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TITLE:
達人の予感。
SUBTITLE:
~ Master's differentiation. ~
Written by BlueCat
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230720
数日前、誕生日を迎えた。
齢48。四捨五入を二度繰り返すと今年もちょうど百歳である。
おめでとう自分。
余命は17年。僕の自由時間は諸般の事情により、一般的な人の二倍にあたるので、実質34年分の活動が可能だ。
翌16日は、TU(中学からの友人)に誘われ、ひと月ほど前からサバイバルゲームの予定が入っていた。
が14時には体温を超える気温になり、熱中症を起こし掛けていたのでゲームに参加せず、テントで待機。
塩を舐めても、水を飲んでも、汗が出なくなってしまう状態にまで到達するが、身体を動かさずにいたため大事に至らず解散まで保たせることができた。
(遠方であり、TU以外にも示し合わせて参加した人がいたので、僕一人の体調不良で解散にしたくなかった)
もともと発汗量が多い方だろうと思う。
30代になって自転車に乗るようになってからも、40代になって運送業に就いたときも、自分の発汗量が他者より多いことは感じていた。
おそらく入浴の習慣にもよるのだろう。
僕は比較的高温の湯でも浸かり方を変えながら長湯をする。
一時期は水分補給をしながら2〜3時間は湯に浸かっていた。
昨年あたりから、1回あたりの時間を減らし、今年の夏からはシャワーをメインに、湯船に浸かるのは週に1回程度にするようにしたが、冬はきちんと湯で温まらないと、寒くて生きられないのがこの家の特徴だ。
僕の身体は、だから汗をよく流すようにできている。
体臭が少ないとガールに言われがちだったのもそのためだろう(今は分からないが)。
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30代の頃だったろうか。
あれこれ書き連ねるうち「どうやっても、真髄のような、物事の核心にある道理は言葉では説明しきれないかもしれないな」と思うようになった。
同時期に、ちょうど弟子と接する中で感じたのだったろうか。
道理というのは、ある種の理屈であり、ある種の正しさでもある。
しかし物事にはどうしても、明の部分と暗の部分があり、右があれば左があり、上があれば下がある。
物事自体にそういう明確な区切りがあるわけではない。
たとえば北を向いていて、右手は東であり、東を向けばそれが南に変わり、やがて西へ、北へと、向きを変えるたびに「右手の方角」はその意味を変えてゆく。
見方の問題であり、認識の問題であり、視点の問題である。
つまりは意識があり、肉体があるために、物事の認識が限定されてしまう。
右だ左だ、上だ下だ、正しい誤っていると、いくら言っていても、言い合っていても、その方角を精確に明示し、互いに認識することはむつかしい。
言い争っている人間が、実は根底ではまったく同じことを「これこそが正しい」と言い合っている姿を見ることもあった。
しかしそれを外部から「いや両者とも言っていることは同じですよね」と言っても聞かない。
先の例で言えば、東を指しながら、北と南を向いている人間が「右だ」「左だ」と言い合っているようなものだ。
だから徐々に「ああ。誰かに何かを諭すようなことはやめよう」と思ったのだ。
僕が思う(認識する)正しさとやらも、必ず誰かにとっては誤りそのものに思えるだろう。
何となれば僕の存在や価値観が、誤りや過ちだと断ずる人がいてもおかしくない。
もちろん僕は自分を正当化するつもりも、正当だと主張する気もないのだが、誤りを許せないという潔癖のありようもまたよく理解できる。
それを弾劾し、排斥しようとする気持ちも、分からないではない。
僕の持つ、僕の体現する「正しさ」なんて、どこまで行ってもその程度だろうと、そのとき見えた気がした。
皆が納得し、賞賛し、まして憧れるような、綺麗な正しさを体現する方程式の導き方など、僕には示すどころか見ることも認識することもできないのだと思った。
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当時はあれこれと物事について(可能な限り)多角的に認識することで、何らかの法則を見出し、それによって他の事象についても思いどおりの結果を導くことが可能だと思っていた。
たとえば僕は人間の心理のありようや、その人本来の魅力というものについて、小賢しく理屈づけた心理学や、もっともらしく消費者心理を誘導するメディアの情報ではなく、実生活の中に求めようとした。
異性に(だけではなく、実は犬や猫や鳥やヤドカリや鹿や、果ては無機物にまで)モテようとしたのも、そういうった動機である。
結果は惨憺たる部分もあったが、満足はしている。
モテるというのは技術的に、あるいは方程式のように、身に付けたり、導くことが可能で、つまり操作ができる。
そして当然だけれど、いいことばかりではなく、悪い面もある。
僕がモテるのにあたって学んだ書物をあたる限り、モテる方法はそれとなく書いてあったが、モテてからどのようにその道を律するべきか、またモテることによって発生する様々な困難やその対処法については記載がなかった。
経験則を踏まえて、そうした道理のようなものを書いてはいたが、きちんと全体を描ききろうとすればするほど、情報が曖昧模糊としてしまうことが多くなった。
もともとの気質もあるのだろうが、僕は「A」と「notA」を混在して認識する傾向が強い。
清濁併せ呑むといえば聞こえはいいが、一般的には優柔不断で、抽象的だと認識されるだろう。少なくともそういう苦情は子供の頃から多く言われていて、ときに悩んでさえいた。
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物事を断ずる人は強い。少なくともそう観察されるだろう。
「A」なら「これはAだ」と、「notA」なら「これはAではない」と、はっきり、きっぱり、ばっさり言い切った方がいい。
もちろんそれはむつかしいことではない。むしろ容易だとさえ言える。
しかし言い切ったあと、自分の中で少しわだかまる。
「Aとは言ったけれど、実はnotAの部分があるんだよな」といった具合だ。
自分に言い聞かせただけならすべて織り込み済みだから良いのだが、他人に聞かせるとなると、嘘は言っていないがすべて伝えたわけではない、ということになる。
ある種の情報操作をしているような罪悪感を感じることになる。
しかし両方伝えると、だいたい分かりにくくなる。かえって伝わらなくなる。喜ばれるのもどちらかに断ずる方である。
ために誰かに何かを伝えようとすることは諦めた。もはやどうしようもない。
そのときふと思ったのだ。
何かの道の達人は、そのようなわけで、弟子達にさえ言葉での説法をしなくなるのだろうな、と。
宗教家であろうと武道家であろうと料理人であろうと職業人であろうと芸術家であろうと、その道を目指す後陣に対して、始めの頃こそ道を指し示すようなことがあるにせよ、ある時期から、もはや語ることをしなくなってしまうのは、もしかしたらこのように、言語化が不可能な ── あるいは無理にそれをすると矛盾してしまう ── 領域を見てしまうからなのかもしれない、と。
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およそそれは17歳の夏に予感したことでもある。
「A」と「notA」は互いを内包し、何かの外側にあるものは内側にあるものによって再定義され、内包されると。
よって正しさと誤りは互いの中に誤りと正しさを持ち、正しさのうちに誤りがある場合、その誤りの中には正しさがあるのだ。
ここまで文章として抽象的で矛盾していると、もはやイメージすら湧かない人も多いだろう。
多分、それでよいのだとも思う。
具体的な意志や認識、具象の中での欲を正しく具現しようとする人たちが、早く言えば社会を構築し、世界を作っている。
僕のようなイキモノは、どうしたって傍観者でしかいられないし、それがいいのだ。
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弟子を見ていると、己の正しさに凝り固まり、息を詰まらせる多くの人を見ているような気持ちになることがある。
ガールも含め、相応の人たちの愚痴をずっと聞き続けてきたので、そうしたオナニートークを聞き流すのもすっかり慣れている。
愚痴を言う人の多くは、相づちを打ってくれる壁があったら、それに話をしていれば済む場合が多い。本人がそれを正しく望み、正しく認識しているかどうかは別問題として。
否定するほどのことでもないのだ。
ただいずれも物事に道理は存在しているから「そちらに進むとこういう景色が待っている」という情報はある。
しかしその景色を予測できない人も居れば、そんな情報を求めていない人も居る。
もはや人間が求めているのは、幸せでも正しさでもなく、美しさでも強さでもなく、ただただ「己が己を生き、己が己の道を選んでいる」というそれだけの実感なのではないかと思うことさえある。
間違えていようと、醜かろうと、そんなことは関係なく、ただただ己のリビドーを正しく感じて発露していたいのではないかと。
そうなると意見を求められてももはや、背中を押すしかあるまい。
「行けば分かるさ」とか「やれば分かるさ」といった格言じみたことを述べた格闘家だったか詩人だったかがいたように思う。
まことにその通り。
理屈も計算も道理も、己の手の内にあって、己が使うときだけ意味を持つ道具だ。
他人の道に対して、その危ぶまれる先行きに適用しようとしたところで、誰にとってもよい結果をもたらさない。
これは言われる側になってみれば分かるだろう。
どんな理屈も計算も道理も、他人がその道具を使ってこちらの道を正そうとするならば、それは自分にとって不快な障害に違いないだろう。
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10代の頃、すでに「達観している」だの「独自の世界がある」と言われていた僕だが、はたしてそうだったのかは疑わしい。
サバゲの翌日、心配してメールしてきたTUに「歳ばかり重ねていて、まったく大人になった気がしない。周囲のため、おっさんのフリをしているものの、中身は中学生の頃のままのような気がするんだ」と伝えたところ、
「大丈夫だ。お前は中学の頃からすでにオッサンみたいなものだった」と言われた。
え。
リスペクトされてるの?
もしかしてお前あの頃からずっと俺を?(複雑な倒置法)
と思ってかつての記憶を掘り起こしたのだが、どうも違う。これはディスられてる。
いいもん。
人生の達人を、心の中で誰にも言わずに拠り所にしていくからいいもん。
翌朝から謎の蕁麻疹が引かず、気温が安定してきた今日も草刈りに出られず。
この身体を使い慣れることのないまま、この余生も終えるのだと思う。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-
[Object]
-Friend-Human-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
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