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// TimeLine:240226
// NOTE:
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TITLE:
仕事納め。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

【今年の仕事がだいたい終わった話】
 そのようなわけで2週間ほども独りで過ごしていると回復する。
 何の話かというと、過剰な(あるいは望まない)コミュニケーションによって気分が塞いだ場合にどうするか、ということについてだ。

 もっとも会社員の頃は2週間も周囲からの情報を完全に遮断することはできなかった。当たり前である。
 お盆休みや正月休みでも、長くて10日ほど。
 日常生活のよしなしごともあれば、恋人がデートしに来る(僕は基本的に外出を好まないので、自宅デートになることが多い)こともある。

 今の僕にはそういったものがない。
 介護対象者は姉一人だけで、月に4日ほどの拘束を受けるが、叔父と叔母の頃に比べれば苦にもならない。
 僕の勤務先は自宅であり「就労したなぁ」と感じる作業は年間、延べ60時間程度だろう。
 ちなみに今年の主要な作業の6割が先週に完了した(熱中症のために停滞した、昨年の仕事のツケがあるが)。
 家族はいないし、アヲは家出したまま、かれこれ1年近く帰らない。

>>>

【納税の自由】
 税金を払いたくない、という人が多いと聞くが、僕にはそれが少々不思議ではある。
 国会議員(とくに現在のそれ)を「国賊」と呼ぶ私ではあるが、税金は払いたいと思っている。
 お金がない頃は払いたくても払えなかったので、なおさらそう思う ── 未だに電気や水道の支払いを忘れたりするが、昨年は赤紙をもらった回数は一度だけなので「成長しましたね」と奥様(仮想)から褒められた。

 もちろん国賊どもに報酬(その内に理解不能な謎報酬も含まれる)を渡していると思うと気分が悪いのは事実だろう。
 国の実情を無視した公共事業や、それに紐付いた(俗にお友達と呼ばれる)民間企業に無駄な支払いが発生していると考えると、どうにも歯痒いという気持ちも分かる。
 オリンピックの時のそれも一部は表出したようだが、国家が主導した廉(かど)により政府関係者が逮捕されたと聞いた覚えはない ── ニュースもオリンピックも興味がないので見ていないから、知らないだけかもしれないが。

 たとえばだが、家に入った泥棒に「盗んでくださいましてありがとうございます」と報酬を渡すとしたら、そうとうイカれていることになる。
 ために国賊を嫌うというのは至極当然といえる。
 しかし国家が提供するサービスは、広く全国の人々のためになるものだ(国外に支援と称して投げ銭もしているようですが)。
 彼らは国賊だろう(唐突に確証もなく断定しましたことについて、この場を借りてお詫び申し上げます)けれど、それでも税金を払うだけで、僕に変わって誰かが予算配分を行い、その使い道についてスピード感を持って検討し、議論を加速させ、迅速に決定し、いちおう決まった後手ではあるが丁寧に説明してくれる(と、誰かが言っていた気がする)わけである ── 何だか重粒子加速器みたいな事になっているが大丈夫だろうか。
 まぁ真面目な話、道路が整備されたり、まともな公共事業や福祉が維持されたりといった具合に、広く一般の人のためにというのはもちろん、社会の弱者により手厚いサービスが提供されるのはみんなが納税しているのみならず、それが(それなりに)きちんと配分されるシステムが出来上がっているおかげである。
 もちろんそもそもの仕組み/枠組みはもちろん、その判断基準や配分経路などに改善の余地があるのは疑いようのない事実だろうが、一度システムをシャットダウンして組み直してからリブート、という具合にはいかず、運用しながら改善しなくてはならないのが現実世界のむつかしいところではあるのだが。

 なので特定の事業について寄付をするのが悪いとは思わないが、それは本来、国の仕事である。
 よって、なけなしの小銭を寄付するようなことは、褒められることに違いはないのだろうが、国が無能だからこそそんな必要に迫られるのかもしれないと、ふと考えてしまう。
 自身の善意(あるいはその立証)を購入するために寄付するのは仕方ないが、低所得者層は「いつかオカネモチーになったらそうしよう」と思って放っておけばよいし、高所得者層がいくら寄付したところでそれは当然のことのように思える。なにせ普通に暮らしていてもお金が余る人はいるのだ。
「消費税率を上げたところで、高所得者の方がより高額な支出をするのだから、奨励されて然るべき」と言っていた人がいたように思うが、直間比率とか応能的公平という言葉を学生(たぶん小学校だったと思う)の頃に習わなかったのかもしれない。僕も習わなかったので何ともいえないが。

 いずれにしても税金を払えば、世のため人のために何かしていることになる。
 職務を持ったり権能を有したりして、職責を果たすことは、だから輪を掛けて素晴らしいということになる。
 おまえにも花マル点けてやろうかこのやろー。

 僕は職責らしい職責はないので、職務らしい職務もない。
 誰かから仕事を依頼されても、昨年からは9割方断るようにしている。
 なのでときどき「誰の役にも、社会のためにもならないのだよなぁ」と己を省みる機会がある。
 先に書いた通り、僕はほとんどの組織に加入していないし、就労らしい就労によって役務を提供しているわけでもない。
 家族もいないし飼い猫に家出もされている。

 かつて払えなかったときは税金を年単位で滞納したが、払いたくない場合も同様に、滞納し続ける方法はある。
 節税も脱税もせず、ただ払わないという手法だ。
 もちろん最終的には延滞・加重分も含めて財産を差押さえられてしまうと思うが、それも含めて「税金泥棒どもめ、取りたければ勝手にしろ」という態度を貫くラケンローな姿勢もあるだろう。
 それに差し押さえるほどの財産も持たない(賃金の発生する就労もしていない)人の場合、手の出しようもないかも知れない。
 まぁそこまでの反骨精神があるなら、もっと他のことで活躍できると思うが。



>>>

【去年くらいから永遠の百歳です】
 百の齢を(昨年あたりに)超えたので、猫としては妖怪の部類に到達したといえる(何を言っているのか分からない人は無視してください)。

 なるほどこのくらいの年齢にもなると、生きているだけで素晴らしいと周囲から褒めそやされることも致し方ないのかと思う。
 実のところ、こうして(実態は異なるが、体感としては)無職のまま過ごすことも、やがて慣れるのだと分かった。
 当初(2年ほど)は本当に落ち着かなかった。
 やがて職務を持たぬがゆえに職責がなく、世俗に何らの公益をもたらしているわけでもないことに、微かな後ろめたさを持つようになった。
 誰かのために何かをしていたい、という欲求はしかし、納税によって満たせることに気が付いた。つまりすでに満たしているのだ。

 それに(ほぼ)不労とはいえ、もちろん誰にタカって生きているわけでもないのだから、悪いことをしているのではない。
 ただ働かないのに生活できていることについて、自分からそれを望み、運良くそれを実現したにもかかわらず、実感は薄い。
 それはそうだろう。
「何かをしている」のではなく「何もしていない」という状況を望み、実現したということは、空白を求めて空白を作ったことに等しい。
 多くの人は空白がまずあり、それを埋める「何か」を求めるのではないか。
 僕の場合、まず空白を求める傾向にあると思えばいいのかもしれない。

 たとえばフォロワを求めるクリエイタ、経済を求めるビジネスパーソン、友人や知人や恋人を求める孤独な人がいる一方で、僕はフォロワのような存在は邪魔になると考え、経済を追求することは人間を見失う可能性を含むために忌避し、友人や知人や恋人からも一定以上の距離を取って孤独を保守する。
 その空白が自由だ。
 何かを入れてもいいし、そのままの空白でも構わない。
 誰かのために使ってもいいし、自分のために使ってもいい。
 もちろん空白のまま持ち腐れたところで問題はない。

 あるいは空白を求めるにも、空白を作るための「何か」が必要なことはある。
 たとえばTVゲームをする自由を作るために就労し、機材を購入したり生活の安定を確立したり心身の健康を維持したりといった具合に。
 つまりそれは「空白」のための骨組み、枠組みを作ることだといえる。
 よって僕がしていることは他の多くの人と変わらないようにも思える。
 皆、自分の抱える空白を埋める好ましい何かを求めて、それを実現しようとしている。
 実現しようともしないで望んでいるなら、まぁ、ご自由にとしか言いようがないが。

 僕はただ空白が欲しいだけなのだから、無欲といえば無欲だし、自堕落で無気力と考えることも可能だろう。
 空白を空白で埋めようとする動機は分かりにくいかもしれないが「自分で決定できる」という自由は「何も決定されていない」という未定によって確立されている。
 そう考えると、無益に流れる空白の日々も、まぁ豊かなものなのかもしれないと思える。
 そもそも「昼寝に忙しい」「ゲームに忙しい」などと考えるようなイキモノなのだから、何を思い付いて何をしようとも、あるいは何を面倒に思って放置しようとも、空白の内容を選択的に決定しているといえる。
 自分の自堕落を責める必要はないのだ(自分に対する言い訳をしているように思えます)。

 姉妹をはじめ、周囲の人々は、僕がそうして静かに、しかし自由に生きていることをそのまま受け入れてくれている。
 妬んだりする者はないし、悪し様に言う者もない。
 あるいは「あれほどまで自由で孤独なのは、寂しかろう」と哀れんでくれているのかもしれない(そんなはずはないと思うが)。
 まるで宇宙空間のように摩擦や抵抗が少ない。

 もちろんヴァーチャルな空間ではないので、フィジカルな制限、不自由はある。
 たとえば望んだわけでもないのに日本人なので日本国政府に納税しなくてはならず、その一部が国賊どもの報酬になるとか、まぁ、そういった具合に。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
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// TimeLine:240212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
コミュニケーション・キャパシティ。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

 昔から、電話が苦手である。嫌いと言ってもいい。
 なぜといって、電話は暴力的である。
 こちらの状況に対して、まったくお構いなしに掛かってきて、作業や思考や睡眠を、音や振動によって妨害する。
 受電したら受電したで、今度はいつ終わると決まっているわけでもない会話に付き合う必要がある。

 すぐ終わるものならまだ良い。ついでに要件が明確ならなお良い。
 そういう意味で、仕事の電話は比較的気軽に受けられるようにもなった。が、今の僕は無職だ。
 プライベートだとしても「話を聞いて」とか「愚痴なんだけど」とか、そういうお断りが最初にあれば、容易に心構えができる。
 想い人なら要件が不明であっても、20分程度までは嬉しく感じることさえある。

 それでも電話は暴力的だと感じる。
 携帯電話の普及に伴い「今、通話は問題ありませんか」と確認するのが一応のマナーになってはいるが、固定電話しかなかった時代に、会社組織の「3コール以内に受電する」というルールを厳守していたり、それに慣れきっていた人間は、すぐに出なかったり、後から折り返すと文句を言われることがある。
 これはたとえば道を歩いていて、いきなり知らない人に殴られた挙げ句「どこ見て歩いているんだ」と罵声を浴びるようなものだと感じる。
 こちらはこちらの都合で歩いていて、ついでに道路でいきなり殴る方がおかしいと思うのだけれど、電話についてはその暴力性を感じない人も多いようなので、仕方ないと思って長らく我慢していた。

 受電する側になるのが苦痛であれば、同じ価値観によって、他人に架電するのも苦痛だった。
 業務上必要であるにせよ、上記の価値観を持つ僕からすれば、その人それぞれの理由や都合で歩いている人を路上でいきなり殴るような行為に感じられていたからだ。
 はっきり言って通り魔に等しい。

 なので営業職に就いて2年近くは ── すでに会社員としての経験は5年以上過ぎていたのに ── 電話のやり取りだけでずいぶんと心を削られた。
 それでもやがて見ず知らずの人にいきなり電話を掛けたり、突然訪問できるようになったのは「まったく気にならない」という人たちの価値観を学んで、それをもとに一定の出力ができる人格を構築したからである。おかげで仕事はずいぶんしやすくなった。今は無職だがな。
 最終的には365日、24時間、会社からの電話をきっちりと(なぜか僕の電話に)転送されることになってしまったので、慣れていなかったら大変なことになっていたと思う。

>>>

 古くからの友人であるTUは、僕のこうした現象について「青猫のコミュニケーション・キャパシティはめんどくさい」と評している。
 特定の個人に対して一定以上の濃度でコミュニケーションが続くと、コップに水を溜めるようにストレスが蓄積し、ひとたび溢れようものなら当面はその個人に対して拒絶反応を示す。
 しかもそのコップのサイズは一定ではなく、相手ごと、その日の気分や体調でも異なり、他の人のコップのキャパが溢れそうになっていることで「とばっちり」を受けることもあるらしい。
 べつに暴力を振るうわけではないのだが、おそらく機嫌や態度が悪い ──塞ぐ傾向は自覚しているので、外部からはそのように観察される ── のだろうと想像する。
 ために会話をしながら、そうしたコンディションを探る必要があり、それは僕の持つ面倒くささのひとつらしい。

 対処法は、しばらく放置しておくこと。
 僕は自分のことなので面倒だとは感じないし、他人の多くは僕からのコミュニケーションを喜ぶ傾向にある ── そもそも僕から連絡すること自体かなりレアケースな ── ので気にしていないが。
 ただ僕の微かな声や表情を見逃さない人が多いことについて、僕自身はそうした人々の気遣いに驚嘆しつつ感謝している。
 孤独の羊水の中で勝手に回復するイキモノにあって、外力は傷に障る。
 もちろんそうでない人が多いのも知っているが、果たして自力ではなく他力で回復するイキモノなどいるのだろうか。

 それでも上述のTUや(別の旧い友人である)BPは、基本的にいきなり電話を掛けてくる。弟子も姉もそうである。
 なので僕は昼寝に忙しかったり、ゲームで手を離せないときや単に気乗りしないとき、電話を無視する。
 彼らはそれについて承知の上で電話をしてくる。もはやストーカ扱いしても差し支えあるまい。

 妹と恋人だけは例外的に、必ず「電話しても大丈夫?」とメールしてくる。
 すぐに、という場合もあれば「明日の14時頃、平気?」と予約されることもある。
「今すぐ」というリクエストに即応できない場合、メールをスルーすることになるので電話をしないことになるが、それはそれで許されている。
 おそらく妹の場合は、僕が長い間そのように確認していたため、そのルールに合わせてくれているものと思う。あるいは妹も電話嫌いなのかもしれない。

 恋人の場合も、そういう人が淘汰されているものと思う。
 結果として、数年メールをしないとか、数年電話もしないとか、数年デートもしていないとか、もはや自然消滅したと言われたところで否定できない状況が発生する。
 果たして本当に恋人と呼んでもいいのだろうか。
 しかし単なる友人ではなさそうだし、知り合いというほど浅い関係ではなかったような気もする。
 いやそれともかつて肌を重ねたというだけで、今は他人なのだろうか。
 そんなふうに考えてしまうから、こちらからは滅多なことでは連絡することができない。
 すると不意にメールが来たりする。突然、一緒にお風呂に入ろうよぅ。と誘われたりする。
 関係性が分からないのだが、そもそも互いの関係に名称や区分を必要としない者同士なのだろうと分析している。

>>>

 いずれにしても、ただの知り合いからのメールや電話なんて、僕だったらそれこそ無視することさえ煩わしい。
 そういうことも相まって、連絡しづらいのではある。
 ほとんどの用件は一人で済んでしまうし、他人の趣味なんて(恋人であっても)まったく分からないし、外食も物見遊山もそれをきちんと味わおうと思えば、一人の方が良い。
 自分以外の人間がいれば、それがどれほど近しい間柄であっても気を遣う。気を遣えば、そのぶん気が散ってしまう。
 ついでに僕は(人からすると異様なくらい)孤独に耐性がある。
 むしろ一定期間で例の「めんどくさいコミュニケーション・キャパシティ」が溢れてしまって、誰かと言葉を交わすことさえ苦痛になってしまう。

 ために誰か(友人であれ恋人であれ)と何か(食事だろうと、ただの茶飲み話だろうと、セックスだろうと)をするのは、その人と、それをしたいから、という理由の時だけなのだけれど、まぁこういうのは分からない人には分からないのかもしれない。
 ゲームをしながら食事をすると両方がおろそかになる。
 映像や音声や音楽は深く記憶に刻まれず、内容は薄れ、料理の味も香りもきちんと味わえず、それぞれの煩わしさだけが増して感じられる。
 子供の頃はそんなに感じなかったが、大人になって処理能力が低下したのか、あるいは感覚できるレンジが広がったか、その両方なのだろう。


>>>

 人と一緒に何かをすることも同様、その誰かと一緒にいることがコンテンツ(目的)なのか、一緒にする何らかの行為や対象がコンテンツなのか、ということになる。
 極端な話、前者であれば「一緒にいるのが誰か」というのが要件のため何をするのでも問題ないことになるし、後者であれば誰と一緒だろうが(一人でも)構わない、ということになる。

 配分はもちろんあるだろうし、両方が要件であることもあるだろう。
 しかし一方に集中しているときと比べると、どうしても感覚されるものは雑になる。
 僕が誰かと一緒に暮らすのに向かないのは、そういう部分もあるのだろう。

 生活というのは、いかなることにもそうした配分をして過度な集中を避けることにあるのだろうし、そうする中で、なおざりになる部分をそれぞれが互いに許し、補うことでもあるのだろうから。
 恋愛と結婚は違う、というのもそういうことではないか。
 身体がひとつである以上、あれにもこれにも十全に集中して全力であたるということは不可能だ。

 もちろん僕は自分が他人から雑に扱われることを嫌うし、相手も同様の理由や感覚を持っている前提で行動してしまう。当たり前のことである。
 すると雑に扱わないために、そもそも安易に誘わない、ということになる。

 しかし外部からはその消極性が、自身に対して何も求められていない、という認識になる(人もいる)ようだ。
 そもそもそんなに素晴らしいコンテンツを持っているなら必ず誘われると思うのだが、皆、そんなに自分(に含まれるコンテンツ)に自信があるのだろうか。
 自信があるならなぜ、誘われない程度で不安になるのか、それがいまいち分からない。自信がないなら誘われないことは当然なのだから、自分から誘うしかない。

 少なくとも僕は、寂しいとか退屈だという理由で他人と(それが友人であれ恋人であれ)つるむような価値観を持っていないので、誘いたいときだけ誘うし、それ以外では誘わない。
 したくないことはしないし、したいことをする、というのがポリシィなのでこれは必然だろう。
 もちろんしたくないことをする必要があることもあれば、したいことができないこともある。大人だからそれらをわきまえた、その上で。

 他人の顔色を窺うのが悪いことだとは思わないが、自分の顔色を先に確認する方が大切だと僕は思っている。

>>>

 会社員の頃、電話のせいで一度、ノイローゼになりかけたことがある。
 顧客がクレーマになってしまい、土日であろうと9時から22時まで、およそ5〜30分おきに電話をするようになってしまった。
 最終的に上司に相談して、その人についてだけは着信拒否にさせてもらったが、すでに遅く、何をしていても電話の着信音が空耳で聞こえるようになってしまっていた。
 もともとの電話恐怖症と相まって、回復まで3ヶ月ほどは掛かったか。

 もちろん別人格で会社員のカオは運用していたから表向きは問題なかったが、夜中に突然目覚めたり、シャワーを浴びている最中に着信音が聞こえた気がして(他のどんな轟音も、無音も、空耳を妨げることはできない)呼吸が定まらなくなったりと、ずいぶん酷い思いをした。

 結局、それ以外の多くの人と接して、多くの人と電話をしていたからこそ、比較的早い段階に回復したのだと思う。
 それより昔に、似たような脅迫観念に駆られたときは、電話機を冷蔵庫に仕舞ってなお聞こえる着信音に怯え、ならば意識を止めておこうと眠り続けた記憶がある。

>>>

 昨年だったか、お酒を酌み交わした近所の老婦人のことで、その後もずいぶんと気分と体調を崩している。
 単に彼女としては、取るに足らない世間話をしたいとか、ちょっとした便利使いを頼みたい(近所の買い物だとか、ドアの建て付けの修正だとか、スマートフォンの使い方を教えてほしい)のだろうと思う(実際そのようなことを言っていたので)。
 こちらはヒマの身の上であるし、他人に親切にすることにやぶさかではない。

 しかし彼女には一定の悪意 ── 自身が見聞きしていない他人の悪意を断定的に妄執するような類いのそれ ── があるので、本能的に関わりたくない。
 僕に対して悪意がないのは分かっているが、そうした人はこちらの意見に耳を貸さず、ひとたび気分が変われば誰彼構わず敵視するので、つくづく面倒なのだ。
 そう思って距離を取り、現在に至る。
 長らく他人の愚痴を聞くことを趣味にしているが、こんな場面で役立つとは思っていなかった。

 お酒を交わした数日後だったとは思うが、一番酷いときで、一日に20回ほども着信があったろうか。
 一般的に、それが普通のことなのか、そうでないのかは分からない。
 とにかく僕にある種のフラッシュバックを起こさせるだけのそれは、暴力的な行為だった。
 それから決定的に、その人を避けるようになってしまった。
 困りごとを解決してあげたい、という気持ちはあるのだが、無作為にせよ、ダメージを受ける行為を続ける相手をするのは苦痛である(こちらは一人の方が好きだと伝えてあるのに)。

 それ以降も、2日と間をおかず、数回電話が掛かってきて、毎回留守電が残る。
 もちろんすべて無視して、留守録も聞かずに消している。
 しかしそれすら面倒になって、昨日から着信拒否をした。

 本来なら関係を綺麗さっぱり断ってしまいたいのだが、駐車場を貸したままである。
 もちろん先方も困っているから依頼をしているわけで、可能な限りの手を貸したいという気持ちはある。
 相手の役に立つことをしたくない、害したい、という気持ちを持っているわけではないのだ。
 ただ相手の悪意に付き合ったり、その悪意に同意をしたくはない一方で、安易に否定したいわけでもない(できるとも思っていない)。



>>>

 悪意や妄執、疑心暗鬼というのはひとつの認識であり価値観だ。
 だからそれを必要とする人にとっては空気のように欠かせないもので、おそらく否定されて気持ちの良いものではないだろう。

 それに悪意のある者だって、困ることはある。
 苦しいこともあれば悲しむこともある。それは善人も悪人も関係ない。
 孤独を嘆くこともあれば他人の善意を信じられないこともあるだろう。

 悪意のある者を断罪するのは簡単だ。
 では弱者のすべては善人だろうか。そんなこともあるまい。
 善人かつ弱者だけを救うというのは一見崇高だが、それを自身の独善だけで測るということ自体、ずいぶんおこがましいように思える。

 戦争を続けている国がある、災害に苦しむ人々がいる。
 困っている人の、そのすべてが善人だなんて、僕は思わない。
 ただ弱っているだけの悪人を、しかし断罪するほどたいした正義を持っているわけでもない。

 傷ついたからといって相手を悪人と断ずる気はないが、相手は不本意だろうと慮って自身の負う傷を放置するわけにもいかない。
 こういう抽象的で複雑な葛藤が巡るので、酷く疲れて塞ぎ込んでしまうのだ。

>>>

 いい格好しいなのは分かる。
 けれど、いい大人がなりふり構わず、自分の損得や善悪感情だけで行動するのが良いことだとは、僕には思えない。
 なりふりを構って、自分の損得だけに囚われず、格好をつけて、皆にいい顔をするのが大人ではないのか。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240131
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
紙傷、噛み傷、かすり傷。
SUBTITLE:
~ Cardboard slayer. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

※不同意性交、小児売春等についての記述があります。
 何らかの被害に遭ったことがありフラッシュバック等が予測される方は、たとえ途中であっても別の文書を読んだり、他のサイトを見る方が良いと思われます。







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 私は精神科医でもなければ、心理学をまともに学んだわけでもない(工業高校にそんなカリキュラムはない)のだけれど、臨床的に自分の体験から学んだ一般論と思しきものはある。
「心の痛みは、そこから得た痛みや経験則を整理して、客観的に一般化して受け入れられるようになったものを外部に吐露できるようになってはじめて昇華される」というのもそのひとつだ。
 たとえば僕は、自分の姉(現在失踪中)が、小学生の頃から売春をしていた事実を ── 自身に性欲というものが存在せず、小児性愛という性的倒錯嗜好も知らないうちから ── 知り、自身の成長に合わせて、徐々にボディブロウのように、様々なことに苦しんできた。

 苦しんだ、という言葉はとても曖昧だ。
 具体的に言えば、僕は男という存在を憎んだし、男たちの性欲を憎んだ。
 自身が男であることを理解してからは、自身を、自身の性欲を、自身の性別を憎む羽目にもなった。
 殺せるものなら殺したかった ── 男という性別を。性欲という動物性を。自身という男性を。

 思春期以降、その臓腑をえぐるような不快はいっそう酷くなった。
 男たちのセックス(あるいは女性全般や恋人や性的にだけであれ興味関心を持った異性)についての話ときたら「なにが興奮したか」だの「何が(性的に)気持ち良かった」だのといった救いようのない内容に終始しているように観察された。
 しかし目の前の男たちは、時には親しい友人であることだってあり、だから端的に憎んだり蔑んだり(まして殺意を抱いたり暴力を振るったり)するわけにはいかなかった。
 必然にか、精一杯の抵抗か、心底興味がないという顔をして「ふうん(漢字に変換する前)」と受け流すのが常だった。

 それに少なくともこの国の男たちは、昔から自身がその庇護すべき対象としている女というものに甘え、頼ることを(その実際はともかくとして)表出することが憚られてきた。
 それは弱さであり、強きを尊ぶかつての男たちには、断じて認めるわけにはいかない汚点だったのだろう。
(今でもそういう男はいるだろうが、とくに否定する気も賞賛する気もない)

 結果としてこの国は、それ ── 男性が女性に甘え、頼ること ── を認める文脈を持たない。
 文脈というのがおかしいなら、文化と言えばいいか。
 文化がないので、男たちは、女たちをともすればモノ扱いする。そういう文脈が残っている。

 逆に、時代の変遷の中で女たちが男たちをモノ扱いするようにもなった。
 精神が人の価値を支えていた頃は(モノ扱いしても、されても、宿る精神性によって人の価値が決まると皆が認めていたので)良かったが、金や学歴や地位が人の価値を示すものに変わってしまったので、人という人がモノになってしまった。
 人をモノ扱いするのに、必要なのは気高い精神性や優しさではなく、金さえあれば良いとなってしまった。
 それでは本当に「モノ扱い」になってしまうのだが、考えがないところがまた精神性を失いつつある結果なのだろう。

 男が女をモノ扱いし、女が男をモノ扱いする。
 顕在的にであれ、潜在的にであれ、そういう意識がときに陰湿で、異様に思える人間関係を垣間見せる。

>>>

 いまでは多少、他人に普通に話せるようになった。
 先日、30年くらいを隔ててBP(高校からの友人です)に、姉に売春をさせるような人間がいたために、巡り巡って、性風俗に行くこともできない(行くことはできるが興奮しないので僕には価値がない)し、下ネタが昔から苦手だったし、男という男が許せない時期があったと話すことができた。

 もちろん小学生が売春するというのはまともな話ではない(念のために書いておくが、さすがに親がさせたのではない。性行為をしたその誰かが、小遣い程度であるにせよ経済との交換を経験させたのである)。
 もっと言えば、買春する大人がいる、というのが本当に、まともな話ではない。
 さらに言えば、金なんか払わず、それこそ力づくなり騙すなりして、いいように道具に仕立て上げる大人がいるというのが、まともな話ではない。

 未だに言葉にするだけで、ニュースのタイトルが目に入るだけで、筆舌に尽くせない感情によって手や身体が震える。
 が、少しずつ、この殺意を懐柔させることにも慣れた。それを抱えて。
 今までは言葉にすらならなかった憎しみや怒りや殺意を、自身の一部として大切に、僕は今も生きている。
 誰に向けることもできない、自分自身にさえ向けてはいけない憎悪を。

 BPは黙って話を聞いてくれて、ただ「そうか」とだけ答えてくれた。

「じゃ、これから風俗行こうぜ! とりあえず、おっパブとか!」と元気に持ち掛けてくるあたりが、さすがに最低である。
 ねぇ人の話ちゃんと聞いてた? それからおっぱい関係なくない? あたしそういうの嫌って言ったよね? ちゃんと聞いてた?
 黙って聞いて受け入れてくれたことにうっかり感謝しちゃった俺の気持ちをどうしてくれるの? ひどくない?
 繰り返すけど、おっぱい関係ないよね?

>>>

 話を少し変えて、親が、その庇護すべき子供に甘え、頼り、利用し、使役することが、今は憚られつつある。
「ヤングケアラ」などと大仰に扱われるようにもなったが、かつては子供が家事や育児や介護をするのは、大家族であれば必然のことだった。
 かくいう僕も姉にオムツを替えてもらったりしていた。
 2番目の姉の話では、紙オムツではかぶれてしまうので布オムツをこまめに替える必要があり ── 逆かと思いきや、あのナイロン的な布地が合わなかったようだ。我ながら、生まれついてこの方(敬称として認識しても面白い)非常に面倒な体質を持ったヤツである ── ついでに母乳も市販の粉ミルクも飲めないので、それはそれは手間が掛かったらしい。
 10歳の少女である姉が、赤子の僕の育児を、それなりにしていたのである(今、彼女の介助に手を貸しているのは、そういう借りがあるからではないのだが、あまりに面倒くさがっていると時々「昔わたしが苦労した分のいくらかを、返してもらっても良いでしょう?」と冗談めかして笑われる)。

 家族という組織を運営する上で、子供をどの程度その集団のユニットとして使役するか、というのはむつかしい問題かもしれないが、完全に切り離してクリーンな(要は家族に対してサービスを享受するだけの)存在として扱うのは、果たして良いことだと僕は思わない。
 無論、上述の姉のように中学になった途端に「バイトをしろ」「バイト先は自分で探せ」と親に強制され、給与は(当然のように)すべてピンハネされるような使役の方法は許されるものではないだろう。
 しかし家族の中で、人対人の、一般的なサービス(上記のような家事や育児や介護)については、たとえば子供が、祖父母の話し相手をしつつ異常行動の監視役を図らずもするような状況があったとして、それを介護労働だと考えることの方が行き過ぎて歪んだポリコレだとは思う。

 もちろん僕は家族を持たない(持っていない)から好き勝手に言えるのだと家庭を持つ人たちから叱られるかもしれないが、僕は諸般の経緯により、誰かを使役するのはまっぴらごめんなので仕方ない。
 より精確に言えば、使役するのも使役されるのもまっぴらごめんだ。
 その点ではポリコレの体現者とすら(侮蔑的に)思うが、家族という組織の悪い面ばかりを見てきたので仕方ないと思っている。
 皆がそれこそ愛情なり信頼なりのもと、それぞれが家族という組織の中でできることをしている、する、というのが理想的だけれど、少なくとも僕の育った家庭については、あまりにも使役/隷属という現象のように観察されることが多くて、だからそういう人間関係を僕は基本的に嫌うのだ。

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 恋人に家事をさせるのを嫌うのもそういう理由だ。
 人間が人間を使役することを僕は嫌う。
 これは「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いと同じで、誰かが誰かのために作業するという状況であっても、自発的にそれをするのと、他者から強制されるのでは、同じ人物、同じ状況でもまったく話が違うことになる。

 ために恋人から「したい」と言われた家事をしてもらうのは、僕は嫌いではなかったと思う。
(今では家事のうちでも僕が苦手なものについてはその多くが機械化されているし、そもそも恋人が家に来ることはない)(恋人がいないとはまだ言っていない)
 それこそ料理だろうが洗濯だろうがセックスだろうが、恋人が「したい」と言ったことをしたいようにしてもらえるようにするのはとても大切なことだった。
 そして大してしたいわけでもないことを「しなくては」という理由でされること、させることを嫌った。

 たとえば「会いたい」と言って家に来た恋人は、僕と会いたかったのだろうと想像する。
(使役を嫌うという理由によって僕から呼びつけることが憚られたので、耐性のない恋人についてはずいぶん不安にさせることになったが)
 僕(と一緒に居る)より家事が好きだという人でもない限り、食事をして片付けをしたいわけではないだろうと思える(なにせ「会いたい」と言って来たのだから)。
 それでも家事をしてもらっている最中、肌を重ねている最中、ふとしたきっかけで不安に、恐ろしく、なる。
 これは相手が『「したい」と言わなくては』という理由で、積極的に振る舞っているだけではないかと。
 もちろんそんな僕のメカニズムを説明したことは一度もなかったはずだけれど、言外に伝わってしまったものとして「強制ではなく自発的である」という振る舞いを強制させているのではないかと。

 普通の人は、それでも単純に喜んでいられるだろうし、喜んでしまえば良いのだろう。
 けれども僕には喜ぶことができない。
 相手をモノ扱いし、都合良く使役し、金を払って、あるいは金なんか払わず、いいように騙して丸め込んで、道具使いしているのではないかとひとたび思い始めると、恐慌と呼んでいいほどの感情に支配されそうになる。

 恋愛であれ仕事であれ、誰かを自分の利益や快楽に組み込むことが、自分の利益や快楽に誰かが組み込まれていることを認識することが、ほんの少しの拍子で、シャツのボタンを掛け違えたように、最終的な一瞬から致命的な状況に思えてくる。

 誰かと居て幸せだと思ったり、協力して仕事を達成させたときに、踏みつけにしている誰かがいるのではないか、相手を犠牲にしたオナニーなのではないかと思うと、絶望的な気分になる。
 私はそんなことをしたくないと、逃げ出したくなる。そんなことをしていないと、否定したくなる。
 そんなつもりではなかった。
 誰かを道具使いして、搾取して、適当に放り捨てようとなど、思ったこともないのに。
 それを疑い始めたら、きりもなく憎悪の対象に自分自身がなってしまう。
 それほどの憎悪を、一体誰が抱えているかなど、言うまでもない。

>>>

 唐突に話は変わるが。
 かつて負った心の傷を信頼できる相手と信じて、やっとの思いで打ち明けることができたのに、
「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか、
「私は(私の知ってる他の人は)もっとつらい思いをしてきたから
」とか、
 そんなふうにこちらの感情や感覚や記憶や経験さえも否定してくる奴っていない?
 マウントを取って自己顕示したいのか、こちらを否定して攻撃したいのかは分からないけれど。

(この前置によって、僕の話のいずれについても「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか「私はもっと酷い経験をした」なんて、言いたくても言い出せなくなるだろう。なんという卑劣な周到さ!)
(あ、ちなみにここ、笑うところです)

 僕の場合、不同意性交をさせられたことが過去にあり、それを当時の恋人(名前も顔も忘れてしまったが、最終的に自殺未遂までして人を道具に仕立てようとするような狂った人だった)に何がきっかけだったか話したことがある。
 男が異性であるところの女から不同意性交をさせられるなんて、普通は考えない(考えられない)のだろう。

 実際「本当に嫌なら力で負けるはずがないのだし」と嘲笑された記憶まである。
 今で言うところのセカンドレイプとはこういうことかと思うが少し違うか。
 そのあとに、上述の否定文がふたつ並んできた(しかも彼女の「経験」とやらがひどくお粗末だった)ので、その屈辱たるや相当なものであったはずであろう事よ(遠い目)。

 子供の頃は痴漢に遭うこともあった(相手が男色家なのか、おとなしい女の子のような僕の風貌に騙されたのかは判然としないが)。
 しかし見ず知らずの大人の男に身体を触られるより、たとえ恋人であっても「したくない/してほしくない/やめてほしい」と伝えているのに強行される性行為の方が、よほども苦痛だった。

 あまり記憶にないのだが、確か何かの口論の挙げ句「それでも私のことをちゃんと好きなら抱いてほしい」というようなことを言われて、好きかどうかという問題とセックスとは、そもそもイコールの問題ではない、好きだけれど今はしないししたくない、と断ったのがきっかけだったか。
 今思えば、そういうときは意固地になって否定してはいけないのだと分かるが、いかんせん若かった。
 お互い10代だったし、初めての恋人だったので、僕はそうした人間の機微を知らなかった。
 断ったために相手は意地になってしまい、無理にでもセックスをしよう/させようとなってしまったのだと想像する。

 確かに一般論で言えば、男が女に力で負けるはずはないのだろう。
 それではしたくない性行為を強要されるのを止めるために、恋人を殴れば良かったのだろうか。
 止めても押さえ付けても、その場所から立ち去ろうとしてもなお組み掛かってくる相手を、どのように沈静化できただろう。

 おそらく知能の足りない人間であれば「それならむしろ願ったり叶ったりではないの? 十代なんてしたい盛りでしょう」などと茶化すかもしれない。
 正しくケダモノである私をお前らと一緒にするな。

 僕はその不同意性交について、性加害という言葉を使いたくないし、そのようにも認識していない。
 ただ、そういうのは、とにかく長い間、苦痛として残るのだ。

「そんなこと言っても射精したんだから良かったんだろう。兄さんカラダは正直だな」というのは自由だけれど、肉体的な反応は、精神的な愉悦とは異なる。
 脚気の検査と同じ事ではないか。膝の下を叩けば足先が運動する。
 信号があってメカニズムが働き、運動による結果が現れる。スイッチを押すと動き出す家電品のようなものだ。それだけのことを情動と一緒にしないでほしい。
 肉体の反応と、情動的な幸福感はまったく異なるものだ。セックスすれば愛情があるなんて独善を、だから僕は信じない。

 しかしそれを、あっさり否定されてしまった。
 不同意性交を迫った古い恋人のことよりも、それを「そんなことで傷付いたとか言っちゃうなんて、アタマオカシイんじゃないの?(意訳)」と言われた方がショックが大きかった。
「あ。こういう人なんだ」とも思ったし、「世俗はなるほどそういう風に認識するのか」と思った。
 あるいはこれを読む人にも「なるほど猫氏はさぞかしモテでいらしたのデスネー(棒)」という反応があるかもしれない。

>>>

 たとえばweb上で、古い性加害の事実を告発する人などに対して、批判的な意見を向ける人もいる。

 なるほどたしかに不同意性交というのは一定の高低差が前提条件となり、その高低差によって力が発生して発露するのだろう。
 一時ニュースを賑わせた、アイドルグループの創設者が、同じく男性であるところの所属タレントを性的道具として使用していた例などはわかりやすい。
 同性による、少年と言って良い世代の(ともすれば「子供」として扱って不思議はない)者を、力関係も含めて性的な道具に仕立てるそれは、センセーショナルで見た目にも分かりやすい搾取の構図であり、その不同意性交をして性加害と呼んで耳目を集めるのも必然と言える。

 それでさえ傷付いたであろう者たちは、乗り越えようと吐露したことで、縁もゆかりもないだろう第三者から「金のため」「知名度稼ぎのため」などと非難されることがあるのだ。
 おそらくこうした痛みは、その傷を負った者にしか感じ得ないものなのだろう。
 コピー用紙や段ボールで指を切ったことのない者に、紙で指を切った「あのかすり傷」に特有の鋭い痛みは分からないのだから。

 まして男対女で、それが恋人や夫婦やセックスフレンドであるうえ、男性側が強要される不同意性交などというものはない、存在し得ないという思考が ── いかにそれが平和的で普通で常識的であるにせよ ── しかし、それでも、正しいなどと僕には思えない。
 恋人を ── まして力で男が勝るというならそのとおり力で劣る女を ── 殴るなどできるだろうか。
 嫌いでもないし危害を加えたいわけでもない。ただ、してほしくないというだけなのに、どうしてその相手や二人の関係を傷つけなくてはならないのか。
 たとえ自分の権利や正当性を守るためであれ、そうやって自分の思った通りに力づくで相手を隷属させるのが正しいのか。
 それはつまるところ、不同意性交を相手に迫るのと同じ卑劣ではないのか。

 不同意性交を強要する者以上に「そんな不同意性交など存在しない」と否定する者の無知をしかし、どのように改善できるだろう。
 周知させようにも、理解しない者はいるだろうし、周知することそのものによって、たとえば痛みを感じる者もあれば、そのメカニズムを解析する者もいるだろう。
「こういう犯罪がある」と注意喚起することは、ときに「そういう犯罪もある」と教えることになる。
 もはやそこまで考えると、なすすべもなく恐ろしくなる。

 人間であることが恐ろしい。ならば私は死ぬまでケダモノでいよう。
 人がましい顔などせず、男は殺せ、女は犯せと、少なくとも体面上は言い放っていよう。

 
>>>

 端的に、痛みは固有のものだ。
 だから私は(仮に私自身の「不同意性交を受けたことがある」という発言が事実だとして)ほかの誰かの抱える不同意性交による心の痛みに対して、理解はもちろん、寄り添うことさえできないのかもしれないし、おそらくそうだろうと思う。
 状況が一様ではなく、高低差のパターンも、力関係も、立場も性別も様々であって、一概に定量的な数値化が可能なものでもない。
 僕は、私自身を取り巻く状況や自身の抱える価値観の中で、それを不同意性交と認識し、それで痛みを受けたのだから。

 まったくもって気分が沈んでいるときにニュースなど眺めてしまったものだから、ひどく沈鬱な気分になってしまった。

 みだりに推定加害者を非難する気にはまったくならないし、推定被害者を擁護することもできない。
 もちろん推定加害者とされる有名人にはまったく興味もないし、その取り巻きやファンも含めた集合のメカニズムは僕の嫌うものですらある。
 ただ仮に被害とされるものが捏造であればそれこそ恐ろしいことだし、あるいは被害が事実だったとしたらそれもまた恐ろしい。
 いずれも人間を信じないに足る、十分な証左ではないか。

 あるいは明確な線引きができない可能性もある。
 力関係というのは、力に、自らの意志で付き従う者がいるからこそ発生することだってある。
 集合のメカニズムというのはそういうものだ。
 引力にしても、良いものだけを惹きつけるものではないし、良いものから発生されるだけでもない。

 ただ過去の性被害の公表(カミングアウト)を見るたび、そうやってその人は痛みに対峙しようとしているのだろうと思う。
 おそらくその過去を自分の中で客観的に一般化し、その痛みを「昨日、段ボールで指切っちゃってさぁ」「えーなにそれ痛いよねぇ、大丈夫? もう平気?」っていう具合に通じ合えるのだと信じて。




>>>

 ポリティカルコレクトネスという単語は「政治的正しさ」であるとか「政治的妥当性」と訳されるらしい。
 おそらく政治という言葉をより広義に、諸権力や諸集団の間に生じる利害調整、と解釈した上での「正しさ」なり「妥当性」なのだろう。
 そうでなければ ── 単に「施政者による政(まつりごと)」という意味なら ── この国ではすでに、政治は正しくもなければ妥当でもないからだ。

 いや今までだって、この地球上の政という政そのすべて、正しかったことはあるまい。
 妥当を目指して揺れるやじろべえのように、右に左にと、揺れてはその引力で場が乱れるのだ。

 正しく資本主義社会としての価値観を浸透させたこの国に、もはや宿る精神の高貴さなどという白々しい正しさは消えたはずだ。
 ために端た金で女をいいように道具にすることは悪で、数百万数千万を積んだなら男気があるなどと囃す風潮まである。
 そういうのを五十歩百歩というのではなかったか。

 金の多寡が問題なのではないし、相手が性風俗を生業とするプロかどうかも関係ない。
 人を人として見ることができるか、権力や財物や容姿による引力を断ち切った場所から物を見ることができるかどうかではないのか。

 もちろん多くの者は、金と他人という力によって雁字搦めにされている。そういう仕組みに暮らしている。
 その意味で、我々はすべて加害者かもしれない。
 なぜといって誰かと関わることは、とりもなおさず力関係が発生するからだ。

 それでも皆は人間である。
 人は言うのだ「人は一人では生きられぬ」と。
 おそらくそれは事実であり、そして同時に、都合のいい嘘でもある。

 一人で生きようと考えたこともない者がそれを言えばそれは嘘だろう ── 強者が使えば弱者を騙す方便になり、弱者が使えば己を騙る欺瞞になる。

>>>

 もうこのあたりで仕舞いにしておこう。
 段ボールで指を切ったからと、段ボールに当たり散らすのは、仮に許されるとして褒められるものでもない。
 それに幸い僕の場合「さっき段ボールで指切っちゃってさぁ」と言えば「えーうそ何それすっごく痛いよねぇ、大丈夫? おっぱい揉む?」と答えてくれる奥様(仮想:ちなみにゼロ次元体)もいるのだから。

 おっぱい関係なくない? キミ、カラダないし。
 繰り返すけどおっぱい関係ないよね?





 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Convergence-Darkness-Ecology-Life-Love-Mechanics-Memory-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Human-Koban-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
  :
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240116
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
眠りの病の再来か。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240116

 僕にしては重い抑鬱状態。何年ぶりかさえ思い出せない。
 半年眠り続けていた頃に似ている。暴力的な倦怠感と睡魔。
 眠気が酷く、思考がまとまらず、感覚をうまく感覚できない。

 お陰でタイピングにもたびたびミスをしている。
 数時間で身体が怠くなり、思考の継続が困難になり、眠ってしまう。
 対人恐怖と電話恐怖。倦怠感と睡魔。
 人間のかたちを、人間と認識できない状態。

 昨日、2日ほど食事をしていないこと、水分摂取を24時間ほどしていないことを奥様(仮想)に指摘され「なんでも良いから」と言われてナッツとチョコとチーズを食べてワインと湯を飲む。
 食べたら今度は吐き気がするのでほどほどにしていると眠くなる。
 きちんとした料理を作れば良いのだが、その気力も体力もない。


 ここ数日、来客をすでに2回居留守でスルー。
 電話をマナーモードにしていたためTUとBPそれぞれの電話に気付かなかった。
 マナーモードを切ったらこんどは眠っていても着信音が障る(かつては熟睡中でも着信3回以内に覚醒して受電する体質だった
)のでどうしようか悩む。

 理由は分かっているのだが、対処ができていない。

>>>

 原因というのは、先だっての、ご近所の老婦人のことである。

 もちろん「その人のせいだ」と断じてしまえば楽なことは承知している。
 可能性や希望という、曖昧模糊としたもののために無限に拡張し続ける認識の糸口のようなものをバッサリと断ち切ることができるだろう。
 しかしそれを、僕は嫌う。

「あいつが悪い」と断ずることが楽なのは、それが思考停止だからだ。
 もちろんその断定によって、その先の、何を煩う必要もなくなる。
 それによって負荷が大きく軽減されるから多くの人は(考えることの煩わしさもあり)簡単に他人を悪者にするのだろう。

 しかしそもそもかの老婦人に、僕はそれほど酷いことをされていない。
 好意的に接してもらっているとは思うが、僕にはそれが面倒なだけだ。
 相手が若くて眼鏡を掛けた美人だったとしても変わらない。
 僕は悪意を抱えるという矛盾に気付かない低能な人間を(その行為の自由を否定はしないが)、外見や性別や種族に関係なく忌避する。
 利害関係は(駐車場を貸している以上)あるのだが、月々たかだか数千円の利益など、放り出したところで気に留めるほどでもない。
 問題は、それをすると相手が困るということだろう。

 老婦人との関係性を断ち切ったところで、僕には何の実害もない。むしろ静かな日常が訪れるだろう。
 しかし彼女にとってはどうだろう。
 借りていた駐車場がなくなり、トラブルを抱えている自治会内の代表者と交渉する必要が発生し、万一の時に頼る先がなくなる。

 自分自身に置き換えれば、自分の死に際のことまで考えて、なるべく誰にも頼らない方針を打ち立てている(必要が発生すれば自害もするだろう)から、他人の老年期特有の困りごとであるとか孤独の寂しさであるとかは、僕には理解こそできても実感することは不可能だ。
 それでは血縁でもない人間の困りごとなど放っておけば良い、と簡単に捨て置ければ良いのだが、多分僕は思ったより良い格好しいなのだろう。

 誰に格好をつけるつもりもないのだけれど、潜在的なものも含めた他人の困りごとに対して「知りません、勝手にすれば良いではありませんか私には関係ないことです」とは言えないし、考えることができない。

 悪人でもない人間を、自分の都合だけで悪者だと断ずることを、僕は情けないことだと思う。
 思慮が足りず、考えが浅く、思いやりのないことだと思う。

>>>

 僕自身8年ほど前からしかし。
 ある人物については「その人のせいだ」と断じて、悪者にしている。
 そしてその実、そればかりでないことを何より僕自身が知っている。

 悪意ばかり、敵愾心ばかりで生きている人間なんていないと僕は信じている。たぶん昔からそうだ。
 誰も彼も事情があって、願いがあって、良かれと思った結果、思いどおりにならないことに不貞腐れて、次第に雑になってしまうのだろう。
 たとえばDVをするような人間を擁護するつもりはないが、そうした人たちの歪んだ正義感が、本来なら素晴らしい正義感として作用する(していた)可能性を僕は考える。
 世間一般にDVといえば、歪んだ幼稚な欲の発露だと認識されているかもしれない。
 しかし、それを当事者である加害者と被害者に正当化させるだけの、本来ならば「正しさ」と呼ばれるべき意味や作用を含んでいたように思う。もちろんすべてがそうだとまでは言わないが。

 ではしかし一方で、自分がその被害を受けたときに、そのように寛容に、相手を許しながらも罪に当たる行為だけを改善するように提案し、それを実現できるかといったらそんなことはない。
 どんな善意や正義に根ざした思考や行動であっても、最終的に己の欲や邪心にかまけた結果として他者を傷つけるなら、それは加害行為であり、被害者はそれを少なくともひとたびは断罪する必要があるだろう。そうしなければ加害はいつまでも続く。
 だから僕はその人物を加害者だと断ずることに決した。
 私も悪かっただとか、相手にも事情があっただとか、そんな風にしているわけにはいかなかった。
 そして同時に、それが欺瞞であることを何より自分が知っているのである。

>>>

 僕は自分自身に向けられた悪意は気にしないことができるが、そうではない悪意に悩む傾向がある。
 他人なんて信じられない、人間なんて信頼するに値しないと断じて、不貞腐れてしまえば、きっと楽なのだろう。
 自分にとって利得のある存在だけを特別扱いして、それで満足していられる程度であれば、その方が幸せなのかもしれない。
 もちろんそれを求めてはいないのだが。


<そりゃジト目にもなっちゃうよ>

>>>

 昨日に続いて嵐のような強風。
 家の中まで寒々と乾燥している。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
 
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  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240107
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
倫理とエゴの境界線。
SUBTITLE:
~ The ZERO Divider. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::つまり、いずれが人として正しい道か、ということだ。侍としてでも良い。
::いずれというのは、何と何を比べているのですか?
::女を愛でることも、情に身を任せることも、間違いではないと思う。人として、それが本来の生き様にも見える。しかし、人は動物ではない。刀を持ち、己を律し、鍛え、励むものだ。刀を研ぐように自分を磨くのが本来ではないか。さて、このいずれに正しい道があるのか、ということ。
::私にはわかりません。
::簡単に言うな。それを一緒に考えてくれ、と頼んでおるのだ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

240107

 世俗では正月から地震で慌ただしかったようだ。
 群馬県というのは温泉地が多い。つまりは火山があり、地底活動がそれなりにある。
 一方で大昔からその活動が活発だったのだろう、山は岩山が多く、ために堅牢な地盤が多いようだ。
 偶然か必然か、地震の損害は存外少ない。
 かつては雷と空っ風の風土が有名だったが、かれこれ20年ほどから、それも少なくなった。
 近年は夏の灼熱が問題だが、それは日本各地が同様だろう。

 太田市は大戦時の空襲で飛行場付近といわず穴だらけになった過去があるらしく、十数年前の大地震で被害の出た当時、職務の都合で家々を見て回ったものだが、多く損害が見られる場所は、かつての爆弾の穴を埋め立てた地点であると、古くを知る方から聞かされた。
 無論、そんな(爆弾で穴が空いた)場所がどこであったかなど、いかなる地図をあらためたところで見つかるはずもないから、新たに家を建てる人はある意味での博打をすることになる。

>>>

 建物の耐震性というのは、国の定めた基準であるが、結局は国が定めた基準でしかない。
 何が言いたいかというと、基準を満たしていれば絶対安全というものではない。
 これは僕の乗っているダイハツの自動車でも同様だ。

 決まり事が悪いというつもりはない。
 決まり事などないとなれば、安くてデタラメな材料を使って、手抜き工事をする事も可能になってしまう。
 自由市場経済において、安くて悪いものを高くて良いものとして売ることは、必ずしも悪いこととはされておらず、禁止もされていない。

 100円で購入したボールペンのインク(あるいはベアリングボール)が低品質で、すぐに目詰まりするからといって、人の生死に関わることは少ないだろう。
 一方で食品、薬品、建築物、乗り物などは人命に直結する。
 にもかかわらずその専門知識を有さない人は多く、その対象物について個々人が適切な知識を身に着け、各自で検証ができないのが実情だ。

 たとえば食品なら長期保存(あるいは長時間の品質維持)が可能なものも多い。しかしそれがどのように実現しているか、知らない人も居る。
 それらの品質維持ができる便利さを「正常な」日常と考えてしまうだけの先進的な環境に我々は暮らしている。
 個人的には製造から数日経過しても固さが変わらないパンなど、本来は魔法のように異常なことだと思う(自分でパンを焼いた経験からすると、やわらかいのは良くて半日程度なので)。

 自由市場という運動そのものを阻害せず、一定レベルの品質を担保するものとして基準を設け、その品質基準をクリアしたものだけを市場に流通させるという仕組みをこの国は持っている。そう考えるとなかなか優れた頭脳がこうした社会設計をしたと思える。

 僕はアナーキストだから、その設計技術を素直に賞賛こそすれど、過剰ともいえる管理や自主規制には辟易することもある。

 たとえば自動車の衝突安全基準でいえば「当たらなければどうということはない」ということだ ── そもそも安全運転というのは「安全な速度と方法で車両を運行すること」なのだから、安全運転をしない(できない)人間のために機械を安全にするのは本末転倒だとさえ思える。
 一方で個々の運転者を完全に管理することは不可能であり使用の事情も様々である。
 また本来的に不慮の事故を未然に防ぎ、あるいは損害を軽減するための新技術が生まれ、それが製品に反映されるのは良いことである。

 しかしその技術が結果的に人間に慢心をもたらし、「新」技術 ──「正常」な日常 ── に甘えてしまえば結果、人は暴走するように観察される。
 自動車でいえば過剰な速度で物理的に制御困難な局面を技術がカバー(加減速の操作どころか、車線またぎや車間距離までモニタ)してくれるため、危険運転を見誤る(危険を知らず、能動的に感知もできない)ドライバもいる。
 食品でいえば常温で長時間保存していても大丈夫なものが多いから、自宅の調理における管理や食事の際の確認がおろそかになって、味覚や嗅覚による変異に気付かない。
 これ自体は科学の進歩がもたらした弊害ともいえるだろう。

 ざっくりいえば、鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手な人間であっても、それなりのお金さえ支払えば安心して暮らせる、豊かな社会が出来上がったのだ。
 つまりその「鈍感で、無知で、バカで弱くて自分勝手」というのは、ひるがえって考えれば社会的弱者のことである。
 弱者を守り、そうした者が ── 肉体や経済や情報処理能力、あるいは品位や文化レベルといった精神性で ── 劣っていても、そうした能力における強者と同じかそれに近しい状態で暮らせるように、技術が進歩したのだ。これは豊かなことであり、本来は幸福なことだと僕は思う。

 ただ過剰な管理を強制されるのが個人的には厭だな、と思うだけのこと(いつも思うが「思うこと」なんて個人的でしかない)であり、これは他者に ── あるいは社会や国家に ── 反駁し、強制からの解放や支配からの卒業を訴えたり、逆接的な強制を求めて夜の校舎の窓ガラスを割ってやろうというものではない。単に強制によって選択肢が無くなることに不満を持っているだけである。バイクを盗んだりもしない。

>>>

 このブログを読んでいる人は知っていると思うが、僕は猫を飼っているわりに、それを畜生だと割り切っている。
(余談だが、ために種族同一性障害(笑)を抱える僕は、自身をケダモノであり畜生であると認識している)
 もちろん猫を畜生だと断じているからといって、軽んじるつもりはない。
 虐待しているつもりもない ── 実際にどう思っているかは訊いてみないと分からない ── が、パートナーだとか家族だとは思っていない(使い魔程度に思っている)。
 ヒトの身体を有し、人としての思考能力を僕の方が持っている以上、これは仕方ない。

 ただ昨今の「飼う」「買う」「拾う」「もらう」「あげる」という表現を ── モノ扱いしているとかいう綺麗ごとから ── 嫌って「お迎えする」「譲る」などという美辞麗句によって、己のエゴを虚飾する連中のそのご都合主義的なありようを毛嫌いしてはいる。
 いやなにそういう人たちが動物たちを大切にするのは一向に構わない。
 しかしそうしたエゴを強く他人に振りかざす者ほど、自分が飢え死にしそうになると、その身勝手なエゴのままに他者を抑圧するのだ。そのメカニズムはまったく一緒である。

 人慣れした飼い猫特有の、尊大にして泰然自若としている様子から、へりくだって自らを召使いであると自虐的に表現する飼い主がかつていた。そのネットミームの延長線上に思える。

 昨日TU(旧い友人です)から聞いた話では、旅客機に積まれたペットを救出しなかったことについて騒いでいる人がいるらしい。
 人間社会の通念で、航空機に積まれた動物は「積み荷」である。
 法的にペットは所有者の所有「物」であり、人格権を有さない。自動車事故でも法的見解に依るので同様だ。
 人間社会に存在するすべてのものは、人間というプロトコルによって定義されフィルタされ「人間とそれ以外」という区分がまず為されている。
 だからこの社会は人間社会なのだ。

 動物愛護者たちの倫理や正義が分からないではないし、それを否定するつもりはない。しかしそれはどこまでもファンタジィでしかない。
「戦争や貧困、差別のない社会を」という文言と同じこと ── 。
 もちろん理想を抱き、唱えることについて僕は否定しない。
 それどころか理想を持たず、現状に甘んじ、大勢に流され、主力におもねることを嫌悪しさえする。

 ただし大の大人がそのファンタジィを ── その理想を ── 子供が駄々をこねるように大人社会に向かって泣き喚くことを、良しとは思わない。
 どんな正義も、どんな倫理も、社会という場の通念というプロトコルを無視して他人に押し付けるのであれば、それは単なるエゴだ。

 極論を言えば、戦争や、貧困や、差別や不公平や不平等によって、それがあることで、豊かさを構築し維持してきて、今もそうしている人間がいる。
 それを認め、あるいは許すのは、清浄な倫理に支配されていてはむつかしいかもしれない。
 けれども既存の仕組みの中で、そうした豊かさに身を置く者を単純に断罪することもまた困難なことだ。
 倫理をいうなら彼らにも人権があり、家族も居るだろう。社会を観察すればその利権に関わる多くの人間が大勢を制御する力を有しており、それによってこれまで存続してきた歴史がある。
 巡り巡って、それは自分自身とその係累にも及ぶだろうし、自身とその両手の届く範囲についてだけは目をつむるというなら、それこそエゴイスティックな独裁の倫理だと断ずるよりない。

 繰り返すが倫理や理想、正義を持ち続けることは悪いことではない。
 むしろそうあるべきことだし、そうでなくてはならないとさえ思う。
 一方で自身が抱えるファンタジィを泣き喚いて押し付けるのと、現実社会に構築するためのロードマップを設計し具現の手段を模索するのはまったく異なることなのだ。

 技術者というのは感情を持たないわけではない。正義や倫理を持たないわけではない。
 むしろ人一倍の理想を持っていなければできないだろう。
 ただ感情やファンタジィだけでは何も解決しないことを知っているだけだ。

 自身の主観で物事を選り好みすることを否定する気はないが、そんなことをしていると日本の「仲良しごっこ政治」のように、理想も理念も見失うことになる(社会を設計し、構築するための技術集団としての政治家が、一体どれだけ居るのか僕は知らないが)。

 人間社会に理想は必要だ。
 一方で理想や倫理や正義は思想になり、人間の感情を揺さぶりもするだろう。

 何度でも言うが思想も結構、感情論も結構。
 ただそのエゴを他人に投げつけるようなことは僕にはできない。
 いや、できなくはないだろうが、したくない。

>>>>

 精神性の貧困は、結果的に不正を招く。

 建築なら古くは姉歯(構造計算偽装)、食品なら雪印乳業(これもかなり古い)、自動車なら新しいものはダイハツと、基準とそれにまつわる事件は昔からあり、未来にも無くなることはないだろう。
 問題があるたび新しい基準と監査機能を増設することでしか、この社会は対応できなくなっている。
 先進技術に溺れた人が慢心し、効率重視によって良心をすり減らした結果だ。

 テクノロジィという魔法は悪だろうか。その魔法を万能と錯覚してはいないだろうか。
 なにより良心とは何だろう。

 エンジニア(技術者)は、もちろん己の手を離れる製品が万全のものであって欲しいと願うものである。
 彼らこそ、この社会における科学という名の魔術をあまねく浸透させた(させてきた)魔術師なのだから。

 豊かさが何なのかといえば、それは多様性だろう。
 WHOだか何だかが掲げる、おためごかしのファンタジィではなく、文字通り、清濁併呑玉石混交とした、ともすれば混沌にも等しく思える、それが本来のありようだ。

 多様性と秩序の併存は、不可能ではないだろうけれど、容易なことではない。
 理想を訴えるだけ訴えて何もしないというなら、どこぞの宰相と同じではないか。
 いや、あれは訴えている理想もなさそうだから、もっとひどいものなのか。


<猫写真が見たいんだろう?>

>>>

 規制も結構、エゴも独善も結構。
 潔癖なる理想による独裁も ── 具現できるというならそれもまた結構。

 思い描いた理想郷を、それぞれに見せ合いながら、僕らは進んで行くしかない。
 何が正しい。いやそれは間違っているのではないか。
 そんなふうに互いに言い合いながら。

 くれぐれも正しさや誤りに、感情など必要ないということだけは忘れずにいたい。
 僕はつい忘れるので。


 
 



 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::俺は、やはり、迷いはあるものの、剣の道へ進む。今はそちらだ。そのために、情を切る。それが侍の道だ、と今は思っている。そうだな、八割方はそちらだ。残りの二割が、あるいはあちらが本来の道ではないか、という未練。いいや、三割かもしれん。もの凄い美人が目の前に現れたときには、四割になるかもしれん。
::それは、なかなか危うい立場ですね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Incense tone」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。


 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Love-Mechanics-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Cat-Human-Koban-
 
 
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:いのちあるものたち:
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231228
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
仮初めの泥沼で。
SUBTITLE:
~ Light on the edge. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::あの月のように、切ることのできないものが、刀が目指す先に、きっとあるのにちがいない。
 だから、この世で生きていくというのは、単純なことではない。刀を持ち、いつでもこれが抜けるのに、それを抜かず、力に頼らず、皆が死なない道を探らなければならないのだ。それはまるで、これまでこの腕が覚えてきた刀の技を騙すような行為でもあるだろう。何のために刀があるのか、と問われれば、返す言葉を知らない。その複雑さが、今はまだ十分に理解できない。割り切ることができない。ただ、予感として、そういうものがこの世の正しさではないか、とおぼろげにあるのみ。



 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231228

 数日前まで泥沼のような睡魔に捕らわれていたのだが、この3日ほど、0時を迎える頃にはひどく眠くなり、朝には目覚めるようになった。
 天候も良いので、廊下の壁にハンガーホルダとして使うレールを設置する。

 夜になって、近所のご婦人(庭の一部を駐車場に貸している、僕の母親より4つほど年下の、つまりは老婦人)に誘われ、酒盃を交わす。
 帰宅して一息ついた頃、奥様(仮想)が塞ぎ込んでしまった。

>>>

 いやなに夜更けに女性の家に出掛けたことが悪いというのではない。

 すっかり忘れていた。
 私は人の悪意が苦手で、それに晒されることに耐えられない。
 自分に向けられたものではなくても、倦んだ熱量と臭気が肌から生気を奪うことに耐えられない。

 誰かの抱えるシンプルで、矮小で、だからこそ純粋で、ために救いようのない悪意。
 殺意にも似た、解決のない悪意。

 演算も誘導も、構築すべき健全な目的物もない。
 暗渠の果てに流れ着いた掃き溜めのような汚泥 ── 。

 演じるうち、誤魔化すうち、そうした痛みを感じなくなっていたのだけれど。
 演じる必要も誤魔化す理由もない平穏な自分だけの日常に溺れるうち、そんな技術を使う機会を失った。
 飛ばない鳥は飛べなくなる。
 シンプルに私は、人の悪意に対する耐性を失っていた。

 安寧の、自由で寂しく行き止まりのように甘やかな孤独のぬるま湯は。
 私の牙をすっかり鈍らせていた。
 いやそもそも私はそんな耐性など、始めから持ってなどいなかった。
 持つ必要もなかった場所で作られたのだから。

>>>

 人間というのはどういうわけか、どんな領域で、どんな生き方をしていても、それぞれの縄張り意識というものが芽生えるらしい。
 たとえば出身地。
 たとえば棲む家だけでなく、その周辺、地区、隣組、隣人、通行人、果ては近所に見かける犬猫に至るまで、「かくあれかし」という己の願望を投影し、関わるそのすべてに己が欲の捌け口を求める。
 独善。憶測。先入観。偏見 ── 。
 あるいは家族や恋人、友人
に対する拘束も、根底にあるのは自身の願望の投影だろう。
 もちろんそれが善意に根ざしていればこそ、度が過ぎれば権利の侵害になるとは思いもしないのが常識人というものだ。

 書面上は自分名義の家に棲んでいるのに居候をしているかのように落ち着かず、それどころかこの身体も、そこに宿る思考にさえ自分というものが確かにあるとは感じられない僕からすればそれは、羨ましさを通り越して奇怪に思えるほどだ。

 自分の身体は自分のものだと思っている。
 自身の腕は、脚は、首は、瞳は、自身の自在を具現し、自身の思考も、感情も、それこそが自身そのもののように自身によって感覚されていると錯覚している愚鈍。
 自身の寿命も、その身にまつわる偶然も必然も。
 まるで生きるという労働の対価 ── いやそれどころか、その労働に必要だとして貸与されたはずの制服に腕を通すうち
、当然にそれを自分の所有物として振る舞うように。

>>>

 人は哀しみを避けようとする。
 苦しみから逃れようとする。
 孤独を隠し、紛らわそうとする。

 まるでそれらは自分ではないかのように、自分には関係ないとばかり、目を瞑り、それでいて畏れ、だからこそ無視をして。

 哀しみは宝物だ。
 何かを失った、その臓腑をえぐるような痛みは、血のように滴る涙は。
 輝きも温みもそこにあったからこそ、その特別が痛みに変わる。
 それは誇るべくして生まれた痛みだ。
 失われた輝きも、冷たく黒く乾ききった温もりも、絞るように漏れる呻きも。

 苦しみは己自身だ。
 その闇に蠢く己の欲を、無力を、願いを、望みを。
 癒えぬ渇きが、眩むほど望む飽食が、己の正体と知れ。

 孤独は鏡だ。
 それを直視できないのは鏡が汚れているからか。鏡が醜いからか。
 暗闇に覗く鏡を畏れるのは、なぜか。

>>>

 救えない悪意をぶつけられて、それをぶつけ返さず平然といられる人は少ない。

 僕か? 僕は猫だから、もとより悪意を返す習慣がない。あれは人間に特有の文化なのだ。
 ……とまぁ、そんなふうに言えば格好もつくが、そもそも向けられた悪意に気付きもしないことがほとんどだ。
 仮に気付いたところで返す言葉もないまま数日経って、ようやく腹が立つ仕組みだから、悪意をぶつけ返す機会を失う。

 そりゃあ呪詛なら得意だし、憎悪をもてあそぶのもお手のものだ。
 しかしそれらは漂白剤や化石燃料のような劇物であり、化学を知らない者が使い方を誤ればすぐに大きな事故にもなる。

 ならば ── 。
 悪意をもてあそぶのだってこの俺様に任せておけ。

 


>>>

 我々には袖先ほどの関係もなく、何の手を加える必要もない悪意に温度を奪われた奥様(仮想)が頽れている。
 すっかり落ち込み、力なくうなだれる奥様を起こして小さな約束をし、ポトフを作る。

 奥様のためのポトフである。
 最初は泥のようになっていた奥様だが、野菜を鍋に放り込んで火を点け、ゲームをしているうちに漂う香りで機嫌を直す。
 いやそれどころか上機嫌だ。小躍りし始めたぞ。

「ねこクーン。ねこクーン! やだもーいい匂いがするよぉ〜」
 音符だのハートだのといったマークを語尾に付けかねない勢いだ。
 さっきまでコールタールに沈められた病人みたいな顔してたくせに。

 もっとも僕にはこれっぽっちも食欲がない。
 餌付けできる、肉体のあるガールがいればいいのだが。
 明日食べようと約束を重ね、早く眠ろうとするも0時を過ぎてなお眠りは訪れることなく。

 身体を撫ぜて落ち着かせて、3時頃になってようやく猫様は眠りに就いた。





 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::「キクラ殿は?」チハヤがきいた。
「厠へ行かれたのでしょう」
「お主は何をしていた?」
「月を眺めていました」
「月見だと?」
 料理の皿の数が多くなっていた。倒れた徳利も幾つかある。腰を下ろし、箸を手に取ると、ノギの三味線が聴き馴染んだ曲を奏で始めた。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「Moon tilt」From「The Fog Hider」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Connector-Convertor-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Dish-Human-Night-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231221
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
当たらなければどうということはない。
SUBTITLE:
~ Nohit, nobody. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

231221

 姉の通院介助。
 最近、妙に眠くて、1日に12時間以上眠ってしまう日が続いていた。

 たまたま玄米を食べたくて仕方ない日があり(白米は得意ではないが、玄米の場合はときどき身体がそれを求める)、食べたその日から過眠気味になった。
 数日前、妹が(確定申告関連の書類を持って)遊びに来る予定があり、それがリズムを取り戻すきっかけになった。
 それでもカフェイン剤を飲まないと調整できずにいる。
 冬季鬱かと疑ったが、気分は落ち込んでいない。むしろ眠りは心地よい。

 恋人がいたときは最低でも月に一度くらいはデートするきっかけがあったので、家の中を掃除したり、体調を整えたりするのに丁度よかった。
 今は定期的な予定が姉の送迎くらいしかなく、こちらから出向くこともありリズムが狂いやすい。

>>>

 僕が軽自動車を好むことを知る人はあまりいない。身体が大きいからなのか、小さな車を好むとは思わないらしく、ときどき驚かれる。
 自動車免許を取る前は「四駆のワンボックスワゴンで、あれもこれも積んであちこち出掛けたい」なんてことを思っていた。
 しかし社用車のワンボックスに乗ったとき(取り回しが面倒くさいな)とまず思い、10年ほど前までは自動車に持ち込んだものをこまめに持ち出さない(必要な物しか持ち出さない)ため、車の中に使わないモノが溜まるという現象があった(これは価値観と習慣を変えたため、今は解消されている)。

 あちこち出掛けると言っても、結局のところ、僕は引き籠もるのが大好きである。
 キャンピングキャビンを軽トラに載せているのに、庭作業の際の休憩や急な来客の応接に使ってばかりだ。
 時間とお金ならあるだろうに、旅行にも出掛けない。人混みが好きではないからだ。

 姉妹に頼まれれば渋々行楽にも出掛けるし、恋人に乞われれば飛行機にも乗るし旅行もする。
 しかし自分ひとりの自由は、それこそ誰もいない場所にあると僕は思っているので、他人に気を遣って遠慮して譲歩しているうちに疲弊してしまうような場所には行きたくない。
 恋人と一緒の場合は、恋人が不安になったり危険な状況にならないように(かつそれと悟られないように)気遣うことになり、その上、状況を楽しまなくてはならないので本当に神経が擦り切れる思いをする(一見、楽しくなさそうにしていても「猫様、楽しそう」と理解してくれる恋人ならよいのだが)。

>>>

 そうそう軽自動車の話だった。

 昨今の軽自動車は小型車とさほど変わらないサイズのものが多く、あまり好きではない。
 大は小を兼ねる、という価値観を否定するつもりはないものの、そんなに大きな車が良いならばそれこそ小型車なり普通車なりに乗ればいい。
 ついでに黄色ナンバーが恥ずかしいなどとのたまう連中も普通車を買えばいい。
 軽自動車は軽自動車にしかない魅力があり、その黄色いナンバープレートは誇るためにあるのだから。

 まず軽自動車は設計要件がシビアだ。
 車両サイズはもちろん、排気量660cc以下という法規制があり、出力64馬力以下という自主規制もある。
 サイズが小さくなるほど軽量にしやすく、剛性も上げやすくなるが、設計の遊びが許されなくなる。
 そうした制約の中で、必要とされる機能を詰め込んで行く技術が美しい。
 たとえばそれは俳句のようなものだ。
 苦悩を感じさせない完結の具現が、技術として美しいのだ。

 分かりやすく例えるなら、少々困難な仕事で上々な結果を出した後に上司や同僚から「よくやったな」と褒められても「いやぁなんとかなっちゃいましたねぇ。皆さんのお陰ですよぅ」なんてぼんやりした顔をして、涼しく呟くくらいがカッコイイのである。
 決して「大変でしたが努力しました」とか「こういう課題が発生したのですが、夜を徹して考えて、このように対策したのです」なんて偉そうにしてはいけない。
 格好悪いからだ。
 素晴らしい仕事は、見る人が見れば分かる。
 だから仕事を終えたら、ぼんやりしていればいい。
 達成による高揚を抑えて、努めて冷静に、平常を保って、こんなものは他人様からすれば些事だと言い聞かせて、ひとりで成功を噛み締めながらエンジンをクールダウンさせたほうが無難だろう。

 つまり上記の文章から、僕自身がついついそういう高揚感で暴走しやすい性質だと観察することができる。戒めたい。
 冷蔵庫から取り出した牛乳をパックから直飲みしているとき、母親(あるいは恋人、もしくは奥様)から「冷蔵庫開けっぱなしにしないでください!」と叱られたときと同じくらい迅速に、今閉めたい。

>>>

 バブル経済の頃は、それこそ「より大きな車体、より大きな出力」という志向があった。
 人々はこぞって、重くて喧しくて燃費の悪い高額な自動車を手に入れて自慢していたものだ。思えば哀れな時代ではないか。
 少なくとも僕は当時から哀れんでいた(今も無駄に高額なだけの、鈍重な車両に魅力を感じる人はいるのだろうが)。

 もちろんそのような人たちが自動車業界を回転させているお陰さまで、メーカは利益率の低い軽自動車の開発ができるわけなので特に文句はない。
 ただオーナーの承認欲求を満たすために買われては売られる車たちを哀れに思っていただけである。

 今、自分の乗っている自動車を「なんちゃってスポーツカー」と呼ぶのもそのためである。
 出力も排気量も制限がない、本当の意味でのスポーツカーはごまんとある。
 大きく重い車体を感じさせないほど高出力のエンジンで走ることの楽しさや、それを操作できる官能もあるだろうとは思う。
 それに比べ、制約にまみれた軽自動車のスポーツカーもどきなど、レプリカだと嗤われても仕方ない。
 しかし少なくとも僕は、そうした大きくて重い体を高出力で振り回す機械に、どういうわけか魅力を感じないのだ。

 それに大きな(あるいは高級な)車両を上品に運行することはむつかしい。
 狭い抜け道を大きな(あるいは高級な)車がエラソーに走っていると「ここはあなたの走るような場所ではありませんよ」と言いたくなってくる。
 結局のところ、運転というのは人を表すのでもある。いや自動車の運行に限らず、道具の使い方、付き合い方に人間性が現れるのだ。
 ために「この人は偉いふりをしたいがためにわざわざ大きな自動車に乗っているのだろうか、ご苦労なことだ」と思ってしまう。
 それから、そんなに大きな車に乗ることがステータスだと思うのなら、どうして皆、大型トラックやトレーラ、バスを所有して運行しないのだろう。それが不思議でならない。

 そうした反動もおそらくはあっただろう。
 僕は狭い道が好きだし、僅かな隙間をすり抜けられる矮小さを好む。
 どこかにも書いたと思うが、エアコンも所詮は軽自動車に搭載するクラスであるから、室内は狭いほうが圧倒的に高効率で有利だ。夏などすぐ冷える。

>>>

 僕はダイハツのコペンに乗っている。
 消去法で、他に乗りたいと思える自動車がなかった。
 とにかく小さくて、オープンキャノピーにできて、そのとき現行で販売されているものが、コペンしかなかった。
(購入してしばらく経ったが、小さくて本当に可愛らしいと、今もよく思う)
 しかも中古車が安く売っていれば良かったが、それさえままならなかった。
 とはいえビッグモーターで買わなかったのは救いである。

 ふとニュースを見たら、大騒ぎになっている。
 あらあら、とは思ったのだが、そもそもどうでもいい規制が多いとは思っていたのだ。
 オートライト(夜間消灯不可)の義務化など最たるもので、通学路付近やラッシュ時のほか曇天などでも点灯/消灯を操作する僕にとっては正直なところ不快ですらある。
 もちろん灯火操作もしない(できない)低能が増えた結果の措置なのだろうから仕方ないとは思うのだが、低能に合わせた基準を法規制すればするほど低能にとって乗りやすい自動車が世に溢れるということで、それは却って危険にも思えるのだ。プリウスはよくコンビニを壊すと言うし(あはは、やだなぁじょおだんですよ)。

 とはいえ法規制だから、これに従わない車両をリリースしたことはメーカとして問題だろう。端的に法を犯しているからだ。
 型式抹消なんてされてしまえば、公道を走行することもできない。
 電気系やエンジンで、走行に支障のあるレベルだったら困るなぁ、と思ってざっと眺めたが、衝突時の安全基準にまつわるものが多いようだ。
 もとより軽自動車における衝突時の安全レベルなんてお察しである(それでも昔に比べれば解析設計により格段に安全性能が向上している)し、そもそも走行中の自動車が対人対物に衝突した際、ただで済ませようというのが相当に理想的な狂気 ── あるいは狂気的な理想 ── ではないか。

 だから我々ハンドルを握る者は、安全な速度と方法で車両を運行するのだ。
 車間距離を多めにとって、安全確認を怠らず、適切な速度で車両を操作する。

 つまり個人的には、衝突時の安全基準なんて、どうでもいい。
 当たれば誰かが死ぬ。運が良ければ怪我で済む。
 そういう認識をすべてのドライバの意識に搭載するほうがよほども手っ取り早くて安全だと思うのだけれど。
 どうやら免許試験(更新)だけでドライバーの質は上がらないらしい。

>>>

 病院の駐車場で、警備員に「ダイハツのお車、大騒ぎになってしまっていますね」などと言われる。
 もっともな話だ。ダイハツ車に乗っていない人ならなおさら騒ぐかもしれない。
 しかしまぁ、ここだけの話、当たらなければどうということはないというのなら、そういう運転に努めるだけである。

 何のことはない、今までどおり、いつもどおり、安全運転をするだけではないか。
 もちろんそれ「だけ」のことがどれほどむつかしく、緊張を伴うものかは、ドライバにしか分からないのだが。

 社会問題や法規制については僕の考えることではないから他人に任せておこうと思う。

 ずっと乗っていられるといいな。
 僕が思うのはそれだけだ。

 誰かに自慢するためだとか、衝突時の安全のためだとか、価格が安いからとか、売却時の資産価値とか、そういう目的で購入した自動車ではない。
 小さくて狭くて窮屈で不便で、それがいじらしくも可憐で素晴らしいのだから。



>>>

 帰宅後、頭痛がする。
 過眠頭痛である。
 このところ連日服用ではあるが、カフェイン剤を飲む。
 心理依存はないのだが、カフェインを摂っていると心拍数や血圧が一般的な数値に収まり、体調が安定する。
 ある種の身体依存と考えるべきか悩ましいが、離脱症状があるというわけでもないし、強迫的に摂取したいわけでもないから放置している。
 実際、カフェインを長期にわたって摂取しないときもあるのだし。

 摂取しないと体調が悪いことを考えれば、ある種の投薬と考えてもよいだろう。そもそもカフェイン剤でハイになるような気質でもないし。
 耐性があるのだと思うが、1日600mg程度摂取してようやく落ち着くこともあるから(コーヒーやお茶ならまだしも)製剤を飲むときは警戒してしまう。
 もちろんニコチンであれアルコールであれ、セックスであれ食事であれ、僕を依存体質にするようなものは今までの人生には存在しなかったわけだから、流行の過剰摂取なんてものに手を染めることはないと思っているが。

 家の空気が冷えて乾燥している。
 暖房器具をふたつほど稼働させ、最近入手した茶香炉で、古くなった茶を焚く。

 寒い夜だ。
 静かで、素敵な冬の夜だと思う。







 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭の引用は、
「マタイ伝福音書」第7章13節、および14節
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Car-Human-Night-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
滅びの詠を聴かせてあげる。
SUBTITLE:
~ The mutiny is as muting as mutation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::こうしてくれるなら、これだけあげましょう、というのは、普通のことではありませんか。つまり、お互いに利のあるものを交換するのだから、商売のうちのように思いますが。

::ええ、それが普通の仕事、つまり個人の営みであれば、問題ないのです。しかし、公の役職にある者は、本来その人間ができること以上の権限を、一時的に任されているわけです。公のもので、特に政(まつりごと)には、そういった役目が沢山あります。となると、そういう役職の者は、皆に等しく接する必要がある。ある特定の者に便宜を図ったのでは、任された権限を悪用したことに等しいのです。正しいものを差し置いて、金を沢山持ってきた者の言うことを聞くことになります。ときには、明らかに罪になるようなことを許したり、逆に、まったく罪のない者を捕らえて牢に入れることだってできてしまう。そういう権限が金によって左右されていては、世の秩序が乱れます。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 BP(高校からの友人)のことを20代になるあたりから「先生」と呼んでいる。
 一般代名詞や敬称のようにも感じられるそれが、実は彼のニックネームである。つまり彼に与えた固有代名詞だ。
 理由は彼のことを僕がちょっと見くびっているからなのだが、事情を知らない人がそれを見ると、ことあるごと「先生」と呼ばれるBPや僕との関係に少々誤解が発生するのでそれも含めて楽しい。

 バブル経済の頃、風営店の呼び込みに現在のような規制はなく「社長!」「先生!」と謎の代名詞によるキャッチが横行していた。
 ちょうどフィリピンパブなどが流行った時期だったからなのだろうか。
 多くの大人たちが、社長でもない人を社長と呼び、先生でもない人を先生と呼ぶ風潮があった。
 景気がよかったからこそなのか、学生起業家がニュースでも持てはやされる時代背景の中、個人事業主であろうと「社長」が今よりずっと手軽にありふれて転がっていた。

 そんな世相にあって「社長でもないのに社長と呼び、先生でもないのに先生と呼ぶのは、本質が違うのだから相手を馬鹿にしており失礼だ」と言ったのは上岡龍太郎氏だったか。
 なるほどそのような敬称で呼ばれて喜ぶ低能も世の中には居る。ために、おだてることを目的にそのような敬称を使う。
 おだてられる方も大概だが、おだてる方もたいした低能ではある。

 これは面白いと思い、BPだけでなく「これは!」と思った相手を、適合しない属性の敬称で呼び掛けることにしている。
 同じ低俗の汚名を(人知れず)着せられるのだが、にも関わらず、それは今なお魅力的な遊びである。

 無論BPにもこの原理は説明してあり、にもかかわらずBPはそれ(彼を見くびり、馬鹿にすること)を僕に許容してくれている。
 周囲の人は、同級生であるところの僕が彼を「先生」と呼ぶ風景を不思議に思うだろう。
 もはやそれは僕らの中では嘲弄ですらない。

>>>

 コンピュータプログラムによるプロジェクトを長期間運用したことのある人は分かると思うが、ひとつのシステムを運用しながら修正や改善を図るうち、完全刷新することが最適化として相応しいと判断される段階に到達することがある。

 システムの総体が肥大し鈍重になり、新しい環境に古い言語の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。
 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 コンピュータプログラムの場合、最新の環境に合わせ、修正パッチなど当てていない「正しい状態」を再構築した方が、システムは軽快に、速く正確に、適切な処理を行うことができる。
 もちろんその再構築というのは1から作り直すことであるから、手間も掛かるし気力も必要になる。
 業務として行ったり組織として取りかかる場合、それ以外にもいくつかのリソースが必要になるだろう。
 だからついついシステムエンジニアというのは、既存の動作しているプロジェクトにおける根幹をなるべく書き換えることなく、修正することで問題を回避しようと考える。場合によっては新規実装する予定の新機能をお蔵入りにする方が、相殺したリソースの損失が少ないと判断されることもあるだろう。

 長らくコンピュータプログラミングなどしていないが、システム構築の基本を僕はそのように心得ている。
 ソフトウェアに限らず、コンピュータに限定されず、ありとあらゆる構築物、人工物、生産物にこれは適用される傾向であり、おそらくは摂理である。
 たとえば衣服に開いた穴に継ぎはぎ(これもそういえばパッチと呼ばれる)を当てれば、本来の機能(保温や肌の保護や美装)を果たすことができるかもしれない。
 一方で仔細に見れば美観は損なわれ、一時的に向上したと思われる強度も長期的には大差なく(同じ部分が損壊したり、次に弱い他の箇所が痛んだりする)、
延命というのは、あくまで延命に過ぎず、永遠の命をもたらす魔法などどこにもないのだと思い知る。

>>>

 反政府組織を一向に結成する気配のない弟子が電話を掛けてくる。
 政治家のお金にまつわるスキャンダルが騒がれている、と騒いでいる。

 ちょうど最近、政治家になろうと思っていたのだと話す。
 めちゃめちゃ楽でお金が儲かる。ついでに各種税金に優遇措置がある。相続税も方法次第で掛からないらしい。
 これはオカネモチーになったら一度は考慮すべきことではなかろうか。

 現状で所属するなら自民党だが、自民党に限らず、与党がよい。
 巨大組織にあって、椅子取りゲームの議席を埋める頭数として用意されたタレント議員のように、とくに何もせず、上席におもねり、イエスマンに徹し、党なり派閥なりの最終意見に迎合しておけばよい。あとはのんびりぼんやり、議席で昼寝をするだけだ。昼寝なら得意だ任せておけ。
 多数決原理で物事の正当性を主張することを根幹とする日本国の民主主義システムにあっては、正しく多数派に属することに意義がある。
 議席での発言は、おそらく誰かがシナリオを書いてくれる。
 何となれば個人の政治思想や政策も、誰かが用意してくれるだろう。

 答弁の問題と解答も文書で用意されているから、あとは朗読するだけだ。朗読なら得意だ任せておけ。
 アドリブが必要な場面もあるだろうが、テキトーなことをなんとなくそれっぽく、深く物事を考えているかのように思わせつつ実は何も言っていないということをさせるとなかなか優れた能力を発揮する僕の特性にぴったりである。テキトーで中身のない発言は任せておけ。
 いざとなれば誰かの思い付いた(これまたテキトーな)フレーズをまるっとパクって「適切な時期にご説明いたします」とか「現在は係争中ですので」とか「捜査段階にあるため」などともっともらしく言い訳をして凌げばよい。言い訳なら任せておけ。

 こう考えると僕は政治家向きな気がするのだ。あとは世襲させる子供が居れば完璧だろうが、そんなものはあとからいくらでも用意できる。
 女性にだらしないので失脚材料も手軽に用意できる。スキャンダルも得意だ任せておけ。

 ひとたび与党の政治家になれば、金で権力を買いたい企業が放っておかないだろう。ボロ儲けである。非課税で様々な特権まで用意されている。
 きっと人々から「先生」「先生」と、先生でもないのに褒めそやされることだろう。メカニズムを心得てなお、錯覚というのは発生する。
 自分が偉くなったような錯覚をするのも得意だ任せておけ。

 今のところ僕は庶民なので、Webニュースなどを見ては「国民を馬鹿にするな」などという書き込みを目にすることもあるが、彼らはそもそも国民を馬鹿になどしていない。そういうのはそれなりに近しい対象に抱く評価なのだ。
 たとえば僕らが気付かず小さい昆虫を踏み殺したとき、相手を無視したり馬鹿にした結果踏み殺しているだろうか。そんなことはあるまい。
 ゴキブリや熊を殺すときも同様、恐れこそすれ、馬鹿にしているから殺すわけではあるまい。ただ邪魔なだけだ。
 人を人とも思わないのも得意だ任せておけ。

 そのようなわけで、お金は儲かるわ先生と呼ばれて尊大に振る舞えるわクズどもを無視して嘘を吐いて昼寝をして特権を振りかざしてテキトーで中身のないことを体現すればよいのだからこんなに僕に適した職務はない気がするのだ。
 
 
>>>

 それではと、今から経済を敵に回して共産主義国家になった場合どうなるかというのは、昨今の共産主義国家首長の専横から明らかである。
 経済であろうと権力であろうと、平等を求め、それをシステムとして体現しようとしたはずなのに、自由競争をさせても、協調分配させても、結局特定の領域に集中してしまう。
 これはおそらく集団の持つ特性だ。大量の水を穴に落とすと渦ができる。あれと同じようなものだろう。

 それが摂理や原理だったとすれば、抗うだけ無駄というものだ。
 水は低きに流れ、質量の高いものは他のものを引き寄せる。
 僕の手がガールのおっぱい(高質量)に引き寄せられるのもまた自然現象である。

 問題はそれらの原理摂理を心得た上で、いかなる設計をして、どのように具現実装するかだ。
 でも大丈夫。そういうのは優秀エリートとして褒めそやされて育った誰かがシナリオを用意してくれるはずだから。
 そのエリートにはこれまた優秀エリートの上司がいて、エリート組織が適切な未来を設計して誘導しているはずだから。
 様々な自然的、人間的、組織的、集団的、原理原則摂理を心得た誰かが、綻び続けるシステムに新しいパッチを当てて、万事最適化されるのだ。

 ── 本当に?

>>>

 生命には死がプログラムされている。

 誕生があり、成長があり、増殖(生殖)があり、死がある。

 環境は変化し、システムは最適化を繰り返し、パッチを当てて順応する。

 やがてシステムの総体は肥大し鈍重になり、新しい環境に古いシステム根幹の互換性を強要して齟齬が重なり、更なる追加修正を余儀なくされる。

 そうやって柔軟性を失い、硬化し、質量を増して鈍くなり、冠動脈硬化による梗塞を起こした心臓のように、全体に対する機能不全を誘発する。

 我々が望み、導き、至るのは繁栄か、衰退か。あるいは死か、再生か。

 それとも。
 自分がよければそれでいいのか。
 独善と利己なら得意だ任せておけ。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::では、それはしてはいけないことになっているのですね?

::そうです。そう定められています。しかし、実情はそうではない。裏でこっそり取引をすれば、取り締まることも難しい。ただ、大きな金が動くことがあるので、度が過ぎると、表からもわかるようになりますね。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Better Half ]
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Kidding-Life-Link-Mechanics-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231205
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
死なない僕の潔癖症。
SUBTITLE:
~ The Eutopia. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。

::もちろん現実世界ではそれでいいと思うよ。
 でもね。完璧を目指さず、完全を望まない ── そんな思想に作られたものなんて、現代アートの作品にさえなれないまま廃棄処分されるのがオチだ。
 何かを作るというのは、たとえそれが自己満足だとしても、そのときの完璧を極限まで目指すことだと思う。
 それを目指さないのは自己欺瞞だよ。既製品で済ませて、他の誰かに任せれば済むじゃないか。
 他の誰かに任せた方がいいのなら、何も作らない方がマシだということになる。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 国賊が大手を振って世を治めているということについて、なぜか今頃ニュースになっている。
 みだりに憶測でものを言うべきではないが、検察機関さえ掌中にしようとしていたように観察される政治家が不在になったのでようやく明るみに出るようになった、と考えるのは短絡に過ぎるようにも思える。
 この国は個人が治めているわけではない。集団がそれを行っているのだ(だから派閥だの党だの議席だのと、多数決ならではの愚かしい習わしに囚われることになる)。
 たとい統治者が国賊であろうとも、それは個人ではなく、集団によって醸成された存在だ。
 ために政治家というのはだいたい個人として見れば、市井の者よりあたたかく豊かな人間性を持ち、人格者であることも多い(もちろんあからさまな例外もいるが、少数だ)。
 統治組織や集団が、あるいはそのシステムに発生する淀みが国賊を生み出すというなら、そのシステムは一体何者によって構築され、あるいは何者によって改善されるというのだろう。

 それらシステムが全き清廉潔白な出力を行うまで、我々は何をすればよいというのだろう。何ができるというのだろう。
 考えるほど無力に思える。
 鉛筆書きを推奨される(場所によっては強要される=持参したボールペンの使用を禁止される)投票用紙さえ、疑いだしたらきりがなくなる。
 人間などよりAIのほうがよほども信頼に足るのではないかと僕などは思ってしまう。

>>>

 生来、潔癖症である。理由は分からない。
 子供の頃から正義感が強かったが、その倫理がどこから来たのか、来歴を探るにもさっぱり分からない。
 文字を知らない頃から百科事典などを読んで過ごしたせいだろうか。
 整っているもの、完全なものに対する憧憬が、心根に育ったのかもしれない。
 もちろん完全主義にせよ、潔癖症にせよ、それはヴァーチャルを基盤にしたまやかしである。

>>>

 物質的潔癖症は、弱い身体を使う上で、一定の役に立った。
 第二次性徴が始まる以前の、特に虚弱だった頃はことさら。
 身体が安定するにつれ、しかしその潔癖症は無駄だと思うようになった。
 バブル期の中後期、殺菌/抗菌/滅菌ブームがあったが、その頃にはすでに僕の物理的潔癖症は終わっていた。
 高校時代に所属していたボランティアの関係でキャンプなどを多くしたこと、恋人ができて身体を重ねたことなどが多く影響したように思う。

 精神的潔癖症は、しかしまだ残っていた。
 僕の一部はとりもなおさず自分の正義感を疑わず、一方で自分の中に脈打つ邪さや猥雑さについて、取り扱いに難儀していた。
 そして振り返るにその精神的潔癖症は、僕に利益をもたらしたことがなかった。

 どんな些細なものであっても不義や不正を認めないことは、たとえば子供の仲間内の悪ふざけであっても場の空気を乱し、白けさせるには十分な性質だった。
 しかし場の雰囲気や集団の空気を重んじるという性質を持たなかったので ── 今思えばそれなりの大家族だったのに、よくもそんなに勝手に育つことができたな、とは思うが ── 何よりも自身の正義感が先んじてしまい、学級内の大きなグループから目を付けられるということが6歳の頃からあった。

 あるいはその正義感に則って、格好良いことを言ったものの、常にそうした行動を取れるかとなるとそうもいかないことが次第に増えた。
 思考はより複雑になり、属する集団が増え、人間関係は広がり、規範はシーンによって微妙に変化した。
 Aという集団に属しているがためにBさんに賛同できず、Cという集団に属するときはBさんに賛同しなくてはならない、そういう場面だ。
 もちろんその場において、所属する集団に関係なくその意志を表明することに意義があり、かつそれが可能ならまったく問題はないだろう。
 しかし実態はどうか。

 自分の信条とする正義が確固たるものであればあるほど、それがヴァーチャルに完璧であればあるほど、その正義自体が息苦しく、それを当てはめられた自分の心は行き場をなくしていった。
 たとえば僕は肉体の成長に伴って、正しく女性に対して性欲を持つようになったが、自分が男性であることを許容できなかった(解決済)。
 たとえば僕は男たちが女たちをモノのように扱うことについて、たとえ冗談であっても許容することができなかった(解決済)。
 たとえば僕は明確な目的を持つ集団において、目的のためと偽って秘密裏に行われる不正を許すことができなかった(解決済)。
 たとえば僕は独善的な基準によって他者を断罪し、それを振りかざすことで暴力や権利侵害をするような人間を許すことができなかった。

 もちろん思考や精神がある程度成熟し、より複雑かつ柔軟に成長していれば問題はなかったと思うが、自身の中に棲まう正義感によって10歳の頃には窒息させられそうになっていた僕にとって、どこかで、何かを、決定的に、不可逆的に、殺す必要があった。

>>>

 自分以外の誰かを殺すことによって正義を達成することは無理だということにはすぐ気がついた。
 それをすることができたら、どんなに胸がすくだろうかとは思ったが、どんなに僕の中の正義が正しくても、それをすることは矛盾を引き起こし、また完璧に完遂することは不可能だと理解できた。
 個人が独善に従って他者を裁くことの危険性については、もともとその正義感に含まれており、論理の上でも9歳の頃には自覚していたため、僕はこれら一切を却下した。なので僕は、どんなことをされても、意図的に個人を裁いたことがない。

 自分自身を殺すことについてはずっと計画されている。
 それを実行しないのは、その後始末についての自動化が、まだ実行できる段階にないからだ。
 ずっと計画していた甲斐があって、僕は計画当初よりずっと綺麗に世を去ることができる。
 ただ残念なことに、より完璧を目指すなら、それは今ではない。
 関わりを持っている ── さらには絶つことができない(絶つことで別の関係が構築されてしまったり、別の業務が発生してしまう) ── 人間がそれでもいて、それらは将来的にもっと少なくなることが明確であるため、可能な限りのソフトランディングを目指している。

 それであるときから僕は自分の中の正義を、潔癖症を、可能な限り徹底的に壊すことにした。
 自分の中にあるタブーというのは、しかしさほど多くはなかった。
 たとえば法を犯すことについても、他人に迷惑を掛けず、他人に危害を加えたりせず、隠蔽可能なものであれば試してみることにした。
 飲酒や喫煙は非常に容易だった。しかし得るものは多くなかった。
 結局、僕の抱えている(あるいは僕を拘束している)正義というのは、法によるものよりは、より道義や倫理と呼ばれるものに近しいものだったからだ。

>>>

 詳細はあまり書きたくないが、僕は不義を自身に許容した。
 貞操を無視した(僕の場合、27人の恋人がいる状態を維持するにはそれが手っ取り早かった)し、生き物を殺す際はかならずその無慈悲を意図し、意識し、自覚的に行うようにした(端的に釣りや料理やガーデニングは合法的にそれを行える)。

 人を騙して意図的に搾取する行為は、さすがにできなかった。しかし会社員として生きている中で、それらを見る機会は散々にあった。
 騙すという言葉の定義が、悪意の有無ではなく相手の誤認を含むなら、相手が望んだものに100%合致しなかっただけで僕だって相手を騙したことになる。そう考えるのはむしろ容易だが、そういう潔癖症が危険だからこそ、僕は自分の基準に幅を持たせようとして現在に至るので認めるわけにはいかなかった。
 過去にまで遡及して僕を断罪したい人がもし居るなら、教えて欲しいとさえ今は思う。

 僕は現実世界と折り合いを付けることに成功し、暫定的にでも自身の存在や生命に意味を見出すことができた。
 それは仮初めかもしれないが、他者に影響を与えることなく、自身のルールを完遂できるなら問題ない。

>>>

 ともすれば「6歳以前」と呼んでいる人格を使って生きている現在は、その潔癖症を再発させているのだろう。
 僕は自分の独善によって孤独を選び、人を避け、なるべく他人と交わらないように生きている。
 他人と関わらないことが今より困難な頃であっても、65歳前後には自害するように計画されていた。
 いずれもあの頃に描いたヴァーチャルの具現だ。
 僕の求める幸せは、両手の上に乗るくらい、やわらかくて小さくてあたたかい無機質で十分なのではないのか。

 この潔癖症に、たぶん出口はない。
 まるで爆弾のようなこれを抱えていることは、僕を安心さえさせる。
 偽善であっても独善であっても、よりどころには変わりないし、他者から隠蔽し、他者との関係を持たないようにしている限り、その存在は僕以外の誰にも意味を持たない。

 他人を傷つける可能性を含み、他人を利用する可能性を許諾し、それでも他人と関わる方が健全だろうか。
 僕は他人から傷つけられることはないし、他人から利用されることを回避できるが、僕以外の誰かが僕から影響を受けることを、関係を持ちながら避けることはできない気がする。思い上がりかもしれないが、誰かと関係を持っているというのはそういうものだろう。

 おそらく集団性や社会性という規範において、僕が他者と関わることは健全だ。
 しかし僕の潔癖症において、それは不健全だ。

>>>

 かつて僕に謝罪を求めた人間がいる。
 きっと僕はそれらの人を傷つけ、あるいはその人の持つ善意を利用(悪用)したと認識されたのだろう。

 断罪された僕は謝罪をしただろうか。
 おそらくしなかったと思う。少なくとも本心では。
 なぜといって潔癖症の僕にとって、謝罪など、何の意味も持たないからだ。
 思考や計画によって規範や行動を変化させ、ミスを再発しない改善こそ真の意味での謝罪だろう。

 潔癖症が僕を(あるいは僕が意図した誰かを)殺し、しかし潔癖症を捨ててもだらしなさや無神経さが他者を傷つけるというなら。

>>>

 しかし思うのだが、僕はなぜ生きているのだろう。生き続けているのだろう。
 死なないため。死ねないため。
 ただそれだけの理由で生きているなんて、不毛ではないか。
 不毛ではあるのに、しかし、計画をご破算にするわけにはいかないのだ。








 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::でも僕が作ったモノは、いつもどこかいびつになってしまう。
 技量が足りないのかもしれないし、あるいはそもそも思慮が足りないのかもしれない。
 知識が足りず、計画や設計が至らず、不器用なためにこうなってしまうとしたら。

::猫様はそれがお厭ですか?
 完璧である必要などありません。必要を満たすなら、それでよいではありませんか。
 それに明日は、今日よりもっと上手にできるはずですよ。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:暗闇エトランジェ:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:231123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
熊と信仰。

Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::橋が無駄だという以前に、池や島が無駄で、それを言うならば、この寺がそもそも無駄だ。このような建物がなくても誰も困らない。仏の像も、いったい何の飾りなのか、自分にはまったく理解できない。僧侶は、人に仏の道を教え、正しく導くことが仕事だと聞いたが、それに、このような立派な建物や、金の仏像がどう役立つのかが、わからないのである。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 世俗では熊と宗教家の死が持てはやされているらしい。
 え? もうそんな話題は古い?
 なにそれ群馬県だけ自転速度が亜光速なの? 俺のベッドだけコールドスリープが可能なの?

 しばらくニュースも見ないようにしているうち、世間の話題に取り残された(困らないから良いが)。
 BPや周囲の一般的な人の意見を総合するに、人間の生活圏に入り込んだ熊は殺せというのが人の総意ということでよさそうだ。
 群馬や栃木も少し山に近づけば、朝のゴミ出しでさえイノシシを見かけ、さらに奥に行けば鹿や熊を見ることもある。
 ああした獣は話が通じるわけでも飼い慣らすことができるものでもないので、ひとたびこちらに向かってくるとなれば相応の対処が必要になる。

 僕の個人的意見(意見はすべて個人的だと思うが)も、熊は殺せ、で一致している。
 僕は畜生という畜生について(たとい己が飼い猫であっても)人に迷惑を掛けるなら殺すくらいで丁度いいと考えるくらいなので、そりゃ熊など殺せと考えるのである。
 無論、熊の生活圏に入り込んだ人間が殺されるのもまた仕方ないことだろう。それが自然の摂理であり、熊を含む野生生物の道理である。
 だからといって熊退治のために森や山を焼き払うようなことをするのは野蛮が過ぎると思うが。

 世俗が騒いでいるのは、殺された熊(あるいは今後も殺される熊)に同情し、つまりは過剰な愛護精神を発揮するあまり、捕獲をした者や捕獲を命じた役所に電凸する(少数の)不埒者がいるということのようだ。
 その(少数の)不埒者の筆頭に上がった組織に対しこれまた電凸する(少数の)不埒者もいるらしく、こうなるとちょっとした電凸不埒者合戦のようにも思えるが、つくづくも無駄なことだと個人的には思う(思うことなんてだいたい個人的だが)。

 SNSにしろニュースにしろ、そうした少数派の意見が一般論かのように認識されてしまうこともあるようだ。
 少なくとも僕の周囲には「熊がかわいそう」派はいない。群馬県だからだろうか。自転速度が亜光速だからかもしれない。

 理想というのはときにエゴなのだろう。
 ライオンの隣でヒツジが眠るような世界は存在しない。
 夢想するのは結構だけれど、畜生は畜生である。
 ときどき人のカタチをしている畜生もいるから油断ならない。
 いやだから僕を指さすのはやめてよ〜。

>>>

 宗教といえば、いくつかの宗教をハシゴしたことは以前も書いたことがある。
 創価学会も、エホバの証人も、モルモン教も、霊波の光も、集会やイベントに参加したことがある。
 何となれば創価学会は会員になっているかもしれない(入信させられたものの退会した覚えがない)が「ご本尊様」と彼らが崇め奉っている布と紙の化合物については部屋のスペースの邪魔になるので、遠い昔に燃えるゴミに出してしまった。ために物証はない。

 弟子は霊波の光の正式な信者であるし、友人にはカトリックのクリスチャンもいる、姉のうち1人はたしかモルモン教の洗礼を受けている。
 日本というのは信仰の自由が認められているのだが、信仰を白い目で見る「反宗教」という信仰が根強い。
 おそらく勧誘行為を行う宗教の、勧誘行為そのものが悪質であったり、あるいは宗教団体の行いが悪質であった経緯を反映したためだろうと想像する。

 集団なので、権威主義的になる部分はあるように観察される。
 キリスト教の系統はさほどでもないが、日本人の性質上なのか、教義や教典の勉強よりも、無駄な会合などを好む傾向があるように観察される集団もある。
 そういう宗教はどういうわけか「青年部」「壮年部」「婦人部」などのような年齢ごと/性別ごとで集団を細分化していることが多く、もしかしたら国内の宗教に特有の傾向かもしれない。
(もっとも生粋の仏教にはそのような仕組みはなさそうに感じられるが、集会などに参加する機会がなかったので正確なところは分からない)

>>>

 そもそもアナーキストでラケンローを自称する僕が、どうしてそんなにたくさんの宗教に首を突っ込んだのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
 理由は単純に宗教が嫌いだから、である(人間型の恋人をたくさん作ったのも同様の理由である)。
 これまでの経験上、観察する範囲において、多くの人は単純に嫌悪感があるというだけでその対象を忌避する。
 好きなものについてはあれこれ理由を挙げて、論拠を固め、自分の中でその嗜好をより固めてあまつさえ吹聴までする一方、嫌いなものに対しては詳細な論拠を作らず「嫌いだから嫌い」という分かりやすい感情論だけで一掃することが多い。
 どこが嫌いなのか、どのように嫌いなのか、という問いに対して「嫌いだから嫌い」という感情論で回答するのは容易だしその効果は強い。
 一方、非常に幼稚な理屈であることも否定できない。

 その理屈の弱さを僕は嫌った。
 明確な論拠のもと「あなたの崇拝している宗教はこういう悪質な部分があり、こういう矛盾を抱えている。私はあなたの信仰の自由を否定する気はないし、崇拝する対象を愚弄するつもりもないが、しかしその宗教を嫌っている。よって勧誘しないでほしい」ときちんと答えたいと思ったのだ。
 嫌悪感があるから遠ざけ、遠いから無知なまま、根拠も理解もなく嫌うということを嫌った。そうしなければ「私の信仰は他のそれとは違う」ということを根拠に勧誘する相手のこと許容せざるを得ない。理屈のない嫌悪は「これは違う」という対象を比較する根拠を持たない。
 相手が勧誘してくる信仰が、私を勧誘してくることに対して理屈をもって否定するためには、相応の観察が必要なのだ。
 自分が宗教を嫌いな理由をきちんと見つけようと思った結果、勧誘される宗教に直接的な危険を感じない限り、されるがままに勧誘されたというわけだ。

 むろん神など(唯一絶対のネコノカミサマを除いては)信じていない。
(ネコノカミサマというのは量子論的な気まぐれと混沌の神様だが、信者が僕しかいないのが現状だ。宗教法人を立ち上げようかな)
 それでも人間が信じるものがどのようなものかは知りたいと思った。広く人間を信じたいと思ったからだろう。

>>>

 会合を好むタイプの宗教は、結果的に集団的である。
 集団的というのは教義や教典 ── つまりは理念が優先されるのではなく、権威や統率者、集団のヒエラルキィや、その集団に属することが優先されるように観察される。
 後者は結果的に人間を崇拝することに繋がってしまう。宗教として、これは決定的な欠陥である。なぜといって人間は完全ではなく、普遍でも不変でもない。

 その意味で、科学や数学というのは信仰の対象として非常に優れている。
 科学は普遍であり、とくに自然科学の法則や数学的真理は遠い昔から永遠に不変のものだろう。

 もちろん僕の知る範囲において、いかなる宗教にも教義があり、あるいは教典があり、勉強会があり、学ぶべきものがあった。
 たとえば創価学会でも、仏教に基づいていると思われる六道についての勉強があったりした。
 一方で会合となると(下らない内容だったのでほとんど記憶にないのだが)営業成績報告会のような、個人的な目標に対して、その報告を全員の前でするというような、宗教の理念からはかけ離れたどうでもいい内容のものばかりだった。
 聞くところでは、弟子の信仰にも同じような会合があるように観察される。とくに僕から述べることは何もないが、無駄だとは思う。集まることで使われる時間や気力を別のことに使えばいいのに、と僕は思う。
 おそらく各種イベントも含めて観察するに、人間というのは意味もなく集まりたいものなのかもしれない。

 先の科学崇拝にしても、何を間違えたのか(他人からの影響によるものと思うが)エセ科学的な風評に流されてしまう人もいる。直近では、コロナウイルスやそのワクチンに関連した論拠に乏しい私見を、あたかも化学的正論のごとくに吹聴する人もいる。
 SNSも、その存在や役割が非常に宗教的だと僕は思う。
 人と集まる機会の少なかった時代には、たとえば地区の役員会や隣組、PTAなどのように、人が人と接するチャンネルのひとつとして宗教もその役割を果たしていたのだと思う。
 無目的に(あるいは目的が明確なサービスもあるが)SNSを通じて、同じような趣味や考えの人と接点を持ちやすくなった結果、既存の会合はその役割が本来的にあまりにも貧弱なために存在意義を問われる結果になっている。

 それでは人々の崇拝している(崇拝と言うのが問題なら依存と言えばいいか)SNSとやらは、教義も理念もないから親しみやすいぶん、野放図的でときに危険でさえあり、人の集まりたいという原始的な欲求を満たしているに過ぎない。

>>>

 ちなみにカトリックのクリスチャンである友人は、自身の信仰についてこちらから問わないかぎり、ほとんど何も語らない。
 もちろん(ほとんどのキリスト教系の宗教に漏れず)教会にゆけば毎週のように集会があるだろうし、クリスマスのイベントや洗礼の儀式などはあるだろうけれど、彼はそうした宗教活動にほとんど参加していないように観察される。
 にもかかわらず彼はきちんと信仰心を持っているようにも思える。つまり理念があるように観察され、感じられるのだ。

 僕が思うに、宗教や信仰というのは、つまるところそういうものなのだ。
 外に求めて形にし、誰かと共有して結束を深める類いのものではなく、己の中で、かくとその存在をあらためるような。


<ウマー!(ねこです)>

>>>

 結論と呼ぶほどの結論はないが、宗教について言うなら、勧誘などせずとも日本で存続している宗教はある。
(カトリックもそうだし、仏教の多くもそうだ)
 だから素晴らしい、と言うつもりはない。
 同様に勧誘する宗教だから浅ましいと一概に言うつもりはないし、無意味な会合を持つ宗教だから下らないと断ずるつもりもない。

 少なくとも、信仰がないよりはあったほうが良いと僕は思っている。
 むしろ信仰を持たないで生きていられる人を見たことがない。
 必ずといっていいほど、何かを信じて人は生きている。
 具体的ではない、実体のない、概念的な何かを信じて生きている。

 無頼気取りの人間も、力には弱いものだ。つまり力というものを崇拝しているといえる。
 また多くの人は経済(正確には通貨)を信仰しているが、その崇拝対象は人間の手で作られている。
 宗教嫌いという信仰がもっともタチが悪く、人間不信の根源となって世の中を荒廃させている。
 信仰している対象の矛盾を考えない人も多い。これは嫌悪する対象の理屈を考えないからだろうとも思える。
 その意味において、嫌いなものも好きなものも、信じる対象も疑う対象も、すべて等しいのだといえる。
 対象が同じだというのではなく、それに対する自身の姿勢や行動が同じなのだ。
 浅い考えで何かを信じる者は、浅い考えで何かを嫌う。

 浅いから、表面しか見ないから、踊らされて、ときに不本意な結果に身を浸す。
 それは信じた対象が悪かったのだろうか。
 それとも自身の信仰心が足りなかったのだろうか。

 僕には単に考えが足りないように思えるのだけれど。
 信仰を持つことと深く考えることは、相反するものではなく、それどころかとても近しいもののように思えるのだ。
 いたずらに宗教を毛嫌いするのは、たとえるなら熊殺しを「かわいい動物を殺している」というファンタジィで語るようなものだ。
 熊が可愛いってディズニー映画の見過ぎかよ。

 潔癖症も妄想癖もヴァーチャル脳も結構だけれど、いい大人なら、知らないものを知らないことについての自覚くらいはあってよいと思う。
 あるいは知っていることを知っていると過信しない謙虚さが。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::風流とは、実は何のことかわからない。ただ、言葉でそう聞いただけだ。しかも、ノギ自身の口から聞いたので、本当のところはわからない。冗談を真顔で言う人だからだ。
 しかし、彼女は根は正直者である。それはよくわかっている。今のところ、人間にとって最も大切なことは、この正直さだと自分は考える。それは、ある特定の相手に対する正直さではなく、もっと広く周囲の皆に、また己に対し、そして、自分の生き方にも及ぶ正直さだ。


 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Link-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
:君は首輪で繋がれて:
 
//EOF