僕はそういえば重度の変わり者なのだった、とつい先ほど思い出して自覚した。
>>>
【変わり者とは何か】
端的に、ある種の社会性が欠如した状態で存在している人間はそう呼ばれることが多いように観察される。
僕は猫なので社会性というものをあまり持ち合わせていないが。
仮に僕をその脱社会性(変わり者)ヒエラルキィのトップに君臨していると見做すことについて格別の異論はないのだが、客観性を欠くので無駄に文字数を稼ぐ遊びなどやめて、もう少し真面目に考えてみようと思う。
先にも述べたが人はそれぞれユニークである。社会性を多く備えた人であってもそれは変わらない。
一方、完全に社会性しか持たない人というのは見たことがない。おそらく存在しないだろう。
必ず、誰とも共通しない、独自の意見や視点や毒や弱さを持っていて、実のところ僕は人のそういう部分がとても好きである(だから誰かの愚痴を聞くのを楽しみにしている部分がある)。
それはときにその人の魅力そのものだからだ。
醜さは美しさに匹敵し、弱さは強さにおよそ等しい。
えっ、なに意味が分からない? あ、そう……。
愚痴を言う人の多くは、集団の中で発生する圧力としての社会性と、自我の中で発生する譲れない(譲りたくない)欲という独自性の狭間で揺れている。だからどちらかといえば社会的な人だ。
ちなみに自我の中で発生する「譲れない欲」というのは、単純な反作用としての反発の場合と、他に明確な(あるいは時に不明確な)独自の目的がある場合が考えられる。
前者は反発することが目的なので中身は空っぽだが、どんな外圧だろうととにかく反発する。それだけがコンテンツだといっていい。
後者は社会性に反発する必要がないケースも実は多い。
たとえば「仕事とあたしと、どっちが大事なの!」と言われたときの答えは「両方大事に決まってるだろボケ!」である。
めっちゃ反発してるゥ……。
僕の観察の範囲で一番の変わり者というのが、これまでの人生の中でたったひとり居る。一番、と言っているのでひとりしか居ないわけだが、ものの勢いで書いてしまった。訂正するのも面倒だからそのまま書いてしまおう。
当然それは僕である。説明する必要はなかろう。僕は変わり者だ。
しかし僕以外でもう一人、中学時代の国語の教師がそうだった。
彼らをサンプルに「変わり者」を分析してみよう。
>>>
【脱社会性】
社会性といっても地域や国家単位の大きな社会から、家族や友人、恋人関係といった小さな単位まで様々であるが、変わり者とされる人はだいたいその社会における規範から最低でも、違法でもなく倫理に反さない程度には逸脱する。
場合によって法も倫理も逸脱してしまう人もいるだろうが、その場合(現在の日本社会の言語では)脱社会ではなく反社会として扱われる。もうちょっとラケンローな思想として扱ってやれよ「反社会」っていうその日本語。かわいそうだよ「反社会」って日本語が。
社会性というのは、いわゆる協調性のようなものだろう。
特に日本では非言語的な暗黙の了解でそうした社会性が存在している。いや僕に限っていえば、まだ海外で暮らしたことはありませんけれどね。
いずれにしても変わり者は、その所属する単位社会における明示された(あるいは暗黙の)社会規範から逸脱する。
社会性を多く備えた諸君にはそもそも分からないかもしれないが、たとえばぶつぶつ独り言を言いながら道を歩いてニヤニヤしていたりする。
その肩に猫が載っていたりしたら「相当イカれている」と一般的には判断されるだろう。
多くの人は、人目に付く場所でぶつぶつ独り言を言いながら歩いたりしない。ニヤニヤしたりもしないだろう。
それは明示/暗黙の社会規範で「しない方がいい」とされている/と思っているからではないだろうか。
もちろんその変人は、誰かに危害を加えたりはしない。そも、そんなことに興味関心などない。
けれども明示/暗示された社会規範から一点でも逸脱している(脱社会性を獲得している)ということは、他の社会規範からも逸脱していて、それが脱社会性からさらに飛躍した反社会性だったとしてもおかしくない、という予測を立てるはずだ。
だから多くの場合、平均レベルの社会性を備えた人ほどそうした変人には近づかない。
一方でより高い社会性を備えた人は、より大きな単位社会を自身の認識に含めている。社会というのは個人を含む一方で、そこに含まれる個人の意識に含まれる。
だから高い社会性を備えた人は、平均レベルの社会性を備えた人よりも変人(脱社会性獲得個体)に寛容になる(僕が、いわゆる「お嬢様」にモテがちだったのはそうした背景がある)。
単位社会が大きく広がるほど、規範は厳密になり明言化される一方でその対象を限定的にする。
>>>
【社会性とは何か】
家の中ではソファやテーブルの上に脱いだ靴下を置くことが厳禁されているかもしれないが、法律では「脱いだ靴下をそのへんに置くな」とは明記されていない(はずだ)。
もちろん飲食店でそういうことをするのはさすがに倫理に反するだろう。
第一そんなことをする必要はないはずだ ── ごく一部の特殊な飲食店ならあるのかもしれないが。
なぜ自宅ではそれが許され(あるいは許されず)、外 ── つまりは社会ではそれが許されない(にもかかわらず明記されない)か。をいちいち考えないでいられる(対処できる)のが社会性である。
僕は社会性をあまり備えていないので昔からそういうことを考えている。
もちろん外出先で脱いだ靴下をテーブルやソファを上に置いたりしないし、そもそも靴下を脱いだりしないが。
厳密に明言化された社会規範のひとつが法律だ(他にも政令やら条例やら省令やらがあったと思うが、浄霊や精霊や霊障とは異なる)。
これを逸脱すると犯罪者になり、組織/個人を問わず常習的にそうした行為を行う人たちをおそらく「反社会的」と今の日本語は定義していると思う。
一方、明言化されないために厳密ではないが、生活に密着している社会規範のひとつが家庭内ルールだろう。
先の靴下をその辺に脱いだとき、お母さん(あるいは配偶者)に叱られるそれである。反社会的な人も、家庭内ルールだけはきちんと守っている可能性を僕は否定できない。
かくして社会規範同様、家庭内ルールや恋人間の艶やかな約束、友達同士の暗黙の了解など様々なものがあり、反社会的な人も同様に所属する何らかの単位社会におけるルールを厳守するからこそ社会規範に戻ることができない可能性を考えると、むしろ真面目な側面さえあるのではないかと思ってしまう。多分に、その真面目さがおかしな方向に発露しているという歪みを発生させているわけだが。
>>>
【目立つ】
変わり者というのは目立つようだ。
僕のように「目立ちたくない」「人目に付きたくない」「私はここに居ない人です」と、隅っこでそっと思っているイキモノであっても、それが変わり者である以上、どうしようもなく目立つ。
社会性を失い、脱社会性を獲得すればするほど、社会性を獲得している個体からは奇異の目を集める。
先に述べたメカニズムに従って警戒対象とされるわけだ。
当然と言えば当然なのだが、僕は最近までそのことに気がつかなかった。
もちろん周囲との違和は感じていたし、自分が社会性を欠如しがちだという傾向も理解していた。
けれど脱社会を指向する傾向が強く、つまりは集団を本能的に避ける傾向にあり、それが行動原則に含まれていることは最近になってようやく把握できたことだ。
だって普通に考えて社会や集団から逸脱するなんて非常識だと思うし、脱社会なんて口で言うには容易いけれど、それを実現するなんて本質的に不可能に決まっているじゃないですかぁ。
仮に心理/肉体/経済的に脱集団/脱社会を果たして他者を必要としなくなったとしても、物理的に他者の生産物に頼らず自給自足することはとてもむつかしい。
それに果たして完全な孤立が幸せなのか、幸せを感じるとして、それはどのような有用性があるか、という疑問を持つことも可能だ。
先の国語教師について言えば、国語教師としての一般規範からは若干逸脱していた。
たとえば彼の趣味は読書と無線と飛行機だった。
時折、セスナなどを操縦することを楽しみにしていて、それについては僕も(飛行機好きなので)憧れるところだ。
授業の仕方が独特で(詳細は省くが)受験対応が必要な3年になると彼は国語の担当から外され、技術(のこぎりや半田ごてといった基礎的な工具を使ったりする男子向けの工作授業だった気がする)の教科担当になった。
念のため付け加えるが、彼の授業は「おそらく」受験には向かなかったかもしれないが、国語にせよ技術にせよ部活にせよ ── 僕は彼が顧問をしている水泳部に、わざわざ他から転部した ── そんじょそこらの教育指導要領に則った授業しかできない教師のそれよりはよほども興味深く、ためになるものだった。
結婚はされていたと記憶しているが、お酒も煙草も「無駄だ」という理由でなさらない方だった。しかしおよそ間違いなく若い時分にはそれを経験し、その上で最終的にやめたのだろうと想像する。だから嗜むことはできたはずだ。
生きていることをとても楽しんでいる方で、僕は彼を見て初めて、憧れたのだ。
こんな人になれたら、あるいはそれが不可能だとして、こんな人と親しくいられたら、どんなに素敵だろうかと。
当時14歳の時点で定年間近(当時は60歳定年だったか)だと思うので、今はおそらく鬼籍に入られていらっしゃるとは思うが、今もってフルネームを忘れられない、痛烈な印象を刻んだ人だ。
彼は教師としては脱集団的だった。
飛行機乗りを趣味とする教師は少なく、その授業はもちろん部活の顧問としても破天荒と言っていいほど例外的で、奔放と言っていいほど独自で、根底の哲学は一貫していた。
一方で彼はとても社会的だった。
教師として学校に所属していることはもちろん、学年副主任などを兼任されることも多く(おそらく主たる主任の立場については、逃げ回っていたものと想像する)生徒たちからも慕われていた。
その両立とバランス感覚こそが、彼の魅力であり、またその哲学の発露だったように観察される。
いかなる人生もユニークであり、必ず何らかの苦難があるものとは思うが、彼のようになれる人生を歩めたら本当に素敵だと心から思う。
>>>
話を戻して目立つということだが、彼もまた目立っていた。いっそ突き抜けて、清々しく、目立っていた。
断言できるが目立ちたいからと目立つような言動をしていたわけではない。あのご年齢でそんな幼稚な発想があったなら、むしろその方が愛らしいかもしれないが。
彼には彼のどうしようもない哲学があり、それに則って譲れないものは譲らず、真に欲するものは欲し、どうでもいいものは構わず手放して到達した境地だっただろう。
社会や集団の中で、動揺や苦悩や葛藤がなかったとは思わない。
それでもなお無理だと分かっているのに彼のような人生が歩めたら、などと憧れを抱いてしまうのだ。
一般的であり、それゆえにユニークであり、常識的であり、それゆえに目立つ部分があった。
僕についていえば、単に奇異であるがゆえに目を引き、せいぜい警戒されるというだけのことだ。
最近はもう、慣れてきた。
具体的には、キャンピングカーに乗っていたり、肩に猫を載せていたり、平日の昼間から中年男性が庭に穴を掘ったり埋めたりしていれば相応に目立つだろう。オープンカーを走らせるだけでも残念ながら目立つのだ、この地域では。
よくよく考えれば、ずっとそういう生き方しかしていなかった。選択できなかった時期も長くあったし、選択しなかったことも多々ある。
社会性のある行動を選択できなかったことも、あるいはしなかったことも。
目立つことを目的にしているわけではないのだが、好きなことを優先すれば最終的に目立つことはある。
我慢することで目立たないようにして、社会性を備えているフリをするのは容易だが、わざわざ僕がそれをしなくてもいいだろう。まして嫌々無難なことを続けて生きるくらいなら、今日死んだ方がマシというものだ。
僕は自分の命に、その程度の価値しか見ていない。
不自由な永劫の時間より、自由な瞬間のほうがいい。
>>>
【加齢と自立と脱社会性】
たびたび書いているし一般論化されているとおり、不惑のあたりから人間は頑固で傲慢になる。
メカニズムとして、それまで生きてきた経験則を適用すれば、おおよそいかなる場面も乗り越えられるという甚だ主観的な考証によるものなのだが「その人は」「その人の行動/選択において」「その人の目的とする結果を」「過去に」導くことが出来たという点では間違いのない事実なので致し方ない。
ただし主観による経験則(サンプリングが1つしかない)をそのまま一般化して他人にも押し付けるから頑固で傲慢だと言われることになる。お前と他人は違うという当たり前のことをまず理解しろ。
つまり人間 ── 正確にはその脳のメカニズム ── というのは失敗を回避し、成功を重ねるほど、情報処理の最適化を行い、特定の入力に対して大まかにパターン化し、決まった出力しかしなくなる。
一般的に、あるいは社会的にこれはむしろ正答だといえる。
昨日と今日で言動が異なる(同一性がない)存在は対処に困るから、社会はあまり許容したがらない。
昨日は女子でした、という人が女学校に入学し、今日は男子です、となると周囲は困る。
結婚したときは男でしたが、途中で「よく考えたらあたし女だと思う」とか言われた配偶者並びにお子様の心中はお察し申し上げて有り余る。
脱線したので戻す。
子供の頃は経験も少なく、何より大人に頼らなければ食事にも困り、欲しいものも手に入らない。
大人だってそうだけれど、子供だって他人の顔色を窺って生きなくてはならない(それともこれは僕個人に限った経験則だろうか)。
少なくともそれが社会性の根源だとは思う。
他人の顔色を窺い、自分にとってより有利な結果を導けるように振る舞うことは、時に自身に相応のストレスとなり、場合によっては虚偽による自己乖離さえ発生するかもしれない。
それでも社会的に有意な位置を保つことは長期的には価値がある(だから嘘偽りでも自身を装飾する)。
ために社会における一貫性を獲得することは最優先となる。
けれども本来的には一貫している方がおかしいと僕は思う。
誰だって気温が高ければ「暑い」と言い、気温が低ければ「寒い」と言う。
昨日と今日で言動は異なるが、そも環境が違うわけだから一貫した原理に基づいている。
相手を「より女らしい」と感じたから自分は男を演じ、相手を「より男らしい」と思って女としての思考を自覚することは不思議ではない。
周囲が男ばかりで自分の女性性に目覚め、周囲が女ばかりになって自分の女性性の不全、つまりは男性性の色濃さを自覚するという未熟さがあったとして、それは果たして非難されるほど不自然なことだろうか。
もちろん旧来の社会倫理ではその一貫性のなさを非難されるのは妥当だろう。
しかし1人を1人の存在として考えれば ── 僕は旧社会の住人なので「おいおいやめてくれよ」とは思うが ── 社会がそこにあるからこそ自分の差異を意識し、そのシーンごとに自身を演じるのでもある。
他人の顔色を窺って自身を演じることと、他人という環境と自身との差異に従って自身を色付けして認識することは、大きな差があるわけでもなく、後者がことさら不自然なこととも思えない。
もちろん振り回される周囲からすれば、とんだ迷惑には違いないが。それでも。
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いずれにしても「なんでもひとりでできるもん」というタチの悪い中年は誕生する。し続ける。
おおよそ面倒なことは部下や家族や親や友人や配偶者や子供やフォロワに押し付けて、いっぱしの顔をして、経験則から「自分はここまで何とか乗り切ってきた成功者だ」と思うのだ。
待って。僕を指さすのはやめてください。
しかしそれも人間の脳のメカニズムではある。
冷静に考えれば、自分1人で自分1人の面倒を見ることは誰にも出来ない。
僕だって宅配サービスや製造業や一次産業に従事している人がいなければ庭に穴を掘ることさえ出来ない。
そうした冷静さ、客観を失えばこそ「自分は(経験した範囲では)何でもこなしてきたし、対処できた」と考える。
経験を積めば積むほど、誰もが脱社会因子を増大させるのだ。
だから大人は変人が多い。
定年退職した人たちを見ろ。専業主夫(主婦)を見ろ。俺のことは忘れろ!
会社や組織でそれなりのポストになった人、インフルエンサと呼ばれるイキモノ、だいたい脱社会因子を通常より多く抱えている。社会逸脱をしていてもおかしくない。
けれども彼ら彼女たちは社会から逸脱しない。社会と関わり続ける。
逸脱因子があってもなお単位社会にとって有用と見做されている(あるいは単に替えがきかなかい)こともあれば、彼らの持つ逸脱因子がそのまま社会に情報として還元されているケースもあるからだ。
定年後に熟年離婚される旦那様方については、まぁ、お察しというところか。
僕個人についていえば、属する単位社会が極めて小さく、関連性も希薄だと思う。
妹や姉や弟子や友人や恋人は密接ではあるかもしれないが、毎日一緒に居るような相手ではない。
(恋人に至っては数年に一度しかメールしない人もいる)
また僕の脱社会因子はより大きな社会に良くも悪くも影響を与えず(そういう立ち位置に設定してある)、属する単位社会では、だいたい好意的に受け容れられていると思う。そう思いたい。思わせてほしい。
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個人的には、どちらが良いとも悪いとも思わない。
社会性を保持し続けることは自己同一性と相反することがあるし、自己同一性を最重要視することは社会性の獲得や維持には向かない。好きにしろとしか言いようがない。
要は社会が求める個々人の同一性と、個々人本来の自己同一性のバランスを取らなくてはならないのだが、今のところ社会はそうした側面についてはあまり考えているようには思えない。
なぜといって誰もが自然に、暗黙裏に、社会的であり、社会に所属していることが当たり前だったからだ。
どれだけ個人主義が浸透し、どれだけ自己同一性が細分化されても、人間は生まれた瞬間から誰かの単位社会の付属品として発生する。たとえ望まれた誕生であっても付属品には違いないし、望まれていなかった場合に初めて社会逸脱が発生すると言っても過言ではない。
自分が作った社会など、どこにもないのだ。
社会に属している人からすれば自己同一性を重視する人は常識知らずで疎ましいし、自己同一性を重視する人からすれば社会性を重視する人は嘘つきの馬鹿に見えるだろう。
自己同一性がいい加減でちゃらんぽらんな人間はそうそういない。言動がいい加減でちゃらんぽらんなひとはいるだろうけれど。
いずれ社会と個人は、その関係を変えるだろう。
既存(旧来)の社会規範モデルは間違ったものではないが、ゆらぎを許さない。
しかし個人主義と自己同一性の細分化に伴い、個人は社会を構成する要素でありながら、社会の部品としての役割を十全には果たせなくなっている。
皆が皆、自分のことを優先するあまり社会が個々人を守れなくなっていて、社会のために貢献する人間などおらず、仮に居るとしても、もはや損するだけの愚か者だと言外に定義されているように思えることさえある。
けれども個人が存在する限り、それが文明を維持する限り、社会は社会として亡くなることはない。社会が亡くなるときは、つまり文明やそこに属する個人が居なくなったときだ。
だから社会は、小さな単位社会から大きな単位社会にいたるまで存続してほしいし、できればそれが、おかしな歪みをもたらさない、複雑性や矛盾をきちんと許容してクッションして受け止める、やわらかであたたかいものであってほしい。
望みどおり社会を逸脱してなお、そう思う。
それが社会の摂理であり、存在倫理であり、理想だからだ。
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明日はもっと暑くなると聞く。
何もかも狂ってなどいないと、誰も言わないなら自分で言うしかない。
0時過ぎに眠り4時半頃起床。二部睡眠制が身体を支配している。
このところ空腹をきちんと感覚したいと思っていて、夜は食事をせず眠った。
しかしやはりというか、さほど空腹を感じない。
先日は28時間経過しても空腹を感じないので、仕方なく食事をした(放っておくと体調を崩す可能性があるため)。
朝食に昨日の残りの味噌汁と玄米粥を食べる。
昨日までの雨は上がり、今日は晴れて暑くなるらしい。
いつもどおりに堆肥を切り返す。
庭木で隠れてしまう部分があり、そこはどうしても青カビが発生しやすい。
もちろん青カビも堆肥の分解には貢献しているが、白カビほどの有用性がなかった記憶がある。
それに白カビと違い、人体に悪影響がある。
このため定期的に、青カビが発生しやすいエリアの露地を剥き出しにして乾燥させ、そのエリアの堆肥を日光に当てる作業を行っている。
また雨になると堆肥が水を過剰に含むので、切り返してある程度乾燥させる必要もある。
好気性菌主体の堆肥を作っているので、水分が過剰なのは悪環境となる。
適度な水分というのは、だいたいぬか漬けと同じくらい。
地面や刈り取った雑草からも水分は供給されるので、少しぱらぱらしているくらいでも大丈夫である。
>>>
かつて弟子に「猫氏のそれは稀有な人生ですよね」と言われたことがある。
僕は基本的に捻くれているので、そんなことはないと否定したはずだ ── 読み返していないので分からないが、当時の思考回路を回想するにそう思う ── が、よくよく考えると僕は変わり者であるから、その人生はかなりユニークではあるだろう。
といって(先の文書に重複するかもしれないが)誰しもその人生はユニークであるから、誰もが稀有といえば稀有だと結論づけられる、かというとそれほどでもない気もする。
その決定的な差が何なのか、あまり自覚がなかったのだが、僕はそういえば重度の変わり者なのだった、とつい先ほど思い出して自覚した。
>>>
【変わり者とは何か】
端的に、ある種の社会性が欠如した状態で存在している人間はそう呼ばれることが多いように観察される。
僕は猫なので社会性というものをあまり持ち合わせていないが。
仮に僕をその脱社会性(変わり者)ヒエラルキィのトップに君臨していると見做すことについて格別の異論はないのだが、客観性を欠くので無駄に文字数を稼ぐ遊びなどやめて、もう少し真面目に考えてみようと思う。
先にも述べたが人はそれぞれユニークである。社会性を多く備えた人であってもそれは変わらない。
一方、完全に社会性しか持たない人というのは見たことがない。おそらく存在しないだろう。
必ず、誰とも共通しない、独自の意見や視点や毒や弱さを持っていて、実のところ僕は人のそういう部分がとても好きである(だから誰かの愚痴を聞くのを楽しみにしている部分がある)。
それはときにその人の魅力そのものだからだ。
醜さは美しさに匹敵し、弱さは強さにおよそ等しい。
えっ、なに意味が分からない? あ、そう……。
愚痴を言う人の多くは、集団の中で発生する圧力としての社会性と、自我の中で発生する譲れない(譲りたくない)欲という独自性の狭間で揺れている。だからどちらかといえば社会的な人だ。
ちなみに自我の中で発生する「譲れない欲」というのは、単純な反作用としての反発の場合と、他に明確な(あるいは時に不明確な)独自の目的がある場合が考えられる。
前者は反発することが目的なので中身は空っぽだが、どんな外圧だろうととにかく反発する。それだけがコンテンツだといっていい。
後者は社会性に反発する必要がないケースも実は多い。
たとえば「仕事とあたしと、どっちが大事なの!」と言われたときの答えは「両方大事に決まってるだろボケ!」である。
めっちゃ反発してるゥ……。
僕の観察の範囲で一番の変わり者というのが、これまでの人生の中でたったひとり居る。一番、と言っているのでひとりしか居ないわけだが、ものの勢いで書いてしまった。訂正するのも面倒だからそのまま書いてしまおう。
当然それは僕である。説明する必要はなかろう。僕は変わり者だ。
しかし僕以外でもう一人、中学時代の国語の教師がそうだった。
彼らをサンプルに「変わり者」を分析してみよう。
>>>
【脱社会性】
社会性といっても地域や国家単位の大きな社会から、家族や友人、恋人関係といった小さな単位まで様々であるが、変わり者とされる人はだいたいその社会における規範から最低でも、違法でもなく倫理に反さない程度には逸脱する。
場合によって法も倫理も逸脱してしまう人もいるだろうが、その場合(現在の日本社会の言語では)脱社会ではなく反社会として扱われる。もうちょっとラケンローな思想として扱ってやれよ「反社会」っていうその日本語。かわいそうだよ「反社会」って日本語が。
社会性というのは、いわゆる協調性のようなものだろう。
特に日本では非言語的な暗黙の了解でそうした社会性が存在している。いや僕に限っていえば、まだ海外で暮らしたことはありませんけれどね。
いずれにしても変わり者は、その所属する単位社会における明示された(あるいは暗黙の)社会規範から逸脱する。
社会性を多く備えた諸君にはそもそも分からないかもしれないが、たとえばぶつぶつ独り言を言いながら道を歩いてニヤニヤしていたりする。
その肩に猫が載っていたりしたら「相当イカれている」と一般的には判断されるだろう。
多くの人は、人目に付く場所でぶつぶつ独り言を言いながら歩いたりしない。ニヤニヤしたりもしないだろう。
それは明示/暗黙の社会規範で「しない方がいい」とされている/と思っているからではないだろうか。
もちろんその変人は、誰かに危害を加えたりはしない。そも、そんなことに興味関心などない。
けれども明示/暗示された社会規範から一点でも逸脱している(脱社会性を獲得している)ということは、他の社会規範からも逸脱していて、それが脱社会性からさらに飛躍した反社会性だったとしてもおかしくない、という予測を立てるはずだ。
だから多くの場合、平均レベルの社会性を備えた人ほどそうした変人には近づかない。
一方でより高い社会性を備えた人は、より大きな単位社会を自身の認識に含めている。社会というのは個人を含む一方で、そこに含まれる個人の意識に含まれる。
だから高い社会性を備えた人は、平均レベルの社会性を備えた人よりも変人(脱社会性獲得個体)に寛容になる(僕が、いわゆる「お嬢様」にモテがちだったのはそうした背景がある)。
単位社会が大きく広がるほど、規範は厳密になり明言化される一方でその対象を限定的にする。
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【社会性とは何か】
家の中ではソファやテーブルの上に脱いだ靴下を置くことが厳禁されているかもしれないが、法律では「脱いだ靴下をそのへんに置くな」とは明記されていない(はずだ)。
もちろん飲食店でそういうことをするのはさすがに倫理に反するだろう。
第一そんなことをする必要はないはずだ ── ごく一部の特殊な飲食店ならあるのかもしれないが。
なぜ自宅ではそれが許され(あるいは許されず)、外 ── つまりは社会ではそれが許されない(にもかかわらず明記されない)か。をいちいち考えないでいられる(対処できる)のが社会性である。
僕は社会性をあまり備えていないので昔からそういうことを考えている。
もちろん外出先で脱いだ靴下をテーブルやソファを上に置いたりしないし、そもそも靴下を脱いだりしないが。
厳密に明言化された社会規範のひとつが法律だ(他にも政令やら条例やら省令やらがあったと思うが、浄霊や精霊や霊障とは異なる)。
これを逸脱すると犯罪者になり、組織/個人を問わず常習的にそうした行為を行う人たちをおそらく「反社会的」と今の日本語は定義していると思う。
一方、明言化されないために厳密ではないが、生活に密着している社会規範のひとつが家庭内ルールだろう。
先の靴下をその辺に脱いだとき、お母さん(あるいは配偶者)に叱られるそれである。反社会的な人も、家庭内ルールだけはきちんと守っている可能性を僕は否定できない。
かくして社会規範同様、家庭内ルールや恋人間の艶やかな約束、友達同士の暗黙の了解など様々なものがあり、反社会的な人も同様に所属する何らかの単位社会におけるルールを厳守するからこそ社会規範に戻ることができない可能性を考えると、むしろ真面目な側面さえあるのではないかと思ってしまう。多分に、その真面目さがおかしな方向に発露しているという歪みを発生させているわけだが。
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【目立つ】
変わり者というのは目立つようだ。
僕のように「目立ちたくない」「人目に付きたくない」「私はここに居ない人です」と、隅っこでそっと思っているイキモノであっても、それが変わり者である以上、どうしようもなく目立つ。
社会性を失い、脱社会性を獲得すればするほど、社会性を獲得している個体からは奇異の目を集める。
先に述べたメカニズムに従って警戒対象とされるわけだ。
当然と言えば当然なのだが、僕は最近までそのことに気がつかなかった。
もちろん周囲との違和は感じていたし、自分が社会性を欠如しがちだという傾向も理解していた。
けれど脱社会を指向する傾向が強く、つまりは集団を本能的に避ける傾向にあり、それが行動原則に含まれていることは最近になってようやく把握できたことだ。
だって普通に考えて社会や集団から逸脱するなんて非常識だと思うし、脱社会なんて口で言うには容易いけれど、それを実現するなんて本質的に不可能に決まっているじゃないですかぁ。
仮に心理/肉体/経済的に脱集団/脱社会を果たして他者を必要としなくなったとしても、物理的に他者の生産物に頼らず自給自足することはとてもむつかしい。
それに果たして完全な孤立が幸せなのか、幸せを感じるとして、それはどのような有用性があるか、という疑問を持つことも可能だ。
先の国語教師について言えば、国語教師としての一般規範からは若干逸脱していた。
たとえば彼の趣味は読書と無線と飛行機だった。
時折、セスナなどを操縦することを楽しみにしていて、それについては僕も(飛行機好きなので)憧れるところだ。
授業の仕方が独特で(詳細は省くが)受験対応が必要な3年になると彼は国語の担当から外され、技術(のこぎりや半田ごてといった基礎的な工具を使ったりする男子向けの工作授業だった気がする)の教科担当になった。
念のため付け加えるが、彼の授業は「おそらく」受験には向かなかったかもしれないが、国語にせよ技術にせよ部活にせよ ── 僕は彼が顧問をしている水泳部に、わざわざ他から転部した ── そんじょそこらの教育指導要領に則った授業しかできない教師のそれよりはよほども興味深く、ためになるものだった。
結婚はされていたと記憶しているが、お酒も煙草も「無駄だ」という理由でなさらない方だった。しかしおよそ間違いなく若い時分にはそれを経験し、その上で最終的にやめたのだろうと想像する。だから嗜むことはできたはずだ。
生きていることをとても楽しんでいる方で、僕は彼を見て初めて、憧れたのだ。
こんな人になれたら、あるいはそれが不可能だとして、こんな人と親しくいられたら、どんなに素敵だろうかと。
当時14歳の時点で定年間近(当時は60歳定年だったか)だと思うので、今はおそらく鬼籍に入られていらっしゃるとは思うが、今もってフルネームを忘れられない、痛烈な印象を刻んだ人だ。
彼は教師としては脱集団的だった。
飛行機乗りを趣味とする教師は少なく、その授業はもちろん部活の顧問としても破天荒と言っていいほど例外的で、奔放と言っていいほど独自で、根底の哲学は一貫していた。
一方で彼はとても社会的だった。
教師として学校に所属していることはもちろん、学年副主任などを兼任されることも多く(おそらく主たる主任の立場については、逃げ回っていたものと想像する)生徒たちからも慕われていた。
その両立とバランス感覚こそが、彼の魅力であり、またその哲学の発露だったように観察される。
いかなる人生もユニークであり、必ず何らかの苦難があるものとは思うが、彼のようになれる人生を歩めたら本当に素敵だと心から思う。
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話を戻して目立つということだが、彼もまた目立っていた。いっそ突き抜けて、清々しく、目立っていた。
断言できるが目立ちたいからと目立つような言動をしていたわけではない。あのご年齢でそんな幼稚な発想があったなら、むしろその方が愛らしいかもしれないが。
彼には彼のどうしようもない哲学があり、それに則って譲れないものは譲らず、真に欲するものは欲し、どうでもいいものは構わず手放して到達した境地だっただろう。
社会や集団の中で、動揺や苦悩や葛藤がなかったとは思わない。
それでもなお無理だと分かっているのに彼のような人生が歩めたら、などと憧れを抱いてしまうのだ。
一般的であり、それゆえにユニークであり、常識的であり、それゆえに目立つ部分があった。
僕についていえば、単に奇異であるがゆえに目を引き、せいぜい警戒されるというだけのことだ。
最近はもう、慣れてきた。
具体的には、キャンピングカーに乗っていたり、肩に猫を載せていたり、平日の昼間から中年男性が庭に穴を掘ったり埋めたりしていれば相応に目立つだろう。オープンカーを走らせるだけでも残念ながら目立つのだ、この地域では。
よくよく考えれば、ずっとそういう生き方しかしていなかった。選択できなかった時期も長くあったし、選択しなかったことも多々ある。
社会性のある行動を選択できなかったことも、あるいはしなかったことも。
目立つことを目的にしているわけではないのだが、好きなことを優先すれば最終的に目立つことはある。
我慢することで目立たないようにして、社会性を備えているフリをするのは容易だが、わざわざ僕がそれをしなくてもいいだろう。まして嫌々無難なことを続けて生きるくらいなら、今日死んだ方がマシというものだ。
僕は自分の命に、その程度の価値しか見ていない。
不自由な永劫の時間より、自由な瞬間のほうがいい。
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【加齢と自立と脱社会性】
たびたび書いているし一般論化されているとおり、不惑のあたりから人間は頑固で傲慢になる。
メカニズムとして、それまで生きてきた経験則を適用すれば、おおよそいかなる場面も乗り越えられるという甚だ主観的な考証によるものなのだが「その人は」「その人の行動/選択において」「その人の目的とする結果を」「過去に」導くことが出来たという点では間違いのない事実なので致し方ない。
ただし主観による経験則(サンプリングが1つしかない)をそのまま一般化して他人にも押し付けるから頑固で傲慢だと言われることになる。お前と他人は違うという当たり前のことをまず理解しろ。
つまり人間 ── 正確にはその脳のメカニズム ── というのは失敗を回避し、成功を重ねるほど、情報処理の最適化を行い、特定の入力に対して大まかにパターン化し、決まった出力しかしなくなる。
一般的に、あるいは社会的にこれはむしろ正答だといえる。
昨日と今日で言動が異なる(同一性がない)存在は対処に困るから、社会はあまり許容したがらない。
昨日は女子でした、という人が女学校に入学し、今日は男子です、となると周囲は困る。
結婚したときは男でしたが、途中で「よく考えたらあたし女だと思う」とか言われた配偶者並びにお子様の心中はお察し申し上げて有り余る。
脱線したので戻す。
子供の頃は経験も少なく、何より大人に頼らなければ食事にも困り、欲しいものも手に入らない。
大人だってそうだけれど、子供だって他人の顔色を窺って生きなくてはならない(それともこれは僕個人に限った経験則だろうか)。
少なくともそれが社会性の根源だとは思う。
他人の顔色を窺い、自分にとってより有利な結果を導けるように振る舞うことは、時に自身に相応のストレスとなり、場合によっては虚偽による自己乖離さえ発生するかもしれない。
それでも社会的に有意な位置を保つことは長期的には価値がある(だから嘘偽りでも自身を装飾する)。
ために社会における一貫性を獲得することは最優先となる。
けれども本来的には一貫している方がおかしいと僕は思う。
誰だって気温が高ければ「暑い」と言い、気温が低ければ「寒い」と言う。
昨日と今日で言動は異なるが、そも環境が違うわけだから一貫した原理に基づいている。
相手を「より女らしい」と感じたから自分は男を演じ、相手を「より男らしい」と思って女としての思考を自覚することは不思議ではない。
周囲が男ばかりで自分の女性性に目覚め、周囲が女ばかりになって自分の女性性の不全、つまりは男性性の色濃さを自覚するという未熟さがあったとして、それは果たして非難されるほど不自然なことだろうか。
もちろん旧来の社会倫理ではその一貫性のなさを非難されるのは妥当だろう。
しかし1人を1人の存在として考えれば ── 僕は旧社会の住人なので「おいおいやめてくれよ」とは思うが ── 社会がそこにあるからこそ自分の差異を意識し、そのシーンごとに自身を演じるのでもある。
他人の顔色を窺って自身を演じることと、他人という環境と自身との差異に従って自身を色付けして認識することは、大きな差があるわけでもなく、後者がことさら不自然なこととも思えない。
もちろん振り回される周囲からすれば、とんだ迷惑には違いないが。それでも。
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いずれにしても「なんでもひとりでできるもん」というタチの悪い中年は誕生する。し続ける。
おおよそ面倒なことは部下や家族や親や友人や配偶者や子供やフォロワに押し付けて、いっぱしの顔をして、経験則から「自分はここまで何とか乗り切ってきた成功者だ」と思うのだ。
待って。僕を指さすのはやめてください。
しかしそれも人間の脳のメカニズムではある。
冷静に考えれば、自分1人で自分1人の面倒を見ることは誰にも出来ない。
僕だって宅配サービスや製造業や一次産業に従事している人がいなければ庭に穴を掘ることさえ出来ない。
そうした冷静さ、客観を失えばこそ「自分は(経験した範囲では)何でもこなしてきたし、対処できた」と考える。
経験を積めば積むほど、誰もが脱社会因子を増大させるのだ。
だから大人は変人が多い。
定年退職した人たちを見ろ。専業主夫(主婦)を見ろ。俺のことは忘れろ!
会社や組織でそれなりのポストになった人、インフルエンサと呼ばれるイキモノ、だいたい脱社会因子を通常より多く抱えている。社会逸脱をしていてもおかしくない。
けれども彼ら彼女たちは社会から逸脱しない。社会と関わり続ける。
逸脱因子があってもなお単位社会にとって有用と見做されている(あるいは単に替えがきかなかい)こともあれば、彼らの持つ逸脱因子がそのまま社会に情報として還元されているケースもあるからだ。
定年後に熟年離婚される旦那様方については、まぁ、お察しというところか。
僕個人についていえば、属する単位社会が極めて小さく、関連性も希薄だと思う。
妹や姉や弟子や友人や恋人は密接ではあるかもしれないが、毎日一緒に居るような相手ではない。
(恋人に至っては数年に一度しかメールしない人もいる)
また僕の脱社会因子はより大きな社会に良くも悪くも影響を与えず(そういう立ち位置に設定してある)、属する単位社会では、だいたい好意的に受け容れられていると思う。そう思いたい。思わせてほしい。
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個人的には、どちらが良いとも悪いとも思わない。
社会性を保持し続けることは自己同一性と相反することがあるし、自己同一性を最重要視することは社会性の獲得や維持には向かない。好きにしろとしか言いようがない。
要は社会が求める個々人の同一性と、個々人本来の自己同一性のバランスを取らなくてはならないのだが、今のところ社会はそうした側面についてはあまり考えているようには思えない。
なぜといって誰もが自然に、暗黙裏に、社会的であり、社会に所属していることが当たり前だったからだ。
どれだけ個人主義が浸透し、どれだけ自己同一性が細分化されても、人間は生まれた瞬間から誰かの単位社会の付属品として発生する。たとえ望まれた誕生であっても付属品には違いないし、望まれていなかった場合に初めて社会逸脱が発生すると言っても過言ではない。
自分が作った社会など、どこにもないのだ。
社会に属している人からすれば自己同一性を重視する人は常識知らずで疎ましいし、自己同一性を重視する人からすれば社会性を重視する人は嘘つきの馬鹿に見えるだろう。
自己同一性がいい加減でちゃらんぽらんな人間はそうそういない。言動がいい加減でちゃらんぽらんなひとはいるだろうけれど。
いずれ社会と個人は、その関係を変えるだろう。
既存(旧来)の社会規範モデルは間違ったものではないが、ゆらぎを許さない。
しかし個人主義と自己同一性の細分化に伴い、個人は社会を構成する要素でありながら、社会の部品としての役割を十全には果たせなくなっている。
皆が皆、自分のことを優先するあまり社会が個々人を守れなくなっていて、社会のために貢献する人間などおらず、仮に居るとしても、もはや損するだけの愚か者だと言外に定義されているように思えることさえある。
けれども個人が存在する限り、それが文明を維持する限り、社会は社会として亡くなることはない。社会が亡くなるときは、つまり文明やそこに属する個人が居なくなったときだ。
だから社会は、小さな単位社会から大きな単位社会にいたるまで存続してほしいし、できればそれが、おかしな歪みをもたらさない、複雑性や矛盾をきちんと許容してクッションして受け止める、やわらかであたたかいものであってほしい。
望みどおり社会を逸脱してなお、そう思う。
それが社会の摂理であり、存在倫理であり、理想だからだ。
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明日はもっと暑くなると聞く。
何もかも狂ってなどいないと、誰も言わないなら自分で言うしかない。
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:青猫:銀猫:
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-Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Resistor-
[Object]
-Friend-Garden-Human-
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