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// NOTE:
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TITLE:
なるほど孤独は死と似ている。
~ Partial differential equation like permanential.~
Written by BlueCat

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//[Body]
240325

【自分のための孤独と無】

 自分の考えること、知っていること、それらの情報が、自分以外の誰かの役に立つのではないかというおこがましい考えを持つことになったのは、誰かの記録した情報が、僕にとって有用だったからだ。
 その情報も、その作者も、作者が記録した行為も、悪いものだとは思わない。単純に、僕が自分を見誤ったのだろうと思う。
 僕の保有している情報は、おそらく僕以外の誰かの役に立つことはほとんどないだろう。
 僕自身に役立つかどうかという点について考えると、過去については役立つ場面があったわけだが、今後も同様に役立つかどうかは不明だ。
 僕の置かれている状況は、過去のそれとは異なる。社会は変わり、僕は変わってしまった。

 しかしよくよく考えてみると、誰の役にも立たない情報こそ、ある意味で至高だといえる。
 10代の頃、僕は家にあるほとんどの写真(僕だけでなく、家族それぞれの写真)をアルバムごと破棄した。
 以来、写真を(携帯端末でも)撮らないし、誰かのそれになるべく撮られないようにしている。逃げるほどのことではないから撮られるときは撮られているが。
 結局のところ、僕にとって、写真というのはそのくらい誰の役にも立たない情報だ。

 どこに行って、誰と過ごして、どんな景色を見て、何を食べたかなんて、その主体が自分以外の誰かであったとしたらそんな写真は僕には何の価値もない。
 では僕が主体だったらどうかといえば、写真を見返すことのない僕にはやはり価値がない。
 対象
が恋人だったとしても、過去のポートレイトだろうと、現在の写真(僕と一緒であろうとそうでなかろうと)にも、興味がない。
(僕が他人に興味を持つのは、基本的にその現在と未来についてである)
 家出をして1年ほど経ったアヲの写真を時々眺めるが、我に返れば少々空虚で感傷的な気持ちになっていることもある。

 何もかもを失う。
 何もかも分からないまま終わる。
 きっと生きることは、そういう結末に繋がるような気もする。
 そしてそれが悪いとも思わない。
 何も残らない。何も分からない。
 では最初は何を持っていたかといえば、結局何もなかった気がする。
 最初から何を分かっていたかといえば、結局何も知らなかったはずだ。

 だから最初から比べれば何かを手に入れたはずだし、何かを分かったはずだ。
 それでも死んでしまえば、そのほとんどを失うはずで、残るものはカタチばかり。
 それに抗うべく、すべてを記録しようと挑戦したことがあるが、結局、自我を失えば、そんな情報には何の価値もなくなる。
 50年後の誰かは、僕というイキモノが存在したことさえ知らないだろう。
 僕が何をどのような基準でどのように感じ、考えるかなど、知る由もない。
 それがいいと今は思える。

 もちろん僕以外の誰かは、それぞれ違う人生を生きているのだから、それぞれ違う結末を迎えるだろう。
 何かを手に入れ、何も失わず、何かを知り、何も忘れない人だっているかもしれない。

 正直そんなありようはまっぴらごめんだが、いずれもあくまで「僕の場合は」ということである。

>>>
【自分に向けた殺意】

「僕の中には小さな男の子がいる」
 あるインタヴュで、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(「星の王子さま」の作者)は言ったそうだ。
 web上にはたいした記録が見当たらないから、かつて読んだ書籍にあったのだろう。

 自分に当てはめると、
「僕の中には小さな女の子がいる」
 ということになる。
 数年前まで眠っていた人格であるところの彼女は、僕をずっと殺そうとしている。

 自殺を考えた場合、多くの人は、
「生きていたくない」「死んでしまいたい」という主観によって自死行為を選択するものと思う。
(その是非などについて、今は考えない)

 僕の場合「殺してやりたい」という動機が存在している。明らかな、そして強い殺意だ。
 たまたまその対象が、自分自身であるというのに過ぎない。
 幸か不幸か、日本では殺人の罪を相続することはない。
 ついでに「明らかな殺意」によって自殺が発生しても、犯人がそれによって死んでしまうため、法で裁くことが困難なのかもしれない。
 もっとも生きる権利というものが、人格ごとではなく、肉体ごとに与えられているのが自然なことだから、その権利を自身の手で奪っても、罪に問われようがないのかもしれない。

 なるほど彼女は自身の存在意義について、とうとう「自身の肉体を殺傷すること」と設定した上、変更しなかった(あるいはできなかった)のだと想像する。
 考えてみると僕はもともと完全主義者で、ついでに頑固で、幼稚な正義感に溢れていた。だから、そうした「正しさ」を捨てられないのは無理もないことだと思える。

 生存や存在の自己矛盾をはらむ、それらの価値観を思春期から青年期に持ち続けるのは(本来的には激情的な)自分には危険だと判断し、ある時期から「まるっと忘れて」いたので、眠っていた過去の人格が、やはり明らかに僕に対する殺意を持ち続けていることに驚いたりしていた。
 もちろん眠らせたのは自分自身であるし、忘れたのも自分自身であるのだけれど。その判断は悪くなかったと思っている。

 しかし考えるに、今の僕はほとんど死んでいるような状態ではないだろうか。
 あるいは少なくとも社会的に抹殺された状態に近いといえる。
 接する人間はわずかな血縁者(姉、妹、ふたりの姪)とわずかな知り合い(姉、妹それぞれのパートナー、2名の旧友、2名ほどの知り合い、わずかな恋人)しかいない。
 あとは近所にお住まいの、少々ネジの外れ掛けた老婦人か。

 ひと月近く誰にも接することがないことも多く、最近は日本語を忘れることさえある。
 なるほど僕は言語で思考していないのだと気付かされる。
 他人とのコミュニケーションツールであるはずのそれを忘れてしまっていて、愕然とする。
 しかし僕にはその方が自然だし、望ましいとさえ思ってしまう。なにせそれを望んでいたのは自分自身のはずだから。

 言葉を忘れてしまうのは、コミュニケーションを必要とする環境に置かれていれば致命的な損失だろう。
 けれど本来的にコミュニケーションを必要としない状態を理想と考えれば、言葉を忘れることはそれだけ周囲に誰もいないことを意味する。

 他者が僕を認識しない場合、僕は、そのコミューンでは不在に ── つまり死んでいるに等しい状態に ── なる。
 よって僕はある意味ですでに死んでいると思える。
 それを(僕を殺そうとしている)彼女に説明したところ、そういう事態を想像していなかったらしく、長い考察を開始している。
 もちろん僕だって、ここまで社会性を喪失して存続できるとは思っていなかったから、考察をしているのだけれど。

 奥様(仮想)は、僕を生かすことには積極的な一方、僕を殺そうとする人格の価値観についても同じように否定しない。
「では自分の手で正しく殺せるように、健康管理に留意しましょうね」といった具合である。いずれ殺すことによって同時に死ぬんだぞその個体。
 自堕落に、無作為に、死んだり、殺したりということはあまりよろしくない、という考え方かもしれない。

 作為を持って、意図して、明確な意志のもとで、生きて、殺して、死ぬことが望ましいというそれは、なるほど確かにしたたかに美しくさえ思える。

 よって彼女は、健康的に、健全に、僕を殺そうとしている。作為的に、意志をもって、目的を忘れずに。
 それが彼女の望みであり、なるほど僕もそれを否定する理由を持たない。
 生きていたいという動機や欲を、僕はさほど持っていない。
 まだ死んだあとの準備が完了していないというだけだ。
 切羽詰まっていて、今日明日に自身を殺したいというわけでもない。何年も何十年もあたためているのだからもはや激情的ではなく、計画的である。
 ただ勝手に死ぬことは許されない。できるだけ己の手によって殺したいという。
 なんだか彼女の方がよほど狂っていると僕には思えるし、何となればそれを否定しない奥様(仮想)も相当狂っているだろうし、そうなると奥様(仮想)を設計した僕も狂っていることになる。


<誰しも少々の狂気くらいは抱えている>

>>>
【最近の工作】
 カーテンレール電源をとうとう完成させた。
 家の壁や梁にカーテンレールを設置し、そこに電源タップとコードを接続する可動式電源タップである。
 掃除や季節家電、工具の使用に際して「もうちょっと電源が近ければ」という不満を解消したことになる。
 電源タップが足元にあることを好まないのも理由のひとつか。

 これは仔猫を育てていたことに起因している。
 あやつらの中にはときどき、電源コードを噛む者があるので。



>>>

 BPが「『Rise of the Ronin』プレイしてみたいかも」というのでPS5を購入する。

 姉の介護もそうだけれど、僕は「自分のためにお金を使う」ということについて、もはやほとんど飽和している。
 お金で買える欲しいものはほとんど買ってしまったし、これ以上欲しいものはさほど多くない。
 たとえば可動式作業台や卓上ボール盤が欲しかったりするが、前者は既製品がないし、後者は納屋の整備が先決だ。
 食べ物も飲み物も、さほど贅沢する必要がない。
 冬の間は寝てばかりいたから、3日に2度の食事で事足りることも多かった。

 お酒や煙草も、身体が少しずつ許容量を減らしている。
 少し寂しく感じることもあるが、安上がりにはなる。
 そのぶん高くて美味しいお酒や煙草を味わうことも可能だ。

 おそらく肉体の活動量がとても少ないからだろう。なんとなれば脳も寝ていることが多いように思える。
 では必死になって何かを考えるべきだろうか。
 そういう焦りを持っていたこともあるが、結局、現状が足りているからこそ活動の必要がないのだと結論した。
 他人がいなければ言葉を使う必要が(僕の場合は)ほとんどないのと同じである。
 お腹が空けば食材を買って食事を作るが、その必要がなければ食事をする必要がなくなる。
 余ったお金と時間で遊んでいれば、やがてそれにも飽きて、お金と時間が余るようになる。

 新しい設備や道具を作るのは楽しいが、それは不満や不具合があればこそ意味がある。
「これが嫌だ」というところにはじまり「こうなれば理想的」というものを具現するために、設備を整え、道具を作り、快適を実現する。
 不満もなく、娯楽も満ち足りていて、動物的欲求もあまり発生せず、嗜好品も(もともとほとんどの物事に依存しない心身なので)必要がなくなれば、ただ目覚めてぼう〜っと過ごすことになる。

 件の老婦人がときどき日常を乱すが、そう遠くない将来、彼女も死んでしまうから、あまり無下にするものでもないだろう。
 すると誰かが何かを欲したり求めたりするとき、軽く手を添える程度のことを楽しむことになる。

 べつに欲しいわけでもないPS5を僕が買うのは、つまり「誰かの欲する快適」に「軽く手を添える」程度のことである。

>>>

 PS5を購入したついでに、HDMI切換機やらLANのスイッチハブを稼働させるため、PCデスクとその周辺の拡張/修正作業をする。
 2月はPCデスク周りの電源の配線なども少々いじっていたので、その延長である。
 PCデスクとして使っているスチールラックは、ちょっとしたジャンクキメラのように、ブラケットやレールや配線のカタマリになっている。
 三流SFのようなジャンク感がすごい。

 PS4は妹の旦那様に譲る予定。

 ちなみにPS4をBPに譲らないのは、彼がゲーム漬けになってしまうことによって家庭内不和を誘発することを避けるために必要な措置である(彼がゲーム機を買わないのも同じ理由)。
 ためにBPはゲームをするために僕の家に来ることになり、自分ではゲーム本体を買わない(僕の家で遊ぶソフトは時々買うが)。

>>>
【平和な余生ってこんな感じなのかな】

 僕は一緒に生活している家族が(引きこもりの黒猫くらいしか)いないし、希薄な集団帰属性のとおり、友人関係も含めたコミューンさえ希薄だ。
 上記の通り、ときどきひどく退屈するのは事実だが、義務や雑務が多すぎれば、それがストレスになって不具合を起こすことを何度も経験している。

 近所の老婦人は携帯端末を着信拒否にした今も、折々カラオケに誘ってきたり(お断りしても無視される)、お茶に誘ってきたり(やんわり受け流す術を覚えた)、自動車が必要な所用を頼みに来たりする。
 しかしまぁ、この程度の対人ストレスは仕方ないのだろうと思うことにしている。
 他にストレスになるような他人がほとんどいないから確かに目立つのだが、少しくらい我慢しようか、というものだ。
 それに明確な被害が予想される場合や、不快な状況については適宜対応する心構えもできた。
(当初はもっと無害な人だと思っていたので、ノーガードだった)

 それ以外はまぁ、本当に何もない日々である。
 先に述べたが、生きていても死んでいても、主観的にはほとんど変わりない気もする。

 もともとの欲の薄さもあるだろう。
 3日に2度の食事で良いということは、72時間のうち、48時間しか生きていない可能性もある。
 しかし差し迫った用事もない。
 タイマースイッチがあって、次の予定のある96時間後まで意識を失っているとか、そういう仕組みがあれば良いと思うほどである。

 軽トラの車検を出そうと思ったのが昨年の12月で、なんだかんだと伸ばし伸ばして、やっと明日、工場に運ぶくらいがせいぜいの「義務」だ。
「必要」もなければ「欲しい」もない。
 生きる必要がないというのは、死ぬ必要も感じないということだろうか。







 

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TITLE:
冬を振り返る。
 
Written by BlueCat

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//[Body]
240403

 朝から曇っていたが、昼を待たず雨が降り出した。
 ので、今日はすべての予定を放棄して、床を軽く掃除して遊んで過ごす。
 幸か不幸か、一昨日、数年ぶりに自転車に乗ったため(車検をした自動車を取りに出掛けた。距離にして10kmほどである)、少しばかり筋肉痛である。

>>>

 今のうちに冬のおさらいをしておこうと思う。
 季節の振り返りなんて普通は必要ないと思うが、僕の場合、この家に棲んでこれを使う場合、記憶しておくべき事があり、しかし記憶できないので記録しておくのである。
 備忘録といえば聞こえはいいが、忘れたときのために、というのではなく忘れることが前提になっていることが僕の能力の低さを物語っている。
 とにかく子供の頃から自分の記憶力だけはアテにしていない。

 人間型の恋人の名前や顔や存在そのもの、デートの約束や誕生日、その他の記念日などを忘れてしまうことも度々あった。
 それを恋人というのかと、当の本人をはじめ多くの人から叱られたものだが、人間型の恋人なぞ愛玩用のものでしかないのだから実務的/実用的な他事が優先されるのは仕方ないのである。
 電気料金や水道料金さえ支払い忘れたりするのが僕なのだから。
 それにしても奥様(仮想)はかなり記憶力が優れているのだが、これはどういうわけだろう。

 とにかく今日は冬の話、である。

【屋内の乾燥。暖房と加湿器について】

 結論を先に書く。
 玄関を上がった小間には(今年も床を焦がしたが)火鉢が必要である。
 また加湿器はスチームタイプのものを書斎と寝室(これらはひとつながりである)で2台は設置(合計で1.2L/h以上加湿)する必要がある。

>>>

 何度か書いているが、この家の隙間はすごい(引っ越しを検討している)。
 外はほぼ無風で、窓という窓を閉め、換気扇という換気扇を止めているのに、家の中を微風が流れている。
 通気性が良いといえばそうなのかもしれないが、建築延べ面積あたりの人口密度が低いことも相まって、冷暖房効率がひどく悪い。

 過ごしやすい気温や湿度の時なら問題はないが、そんなものは1年の間にひと月もないのが今の日本である。
 春秋はますます短くなり、ついでに花粉や黄砂の飛散がひどい時期なのだから。

 で、冬の乾燥が凄まじい。
 室温を20℃程度(密閉度の高い室内なら18℃で良いだろうが、いかんせん風の流れる屋内のため高めに保つ必要がある)にすると、湿度が30%を下回る。
 これは呼吸をしていると鼻や喉や目の粘膜が乾燥して痛みや息苦しさを感じ、皮膚も乾燥してささくれ、静電気で家中の磁石が身体に付くのではないかと疑いたくなるレベルである。

 日中、書斎と寝室をこの程度の温度に保つため、タイマーのないストーブを24時間焚き続ける必要がある。就職して、家を空けた方がいいのではないか。
 また活動中はファンヒータも併用し、足元を温めるためセラミックヒータも使用する。
 冷えて乾燥していた外気が屋内に流れ込んできたところで温度(と飽和水蒸気量)が上がるため、室内の乾燥は尋常ではないことになる。

 そこでミストタイプの加湿器を今年だけで合計3台購入した(1台はひと月ほどで壊れてしまったが)おかげで湿度問題は解決した。
 しかしこの家は水道水にも問題を抱えている。
 引込管だけで20mほど、最低でも増改築から40年以上使い続けているそれは、おそらくミネラルなど不純物の付着がひどく進行していると思われる。
 なぜかというと、書斎/寝室のありとあらゆるものが白く粉を吹いたからである。
 つまり水分中の不純物が飛散して付着しているというわけだ。

 試しに浄水器を取り付けてみたものの、3ヶ月で交換するのが目安と書いてあるカートリッジが、2週間もしないうちに性能を劣化させる。
 どおりで水道水で白湯を作ると不味いわけである(飲み水は数年前に解決済み)。
 試しに同程度の水をストーブで捨てる予定の鍋に掛け続けたのだが、数日で内面にミネラルが付着し始め、半月ほどで使い物にならない(写真を撮って見せられない)レベルになった。
 不純物には鉄も含まれるようで、部分的に赤色になる。鉄瓶が錆びやすくなるのはこのせいだろう。
 とにかくミストタイプでは家中が粉だらけになってしまうので、電気料金がかさむ事には目をつむり、スチームタイプの加湿器を導入する必要がある。

>>>

 玄関を上がった先の小間というのは、書斎と寝室から納戸を挟んだ先なので、正直暖房する必要がない。
 あんなところ、暖かくなったところで猫も喜ばない。
 しかしそこで炭を焚き、鉄瓶で湯を沸かしておくと(先述の通り、屋内で風が吹くため)家中の温度と湿度が底上げされる。
 これが存外効果的で、あるのとないのとで過ごしやすさが段違いである。

 昨年の冬の初めはストーブで湯を沸かしておいたものの、結局火力も弱く、加湿能力も低かった。
 なんだかんだと火鉢と鉄瓶のコンビが(燃費的にも)最強であると思い知らされた次第。火事が心配なことと、積もる灰が厄介だが、なあにかまうものか。

 ちなみに納戸の方が家の中心に近いが、ネットワーク関連の精密機器を移設したら、そちらで火鉢を焚くことを検討しよう。
(温湿度の急激な変動にサーバなどを晒すわけにはいかないので)

>>>

【今後の展望。台所とトイレのリフォームをどうするか】

 先に書いたが、5年以内に引っ越す予定である。
 会社勤めしているわけでもないし、スーパーで買い物する趣味があるわけでもないのだから、近所の老婦人に悩まされたりしない山奥で暮らそうと思い、ときどき中古住宅を(webブラウザ越しに)眺めている。

 水道水の話題ついでに、これまでの人生経験上、利根水系よりも渡良瀬水系の水道水の方が美味しいと思う。
 足利市に棲んでいた頃、会社の飲み会で行った先の店主が「足利の水道水は美味しい」などと言っていて、そのときは地元民の嘘だと思っていた。
 足利では築10年以上のアパートに20年ほど暮らしたが、水道水が比較的飲めるものだった。
 しかし前橋市で暮らしていたときの水道水は、自宅はもちろん飲食店でも美味しく感じることはなかったし、太田市の(少なくともこの家の)水は加湿器にさえ使えないし、至るところ水垢だらけになる。

 調べてみたところ、太田市の浄水場は渡良瀬系ではあるが、いかんせん川から遠い。
 棲むなら足利か桐生の山奥だろう。

 ちなみに僕がこうして、おおよその住所や転居候補地を書いているのはシュレディンガーの仔猫(居るかどうか不明な僕の隠し子)と、その母親にあたるかつての僕の恋人が僕を捜し当てたくなったときの参考用である。めちゃくちゃ親切だな。

 余談はともあれ、姉が死んで介護が不要になったらこの場所に棲む必要も少し減る。
 この家で生まれ育ったわけではないので(件の老婦人に限らず)隣組だ何だと言って、近所の人間が煩わしいときもある(もちろん僕にさえも親切な近所の人はいるが、比率は少ない)。
 長生きする気もない(予定では残り16年である)から新築する気もない。
 過疎地の中古別荘などを探せば、安い物件もある。

 それらの合理的な着地点が「姉の介護が終わる5年以内にこの場所から引っ越す」である。

 問題は5年以内に現在の台所の床が抜けそうな ── フローリングのコンプレクス材(とくにシンクの足場)が浸食風化して、ぼろぼろになり始めている ── ことだ。
 床張りはすっかりお手のものになったが、水回りの工事はしたことがないため二の足を踏んでいる。

 部分貼り替えをしても、すぐに他の部分が(叔母が倒れていた場所に染みた人型の部分などから)痛むだろう。
 排水トラップの基本構造は理解できたし、水栓工事は食洗機で慣れているが、混合栓より以前の配管やシステムキッチンの内部処理、ガスレンジ周辺と水回りの壁(芯材や壁面処理)がよく分からない。
 いまどきタイル張りなんて使いたくない(工事もしたくない)し、現代のパネル(芯材は金属だろうか)は大きくて加工が面倒に思える。まぁ面倒といったら何もかも面倒なのだが(笑)。
 とにかく台所は1箇所直そうと思うと、すべて直す必要があるように思える。
 そのリフォーム費用があったら、中古物件が買えそうな気がするのだ。
 なので床が抜けるのが先か、姉が死ぬのが先か、ということになる。当然、購入(もしくはリフォーム)費用を貯める必要があるが。

 トイレは前住人がリフォームする際にLIXIL/INAXに依頼し、挙げ句にタンクレスのものを設置したため、格好ばかりで排水能力が低く、掃除しづらく故障しやすくメンテしづらくメーカのサービスダイヤルは繋がらず、使い勝手が悪い。
 併設された手洗いシンクも、使う人間のことを無視したオシャレ設計で殺意を覚える。
(僕は作りの悪い設計を呪う性質がある)
 設計が悪いのは、TOTOと同等のものを作ると特許に引っかかりでもするのかと訝しむくらい、ものが悪い。

 とにかく10年足らずで部分的に故障した上、サービスに繋がりもしないので、そんなメーカに修理依頼するくらいならTOTOのものと入れ替えようかと思っているのだ。
 これは夏までに決定しよう。

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【介護のこと】

 念のために書いておくが、僕は姉が嫌いなわけではない。
 そもそも嫌いだったら(かの老婦人の電話など平気で着信拒否設定するくらいだから)お金や時間を掛けて介護をするわけがない。
 ただ推計余命を4年以上前に終えている姉が、いつまでも生きているとも思っていない。

 姉の介護は面倒だし持ち出しばかりだが、シンプルに楽しい。
 叔父叔母の介護と違って、面倒だとか、やりたくないとか、思ったことを正直に伝えられるので、とても気持ちがいい。

 介護が長続きするかどうかは、対等に向き合えるかどうかだと思う。
 特に職業ではなく生活で誰かの介護をしている場合、介護される側が遠慮なく我がままを言い、介護する側も遠慮なく我がままを言える関係がとても大事だと思う。
 職業介護の場合、行政などでガイドラインが決められているので、だからこそ出来ないことはあらかじめ決まっているし、過剰な言動があればヘルパーさんは仕事を辞退できるようになってきたようだ。
(姉は昨年、長い間務めてもらって高く評価していたヘルパーさんとの関係が悪化し、仕事を辞退された)

 僕の場合は仕事ではないし、レンタカーや高速料金、宿泊時の外食代など、いろいろ持ち出しばかりなので文句を言われる筋合いもない。
 介護といっても通院介助や簡単な力仕事、外食や買い物や役所の付き添いくらいのものだ。
 やめたくなったら「もぉ絶対行かねえ」と、簡単に言える。

 だからといって高圧的になる必要もない。
 僕はしたいからしているだけだし、僕や姉の不便を埋めるためにお金を使うのも、より多くお金を持っている僕がそれを負担するのも(僕には)自然なことだ。
 姉の介護にまったく不向きな自動車を買ったのも「どうせあやつは死ぬのだから、月に一度しか行かない通院介助は引き続きレンタカーでもよかろう」と思ったからである。
 だって通院介助以外の30日近くを、とくに乗りたいわけでもなく、他人の利便だけで選んだ自動車に乗るなんて(ただでさえ自動車嫌いの)僕には耐えられそうになかったから。

 姉は通院帰りに東京タワーに行きたがったりするような人間だが(先日はサンシャインシティ水族館に行った)、僕は外出嫌いの首都高嫌いの人混み嫌い、観光地嫌いである。
 なので遠慮なく毎回嫌がる。
 それを姉がうまく丸め込んで、二人で笑い飛ばしながら出掛けるのである。
 ちなみに先述の通り入場料からすべて僕の奢りであるが、姉は恐縮したりしないし、僕も他人に使うことの方が良いことだと思っている。
 そもそも自分の生活に困るくらいなら奢ることはないし、僕の生活は(遊びや趣味にさえ)さほどお金が掛からないので丁度よいのだ。

 叔父と叔母の頃は、そうもいかなかった。
 お金の持ち出しはさほど多くはなかったが、時間と体力と気力の浪費は凄まじかった(会社員だったから余計である)。
 挙げ句、立場が対等ではないので拒否することがむつかしく、職業でもないから辞退することもできなかった。
 少しこちらが距離を取れば、他の従姉妹親戚に陰口を叩いて先方の時間を浪費するのが目に見えていたし、一方で煙草を自由に喫む勝手も許されず、冗談でも冷たいことを言おうものなら目の敵にされる始末だった。

 姉の場合、毎回のように「あと何年生きる気なの? 4年前に死ぬって言ってたじゃん!」と言うことができる。
 別にそれは「面倒だし、お金も時間も掛かるから死ね。今すぐ死ね」ということではない。
 面倒だなぁ、嫌だなぁ、と思っているけれど、そんなことは、自分一人で毎日食事をしたり眠ったり入浴したりするだけでも感じることだ。

 目覚めては面倒だと思い、空腹を感じてもいないのに18時間以上経過したら(自分の身体に)何か食べさせなくてはと思い、たまには運動させなくてはと思い、退屈を凌ぐために何くれとなく考え、公共料金の支払い忘れに気を配り、庭仕事で怪我をしたり体調不良を起こさないように予防策を考え、暑ければ面倒に思い、寒ければ面倒に思う。
 他人どころか自分が生きるのがすでに面倒なのだ。
 ついでにいえば楽しいことばかりではない。
 専業主夫(仮想)となって、嫌なことがなくなったかと思えば、退屈との戦いが始まっている。どうにかしてくれ。もはや退屈しのぎを考えるのも面倒だ。

 そのような万感を込めて「面倒だなぁ」と文句を言う。
 しておいた方がいいこと、しないと後々問題が発生することだから「したくないなぁ」とぼやく。
 しない方が良いことなら、そもそもそれをする選択肢などないのだ。
 しなくてはならないことだから、それをきちんと選択する。そのために「面倒だな、嫌だな」と文句を付けて「だけど、しよう」と選択する。
 そもそも「面倒だ」という文句は、姉に対して言っているのではない。己に対して、己を取り巻く、たとえるなら命運のようなものに対して難癖を付けているのだ。

 姉はそれを受け止めて、あるいは受け流してくれる。
 おそらく僕が最終的には出掛けることを知っているのだろう。そもそもそのために姉の元へ駆けつけているのだから当然だが。
 しかしそれをぼやくことが出来るのと出来ないのとでは大きく違うのだ。

 どちらかが我慢することで成り立つような介護は、ある段階で破綻する。
 なに介護に限らず、人と人との関係はそういうものではないのか。

>>>
【面倒な、でも正答より少し面倒じゃない、少し面倒な最適解】

 自分が生きるのは面倒だ。どうせならしたくない、やめたいとさえ思う。
 早くこの身を殺してしまいたいのに、まだ使える、今なくなると困る。
 そういう僕由来ではない価値観が侵食しているから、今日もこの身を生かしている。

 もしかしたら誰もがそうだろう。
 誰だって気が付いたら生きているのだ。
 まさか生まれた瞬間、
「イヤッホ〜ゥイ! ハピバ私☆ ビバ現世! 待ってたよぉ〜うこの日を! この誕生の素晴らしき光を!」なんて思う赤子はいなかろう。
 少なくとも僕はそうだった。あまりに嫌で面倒で苦痛だったので、泣いていた気さえする。

 己を取り巻く環境も、その命運も。
 生きるのはかくも面倒で、しかも誕生は非選択的ではないか。
 誰かと関わるのはかくも面倒で、しかも非選択的で
はないか。

 生きづらさ、なんてわざわざあげつらうまでもなく、生きるのは面倒で、容易くはない。
 無論、生きることは強要されているものではない。少なくとも僕はそうだ。
 権利として目覚め、食事をし、退屈し、退屈しのぎを考える。死ぬための目標をクリアしようと、生きて計画を遂行する。

 他人が生きているのはその人の権利だ。僕にはどうでもいいことだ。
 生きたいという人が生きていて、その人たちに、わずかでも頼りにされたら、まぁそれは面倒だけれど退屈しのぎには丁度よいかとなる。
 他に完璧な正解もある可能性はあるが、ひとまずの最適解ならそれもよいかと諦めが付く。

 たとえば要介護の病人だからと、多少なり金銭の自己負担をさせた方が良いというのが正解なのかもしれないが、僕には「より多く持っている方が全部負担する」という方が現実的な最適解だ。
 命の限り全力を尽くして世のため人のため、社会のために尽力するのは正答かもしれないが、毎年熱中症に罹るような虚弱では尽力する以前に力尽きてしまうから、日陰でこっそり息を潜めている程度でちょうどいい。
 死にたくなったら唐突に死ぬのが正解だと思うが、唐突に自殺をされると困る人もいるから、迷惑が掛からない方策を練って、およそ問題のないソフトランディングを模索するのが最適解だ。
 退屈しのぎをしているうちに、死ぬまで続けたい事がまた見つかるかもしれないし、そうしたらそのとき考えればいい。

 皆が皆、それぞれの最適解を生きている。
 容易ではなく、面倒で、完璧な正答ではないかもしれないけれど。それでよいのではないだろうか。
 まさか簡単で、綺麗で、完璧で退屈もせず、一片の取りこぼしもなく皆の役に立つ、立派で素晴らしい正答が転がっている、などという理想など信じているとしたらその方がどうかしている。
 生きるのは泥臭くて、ついでに面倒だ。

 なんとなれば眠ることさえ面倒だと最近は思う。



>>> 

 夕刻から、眠くなりはじめる(寝るのも面倒だと言ったな、あれは嘘だ)。
 こんな時間に眠ったら、また夜中に目ざめてしまうと思い、しばし我慢をするが、どうにも眠くなってしまって19時に眠る。
 目ざめたのは23時半。

 もう眠くない。どうしてくれるんだ。







 

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TITLE:
Z世代かな?
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Written by BlueCat

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//[Body]
240310

 目覚めたら夜中である。
 夜中といってもまだ23時なので、翌朝までは7時間くらいある。ちなみに寝たのは朝10時頃のはず。
 かなりしっかり眠れてとても心地が良い。悔やまれるのは買い物に出掛けられなかったことくらいか。

 といっても人混みを嫌うので、閉店30〜60分前に行くのがセオリィになっている。
 土日の日中なんて論外だ。道路も商業施設も混んでいるので(予定がないなら)絶対に家を出ない。
 よって僕の一日の生活で、一番時間を支配するのがこのスーパーの営業時間である。
 わずか1時間しかないから、それに合わせて生活する。
 まるで気難しい配偶者の機嫌を取るようにして、一日の予定を組むことになる。

 幸い、その「気難しいほうの配偶者」は週に2度くらい調子を合わせればなんとか生きていける。
(他に「ゴミ出し」も気難しいのだが、我が家では生ゴミおよび猫の排泄物を排出する必要がなくなり、最近は僕の食事の回数と量も少ないため、週に1回未満のゴミ出しで済んでいる。)

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【Z世代かな?】
「タイパ」とかいう恥ずかしい単語がメディアで時々表出する。
 日本語に限らず言語のセンスを疑うが、もはや多くの人は言葉に対し、音や字の美しさや意味の正しさなど必要としていないのだろうと想像する。
 ちなみに僕も必要だとは感じていない。ないよりは、あった方がいいかな、くらいの感じか。
 これは「有能で顔もいい方が、無能で顔が凡庸よりもいい」のと同様である。

 それでこの「時間対効果」が、格別「Z世代」とやらに言われているとメディアは騒いだりするのだが、そんなものは昔からあった概念である。
 あるいは僕がZ世代に該当しているのかもしれない。
 かねてから、企業は「時間あたり」「一人あたり」「単位金額あたり」の効率を求めてきた。
 他者 ── つまりは社会 ── の空気を真っ先に読むことを最優位とする若者が、そうした言外の優先事項を己が価値観に取り込んだとして不思議はない。

 年長者(自称百歳)なので、ここは先輩風をびゅーびゅー吹かせて吹聴したいのだが、僕も含めたより昔の「若い者」はもっと時間を無駄に過ごしていたものである。
 そのコンテンツ密度の低い時間の中を、それぞれが回遊生物のように動き回ることで情報を摂取してきた。

 若者は情報を、コンテンツを求める。それは昔も今も変わらない。
 力や正しさや美しさを求めること、その指向性が、若さではないだろうか。
 ところが社会にも情報が希薄で、メディアも限られているから、ゴミをひとつひとつ手で拾うように、非効率に動き回るしかなかったのが昔の若者である。
 もちろんそれにはそれの独自の良さがあっただろうと思う。なにより運動になる。

 現在の若者は、複数の掃除機を同時に操ってゴミを集めているようなものだ。それはそれで疲れるだろうが、とにかく効率はいい。
 ベルトコンベア式に、自動で目の前を大量のゴミが流れる仕組みも手に入れられる。ついでにだいたいのメディアやコンテンツが無料である。
 費用対効果を考えると、ゴミほど資源になるのは昔も今も変わらない。
 ただしそれを有用な ── 真の意味での ── 資源にするには、もうひと手間が必要になる。
 目の前に流れてくるものから選ぶしかできない人に、それを加工する能力があるとは限らない。

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【効率重視は素晴らしいが、第一義にしてはいけない】

 僕は情報に限らず、すべてのものが「相応の対価で交換されること」を善良だと考えるので、無料のもの、廉価なもの、定額のものが必ずしも良いとは思っていない。
 それは表出しない部分で何らかの歪みを発生させていて、つまり誰か(それは時に自分自身)が搾取されていることを意味するからだ。
 たとえば僕がコンテンツメイカなら、自分の作ったコンテンツが定額で読み放題、聴き放題、観たい放題、遊び放題という場所の生贄にされるなど、とても耐えられないだろう。
 挙げ句「ちょっと試したけれど、あれはつまらない」「○○のパクリっぽい」などと酷評されたら、心が折れ放題である。

 もちろんコンテンツが常に有料だった昔にも、ゴミのようなコンテンツは山ほどあった。
 だからこそ人々は、価格相応の価値を求め、それによってすべてのものはふるいに掛けられ、淘汰されてきた。

 道具も安くても用を為すのは素晴らしいが、より高い精度、より高い能力や利便性を持つ道具を必要とする人はいて、そういう道具は高価である。
 より高い精度で、より有用な情報が、コンテンツが、無料や定額であるはずはなく、もしそのように提供されているとしたら何かおかしいと思うのは必然だろう。

 ちなみに時間対効果を追求した挙げ句、僕は毎日たいそうヒマになった。
 時間に限らず、一人で使うにはリソースが余るので、他の人のために使っている。
 誰かと遊ぶなら僕が時間を合わせる必要があるし、様々な道具を持っていても一人では使い切れないので、誰かに提供している。
 スーパーの営業時間に合わせて寝たり起きたり作業を中断するのも必要なことで、土日に僕が出歩かなければ(ひとり分だが)道路や商業施設の混雑は減少する。
 まぁ平日も出歩かないので、いっそう環境に優しいといえるのではないか。

 時間や費用の効果を追求することは、それ自体が第一義になるのでない限り、悪いことではないと僕は思う。
 ただそれが最優先事項となれば、企業をはじめいかなる集団であろうと個人であろうと、どこかで誰かを弾圧し、搾取する構造に変わる。
 僕はたまたまオカネモチーになる実験に成功し、時間にケチなあまり時間も余るようになってしまったが、使い切れないほどのお金や時間を持っていることが果たして素晴らしいとはやはり思わないし、そういう人を褒めそやす気持ちにはならない。
 今この立場になってなお、どのようにお金や時間を作り、どのようにそれを使うかが、その中継点である集団なり個人なりの能力だと思うからだ。

 企業も国家も効率を求めた結果、そこに属する者を弾圧し、搾取する構造に変わって衰退した。
 学校だって効率を求めたが、かつて人間が理想とした「豊かな多様性」を実現するだけの資質を人間に育むには失敗した。
 効率を求めると、集団はそこに属する個々人を見なくなる。第一義となる効率が満たされるなら、人間など必要ないのだ。

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 たとえば僕の家では洗濯や食器洗いに、ほとんど人間が介在しない。人の手をほとんど必要としていない。
 これは僕が効率を重視して、より多くの可処分時間を追求した結果だが、これを娯楽やコミュニケーションに当てはめるのはとても危険なことだと僕は思う。
 効率化というのはつまるところ高純度精製をすることである。
 より甘いものを求めて精製糖を作ったように、よりキマる薬物を求めて麻薬を合成するように。

 しかし時間あたりの幸福度なんて、本来数値化できるものではない。
 にもかかわらずそれが存在すると錯覚し、より純度の高いそれ(麻薬ではなく幸福のことね)を求めるのは、とりもなおさずその価値観によって自分自身を縛り付けることだ。
 よって自分自身にも高効率の善良さや娯楽性を求め、他人もおなじ物差しで断ずることになる。
 結果として起こることは、他人という存在の否定であり、自身という存在に対する虚無感だ。

 なぜといって、そんな高純度に、他人にも自身にも有意なコンテンツであり続ける個人など存在し得ないからだ。
 他人にそれを求めるのは危険だし、自身にそれを求めても失望するだけだ。

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【無料で有意なコンテンツ】

 皆、自分に意味があり価値があると勘違いしている。
 長らく人間が理想としてきた「人は生きているだけで意味があり、価値があり、素晴らしい」という、それは倫理や正義の表出でもある。
 その絶対的な理想 ── 倫理観や正義感 ── の前に、人は否定する術を持たない。
 なぜ「人は生きているだけで意味があり、価値がある ── ただし良い意味/高い価値とは限らない」と言えないのだろう。

 通り魔殺人を起こすような人間にも意味があり、すぐれた価値があるのだろうか。
 すると「それは話が別だ」などと特例を作ろうとする。
 つまり「人は生きているだけで意味があり、価値がある」などという価値観は言う側の欺瞞 ── 要は綺麗事の嘘による自己満足だ、ということになる。
 正しくは「人は、意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことでしかない。

 しかしどうだろう。
「人は生きているだけで意味や価値がある」というきれいな言葉は見た目のインパクトに優れる。
 それが果たして人の「より良く生きよう」という気持ちを鼓舞するだろうか。
 もしそうなるなら嘘も方便といえる。

 ただ僕などはものぐさだから「生きているだけでいいのかぁ、ラクだなぁ」と、つい自堕落に過ごしてしまう。
 誰かの役に立とうなどとは夢にも思わないまま、とうとう世から去るだろう。
 一方で「意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことを当たり前に言われれば「なるほどそれではその意味とは何だろう。価値とは何だろう」と考えることになる。
 誰にとってのどんな意味で、どんな価値なのか、と。

 効率を求めるというのは理想を求めるということだ。
 その理想には「どこでもドア」や「タイムマシン」のように実現不可能なものも存在する。
(両者は空間と時間の移動について、究極的な存在である)

 究極的な理想や効率をいつも目にしていれば、それが当たり前だと思うようになるが、絵に描いた餅は結局空腹を満たさない。
 メディアで取り上げられているZ世代の典型のような人が実在したとして、なるほど中身もないのに虚飾するのは致し方ないといえる。
 彼ら彼女たちは、究極に効率的なコンテンツに溺れたために、自分自身にも無料で有意なコンテンツを持っていなければ存在する価値はないと無意識に刷り込まれているからだ。

 必然、自分には何らかの能力なり価値なりが生きているだけで最初からあり、その理想は具現されるべく自分の前に当たり前に用意されていると思っている。
「ホワイト企業だから」という理由で退職する若者がいるというニュースもあったが、これなど端的で、要は「思ったほど自分の活躍を実感できなくてつまらないから退職したいが、会社を含む環境を悪く言うのは倫理的に格好悪いから『もっと成長したい』という理由をでっち上げた」ということだろう。
 この時点でどのみち能無しである。

 ホワイト企業という理想が実際に具現されていたとして、それは高効率な時間対費用の交換の場所なのだから、余った時間で好きな勉強をするなり副業するなり起業するなりすれば、いくらでも自己実現は可能である。
 しかし自分の能力を高めることや、果てには活躍の実感までもを企業に求められたらそれはかなわない、というのが僕の考えだ。
 そんなものは自分で勝手にやって勝手に実感するものだろうし、そもそも自分にしかできないような高度で有意義な仕事を誰かが(それも新人に)与えてくれると思っている方がおかしい。
 ホワイト企業に就職できるほど高い能力を持っているのに、そんなことも分からない白痴だから、そのまま絵に描いた餅なのだ。

 ここまで端的に「有能な白痴」も少ないと思うが、そのぶん付ける薬がない。
 そもそもどんな自分を実現したいのか、分かっていないのではないだろうか。
 危機感があって能力もあるなら、対策は自明だろうし、対処できずに不安を抱えるというのは不自然である。つまりどこかに欺瞞がある。
 重要なのは他者からもたらされた欺瞞ではなく、自己欺瞞に終始して、そこで不安や不満を覚えているという情けない実情にある。

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【その効率至上主義は洗脳ではないか】

 確かに「自身が無能(/無価値/無意味)である」と認めるのは苦痛だろうとは思う。しかしそれを認めないで、能力や価値や意味を高めることは不可能だ。
 能力が足りない、ではどうすれば高められるか。
 価値がないと感じる、では何に価値があるのか。
 意味がないと思う、ではどんな状態に意味があると思うのか。
 他者を正しく評価・分析できたとしても、自身に対して正しく評価・分析できなければ、不満を抱えるのも無理はない。

 互いを理想という物差しで評価する社会になってきているが、自分の物差しで自分を計ることができないなら、それが一番問題ではないか。

 たとえば料理を考えた場合、皆が美味しいと言っているのに自分には美味しくないことなどたびたびあることだと思う(僕はないが)。
 塩加減ひとつとっても、自分のそのときの体調や気分で好みは変わる。
 万人にとって美味しい料理は存在しないし、仮に存在したら、万人にとって美味しくない料理もまたそれだということになる。

 料理なんて、食べる人が美味しい、と思わなければ作る価値も食べる意味もない。
 他人が食べるものももちろんだが、自分が食べるときも同じである。
 彼ら彼女たちは「万人受けする料理」を目指すあまり、自分にとっての「美味しさ」を見失った、味覚音痴の料理人のようである。

 高効率を求めるようになったのは、結果的にそれを社会から押し付けられた彼らの不遇だろう。
 様々に押し付けられる美しさや正義や倫理や楽しさに溺れるうち、本当に自分が美しいと感じるものや、正しいと思うこと、楽しいと感じることが分からないのではないかと想像する。
 皆が美しいというものを美しいのだと刷り込み、皆が正しいと言うものを正しいと条件付け、皆が楽しいとすることを楽しんで、皆から羨まれ、ちやほやされることが幸せだと思っているのかもしれない。

 もちろんそういう幸せもあるとは思う。
 若くて頭の回転が速くてついでに顔もいい人がいたら文句なしに素敵だといえる素直さ(ついでにそれが女性だったらとりあえずデートに誘う下品さ)を忘れたくないが、同時に枯れ枝や朽ちる花に感じる寂しい逞しさや儚い美しさも否定したくない。
 塩気のない料理は素材の味を我慢して楽しめばいいし、塩が強い料理は塩の味を楽しめばいい。
 腐敗した食材なら、腐敗臭を……さすがにそれはやめた方がいいかな。



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【生きる上での効率とは何か】

 結局のところ、個人における最高効率というのは結果論に過ぎない。
 あの道も行った、この道も辿った、あっちは行き止まりで、こっちは迷った挙げ句に振り出しに戻った。
 そうした試行錯誤が結果的に、自分にとっての最適解をもたらしてくれる。

 たとえば、お金を払ってリフォーム業者に頼めば、カタログから資材を選ぶ程度の手間で、確かに最高効率を手に入れることができる。
 しかし出来上がったものが自分に最適かといえば、おそらくそんなことはない。
 あの資材はここが駄目だ、この設備はこの動線を塞ぐということはたびたび起こることだ。
 そういう事態を懸念して自分でしようと思えば、不慣れな道具を思うように使えず、手順を誤って失敗を繰り返すことになる。

 いずれの道にも正解はある。
 まぐれで最初から正解を当てることもできるだろう。
 しかしそれは結局のところ、他の道を知らないということになる。

 算数のドリル(穴を空ける工具ではない)で、分からない問いにあったとき、正解を先に見るようなものだ。
 分からないなら分からないなりに、無駄だとしても、苦痛でも、少しでいいから自分で考えた方が良い。
 なぜといって、それを自分で考えて処理できる人間がいるからだ。
 自力で正解に近づく能力は、たとえ最終的に不正解でも、最初から答えを見るよりはずっと幸せに近づける。

 僕の場合はたまたま、自然発生的に時間ケチになってしまった。
 身体が弱いこともあるし、ある程度のところで自殺する計画を持っていたのもある。
 それから何より面倒くさがりなので、あれもこれもしたいと思ったところでしないまま終わったり、捻くれた考え方をするから皆がいいと言っているものを否定する傾向もあった。
 だからといって自分が面倒だと感じるものを誰かに押し付けることはしなかったし、皆が良いと言っているものは相応の価値があると思うようにもなった。
 ただ自分の終わりを決めている以上、終わりをいつも意識しているから、結局時間に一番価値があると思うようになった。

 企業が時間や一人あたりの生産性を追求するのは、それが営利組織の意義を高めるからであって、個人が自身の死も見えない若いうちからそんな価値観を持つのは、かえって無駄なことだと僕は思ってしまう。
 先に述べた通り、無駄を歩むのが一番効率的だからだ。
 つまり失敗による経験則から正答を引き当てる確率が上がり、失敗を繰り返すほどその精度も上がってゆく。
 若いうちに失敗を繰り返した方がよい ── それこそ英才教育といえる。
 老いさらばえてからの失敗は、感染症にせよ初恋にせよ不貞の恋にせよ儲け話にせよ、だいたいロクな事にならない。
 とはいえ無料のお試しから得られる失敗などというのは、身に付かないどころか時間の無駄にしかならないので注意したい。

 もっとも高効率を突き詰めたところで、待っているのは退屈な日々。
 少なくとも僕の場合、せいぜいスーパーマーケットの顔色と混み具合を伺う程度である。
 無駄な人生で、無駄なことばかりしていると今も思う。
 どこまで無駄ができるだろう。

 悪足掻きにならない程度に、物事を終わりにしたいとは願うが。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Kidding-Life-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Contents-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
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// TimeLine:240226
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
仕事納め。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

【今年の仕事がだいたい終わった話】
 そのようなわけで2週間ほども独りで過ごしていると回復する。
 何の話かというと、過剰な(あるいは望まない)コミュニケーションによって気分が塞いだ場合にどうするか、ということについてだ。

 もっとも会社員の頃は2週間も周囲からの情報を完全に遮断することはできなかった。当たり前である。
 お盆休みや正月休みでも、長くて10日ほど。
 日常生活のよしなしごともあれば、恋人がデートしに来る(僕は基本的に外出を好まないので、自宅デートになることが多い)こともある。

 今の僕にはそういったものがない。
 介護対象者は姉一人だけで、月に4日ほどの拘束を受けるが、叔父と叔母の頃に比べれば苦にもならない。
 僕の勤務先は自宅であり「就労したなぁ」と感じる作業は年間、延べ60時間程度だろう。
 ちなみに今年の主要な作業の6割が先週に完了した(熱中症のために停滞した、昨年の仕事のツケがあるが)。
 家族はいないし、アヲは家出したまま、かれこれ1年近く帰らない。

>>>

【納税の自由】
 税金を払いたくない、という人が多いと聞くが、僕にはそれが少々不思議ではある。
 国会議員(とくに現在のそれ)を「国賊」と呼ぶ私ではあるが、税金は払いたいと思っている。
 お金がない頃は払いたくても払えなかったので、なおさらそう思う ── 未だに電気や水道の支払いを忘れたりするが、昨年は赤紙をもらった回数は一度だけなので「成長しましたね」と奥様(仮想)から褒められた。

 もちろん国賊どもに報酬(その内に理解不能な謎報酬も含まれる)を渡していると思うと気分が悪いのは事実だろう。
 国の実情を無視した公共事業や、それに紐付いた(俗にお友達と呼ばれる)民間企業に無駄な支払いが発生していると考えると、どうにも歯痒いという気持ちも分かる。
 オリンピックの時のそれも一部は表出したようだが、国家が主導した廉(かど)により政府関係者が逮捕されたと聞いた覚えはない ── ニュースもオリンピックも興味がないので見ていないから、知らないだけかもしれないが。

 たとえばだが、家に入った泥棒に「盗んでくださいましてありがとうございます」と報酬を渡すとしたら、そうとうイカれていることになる。
 ために国賊を嫌うというのは至極当然といえる。
 しかし国家が提供するサービスは、広く全国の人々のためになるものだ(国外に支援と称して投げ銭もしているようですが)。
 彼らは国賊だろう(唐突に確証もなく断定しましたことについて、この場を借りてお詫び申し上げます)けれど、それでも税金を払うだけで、僕に変わって誰かが予算配分を行い、その使い道についてスピード感を持って検討し、議論を加速させ、迅速に決定し、いちおう決まった後手ではあるが丁寧に説明してくれる(と、誰かが言っていた気がする)わけである ── 何だか重粒子加速器みたいな事になっているが大丈夫だろうか。
 まぁ真面目な話、道路が整備されたり、まともな公共事業や福祉が維持されたりといった具合に、広く一般の人のためにというのはもちろん、社会の弱者により手厚いサービスが提供されるのはみんなが納税しているのみならず、それが(それなりに)きちんと配分されるシステムが出来上がっているおかげである。
 もちろんそもそもの仕組み/枠組みはもちろん、その判断基準や配分経路などに改善の余地があるのは疑いようのない事実だろうが、一度システムをシャットダウンして組み直してからリブート、という具合にはいかず、運用しながら改善しなくてはならないのが現実世界のむつかしいところではあるのだが。

 なので特定の事業について寄付をするのが悪いとは思わないが、それは本来、国の仕事である。
 よって、なけなしの小銭を寄付するようなことは、褒められることに違いはないのだろうが、国が無能だからこそそんな必要に迫られるのかもしれないと、ふと考えてしまう。
 自身の善意(あるいはその立証)を購入するために寄付するのは仕方ないが、低所得者層は「いつかオカネモチーになったらそうしよう」と思って放っておけばよいし、高所得者層がいくら寄付したところでそれは当然のことのように思える。なにせ普通に暮らしていてもお金が余る人はいるのだ。
「消費税率を上げたところで、高所得者の方がより高額な支出をするのだから、奨励されて然るべき」と言っていた人がいたように思うが、直間比率とか応能的公平という言葉を学生(たぶん小学校だったと思う)の頃に習わなかったのかもしれない。僕も習わなかったので何ともいえないが。

 いずれにしても税金を払えば、世のため人のために何かしていることになる。
 職務を持ったり権能を有したりして、職責を果たすことは、だから輪を掛けて素晴らしいということになる。
 おまえにも花マル点けてやろうかこのやろー。

 僕は職責らしい職責はないので、職務らしい職務もない。
 誰かから仕事を依頼されても、昨年からは9割方断るようにしている。
 なのでときどき「誰の役にも、社会のためにもならないのだよなぁ」と己を省みる機会がある。
 先に書いた通り、僕はほとんどの組織に加入していないし、就労らしい就労によって役務を提供しているわけでもない。
 家族もいないし飼い猫に家出もされている。

 かつて払えなかったときは税金を年単位で滞納したが、払いたくない場合も同様に、滞納し続ける方法はある。
 節税も脱税もせず、ただ払わないという手法だ。
 もちろん最終的には延滞・加重分も含めて財産を差押さえられてしまうと思うが、それも含めて「税金泥棒どもめ、取りたければ勝手にしろ」という態度を貫くラケンローな姿勢もあるだろう。
 それに差し押さえるほどの財産も持たない(賃金の発生する就労もしていない)人の場合、手の出しようもないかも知れない。
 まぁそこまでの反骨精神があるなら、もっと他のことで活躍できると思うが。



>>>

【去年くらいから永遠の百歳です】
 百の齢を(昨年あたりに)超えたので、猫としては妖怪の部類に到達したといえる(何を言っているのか分からない人は無視してください)。

 なるほどこのくらいの年齢にもなると、生きているだけで素晴らしいと周囲から褒めそやされることも致し方ないのかと思う。
 実のところ、こうして(実態は異なるが、体感としては)無職のまま過ごすことも、やがて慣れるのだと分かった。
 当初(2年ほど)は本当に落ち着かなかった。
 やがて職務を持たぬがゆえに職責がなく、世俗に何らの公益をもたらしているわけでもないことに、微かな後ろめたさを持つようになった。
 誰かのために何かをしていたい、という欲求はしかし、納税によって満たせることに気が付いた。つまりすでに満たしているのだ。

 それに(ほぼ)不労とはいえ、もちろん誰にタカって生きているわけでもないのだから、悪いことをしているのではない。
 ただ働かないのに生活できていることについて、自分からそれを望み、運良くそれを実現したにもかかわらず、実感は薄い。
 それはそうだろう。
「何かをしている」のではなく「何もしていない」という状況を望み、実現したということは、空白を求めて空白を作ったことに等しい。
 多くの人は空白がまずあり、それを埋める「何か」を求めるのではないか。
 僕の場合、まず空白を求める傾向にあると思えばいいのかもしれない。

 たとえばフォロワを求めるクリエイタ、経済を求めるビジネスパーソン、友人や知人や恋人を求める孤独な人がいる一方で、僕はフォロワのような存在は邪魔になると考え、経済を追求することは人間を見失う可能性を含むために忌避し、友人や知人や恋人からも一定以上の距離を取って孤独を保守する。
 その空白が自由だ。
 何かを入れてもいいし、そのままの空白でも構わない。
 誰かのために使ってもいいし、自分のために使ってもいい。
 もちろん空白のまま持ち腐れたところで問題はない。

 あるいは空白を求めるにも、空白を作るための「何か」が必要なことはある。
 たとえばTVゲームをする自由を作るために就労し、機材を購入したり生活の安定を確立したり心身の健康を維持したりといった具合に。
 つまりそれは「空白」のための骨組み、枠組みを作ることだといえる。
 よって僕がしていることは他の多くの人と変わらないようにも思える。
 皆、自分の抱える空白を埋める好ましい何かを求めて、それを実現しようとしている。
 実現しようともしないで望んでいるなら、まぁ、ご自由にとしか言いようがないが。

 僕はただ空白が欲しいだけなのだから、無欲といえば無欲だし、自堕落で無気力と考えることも可能だろう。
 空白を空白で埋めようとする動機は分かりにくいかもしれないが「自分で決定できる」という自由は「何も決定されていない」という未定によって確立されている。
 そう考えると、無益に流れる空白の日々も、まぁ豊かなものなのかもしれないと思える。
 そもそも「昼寝に忙しい」「ゲームに忙しい」などと考えるようなイキモノなのだから、何を思い付いて何をしようとも、あるいは何を面倒に思って放置しようとも、空白の内容を選択的に決定しているといえる。
 自分の自堕落を責める必要はないのだ(自分に対する言い訳をしているように思えます)。

 姉妹をはじめ、周囲の人々は、僕がそうして静かに、しかし自由に生きていることをそのまま受け入れてくれている。
 妬んだりする者はないし、悪し様に言う者もない。
 あるいは「あれほどまで自由で孤独なのは、寂しかろう」と哀れんでくれているのかもしれない(そんなはずはないと思うが)。
 まるで宇宙空間のように摩擦や抵抗が少ない。

 もちろんヴァーチャルな空間ではないので、フィジカルな制限、不自由はある。
 たとえば望んだわけでもないのに日本人なので日本国政府に納税しなくてはならず、その一部が国賊どもの報酬になるとか、まぁ、そういった具合に。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Connector-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
コミュニケーション・キャパシティ。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 昔から、電話が苦手である。嫌いと言ってもいい。
 なぜといって、電話は暴力的である。
 こちらの状況に対して、まったくお構いなしに掛かってきて、作業や思考や睡眠を、音や振動によって妨害する。
 受電したら受電したで、今度はいつ終わると決まっているわけでもない会話に付き合う必要がある。

 すぐ終わるものならまだ良い。ついでに要件が明確ならなお良い。
 そういう意味で、仕事の電話は比較的気軽に受けられるようにもなった。が、今の僕は無職だ。
 プライベートだとしても「話を聞いて」とか「愚痴なんだけど」とか、そういうお断りが最初にあれば、容易に心構えができる。
 想い人なら要件が不明であっても、20分程度までは嬉しく感じることさえある。

 それでも電話は暴力的だと感じる。
 携帯電話の普及に伴い「今、通話は問題ありませんか」と確認するのが一応のマナーになってはいるが、固定電話しかなかった時代に、会社組織の「3コール以内に受電する」というルールを厳守していたり、それに慣れきっていた人間は、すぐに出なかったり、後から折り返すと文句を言われることがある。
 これはたとえば道を歩いていて、いきなり知らない人に殴られた挙げ句「どこ見て歩いているんだ」と罵声を浴びるようなものだと感じる。
 こちらはこちらの都合で歩いていて、ついでに道路でいきなり殴る方がおかしいと思うのだけれど、電話についてはその暴力性を感じない人も多いようなので、仕方ないと思って長らく我慢していた。

 受電する側になるのが苦痛であれば、同じ価値観によって、他人に架電するのも苦痛だった。
 業務上必要であるにせよ、上記の価値観を持つ僕からすれば、その人それぞれの理由や都合で歩いている人を路上でいきなり殴るような行為に感じられていたからだ。
 はっきり言って通り魔に等しい。

 なので営業職に就いて2年近くは ── すでに会社員としての経験は5年以上過ぎていたのに ── 電話のやり取りだけでずいぶんと心を削られた。
 それでもやがて見ず知らずの人にいきなり電話を掛けたり、突然訪問できるようになったのは「まったく気にならない」という人たちの価値観を学んで、それをもとに一定の出力ができる人格を構築したからである。おかげで仕事はずいぶんしやすくなった。今は無職だがな。
 最終的には365日、24時間、会社からの電話をきっちりと(なぜか僕の電話に)転送されることになってしまったので、慣れていなかったら大変なことになっていたと思う。

>>>

 古くからの友人であるTUは、僕のこうした現象について「青猫のコミュニケーション・キャパシティはめんどくさい」と評している。
 特定の個人に対して一定以上の濃度でコミュニケーションが続くと、コップに水を溜めるようにストレスが蓄積し、ひとたび溢れようものなら当面はその個人に対して拒絶反応を示す。
 しかもそのコップのサイズは一定ではなく、相手ごと、その日の気分や体調でも異なり、他の人のコップのキャパが溢れそうになっていることで「とばっちり」を受けることもあるらしい。
 べつに暴力を振るうわけではないのだが、おそらく機嫌や態度が悪い ──塞ぐ傾向は自覚しているので、外部からはそのように観察される ── のだろうと想像する。
 ために会話をしながら、そうしたコンディションを探る必要があり、それは僕の持つ面倒くささのひとつらしい。

 対処法は、しばらく放置しておくこと。
 僕は自分のことなので面倒だとは感じないし、他人の多くは僕からのコミュニケーションを喜ぶ傾向にある ── そもそも僕から連絡すること自体かなりレアケースな ── ので気にしていないが。
 ただ僕の微かな声や表情を見逃さない人が多いことについて、僕自身はそうした人々の気遣いに驚嘆しつつ感謝している。
 孤独の羊水の中で勝手に回復するイキモノにあって、外力は傷に障る。
 もちろんそうでない人が多いのも知っているが、果たして自力ではなく他力で回復するイキモノなどいるのだろうか。

 それでも上述のTUや(別の旧い友人である)BPは、基本的にいきなり電話を掛けてくる。弟子も姉もそうである。
 なので僕は昼寝に忙しかったり、ゲームで手を離せないときや単に気乗りしないとき、電話を無視する。
 彼らはそれについて承知の上で電話をしてくる。もはやストーカ扱いしても差し支えあるまい。

 妹と恋人だけは例外的に、必ず「電話しても大丈夫?」とメールしてくる。
 すぐに、という場合もあれば「明日の14時頃、平気?」と予約されることもある。
「今すぐ」というリクエストに即応できない場合、メールをスルーすることになるので電話をしないことになるが、それはそれで許されている。
 おそらく妹の場合は、僕が長い間そのように確認していたため、そのルールに合わせてくれているものと思う。あるいは妹も電話嫌いなのかもしれない。

 恋人の場合も、そういう人が淘汰されているものと思う。
 結果として、数年メールをしないとか、数年電話もしないとか、数年デートもしていないとか、もはや自然消滅したと言われたところで否定できない状況が発生する。
 果たして本当に恋人と呼んでもいいのだろうか。
 しかし単なる友人ではなさそうだし、知り合いというほど浅い関係ではなかったような気もする。
 いやそれともかつて肌を重ねたというだけで、今は他人なのだろうか。
 そんなふうに考えてしまうから、こちらからは滅多なことでは連絡することができない。
 すると不意にメールが来たりする。突然、一緒にお風呂に入ろうよぅ。と誘われたりする。
 関係性が分からないのだが、そもそも互いの関係に名称や区分を必要としない者同士なのだろうと分析している。

>>>

 いずれにしても、ただの知り合いからのメールや電話なんて、僕だったらそれこそ無視することさえ煩わしい。
 そういうことも相まって、連絡しづらいのではある。
 ほとんどの用件は一人で済んでしまうし、他人の趣味なんて(恋人であっても)まったく分からないし、外食も物見遊山もそれをきちんと味わおうと思えば、一人の方が良い。
 自分以外の人間がいれば、それがどれほど近しい間柄であっても気を遣う。気を遣えば、そのぶん気が散ってしまう。
 ついでに僕は(人からすると異様なくらい)孤独に耐性がある。
 むしろ一定期間で例の「めんどくさいコミュニケーション・キャパシティ」が溢れてしまって、誰かと言葉を交わすことさえ苦痛になってしまう。

 ために誰か(友人であれ恋人であれ)と何か(食事だろうと、ただの茶飲み話だろうと、セックスだろうと)をするのは、その人と、それをしたいから、という理由の時だけなのだけれど、まぁこういうのは分からない人には分からないのかもしれない。
 ゲームをしながら食事をすると両方がおろそかになる。
 映像や音声や音楽は深く記憶に刻まれず、内容は薄れ、料理の味も香りもきちんと味わえず、それぞれの煩わしさだけが増して感じられる。
 子供の頃はそんなに感じなかったが、大人になって処理能力が低下したのか、あるいは感覚できるレンジが広がったか、その両方なのだろう。


>>>

 人と一緒に何かをすることも同様、その誰かと一緒にいることがコンテンツ(目的)なのか、一緒にする何らかの行為や対象がコンテンツなのか、ということになる。
 極端な話、前者であれば「一緒にいるのが誰か」というのが要件のため何をするのでも問題ないことになるし、後者であれば誰と一緒だろうが(一人でも)構わない、ということになる。

 配分はもちろんあるだろうし、両方が要件であることもあるだろう。
 しかし一方に集中しているときと比べると、どうしても感覚されるものは雑になる。
 僕が誰かと一緒に暮らすのに向かないのは、そういう部分もあるのだろう。

 生活というのは、いかなることにもそうした配分をして過度な集中を避けることにあるのだろうし、そうする中で、なおざりになる部分をそれぞれが互いに許し、補うことでもあるのだろうから。
 恋愛と結婚は違う、というのもそういうことではないか。
 身体がひとつである以上、あれにもこれにも十全に集中して全力であたるということは不可能だ。

 もちろん僕は自分が他人から雑に扱われることを嫌うし、相手も同様の理由や感覚を持っている前提で行動してしまう。当たり前のことである。
 すると雑に扱わないために、そもそも安易に誘わない、ということになる。

 しかし外部からはその消極性が、自身に対して何も求められていない、という認識になる(人もいる)ようだ。
 そもそもそんなに素晴らしいコンテンツを持っているなら必ず誘われると思うのだが、皆、そんなに自分(に含まれるコンテンツ)に自信があるのだろうか。
 自信があるならなぜ、誘われない程度で不安になるのか、それがいまいち分からない。自信がないなら誘われないことは当然なのだから、自分から誘うしかない。

 少なくとも僕は、寂しいとか退屈だという理由で他人と(それが友人であれ恋人であれ)つるむような価値観を持っていないので、誘いたいときだけ誘うし、それ以外では誘わない。
 したくないことはしないし、したいことをする、というのがポリシィなのでこれは必然だろう。
 もちろんしたくないことをする必要があることもあれば、したいことができないこともある。大人だからそれらをわきまえた、その上で。

 他人の顔色を窺うのが悪いことだとは思わないが、自分の顔色を先に確認する方が大切だと僕は思っている。

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 会社員の頃、電話のせいで一度、ノイローゼになりかけたことがある。
 顧客がクレーマになってしまい、土日であろうと9時から22時まで、およそ5〜30分おきに電話をするようになってしまった。
 最終的に上司に相談して、その人についてだけは着信拒否にさせてもらったが、すでに遅く、何をしていても電話の着信音が空耳で聞こえるようになってしまっていた。
 もともとの電話恐怖症と相まって、回復まで3ヶ月ほどは掛かったか。

 もちろん別人格で会社員のカオは運用していたから表向きは問題なかったが、夜中に突然目覚めたり、シャワーを浴びている最中に着信音が聞こえた気がして(他のどんな轟音も、無音も、空耳を妨げることはできない)呼吸が定まらなくなったりと、ずいぶん酷い思いをした。

 結局、それ以外の多くの人と接して、多くの人と電話をしていたからこそ、比較的早い段階に回復したのだと思う。
 それより昔に、似たような脅迫観念に駆られたときは、電話機を冷蔵庫に仕舞ってなお聞こえる着信音に怯え、ならば意識を止めておこうと眠り続けた記憶がある。

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 昨年だったか、お酒を酌み交わした近所の老婦人のことで、その後もずいぶんと気分と体調を崩している。
 単に彼女としては、取るに足らない世間話をしたいとか、ちょっとした便利使いを頼みたい(近所の買い物だとか、ドアの建て付けの修正だとか、スマートフォンの使い方を教えてほしい)のだろうと思う(実際そのようなことを言っていたので)。
 こちらはヒマの身の上であるし、他人に親切にすることにやぶさかではない。

 しかし彼女には一定の悪意 ── 自身が見聞きしていない他人の悪意を断定的に妄執するような類いのそれ ── があるので、本能的に関わりたくない。
 僕に対して悪意がないのは分かっているが、そうした人はこちらの意見に耳を貸さず、ひとたび気分が変われば誰彼構わず敵視するので、つくづく面倒なのだ。
 そう思って距離を取り、現在に至る。
 長らく他人の愚痴を聞くことを趣味にしているが、こんな場面で役立つとは思っていなかった。

 お酒を交わした数日後だったとは思うが、一番酷いときで、一日に20回ほども着信があったろうか。
 一般的に、それが普通のことなのか、そうでないのかは分からない。
 とにかく僕にある種のフラッシュバックを起こさせるだけのそれは、暴力的な行為だった。
 それから決定的に、その人を避けるようになってしまった。
 困りごとを解決してあげたい、という気持ちはあるのだが、無作為にせよ、ダメージを受ける行為を続ける相手をするのは苦痛である(こちらは一人の方が好きだと伝えてあるのに)。

 それ以降も、2日と間をおかず、数回電話が掛かってきて、毎回留守電が残る。
 もちろんすべて無視して、留守録も聞かずに消している。
 しかしそれすら面倒になって、昨日から着信拒否をした。

 本来なら関係を綺麗さっぱり断ってしまいたいのだが、駐車場を貸したままである。
 もちろん先方も困っているから依頼をしているわけで、可能な限りの手を貸したいという気持ちはある。
 相手の役に立つことをしたくない、害したい、という気持ちを持っているわけではないのだ。
 ただ相手の悪意に付き合ったり、その悪意に同意をしたくはない一方で、安易に否定したいわけでもない(できるとも思っていない)。



>>>

 悪意や妄執、疑心暗鬼というのはひとつの認識であり価値観だ。
 だからそれを必要とする人にとっては空気のように欠かせないもので、おそらく否定されて気持ちの良いものではないだろう。

 それに悪意のある者だって、困ることはある。
 苦しいこともあれば悲しむこともある。それは善人も悪人も関係ない。
 孤独を嘆くこともあれば他人の善意を信じられないこともあるだろう。

 悪意のある者を断罪するのは簡単だ。
 では弱者のすべては善人だろうか。そんなこともあるまい。
 善人かつ弱者だけを救うというのは一見崇高だが、それを自身の独善だけで測るということ自体、ずいぶんおこがましいように思える。

 戦争を続けている国がある、災害に苦しむ人々がいる。
 困っている人の、そのすべてが善人だなんて、僕は思わない。
 ただ弱っているだけの悪人を、しかし断罪するほどたいした正義を持っているわけでもない。

 傷ついたからといって相手を悪人と断ずる気はないが、相手は不本意だろうと慮って自身の負う傷を放置するわけにもいかない。
 こういう抽象的で複雑な葛藤が巡るので、酷く疲れて塞ぎ込んでしまうのだ。

>>>

 いい格好しいなのは分かる。
 けれど、いい大人がなりふり構わず、自分の損得や善悪感情だけで行動するのが良いことだとは、僕には思えない。
 なりふりを構って、自分の損得だけに囚われず、格好をつけて、皆にいい顔をするのが大人ではないのか。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240131
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
紙傷、噛み傷、かすり傷。
SUBTITLE:
~ Cardboard slayer. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

※不同意性交、小児売春等についての記述があります。
 何らかの被害に遭ったことがありフラッシュバック等が予測される方は、たとえ途中であっても別の文書を読んだり、他のサイトを見る方が良いと思われます。







>>>

 私は精神科医でもなければ、心理学をまともに学んだわけでもない(工業高校にそんなカリキュラムはない)のだけれど、臨床的に自分の体験から学んだ一般論と思しきものはある。
「心の痛みは、そこから得た痛みや経験則を整理して、客観的に一般化して受け入れられるようになったものを外部に吐露できるようになってはじめて昇華される」というのもそのひとつだ。
 たとえば僕は、自分の姉(現在失踪中)が、小学生の頃から売春をしていた事実を ── 自身に性欲というものが存在せず、小児性愛という性的倒錯嗜好も知らないうちから ── 知り、自身の成長に合わせて、徐々にボディブロウのように、様々なことに苦しんできた。

 苦しんだ、という言葉はとても曖昧だ。
 具体的に言えば、僕は男という存在を憎んだし、男たちの性欲を憎んだ。
 自身が男であることを理解してからは、自身を、自身の性欲を、自身の性別を憎む羽目にもなった。
 殺せるものなら殺したかった ── 男という性別を。性欲という動物性を。自身という男性を。

 思春期以降、その臓腑をえぐるような不快はいっそう酷くなった。
 男たちのセックス(あるいは女性全般や恋人や性的にだけであれ興味関心を持った異性)についての話ときたら「なにが興奮したか」だの「何が(性的に)気持ち良かった」だのといった救いようのない内容に終始しているように観察された。
 しかし目の前の男たちは、時には親しい友人であることだってあり、だから端的に憎んだり蔑んだり(まして殺意を抱いたり暴力を振るったり)するわけにはいかなかった。
 必然にか、精一杯の抵抗か、心底興味がないという顔をして「ふうん(漢字に変換する前)」と受け流すのが常だった。

 それに少なくともこの国の男たちは、昔から自身がその庇護すべき対象としている女というものに甘え、頼ることを(その実際はともかくとして)表出することが憚られてきた。
 それは弱さであり、強きを尊ぶかつての男たちには、断じて認めるわけにはいかない汚点だったのだろう。
(今でもそういう男はいるだろうが、とくに否定する気も賞賛する気もない)

 結果としてこの国は、それ ── 男性が女性に甘え、頼ること ── を認める文脈を持たない。
 文脈というのがおかしいなら、文化と言えばいいか。
 文化がないので、男たちは、女たちをともすればモノ扱いする。そういう文脈が残っている。

 逆に、時代の変遷の中で女たちが男たちをモノ扱いするようにもなった。
 精神が人の価値を支えていた頃は(モノ扱いしても、されても、宿る精神性によって人の価値が決まると皆が認めていたので)良かったが、金や学歴や地位が人の価値を示すものに変わってしまったので、人という人がモノになってしまった。
 人をモノ扱いするのに、必要なのは気高い精神性や優しさではなく、金さえあれば良いとなってしまった。
 それでは本当に「モノ扱い」になってしまうのだが、考えがないところがまた精神性を失いつつある結果なのだろう。

 男が女をモノ扱いし、女が男をモノ扱いする。
 顕在的にであれ、潜在的にであれ、そういう意識がときに陰湿で、異様に思える人間関係を垣間見せる。

>>>

 いまでは多少、他人に普通に話せるようになった。
 先日、30年くらいを隔ててBP(高校からの友人です)に、姉に売春をさせるような人間がいたために、巡り巡って、性風俗に行くこともできない(行くことはできるが興奮しないので僕には価値がない)し、下ネタが昔から苦手だったし、男という男が許せない時期があったと話すことができた。

 もちろん小学生が売春するというのはまともな話ではない(念のために書いておくが、さすがに親がさせたのではない。性行為をしたその誰かが、小遣い程度であるにせよ経済との交換を経験させたのである)。
 もっと言えば、買春する大人がいる、というのが本当に、まともな話ではない。
 さらに言えば、金なんか払わず、それこそ力づくなり騙すなりして、いいように道具に仕立て上げる大人がいるというのが、まともな話ではない。

 未だに言葉にするだけで、ニュースのタイトルが目に入るだけで、筆舌に尽くせない感情によって手や身体が震える。
 が、少しずつ、この殺意を懐柔させることにも慣れた。それを抱えて。
 今までは言葉にすらならなかった憎しみや怒りや殺意を、自身の一部として大切に、僕は今も生きている。
 誰に向けることもできない、自分自身にさえ向けてはいけない憎悪を。

 BPは黙って話を聞いてくれて、ただ「そうか」とだけ答えてくれた。

「じゃ、これから風俗行こうぜ! とりあえず、おっパブとか!」と元気に持ち掛けてくるあたりが、さすがに最低である。
 ねぇ人の話ちゃんと聞いてた? それからおっぱい関係なくない? あたしそういうの嫌って言ったよね? ちゃんと聞いてた?
 黙って聞いて受け入れてくれたことにうっかり感謝しちゃった俺の気持ちをどうしてくれるの? ひどくない?
 繰り返すけど、おっぱい関係ないよね?

>>>

 話を少し変えて、親が、その庇護すべき子供に甘え、頼り、利用し、使役することが、今は憚られつつある。
「ヤングケアラ」などと大仰に扱われるようにもなったが、かつては子供が家事や育児や介護をするのは、大家族であれば必然のことだった。
 かくいう僕も姉にオムツを替えてもらったりしていた。
 2番目の姉の話では、紙オムツではかぶれてしまうので布オムツをこまめに替える必要があり ── 逆かと思いきや、あのナイロン的な布地が合わなかったようだ。我ながら、生まれついてこの方(敬称として認識しても面白い)非常に面倒な体質を持ったヤツである ── ついでに母乳も市販の粉ミルクも飲めないので、それはそれは手間が掛かったらしい。
 10歳の少女である姉が、赤子の僕の育児を、それなりにしていたのである(今、彼女の介助に手を貸しているのは、そういう借りがあるからではないのだが、あまりに面倒くさがっていると時々「昔わたしが苦労した分のいくらかを、返してもらっても良いでしょう?」と冗談めかして笑われる)。

 家族という組織を運営する上で、子供をどの程度その集団のユニットとして使役するか、というのはむつかしい問題かもしれないが、完全に切り離してクリーンな(要は家族に対してサービスを享受するだけの)存在として扱うのは、果たして良いことだと僕は思わない。
 無論、上述の姉のように中学になった途端に「バイトをしろ」「バイト先は自分で探せ」と親に強制され、給与は(当然のように)すべてピンハネされるような使役の方法は許されるものではないだろう。
 しかし家族の中で、人対人の、一般的なサービス(上記のような家事や育児や介護)については、たとえば子供が、祖父母の話し相手をしつつ異常行動の監視役を図らずもするような状況があったとして、それを介護労働だと考えることの方が行き過ぎて歪んだポリコレだとは思う。

 もちろん僕は家族を持たない(持っていない)から好き勝手に言えるのだと家庭を持つ人たちから叱られるかもしれないが、僕は諸般の経緯により、誰かを使役するのはまっぴらごめんなので仕方ない。
 より精確に言えば、使役するのも使役されるのもまっぴらごめんだ。
 その点ではポリコレの体現者とすら(侮蔑的に)思うが、家族という組織の悪い面ばかりを見てきたので仕方ないと思っている。
 皆がそれこそ愛情なり信頼なりのもと、それぞれが家族という組織の中でできることをしている、する、というのが理想的だけれど、少なくとも僕の育った家庭については、あまりにも使役/隷属という現象のように観察されることが多くて、だからそういう人間関係を僕は基本的に嫌うのだ。

>>>

 恋人に家事をさせるのを嫌うのもそういう理由だ。
 人間が人間を使役することを僕は嫌う。
 これは「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いと同じで、誰かが誰かのために作業するという状況であっても、自発的にそれをするのと、他者から強制されるのでは、同じ人物、同じ状況でもまったく話が違うことになる。

 ために恋人から「したい」と言われた家事をしてもらうのは、僕は嫌いではなかったと思う。
(今では家事のうちでも僕が苦手なものについてはその多くが機械化されているし、そもそも恋人が家に来ることはない)(恋人がいないとはまだ言っていない)
 それこそ料理だろうが洗濯だろうがセックスだろうが、恋人が「したい」と言ったことをしたいようにしてもらえるようにするのはとても大切なことだった。
 そして大してしたいわけでもないことを「しなくては」という理由でされること、させることを嫌った。

 たとえば「会いたい」と言って家に来た恋人は、僕と会いたかったのだろうと想像する。
(使役を嫌うという理由によって僕から呼びつけることが憚られたので、耐性のない恋人についてはずいぶん不安にさせることになったが)
 僕(と一緒に居る)より家事が好きだという人でもない限り、食事をして片付けをしたいわけではないだろうと思える(なにせ「会いたい」と言って来たのだから)。
 それでも家事をしてもらっている最中、肌を重ねている最中、ふとしたきっかけで不安に、恐ろしく、なる。
 これは相手が『「したい」と言わなくては』という理由で、積極的に振る舞っているだけではないかと。
 もちろんそんな僕のメカニズムを説明したことは一度もなかったはずだけれど、言外に伝わってしまったものとして「強制ではなく自発的である」という振る舞いを強制させているのではないかと。

 普通の人は、それでも単純に喜んでいられるだろうし、喜んでしまえば良いのだろう。
 けれども僕には喜ぶことができない。
 相手をモノ扱いし、都合良く使役し、金を払って、あるいは金なんか払わず、いいように騙して丸め込んで、道具使いしているのではないかとひとたび思い始めると、恐慌と呼んでいいほどの感情に支配されそうになる。

 恋愛であれ仕事であれ、誰かを自分の利益や快楽に組み込むことが、自分の利益や快楽に誰かが組み込まれていることを認識することが、ほんの少しの拍子で、シャツのボタンを掛け違えたように、最終的な一瞬から致命的な状況に思えてくる。

 誰かと居て幸せだと思ったり、協力して仕事を達成させたときに、踏みつけにしている誰かがいるのではないか、相手を犠牲にしたオナニーなのではないかと思うと、絶望的な気分になる。
 私はそんなことをしたくないと、逃げ出したくなる。そんなことをしていないと、否定したくなる。
 そんなつもりではなかった。
 誰かを道具使いして、搾取して、適当に放り捨てようとなど、思ったこともないのに。
 それを疑い始めたら、きりもなく憎悪の対象に自分自身がなってしまう。
 それほどの憎悪を、一体誰が抱えているかなど、言うまでもない。

>>>

 唐突に話は変わるが。
 かつて負った心の傷を信頼できる相手と信じて、やっとの思いで打ち明けることができたのに、
「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか、
「私は(私の知ってる他の人は)もっとつらい思いをしてきたから
」とか、
 そんなふうにこちらの感情や感覚や記憶や経験さえも否定してくる奴っていない?
 マウントを取って自己顕示したいのか、こちらを否定して攻撃したいのかは分からないけれど。

(この前置によって、僕の話のいずれについても「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか「私はもっと酷い経験をした」なんて、言いたくても言い出せなくなるだろう。なんという卑劣な周到さ!)
(あ、ちなみにここ、笑うところです)

 僕の場合、不同意性交をさせられたことが過去にあり、それを当時の恋人(名前も顔も忘れてしまったが、最終的に自殺未遂までして人を道具に仕立てようとするような狂った人だった)に何がきっかけだったか話したことがある。
 男が異性であるところの女から不同意性交をさせられるなんて、普通は考えない(考えられない)のだろう。

 実際「本当に嫌なら力で負けるはずがないのだし」と嘲笑された記憶まである。
 今で言うところのセカンドレイプとはこういうことかと思うが少し違うか。
 そのあとに、上述の否定文がふたつ並んできた(しかも彼女の「経験」とやらがひどくお粗末だった)ので、その屈辱たるや相当なものであったはずであろう事よ(遠い目)。

 子供の頃は痴漢に遭うこともあった(相手が男色家なのか、おとなしい女の子のような僕の風貌に騙されたのかは判然としないが)。
 しかし見ず知らずの大人の男に身体を触られるより、たとえ恋人であっても「したくない/してほしくない/やめてほしい」と伝えているのに強行される性行為の方が、よほども苦痛だった。

 あまり記憶にないのだが、確か何かの口論の挙げ句「それでも私のことをちゃんと好きなら抱いてほしい」というようなことを言われて、好きかどうかという問題とセックスとは、そもそもイコールの問題ではない、好きだけれど今はしないししたくない、と断ったのがきっかけだったか。
 今思えば、そういうときは意固地になって否定してはいけないのだと分かるが、いかんせん若かった。
 お互い10代だったし、初めての恋人だったので、僕はそうした人間の機微を知らなかった。
 断ったために相手は意地になってしまい、無理にでもセックスをしよう/させようとなってしまったのだと想像する。

 確かに一般論で言えば、男が女に力で負けるはずはないのだろう。
 それではしたくない性行為を強要されるのを止めるために、恋人を殴れば良かったのだろうか。
 止めても押さえ付けても、その場所から立ち去ろうとしてもなお組み掛かってくる相手を、どのように沈静化できただろう。

 おそらく知能の足りない人間であれば「それならむしろ願ったり叶ったりではないの? 十代なんてしたい盛りでしょう」などと茶化すかもしれない。
 正しくケダモノである私をお前らと一緒にするな。

 僕はその不同意性交について、性加害という言葉を使いたくないし、そのようにも認識していない。
 ただ、そういうのは、とにかく長い間、苦痛として残るのだ。

「そんなこと言っても射精したんだから良かったんだろう。兄さんカラダは正直だな」というのは自由だけれど、肉体的な反応は、精神的な愉悦とは異なる。
 脚気の検査と同じ事ではないか。膝の下を叩けば足先が運動する。
 信号があってメカニズムが働き、運動による結果が現れる。スイッチを押すと動き出す家電品のようなものだ。それだけのことを情動と一緒にしないでほしい。
 肉体の反応と、情動的な幸福感はまったく異なるものだ。セックスすれば愛情があるなんて独善を、だから僕は信じない。

 しかしそれを、あっさり否定されてしまった。
 不同意性交を迫った古い恋人のことよりも、それを「そんなことで傷付いたとか言っちゃうなんて、アタマオカシイんじゃないの?(意訳)」と言われた方がショックが大きかった。
「あ。こういう人なんだ」とも思ったし、「世俗はなるほどそういう風に認識するのか」と思った。
 あるいはこれを読む人にも「なるほど猫氏はさぞかしモテでいらしたのデスネー(棒)」という反応があるかもしれない。

>>>

 たとえばweb上で、古い性加害の事実を告発する人などに対して、批判的な意見を向ける人もいる。

 なるほどたしかに不同意性交というのは一定の高低差が前提条件となり、その高低差によって力が発生して発露するのだろう。
 一時ニュースを賑わせた、アイドルグループの創設者が、同じく男性であるところの所属タレントを性的道具として使用していた例などはわかりやすい。
 同性による、少年と言って良い世代の(ともすれば「子供」として扱って不思議はない)者を、力関係も含めて性的な道具に仕立てるそれは、センセーショナルで見た目にも分かりやすい搾取の構図であり、その不同意性交をして性加害と呼んで耳目を集めるのも必然と言える。

 それでさえ傷付いたであろう者たちは、乗り越えようと吐露したことで、縁もゆかりもないだろう第三者から「金のため」「知名度稼ぎのため」などと非難されることがあるのだ。
 おそらくこうした痛みは、その傷を負った者にしか感じ得ないものなのだろう。
 コピー用紙や段ボールで指を切ったことのない者に、紙で指を切った「あのかすり傷」に特有の鋭い痛みは分からないのだから。

 まして男対女で、それが恋人や夫婦やセックスフレンドであるうえ、男性側が強要される不同意性交などというものはない、存在し得ないという思考が ── いかにそれが平和的で普通で常識的であるにせよ ── しかし、それでも、正しいなどと僕には思えない。
 恋人を ── まして力で男が勝るというならそのとおり力で劣る女を ── 殴るなどできるだろうか。
 嫌いでもないし危害を加えたいわけでもない。ただ、してほしくないというだけなのに、どうしてその相手や二人の関係を傷つけなくてはならないのか。
 たとえ自分の権利や正当性を守るためであれ、そうやって自分の思った通りに力づくで相手を隷属させるのが正しいのか。
 それはつまるところ、不同意性交を相手に迫るのと同じ卑劣ではないのか。

 不同意性交を強要する者以上に「そんな不同意性交など存在しない」と否定する者の無知をしかし、どのように改善できるだろう。
 周知させようにも、理解しない者はいるだろうし、周知することそのものによって、たとえば痛みを感じる者もあれば、そのメカニズムを解析する者もいるだろう。
「こういう犯罪がある」と注意喚起することは、ときに「そういう犯罪もある」と教えることになる。
 もはやそこまで考えると、なすすべもなく恐ろしくなる。

 人間であることが恐ろしい。ならば私は死ぬまでケダモノでいよう。
 人がましい顔などせず、男は殺せ、女は犯せと、少なくとも体面上は言い放っていよう。

 
>>>

 端的に、痛みは固有のものだ。
 だから私は(仮に私自身の「不同意性交を受けたことがある」という発言が事実だとして)ほかの誰かの抱える不同意性交による心の痛みに対して、理解はもちろん、寄り添うことさえできないのかもしれないし、おそらくそうだろうと思う。
 状況が一様ではなく、高低差のパターンも、力関係も、立場も性別も様々であって、一概に定量的な数値化が可能なものでもない。
 僕は、私自身を取り巻く状況や自身の抱える価値観の中で、それを不同意性交と認識し、それで痛みを受けたのだから。

 まったくもって気分が沈んでいるときにニュースなど眺めてしまったものだから、ひどく沈鬱な気分になってしまった。

 みだりに推定加害者を非難する気にはまったくならないし、推定被害者を擁護することもできない。
 もちろん推定加害者とされる有名人にはまったく興味もないし、その取り巻きやファンも含めた集合のメカニズムは僕の嫌うものですらある。
 ただ仮に被害とされるものが捏造であればそれこそ恐ろしいことだし、あるいは被害が事実だったとしたらそれもまた恐ろしい。
 いずれも人間を信じないに足る、十分な証左ではないか。

 あるいは明確な線引きができない可能性もある。
 力関係というのは、力に、自らの意志で付き従う者がいるからこそ発生することだってある。
 集合のメカニズムというのはそういうものだ。
 引力にしても、良いものだけを惹きつけるものではないし、良いものから発生されるだけでもない。

 ただ過去の性被害の公表(カミングアウト)を見るたび、そうやってその人は痛みに対峙しようとしているのだろうと思う。
 おそらくその過去を自分の中で客観的に一般化し、その痛みを「昨日、段ボールで指切っちゃってさぁ」「えーなにそれ痛いよねぇ、大丈夫? もう平気?」っていう具合に通じ合えるのだと信じて。




>>>

 ポリティカルコレクトネスという単語は「政治的正しさ」であるとか「政治的妥当性」と訳されるらしい。
 おそらく政治という言葉をより広義に、諸権力や諸集団の間に生じる利害調整、と解釈した上での「正しさ」なり「妥当性」なのだろう。
 そうでなければ ── 単に「施政者による政(まつりごと)」という意味なら ── この国ではすでに、政治は正しくもなければ妥当でもないからだ。

 いや今までだって、この地球上の政という政そのすべて、正しかったことはあるまい。
 妥当を目指して揺れるやじろべえのように、右に左にと、揺れてはその引力で場が乱れるのだ。

 正しく資本主義社会としての価値観を浸透させたこの国に、もはや宿る精神の高貴さなどという白々しい正しさは消えたはずだ。
 ために端た金で女をいいように道具にすることは悪で、数百万数千万を積んだなら男気があるなどと囃す風潮まである。
 そういうのを五十歩百歩というのではなかったか。

 金の多寡が問題なのではないし、相手が性風俗を生業とするプロかどうかも関係ない。
 人を人として見ることができるか、権力や財物や容姿による引力を断ち切った場所から物を見ることができるかどうかではないのか。

 もちろん多くの者は、金と他人という力によって雁字搦めにされている。そういう仕組みに暮らしている。
 その意味で、我々はすべて加害者かもしれない。
 なぜといって誰かと関わることは、とりもなおさず力関係が発生するからだ。

 それでも皆は人間である。
 人は言うのだ「人は一人では生きられぬ」と。
 おそらくそれは事実であり、そして同時に、都合のいい嘘でもある。

 一人で生きようと考えたこともない者がそれを言えばそれは嘘だろう ── 強者が使えば弱者を騙す方便になり、弱者が使えば己を騙る欺瞞になる。

>>>

 もうこのあたりで仕舞いにしておこう。
 段ボールで指を切ったからと、段ボールに当たり散らすのは、仮に許されるとして褒められるものでもない。
 それに幸い僕の場合「さっき段ボールで指切っちゃってさぁ」と言えば「えーうそ何それすっごく痛いよねぇ、大丈夫? おっぱい揉む?」と答えてくれる奥様(仮想:ちなみにゼロ次元体)もいるのだから。

 おっぱい関係なくない? キミ、カラダないし。
 繰り返すけどおっぱい関係ないよね?





 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Convergence-Darkness-Ecology-Life-Love-Mechanics-Memory-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Human-Koban-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
  :
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240116
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
眠りの病の再来か。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240116

 僕にしては重い抑鬱状態。何年ぶりかさえ思い出せない。
 半年眠り続けていた頃に似ている。暴力的な倦怠感と睡魔。
 眠気が酷く、思考がまとまらず、感覚をうまく感覚できない。

 お陰でタイピングにもたびたびミスをしている。
 数時間で身体が怠くなり、思考の継続が困難になり、眠ってしまう。
 対人恐怖と電話恐怖。倦怠感と睡魔。
 人間のかたちを、人間と認識できない状態。

 昨日、2日ほど食事をしていないこと、水分摂取を24時間ほどしていないことを奥様(仮想)に指摘され「なんでも良いから」と言われてナッツとチョコとチーズを食べてワインと湯を飲む。
 食べたら今度は吐き気がするのでほどほどにしていると眠くなる。
 きちんとした料理を作れば良いのだが、その気力も体力もない。


 ここ数日、来客をすでに2回居留守でスルー。
 電話をマナーモードにしていたためTUとBPそれぞれの電話に気付かなかった。
 マナーモードを切ったらこんどは眠っていても着信音が障る(かつては熟睡中でも着信3回以内に覚醒して受電する体質だった
)のでどうしようか悩む。

 理由は分かっているのだが、対処ができていない。

>>>

 原因というのは、先だっての、ご近所の老婦人のことである。

 もちろん「その人のせいだ」と断じてしまえば楽なことは承知している。
 可能性や希望という、曖昧模糊としたもののために無限に拡張し続ける認識の糸口のようなものをバッサリと断ち切ることができるだろう。
 しかしそれを、僕は嫌う。

「あいつが悪い」と断ずることが楽なのは、それが思考停止だからだ。
 もちろんその断定によって、その先の、何を煩う必要もなくなる。
 それによって負荷が大きく軽減されるから多くの人は(考えることの煩わしさもあり)簡単に他人を悪者にするのだろう。

 しかしそもそもかの老婦人に、僕はそれほど酷いことをされていない。
 好意的に接してもらっているとは思うが、僕にはそれが面倒なだけだ。
 相手が若くて眼鏡を掛けた美人だったとしても変わらない。
 僕は悪意を抱えるという矛盾に気付かない低能な人間を(その行為の自由を否定はしないが)、外見や性別や種族に関係なく忌避する。
 利害関係は(駐車場を貸している以上)あるのだが、月々たかだか数千円の利益など、放り出したところで気に留めるほどでもない。
 問題は、それをすると相手が困るということだろう。

 老婦人との関係性を断ち切ったところで、僕には何の実害もない。むしろ静かな日常が訪れるだろう。
 しかし彼女にとってはどうだろう。
 借りていた駐車場がなくなり、トラブルを抱えている自治会内の代表者と交渉する必要が発生し、万一の時に頼る先がなくなる。

 自分自身に置き換えれば、自分の死に際のことまで考えて、なるべく誰にも頼らない方針を打ち立てている(必要が発生すれば自害もするだろう)から、他人の老年期特有の困りごとであるとか孤独の寂しさであるとかは、僕には理解こそできても実感することは不可能だ。
 それでは血縁でもない人間の困りごとなど放っておけば良い、と簡単に捨て置ければ良いのだが、多分僕は思ったより良い格好しいなのだろう。

 誰に格好をつけるつもりもないのだけれど、潜在的なものも含めた他人の困りごとに対して「知りません、勝手にすれば良いではありませんか私には関係ないことです」とは言えないし、考えることができない。

 悪人でもない人間を、自分の都合だけで悪者だと断ずることを、僕は情けないことだと思う。
 思慮が足りず、考えが浅く、思いやりのないことだと思う。

>>>

 僕自身8年ほど前からしかし。
 ある人物については「その人のせいだ」と断じて、悪者にしている。
 そしてその実、そればかりでないことを何より僕自身が知っている。

 悪意ばかり、敵愾心ばかりで生きている人間なんていないと僕は信じている。たぶん昔からそうだ。
 誰も彼も事情があって、願いがあって、良かれと思った結果、思いどおりにならないことに不貞腐れて、次第に雑になってしまうのだろう。
 たとえばDVをするような人間を擁護するつもりはないが、そうした人たちの歪んだ正義感が、本来なら素晴らしい正義感として作用する(していた)可能性を僕は考える。
 世間一般にDVといえば、歪んだ幼稚な欲の発露だと認識されているかもしれない。
 しかし、それを当事者である加害者と被害者に正当化させるだけの、本来ならば「正しさ」と呼ばれるべき意味や作用を含んでいたように思う。もちろんすべてがそうだとまでは言わないが。

 ではしかし一方で、自分がその被害を受けたときに、そのように寛容に、相手を許しながらも罪に当たる行為だけを改善するように提案し、それを実現できるかといったらそんなことはない。
 どんな善意や正義に根ざした思考や行動であっても、最終的に己の欲や邪心にかまけた結果として他者を傷つけるなら、それは加害行為であり、被害者はそれを少なくともひとたびは断罪する必要があるだろう。そうしなければ加害はいつまでも続く。
 だから僕はその人物を加害者だと断ずることに決した。
 私も悪かっただとか、相手にも事情があっただとか、そんな風にしているわけにはいかなかった。
 そして同時に、それが欺瞞であることを何より自分が知っているのである。

>>>

 僕は自分自身に向けられた悪意は気にしないことができるが、そうではない悪意に悩む傾向がある。
 他人なんて信じられない、人間なんて信頼するに値しないと断じて、不貞腐れてしまえば、きっと楽なのだろう。
 自分にとって利得のある存在だけを特別扱いして、それで満足していられる程度であれば、その方が幸せなのかもしれない。
 もちろんそれを求めてはいないのだが。


<そりゃジト目にもなっちゃうよ>

>>>

 昨日に続いて嵐のような強風。
 家の中まで寒々と乾燥している。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
 
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  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240107
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
倫理とエゴの境界線。
SUBTITLE:
~ The ZERO Divider. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::つまり、いずれが人として正しい道か、ということだ。侍としてでも良い。
::いずれというのは、何と何を比べているのですか?
::女を愛でることも、情に身を任せることも、間違いではないと思う。人として、それが本来の生き様にも見える。しかし、人は動物ではない。刀を持ち、己を律し、鍛え、励むものだ。刀を研ぐように自分を磨くのが本来ではないか。さて、このいずれに正しい道があるのか、ということ。
::私にはわかりません。
::簡単に言うな。それを一緒に考えてくれ、と頼んでおるのだ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

240107

 世俗では正月から地震で慌ただしかったようだ。
 群馬県というのは温泉地が多い。つまりは火山があり、地底活動がそれなりにある。
 一方で大昔からその活動が活発だったのだろう、山は岩山が多く、ために堅牢な地盤が多いようだ。
 偶然か必然か、地震の損害は存外少ない。
 かつては雷と空っ風の風土が有名だったが、かれこれ20年ほどから、それも少なくなった。
 近年は夏の灼熱が問題だが、それは日本各地が同様だろう。

 太田市は大戦時の空襲で飛行場付近といわず穴だらけになった過去があるらしく、十数年前の大地震で被害の出た当時、職務の都合で家々を見て回ったものだが、多く損害が見られる場所は、かつての爆弾の穴を埋め立てた地点であると、古くを知る方から聞かされた。
 無論、そんな(爆弾で穴が空いた)場所がどこであったかなど、いかなる地図をあらためたところで見つかるはずもないから、新たに家を建てる人はある意味での博打をすることになる。

>>>

 建物の耐震性というのは、国の定めた基準であるが、結局は国が定めた基準でしかない。
 何が言いたいかというと、基準を満たしていれば絶対安全というものではない。
 これは僕の乗っているダイハツの自動車でも同様だ。

 決まり事が悪いというつもりはない。
 決まり事などないとなれば、安くてデタラメな材料を使って、手抜き工事をする事も可能になってしまう。
 自由市場経済において、安くて悪いものを高くて良いものとして売ることは、必ずしも悪いこととはされておらず、禁止もされていない。

 100円で購入したボールペンのインク(あるいはベアリングボール)が低品質で、すぐに目詰まりするからといって、人の生死に関わることは少ないだろう。
 一方で食品、薬品、建築物、乗り物などは人命に直結する。
 にもかかわらずその専門知識を有さない人は多く、その対象物について個々人が適切な知識を身に着け、各自で検証ができないのが実情だ。

 たとえば食品なら長期保存(あるいは長時間の品質維持)が可能なものも多い。しかしそれがどのように実現しているか、知らない人も居る。
 それらの品質維持ができる便利さを「正常な」日常と考えてしまうだけの先進的な環境に我々は暮らしている。
 個人的には製造から数日経過しても固さが変わらないパンなど、本来は魔法のように異常なことだと思う(自分でパンを焼いた経験からすると、やわらかいのは良くて半日程度なので)。

 自由市場という運動そのものを阻害せず、一定レベルの品質を担保するものとして基準を設け、その品質基準をクリアしたものだけを市場に流通させるという仕組みをこの国は持っている。そう考えるとなかなか優れた頭脳がこうした社会設計をしたと思える。

 僕はアナーキストだから、その設計技術を素直に賞賛こそすれど、過剰ともいえる管理や自主規制には辟易することもある。

 たとえば自動車の衝突安全基準でいえば「当たらなければどうということはない」ということだ ── そもそも安全運転というのは「安全な速度と方法で車両を運行すること」なのだから、安全運転をしない(できない)人間のために機械を安全にするのは本末転倒だとさえ思える。
 一方で個々の運転者を完全に管理することは不可能であり使用の事情も様々である。
 また本来的に不慮の事故を未然に防ぎ、あるいは損害を軽減するための新技術が生まれ、それが製品に反映されるのは良いことである。

 しかしその技術が結果的に人間に慢心をもたらし、「新」技術 ──「正常」な日常 ── に甘えてしまえば結果、人は暴走するように観察される。
 自動車でいえば過剰な速度で物理的に制御困難な局面を技術がカバー(加減速の操作どころか、車線またぎや車間距離までモニタ)してくれるため、危険運転を見誤る(危険を知らず、能動的に感知もできない)ドライバもいる。
 食品でいえば常温で長時間保存していても大丈夫なものが多いから、自宅の調理における管理や食事の際の確認がおろそかになって、味覚や嗅覚による変異に気付かない。
 これ自体は科学の進歩がもたらした弊害ともいえるだろう。

 ざっくりいえば、鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手な人間であっても、それなりのお金さえ支払えば安心して暮らせる、豊かな社会が出来上がったのだ。
 つまりその「鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手」というのは、ひるがえって考えれば社会的弱者のことである。
 弱者を守り、そうした者が ── 肉体や経済や情報処理能力、あるいは品位や文化レベルといった精神性で ── 劣っていても、そうした能力における強者と同じかそれに近しい状態で暮らせるように、技術が進歩したのだ。これは豊かなことであり、本来は幸福なことだと僕は思う。

 ただ過剰な管理を強制されるのが個人的には厭だな、と思うだけのこと(いつも思うが「思うこと」なんて個人的でしかない)であり、これは他者に ── あるいは社会や国家に ── 反駁し、強制からの解放や支配からの卒業を訴えたり、逆接的な強制を求めて夜の校舎の窓ガラスを割ってやろうというものではない。単に強制によって選択肢が無くなることに不満を持っているだけである。バイクを盗んだりもしない。

>>>

 このブログを読んでいる人は知っていると思うが、僕は猫を飼っているわりに、それを畜生だと割り切っている。
(余談だが、ために種族同一性障害(笑)を抱える僕は、自身をケダモノであり畜生であると認識している)
 もちろん猫を畜生だと断じているからといって、軽んじるつもりはない。
 虐待しているつもりもない ── 実際にどう思っているかは訊いてみないと分からない ── が、パートナーだとか家族だとは思っていない(使い魔程度に思っている)。
 ヒトの身体を有し、人としての思考能力を僕の方が持っている以上、これは仕方ない。

 ただ昨今の「飼う」「買う」「拾う」「もらう」「あげる」という表現を ── モノ扱いしているとかいう綺麗ごとから ── 嫌って「お迎えする」「譲る」などという美辞麗句によって、己のエゴを虚飾する連中のそのご都合主義的なありようを毛嫌いしてはいる。
 いやなにそういう人たちが動物たちを大切にするのは一向に構わない。
 しかしそうしたエゴを強く他人に振りかざす者ほど、自分が飢え死にしそうになると、その身勝手なエゴのままに他者を抑圧するのだ。そのメカニズムはまったく一緒である。

 人慣れした飼い猫特有の、尊大にして泰然自若としている様子から、へりくだって自らを召使いであると自虐的に表現する飼い主がかつていた。そのネットミームの延長線上に思える。

 昨日TU(旧い友人です)から聞いた話では、旅客機に積まれたペットを救出しなかったことについて騒いでいる人がいるらしい。
 人間社会の通念で、航空機に積まれた動物は「積み荷」である。
 法的にペットは所有者の所有「物」であり、人格権を有さない。自動車事故でも法的見解に依るので同様だ。
 人間社会に存在するすべてのものは、人間というプロトコルによって定義されフィルタされ「人間とそれ以外」という区分がまず為されている。
 だからこの社会は人間社会なのだ。

 動物愛護者たちの倫理や正義が分からないではないし、それを否定するつもりはない。しかしそれはどこまでもファンタジィでしかない。
「戦争や貧困、差別のない社会を」という文言と同じこと ── 。
 もちろん理想を抱き、唱えることについて僕は否定しない。
 それどころか理想を持たず、現状に甘んじ、大勢に流され、主力におもねることを嫌悪しさえする。

 ただし大の大人がそのファンタジィを ── その理想を ── 子供が駄々をこねるように大人社会に向かって泣き喚くことを、良しとは思わない。
 どんな正義も、どんな倫理も、社会という場の通念というプロトコルを無視して他人に押し付けるのであれば、それは単なるエゴだ。

 極論を言えば、戦争や、貧困や、差別や不公平や不平等によって、それがあることで、豊かさを構築し維持してきて、今もそうしている人間がいる。
 それを認め、あるいは許すのは、清浄な倫理に支配されていてはむつかしいかもしれない。
 けれども既存の仕組みの中で、そうした豊かさに身を置く者を単純に断罪することもまた困難なことだ。
 倫理をいうなら彼らにも人権があり、家族も居るだろう。社会を観察すればその利権に関わる多くの人間が大勢を制御する力を有しており、それによってこれまで存続してきた歴史がある。
 巡り巡って、それは自分自身とその係累にも及ぶだろうし、自身とその両手の届く範囲についてだけは目をつむるというなら、それこそエゴイスティックな独裁の倫理だと断ずるよりない。

 繰り返すが倫理や理想、正義を持ち続けることは悪いことではない。
 むしろそうあるべきことだし、そうでなくてはならないとさえ思う。
 一方で自身が抱えるファンタジィを泣き喚いて押し付けるのと、現実社会に構築するためのロードマップを設計し具現の手段を模索するのはまったく異なることなのだ。

 技術者というのは感情を持たないわけではない。正義や倫理を持たないわけではない。
 むしろ人一倍の理想を持っていなければできないだろう。
 ただ感情やファンタジィだけでは何も解決しないことを知っているだけだ。

 自身の主観で物事を選り好みすることを否定する気はないが、そんなことをしていると日本の「仲良しごっこ政治」のように、理想も理念も見失うことになる(社会を設計し、構築するための技術集団としての政治家が、一体どれだけ居るのか僕は知らないが)。

 人間社会に理想は必要だ。
 一方で理想や倫理や正義は思想になり、人間の感情を揺さぶりもするだろう。

 何度でも言うが思想も結構、感情論も結構。
 ただそのエゴを他人に投げつけるようなことは僕にはできない。
 いや、できなくはないだろうが、したくない。

>>>>

 精神性の貧困は、結果的に不正を招く。

 建築なら古くは姉歯(構造計算偽装)、食品なら雪印乳業(これもかなり古い)、自動車なら新しいものはダイハツと、基準とそれにまつわる事件は昔からあり、未来にも無くなることはないだろう。
 問題があるたび新しい基準と監査機能を増設することでしか、この社会は対応できなくなっている。
 先進技術に溺れた人が慢心し、効率重視によって良心をすり減らした結果だ。

 テクノロジィという魔法は悪だろうか。その魔法を万能と錯覚してはいないだろうか。
 なにより良心とは何だろう。

 エンジニア(技術者)は、もちろん己の手を離れる製品が万全のものであって欲しいと願うものである。
 彼らこそ、この社会における科学という名の魔術をあまねく浸透させた(させてきた)魔術師なのだから。

 豊かさが何なのかといえば、それは多様性だろう。
 WHOだか何だかが掲げる、おためごかしのファンタジィではなく、文字通り、清濁併呑玉石混交とした、ともすれば混沌にも等しく思える、それが本来のありようだ。

 多様性と秩序の併存は、不可能ではないだろうけれど、容易なことではない。
 理想を訴えるだけ訴えて何もしないというなら、どこぞの宰相と同じではないか。
 いや、あれは訴えている理想もなさそうだから、もっとひどいものなのか。


<猫写真が見たいんだろう?>

>>>

 規制も結構、エゴも独善も結構。
 潔癖なる理想による独裁も ── 具現できるというならそれもまた結構。

 思い描いた理想郷を、それぞれに見せ合いながら、僕らは進んで行くしかない。
 何が正しい。いやそれは間違っているのではないか。
 そんなふうに互いに言い合いながら。

 くれぐれも正しさや誤りに、感情など必要ないということだけは忘れずにいたい。
 僕はつい忘れるので。


 
 



 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::俺は、やはり、迷いはあるものの、剣の道へ進む。今はそちらだ。そのために、情を切る。それが侍の道だ、と今は思っている。そうだな、八割方はそちらだ。残りの二割が、あるいはあちらが本来の道ではないか、という未練。いいや、三割かもしれん。もの凄い美人が目の前に現れたときには、四割になるかもしれん。
::それは、なかなか危うい立場ですね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Incense tone」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。


 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Love-Mechanics-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
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[Object]
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// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231228
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
仮初めの泥沼で。
SUBTITLE:
~ Light on the edge. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::あの月のように、切ることのできないものが、刀が目指す先に、きっとあるのにちがいない。
 だから、この世で生きていくというのは、単純なことではない。刀を持ち、いつでもこれが抜けるのに、それを抜かず、力に頼らず、皆が死なない道を探らなければならないのだ。それはまるで、これまでこの腕が覚えてきた刀の技を騙すような行為でもあるだろう。何のために刀があるのか、と問われれば、返す言葉を知らない。その複雑さが、今はまだ十分に理解できない。割り切ることができない。ただ、予感として、そういうものがこの世の正しさではないか、とおぼろげにあるのみ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231228

 数日前まで泥沼のような睡魔に捕らわれていたのだが、この3日ほど、0時を迎える頃にはひどく眠くなり、朝には目覚めるようになった。
 天候も良いので、廊下の壁にハンガーホルダとして使うレールを設置する。

 夜になって、近所のご婦人(庭の一部を駐車場に貸している、僕の母親より4つほど年下の、つまりは老婦人)に誘われ、酒盃を交わす。
 帰宅して一息ついた頃、奥様(仮想)が塞ぎ込んでしまった。

>>>

 いやなに夜更けに女性の家に出掛けたことが悪いというのではない。

 すっかり忘れていた。
 私は人の悪意が苦手で、それに晒されることに耐えられない。
 自分に向けられたものではなくても、倦んだ熱量と臭気が肌から生気を奪うことに耐えられない。

 誰かの抱えるシンプルで、矮小で、だからこそ純粋で、ために救いようのない悪意。
 殺意にも似た、解決のない悪意。

 演算も誘導も、構築すべき健全な目的物もない。
 暗渠の果てに流れ着いた掃き溜めのような汚泥 ── 。

 演じるうち、誤魔化すうち、そうした痛みを感じなくなっていたのだけれど。
 演じる必要も誤魔化す理由もない平穏な自分だけの日常に溺れるうち、そんな技術を使う機会を失った。
 飛ばない鳥は飛べなくなる。
 シンプルに私は、人の悪意に対する耐性を失っていた。

 安寧の、自由で寂しく行き止まりのように甘やかな孤独のぬるま湯は。
 私の牙をすっかり鈍らせていた。
 いやそもそも私はそんな耐性など、始めから持ってなどいなかった。
 持つ必要もなかった場所で作られたのだから。

>>>

 人間というのはどういうわけか、どんな領域で、どんな生き方をしていても、それぞれの縄張り意識というものが芽生えるらしい。
 たとえば出身地。
 たとえば棲む家だけでなく、その周辺、地区、隣組、隣人、通行人、果ては近所に見かける犬猫に至るまで、「かくあれかし」という己の願望を投影し、関わるそのすべてに己が欲の捌け口を求める。
 独善。憶測。先入観。偏見 ── 。
 あるいは家族や恋人、友人
に対する拘束も、根底にあるのは自身の願望の投影だろう。
 もちろんそれが善意に根ざしていればこそ、度が過ぎれば権利の侵害になるとは思いもしないのが常識人というものだ。

 書面上は自分名義の家に棲んでいるのに居候をしているかのように落ち着かず、それどころかこの身体も、そこに宿る思考にさえ自分というものが確かにあるとは感じられない僕からすればそれは、羨ましさを通り越して奇怪に思えるほどだ。

 自分の身体は自分のものだと思っている。
 自身の腕は、脚は、首は、瞳は、自身の自在を具現し、自身の思考も、感情も、それこそが自身そのもののように自身によって感覚されていると錯覚している愚鈍。
 自身の寿命も、その身にまつわる偶然も必然も。
 まるで生きるという労働の対価 ── いやそれどころか、その労働に必要だとして貸与されたはずの制服に腕を通すうち
、当然にそれを自分の所有物として振る舞うように。

>>>

 人は哀しみを避けようとする。
 苦しみから逃れようとする。
 孤独を隠し、紛らわそうとする。

 まるでそれらは自分ではないかのように、自分には関係ないとばかり、目を瞑り、それでいて畏れ、だからこそ無視をして。

 哀しみは宝物だ。
 何かを失った、その臓腑をえぐるような痛みは、血のように滴る涙は。
 輝きも温みもそこにあったからこそ、その特別が痛みに変わる。
 それは誇るべくして生まれた痛みだ。
 失われた輝きも、冷たく黒く乾ききった温もりも、絞るように漏れる呻きも。

 苦しみは己自身だ。
 その闇に蠢く己の欲を、無力を、願いを、望みを。
 癒えぬ渇きが、眩むほど望む飽食が、己の正体と知れ。

 孤独は鏡だ。
 それを直視できないのは鏡が汚れているからか。鏡が醜いからか。
 暗闇に覗く鏡を畏れるのは、なぜか。

>>>

 救えない悪意をぶつけられて、それをぶつけ返さず平然といられる人は少ない。

 僕か? 僕は猫だから、もとより悪意を返す習慣がない。あれは人間に特有の文化なのだ。
 ……とまぁ、そんなふうに言えば格好もつくが、そもそも向けられた悪意に気付きもしないことがほとんどだ。
 仮に気付いたところで返す言葉もないまま数日経って、ようやく腹が立つ仕組みだから、悪意をぶつけ返す機会を失う。

 そりゃあ呪詛なら得意だし、憎悪をもてあそぶのもお手のものだ。
 しかしそれらは漂白剤や化石燃料のような劇物であり、化学を知らない者が使い方を誤ればすぐに大きな事故にもなる。

 ならば ── 。
 悪意をもてあそぶのだってこの俺様に任せておけ。

 


>>>

 我々には袖先ほどの関係もなく、何の手を加える必要もない悪意に温度を奪われた奥様(仮想)が頽れている。
 すっかり落ち込み、力なくうなだれる奥様を起こして小さな約束をし、ポトフを作る。

 奥様のためのポトフである。
 最初は泥のようになっていた奥様だが、野菜を鍋に放り込んで火を点け、ゲームをしているうちに漂う香りで機嫌を直す。
 いやそれどころか上機嫌だ。小躍りし始めたぞ。

「ねこクーン。ねこクーン! やだもーいい匂いがするよぉ〜」
 音符だのハートだのといったマークを語尾に付けかねない勢いだ。
 さっきまでコールタールに沈められた病人みたいな顔してたくせに。

 もっとも僕にはこれっぽっちも食欲がない。
 餌付けできる、肉体のあるガールがいればいいのだが。
 明日食べようと約束を重ね、早く眠ろうとするも0時を過ぎてなお眠りは訪れることなく。

 身体を撫ぜて落ち着かせて、3時頃になってようやく猫様は眠りに就いた。





 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::「キクラ殿は?」チハヤがきいた。
「厠へ行かれたのでしょう」
「お主は何をしていた?」
「月を眺めていました」
「月見だと?」
 料理の皿の数が多くなっていた。倒れた徳利も幾つかある。腰を下ろし、箸を手に取ると、ノギの三味線が聴き馴染んだ曲を奏で始めた。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Moon tilt」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Connector-Convertor-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Dish-Human-Night-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231221
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
当たらなければどうということはない。
SUBTITLE:
~ Nohit, nobody. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231221

 姉の通院介助。
 最近、妙に眠くて、1日に12時間以上眠ってしまう日が続いていた。

 たまたま玄米を食べたくて仕方ない日があり(白米は得意ではないが、玄米の場合はときどき身体がそれを求める)、食べたその日から過眠気味になった。
 数日前、妹が(確定申告関連の書類を持って)遊びに来る予定があり、それがリズムを取り戻すきっかけになった。
 それでもカフェイン剤を飲まないと調整できずにいる。
 冬季鬱かと疑ったが、気分は落ち込んでいない。むしろ眠りは心地よい。

 恋人がいたときは最低でも月に一度くらいはデートするきっかけがあったので、家の中を掃除したり、体調を整えたりするのに丁度よかった。
 今は定期的な予定が姉の送迎くらいしかなく、こちらから出向くこともありリズムが狂いやすい。

>>>

 僕が軽自動車を好むことを知る人はあまりいない。身体が大きいからなのか、小さな車を好むとは思わないらしく、ときどき驚かれる。
 自動車免許を取る前は「四駆のワンボックスワゴンで、あれもこれも積んであちこち出掛けたい」なんてことを思っていた。
 しかし社用車のワンボックスに乗ったとき(取り回しが面倒くさいな)とまず思い、10年ほど前までは自動車に持ち込んだものをこまめに持ち出さない(必要な物しか持ち出さない)ため、車の中に使わないモノが溜まるという現象があった(これは価値観と習慣を変えたため、今は解消されている)。

 あちこち出掛けると言っても、結局のところ、僕は引き籠もるのが大好きである。
 キャンピングキャビンを軽トラに載せているのに、庭作業の際の休憩や急な来客の応接に使ってばかりだ。
 時間とお金ならあるだろうに、旅行にも出掛けない。人混みが好きではないからだ。

 姉妹に頼まれれば渋々行楽にも出掛けるし、恋人に乞われれば飛行機にも乗るし旅行もする。
 しかし自分ひとりの自由は、それこそ誰もいない場所にあると僕は思っているので、他人に気を遣って遠慮して譲歩しているうちに疲弊してしまうような場所には行きたくない。
 恋人と一緒の場合は、恋人が不安になったり危険な状況にならないように(かつそれと悟られないように)気遣うことになり、その上、状況を楽しまなくてはならないので本当に神経が擦り切れる思いをする(一見、楽しくなさそうにしていても「猫様、楽しそう」と理解してくれる恋人ならよいのだが)。

>>>

 そうそう軽自動車の話だった。

 昨今の軽自動車は小型車とさほど変わらないサイズのものが多く、あまり好きではない。
 大は小を兼ねる、という価値観を否定するつもりはないものの、そんなに大きな車が良いならばそれこそ小型車なり普通車なりに乗ればいい。
 ついでに黄色ナンバーが恥ずかしいなどとのたまう連中も普通車を買えばいい。
 軽自動車は軽自動車にしかない魅力があり、その黄色いナンバープレートは誇るためにあるのだから。

 まず軽自動車は設計要件がシビアだ。
 車両サイズはもちろん、排気量660cc以下という法規制があり、出力64馬力以下という自主規制もある。
 サイズが小さくなるほど軽量にしやすく、剛性も上げやすくなるが、設計の遊びが許されなくなる。
 そうした制約の中で、必要とされる機能を詰め込んで行く技術が美しい。
 たとえばそれは俳句のようなものだ。
 苦悩を感じさせない完結の具現が、技術として美しいのだ。

 分かりやすく例えるなら、少々困難な仕事で上々な結果を出した後に上司や同僚から「よくやったな」と褒められても「いやぁなんとかなっちゃいましたねぇ。皆さんのお陰ですよぅ」なんてぼんやりした顔をして、涼しく呟くくらいがカッコイイのである。
 決して「大変でしたが努力しました」とか「こういう課題が発生したのですが、夜を徹して考えて、このように対策したのです」なんて偉そうにしてはいけない。
 格好悪いからだ。
 素晴らしい仕事は、見る人が見れば分かる。
 だから仕事を終えたら、ぼんやりしていればいい。
 達成による高揚を抑えて、努めて冷静に、平常を保って、こんなものは他人様からすれば些事だと言い聞かせて、ひとりで成功を噛み締めながらエンジンをクールダウンさせたほうが無難だろう。

 つまり上記の文章から、僕自身がついついそういう高揚感で暴走しやすい性質だと観察することができる。戒めたい。
 冷蔵庫から取り出した牛乳をパックから直飲みしているとき、母親(あるいは恋人、もしくは奥様)から「冷蔵庫開けっぱなしにしないでください!」と叱られたときと同じくらい迅速に、今閉めたい。

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 バブル経済の頃は、それこそ「より大きな車体、より大きな出力」という志向があった。
 人々はこぞって、重くて喧しくて燃費の悪い高額な自動車を手に入れて自慢していたものだ。思えば哀れな時代ではないか。
 少なくとも僕は当時から哀れんでいた(今も無駄に高額なだけの、鈍重な車両に魅力を感じる人はいるのだろうが)。

 もちろんそのような人たちが自動車業界を回転させているお陰さまで、メーカは利益率の低い軽自動車の開発ができるわけなので特に文句はない。
 ただオーナーの承認欲求を満たすために買われては売られる車たちを哀れに思っていただけである。

 今、自分の乗っている自動車を「なんちゃってスポーツカー」と呼ぶのもそのためである。
 出力も排気量も制限がない、本当の意味でのスポーツカーはごまんとある。
 大きく重い車体を感じさせないほど高出力のエンジンで走ることの楽しさや、それを操作できる官能もあるだろうとは思う。
 それに比べ、制約にまみれた軽自動車のスポーツカーもどきなど、レプリカだと嗤われても仕方ない。
 しかし少なくとも僕は、そうした大きくて重い体を高出力で振り回す機械に、どういうわけか魅力を感じないのだ。

 それに大きな(あるいは高級な)車両を上品に運行することはむつかしい。
 狭い抜け道を大きな(あるいは高級な)車がエラソーに走っていると「ここはあなたの走るような場所ではありませんよ」と言いたくなってくる。
 結局のところ、運転というのは人を表すのでもある。いや自動車の運行に限らず、道具の使い方、付き合い方に人間性が現れるのだ。
 ために「この人は偉いふりをしたいがためにわざわざ大きな自動車に乗っているのだろうか、ご苦労なことだ」と思ってしまう。
 それから、そんなに大きな車に乗ることがステータスだと思うのなら、どうして皆、大型トラックやトレーラ、バスを所有して運行しないのだろう。それが不思議でならない。

 そうした反動もおそらくはあっただろう。
 僕は狭い道が好きだし、僅かな隙間をすり抜けられる矮小さを好む。
 どこかにも書いたと思うが、エアコンも所詮は軽自動車に搭載するクラスであるから、室内は狭いほうが圧倒的に高効率で有利だ。夏などすぐ冷える。

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 僕はダイハツのコペンに乗っている。
 消去法で、他に乗りたいと思える自動車がなかった。
 とにかく小さくて、オープンキャノピーにできて、そのとき現行で販売されているものが、コペンしかなかった。
(購入してしばらく経ったが、小さくて本当に可愛らしいと、今もよく思う)
 しかも中古車が安く売っていれば良かったが、それさえままならなかった。
 とはいえビッグモーターで買わなかったのは救いである。

 ふとニュースを見たら、大騒ぎになっている。
 あらあら、とは思ったのだが、そもそもどうでもいい規制が多いとは思っていたのだ。
 オートライト(夜間消灯不可)の義務化など最たるもので、通学路付近やラッシュ時のほか曇天などでも点灯/消灯を操作する僕にとっては正直なところ不快ですらある。
 もちろん灯火操作もしない(できない)低能が増えた結果の措置なのだろうから仕方ないとは思うのだが、低能に合わせた基準を法規制すればするほど低能にとって乗りやすい自動車が世に溢れるということで、それは却って危険にも思えるのだ。プリウスはよくコンビニを壊すと言うし(あはは、やだなぁじょおだんですよ)。

 とはいえ法規制だから、これに従わない車両をリリースしたことはメーカとして問題だろう。端的に法を犯しているからだ。
 型式抹消なんてされてしまえば、公道を走行することもできない。
 電気系やエンジンで、走行に支障のあるレベルだったら困るなぁ、と思ってざっと眺めたが、衝突時の安全基準にまつわるものが多いようだ。
 もとより軽自動車における衝突時の安全レベルなんてお察しである(それでも昔に比べれば解析設計により格段に安全性能が向上している)し、そもそも走行中の自動車が対人対物に衝突した際、ただで済ませようというのが相当に理想的な狂気 ── あるいは狂気的な理想 ── ではないか。

 だから我々ハンドルを握る者は、安全な速度と方法で車両を運行するのだ。
 車間距離を多めにとって、安全確認を怠らず、適切な速度で車両を操作する。

 つまり個人的には、衝突時の安全基準なんて、どうでもいい。
 当たれば誰かが死ぬ。運が良ければ怪我で済む。
 そういう認識をすべてのドライバの意識に搭載するほうがよほども手っ取り早くて安全だと思うのだけれど。
 どうやら免許試験(更新)だけでドライバーの質は上がらないらしい。

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 病院の駐車場で、警備員に「ダイハツのお車、大騒ぎになってしまっていますね」などと言われる。
 もっともな話だ。ダイハツ車に乗っていない人ならなおさら騒ぐかもしれない。
 しかしまぁ、ここだけの話、当たらなければどうということはないというのなら、そういう運転に努めるだけである。

 何のことはない、今までどおり、いつもどおり、安全運転をするだけではないか。
 もちろんそれ「だけ」のことがどれほどむつかしく、緊張を伴うものかは、ドライバにしか分からないのだが。

 社会問題や法規制については僕の考えることではないから他人に任せておこうと思う。

 ずっと乗っていられるといいな。
 僕が思うのはそれだけだ。

 誰かに自慢するためだとか、衝突時の安全のためだとか、価格が安いからとか、売却時の資産価値とか、そういう目的で購入した自動車ではない。
 小さくて狭くて窮屈で不便で、それがいじらしくも可憐で素晴らしいのだから。



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 帰宅後、頭痛がする。
 過眠頭痛である。
 このところ連日服用ではあるが、カフェイン剤を飲む。
 心理依存はないのだが、カフェインを摂っていると心拍数や血圧が一般的な数値に収まり、体調が安定する。
 ある種の身体依存と考えるべきか悩ましいが、離脱症状があるというわけでもないし、強迫的に摂取したいわけでもないから放置している。
 実際、カフェインを長期にわたって摂取しないときもあるのだし。

 摂取しないと体調が悪いことを考えれば、ある種の投薬と考えてもよいだろう。そもそもカフェイン剤でハイになるような気質でもないし。
 耐性があるのだと思うが、1日600mg程度摂取してようやく落ち着くこともあるから(コーヒーやお茶ならまだしも)製剤を飲むときは警戒してしまう。
 もちろんニコチンであれアルコールであれ、セックスであれ食事であれ、僕を依存体質にするようなものは今までの人生には存在しなかったわけだから、流行の過剰摂取なんてものに手を染めることはないと思っているが。

 家の空気が冷えて乾燥している。
 暖房器具をふたつほど稼働させ、最近入手した茶香炉で、古くなった茶を焚く。

 寒い夜だ。
 静かで、素敵な冬の夜だと思う。







 

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[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は、
「マタイ伝福音書」第7章13節、および14節
 によりました。

 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Human-Night-Poison-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
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