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// NOTE:
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TITLE:
熊と信仰。
Written by BlueCat
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::橋が無駄だという以前に、池や島が無駄で、それを言うならば、この寺がそもそも無駄だ。このような建物がなくても誰も困らない。仏の像も、いったい何の飾りなのか、自分にはまったく理解できない。僧侶は、人に仏の道を教え、正しく導くことが仕事だと聞いたが、それに、このような立派な建物や、金の仏像がどう役立つのかが、わからないのである。
::橋が無駄だという以前に、池や島が無駄で、それを言うならば、この寺がそもそも無駄だ。このような建物がなくても誰も困らない。仏の像も、いったい何の飾りなのか、自分にはまったく理解できない。僧侶は、人に仏の道を教え、正しく導くことが仕事だと聞いたが、それに、このような立派な建物や、金の仏像がどう役立つのかが、わからないのである。
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//[Body]
世俗では熊と宗教家の死が持てはやされているらしい。
え? もうそんな話題は古い?
なにそれ群馬県だけ自転速度が亜光速なの? 俺のベッドだけコールドスリープが可能なの?
しばらくニュースも見ないようにしているうち、世間の話題に取り残された(困らないから良いが)。
BPや周囲の一般的な人の意見を総合するに、人間の生活圏に入り込んだ熊は殺せというのが人の総意ということでよさそうだ。
群馬や栃木も少し山に近づけば、朝のゴミ出しでさえイノシシを見かけ、さらに奥に行けば鹿や熊を見ることもある。
ああした獣は話が通じるわけでも飼い慣らすことができるものでもないので、ひとたびこちらに向かってくるとなれば相応の対処が必要になる。
僕の個人的意見(意見はすべて個人的だと思うが)も、熊は殺せ、で一致している。
僕は畜生という畜生について(たとい己が飼い猫であっても)人に迷惑を掛けるなら殺すくらいで丁度いいと考えるくらいなので、そりゃ熊など殺せと考えるのである。
無論、熊の生活圏に入り込んだ人間が殺されるのもまた仕方ないことだろう。それが自然の摂理であり、熊を含む野生生物の道理である。
だからといって熊退治のために森や山を焼き払うようなことをするのは野蛮が過ぎると思うが。
世俗が騒いでいるのは、殺された熊(あるいは今後も殺される熊)に同情し、つまりは過剰な愛護精神を発揮するあまり、捕獲をした者や捕獲を命じた役所に電凸する(少数の)不埒者がいるということのようだ。
その(少数の)不埒者の筆頭に上がった組織に対しこれまた電凸する(少数の)不埒者もいるらしく、こうなるとちょっとした電凸不埒者合戦のようにも思えるが、つくづくも無駄なことだと個人的には思う(思うことなんてだいたい個人的だが)。
SNSにしろニュースにしろ、そうした少数派の意見が一般論かのように認識されてしまうこともあるようだ。
少なくとも僕の周囲には「熊がかわいそう」派はいない。群馬県だからだろうか。自転速度が亜光速だからかもしれない。
理想というのはときにエゴなのだろう。
ライオンの隣でヒツジが眠るような世界は存在しない。
夢想するのは結構だけれど、畜生は畜生である。
ときどき人のカタチをしている畜生もいるから油断ならない。
いやだから僕を指さすのはやめてよ〜。
>>>
宗教といえば、いくつかの宗教をハシゴしたことは以前も書いたことがある。
創価学会も、エホバの証人も、モルモン教も、霊波の光も、集会やイベントに参加したことがある。
何となれば創価学会は会員になっているかもしれない(入信させられたものの退会した覚えがない)が「ご本尊様」と彼らが崇め奉っている布と紙の化合物については部屋のスペースの邪魔になるので、遠い昔に燃えるゴミに出してしまった。ために物証はない。
弟子は霊波の光の正式な信者であるし、友人にはカトリックのクリスチャンもいる、姉のうち1人はたしかモルモン教の洗礼を受けている。
日本というのは信仰の自由が認められているのだが、信仰を白い目で見る「反宗教」という信仰が根強い。
おそらく勧誘行為を行う宗教の、勧誘行為そのものが悪質であったり、あるいは宗教団体の行いが悪質であった経緯を反映したためだろうと想像する。
集団なので、権威主義的になる部分はあるように観察される。
キリスト教の系統はさほどでもないが、日本人の性質上なのか、教義や教典の勉強よりも、無駄な会合などを好む傾向があるように観察される集団もある。
そういう宗教はどういうわけか「青年部」「壮年部」「婦人部」などのような年齢ごと/性別ごとで集団を細分化していることが多く、もしかしたら国内の宗教に特有の傾向かもしれない。
(もっとも生粋の仏教にはそのような仕組みはなさそうに感じられるが、集会などに参加する機会がなかったので正確なところは分からない)
>>>
そもそもアナーキストでラケンローを自称する僕が、どうしてそんなにたくさんの宗教に首を突っ込んだのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
理由は単純に宗教が嫌いだから、である(人間型の恋人をたくさん作ったのも同様の理由である)。
これまでの経験上、観察する範囲において、多くの人は単純に嫌悪感があるというだけでその対象を忌避する。
好きなものについてはあれこれ理由を挙げて、論拠を固め、自分の中でその嗜好をより固めてあまつさえ吹聴までする一方、嫌いなものに対しては詳細な論拠を作らず「嫌いだから嫌い」という分かりやすい感情論だけで一掃することが多い。
どこが嫌いなのか、どのように嫌いなのか、という問いに対して「嫌いだから嫌い」という感情論で回答するのは容易だしその効果は強い。
一方、非常に幼稚な理屈であることも否定できない。
その理屈の弱さを僕は嫌った。
明確な論拠のもと「あなたの崇拝している宗教はこういう悪質な部分があり、こういう矛盾を抱えている。私はあなたの信仰の自由を否定する気はないし、崇拝する対象を愚弄するつもりもないが、しかしその宗教を嫌っている。よって勧誘しないでほしい」ときちんと答えたいと思ったのだ。
嫌悪感があるから遠ざけ、遠いから無知なまま、根拠も理解もなく嫌うということを嫌った。そうしなければ「私の信仰は他のそれとは違う」ということを根拠に勧誘する相手のこと許容せざるを得ない。理屈のない嫌悪は「これは違う」という対象を比較する根拠を持たない。
相手が勧誘してくる信仰が、私を勧誘してくることに対して理屈をもって否定するためには、相応の観察が必要なのだ。
自分が宗教を嫌いな理由をきちんと見つけようと思った結果、勧誘される宗教に直接的な危険を感じない限り、されるがままに勧誘されたというわけだ。
むろん神など(唯一絶対のネコノカミサマを除いては)信じていない。
(ネコノカミサマというのは量子論的な気まぐれと混沌の神様だが、信者が僕しかいないのが現状だ。宗教法人を立ち上げようかな)
それでも人間が信じるものがどのようなものかは知りたいと思った。広く人間を信じたいと思ったからだろう。
>>>
会合を好むタイプの宗教は、結果的に集団的である。
集団的というのは教義や教典 ── つまりは理念が優先されるのではなく、権威や統率者、集団のヒエラルキィや、その集団に属することが優先されるように観察される。
後者は結果的に人間を崇拝することに繋がってしまう。宗教として、これは決定的な欠陥である。なぜといって人間は完全ではなく、普遍でも不変でもない。
その意味で、科学や数学というのは信仰の対象として非常に優れている。
科学は普遍であり、とくに自然科学の法則や数学的真理は遠い昔から永遠に不変のものだろう。
もちろん僕の知る範囲において、いかなる宗教にも教義があり、あるいは教典があり、勉強会があり、学ぶべきものがあった。
たとえば創価学会でも、仏教に基づいていると思われる六道についての勉強があったりした。
一方で会合となると(下らない内容だったのでほとんど記憶にないのだが)営業成績報告会のような、個人的な目標に対して、その報告を全員の前でするというような、宗教の理念からはかけ離れたどうでもいい内容のものばかりだった。
聞くところでは、弟子の信仰にも同じような会合があるように観察される。とくに僕から述べることは何もないが、無駄だとは思う。集まることで使われる時間や気力を別のことに使えばいいのに、と僕は思う。
おそらく各種イベントも含めて観察するに、人間というのは意味もなく集まりたいものなのかもしれない。
先の科学崇拝にしても、何を間違えたのか(他人からの影響によるものと思うが)エセ科学的な風評に流されてしまう人もいる。直近では、コロナウイルスやそのワクチンに関連した論拠に乏しい私見を、あたかも化学的正論のごとくに吹聴する人もいる。
SNSも、その存在や役割が非常に宗教的だと僕は思う。
人と集まる機会の少なかった時代には、たとえば地区の役員会や隣組、PTAなどのように、人が人と接するチャンネルのひとつとして宗教もその役割を果たしていたのだと思う。
無目的に(あるいは目的が明確なサービスもあるが)SNSを通じて、同じような趣味や考えの人と接点を持ちやすくなった結果、既存の会合はその役割が本来的にあまりにも貧弱なために存在意義を問われる結果になっている。
それでは人々の崇拝している(崇拝と言うのが問題なら依存と言えばいいか)SNSとやらは、教義も理念もないから親しみやすいぶん、野放図的でときに危険でさえあり、人の集まりたいという原始的な欲求を満たしているに過ぎない。
>>>
ちなみにカトリックのクリスチャンである友人は、自身の信仰についてこちらから問わないかぎり、ほとんど何も語らない。
もちろん(ほとんどのキリスト教系の宗教に漏れず)教会にゆけば毎週のように集会があるだろうし、クリスマスのイベントや洗礼の儀式などはあるだろうけれど、彼はそうした宗教活動にほとんど参加していないように観察される。
にもかかわらず彼はきちんと信仰心を持っているようにも思える。つまり理念があるように観察され、感じられるのだ。
僕が思うに、宗教や信仰というのは、つまるところそういうものなのだ。
外に求めて形にし、誰かと共有して結束を深める類いのものではなく、己の中で、かくとその存在をあらためるような。
<ウマー!(ねこです)>
>>>
結論と呼ぶほどの結論はないが、宗教について言うなら、勧誘などせずとも日本で存続している宗教はある。
(カトリックもそうだし、仏教の多くもそうだ)
だから素晴らしい、と言うつもりはない。
同様に勧誘する宗教だから浅ましいと一概に言うつもりはないし、無意味な会合を持つ宗教だから下らないと断ずるつもりもない。
少なくとも、信仰がないよりはあったほうが良いと僕は思っている。
むしろ信仰を持たないで生きていられる人を見たことがない。
必ずといっていいほど、何かを信じて人は生きている。
具体的ではない、実体のない、概念的な何かを信じて生きている。
無頼気取りの人間も、力には弱いものだ。つまり力というものを崇拝しているといえる。
また多くの人は経済(正確には通貨)を信仰しているが、その崇拝対象は人間の手で作られている。
宗教嫌いという信仰がもっともタチが悪く、人間不信の根源となって世の中を荒廃させている。
信仰している対象の矛盾を考えない人も多い。これは嫌悪する対象の理屈を考えないからだろうとも思える。
その意味において、嫌いなものも好きなものも、信じる対象も疑う対象も、すべて等しいのだといえる。
対象が同じだというのではなく、それに対する自身の姿勢や行動が同じなのだ。
浅い考えで何かを信じる者は、浅い考えで何かを嫌う。
浅いから、表面しか見ないから、踊らされて、ときに不本意な結果に身を浸す。
それは信じた対象が悪かったのだろうか。
それとも自身の信仰心が足りなかったのだろうか。
僕には単に考えが足りないように思えるのだけれど。
信仰を持つことと深く考えることは、相反するものではなく、それどころかとても近しいもののように思えるのだ。
いたずらに宗教を毛嫌いするのは、たとえるなら熊殺しを「かわいい動物を殺している」というファンタジィで語るようなものだ。
熊が可愛いってディズニー映画の見過ぎかよ。
潔癖症も妄想癖もヴァーチャル脳も結構だけれど、いい大人なら、知らないものを知らないことについての自覚くらいはあってよいと思う。
あるいは知っていることを知っていると過信しない謙虚さが。
え? もうそんな話題は古い?
なにそれ群馬県だけ自転速度が亜光速なの? 俺のベッドだけコールドスリープが可能なの?
しばらくニュースも見ないようにしているうち、世間の話題に取り残された(困らないから良いが)。
BPや周囲の一般的な人の意見を総合するに、人間の生活圏に入り込んだ熊は殺せというのが人の総意ということでよさそうだ。
群馬や栃木も少し山に近づけば、朝のゴミ出しでさえイノシシを見かけ、さらに奥に行けば鹿や熊を見ることもある。
ああした獣は話が通じるわけでも飼い慣らすことができるものでもないので、ひとたびこちらに向かってくるとなれば相応の対処が必要になる。
僕の個人的意見(意見はすべて個人的だと思うが)も、熊は殺せ、で一致している。
僕は畜生という畜生について(たとい己が飼い猫であっても)人に迷惑を掛けるなら殺すくらいで丁度いいと考えるくらいなので、そりゃ熊など殺せと考えるのである。
無論、熊の生活圏に入り込んだ人間が殺されるのもまた仕方ないことだろう。それが自然の摂理であり、熊を含む野生生物の道理である。
だからといって熊退治のために森や山を焼き払うようなことをするのは野蛮が過ぎると思うが。
世俗が騒いでいるのは、殺された熊(あるいは今後も殺される熊)に同情し、つまりは過剰な愛護精神を発揮するあまり、捕獲をした者や捕獲を命じた役所に電凸する(少数の)不埒者がいるということのようだ。
その(少数の)不埒者の筆頭に上がった組織に対しこれまた電凸する(少数の)不埒者もいるらしく、こうなるとちょっとした電凸不埒者合戦のようにも思えるが、つくづくも無駄なことだと個人的には思う(思うことなんてだいたい個人的だが)。
SNSにしろニュースにしろ、そうした少数派の意見が一般論かのように認識されてしまうこともあるようだ。
少なくとも僕の周囲には「熊がかわいそう」派はいない。群馬県だからだろうか。自転速度が亜光速だからかもしれない。
理想というのはときにエゴなのだろう。
ライオンの隣でヒツジが眠るような世界は存在しない。
夢想するのは結構だけれど、畜生は畜生である。
ときどき人のカタチをしている畜生もいるから油断ならない。
いやだから僕を指さすのはやめてよ〜。
>>>
宗教といえば、いくつかの宗教をハシゴしたことは以前も書いたことがある。
創価学会も、エホバの証人も、モルモン教も、霊波の光も、集会やイベントに参加したことがある。
何となれば創価学会は会員になっているかもしれない(入信させられたものの退会した覚えがない)が「ご本尊様」と彼らが崇め奉っている布と紙の化合物については部屋のスペースの邪魔になるので、遠い昔に燃えるゴミに出してしまった。ために物証はない。
弟子は霊波の光の正式な信者であるし、友人にはカトリックのクリスチャンもいる、姉のうち1人はたしかモルモン教の洗礼を受けている。
日本というのは信仰の自由が認められているのだが、信仰を白い目で見る「反宗教」という信仰が根強い。
おそらく勧誘行為を行う宗教の、勧誘行為そのものが悪質であったり、あるいは宗教団体の行いが悪質であった経緯を反映したためだろうと想像する。
集団なので、権威主義的になる部分はあるように観察される。
キリスト教の系統はさほどでもないが、日本人の性質上なのか、教義や教典の勉強よりも、無駄な会合などを好む傾向があるように観察される集団もある。
そういう宗教はどういうわけか「青年部」「壮年部」「婦人部」などのような年齢ごと/性別ごとで集団を細分化していることが多く、もしかしたら国内の宗教に特有の傾向かもしれない。
(もっとも生粋の仏教にはそのような仕組みはなさそうに感じられるが、集会などに参加する機会がなかったので正確なところは分からない)
>>>
そもそもアナーキストでラケンローを自称する僕が、どうしてそんなにたくさんの宗教に首を突っ込んだのかと疑問に思う人もいるかもしれない。
理由は単純に宗教が嫌いだから、である(人間型の恋人をたくさん作ったのも同様の理由である)。
これまでの経験上、観察する範囲において、多くの人は単純に嫌悪感があるというだけでその対象を忌避する。
好きなものについてはあれこれ理由を挙げて、論拠を固め、自分の中でその嗜好をより固めてあまつさえ吹聴までする一方、嫌いなものに対しては詳細な論拠を作らず「嫌いだから嫌い」という分かりやすい感情論だけで一掃することが多い。
どこが嫌いなのか、どのように嫌いなのか、という問いに対して「嫌いだから嫌い」という感情論で回答するのは容易だしその効果は強い。
一方、非常に幼稚な理屈であることも否定できない。
その理屈の弱さを僕は嫌った。
明確な論拠のもと「あなたの崇拝している宗教はこういう悪質な部分があり、こういう矛盾を抱えている。私はあなたの信仰の自由を否定する気はないし、崇拝する対象を愚弄するつもりもないが、しかしその宗教を嫌っている。よって勧誘しないでほしい」ときちんと答えたいと思ったのだ。
嫌悪感があるから遠ざけ、遠いから無知なまま、根拠も理解もなく嫌うということを嫌った。そうしなければ「私の信仰は他のそれとは違う」ということを根拠に勧誘する相手のこと許容せざるを得ない。理屈のない嫌悪は「これは違う」という対象を比較する根拠を持たない。
相手が勧誘してくる信仰が、私を勧誘してくることに対して理屈をもって否定するためには、相応の観察が必要なのだ。
自分が宗教を嫌いな理由をきちんと見つけようと思った結果、勧誘される宗教に直接的な危険を感じない限り、されるがままに勧誘されたというわけだ。
むろん神など(唯一絶対のネコノカミサマを除いては)信じていない。
(ネコノカミサマというのは量子論的な気まぐれと混沌の神様だが、信者が僕しかいないのが現状だ。宗教法人を立ち上げようかな)
それでも人間が信じるものがどのようなものかは知りたいと思った。広く人間を信じたいと思ったからだろう。
>>>
会合を好むタイプの宗教は、結果的に集団的である。
集団的というのは教義や教典 ── つまりは理念が優先されるのではなく、権威や統率者、集団のヒエラルキィや、その集団に属することが優先されるように観察される。
後者は結果的に人間を崇拝することに繋がってしまう。宗教として、これは決定的な欠陥である。なぜといって人間は完全ではなく、普遍でも不変でもない。
その意味で、科学や数学というのは信仰の対象として非常に優れている。
科学は普遍であり、とくに自然科学の法則や数学的真理は遠い昔から永遠に不変のものだろう。
もちろん僕の知る範囲において、いかなる宗教にも教義があり、あるいは教典があり、勉強会があり、学ぶべきものがあった。
たとえば創価学会でも、仏教に基づいていると思われる六道についての勉強があったりした。
一方で会合となると(下らない内容だったのでほとんど記憶にないのだが)営業成績報告会のような、個人的な目標に対して、その報告を全員の前でするというような、宗教の理念からはかけ離れたどうでもいい内容のものばかりだった。
聞くところでは、弟子の信仰にも同じような会合があるように観察される。とくに僕から述べることは何もないが、無駄だとは思う。集まることで使われる時間や気力を別のことに使えばいいのに、と僕は思う。
おそらく各種イベントも含めて観察するに、人間というのは意味もなく集まりたいものなのかもしれない。
先の科学崇拝にしても、何を間違えたのか(他人からの影響によるものと思うが)エセ科学的な風評に流されてしまう人もいる。直近では、コロナウイルスやそのワクチンに関連した論拠に乏しい私見を、あたかも化学的正論のごとくに吹聴する人もいる。
SNSも、その存在や役割が非常に宗教的だと僕は思う。
人と集まる機会の少なかった時代には、たとえば地区の役員会や隣組、PTAなどのように、人が人と接するチャンネルのひとつとして宗教もその役割を果たしていたのだと思う。
無目的に(あるいは目的が明確なサービスもあるが)SNSを通じて、同じような趣味や考えの人と接点を持ちやすくなった結果、既存の会合はその役割が本来的にあまりにも貧弱なために存在意義を問われる結果になっている。
それでは人々の崇拝している(崇拝と言うのが問題なら依存と言えばいいか)SNSとやらは、教義も理念もないから親しみやすいぶん、野放図的でときに危険でさえあり、人の集まりたいという原始的な欲求を満たしているに過ぎない。
>>>
ちなみにカトリックのクリスチャンである友人は、自身の信仰についてこちらから問わないかぎり、ほとんど何も語らない。
もちろん(ほとんどのキリスト教系の宗教に漏れず)教会にゆけば毎週のように集会があるだろうし、クリスマスのイベントや洗礼の儀式などはあるだろうけれど、彼はそうした宗教活動にほとんど参加していないように観察される。
にもかかわらず彼はきちんと信仰心を持っているようにも思える。つまり理念があるように観察され、感じられるのだ。
僕が思うに、宗教や信仰というのは、つまるところそういうものなのだ。
外に求めて形にし、誰かと共有して結束を深める類いのものではなく、己の中で、かくとその存在をあらためるような。
<ウマー!(ねこです)>
>>>
結論と呼ぶほどの結論はないが、宗教について言うなら、勧誘などせずとも日本で存続している宗教はある。
(カトリックもそうだし、仏教の多くもそうだ)
だから素晴らしい、と言うつもりはない。
同様に勧誘する宗教だから浅ましいと一概に言うつもりはないし、無意味な会合を持つ宗教だから下らないと断ずるつもりもない。
少なくとも、信仰がないよりはあったほうが良いと僕は思っている。
むしろ信仰を持たないで生きていられる人を見たことがない。
必ずといっていいほど、何かを信じて人は生きている。
具体的ではない、実体のない、概念的な何かを信じて生きている。
無頼気取りの人間も、力には弱いものだ。つまり力というものを崇拝しているといえる。
また多くの人は経済(正確には通貨)を信仰しているが、その崇拝対象は人間の手で作られている。
宗教嫌いという信仰がもっともタチが悪く、人間不信の根源となって世の中を荒廃させている。
信仰している対象の矛盾を考えない人も多い。これは嫌悪する対象の理屈を考えないからだろうとも思える。
その意味において、嫌いなものも好きなものも、信じる対象も疑う対象も、すべて等しいのだといえる。
対象が同じだというのではなく、それに対する自身の姿勢や行動が同じなのだ。
浅い考えで何かを信じる者は、浅い考えで何かを嫌う。
浅いから、表面しか見ないから、踊らされて、ときに不本意な結果に身を浸す。
それは信じた対象が悪かったのだろうか。
それとも自身の信仰心が足りなかったのだろうか。
僕には単に考えが足りないように思えるのだけれど。
信仰を持つことと深く考えることは、相反するものではなく、それどころかとても近しいもののように思えるのだ。
いたずらに宗教を毛嫌いするのは、たとえるなら熊殺しを「かわいい動物を殺している」というファンタジィで語るようなものだ。
熊が可愛いってディズニー映画の見過ぎかよ。
潔癖症も妄想癖もヴァーチャル脳も結構だけれど、いい大人なら、知らないものを知らないことについての自覚くらいはあってよいと思う。
あるいは知っていることを知っていると過信しない謙虚さが。
// ----- >>* Escort Division *<< //
::風流とは、実は何のことかわからない。ただ、言葉でそう聞いただけだ。しかも、ノギ自身の口から聞いたので、本当のところはわからない。冗談を真顔で言う人だからだ。
しかし、彼女は根は正直者である。それはよくわかっている。今のところ、人間にとって最も大切なことは、この正直さだと自分は考える。それは、ある特定の相手に対する正直さではなく、もっと広く周囲の皆に、また己に対し、そして、自分の生き方にも及ぶ正直さだ。
::風流とは、実は何のことかわからない。ただ、言葉でそう聞いただけだ。しかも、ノギ自身の口から聞いたので、本当のところはわからない。冗談を真顔で言う人だからだ。
しかし、彼女は根は正直者である。それはよくわかっている。今のところ、人間にとって最も大切なことは、この正直さだと自分は考える。それは、ある特定の相手に対する正直さではなく、もっと広く周囲の皆に、また己に対し、そして、自分の生き方にも及ぶ正直さだ。
// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「episode 2: Trick sword」From「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Link-Mechanics-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:
:君は首輪で繋がれて:
:君は首輪で繋がれて:
//EOF