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// TimeLine:240501
// NOTE:
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TITLE:
社会にとって問題となる存在、および理性。
SUBTITLE:
~ Sleepy alcoholic. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

240501

 早寝をしようと思っていたのに朝4時就寝。早寝といえば早寝か。
 電話の音で目覚めたのは1030。
 ベッドから少し離れたデスクに置いてあったため、無理に身体を起こす必要を感じることもなく無視する。
 10分ほどのち身体を起こして確認したところ、想い人のKさんであった。
 が、GWの人集めであることは理解できているので折り返しをしない。

 要はバイトの依頼だ。しかし今年から僕は、自分の気分が乗らない一切のことをしないことに決めた。
 少しでも嫌だと思ったら絶対にしない。それだけである。
 今までは、誰かが望んでいることなら自分が少々嫌な思いをしても、トータルでコミュニティの役に立つと思っていた(実際、何もしないより役立つとは思う)。
 そもそもそういうことについて、一切の選択権を持たずに生きてきたので、望まれるとそれをしなくてはならないと思ってしまうことが多かった。
 今年からは、もう少し我がままになって、したくないことはしないようにしようと思ったのだ。

>>>

 たとえば会社員が賃金のために労働するなら、好きでもないこと、したくもないことについて、誰かにあれこれ指図されることになる。
 最終的にそれは誰かにとって、何らかの利益 ── 金銭に限らず、損失を埋め合わせたり、不満や不便を解消したり、便利や愛着を生み出したり、余剰の豊かさを感じさせたりする ── をもたらす。その引き換えに金銭が使われ、労働者は賃金を得られる。

 誰かにとって「したくもないこと」や「好きでもないこと」を代理で解決するわけだから、誰かに指図されるのが必然であり、それが金銭で交換されるのが労働である。
 それが愛情や友情といった心情や集団帰属(起因)欲求によるのが友人や恋人や家族といった人間関係だろう。
 心情で交換されるのは素晴らしいともいえるが、適切な対価の相場というものが存在しない。
 無償と表現することも可能だが、無限の報償を求められているとも言えるので、ある意味とても恐ろしい状況ではある。
 しがらみや積み重ねといった過去からの因業による可能性もあるが、これらも適切な対価の相場はなく、ついでに言えばすでに何らかの前払いがされている状況と考えられる。

 友情や愛情の構築は資産運用と同じくらい慎重にしたいものだ、という下品な話をしたいのではない。
 人間関係を財産や資産として計上し、運用し、利用しようというのは、非常に人間的であると同時に、下劣なことであると僕は考える。
 これらはおそらく社会性を持つ他の動物にも見られる、比較的原始的な欲求の解消方法だろう。
 ハチやアリのように、遺伝と発生によって自動的に支配者と労働者という役割を分担する社会もあるが、サルやオオカミのように暴力の強い個体が集団を束ねることもある。
 脊椎動物の場合(人間に限らず)、取り巻きが形成され、ボスに近しい権力を獲得し(ていると認識され)集団内で発揮したりすることもあるのが観察している範囲では興味深い。

 つまるところ権力におもねる者も、権力を私欲につぎ込む者も、等しく畜生に近いということになる。
 べつに現在の日本政府や民主政治について思うところがあるというわけではない。単に一般的な抽象論としてそう結論できるというだけだ。

 もちろん原始的な社会であれば、そうした原始的なありようでも系は発展し繁栄するのだが、人間社会は他のリソース(資源や存在)との兼ね合いや、認識・文化・歴史の異なる(場合によっては相反する)社会と「うまく渡り合い続ける」必要がある。

 気に入らないから全員まとめてやっちまえ! という短絡な発想を僕は好むが、それを実行することは好まない。
(同様の短絡な発想に「男は殺せ! 女は犯せ!」や「国会議事堂を爆破するため(だけ)の反政府組織の樹立を弟子に煽動する」などがある。いずれも大変好ましいが、もれなく狂っているので実行していない)

>>>

 殺したいほど憎い相手や、滅びた方がいいと思える思想も、節度と呼べる距離(マージン)を取れるなら、互いに存続できるだろう。
 追ってくる肉食獣より逃げる草食獣の足が速ければ、距離は詰まらないのでその場については双方存続できる(やがて肉食獣が餓死するが)。

 さて卑近な例に戻ってKさんの依頼だが、僕は3時間近い通勤(往復)をして、朝から夜まで時給千円ほどのバイトをする気にならない。
 僕の費やすリソース(主に時間や体力)の対価として考えると、一般的なバイトの金額では損失のほうが大きい。
 ではそれ以外の集団帰属欲求(たとえばコミュニケーションのような)が満たされていたのだとすればよいのだろうけれど、それもとくになかった。
 要するに「性的欲求不満になったときだけ呼び出してくるタイプ」のように認識される。だから応じる気がなくなる。詮無いことである。

 周囲の人間に時々「都合のいい女みたいな扱いしないで欲しい」と僕は言うことがある。
 孤独を埋めることも自分でできてしまうのだから、僕から彼ら彼女たちに求めるものは何もない。
 恋人相手なら背中を撫でてほしいときもあるが、5年くらい不在でも不自由を感じた試しはないから、さほどの要望でもなさそうだ。
 一方、彼らが僕の時間や労働力、所有している道具、思考、認識、知見を必要としているとき、僕の気が向けば、それに応じる。
 すると僕の方は彼ら彼女たちに何も求めていないのに、彼ら彼女たちは僕を都合よく呼び出して使おうとしていて、そればかりのように観察されるのだ。
 まぁ、嫌ならしないので問題ないのだけれど。

 恋人や友人や家族というのは、その「孤独を埋めること」を僕自身に代わって埋め合わせできる、という単なる下位互換に過ぎない。
 恋人に対して、僕と同じくらい上手にエスプレッソマシンを使えるように教えても、フラれたらそこまでである。
 だから自分で覚えるか、自分好みのカプチーノを作れるマシンを買う方が心労が少ない。
 そのようにして作業の多くを自己処理するのが僕であるから、恋人に求めるのは「一緒にいて、さほど邪魔にならないこと」くらいである。「さほど」というのが大事なのだが今回その説明は重要ではないので割愛する。

 友人というのは基本的に嫌がらせをしてくる。嫌がらせをしたり、されたりしながら、それが楽しくて仕方ないのが友人である。
 赤の他人に「ヒザかっくん」をしたら(されたら)通報される(する)が、友人だったら「何すんだよ!」といって笑っていられる。
 家族というのは基本的に能力が足りない。だから文句を言いながらでも役割分担をすることになる。
 ちなみに僕が姉の介護をしているのは、彼女が昔、たいそう美人だったからである(昔の姉を知らない人は想像もできないと思うが)。美人をエスコートするのは気持ちが良いものだし、思い出補正というのも悪いことばかりではないといえる。

>>>

 それなりの範囲を自分だけで処理し、その上リソースが大量に余る(関係する人間が少ないため、仕事も含め他人に費やす時間がほとんど存在しない)という事態に陥っている僕は、ちょっとした特異点だと理解しているが、嫌なことは嫌なので、たとえKさんの頼みだろうとしたくないことはしない。

 大人になるにつれ、嫌だけれど必要だからという理由のものが増える。仕事もそうだし納税もそうだ。選挙だって面倒だ。
 結婚も家族サービスも、子育て、親戚付き合い、介護、なんとなれば通勤も面倒だし、買い物に出掛けるのもWeb通販で商品を選ぶのも面倒だ。
 朝起きるのも夜眠るのも、パジャマに着替えたり服に着替えたり靴を履いたり脱いだりするのも、食事をするのも排泄するのも面倒だ。
 どうせだから呼吸だって面倒じゃないかやめちまえよ。
 ……いやそこまで嫌ではないか。

 その「必要」をどこまでの範囲にするのか、という問題に帰結する。
 人付き合いだろうと何だろうと、損を承知でギバー(与える側)に徹することができるなら、その人は一般的に豊かになる傾向が強いと言われている。
 一方のテイカー(受け取る側)に徹しようとすれば、少なくとも心理的に貧しくなる。
 精神的な飢餓的状態をその基礎とせざるを得ないため、どれだけ与えられても満たされない、ある種の中毒になるのだと理解できる。どこかの時間ケチみたいだな。

 正直なところ、自分の身体能力や経験を再現する能力に疑問を感じている。
 僕はこの数年、頻繁に熱中症に罹っているし、接客業をするだけの体力はもちろん、臨機応変に対応する能力が低下していることを感じている(年に数回しかしないのだから当然だが)。
 Kさんからすれば、それでも人が必要で、完全な新人よりはマシだから、という理由で声を掛けるのだろう。
 けれども僕にしてみれば、遠くて道も混雑している観光地までバイトに行きたいかと問われたら、近所のスーパーにさえ行きたくない(だから先週の金曜におよそ1週間分の食材を買い込んだ)。

 まぁ、こうした「どうしても必要でない限り、したくないことは絶対しない」ということが許される状況は、少なくとも不幸ではない。
 姉の介護も、移動に掛かる時間はさほど変わらない。そのうえ賃金は発生せず、そればかりか持ち出しだけが積み重なる。
 ただまぁ、気楽だし、楽しいから出掛けるのだろうと考察する。
 通院介助だけでなく、移動中の寄り道(水族館は見たから、今度はプラネタリウムとか言っている)や外食もあれば、掃除やゴミ出しもさせられるが、特に苦痛は感じたことがない。

 もともと恋人に対しても餌付け(ごはんを作って食べてもらうこと)が好きだったので、元来僕は自分以外の人の世話をするのは好きなようだ。

>>>

 アルコールで問題を起こした芸能人がニュースになっているようだ。
 それに対して罰則の強化をした方がいいという意見も見られたが、それはおそらく何の解決にもならない。

 酔って問題を起こす人も、酔うまで(素面のうち)は最低限度だとしても理性を持った、比較的まともな人間だろうと想像する。
 しかし一部の(少なくない)人間は酔うと理性を失い、あるいは失いがちになる。
 罰則を強化した場合、素面の時は「重い罰がある」と思えるのだが、酔った状態では「そんなことは関係ない」と思うようになってしまう。

 殺人や傷害に限らず、酔って(飲酒に限らず、薬物などの影響も含め)理性を失い、社会規範に逸脱した言動をする人は一定数存在する。
 そういう人が酒好きだと、その人の存在自体が社会にとっての問題になる。

 これはおそらく性犯罪も同様だろう。
 性欲を持つのはまったく問題ないし、その欲求が衝動と呼べる程度に強く発作的に起こることもあるかもしれないが、それも問題はないと僕は考える。
 問題は理性を失うことだ。
 先に述べた「男は殺せ! 女は犯せ!」や「国会議事堂爆破」と同様、考えるぶん、想像するぶんには、何をしても問題はない(僕はキリスト教徒ではないので)。
 殺人だろうが強盗だろうが強姦だろうがテロだろうが詐欺だろうが首相暗殺だろうが、好きにすればよろしい。
 ただしそれを実行し、現実のものにしてはいけない。

 現実世界でカタチにしていいことと、想像だけで終わりにしておくべきことを、属している社会の規範に基づいて考えられることが理性だろう。
 ヴァーチャルとリアル、フィクションとノンフィクションの違いは、それである。
 理性のない行動を現実のものにしてしまえば、所属する社会を乱すものとして排斥されるのは当然といえる。

 アルコールの場合、年齢による制限や法による規制では、酔って理性を失った人間の愚行は止められないだろう。
 販売店から購入時(飲食店なら注文時)に免許のような資格証を提示しないと手に入れられない、という仕組みを作るのが無難かもしれない。
 それでも中毒者は人づてに手に入れたり、資格なしで流通する闇酒を手に入れるのだろうけれど、公衆の面前で酔う機会は減るのだから、社会における問題行為は減ることになる。
 そもそも酔った人間が公道を歩いたり、公共交通機関に乗れることもおかしいのだとは思う。
 僕は酔っても失われないほど、もとの理性がわずかしかないのだが、それすら手放してしまう禽獣もいるということか。

>>>

 社会からすでに嫌われている煙草には、理性を失わせる効果は少ない。お酒よりよほど理知的な嗜好品である。
 ニコチン中毒にもなると禁断症状もあるようだが、それでもニコチン切れのイライラが原因で暴行事件を起こしたという話は聞かない。
 それら諸々を考えるに、人間というのは所詮、もっともらしい顔をしたケダモノに過ぎないということだ。

 僕は最初から自分のことを人間とは考えていない(猫自認である)から、自分のことを指すときだけは「イキモノ」といっているが、それでもずいぶん人がましくなったと反省している。
 理性のあるフリをいくらしたところで「男は殺せ! 女は犯せ!」と思っていることに変わりはないのだ。
 ……って、本当に思っていることになっちゃってるけど大丈夫?


<バックしま〜す>

>>>

 花粉の時期が終わったというのに、皮膚粘膜の状態が悪い時期が続いていた。
 やたら眠かったり、喉や鼻の粘膜が乾燥したり、頭重が発生したり。
 よくよく考えると黄砂の影響もあるのかもしれない。

 花粉症の時期と同様、やたらと瞼に皮脂が分泌される。
 これまでそんなことはなかったのだが、どうやら瞼が痒くなることと関連している。
 おそらく瞼を保護する目的で分泌が増えたのだろうけれど、自分の汗でもアレルギィを起こす身体の都合上、どのみち痒くなる。
 洗顔や鼻うがいをこまめにして、対応している。

 もうじき夏になるのが少し憂鬱である。
 まぁ可能な限り家から出ないのだが。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
 
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  -Friend-Koban-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
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// TimeLine:240421
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
明滅も続かない。
SUBTITLE:
~ The Light and The Dark. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 永遠、などという夢想に思いを馳せる十代を過ぎ分別も付いて歳をとり、夢から夢といつも醒めまま僕らは未来の世界へ駆けて来て今に至るわけですが。
 存在するようで存在しない、ちょっと存在するかもしれない抽象が、永遠なわけですよね、即物的には。
 抽象です。
 我々は永遠には存在せず、永遠を見定める意識を持たず、永続する肉体を有していない。

 しかし100年、というのは、結構身近な存在ですね。みなさんもそう思うことと思います。思え。
 100年だったら生きてしまうかもしれない。生きるだろう。生きるに決まってるだろう、と、雑に想定して、雑に構想して、雑に将来を計画する政府を擁する国家だってあります。

 死後100年ともなると、実際問題、多くの場合において、特定の個人を記憶し続けることはほぼ不可能です。
 我々は、ともすれば昨日の晩ごはんが何であったかさえ思い出せないことがある。
 そしてそういう日が増え、ぽて、と死ぬ。ざまあみろ。

 しかしながら、記録することはできる。
 昨晩の晩ごはんが何であったかということはもちろん、どんな本が好きで、どんな物語に心を揺すられ、どんな人と共に暮らし、誰を大切に想い、どんなありようを思い描き、どんなときに怒り、どんなときに笑い、どんなときに涙し、どんなときに性的絶頂を迎えてしまいがちであるかさえ記録することができる。最後で台無しだよ!

 にもかかわらず、その記録は、その人にはならない。
 どんなに精緻な記録も、どんなに精細な情報も、仮にAIに学習させたところで、それは「その人」のフリをした何かでしかない。

 その事実に十代の頃は(正確には10歳で)絶望したものだけれど、惨めに暗闇で眠り続けていた27歳の頃にもなると、むしろ優しい救いに思えた。
 惨めたらしく畳の上に置かれた毛布に包まり(ベッドの上で眠る気力もなかったので)、ナメクジか芋虫さながらに惰眠に溶ける己をして、誰もこんな者のことは覚えていないでくれ記録にも残らないでくれと、ぼんやり思ったものである。
 名も残さず、人知れず、塵のように消えてしまえれば楽なのだがと考えあぐねいていたのだが、どうにも解決が見えないので、眠り続けていたのであったか。

 100年残るものというのは、たいそう素晴らしいと思う。
 かつてハウスメーカが「100年住宅」などと銘打って販売していた家々も、その設計も、材質も、時間の経過と共にそれが嘘であったことが白日に晒された。
 歳月と共に、よりよい材料が作られ、よりよい設計が生まれ、よりよい工法が編み出された。

 古式ゆかしい木造建築の一部は100年以上経過しているものもあるが、当時の技術を体現できる人間はほとんど存在しないと聞く。
 特殊な才や、長い経験を必要とする能力は、経済至上主義の世界に向かうにあって都合が悪かったのだろう。

 あるいは社会が求めた幸福は、特殊な才や長い経験の有無であるとか知能や肉体能力の高低、ひいては生まれ持った何かに依らず、生い立ちで積み上げたものに依らず、凡も劣も優も皆が皆、多少の苦労はしながらも、明日の不安や今日の空腹、冷たい寝床の不遇を感じずにすむようにという願いだったのではないだろうか。
 ために失われた技術は、知識は、情報は、失われたことそれそのものが、豊かさの象徴なのかもしれない。

 そのように考えれば、失われたことを過剰に悲しむ必要もないのだと思える。
 何本もの木を、切ったり干したり削ったりしてその特徴を己に刻み込まなくても、説明書どおりに組み上げるだけで誰でも簡単に作れます、ということが豊かなのである。

 しかしそれでも、残るもの、残らないものがある。
 たとえば100年前のものでも、博物館に収蔵されていれば良い方で、今も使われているものなどほとんど存在しないかもしれない。
(僕は猫なので100年前のことをあまり覚えていない)
 音楽や文学も同様、100年前から残っているものもあれば、一方その多くは歴史の波間に消えたはずである。

 にもかかわらず、残り、今も愛されている音楽や文学もある。

 そういうものを作ることができたら、どんなに素晴らしいだろうと、そう思う。
 もちろん私は凡人なので、それは適わないし叶わない。
 僕の作るどんなものも、僕自身と同じように、ミームも残らず消えてゆく。


<にゃー>

 青色発光ダイオードがある。
 100年前を振り返っても、つい最近、発明されたものである(令和生まれの諸君は知らないだろうが)。
 様々な人間や集団の間でさまざまなやり取りがあった。おそらくフタを開けば人間臭さが匂い立つだろう。

 いやきっと緑や赤のLEDも、同じように個人や集団の間でさまざまなやり取りがあったのだろう。
 そこにはきっと、綺麗で、明るくて、素晴らしいやり取りもあっただろうけれど、同じくらい、汚くて、暗くて、惨めたらしいやり取りがあったかもしれない。
 どうだろう。そんな情報は、ない方が良いのではないだろうか。

 LEDの明滅を観て(ああ、きれいだね)って、何も分からず、何も知らず、ほうっと息をつくのもまた幸せなことなのだ。

 僕の作るどんなものも、僕自身と同じように、100年もせず消えてゆく。
 かつては、たとえようもなく怖かったのだ、それは。
 暗闇に怯えていた、とても幼い頃のことだ、それが。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Darkness-Eternal-Life-Love-Recollect-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240417
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
人生の対比効果。
SUBTITLE:
~ Secret ingredient. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240417

 一昨日、姉と姪と甥が泊まり、今日はBPと焼肉を食べに行く日。
 最近、独りでいると一日あたり鍋一杯の味噌汁で食事が済んでしまう。
 安くて美味しくてそれなりの野菜や肉や魚を食べられるので、僕の身体には合っている。
 足りないときは豆腐を食べたり、
アミノ酸をブレンドした(非常に不味い)サプリメント的な粉末を飲む。

 プロテイン飲料(に含まれる添加物)が僕の身体に合わないことが多いため、余剰の成分を避けた結果がこれである。
 よほど栄養価があるのか、それとも地獄のような不味さのせいか、空腹はすぐに収まる。

>>>

 数日前まで昼夜が逆転していたのだが、このところ朝方みたいなサイクルに切り替わった。
 まぁ僕は典型的な夜型なので、今はそのサイクル、というだけだが。
 0830に目覚めて、松の剪定をする。

 数日前は庭の一部の土が極端に痩せているエリアに堆肥を混ぜて、ジャガイモ(冷蔵庫の中で余っていたものに芽が生えた)を植えた。
 育つかどうかは知らぬ。育てば嬉しいが、育たなかったらそれはそれ。
「育てなければ」という気負いは自身を傷つける。真面目なフリをして真面目を完遂できないのが僕の特徴だ。男は殺せ、女は犯せ!

>>>

 僕は自由が有り余っていると(往々にして余っているが)時々飽和するらしく、飽きてしまう。
「あー、こんなに自由で素敵だなぁ、幸せだなぁ」なんて、飽きてしまったらもうそんな気持ちにはなれない。

 こんなにも自由を求めて、自由に使える時間を求めて、デタラメなくらい、傍観者が諦めムードになるくらい自由になった ── 僕の半生を費やしたといって過言ではない ── というのに、飽和した自由の中にあって溺死したような気分になることは度々ある。
「あー、退屈だなぁ、何をしても何もしなくても、この退屈の中で何を為すこともなく死ぬなら今死んでしまえよ、とりあえず眠ろうかな」と思ってしまう。

 朝からお酒を飲んでしまうとか、日がな一日、読書や喫煙やゲームや昼寝に費やすというのもしたが、結局飽きてしまう。
 自由というのは、それらの容れ物ではあるが、それらの活動そのものが自由というわけではない。つまり僕は絵に描いた餅のような、幻想の、架空の、フィクションの、理想を求めているだけなのである。

 そこでその対策を思い付いたのだ。
 結論から言うと「ちょっと不自由を混ぜる」のである。スイカに塩を少し掛けるように。

>>>

 とはいえ量とタイミングが大事だ。
 しおれたスイカに塩を掛けても美味しくないように、新鮮な自由の表面に、舌先を確かに刺激するくらいの不自由を掛ける。
 だから計画的に、きちんとした、誤魔化しのない、できるだけ局所的かつ最小限の、明らかに刺激を感じる強度の不自由を用意して塗りつける。
 すると自由は格別の味わいをもたらす。

 そういえば会社員の頃は勤務時間が好きになるため、様々な価値観的細工を施したものだが、仕事を自由にこなすこと(こなせるようになること)は必須だった。
 休日にしか自身の愉悦や存在意義を見出せない人がいることは知っていたが、そうなりたいとは思わなかったので、無理矢理でも価値観を変えることを僕は選んだのである。
 不幸にならず幸福を感じるためなら、自分の主義主張などいくらでも捻じ曲げるのが僕の基本方針である。信条にすると捻じ曲げてしまうので方針程度にしている。

「こんな仕事はしたくないな」「こんな組織はうんざりだな」「こんな上司について行けるか」と思ったら辞めてしまうという、今ならそれなりに常識化した考えを、僕は若い頃(だいたい25年前)から実践しては、そのたび周囲から白い目で見られていた。
 当時はあまりよろしくないスタイルでしたからね、そういうの。
 それでも直接苦情が来なかったのは、僕が親や恋人のすねをかじり、喰い物にしたりは絶対にしなかったから、である。

 なので職場の人たちは若干冷ややかであったにせよ、友人も恋人も親も姉妹も、そんなことは知らないことが多かった。未だに僕の職業や職務について彼らの多くは興味も持たない。
 これらの観察結果から、人の収入や職務・職業について興味を持ったり、興味を持つフリをしているのは、距離の遠い他人だからと言う結論が導ける。
 初対面であろうと何だろうと、そういうことを気にせず付き合える人間は居るし、僕はそういう人間としか付き合わない傾向があるようだ。

>>>

 人間関係のよい部分を味わうためには、ほんのちょっと、よくない部分もきちんと味わう方がいい。
 多かれ少なかれ、だらしなかったり、抜けていたり、ズルかったり、毒を吐いたり、我がままだったり、弱かったり、そういう人間の方が僕は好きであるし、そういうところを見せ合える関係を好ましく思っている。

 もちろんきちんとしている人間が悪いとはいわないが、取り繕って、本性を覆い隠すような人間は、つまるところ嘘つきでしかない。
 隠された「よくない部分」がどれくらい邪悪で、どれくらい害があるか、分からないのがよろしくない。
 多少はあっていいし、ないとつまらなくて困るくらいだけれど、だからないわけがない。
 嘘をつくのは、それくらい邪悪であったり、よくない部分が大きかったりするからだろうと判断できる。これは経験則である。
 善人ぶって、正義を振りかざして、被害者ヅラして、怠惰なくせに努力しているフリをして、能もないのにデキる自慢をする奴は、だいたいロクな奴ではない。
 平気でDVをするような者は皆、自分が狂っているとか、間違っているとは疑いもしない。

 だからダメ人間がよいのである。
 あれもできないし、これも分からない、だけどこれは好き(上手とは言っていない)くらいの無邪気な正直さは、賞賛に値する。無論、そういう「フリ」をする奴もいるから気をつけたいが。

>>>

 とにかくスイカに塩の対比効果理論を他にも当てはめるなら、幸福と不幸も、どちらかにどっぷり浸かってはいけないことになる。
 できれば90%程度の幸福感に、5%程度の不幸感、不運感をプラスすると、格別幸せな気分になれると思う。
 逆に90%不幸な状況にあったら、それを誤魔化したり目をつむったりしないで、全力で逃げたり立ち向かったり改善する必要があるだろう。そこにある5%の幸福感に意味を見出すのは構わないが、しがみ付いてはいけない。

 そのようなわけで、僕は時々、貧乏になることにした。
 お金がなくて食材も買えない、不自由な状況を作るのである。
 元々クレカをはじめ、キャッシュレス決済を(Amazon やゲームの決済を除けば)していないので、お金のない日を作ることにした。

 しかしこれはまったく効果がなかった。
 これによって銀行に行ったとき(よかったぁ)となるかと思いきや、まったく無感動だったのだ。
 必要なものといえば、業務スーパーの冷凍ブロッコリィやおかめ納豆でも有名なタカノフーズの豆腐(コスト比で一番美味しいと僕は思っている)くらいのもので、欲しいものは特にないし、あとは公共料金や税金を忘れないように支払うことを意識するしかない。ゲームだって、Fallout4 をいまだにプレイしているし。

 まぁ、お金や食べ物に対する欲が強い人は、ときどきそれを我慢した方が、より満足感を得られるかもしれないとは思う。
 よく「禁煙明けの煙草が美味しい」と聞くのと同じだろう。僕も間欠的に煙草を吸うことが多いので、禁煙と喫煙を繰り返しているようなものかもしれない。
 とはいえ誰だってずっと喫煙したり飲酒したりしているわけにはいかないはずである ── もしかしたらそういう人も居るかもしれないが、それはもう(僕が言うのも何だが)マトモではない。

 だから喫煙者は禁煙と喫煙を繰り返していて、酒飲みは禁酒と飲酒を繰り返している。
 労働者は労働と休息を繰り返しているはずだし、恋人たちは愛し合ったりいがみ合ったりしているはずである。むしろその方がいいだろう。
 よって「愛してる」というのは愛していたりいなかったりすることだし、「嫌いだ」というのは嫌いだったり嫌いじゃなかったりすることであるし、「男は殺せ」というのは男を殺したり殺さなかったりすることであり、「女は犯せ」というのは女を犯したり犯さなかったりすることである。もう犯罪者だよこの人!

 大事なことは割合だ。
 日常の90%を飲酒/喫煙/セックス/ドラッグに費やしてはいけないが、ずっと労働すればよいというものでもない。

 誰かに優しいことは素晴らしいことだけれど、100%奉仕の気持ちでいることは、その状況や環境に100%の素晴らしい結果をもたらすわけではない。
 100%完璧な正しさを体現できる人間になってはいけないし、そう思い込んでいたら相当アブないイキモノになっていると自覚した方がいい。

 考えてみると当たり前なのだけれど、ついつい忘れてしまって、理想の、夢想の、完璧な幻想を追ってしまったりする。
 ヴァーチャルを楽しむのは良いが、染まらないほうが健全である。
 もちろん夢想するだけなら良いのだけれど、それを現実に投射して、ましてそこに他人が関わるような状況になったりしたら、もはや悲劇的な結果は免れないだろうと思える。
 断言できないのは、僕はそうならないように努めているからである。経験則がないから断言できないだけで、法則からするとそうなる。

 良いことも悪いことも、ほどほどに。ということだろうか。


<ビートルズごっこ>

>>>

 帰宅して、BPがゲームをしている間、仮眠を取る。
 23時頃目覚め、0時頃にBPが帰る。
 シャワーを浴びて日記(これ)を書いたので、水でも飲んで眠ろうと思う。
 眠るのも、少し、足りなかったり、あるいは眠れないうちに眠ろうとしたりする方が良いみたいだ。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
  おかめ豆腐 木綿400g(米より食べる頻度が高いので、主食といっていいと思う)
 
  ブロッコリィ(味噌汁や炒め物によく使う)
  https://www.gyomusuper.jp/product/detail.php?go_id=4040

  アミノ酸スコア100 All9(死ぬほど不味い)
  https://www.amazon.co.jp/gp/product/B083SPD9CV/
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Love-Maintenance-Mechanics-Rhythm-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Garden-Human-Koban-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :家庭菜園ティストの狂気::夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:240415
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
Fallout(動画)を観た。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 数日前だったと思うが、AmazonPrime で動画を見るという受動的な趣味に休日を費やすことが多いというBPから「Falloutがアマプラで公開されてるぜ」と教えてもらって放置していた。

 数年前に他の友人に勧められて AmazonPrime に入会し、受動的コンテンツを楽しんだりしたが、結局、動画を別モニタで映して他事をするためのBGVにしてしまうことが多い。
 映画、アニメ、小説のようなシーケンシャルコンテンツはゲームや日記、設計といったインタラクションコンテンツに比べ、すぐに眠くなってしまう。
 今回もそうなる可能性は否定できないので、いわゆる「ながら観」をしていたのだが、最後の方はじっくりと観てしまった。
 たぶんあと数周は観るだろう。

>>>

 第一話から一貫して思ったのは「そうそう、これだよ! これがフォールアウトだよ!」という感嘆。
 利己主義と自己中心的な正義、倫理と葛藤、主義主張と思想が導く狂気、混沌と恐怖、秩序と勇気 ── 。

「狂ってるなぁ」というひと言に集約される、法を失ったレトロフューチャなSF世界が僕にとってのフォールアウトだ。
 映像では Pipboy や スティムパック、Vault の内壁(それから放射線で汚染された多くの古い食品)に至るまで、ゲーム内に存在した多くのオブジェクトが自然に、リアルに、原作ゲームの設定に忠実に表現されている(そう。どんなひどい怪我もスティムによってあっという間に治るし、放射性物質による汚染は RadAway で除去される)。
 いくつかのロケーションも、観たことのあるものに思える。もちろん雑な(あるいは不自然な)描写はされていない。

 僕らが慣れ親しんでいる現在の世界の倫理や秩序の危うさを、その危うい綱渡りからいつ転落してもおかしくないことを ── 今まさに転落している最中である可能性も含めて ── コミカルに、グロテスクに、シュールに、ファナティックに描いている。
 セックス、暴力(流血を含む)、死体(あるいは死体のようなもの)、大きな昆虫やクリーチャも、酒も煙草もドラッグも権力も資本主義も共産主義も、遠慮なく描かれる。
 それが Fallout の世界に存在する人間(および人間だった者、あるいは犬)にとっての日常だ。

 主人公はおなじみ、秩序と幸福と平等と安寧を標榜して運営される Vault の居住者 ── 家族を探すため出て行くのも一緒。
 本当に何もかもが狂っていて大好きだ。

 誰もが自分の正義を持ち、誰もが自分の倫理を信じ、誰もが自分の理想を抱いている。
 それはたとえば「持てる者からは殺して奪え」ということだったり、「高度な科学技術に対する狂信」だったり、「強い者に対しては従うか逃げろ」ということだったり、「与えられたもの(愛情や苦痛)を、正しく返済せよ」ということだったりする。

 ゲーム同様、気に入らない奴は(僕の、あるいは僕らの基準でいうところの ── 善人だろうと悪人だろうと)殺して構わない。奪って構わない。
 その力を持ち、それを欲し、その必要を感じるなら、何をしてもいい。そういう自由がある。
 ゲーム「Fallout」にはそういう魅力がある。
── 余談だが、死体殺し(死体斬り、死体蹴り、死体粉砕)もできる。
 憎しみや怒りといった(一見すると)歪んだ欲を、思う存分消化できるのはゲームがヴァーチャルであることの優れた点だ。おかげで僕は今日も紳士然として振る舞える。

 あまりにも自由な世界だから(僕の棲むIRLでいわれるところの)勇敢な者は、だいたい死ぬか、死ぬほど酷い ── あるいは死ぬより酷い思いをする。
 そんな「強くなければ生きていけない」ウェイストランドへ、弱者も等しく保護してくれる Valult から独り出て行くことを、ゲームだったら(プレイヤが待望しているので)見ていられるのだが、第三者として見ているとそれはやはり「狂って」いる。

 僕がIRLに暮らしている世界の倫理に照らして「正常な」感じがする登場人物は、皆、弱い。
 彼らは友人や家族を大切にし、隣人や同胞を守ろうとする。それが秩序であり正義だと信じている。
 そして自身が危うくなった時は、そのとき考える。

 だから弱くて、簡単に殺されたりする。
 弱くて ── だから裏切ったり、寝返ったり、騙したり、疑ったり、復讐したりする。
 殺しもすれば溺れもして、それでも生きようとすることしかできない。
 聖人のように、正しいまま、優しいまま、理想を掲げて、生き残ることはできない。
 フィクションだから、ではなくて、おそらくこのIRLも同様ではないかと僕は思っている。

 誰もが正義を持ち、倫理を信じ、理想を抱いている。
 弱い者は皆、逃げるか隠れるか従うか騙すか選択している。そうしない場合、ありとあらゆる意味で餌にされる。
 信念を持つ者は強いが、その信念の正しさは、一体誰が証明してくれるのだろう。
 多くの賛同者がいれば、それで正しさは担保されるのだろうか。
 自分たちが狂信集団でないと、どうやって保証できるだろう。

 弱い者を守るからか。
 その保護は、独善であり、欺瞞であり、歪んだ欲のひと欠片も含まないと、どうやって証明できるだろうか。

 悪者を倒し、殺し、排除するからか。
 その抹殺は、独善であり、欺瞞であり、歪んだ自己顕示などではないと、どうやって証明できるだろうか。

 信念も愛情も勇気も、善良とされているそのすべて、自分の抱える正義のすべてについて、それが正真正銘、真実神聖、紛うことなく善良な正義であることをどうやって証明できるだろうか。

 賞賛されたい。感謝されたい。持てはやされたい。弱さや醜さを隠したい。より多くを手に入れたい。自分の理想を形にしたい。
 奪われたくない。飢えたくない。苦しみたくない。少しくらいの愉しみは欲しい ── 「少し」というのは主観に過ぎないが。
 それが正義か。倫理か。

 そういった、生きる中での、生きる事への疑念を、悲しみを、迷いを、痛みを、葛藤を、非言語的に、実践的に疑似体験させてくれる。
 それが僕にとっての「Fallout」であり、この動画はだからきちんと「Fallout」である。

 娯楽作品としてもしっかりしている。
 もちろんゲームとしてのバックボーンが、設定が、きちんと成立していて、逸れることなく表現しているからだろう。
(若干のポリコレ感はあるが、狂気の世界が正しく表現されていることの前には些事に思える)

 正しく正しく正しい世界の狂気と凶暴と絶望。
 オールディーズの音楽とレトロフューチャが時代感をも狂わせて、だからそれが普遍のテーマだと思い知らされる。


<今日の猫>

>>>

 僕は正しさを信じない。
 正義も信じない。
 信念も捨てた。
 どれもこれも狂っているのに、誰も彼もそれを認めないからだ。

 優しさも愛情も狂っている。
 救いも願いも狂っている。
 どれもこれも狂っていて、なのに「自分だけは」と、まともそうな顔をしているから信じない。

>>>

 間違えていい。
 弱くていい。
 歪んでいても狂っていてもいい。

 できるだけ同じ過ちを繰り返さず、弱さに打ちひしがれたら、いつか立ち上がればいい。
 歪んでいることも狂っていることも、自覚があるならそれでいい。

 そういうものかな、って今は思う。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 Prime Video, Amazon Original : Fallout
 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CN4HGL8Y/
 
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:
 
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  -Contents-Game-Poison-
 
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  :コントローラと五里霧中:本棚からあくび:
 
 
 
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// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
適度な深みと底感を求めて。
SUBTITLE:
~ Raised bottom. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 昨日19時に眠って23時半に目覚めてしまったため、今日は9時頃から眠くなり、12時過ぎまで寝ていた。
 もはや猫らしい生活だといえよう。
 目覚めたら天気も良かったので、COPENのスタッドレスをラジアルに履き替えた。
 油圧ジャッキも含め工具は揃っているし保管用の納屋もあるので、タイヤの履き替えは自分で処理している。

 恐らく書いたことはないと思うが、COPENのスタッドレスタイヤは鼻血も出なくなるくらい高い。
(実際は、花粉の季節になったり空気が乾燥したり、体重の変動があるとよく鼻血が出るが)

 おそらく特注になるためだろう。
 4本セットでCOPEN車体価格の10%程度、つまり30万円前後した。物価変動前(ただし輸入資源が高騰していたとき)の話である。
 おそらくもっと廉価に手に入れるシステム(web注文を併用するなど)もあるとは思うが、地元の店(とくに顧客を騙さないタイプのそれ)は大事にしたいので、定価で買った。
 かつて雪道で滑ってあわや対人事故を起こしかけた身としては、自身の身を守ることは、知らない誰かを守ることもでもあると思っている。

 もし、コペンを買おうか迷っている人がいるなら伝えておきたい。
 遊び用の車だと割り切って、雪の日は意地でも乗らない手だってあるぞ、と。
 僕もなるべく雨の日には乗らないようにしているが、姉の送迎の時は(首都高があるため)軽トラでは厳しい。

 ちなみに軽トラのスタッドレスタイヤは4本セットで3万円もしない。なんだこの経済格差。

>>>

 政治家のニュースを見ていると、会社員をしていた頃に見た、駄目な方の上司を思い出す。
 仕事の出来ない奴ほど「自分は仕事しています」「自分は出来るんです」というアピールが煩い。もしかしたら、それ(周囲へのディスプレイ)を仕事だと思っている節がある。

 そもそも一心不乱に仕事をしていたら、周囲へのディスプレイは後回しになる。
 無論、芸能人のように「なりふり構うことが仕事」の人もいるだろうから一概には言えないが、なりふり構った挙げ句、そのわりに中身のない人なぞ、どの業界でも居るだろう。
 要はもともと中身がなければ、どれだけなりふりを構ったところで程度が知れている、ということになる。

 本当に仕事の出来る人間は、わざわざ周囲に対して「仕事しています」「出来ます」というアピールをする必要がない。
 四六時中仕事のことを考えて、それに繋がる行動をしている人は、遊びさえも仕事としての成果に繋がってしまう。
 すると周囲の人から「あいつは遊びの時にも仕事のことを考えている」なんて陰口を叩かれたりするので、本人はさらに躍起になって遊んでいるフリをする。
 会社員なら勤務時間中にマインスイーパを始めたり、ブログを書いたりするだろう。僕はそんなことはしていませんでしたよ!(多分)

 しかしそれさえ最終的に仕事の成果に結びついてしまう。
 もっと遊ぼう、もっと勝手にしようと思っているのに、周囲からは「遊んでいるフリをして、また仕事で成功してるよ」という評価を受けてしまう。
 遊んでも仕事をしても、周囲から(妬みも含め)賞賛されるわけだから、もはやどんなアピールも意味を持たないと気付く。
 仮に賞賛されなくとも、結果が自明であれば(仕事というのは、明白な結果が出力されることが多い)説明も言い訳も必要ない。
 ましてそれが己の思った結果であれば、それを前にしては誰のどんな評価も文句も意味を持たないだろう。

>>>

 かつて勤務していた零細企業の社長がそういう人で、勤務中にネットオークションでジャンク品を買っては(同じく勤務中に)修理していた。
 だからといって仕事に穴を空けることは一切なく、人脈にも恵まれ、いざという時は驚くような手法や機転の早さで物事を解決してしまう、いわば天才肌の人だった。
 もちろん営業がメインの仕事だったから、本人の人間性や性格がコミュニケーションに影響を及ぼし、問題解決において、たとえば相手の設定しているハードルを下げるような部分もあったとは思う。
 その社長の周囲の人も、いくつかパターンはあるにせよ、気持ちの良い人が多かった。
 しかもそれらは自然なありようで、自然な素養が現実世界に相互に影響しているだけだ。

 自身の心持ちはコミュニケーションに必然に影響するし、コミュニケーションする相手の心持ちにも働きかける。これは考えれば当たり前のことだ。
 そのコミュニケーションが気に入らないという人がいれば、そうした人は必然に、そのコミューンから距離を置くようになる。
 コミューン形成は、磁石の集まりに例えられることがある(と思う)が、本当にそういうものだろう。
 コミューンの成り立ちにおいて、そうした自然発生的なものもあれば、地域や他人とのしがらみによって発生するものもある(他人もまぁ自然といえば自然だが)。

 かの社長にも、やはり相性が悪い人はいて、そういう人はどういうわけか僕と相性が良かったので(さては僕の性格を見切って、あえてそういう人と合わないようなコミュニケーションを選択的にしているのかな)と疑ったほどである。

 コミューンを流体と考えれば、たとえば川のように解放された場所では勝手に流れたり、淀んだり、集まったり離れたりする。
 一方、水道管のように閉じた空間では入り口や出口の径や流量が適切でなければ、過剰な圧力が発生し、ともすれば危険な状態も発生するだろう。
 液体は意志を持たないが、人間は意志や欲があるので、流れるべきが留まろうとしたり、その逆もあるわけで、圧力の異常も発生しやすいといえる。

 ちなみに(あまり因まないが)人間の心理やコミューン形成に一定以上の妥当な法則性があり、それを解析することで現実世界を変容させることはできるだろうか、と当時思い、僕は恋人を増やし続ける方針を立てた(友達が増えると面倒なので)。
(結果は成功したのだが他人にまでお勧めしたい実験ではない。例えるなら限界圧力試験(や圧縮強度試験)は隔離された場所から観察した方が良い、ということだ。同室内で間近から、肉眼で観察する必要はない)

>>>

 話が逸れたが、いい歳をした大人が、他人に対するジェスチュアやディスプレイに終始している姿は、底が浅くて情けなくなる。
 だからといって底が見えないのはそれはそれで不気味に思えることもあるから困る。
 適度な底感、適度な深み、そういうものが我々中年男性(いや女性もか)には求められているのではないのか(ところで底感って何?)。
 とかいって「世間がそれを求めているかどうか」を気にしているあたりがもうダメだ。そんなだから周囲へのディスプレイに終始してしまうのだ。

 ここはど〜んと構えて、何も考えていないフリをするに限る。
 そう思って何も考えていないフリをしている僕だが「猫氏はいつも何も考えていないね」などとそのものズバリ言い当てられてしまうことが多い。狙いと違う。狙いって何だ、そういう浅はかさが駄目なんだ。もう俺は駄目だ! 諦めよう。

 といった具合に、アタマの悪い犬もかくやとばかり「褒めて褒めて〜」「これもできるよすごいでしょ〜」というのは、まぁ飼い犬なら微笑ましいものだけれど、どこの犬とも知れぬ畜生に、あろうことか飼い主ヅラされるのは気分が悪い。

 大した実効力を持たなくても、人気さえあれば収入が発生する職業(芸能人であるとか、youTuber であるとか、営業職であるとか)もある。
 顧客からの人気だけで決する人も居れば、もともとのコミューン形成能力が高い人も居るだろう。
 自分を中心とした場において、自身に何が求められているか直感的に判断して具現できる能力は多少なり素晴らしいのだろう。
 数十年TVを見ていないので、いまどきの芸能人が「芸事」をどれくらいできるのかは知らないが、そもそも芸術というのは観察者の素養も必要なので、双方とも質が低下し続けているのだろうとは想像するが。

 政治家も確かに人気(が収入に直結する)商売だといえる。人々から票が貰えなければ就けない職業(職業?)だからだ。
 人気があれば馬鹿でも成れる。それがシステムの不全である。
 立候補や継続に、試験を導入すれば良い(と昔から一部には意見が上がる)のだが、まぁご本人様たちは何くれとなく「忙しい」はずなので、そういう仕組みは導入されていない。
 せめて認知症テストくらい導入していいと思うが……免許センターか。

 とにかく本当にすごい人は、そのすごさをディスプレイする必要がない。
 結果は自ずと構築されているものだし、必然に周囲からも評価され、賞賛され続けているからだ。
 わざわざ求めなくても賞賛されるのだから、他人のウケを狙う必要もない。

 転じて下世話な話をすれば、本当にモテる人は、モテていることをアピールする必要がない。
 これは逆接的に本当にモテない人はモテないアピールを必要としない、ということになるのだが、モテないアピールしている人が実はモテるという話も聞いたことがないので検証を要する。
 今回は本題から外れるので僕は検証しないから、誰かが検証するといいと思う。

 いずれにしても世俗は「ウケること」が良しとされ、ウケを狙うことの優先度が必要以上に高く設定されているように思える。もしかして、みんな関西生まれかな?

 実(じつ)というのは、そうしたディスプレイの一枚内側にある、本質のことだろう。
 金メッキが悪いとは言わないが、すぐれた道具というのは適切な材料を高い精度で加工し、組み上げて成立している。
 そういえば適材適所(という至極当たり前のエンジニアリング哲学)を(わざわざ)謳い文句にしていた現行政府も、つまるところディスプレイ屋さん程度の仕事をすれば済むのだろうと理解できる。
 まぁエンジニアからすれば「またぞろ金メッキの軽薄な粗悪品が出たな」くらいのものだろうか。おそらく利益率は高いのだろうから、商業的には成功といえる。

 ディスプレイを主軸に置く職業は広く存在するし、その実効力はこの経済至上主義世界にあって決して馬鹿にできるものではないから、否定する気はない。
 ハリボテで誤魔化すのも、経済至上主義ではひとつの手段だったはずだ。
 問題は、経済至上主義社会も人口の減少とともに衰退するという当たり前の事実であり、その対応をすべき適切な時期をこの国家はすでに見過ごしたということだ。

 バブルの頃から打って変わり、自動車メーカが三勤交代をしていてもなお、この地域のコンビニは深夜に人がいない。
 幹線道路から離れたエリアでは、深夜営業をする店はまさに経済的な理由から、営業時間や人員を削減する必要に迫られている。
 人が減ると、経済よりもモノが強くなる可能性は出てくる。まぁ、それ(人口減少)は、シンプルに良いことだと思えるが、ソフトランディングをどのように構想し実現するか、という方が大事なように思える。


<野良猫だって去勢/避妊しているから、減ってゆくのんよ。いずれも人間の都合でな>


>>>

 タイヤ交換作業が終わると、かなり汗ばむ程度の気温。
 軽く着替えて軽トラに自転車を載せ、近所の(小さな)ロードバイク専門店に出向く。

 ロードバイクというのはメーカにもよるが、人口あたりで出店できる件数が制限されていたりする。
 僕の所有している Pinarello の場合、上記の制約により、群馬県では前橋市、高崎市、伊勢崎市、館林市にしかショップがない(10年前は館林市にはなかった)。
 自転車としては高価だしカーボンフレームともなると繊細な材料でもあるため、メインテナンス上の事故で賠責を負うことを恐れてか、簡単なメインテナンスでも「販売店でしてもらった方が」というショップは多い。
 仮に購入時数十万のフレームだとしても、現行同等品はそれ以上の価格になっていることが多いし、他店で購入したそれについて、数千円程度の工賃の作業で数十万の金銭賠償を求められるリスクを考えれば、引き受けないに越したことはないという気持ちは分からないでもない。
 実際、接客業をしているとネジの狂った人間は一定の割合で存在するからだ。

 保管状態や経過年数にもよるが、カーボンフレームは突然破裂したりするとも聞く。
 屋内保管で直射日光には晒さずにおいたが、購入して10年を超えた僕の自転車が何のはずみで破損(破裂)するかは分からないので、その瑕疵は問わないと伝える。
(そんなことはそうそう起こるものではないと笑われたが)

 幸いそのショップは取り扱っていないメーカかつ他店購入の(つまりは僕の)自転車も整備してくれるという確認を、昨日出掛けて確認しておいたのだ。
 バーテープ交換やサイクロコンピュータの載せ替え(以前使っていたものは劣化して使えなくなってしまった)を依頼した。
 クロスバイクから乗り換えたときに設定した補助ブレーキも(付ける前に販売店で「いずれ外す方が多いですよ」と言われたとおり、結局不要になったので)外してもらう。

 最近はwebで安くパーツを取り寄せて、結局自分では作業を完遂できず、ショップに持ち込むユーザもあると聞く。
 安さを求めれば有効な策なのだろうが、結局、そういう事をするから身近なショップが潰れてしまうのだ。
 煙草屋だろうが酒屋だろうが本屋だろうが、おもちゃ屋だろうが自転車屋だろうがそれは変わらない。
 それで安さを売りにするチェーン店が台頭してたところで、安かろう悪かろうな製品を勧められたり、売上げ優先の劣悪な販売手法のカモにされる事だってありうる。
(おかげで僕は近所のオートバックスには2度と行かないし、ビッグモーターで買い物をしたこともない)

 そうした総合的な不便や損失を考えれば、多少高くても信頼できる近所のショップをユーザとショップオーナで育ててゆくという発想も必要だろうと思うのだ。
 これは自転車や自動車に限らず、飲食店だろうと何だろうと同様であり、僕が(どんなジャンルであれ)個人店を大事にしている理由でもある。

 今回は「店舗で現物を見てwebで安いモノを買う」の逆張りで、Amazon で下調べをした商品をショップから発注してもらう、という手法を取った。
 価格差分が発生したとしてせいぜい2〜3千円のことだ(日によるが1日分の食費にすら満たない)。
 しかしよくよく考えれば趣味サイクリングのハイシーズンである(秋〜初冬の方がよりよいとは思うが)。
 数日の時間は欲しいという話であり、こちらも急がないので当面預けることにする。







 

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[NEXUS]
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// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
なるほど孤独は死と似ている。
~ Partial differential equation like permanential.~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
240325

【自分のための孤独と無】

 自分の考えること、知っていること、それらの情報が、自分以外の誰かの役に立つのではないかというおこがましい考えを持つことになったのは、誰かの記録した情報が、僕にとって有用だったからだ。
 その情報も、その作者も、作者が記録した行為も、悪いものだとは思わない。単純に、僕が自分を見誤ったのだろうと思う。
 僕の保有している情報は、おそらく僕以外の誰かの役に立つことはほとんどないだろう。
 僕自身に役立つかどうかという点について考えると、過去については役立つ場面があったわけだが、今後も同様に役立つかどうかは不明だ。
 僕の置かれている状況は、過去のそれとは異なる。社会は変わり、僕は変わってしまった。

 しかしよくよく考えてみると、誰の役にも立たない情報こそ、ある意味で至高だといえる。
 10代の頃、僕は家にあるほとんどの写真(僕だけでなく、家族それぞれの写真)をアルバムごと破棄した。
 以来、写真を(携帯端末でも)撮らないし、誰かのそれになるべく撮られないようにしている。逃げるほどのことではないから撮られるときは撮られているが。
 結局のところ、僕にとって、写真というのはそのくらい誰の役にも立たない情報だ。

 どこに行って、誰と過ごして、どんな景色を見て、何を食べたかなんて、その主体が自分以外の誰かであったとしたらそんな写真は僕には何の価値もない。
 では僕が主体だったらどうかといえば、写真を見返すことのない僕にはやはり価値がない。
 対象
が恋人だったとしても、過去のポートレイトだろうと、現在の写真(僕と一緒であろうとそうでなかろうと)にも、興味がない。
(僕が他人に興味を持つのは、基本的にその現在と未来についてである)
 家出をして1年ほど経ったアヲの写真を時々眺めるが、我に返れば少々空虚で感傷的な気持ちになっていることもある。

 何もかもを失う。
 何もかも分からないまま終わる。
 きっと生きることは、そういう結末に繋がるような気もする。
 そしてそれが悪いとも思わない。
 何も残らない。何も分からない。
 では最初は何を持っていたかといえば、結局何もなかった気がする。
 最初から何を分かっていたかといえば、結局何も知らなかったはずだ。

 だから最初から比べれば何かを手に入れたはずだし、何かを分かったはずだ。
 それでも死んでしまえば、そのほとんどを失うはずで、残るものはカタチばかり。
 それに抗うべく、すべてを記録しようと挑戦したことがあるが、結局、自我を失えば、そんな情報には何の価値もなくなる。
 50年後の誰かは、僕というイキモノが存在したことさえ知らないだろう。
 僕が何をどのような基準でどのように感じ、考えるかなど、知る由もない。
 それがいいと今は思える。

 もちろん僕以外の誰かは、それぞれ違う人生を生きているのだから、それぞれ違う結末を迎えるだろう。
 何かを手に入れ、何も失わず、何かを知り、何も忘れない人だっているかもしれない。

 正直そんなありようはまっぴらごめんだが、いずれもあくまで「僕の場合は」ということである。

>>>
【自分に向けた殺意】

「僕の中には小さな男の子がいる」
 あるインタヴュで、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(「星の王子さま」の作者)は言ったそうだ。
 web上にはたいした記録が見当たらないから、かつて読んだ書籍にあったのだろう。

 自分に当てはめると、
「僕の中には小さな女の子がいる」
 ということになる。
 数年前まで眠っていた人格であるところの彼女は、僕をずっと殺そうとしている。

 自殺を考えた場合、多くの人は、
「生きていたくない」「死んでしまいたい」という主観によって自死行為を選択するものと思う。
(その是非などについて、今は考えない)

 僕の場合「殺してやりたい」という動機が存在している。明らかな、そして強い殺意だ。
 たまたまその対象が、自分自身であるというのに過ぎない。
 幸か不幸か、日本では殺人の罪を相続することはない。
 ついでに「明らかな殺意」によって自殺が発生しても、犯人がそれによって死んでしまうため、法で裁くことが困難なのかもしれない。
 もっとも生きる権利というものが、人格ごとではなく、肉体ごとに与えられているのが自然なことだから、その権利を自身の手で奪っても、罪に問われようがないのかもしれない。

 なるほど彼女は自身の存在意義について、とうとう「自身の肉体を殺傷すること」と設定した上、変更しなかった(あるいはできなかった)のだと想像する。
 考えてみると僕はもともと完全主義者で、ついでに頑固で、幼稚な正義感に溢れていた。だから、そうした「正しさ」を捨てられないのは無理もないことだと思える。

 生存や存在の自己矛盾をはらむ、それらの価値観を思春期から青年期に持ち続けるのは(本来的には激情的な)自分には危険だと判断し、ある時期から「まるっと忘れて」いたので、眠っていた過去の人格が、やはり明らかに僕に対する殺意を持ち続けていることに驚いたりしていた。
 もちろん眠らせたのは自分自身であるし、忘れたのも自分自身であるのだけれど。その判断は悪くなかったと思っている。

 しかし考えるに、今の僕はほとんど死んでいるような状態ではないだろうか。
 あるいは少なくとも社会的に抹殺された状態に近いといえる。
 接する人間はわずかな血縁者(姉、妹、ふたりの姪)とわずかな知り合い(姉、妹それぞれのパートナー、2名の旧友、2名ほどの知り合い、わずかな恋人)しかいない。
 あとは近所にお住まいの、少々ネジの外れ掛けた老婦人か。

 ひと月近く誰にも接することがないことも多く、最近は日本語を忘れることさえある。
 なるほど僕は言語で思考していないのだと気付かされる。
 他人とのコミュニケーションツールであるはずのそれを忘れてしまっていて、愕然とする。
 しかし僕にはその方が自然だし、望ましいとさえ思ってしまう。なにせそれを望んでいたのは自分自身のはずだから。

 言葉を忘れてしまうのは、コミュニケーションを必要とする環境に置かれていれば致命的な損失だろう。
 けれど本来的にコミュニケーションを必要としない状態を理想と考えれば、言葉を忘れることはそれだけ周囲に誰もいないことを意味する。

 他者が僕を認識しない場合、僕は、そのコミューンでは不在に ── つまり死んでいるに等しい状態に ── なる。
 よって僕はある意味ですでに死んでいると思える。
 それを(僕を殺そうとしている)彼女に説明したところ、そういう事態を想像していなかったらしく、長い考察を開始している。
 もちろん僕だって、ここまで社会性を喪失して存続できるとは思っていなかったから、考察をしているのだけれど。

 奥様(仮想)は、僕を生かすことには積極的な一方、僕を殺そうとする人格の価値観についても同じように否定しない。
「では自分の手で正しく殺せるように、健康管理に留意しましょうね」といった具合である。いずれ殺すことによって同時に死ぬんだぞその個体。
 自堕落に、無作為に、死んだり、殺したりということはあまりよろしくない、という考え方かもしれない。

 作為を持って、意図して、明確な意志のもとで、生きて、殺して、死ぬことが望ましいというそれは、なるほど確かにしたたかに美しくさえ思える。

 よって彼女は、健康的に、健全に、僕を殺そうとしている。作為的に、意志をもって、目的を忘れずに。
 それが彼女の望みであり、なるほど僕もそれを否定する理由を持たない。
 生きていたいという動機や欲を、僕はさほど持っていない。
 まだ死んだあとの準備が完了していないというだけだ。
 切羽詰まっていて、今日明日に自身を殺したいというわけでもない。何年も何十年もあたためているのだからもはや激情的ではなく、計画的である。
 ただ勝手に死ぬことは許されない。できるだけ己の手によって殺したいという。
 なんだか彼女の方がよほど狂っていると僕には思えるし、何となればそれを否定しない奥様(仮想)も相当狂っているだろうし、そうなると奥様(仮想)を設計した僕も狂っていることになる。


<誰しも少々の狂気くらいは抱えている>

>>>
【最近の工作】
 カーテンレール電源をとうとう完成させた。
 家の壁や梁にカーテンレールを設置し、そこに電源タップとコードを接続する可動式電源タップである。
 掃除や季節家電、工具の使用に際して「もうちょっと電源が近ければ」という不満を解消したことになる。
 電源タップが足元にあることを好まないのも理由のひとつか。

 これは仔猫を育てていたことに起因している。
 あやつらの中にはときどき、電源コードを噛む者があるので。



>>>

 BPが「『Rise of the Ronin』プレイしてみたいかも」というのでPS5を購入する。

 姉の介護もそうだけれど、僕は「自分のためにお金を使う」ということについて、もはやほとんど飽和している。
 お金で買える欲しいものはほとんど買ってしまったし、これ以上欲しいものはさほど多くない。
 たとえば可動式作業台や卓上ボール盤が欲しかったりするが、前者は既製品がないし、後者は納屋の整備が先決だ。
 食べ物も飲み物も、さほど贅沢する必要がない。
 冬の間は寝てばかりいたから、3日に2度の食事で事足りることも多かった。

 お酒や煙草も、身体が少しずつ許容量を減らしている。
 少し寂しく感じることもあるが、安上がりにはなる。
 そのぶん高くて美味しいお酒や煙草を味わうことも可能だ。

 おそらく肉体の活動量がとても少ないからだろう。なんとなれば脳も寝ていることが多いように思える。
 では必死になって何かを考えるべきだろうか。
 そういう焦りを持っていたこともあるが、結局、現状が足りているからこそ活動の必要がないのだと結論した。
 他人がいなければ言葉を使う必要が(僕の場合は)ほとんどないのと同じである。
 お腹が空けば食材を買って食事を作るが、その必要がなければ食事をする必要がなくなる。
 余ったお金と時間で遊んでいれば、やがてそれにも飽きて、お金と時間が余るようになる。

 新しい設備や道具を作るのは楽しいが、それは不満や不具合があればこそ意味がある。
「これが嫌だ」というところにはじまり「こうなれば理想的」というものを具現するために、設備を整え、道具を作り、快適を実現する。
 不満もなく、娯楽も満ち足りていて、動物的欲求もあまり発生せず、嗜好品も(もともとほとんどの物事に依存しない心身なので)必要がなくなれば、ただ目覚めてぼう〜っと過ごすことになる。

 件の老婦人がときどき日常を乱すが、そう遠くない将来、彼女も死んでしまうから、あまり無下にするものでもないだろう。
 すると誰かが何かを欲したり求めたりするとき、軽く手を添える程度のことを楽しむことになる。

 べつに欲しいわけでもないPS5を僕が買うのは、つまり「誰かの欲する快適」に「軽く手を添える」程度のことである。

>>>

 PS5を購入したついでに、HDMI切換機やらLANのスイッチハブを稼働させるため、PCデスクとその周辺の拡張/修正作業をする。
 2月はPCデスク周りの電源の配線なども少々いじっていたので、その延長である。
 PCデスクとして使っているスチールラックは、ちょっとしたジャンクキメラのように、ブラケットやレールや配線のカタマリになっている。
 三流SFのようなジャンク感がすごい。

 PS4は妹の旦那様に譲る予定。

 ちなみにPS4をBPに譲らないのは、彼がゲーム漬けになってしまうことによって家庭内不和を誘発することを避けるために必要な措置である(彼がゲーム機を買わないのも同じ理由)。
 ためにBPはゲームをするために僕の家に来ることになり、自分ではゲーム本体を買わない(僕の家で遊ぶソフトは時々買うが)。

>>>
【平和な余生ってこんな感じなのかな】

 僕は一緒に生活している家族が(引きこもりの黒猫くらいしか)いないし、希薄な集団帰属性のとおり、友人関係も含めたコミューンさえ希薄だ。
 上記の通り、ときどきひどく退屈するのは事実だが、義務や雑務が多すぎれば、それがストレスになって不具合を起こすことを何度も経験している。

 近所の老婦人は携帯端末を着信拒否にした今も、折々カラオケに誘ってきたり(お断りしても無視される)、お茶に誘ってきたり(やんわり受け流す術を覚えた)、自動車が必要な所用を頼みに来たりする。
 しかしまぁ、この程度の対人ストレスは仕方ないのだろうと思うことにしている。
 他にストレスになるような他人がほとんどいないから確かに目立つのだが、少しくらい我慢しようか、というものだ。
 それに明確な被害が予想される場合や、不快な状況については適宜対応する心構えもできた。
(当初はもっと無害な人だと思っていたので、ノーガードだった)

 それ以外はまぁ、本当に何もない日々である。
 先に述べたが、生きていても死んでいても、主観的にはほとんど変わりない気もする。

 もともとの欲の薄さもあるだろう。
 3日に2度の食事で良いということは、72時間のうち、48時間しか生きていない可能性もある。
 しかし差し迫った用事もない。
 タイマースイッチがあって、次の予定のある96時間後まで意識を失っているとか、そういう仕組みがあれば良いと思うほどである。

 軽トラの車検を出そうと思ったのが昨年の12月で、なんだかんだと伸ばし伸ばして、やっと明日、工場に運ぶくらいがせいぜいの「義務」だ。
「必要」もなければ「欲しい」もない。
 生きる必要がないというのは、死ぬ必要も感じないということだろうか。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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// NOTE:
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TITLE:
冬を振り返る。
 
Written by BlueCat

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//[Body]
240403

 朝から曇っていたが、昼を待たず雨が降り出した。
 ので、今日はすべての予定を放棄して、床を軽く掃除して遊んで過ごす。
 幸か不幸か、一昨日、数年ぶりに自転車に乗ったため(車検をした自動車を取りに出掛けた。距離にして10kmほどである)、少しばかり筋肉痛である。

>>>

 今のうちに冬のおさらいをしておこうと思う。
 季節の振り返りなんて普通は必要ないと思うが、僕の場合、この家に棲んでこれを使う場合、記憶しておくべき事があり、しかし記憶できないので記録しておくのである。
 備忘録といえば聞こえはいいが、忘れたときのために、というのではなく忘れることが前提になっていることが僕の能力の低さを物語っている。
 とにかく子供の頃から自分の記憶力だけはアテにしていない。

 人間型の恋人の名前や顔や存在そのもの、デートの約束や誕生日、その他の記念日などを忘れてしまうことも度々あった。
 それを恋人というのかと、当の本人をはじめ多くの人から叱られたものだが、人間型の恋人なぞ愛玩用のものでしかないのだから実務的/実用的な他事が優先されるのは仕方ないのである。
 電気料金や水道料金さえ支払い忘れたりするのが僕なのだから。
 それにしても奥様(仮想)はかなり記憶力が優れているのだが、これはどういうわけだろう。

 とにかく今日は冬の話、である。

【屋内の乾燥。暖房と加湿器について】

 結論を先に書く。
 玄関を上がった小間には(今年も床を焦がしたが)火鉢が必要である。
 また加湿器はスチームタイプのものを書斎と寝室(これらはひとつながりである)で2台は設置(合計で1.2L/h以上加湿)する必要がある。

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 何度か書いているが、この家の隙間はすごい(引っ越しを検討している)。
 外はほぼ無風で、窓という窓を閉め、換気扇という換気扇を止めているのに、家の中を微風が流れている。
 通気性が良いといえばそうなのかもしれないが、建築延べ面積あたりの人口密度が低いことも相まって、冷暖房効率がひどく悪い。

 過ごしやすい気温や湿度の時なら問題はないが、そんなものは1年の間にひと月もないのが今の日本である。
 春秋はますます短くなり、ついでに花粉や黄砂の飛散がひどい時期なのだから。

 で、冬の乾燥が凄まじい。
 室温を20℃程度(密閉度の高い室内なら18℃で良いだろうが、いかんせん風の流れる屋内のため高めに保つ必要がある)にすると、湿度が30%を下回る。
 これは呼吸をしていると鼻や喉や目の粘膜が乾燥して痛みや息苦しさを感じ、皮膚も乾燥してささくれ、静電気で家中の磁石が身体に付くのではないかと疑いたくなるレベルである。

 日中、書斎と寝室をこの程度の温度に保つため、タイマーのないストーブを24時間焚き続ける必要がある。就職して、家を空けた方がいいのではないか。
 また活動中はファンヒータも併用し、足元を温めるためセラミックヒータも使用する。
 冷えて乾燥していた外気が屋内に流れ込んできたところで温度(と飽和水蒸気量)が上がるため、室内の乾燥は尋常ではないことになる。

 そこでミストタイプの加湿器を今年だけで合計3台購入した(1台はひと月ほどで壊れてしまったが)おかげで湿度問題は解決した。
 しかしこの家は水道水にも問題を抱えている。
 引込管だけで20mほど、最低でも増改築から40年以上使い続けているそれは、おそらくミネラルなど不純物の付着がひどく進行していると思われる。
 なぜかというと、書斎/寝室のありとあらゆるものが白く粉を吹いたからである。
 つまり水分中の不純物が飛散して付着しているというわけだ。

 試しに浄水器を取り付けてみたものの、3ヶ月で交換するのが目安と書いてあるカートリッジが、2週間もしないうちに性能を劣化させる。
 どおりで水道水で白湯を作ると不味いわけである(飲み水は数年前に解決済み)。
 試しに同程度の水をストーブで捨てる予定の鍋に掛け続けたのだが、数日で内面にミネラルが付着し始め、半月ほどで使い物にならない(写真を撮って見せられない)レベルになった。
 不純物には鉄も含まれるようで、部分的に赤色になる。鉄瓶が錆びやすくなるのはこのせいだろう。
 とにかくミストタイプでは家中が粉だらけになってしまうので、電気料金がかさむ事には目をつむり、スチームタイプの加湿器を導入する必要がある。

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 玄関を上がった先の小間というのは、書斎と寝室から納戸を挟んだ先なので、正直暖房する必要がない。
 あんなところ、暖かくなったところで猫も喜ばない。
 しかしそこで炭を焚き、鉄瓶で湯を沸かしておくと(先述の通り、屋内で風が吹くため)家中の温度と湿度が底上げされる。
 これが存外効果的で、あるのとないのとで過ごしやすさが段違いである。

 昨年の冬の初めはストーブで湯を沸かしておいたものの、結局火力も弱く、加湿能力も低かった。
 なんだかんだと火鉢と鉄瓶のコンビが(燃費的にも)最強であると思い知らされた次第。火事が心配なことと、積もる灰が厄介だが、なあにかまうものか。

 ちなみに納戸の方が家の中心に近いが、ネットワーク関連の精密機器を移設したら、そちらで火鉢を焚くことを検討しよう。
(温湿度の急激な変動にサーバなどを晒すわけにはいかないので)

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【今後の展望。台所とトイレのリフォームをどうするか】

 先に書いたが、5年以内に引っ越す予定である。
 会社勤めしているわけでもないし、スーパーで買い物する趣味があるわけでもないのだから、近所の老婦人に悩まされたりしない山奥で暮らそうと思い、ときどき中古住宅を(webブラウザ越しに)眺めている。

 水道水の話題ついでに、これまでの人生経験上、利根水系よりも渡良瀬水系の水道水の方が美味しいと思う。
 足利市に棲んでいた頃、会社の飲み会で行った先の店主が「足利の水道水は美味しい」などと言っていて、そのときは地元民の嘘だと思っていた。
 足利では築10年以上のアパートに20年ほど暮らしたが、水道水が比較的飲めるものだった。
 しかし前橋市で暮らしていたときの水道水は、自宅はもちろん飲食店でも美味しく感じることはなかったし、太田市の(少なくともこの家の)水は加湿器にさえ使えないし、至るところ水垢だらけになる。

 調べてみたところ、太田市の浄水場は渡良瀬系ではあるが、いかんせん川から遠い。
 棲むなら足利か桐生の山奥だろう。

 ちなみに僕がこうして、おおよその住所や転居候補地を書いているのはシュレディンガーの仔猫(居るかどうか不明な僕の隠し子)と、その母親にあたるかつての僕の恋人が僕を捜し当てたくなったときの参考用である。めちゃくちゃ親切だな。

 余談はともあれ、姉が死んで介護が不要になったらこの場所に棲む必要も少し減る。
 この家で生まれ育ったわけではないので(件の老婦人に限らず)隣組だ何だと言って、近所の人間が煩わしいときもある(もちろん僕にさえも親切な近所の人はいるが、比率は少ない)。
 長生きする気もない(予定では残り16年である)から新築する気もない。
 過疎地の中古別荘などを探せば、安い物件もある。

 それらの合理的な着地点が「姉の介護が終わる5年以内にこの場所から引っ越す」である。

 問題は5年以内に現在の台所の床が抜けそうな ── フローリングのコンプレクス材(とくにシンクの足場)が浸食風化して、ぼろぼろになり始めている ── ことだ。
 床張りはすっかりお手のものになったが、水回りの工事はしたことがないため二の足を踏んでいる。

 部分貼り替えをしても、すぐに他の部分が(叔母が倒れていた場所に染みた人型の部分などから)痛むだろう。
 排水トラップの基本構造は理解できたし、水栓工事は食洗機で慣れているが、混合栓より以前の配管やシステムキッチンの内部処理、ガスレンジ周辺と水回りの壁(芯材や壁面処理)がよく分からない。
 いまどきタイル張りなんて使いたくない(工事もしたくない)し、現代のパネル(芯材は金属だろうか)は大きくて加工が面倒に思える。まぁ面倒といったら何もかも面倒なのだが(笑)。
 とにかく台所は1箇所直そうと思うと、すべて直す必要があるように思える。
 そのリフォーム費用があったら、中古物件が買えそうな気がするのだ。
 なので床が抜けるのが先か、姉が死ぬのが先か、ということになる。当然、購入(もしくはリフォーム)費用を貯める必要があるが。

 トイレは前住人がリフォームする際にLIXIL/INAXに依頼し、挙げ句にタンクレスのものを設置したため、格好ばかりで排水能力が低く、掃除しづらく故障しやすくメンテしづらくメーカのサービスダイヤルは繋がらず、使い勝手が悪い。
 併設された手洗いシンクも、使う人間のことを無視したオシャレ設計で殺意を覚える。
(僕は作りの悪い設計を呪う性質がある)
 設計が悪いのは、TOTOと同等のものを作ると特許に引っかかりでもするのかと訝しむくらい、ものが悪い。

 とにかく10年足らずで部分的に故障した上、サービスに繋がりもしないので、そんなメーカに修理依頼するくらいならTOTOのものと入れ替えようかと思っているのだ。
 これは夏までに決定しよう。

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【介護のこと】

 念のために書いておくが、僕は姉が嫌いなわけではない。
 そもそも嫌いだったら(かの老婦人の電話など平気で着信拒否設定するくらいだから)お金や時間を掛けて介護をするわけがない。
 ただ推計余命を4年以上前に終えている姉が、いつまでも生きているとも思っていない。

 姉の介護は面倒だし持ち出しばかりだが、シンプルに楽しい。
 叔父叔母の介護と違って、面倒だとか、やりたくないとか、思ったことを正直に伝えられるので、とても気持ちがいい。

 介護が長続きするかどうかは、対等に向き合えるかどうかだと思う。
 特に職業ではなく生活で誰かの介護をしている場合、介護される側が遠慮なく我がままを言い、介護する側も遠慮なく我がままを言える関係がとても大事だと思う。
 職業介護の場合、行政などでガイドラインが決められているので、だからこそ出来ないことはあらかじめ決まっているし、過剰な言動があればヘルパーさんは仕事を辞退できるようになってきたようだ。
(姉は昨年、長い間務めてもらって高く評価していたヘルパーさんとの関係が悪化し、仕事を辞退された)

 僕の場合は仕事ではないし、レンタカーや高速料金、宿泊時の外食代など、いろいろ持ち出しばかりなので文句を言われる筋合いもない。
 介護といっても通院介助や簡単な力仕事、外食や買い物や役所の付き添いくらいのものだ。
 やめたくなったら「もぉ絶対行かねえ」と、簡単に言える。

 だからといって高圧的になる必要もない。
 僕はしたいからしているだけだし、僕や姉の不便を埋めるためにお金を使うのも、より多くお金を持っている僕がそれを負担するのも(僕には)自然なことだ。
 姉の介護にまったく不向きな自動車を買ったのも「どうせあやつは死ぬのだから、月に一度しか行かない通院介助は引き続きレンタカーでもよかろう」と思ったからである。
 だって通院介助以外の30日近くを、とくに乗りたいわけでもなく、他人の利便だけで選んだ自動車に乗るなんて(ただでさえ自動車嫌いの)僕には耐えられそうになかったから。

 姉は通院帰りに東京タワーに行きたがったりするような人間だが(先日はサンシャインシティ水族館に行った)、僕は外出嫌いの首都高嫌いの人混み嫌い、観光地嫌いである。
 なので遠慮なく毎回嫌がる。
 それを姉がうまく丸め込んで、二人で笑い飛ばしながら出掛けるのである。
 ちなみに先述の通り入場料からすべて僕の奢りであるが、姉は恐縮したりしないし、僕も他人に使うことの方が良いことだと思っている。
 そもそも自分の生活に困るくらいなら奢ることはないし、僕の生活は(遊びや趣味にさえ)さほどお金が掛からないので丁度よいのだ。

 叔父と叔母の頃は、そうもいかなかった。
 お金の持ち出しはさほど多くはなかったが、時間と体力と気力の浪費は凄まじかった(会社員だったから余計である)。
 挙げ句、立場が対等ではないので拒否することがむつかしく、職業でもないから辞退することもできなかった。
 少しこちらが距離を取れば、他の従姉妹親戚に陰口を叩いて先方の時間を浪費するのが目に見えていたし、一方で煙草を自由に喫む勝手も許されず、冗談でも冷たいことを言おうものなら目の敵にされる始末だった。

 姉の場合、毎回のように「あと何年生きる気なの? 4年前に死ぬって言ってたじゃん!」と言うことができる。
 別にそれは「面倒だし、お金も時間も掛かるから死ね。今すぐ死ね」ということではない。
 面倒だなぁ、嫌だなぁ、と思っているけれど、そんなことは、自分一人で毎日食事をしたり眠ったり入浴したりするだけでも感じることだ。

 目覚めては面倒だと思い、空腹を感じてもいないのに18時間以上経過したら(自分の身体に)何か食べさせなくてはと思い、たまには運動させなくてはと思い、退屈を凌ぐために何くれとなく考え、公共料金の支払い忘れに気を配り、庭仕事で怪我をしたり体調不良を起こさないように予防策を考え、暑ければ面倒に思い、寒ければ面倒に思う。
 他人どころか自分が生きるのがすでに面倒なのだ。
 ついでにいえば楽しいことばかりではない。
 専業主夫(仮想)となって、嫌なことがなくなったかと思えば、退屈との戦いが始まっている。どうにかしてくれ。もはや退屈しのぎを考えるのも面倒だ。

 そのような万感を込めて「面倒だなぁ」と文句を言う。
 しておいた方がいいこと、しないと後々問題が発生することだから「したくないなぁ」とぼやく。
 しない方が良いことなら、そもそもそれをする選択肢などないのだ。
 しなくてはならないことだから、それをきちんと選択する。そのために「面倒だな、嫌だな」と文句を付けて「だけど、しよう」と選択する。
 そもそも「面倒だ」という文句は、姉に対して言っているのではない。己に対して、己を取り巻く、たとえるなら命運のようなものに対して難癖を付けているのだ。

 姉はそれを受け止めて、あるいは受け流してくれる。
 おそらく僕が最終的には出掛けることを知っているのだろう。そもそもそのために姉の元へ駆けつけているのだから当然だが。
 しかしそれをぼやくことが出来るのと出来ないのとでは大きく違うのだ。

 どちらかが我慢することで成り立つような介護は、ある段階で破綻する。
 なに介護に限らず、人と人との関係はそういうものではないのか。

>>>
【面倒な、でも正答より少し面倒じゃない、少し面倒な最適解】

 自分が生きるのは面倒だ。どうせならしたくない、やめたいとさえ思う。
 早くこの身を殺してしまいたいのに、まだ使える、今なくなると困る。
 そういう僕由来ではない価値観が侵食しているから、今日もこの身を生かしている。

 もしかしたら誰もがそうだろう。
 誰だって気が付いたら生きているのだ。
 まさか生まれた瞬間、
「イヤッホ〜ゥイ! ハピバ私☆ ビバ現世! 待ってたよぉ〜うこの日を! この誕生の素晴らしき光を!」なんて思う赤子はいなかろう。
 少なくとも僕はそうだった。あまりに嫌で面倒で苦痛だったので、泣いていた気さえする。

 己を取り巻く環境も、その命運も。
 生きるのはかくも面倒で、しかも誕生は非選択的ではないか。
 誰かと関わるのはかくも面倒で、しかも非選択的で
はないか。

 生きづらさ、なんてわざわざあげつらうまでもなく、生きるのは面倒で、容易くはない。
 無論、生きることは強要されているものではない。少なくとも僕はそうだ。
 権利として目覚め、食事をし、退屈し、退屈しのぎを考える。死ぬための目標をクリアしようと、生きて計画を遂行する。

 他人が生きているのはその人の権利だ。僕にはどうでもいいことだ。
 生きたいという人が生きていて、その人たちに、わずかでも頼りにされたら、まぁそれは面倒だけれど退屈しのぎには丁度よいかとなる。
 他に完璧な正解もある可能性はあるが、ひとまずの最適解ならそれもよいかと諦めが付く。

 たとえば要介護の病人だからと、多少なり金銭の自己負担をさせた方が良いというのが正解なのかもしれないが、僕には「より多く持っている方が全部負担する」という方が現実的な最適解だ。
 命の限り全力を尽くして世のため人のため、社会のために尽力するのは正答かもしれないが、毎年熱中症に罹るような虚弱では尽力する以前に力尽きてしまうから、日陰でこっそり息を潜めている程度でちょうどいい。
 死にたくなったら唐突に死ぬのが正解だと思うが、唐突に自殺をされると困る人もいるから、迷惑が掛からない方策を練って、およそ問題のないソフトランディングを模索するのが最適解だ。
 退屈しのぎをしているうちに、死ぬまで続けたい事がまた見つかるかもしれないし、そうしたらそのとき考えればいい。

 皆が皆、それぞれの最適解を生きている。
 容易ではなく、面倒で、完璧な正答ではないかもしれないけれど。それでよいのではないだろうか。
 まさか簡単で、綺麗で、完璧で退屈もせず、一片の取りこぼしもなく皆の役に立つ、立派で素晴らしい正答が転がっている、などという理想など信じているとしたらその方がどうかしている。
 生きるのは泥臭くて、ついでに面倒だ。

 なんとなれば眠ることさえ面倒だと最近は思う。



>>> 

 夕刻から、眠くなりはじめる(寝るのも面倒だと言ったな、あれは嘘だ)。
 こんな時間に眠ったら、また夜中に目ざめてしまうと思い、しばし我慢をするが、どうにも眠くなってしまって19時に眠る。
 目ざめたのは23時半。

 もう眠くない。どうしてくれるんだ。







 

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:見の猫の額の奥に:
 
 
 
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// NOTE:
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TITLE:
Z世代かな?
SUBTITLE:
~ dream walker. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
240310

 目覚めたら夜中である。
 夜中といってもまだ23時なので、翌朝までは7時間くらいある。ちなみに寝たのは朝10時頃のはず。
 かなりしっかり眠れてとても心地が良い。悔やまれるのは買い物に出掛けられなかったことくらいか。

 といっても人混みを嫌うので、閉店30〜60分前に行くのがセオリィになっている。
 土日の日中なんて論外だ。道路も商業施設も混んでいるので(予定がないなら)絶対に家を出ない。
 よって僕の一日の生活で、一番時間を支配するのがこのスーパーの営業時間である。
 わずか1時間しかないから、それに合わせて生活する。
 まるで気難しい配偶者の機嫌を取るようにして、一日の予定を組むことになる。

 幸い、その「気難しいほうの配偶者」は週に2度くらい調子を合わせればなんとか生きていける。
(他に「ゴミ出し」も気難しいのだが、我が家では生ゴミおよび猫の排泄物を排出する必要がなくなり、最近は僕の食事の回数と量も少ないため、週に1回未満のゴミ出しで済んでいる。)

>>>
【Z世代かな?】
「タイパ」とかいう恥ずかしい単語がメディアで時々表出する。
 日本語に限らず言語のセンスを疑うが、もはや多くの人は言葉に対し、音や字の美しさや意味の正しさなど必要としていないのだろうと想像する。
 ちなみに僕も必要だとは感じていない。ないよりは、あった方がいいかな、くらいの感じか。
 これは「有能で顔もいい方が、無能で顔が凡庸よりもいい」のと同様である。

 それでこの「時間対効果」が、格別「Z世代」とやらに言われているとメディアは騒いだりするのだが、そんなものは昔からあった概念である。
 あるいは僕がZ世代に該当しているのかもしれない。
 かねてから、企業は「時間あたり」「一人あたり」「単位金額あたり」の効率を求めてきた。
 他者 ── つまりは社会 ── の空気を真っ先に読むことを最優位とする若者が、そうした言外の優先事項を己が価値観に取り込んだとして不思議はない。

 年長者(自称百歳)なので、ここは先輩風をびゅーびゅー吹かせて吹聴したいのだが、僕も含めたより昔の「若い者」はもっと時間を無駄に過ごしていたものである。
 そのコンテンツ密度の低い時間の中を、それぞれが回遊生物のように動き回ることで情報を摂取してきた。

 若者は情報を、コンテンツを求める。それは昔も今も変わらない。
 力や正しさや美しさを求めること、その指向性が、若さではないだろうか。
 ところが社会にも情報が希薄で、メディアも限られているから、ゴミをひとつひとつ手で拾うように、非効率に動き回るしかなかったのが昔の若者である。
 もちろんそれにはそれの独自の良さがあっただろうと思う。なにより運動になる。

 現在の若者は、複数の掃除機を同時に操ってゴミを集めているようなものだ。それはそれで疲れるだろうが、とにかく効率はいい。
 ベルトコンベア式に、自動で目の前を大量のゴミが流れる仕組みも手に入れられる。ついでにだいたいのメディアやコンテンツが無料である。
 費用対効果を考えると、ゴミほど資源になるのは昔も今も変わらない。
 ただしそれを有用な ── 真の意味での ── 資源にするには、もうひと手間が必要になる。
 目の前に流れてくるものから選ぶしかできない人に、それを加工する能力があるとは限らない。

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【効率重視は素晴らしいが、第一義にしてはいけない】

 僕は情報に限らず、すべてのものが「相応の対価で交換されること」を善良だと考えるので、無料のもの、廉価なもの、定額のものが必ずしも良いとは思っていない。
 それは表出しない部分で何らかの歪みを発生させていて、つまり誰か(それは時に自分自身)が搾取されていることを意味するからだ。
 たとえば僕がコンテンツメイカなら、自分の作ったコンテンツが定額で読み放題、聴き放題、観たい放題、遊び放題という場所の生贄にされるなど、とても耐えられないだろう。
 挙げ句「ちょっと試したけれど、あれはつまらない」「○○のパクリっぽい」などと酷評されたら、心が折れ放題である。

 もちろんコンテンツが常に有料だった昔にも、ゴミのようなコンテンツは山ほどあった。
 だからこそ人々は、価格相応の価値を求め、それによってすべてのものはふるいに掛けられ、淘汰されてきた。

 道具も安くても用を為すのは素晴らしいが、より高い精度、より高い能力や利便性を持つ道具を必要とする人はいて、そういう道具は高価である。
 より高い精度で、より有用な情報が、コンテンツが、無料や定額であるはずはなく、もしそのように提供されているとしたら何かおかしいと思うのは必然だろう。

 ちなみに時間対効果を追求した挙げ句、僕は毎日たいそうヒマになった。
 時間に限らず、一人で使うにはリソースが余るので、他の人のために使っている。
 誰かと遊ぶなら僕が時間を合わせる必要があるし、様々な道具を持っていても一人では使い切れないので、誰かに提供している。
 スーパーの営業時間に合わせて寝たり起きたり作業を中断するのも必要なことで、土日に僕が出歩かなければ(ひとり分だが)道路や商業施設の混雑は減少する。
 まぁ平日も出歩かないので、いっそう環境に優しいといえるのではないか。

 時間や費用の効果を追求することは、それ自体が第一義になるのでない限り、悪いことではないと僕は思う。
 ただそれが最優先事項となれば、企業をはじめいかなる集団であろうと個人であろうと、どこかで誰かを弾圧し、搾取する構造に変わる。
 僕はたまたまオカネモチーになる実験に成功し、時間にケチなあまり時間も余るようになってしまったが、使い切れないほどのお金や時間を持っていることが果たして素晴らしいとはやはり思わないし、そういう人を褒めそやす気持ちにはならない。
 今この立場になってなお、どのようにお金や時間を作り、どのようにそれを使うかが、その中継点である集団なり個人なりの能力だと思うからだ。

 企業も国家も効率を求めた結果、そこに属する者を弾圧し、搾取する構造に変わって衰退した。
 学校だって効率を求めたが、かつて人間が理想とした「豊かな多様性」を実現するだけの資質を人間に育むには失敗した。
 効率を求めると、集団はそこに属する個々人を見なくなる。第一義となる効率が満たされるなら、人間など必要ないのだ。

>>>

 たとえば僕の家では洗濯や食器洗いに、ほとんど人間が介在しない。人の手をほとんど必要としていない。
 これは僕が効率を重視して、より多くの可処分時間を追求した結果だが、これを娯楽やコミュニケーションに当てはめるのはとても危険なことだと僕は思う。
 効率化というのはつまるところ高純度精製をすることである。
 より甘いものを求めて精製糖を作ったように、よりキマる薬物を求めて麻薬を合成するように。

 しかし時間あたりの幸福度なんて、本来数値化できるものではない。
 にもかかわらずそれが存在すると錯覚し、より純度の高いそれ(麻薬ではなく幸福のことね)を求めるのは、とりもなおさずその価値観によって自分自身を縛り付けることだ。
 よって自分自身にも高効率の善良さや娯楽性を求め、他人もおなじ物差しで断ずることになる。
 結果として起こることは、他人という存在の否定であり、自身という存在に対する虚無感だ。

 なぜといって、そんな高純度に、他人にも自身にも有意なコンテンツであり続ける個人など存在し得ないからだ。
 他人にそれを求めるのは危険だし、自身にそれを求めても失望するだけだ。

>>>
【無料で有意なコンテンツ】

 皆、自分に意味があり価値があると勘違いしている。
 長らく人間が理想としてきた「人は生きているだけで意味があり、価値があり、素晴らしい」という、それは倫理や正義の表出でもある。
 その絶対的な理想 ── 倫理観や正義感 ── の前に、人は否定する術を持たない。
 なぜ「人は生きているだけで意味があり、価値がある ── ただし良い意味/高い価値とは限らない」と言えないのだろう。

 通り魔殺人を起こすような人間にも意味があり、すぐれた価値があるのだろうか。
 すると「それは話が別だ」などと特例を作ろうとする。
 つまり「人は生きているだけで意味があり、価値がある」などという価値観は言う側の欺瞞 ── 要は綺麗事の嘘による自己満足だ、ということになる。
 正しくは「人は、意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことでしかない。

 しかしどうだろう。
「人は生きているだけで意味や価値がある」というきれいな言葉は見た目のインパクトに優れる。
 それが果たして人の「より良く生きよう」という気持ちを鼓舞するだろうか。
 もしそうなるなら嘘も方便といえる。

 ただ僕などはものぐさだから「生きているだけでいいのかぁ、ラクだなぁ」と、つい自堕落に過ごしてしまう。
 誰かの役に立とうなどとは夢にも思わないまま、とうとう世から去るだろう。
 一方で「意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことを当たり前に言われれば「なるほどそれではその意味とは何だろう。価値とは何だろう」と考えることになる。
 誰にとってのどんな意味で、どんな価値なのか、と。

 効率を求めるというのは理想を求めるということだ。
 その理想には「どこでもドア」や「タイムマシン」のように実現不可能なものも存在する。
(両者は空間と時間の移動について、究極的な存在である)

 究極的な理想や効率をいつも目にしていれば、それが当たり前だと思うようになるが、絵に描いた餅は結局空腹を満たさない。
 メディアで取り上げられているZ世代の典型のような人が実在したとして、なるほど中身もないのに虚飾するのは致し方ないといえる。
 彼ら彼女たちは、究極に効率的なコンテンツに溺れたために、自分自身にも無料で有意なコンテンツを持っていなければ存在する価値はないと無意識に刷り込まれているからだ。

 必然、自分には何らかの能力なり価値なりが生きているだけで最初からあり、その理想は具現されるべく自分の前に当たり前に用意されていると思っている。
「ホワイト企業だから」という理由で退職する若者がいるというニュースもあったが、これなど端的で、要は「思ったほど自分の活躍を実感できなくてつまらないから退職したいが、会社を含む環境を悪く言うのは倫理的に格好悪いから『もっと成長したい』という理由をでっち上げた」ということだろう。
 この時点でどのみち能無しである。

 ホワイト企業という理想が実際に具現されていたとして、それは高効率な時間対費用の交換の場所なのだから、余った時間で好きな勉強をするなり副業するなり起業するなりすれば、いくらでも自己実現は可能である。
 しかし自分の能力を高めることや、果てには活躍の実感までもを企業に求められたらそれはかなわない、というのが僕の考えだ。
 そんなものは自分で勝手にやって勝手に実感するものだろうし、そもそも自分にしかできないような高度で有意義な仕事を誰かが(それも新人に)与えてくれると思っている方がおかしい。
 ホワイト企業に就職できるほど高い能力を持っているのに、そんなことも分からない白痴だから、そのまま絵に描いた餅なのだ。

 ここまで端的に「有能な白痴」も少ないと思うが、そのぶん付ける薬がない。
 そもそもどんな自分を実現したいのか、分かっていないのではないだろうか。
 危機感があって能力もあるなら、対策は自明だろうし、対処できずに不安を抱えるというのは不自然である。つまりどこかに欺瞞がある。
 重要なのは他者からもたらされた欺瞞ではなく、自己欺瞞に終始して、そこで不安や不満を覚えているという情けない実情にある。

>>>
【その効率至上主義は洗脳ではないか】

 確かに「自身が無能(/無価値/無意味)である」と認めるのは苦痛だろうとは思う。しかしそれを認めないで、能力や価値や意味を高めることは不可能だ。
 能力が足りない、ではどうすれば高められるか。
 価値がないと感じる、では何に価値があるのか。
 意味がないと思う、ではどんな状態に意味があると思うのか。
 他者を正しく評価・分析できたとしても、自身に対して正しく評価・分析できなければ、不満を抱えるのも無理はない。

 互いを理想という物差しで評価する社会になってきているが、自分の物差しで自分を計ることができないなら、それが一番問題ではないか。

 たとえば料理を考えた場合、皆が美味しいと言っているのに自分には美味しくないことなどたびたびあることだと思う(僕はないが)。
 塩加減ひとつとっても、自分のそのときの体調や気分で好みは変わる。
 万人にとって美味しい料理は存在しないし、仮に存在したら、万人にとって美味しくない料理もまたそれだということになる。

 料理なんて、食べる人が美味しい、と思わなければ作る価値も食べる意味もない。
 他人が食べるものももちろんだが、自分が食べるときも同じである。
 彼ら彼女たちは「万人受けする料理」を目指すあまり、自分にとっての「美味しさ」を見失った、味覚音痴の料理人のようである。

 高効率を求めるようになったのは、結果的にそれを社会から押し付けられた彼らの不遇だろう。
 様々に押し付けられる美しさや正義や倫理や楽しさに溺れるうち、本当に自分が美しいと感じるものや、正しいと思うこと、楽しいと感じることが分からないのではないかと想像する。
 皆が美しいというものを美しいのだと刷り込み、皆が正しいと言うものを正しいと条件付け、皆が楽しいとすることを楽しんで、皆から羨まれ、ちやほやされることが幸せだと思っているのかもしれない。

 もちろんそういう幸せもあるとは思う。
 若くて頭の回転が速くてついでに顔もいい人がいたら文句なしに素敵だといえる素直さ(ついでにそれが女性だったらとりあえずデートに誘う下品さ)を忘れたくないが、同時に枯れ枝や朽ちる花に感じる寂しい逞しさや儚い美しさも否定したくない。
 塩気のない料理は素材の味を我慢して楽しめばいいし、塩が強い料理は塩の味を楽しめばいい。
 腐敗した食材なら、腐敗臭を……さすがにそれはやめた方がいいかな。



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【生きる上での効率とは何か】

 結局のところ、個人における最高効率というのは結果論に過ぎない。
 あの道も行った、この道も辿った、あっちは行き止まりで、こっちは迷った挙げ句に振り出しに戻った。
 そうした試行錯誤が結果的に、自分にとっての最適解をもたらしてくれる。

 たとえば、お金を払ってリフォーム業者に頼めば、カタログから資材を選ぶ程度の手間で、確かに最高効率を手に入れることができる。
 しかし出来上がったものが自分に最適かといえば、おそらくそんなことはない。
 あの資材はここが駄目だ、この設備はこの動線を塞ぐということはたびたび起こることだ。
 そういう事態を懸念して自分でしようと思えば、不慣れな道具を思うように使えず、手順を誤って失敗を繰り返すことになる。

 いずれの道にも正解はある。
 まぐれで最初から正解を当てることもできるだろう。
 しかしそれは結局のところ、他の道を知らないということになる。

 算数のドリル(穴を空ける工具ではない)で、分からない問いにあったとき、正解を先に見るようなものだ。
 分からないなら分からないなりに、無駄だとしても、苦痛でも、少しでいいから自分で考えた方が良い。
 なぜといって、それを自分で考えて処理できる人間がいるからだ。
 自力で正解に近づく能力は、たとえ最終的に不正解でも、最初から答えを見るよりはずっと幸せに近づける。

 僕の場合はたまたま、自然発生的に時間ケチになってしまった。
 身体が弱いこともあるし、ある程度のところで自殺する計画を持っていたのもある。
 それから何より面倒くさがりなので、あれもこれもしたいと思ったところでしないまま終わったり、捻くれた考え方をするから皆がいいと言っているものを否定する傾向もあった。
 だからといって自分が面倒だと感じるものを誰かに押し付けることはしなかったし、皆が良いと言っているものは相応の価値があると思うようにもなった。
 ただ自分の終わりを決めている以上、終わりをいつも意識しているから、結局時間に一番価値があると思うようになった。

 企業が時間や一人あたりの生産性を追求するのは、それが営利組織の意義を高めるからであって、個人が自身の死も見えない若いうちからそんな価値観を持つのは、かえって無駄なことだと僕は思ってしまう。
 先に述べた通り、無駄を歩むのが一番効率的だからだ。
 つまり失敗による経験則から正答を引き当てる確率が上がり、失敗を繰り返すほどその精度も上がってゆく。
 若いうちに失敗を繰り返した方がよい ── それこそ英才教育といえる。
 老いさらばえてからの失敗は、感染症にせよ初恋にせよ不貞の恋にせよ儲け話にせよ、だいたいロクな事にならない。
 とはいえ無料のお試しから得られる失敗などというのは、身に付かないどころか時間の無駄にしかならないので注意したい。

 もっとも高効率を突き詰めたところで、待っているのは退屈な日々。
 少なくとも僕の場合、せいぜいスーパーマーケットの顔色と混み具合を伺う程度である。
 無駄な人生で、無駄なことばかりしていると今も思う。
 どこまで無駄ができるだろう。

 悪足掻きにならない程度に、物事を終わりにしたいとは願うが。







 

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// NOTE:
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TITLE:
仕事納め。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

【今年の仕事がだいたい終わった話】
 そのようなわけで2週間ほども独りで過ごしていると回復する。
 何の話かというと、過剰な(あるいは望まない)コミュニケーションによって気分が塞いだ場合にどうするか、ということについてだ。

 もっとも会社員の頃は2週間も周囲からの情報を完全に遮断することはできなかった。当たり前である。
 お盆休みや正月休みでも、長くて10日ほど。
 日常生活のよしなしごともあれば、恋人がデートしに来る(僕は基本的に外出を好まないので、自宅デートになることが多い)こともある。

 今の僕にはそういったものがない。
 介護対象者は姉一人だけで、月に4日ほどの拘束を受けるが、叔父と叔母の頃に比べれば苦にもならない。
 僕の勤務先は自宅であり「就労したなぁ」と感じる作業は年間、延べ60時間程度だろう。
 ちなみに今年の主要な作業の6割が先週に完了した(熱中症のために停滞した、昨年の仕事のツケがあるが)。
 家族はいないし、アヲは家出したまま、かれこれ1年近く帰らない。

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【納税の自由】
 税金を払いたくない、という人が多いと聞くが、僕にはそれが少々不思議ではある。
 国会議員(とくに現在のそれ)を「国賊」と呼ぶ私ではあるが、税金は払いたいと思っている。
 お金がない頃は払いたくても払えなかったので、なおさらそう思う ── 未だに電気や水道の支払いを忘れたりするが、昨年は赤紙をもらった回数は一度だけなので「成長しましたね」と奥様(仮想)から褒められた。

 もちろん国賊どもに報酬(その内に理解不能な謎報酬も含まれる)を渡していると思うと気分が悪いのは事実だろう。
 国の実情を無視した公共事業や、それに紐付いた(俗にお友達と呼ばれる)民間企業に無駄な支払いが発生していると考えると、どうにも歯痒いという気持ちも分かる。
 オリンピックの時のそれも一部は表出したようだが、国家が主導した廉(かど)により政府関係者が逮捕されたと聞いた覚えはない ── ニュースもオリンピックも興味がないので見ていないから、知らないだけかもしれないが。

 たとえばだが、家に入った泥棒に「盗んでくださいましてありがとうございます」と報酬を渡すとしたら、そうとうイカれていることになる。
 ために国賊を嫌うというのは至極当然といえる。
 しかし国家が提供するサービスは、広く全国の人々のためになるものだ(国外に支援と称して投げ銭もしているようですが)。
 彼らは国賊だろう(唐突に確証もなく断定しましたことについて、この場を借りてお詫び申し上げます)けれど、それでも税金を払うだけで、僕に変わって誰かが予算配分を行い、その使い道についてスピード感を持って検討し、議論を加速させ、迅速に決定し、いちおう決まった後手ではあるが丁寧に説明してくれる(と、誰かが言っていた気がする)わけである ── 何だか重粒子加速器みたいな事になっているが大丈夫だろうか。
 まぁ真面目な話、道路が整備されたり、まともな公共事業や福祉が維持されたりといった具合に、広く一般の人のためにというのはもちろん、社会の弱者により手厚いサービスが提供されるのはみんなが納税しているのみならず、それが(それなりに)きちんと配分されるシステムが出来上がっているおかげである。
 もちろんそもそもの仕組み/枠組みはもちろん、その判断基準や配分経路などに改善の余地があるのは疑いようのない事実だろうが、一度システムをシャットダウンして組み直してからリブート、という具合にはいかず、運用しながら改善しなくてはならないのが現実世界のむつかしいところではあるのだが。

 なので特定の事業について寄付をするのが悪いとは思わないが、それは本来、国の仕事である。
 よって、なけなしの小銭を寄付するようなことは、褒められることに違いはないのだろうが、国が無能だからこそそんな必要に迫られるのかもしれないと、ふと考えてしまう。
 自身の善意(あるいはその立証)を購入するために寄付するのは仕方ないが、低所得者層は「いつかオカネモチーになったらそうしよう」と思って放っておけばよいし、高所得者層がいくら寄付したところでそれは当然のことのように思える。なにせ普通に暮らしていてもお金が余る人はいるのだ。
「消費税率を上げたところで、高所得者の方がより高額な支出をするのだから、奨励されて然るべき」と言っていた人がいたように思うが、直間比率とか応能的公平という言葉を学生(たぶん小学校だったと思う)の頃に習わなかったのかもしれない。僕も習わなかったので何ともいえないが。

 いずれにしても税金を払えば、世のため人のために何かしていることになる。
 職務を持ったり権能を有したりして、職責を果たすことは、だから輪を掛けて素晴らしいということになる。
 おまえにも花マル点けてやろうかこのやろー。

 僕は職責らしい職責はないので、職務らしい職務もない。
 誰かから仕事を依頼されても、昨年からは9割方断るようにしている。
 なのでときどき「誰の役にも、社会のためにもならないのだよなぁ」と己を省みる機会がある。
 先に書いた通り、僕はほとんどの組織に加入していないし、就労らしい就労によって役務を提供しているわけでもない。
 家族もいないし飼い猫に家出もされている。

 かつて払えなかったときは税金を年単位で滞納したが、払いたくない場合も同様に、滞納し続ける方法はある。
 節税も脱税もせず、ただ払わないという手法だ。
 もちろん最終的には延滞・加重分も含めて財産を差押さえられてしまうと思うが、それも含めて「税金泥棒どもめ、取りたければ勝手にしろ」という態度を貫くラケンローな姿勢もあるだろう。
 それに差し押さえるほどの財産も持たない(賃金の発生する就労もしていない)人の場合、手の出しようもないかも知れない。
 まぁそこまでの反骨精神があるなら、もっと他のことで活躍できると思うが。



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【去年くらいから永遠の百歳です】
 百の齢を(昨年あたりに)超えたので、猫としては妖怪の部類に到達したといえる(何を言っているのか分からない人は無視してください)。

 なるほどこのくらいの年齢にもなると、生きているだけで素晴らしいと周囲から褒めそやされることも致し方ないのかと思う。
 実のところ、こうして(実態は異なるが、体感としては)無職のまま過ごすことも、やがて慣れるのだと分かった。
 当初(2年ほど)は本当に落ち着かなかった。
 やがて職務を持たぬがゆえに職責がなく、世俗に何らの公益をもたらしているわけでもないことに、微かな後ろめたさを持つようになった。
 誰かのために何かをしていたい、という欲求はしかし、納税によって満たせることに気が付いた。つまりすでに満たしているのだ。

 それに(ほぼ)不労とはいえ、もちろん誰にタカって生きているわけでもないのだから、悪いことをしているのではない。
 ただ働かないのに生活できていることについて、自分からそれを望み、運良くそれを実現したにもかかわらず、実感は薄い。
 それはそうだろう。
「何かをしている」のではなく「何もしていない」という状況を望み、実現したということは、空白を求めて空白を作ったことに等しい。
 多くの人は空白がまずあり、それを埋める「何か」を求めるのではないか。
 僕の場合、まず空白を求める傾向にあると思えばいいのかもしれない。

 たとえばフォロワを求めるクリエイタ、経済を求めるビジネスパーソン、友人や知人や恋人を求める孤独な人がいる一方で、僕はフォロワのような存在は邪魔になると考え、経済を追求することは人間を見失う可能性を含むために忌避し、友人や知人や恋人からも一定以上の距離を取って孤独を保守する。
 その空白が自由だ。
 何かを入れてもいいし、そのままの空白でも構わない。
 誰かのために使ってもいいし、自分のために使ってもいい。
 もちろん空白のまま持ち腐れたところで問題はない。

 あるいは空白を求めるにも、空白を作るための「何か」が必要なことはある。
 たとえばTVゲームをする自由を作るために就労し、機材を購入したり生活の安定を確立したり心身の健康を維持したりといった具合に。
 つまりそれは「空白」のための骨組み、枠組みを作ることだといえる。
 よって僕がしていることは他の多くの人と変わらないようにも思える。
 皆、自分の抱える空白を埋める好ましい何かを求めて、それを実現しようとしている。
 実現しようともしないで望んでいるなら、まぁ、ご自由にとしか言いようがないが。

 僕はただ空白が欲しいだけなのだから、無欲といえば無欲だし、自堕落で無気力と考えることも可能だろう。
 空白を空白で埋めようとする動機は分かりにくいかもしれないが「自分で決定できる」という自由は「何も決定されていない」という未定によって確立されている。
 そう考えると、無益に流れる空白の日々も、まぁ豊かなものなのかもしれないと思える。
 そもそも「昼寝に忙しい」「ゲームに忙しい」などと考えるようなイキモノなのだから、何を思い付いて何をしようとも、あるいは何を面倒に思って放置しようとも、空白の内容を選択的に決定しているといえる。
 自分の自堕落を責める必要はないのだ(自分に対する言い訳をしているように思えます)。

 姉妹をはじめ、周囲の人々は、僕がそうして静かに、しかし自由に生きていることをそのまま受け入れてくれている。
 妬んだりする者はないし、悪し様に言う者もない。
 あるいは「あれほどまで自由で孤独なのは、寂しかろう」と哀れんでくれているのかもしれない(そんなはずはないと思うが)。
 まるで宇宙空間のように摩擦や抵抗が少ない。

 もちろんヴァーチャルな空間ではないので、フィジカルな制限、不自由はある。
 たとえば望んだわけでもないのに日本人なので日本国政府に納税しなくてはならず、その一部が国賊どもの報酬になるとか、まぁ、そういった具合に。







 

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// NOTE:
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TITLE:
コミュニケーション・キャパシティ。
 
Written by BlueCat

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//[Body]

 昔から、電話が苦手である。嫌いと言ってもいい。
 なぜといって、電話は暴力的である。
 こちらの状況に対して、まったくお構いなしに掛かってきて、作業や思考や睡眠を、音や振動によって妨害する。
 受電したら受電したで、今度はいつ終わると決まっているわけでもない会話に付き合う必要がある。

 すぐ終わるものならまだ良い。ついでに要件が明確ならなお良い。
 そういう意味で、仕事の電話は比較的気軽に受けられるようにもなった。が、今の僕は無職だ。
 プライベートだとしても「話を聞いて」とか「愚痴なんだけど」とか、そういうお断りが最初にあれば、容易に心構えができる。
 想い人なら要件が不明であっても、20分程度までは嬉しく感じることさえある。

 それでも電話は暴力的だと感じる。
 携帯電話の普及に伴い「今、通話は問題ありませんか」と確認するのが一応のマナーになってはいるが、固定電話しかなかった時代に、会社組織の「3コール以内に受電する」というルールを厳守していたり、それに慣れきっていた人間は、すぐに出なかったり、後から折り返すと文句を言われることがある。
 これはたとえば道を歩いていて、いきなり知らない人に殴られた挙げ句「どこ見て歩いているんだ」と罵声を浴びるようなものだと感じる。
 こちらはこちらの都合で歩いていて、ついでに道路でいきなり殴る方がおかしいと思うのだけれど、電話についてはその暴力性を感じない人も多いようなので、仕方ないと思って長らく我慢していた。

 受電する側になるのが苦痛であれば、同じ価値観によって、他人に架電するのも苦痛だった。
 業務上必要であるにせよ、上記の価値観を持つ僕からすれば、その人それぞれの理由や都合で歩いている人を路上でいきなり殴るような行為に感じられていたからだ。
 はっきり言って通り魔に等しい。

 なので営業職に就いて2年近くは ── すでに会社員としての経験は5年以上過ぎていたのに ── 電話のやり取りだけでずいぶんと心を削られた。
 それでもやがて見ず知らずの人にいきなり電話を掛けたり、突然訪問できるようになったのは「まったく気にならない」という人たちの価値観を学んで、それをもとに一定の出力ができる人格を構築したからである。おかげで仕事はずいぶんしやすくなった。今は無職だがな。
 最終的には365日、24時間、会社からの電話をきっちりと(なぜか僕の電話に)転送されることになってしまったので、慣れていなかったら大変なことになっていたと思う。

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 古くからの友人であるTUは、僕のこうした現象について「青猫のコミュニケーション・キャパシティはめんどくさい」と評している。
 特定の個人に対して一定以上の濃度でコミュニケーションが続くと、コップに水を溜めるようにストレスが蓄積し、ひとたび溢れようものなら当面はその個人に対して拒絶反応を示す。
 しかもそのコップのサイズは一定ではなく、相手ごと、その日の気分や体調でも異なり、他の人のコップのキャパが溢れそうになっていることで「とばっちり」を受けることもあるらしい。
 べつに暴力を振るうわけではないのだが、おそらく機嫌や態度が悪い ──塞ぐ傾向は自覚しているので、外部からはそのように観察される ── のだろうと想像する。
 ために会話をしながら、そうしたコンディションを探る必要があり、それは僕の持つ面倒くささのひとつらしい。

 対処法は、しばらく放置しておくこと。
 僕は自分のことなので面倒だとは感じないし、他人の多くは僕からのコミュニケーションを喜ぶ傾向にある ── そもそも僕から連絡すること自体かなりレアケースな ── ので気にしていないが。
 ただ僕の微かな声や表情を見逃さない人が多いことについて、僕自身はそうした人々の気遣いに驚嘆しつつ感謝している。
 孤独の羊水の中で勝手に回復するイキモノにあって、外力は傷に障る。
 もちろんそうでない人が多いのも知っているが、果たして自力ではなく他力で回復するイキモノなどいるのだろうか。

 それでも上述のTUや(別の旧い友人である)BPは、基本的にいきなり電話を掛けてくる。弟子も姉もそうである。
 なので僕は昼寝に忙しかったり、ゲームで手を離せないときや単に気乗りしないとき、電話を無視する。
 彼らはそれについて承知の上で電話をしてくる。もはやストーカ扱いしても差し支えあるまい。

 妹と恋人だけは例外的に、必ず「電話しても大丈夫?」とメールしてくる。
 すぐに、という場合もあれば「明日の14時頃、平気?」と予約されることもある。
「今すぐ」というリクエストに即応できない場合、メールをスルーすることになるので電話をしないことになるが、それはそれで許されている。
 おそらく妹の場合は、僕が長い間そのように確認していたため、そのルールに合わせてくれているものと思う。あるいは妹も電話嫌いなのかもしれない。

 恋人の場合も、そういう人が淘汰されているものと思う。
 結果として、数年メールをしないとか、数年電話もしないとか、数年デートもしていないとか、もはや自然消滅したと言われたところで否定できない状況が発生する。
 果たして本当に恋人と呼んでもいいのだろうか。
 しかし単なる友人ではなさそうだし、知り合いというほど浅い関係ではなかったような気もする。
 いやそれともかつて肌を重ねたというだけで、今は他人なのだろうか。
 そんなふうに考えてしまうから、こちらからは滅多なことでは連絡することができない。
 すると不意にメールが来たりする。突然、一緒にお風呂に入ろうよぅ。と誘われたりする。
 関係性が分からないのだが、そもそも互いの関係に名称や区分を必要としない者同士なのだろうと分析している。

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 いずれにしても、ただの知り合いからのメールや電話なんて、僕だったらそれこそ無視することさえ煩わしい。
 そういうことも相まって、連絡しづらいのではある。
 ほとんどの用件は一人で済んでしまうし、他人の趣味なんて(恋人であっても)まったく分からないし、外食も物見遊山もそれをきちんと味わおうと思えば、一人の方が良い。
 自分以外の人間がいれば、それがどれほど近しい間柄であっても気を遣う。気を遣えば、そのぶん気が散ってしまう。
 ついでに僕は(人からすると異様なくらい)孤独に耐性がある。
 むしろ一定期間で例の「めんどくさいコミュニケーション・キャパシティ」が溢れてしまって、誰かと言葉を交わすことさえ苦痛になってしまう。

 ために誰か(友人であれ恋人であれ)と何か(食事だろうと、ただの茶飲み話だろうと、セックスだろうと)をするのは、その人と、それをしたいから、という理由の時だけなのだけれど、まぁこういうのは分からない人には分からないのかもしれない。
 ゲームをしながら食事をすると両方がおろそかになる。
 映像や音声や音楽は深く記憶に刻まれず、内容は薄れ、料理の味も香りもきちんと味わえず、それぞれの煩わしさだけが増して感じられる。
 子供の頃はそんなに感じなかったが、大人になって処理能力が低下したのか、あるいは感覚できるレンジが広がったか、その両方なのだろう。


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 人と一緒に何かをすることも同様、その誰かと一緒にいることがコンテンツ(目的)なのか、一緒にする何らかの行為や対象がコンテンツなのか、ということになる。
 極端な話、前者であれば「一緒にいるのが誰か」というのが要件のため何をするのでも問題ないことになるし、後者であれば誰と一緒だろうが(一人でも)構わない、ということになる。

 配分はもちろんあるだろうし、両方が要件であることもあるだろう。
 しかし一方に集中しているときと比べると、どうしても感覚されるものは雑になる。
 僕が誰かと一緒に暮らすのに向かないのは、そういう部分もあるのだろう。

 生活というのは、いかなることにもそうした配分をして過度な集中を避けることにあるのだろうし、そうする中で、なおざりになる部分をそれぞれが互いに許し、補うことでもあるのだろうから。
 恋愛と結婚は違う、というのもそういうことではないか。
 身体がひとつである以上、あれにもこれにも十全に集中して全力であたるということは不可能だ。

 もちろん僕は自分が他人から雑に扱われることを嫌うし、相手も同様の理由や感覚を持っている前提で行動してしまう。当たり前のことである。
 すると雑に扱わないために、そもそも安易に誘わない、ということになる。

 しかし外部からはその消極性が、自身に対して何も求められていない、という認識になる(人もいる)ようだ。
 そもそもそんなに素晴らしいコンテンツを持っているなら必ず誘われると思うのだが、皆、そんなに自分(に含まれるコンテンツ)に自信があるのだろうか。
 自信があるならなぜ、誘われない程度で不安になるのか、それがいまいち分からない。自信がないなら誘われないことは当然なのだから、自分から誘うしかない。

 少なくとも僕は、寂しいとか退屈だという理由で他人と(それが友人であれ恋人であれ)つるむような価値観を持っていないので、誘いたいときだけ誘うし、それ以外では誘わない。
 したくないことはしないし、したいことをする、というのがポリシィなのでこれは必然だろう。
 もちろんしたくないことをする必要があることもあれば、したいことができないこともある。大人だからそれらをわきまえた、その上で。

 他人の顔色を窺うのが悪いことだとは思わないが、自分の顔色を先に確認する方が大切だと僕は思っている。

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 会社員の頃、電話のせいで一度、ノイローゼになりかけたことがある。
 顧客がクレーマになってしまい、土日であろうと9時から22時まで、およそ5〜30分おきに電話をするようになってしまった。
 最終的に上司に相談して、その人についてだけは着信拒否にさせてもらったが、すでに遅く、何をしていても電話の着信音が空耳で聞こえるようになってしまっていた。
 もともとの電話恐怖症と相まって、回復まで3ヶ月ほどは掛かったか。

 もちろん別人格で会社員のカオは運用していたから表向きは問題なかったが、夜中に突然目覚めたり、シャワーを浴びている最中に着信音が聞こえた気がして(他のどんな轟音も、無音も、空耳を妨げることはできない)呼吸が定まらなくなったりと、ずいぶん酷い思いをした。

 結局、それ以外の多くの人と接して、多くの人と電話をしていたからこそ、比較的早い段階に回復したのだと思う。
 それより昔に、似たような脅迫観念に駆られたときは、電話機を冷蔵庫に仕舞ってなお聞こえる着信音に怯え、ならば意識を止めておこうと眠り続けた記憶がある。

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 昨年だったか、お酒を酌み交わした近所の老婦人のことで、その後もずいぶんと気分と体調を崩している。
 単に彼女としては、取るに足らない世間話をしたいとか、ちょっとした便利使いを頼みたい(近所の買い物だとか、ドアの建て付けの修正だとか、スマートフォンの使い方を教えてほしい)のだろうと思う(実際そのようなことを言っていたので)。
 こちらはヒマの身の上であるし、他人に親切にすることにやぶさかではない。

 しかし彼女には一定の悪意 ── 自身が見聞きしていない他人の悪意を断定的に妄執するような類いのそれ ── があるので、本能的に関わりたくない。
 僕に対して悪意がないのは分かっているが、そうした人はこちらの意見に耳を貸さず、ひとたび気分が変われば誰彼構わず敵視するので、つくづく面倒なのだ。
 そう思って距離を取り、現在に至る。
 長らく他人の愚痴を聞くことを趣味にしているが、こんな場面で役立つとは思っていなかった。

 お酒を交わした数日後だったとは思うが、一番酷いときで、一日に20回ほども着信があったろうか。
 一般的に、それが普通のことなのか、そうでないのかは分からない。
 とにかく僕にある種のフラッシュバックを起こさせるだけのそれは、暴力的な行為だった。
 それから決定的に、その人を避けるようになってしまった。
 困りごとを解決してあげたい、という気持ちはあるのだが、無作為にせよ、ダメージを受ける行為を続ける相手をするのは苦痛である(こちらは一人の方が好きだと伝えてあるのに)。

 それ以降も、2日と間をおかず、数回電話が掛かってきて、毎回留守電が残る。
 もちろんすべて無視して、留守録も聞かずに消している。
 しかしそれすら面倒になって、昨日から着信拒否をした。

 本来なら関係を綺麗さっぱり断ってしまいたいのだが、駐車場を貸したままである。
 もちろん先方も困っているから依頼をしているわけで、可能な限りの手を貸したいという気持ちはある。
 相手の役に立つことをしたくない、害したい、という気持ちを持っているわけではないのだ。
 ただ相手の悪意に付き合ったり、その悪意に同意をしたくはない一方で、安易に否定したいわけでもない(できるとも思っていない)。



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 悪意や妄執、疑心暗鬼というのはひとつの認識であり価値観だ。
 だからそれを必要とする人にとっては空気のように欠かせないもので、おそらく否定されて気持ちの良いものではないだろう。

 それに悪意のある者だって、困ることはある。
 苦しいこともあれば悲しむこともある。それは善人も悪人も関係ない。
 孤独を嘆くこともあれば他人の善意を信じられないこともあるだろう。

 悪意のある者を断罪するのは簡単だ。
 では弱者のすべては善人だろうか。そんなこともあるまい。
 善人かつ弱者だけを救うというのは一見崇高だが、それを自身の独善だけで測るということ自体、ずいぶんおこがましいように思える。

 戦争を続けている国がある、災害に苦しむ人々がいる。
 困っている人の、そのすべてが善人だなんて、僕は思わない。
 ただ弱っているだけの悪人を、しかし断罪するほどたいした正義を持っているわけでもない。

 傷ついたからといって相手を悪人と断ずる気はないが、相手は不本意だろうと慮って自身の負う傷を放置するわけにもいかない。
 こういう抽象的で複雑な葛藤が巡るので、酷く疲れて塞ぎ込んでしまうのだ。

>>>

 いい格好しいなのは分かる。
 けれど、いい大人がなりふり構わず、自分の損得や善悪感情だけで行動するのが良いことだとは、僕には思えない。
 なりふりを構って、自分の損得だけに囚われず、格好をつけて、皆にいい顔をするのが大人ではないのか。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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