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TITLE:
ねむねむの5月病。
SUBTITLE:
~ Flat sleeper. ~
Written by BlueCat

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220506
 
 多少、体調が回復してきたのもあるが、起きて活動できる体力が戻ってきた。
 しかし毎日、二度寝をしている。
 一般的な意味の二度寝ではなく、24時間中に2度寝ている。
 具体的には、6時から8時に就寝し12時から14時に目覚める。
 同様に18時から21時に就寝し、0時から2時に目覚める。
 
 5/4の歯医者の際に、肌が痛くなるほど日焼けしたので、セロトニン不足ということもないだろう。
 そもそも僕の情緒は ── 不安定になる要素があまりないので ── いつもかなり安定しているため、セロトニン不足というだけで体内時計が狂うわけでもなさそうだが。
 体内時計はおよそ4時間前後の誤差が生じていることもある。
(僕の趣味の1つは、時計を見ないで現在時刻を当てることであるが、目覚めた直後はだいたい誤差が大きい)
 
 眠くなるのだ。
 6時、もしくは18時が近づくと、眠くなる。
 そして眠くなったら、たいてい我慢しないで眠ってしまう ── 眠気は作業効率を大きく低下させるし、原始人のような生活をする僕に眠気を堪える利はない。
 今日など17時から4時間ほども眠ってしまった。
 考えてみると、朝寝も夕寝も、同様に4時間ほどなので、トータルでは健康的ともいえる。
 
 屋外での活動ができない ── まだ不安がある ── ことも影響しているだろう。
 身体を動かす作業中は、たいてい眠くならない(なったらちょっとした病気かもしれない)。
 よって草取り、焼却、開墾、枝下ろし、薪割り、その他の屋外活動(キャンピングカーの内装工事も含まれる)がまったく進んでいないのだが、今年は(今年も)それについては考えないことにする。
 
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 1日2回睡眠は、先に述べたとおり、僕自身には何らの不利益をもたらさない。
 しかし、社会との接点が多少は残っている ── 買い物に出かけたり、公共料金や税金を支払ったり、宅配便を受け取ったり、地区の役員が訪ねてきたりする ── し、作業についてしやすい環境というものがある。
 
 この観点から、状況を整理したい。
 
○ ゲームや文書を書く時間。
 このうち文書を書くのはいつでも問題ない。
 問題はTVゲームで、障子からの光がモニタに反射してしまう日中は、プレイに適さない。
 この書斎には ── 障子があるので当然だが ── まだカーテンがない。
 ために日中はゲームをしないことが多い。
 
 必然、陽が落ちる頃から、朝にかけてがゲーム最適時間となる。
 
○ 屋外活動をする時間。
 暗い時間にゲームをするのが不適であるように、暗い時間に屋外活動をすることは不適である。草取りを夜中にしたくない。
 ついつい根を詰めて8時間以上、活動を継続してしまうことがあるが、そもそも屋外活動は家事と同じで終わりのない作業だ。
 
 屋内リフォームやコンピュータの(ハード的な)システム構築などもこれに含まれるから、環境構築/対応の活動と呼んでもいいだろう。
 理想は1日2〜4時間。
 思想家業なら気分が乗っているときはいくらでも続けて問題ないが、肉体労働は「キリのいいところまで」なんて続けているとずっと終わらなくなる。
 きちんと時間制限をして、時間制限を守ることが重要だ。
 ただし、可能な限り毎日続けることが望ましい。
 
 キリの悪いところで終わりにして、天候や予定や世相を無視して定時間の作業を超長期継続することは(計画性などとは無縁の)僕の苦手な分野だけれど、作業完了や体調、時間の管理という観点から考えると最も合理的である。悔しいけれど。
 いずれにしても、肉体を使う環境活動は日中に適していて、夜には適さない。
 
○ 入浴。
 これまでの経験では、15時から17時頃に入浴するのが一番気分がいい。
 環境活動を終えて、あるいは買い物などを済ませ、とりあえずお風呂に入る。
 
○ 夕方の睡眠。
 少し早めに夕食を作ったり、あるいは明るいうちから酒盛りをする。
 そのままゲームや思想家活動をすることもあるかもしれない。
 しかし18〜21時には眠くなる。
 
○ 深夜活動。
 自由時間。だいたい眠り始めてから4時間後。
 ギターの練習も、どうやら問題ないことに気付いた。
 隣家までの距離は近くて遠いし、だいたいみんな(うちとは違い)防音設備がしっかりしているように観察される。
 
○ 朝の睡眠。
 ゴミ出しを先にすることもあるが、朝の眠気が6〜9時にやって来る。
 目覚めたら、軽く朝食を摂って(最近、朝食を摂るようになった)、環境活動を始めるといいだろう。
 
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 これは現時点でのプランである。
 実のところ、夏は「夕刻に目覚めて自由時間、早朝に環境活動をして、朝風呂に入って眠る」というゴールデンパターンが存在している。
 日中の暑い時間に、ゆるい冷房で心地よく眠り、夜の比較的涼しい時間もゆるゆると過ごし、早朝のいちばん涼しい時間帯に環境活動をする。完璧だ。
 
 冬はというと、滅多なことでは環境活動をしていない。
 冬の作物などを作っていたり、あるいは庭木の剪定に向いているのかもしれないが、いかんせん今の暮らしを始めてから3年ほどであるから、よく分からないことの方が多いのだ。
 それになにより、寒いと何かをするのは億劫になる。
 猫はこたつで丸くなっていればいいのが冬なのだ。無理をしない方がいい。
 
 ともあれ体調と空調効率を考えると、8時から10時頃起きて、0時頃には眠るのが理想的だろう。放射冷却の時間はベッドでぬくぬくしているべきだ。
 
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 夕刻、昼寝をしている間にアヲがまた失踪する。
 
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220509
 
 久しぶりの入浴をする。
 シャワーは施術後14日ほどで可能になったが、脈動を強く感じることが多く、湯船に浸かることを忌避していた。
 2時間程度の長風呂でも体調を崩さなかったので問題はないと判断する。
 
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220510
 歯医者に行く。
 抜糸も済み、活動制限がなくなる。
 
 煙草はやめなさい、と言われるので「分かりました」と答える。もちろん押し問答がイヤだから答えただけで、やめる気などない。
 1ヶ月やめていて、特に問題はないし今も吸いたいわけではない。
 むしろまだ吸いたくない。全然吸う気にならない。
 
 ただ、僕にとっての喫煙は趣味である。
 なにより「自発的に吸わないこと」と「吸わないことを他人に強要されること」は大きな違いだ。
 僕は前者のありようを尊重し、後者のありようを激しく嫌っている。憎んでいるといっていい。
「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いである。後者は非常に下品で原始的で非文明的だ。僕はその下賤で支配的な幼稚さを嫌う。
 
 吸いたくないときは勧められても吸わないし、吸いたいときは死んでも吸う。
 
 もちろん周囲に他人がいれば、それなりには配慮もするから「自発的に吸わない」ことが合理であれば吸う必要はなく、吸わないことが適切である。
 そもそも煙草は嗜好品であって中毒性の薬物ではない ── 少なくとも僕は喫煙という行為やニコチンによる中毒性をまったく感じない ── し、嗜好品というのは社会的嫌悪を集めることもあるので、理性的に(そして社会的に)愉しむものだろうと思っている。
 要は「自分だけ良ければ」という行動原理は動物的 ── かつ健康を害すもの ── であり、コミュニケションツールとして利用できることが望ましい、ということ。
 お酒もそうでしょう?
 
 他人の喫煙を厳しく非難することも「自分だけ良ければ」という思想が見え隠れする。
 正しいことは分かるが、正しい道も、そうではない道も歩みたい人間だっているのだ。
「そっちの道は間違っているから」と、自分の子供を引き戻すのは分かるが、大人が他の大人に向かって道を強制するのはさすがにどうかと思う。
 
 ただ、そんな回りくどい思想概念を語って押し問答をし、僕の正しさを誰かに押し付けるなどまっぴらごめんなので、大人しくいうことを聞いている(フリをしている)のだ。
 
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220511
 
 久しぶりに前橋へ外食に出る。
 ついでにキャンピングキャビンに泊まることにする。
 内装はまったく完成していないのだが、完成してから使うのではなく、使ってみて、足りない部分を補うような作業にしようと思ったのだ。
 
 現状は1人でしか眠らないのでベンチやテーブルもきちんと作っていないし、電気設備も完成したとは言いがたい。
 それでも「これこそ」という完成形を想像し、それをカタチにして使ったときに、果たして本当に使いやすいのか、という問題はある。
 その場合、結局「思ったとおりのものを作ることができたからよいか」と、満足しつつも現状を諦め、作っただけで飽きてしまう気がするのだ。
 
 とりあえずのエアマットを敷き、メーカがサービスしてくれた絨毯を掛けて眠るが、朝方は少し寒かった。
 
 朝の通勤通学の時間に道路を使わせてもらうのは少々気が引けるのだが、エアコンがないため日中は避けたい。
 実際に走ってみると、朝の街を観察しながら走るのは、とても新鮮で楽しい。
 
 電気設備の完成とエアコンの設置は優先事項。
 ベンチやテーブルは、現状のコンテナボックスでも何とかなるので、後でもかまわないと気付く。
 あと万一のため、もう一人が眠れるスペースを作る必要はあるだろう。
 
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220512
 
 芸能人の自死のニュースを最近よく聞く。
 僕は自死自体を嫌うつもりはない。
 それは人間の意志であり、権利だとさえ思う。
 
 ただ。後先を考えず、衝動的に自死することは、なんというか、いささか幼稚に思える。
 僕は気分屋なので、人間の言動が衝動的であることについて否定するつもりはないのだが、もっと自身の感情や思考に向き合う距離を、人間は持っているべきではないだろうか。
 
 僕はかつて、頭の悪い恋人から「自分のことなのに他人事みたいに言わないで」と怒られたりしたが、自分のことを他人のように捉えることは、僕にとってはとても大事なことだ。
 ためにそのときも「ああ、ちゃんと他人事のように思っていると観察されているみたいで良かったね」と思ったりしたものだ。
 
 確かに感情や思考や欲は、人間の自我にとってまさに「自分自身」と感じられる根拠そのものだろうとは思う。
 一方で、他人というのはとりあえず、その人の肉体をして「その人自身」と感じる場合が多い。
 もちろん同じ肉体で普段と違う言動が目立てば「人が変わった」「薬物中毒?」「若年性認知症www」などと言われたりするものだが、そもそもの肉体がすでに普段と大きく異なっている状態では、同じ人間として見なされることが少ないだろう。
 
 必然、自分を健康な状態に生かすことは他人に対する優しさの発露である場合も多くあり、逆説的に、自死(自傷)行為は、他人に対する優しさのなさ ── あるいは他人に対する精神的傷害行為 ── であり、己に対する優しさに飢えている状態だと思えなくもない。
 
 亡くなった人を非難するつもりはまったく無いし、残された人間にとっては、その人が望んだ自死を正しく叶えられたことを救いにするくらいしか慰めもないのだけれど、それでもそうしたある種の身勝手さが、他の誰かを傷つけることをどうして理解しないまま死ぬのかとは思ってしまう。
 自死推進派の僕でさえ、そう思うのだ。自死について何も考えていない人たちが、それを嫌い、大きなショックを受けるのは必然だろう。
 
 特に親しい人間ではないし、ネコノカミサマ教に天国の概念もないからそれぞれの故人に冥福を祈ることもないが、我々は、他人の死から自分についての死を学び、その姿勢を生きている間に作り、見せる必要があるとは思う。
 死というのは(おそらく)肉体を持って生きている者にしか存在しないであろう概念だからだ。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Cat-Game-Human-Koban-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
 
//EOF