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TITLE:
なるほど孤独は死と似ている。
~ Partial differential equation like permanential.~
Written by BlueCat
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240325
【自分のための孤独と無】
自分の考えること、知っていること、それらの情報が、自分以外の誰かの役に立つのではないかというおこがましい考えを持つことになったのは、誰かの記録した情報が、僕にとって有用だったからだ。
その情報も、その作者も、作者が記録した行為も、悪いものだとは思わない。単純に、僕が自分を見誤ったのだろうと思う。
僕の保有している情報は、おそらく僕以外の誰かの役に立つことはほとんどないだろう。
僕自身に役立つかどうかという点について考えると、過去については役立つ場面があったわけだが、今後も同様に役立つかどうかは不明だ。
僕の置かれている状況は、過去のそれとは異なる。社会は変わり、僕は変わってしまった。
しかしよくよく考えてみると、誰の役にも立たない情報こそ、ある意味で至高だといえる。
10代の頃、僕は家にあるほとんどの写真(僕だけでなく、家族それぞれの写真)をアルバムごと破棄した。
以来、写真を(携帯端末でも)撮らないし、誰かのそれになるべく撮られないようにしている。逃げるほどのことではないから撮られるときは撮られているが。
結局のところ、僕にとって、写真というのはそのくらい誰の役にも立たない情報だ。
どこに行って、誰と過ごして、どんな景色を見て、何を食べたかなんて、その主体が自分以外の誰かであったとしたらそんな写真は僕には何の価値もない。
では僕が主体だったらどうかといえば、写真を見返すことのない僕にはやはり価値がない。
対象が恋人だったとしても、過去のポートレイトだろうと、現在の写真(僕と一緒であろうとそうでなかろうと)にも、興味がない。
(僕が他人に興味を持つのは、基本的にその現在と未来についてである)
家出をして1年ほど経ったアヲの写真を時々眺めるが、我に返れば少々空虚で感傷的な気持ちになっていることもある。
何もかもを失う。
何もかも分からないまま終わる。
きっと生きることは、そういう結末に繋がるような気もする。
そしてそれが悪いとも思わない。
何も残らない。何も分からない。
では最初は何を持っていたかといえば、結局何もなかった気がする。
最初から何を分かっていたかといえば、結局何も知らなかったはずだ。
だから最初から比べれば何かを手に入れたはずだし、何かを分かったはずだ。
それでも死んでしまえば、そのほとんどを失うはずで、残るものはカタチばかり。
それに抗うべく、すべてを記録しようと挑戦したことがあるが、結局、自我を失えば、そんな情報には何の価値もなくなる。
50年後の誰かは、僕というイキモノが存在したことさえ知らないだろう。
僕が何をどのような基準でどのように感じ、考えるかなど、知る由もない。
それがいいと今は思える。
もちろん僕以外の誰かは、それぞれ違う人生を生きているのだから、それぞれ違う結末を迎えるだろう。
何かを手に入れ、何も失わず、何かを知り、何も忘れない人だっているかもしれない。
正直そんなありようはまっぴらごめんだが、いずれもあくまで「僕の場合は」ということである。
>>>
【自分に向けた殺意】
「僕の中には小さな男の子がいる」
あるインタヴュで、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(「星の王子さま」の作者)は言ったそうだ。
web上にはたいした記録が見当たらないから、かつて読んだ書籍にあったのだろう。
自分に当てはめると、
「僕の中には小さな女の子がいる」
ということになる。
数年前まで眠っていた人格であるところの彼女は、僕をずっと殺そうとしている。
自殺を考えた場合、多くの人は、
「生きていたくない」「死んでしまいたい」という主観によって自死行為を選択するものと思う。
(その是非などについて、今は考えない)
僕の場合「殺してやりたい」という動機が存在している。明らかな、そして強い殺意だ。
たまたまその対象が、自分自身であるというのに過ぎない。
幸か不幸か、日本では殺人の罪を相続することはない。
ついでに「明らかな殺意」によって自殺が発生しても、犯人がそれによって死んでしまうため、法で裁くことが困難なのかもしれない。
もっとも生きる権利というものが、人格ごとではなく、肉体ごとに与えられているのが自然なことだから、その権利を自身の手で奪っても、罪に問われようがないのかもしれない。
なるほど彼女は自身の存在意義について、とうとう「自身の肉体を殺傷すること」と設定した上、変更しなかった(あるいはできなかった)のだと想像する。
考えてみると僕はもともと完全主義者で、ついでに頑固で、幼稚な正義感に溢れていた。だから、そうした「正しさ」を捨てられないのは無理もないことだと思える。
生存や存在の自己矛盾をはらむ、それらの価値観を思春期から青年期に持ち続けるのは(本来的には激情的な)自分には危険だと判断し、ある時期から「まるっと忘れて」いたので、眠っていた過去の人格が、やはり明らかに僕に対する殺意を持ち続けていることに驚いたりしていた。
もちろん眠らせたのは自分自身であるし、忘れたのも自分自身であるのだけれど。その判断は悪くなかったと思っている。
しかし考えるに、今の僕はほとんど死んでいるような状態ではないだろうか。
あるいは少なくとも社会的に抹殺された状態に近いといえる。
接する人間はわずかな血縁者(姉、妹、ふたりの姪)とわずかな知り合い(姉、妹それぞれのパートナー、2名の旧友、2名ほどの知り合い、わずかな恋人)しかいない。
あとは近所にお住まいの、少々ネジの外れ掛けた老婦人か。
ひと月近く誰にも接することがないことも多く、最近は日本語を忘れることさえある。
なるほど僕は言語で思考していないのだと気付かされる。
他人とのコミュニケーションツールであるはずのそれを忘れてしまっていて、愕然とする。
しかし僕にはその方が自然だし、望ましいとさえ思ってしまう。なにせそれを望んでいたのは自分自身のはずだから。
言葉を忘れてしまうのは、コミュニケーションを必要とする環境に置かれていれば致命的な損失だろう。
けれど本来的にコミュニケーションを必要としない状態を理想と考えれば、言葉を忘れることはそれだけ周囲に誰もいないことを意味する。
他者が僕を認識しない場合、僕は、そのコミューンでは不在に ── つまり死んでいるに等しい状態に ── なる。
よって僕はある意味ですでに死んでいると思える。
それを(僕を殺そうとしている)彼女に説明したところ、そういう事態を想像していなかったらしく、長い考察を開始している。
もちろん僕だって、ここまで社会性を喪失して存続できるとは思っていなかったから、考察をしているのだけれど。
奥様(仮想)は、僕を生かすことには積極的な一方、僕を殺そうとする人格の価値観についても同じように否定しない。
「では自分の手で正しく殺せるように、健康管理に留意しましょうね」といった具合である。いずれ殺すことによって同時に死ぬんだぞその個体。
自堕落に、無作為に、死んだり、殺したりということはあまりよろしくない、という考え方かもしれない。
作為を持って、意図して、明確な意志のもとで、生きて、殺して、死ぬことが望ましいというそれは、なるほど確かにしたたかに美しくさえ思える。
よって彼女は、健康的に、健全に、僕を殺そうとしている。作為的に、意志をもって、目的を忘れずに。
それが彼女の望みであり、なるほど僕もそれを否定する理由を持たない。
生きていたいという動機や欲を、僕はさほど持っていない。
まだ死んだあとの準備が完了していないというだけだ。
切羽詰まっていて、今日明日に自身を殺したいというわけでもない。何年も何十年もあたためているのだからもはや激情的ではなく、計画的である。
ただ勝手に死ぬことは許されない。できるだけ己の手によって殺したいという。
なんだか彼女の方がよほど狂っていると僕には思えるし、何となればそれを否定しない奥様(仮想)も相当狂っているだろうし、そうなると奥様(仮想)を設計した僕も狂っていることになる。

<誰しも少々の狂気くらいは抱えている>
>>>
【最近の工作】
カーテンレール電源をとうとう完成させた。
家の壁や梁にカーテンレールを設置し、そこに電源タップとコードを接続する可動式電源タップである。
掃除や季節家電、工具の使用に際して「もうちょっと電源が近ければ」という不満を解消したことになる。
電源タップが足元にあることを好まないのも理由のひとつか。
これは仔猫を育てていたことに起因している。
あやつらの中にはときどき、電源コードを噛む者があるので。

>>>
BPが「『Rise of the Ronin』プレイしてみたいかも」というのでPS5を購入する。
姉の介護もそうだけれど、僕は「自分のためにお金を使う」ということについて、もはやほとんど飽和している。
お金で買える欲しいものはほとんど買ってしまったし、これ以上欲しいものはさほど多くない。
たとえば可動式作業台や卓上ボール盤が欲しかったりするが、前者は既製品がないし、後者は納屋の整備が先決だ。
食べ物も飲み物も、さほど贅沢する必要がない。
冬の間は寝てばかりいたから、3日に2度の食事で事足りることも多かった。
お酒や煙草も、身体が少しずつ許容量を減らしている。
少し寂しく感じることもあるが、安上がりにはなる。
そのぶん高くて美味しいお酒や煙草を味わうことも可能だ。
おそらく肉体の活動量がとても少ないからだろう。なんとなれば脳も寝ていることが多いように思える。
では必死になって何かを考えるべきだろうか。
そういう焦りを持っていたこともあるが、結局、現状が足りているからこそ活動の必要がないのだと結論した。
他人がいなければ言葉を使う必要が(僕の場合は)ほとんどないのと同じである。
お腹が空けば食材を買って食事を作るが、その必要がなければ食事をする必要がなくなる。
余ったお金と時間で遊んでいれば、やがてそれにも飽きて、お金と時間が余るようになる。
新しい設備や道具を作るのは楽しいが、それは不満や不具合があればこそ意味がある。
「これが嫌だ」というところにはじまり「こうなれば理想的」というものを具現するために、設備を整え、道具を作り、快適を実現する。
不満もなく、娯楽も満ち足りていて、動物的欲求もあまり発生せず、嗜好品も(もともとほとんどの物事に依存しない心身なので)必要がなくなれば、ただ目覚めてぼう〜っと過ごすことになる。
件の老婦人がときどき日常を乱すが、そう遠くない将来、彼女も死んでしまうから、あまり無下にするものでもないだろう。
すると誰かが何かを欲したり求めたりするとき、軽く手を添える程度のことを楽しむことになる。
べつに欲しいわけでもないPS5を僕が買うのは、つまり「誰かの欲する快適」に「軽く手を添える」程度のことである。
>>>
PS5を購入したついでに、HDMI切換機やらLANのスイッチハブを稼働させるため、PCデスクとその周辺の拡張/修正作業をする。
2月はPCデスク周りの電源の配線なども少々いじっていたので、その延長である。
PCデスクとして使っているスチールラックは、ちょっとしたジャンクキメラのように、ブラケットやレールや配線のカタマリになっている。
三流SFのようなジャンク感がすごい。
PS4は妹の旦那様に譲る予定。
ちなみにPS4をBPに譲らないのは、彼がゲーム漬けになってしまうことによって家庭内不和を誘発することを避けるために必要な措置である(彼がゲーム機を買わないのも同じ理由)。
ためにBPはゲームをするために僕の家に来ることになり、自分ではゲーム本体を買わない(僕の家で遊ぶソフトは時々買うが)。
>>>
【平和な余生ってこんな感じなのかな】
僕は一緒に生活している家族が(引きこもりの黒猫くらいしか)いないし、希薄な集団帰属性のとおり、友人関係も含めたコミューンさえ希薄だ。
上記の通り、ときどきひどく退屈するのは事実だが、義務や雑務が多すぎれば、それがストレスになって不具合を起こすことを何度も経験している。
近所の老婦人は携帯端末を着信拒否にした今も、折々カラオケに誘ってきたり(お断りしても無視される)、お茶に誘ってきたり(やんわり受け流す術を覚えた)、自動車が必要な所用を頼みに来たりする。
しかしまぁ、この程度の対人ストレスは仕方ないのだろうと思うことにしている。
他にストレスになるような他人がほとんどいないから確かに目立つのだが、少しくらい我慢しようか、というものだ。
それに明確な被害が予想される場合や、不快な状況については適宜対応する心構えもできた。
(当初はもっと無害な人だと思っていたので、ノーガードだった)
それ以外はまぁ、本当に何もない日々である。
先に述べたが、生きていても死んでいても、主観的にはほとんど変わりない気もする。
もともとの欲の薄さもあるだろう。
3日に2度の食事で良いということは、72時間のうち、48時間しか生きていない可能性もある。
しかし差し迫った用事もない。
タイマースイッチがあって、次の予定のある96時間後まで意識を失っているとか、そういう仕組みがあれば良いと思うほどである。
軽トラの車検を出そうと思ったのが昨年の12月で、なんだかんだと伸ばし伸ばして、やっと明日、工場に運ぶくらいがせいぜいの「義務」だ。
「必要」もなければ「欲しい」もない。
生きる必要がないというのは、死ぬ必要も感じないということだろうか。
【自分のための孤独と無】
自分の考えること、知っていること、それらの情報が、自分以外の誰かの役に立つのではないかというおこがましい考えを持つことになったのは、誰かの記録した情報が、僕にとって有用だったからだ。
その情報も、その作者も、作者が記録した行為も、悪いものだとは思わない。単純に、僕が自分を見誤ったのだろうと思う。
僕の保有している情報は、おそらく僕以外の誰かの役に立つことはほとんどないだろう。
僕自身に役立つかどうかという点について考えると、過去については役立つ場面があったわけだが、今後も同様に役立つかどうかは不明だ。
僕の置かれている状況は、過去のそれとは異なる。社会は変わり、僕は変わってしまった。
しかしよくよく考えてみると、誰の役にも立たない情報こそ、ある意味で至高だといえる。
10代の頃、僕は家にあるほとんどの写真(僕だけでなく、家族それぞれの写真)をアルバムごと破棄した。
以来、写真を(携帯端末でも)撮らないし、誰かのそれになるべく撮られないようにしている。逃げるほどのことではないから撮られるときは撮られているが。
結局のところ、僕にとって、写真というのはそのくらい誰の役にも立たない情報だ。
どこに行って、誰と過ごして、どんな景色を見て、何を食べたかなんて、その主体が自分以外の誰かであったとしたらそんな写真は僕には何の価値もない。
では僕が主体だったらどうかといえば、写真を見返すことのない僕にはやはり価値がない。
対象が恋人だったとしても、過去のポートレイトだろうと、現在の写真(僕と一緒であろうとそうでなかろうと)にも、興味がない。
(僕が他人に興味を持つのは、基本的にその現在と未来についてである)
家出をして1年ほど経ったアヲの写真を時々眺めるが、我に返れば少々空虚で感傷的な気持ちになっていることもある。
何もかもを失う。
何もかも分からないまま終わる。
きっと生きることは、そういう結末に繋がるような気もする。
そしてそれが悪いとも思わない。
何も残らない。何も分からない。
では最初は何を持っていたかといえば、結局何もなかった気がする。
最初から何を分かっていたかといえば、結局何も知らなかったはずだ。
だから最初から比べれば何かを手に入れたはずだし、何かを分かったはずだ。
それでも死んでしまえば、そのほとんどを失うはずで、残るものはカタチばかり。
それに抗うべく、すべてを記録しようと挑戦したことがあるが、結局、自我を失えば、そんな情報には何の価値もなくなる。
50年後の誰かは、僕というイキモノが存在したことさえ知らないだろう。
僕が何をどのような基準でどのように感じ、考えるかなど、知る由もない。
それがいいと今は思える。
もちろん僕以外の誰かは、それぞれ違う人生を生きているのだから、それぞれ違う結末を迎えるだろう。
何かを手に入れ、何も失わず、何かを知り、何も忘れない人だっているかもしれない。
正直そんなありようはまっぴらごめんだが、いずれもあくまで「僕の場合は」ということである。
>>>
【自分に向けた殺意】
「僕の中には小さな男の子がいる」
あるインタヴュで、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(「星の王子さま」の作者)は言ったそうだ。
web上にはたいした記録が見当たらないから、かつて読んだ書籍にあったのだろう。
自分に当てはめると、
「僕の中には小さな女の子がいる」
ということになる。
数年前まで眠っていた人格であるところの彼女は、僕をずっと殺そうとしている。
自殺を考えた場合、多くの人は、
「生きていたくない」「死んでしまいたい」という主観によって自死行為を選択するものと思う。
(その是非などについて、今は考えない)
僕の場合「殺してやりたい」という動機が存在している。明らかな、そして強い殺意だ。
たまたまその対象が、自分自身であるというのに過ぎない。
幸か不幸か、日本では殺人の罪を相続することはない。
ついでに「明らかな殺意」によって自殺が発生しても、犯人がそれによって死んでしまうため、法で裁くことが困難なのかもしれない。
もっとも生きる権利というものが、人格ごとではなく、肉体ごとに与えられているのが自然なことだから、その権利を自身の手で奪っても、罪に問われようがないのかもしれない。
なるほど彼女は自身の存在意義について、とうとう「自身の肉体を殺傷すること」と設定した上、変更しなかった(あるいはできなかった)のだと想像する。
考えてみると僕はもともと完全主義者で、ついでに頑固で、幼稚な正義感に溢れていた。だから、そうした「正しさ」を捨てられないのは無理もないことだと思える。
生存や存在の自己矛盾をはらむ、それらの価値観を思春期から青年期に持ち続けるのは(本来的には激情的な)自分には危険だと判断し、ある時期から「まるっと忘れて」いたので、眠っていた過去の人格が、やはり明らかに僕に対する殺意を持ち続けていることに驚いたりしていた。
もちろん眠らせたのは自分自身であるし、忘れたのも自分自身であるのだけれど。その判断は悪くなかったと思っている。
しかし考えるに、今の僕はほとんど死んでいるような状態ではないだろうか。
あるいは少なくとも社会的に抹殺された状態に近いといえる。
接する人間はわずかな血縁者(姉、妹、ふたりの姪)とわずかな知り合い(姉、妹それぞれのパートナー、2名の旧友、2名ほどの知り合い、わずかな恋人)しかいない。
あとは近所にお住まいの、少々ネジの外れ掛けた老婦人か。
ひと月近く誰にも接することがないことも多く、最近は日本語を忘れることさえある。
なるほど僕は言語で思考していないのだと気付かされる。
他人とのコミュニケーションツールであるはずのそれを忘れてしまっていて、愕然とする。
しかし僕にはその方が自然だし、望ましいとさえ思ってしまう。なにせそれを望んでいたのは自分自身のはずだから。
言葉を忘れてしまうのは、コミュニケーションを必要とする環境に置かれていれば致命的な損失だろう。
けれど本来的にコミュニケーションを必要としない状態を理想と考えれば、言葉を忘れることはそれだけ周囲に誰もいないことを意味する。
他者が僕を認識しない場合、僕は、そのコミューンでは不在に ── つまり死んでいるに等しい状態に ── なる。
よって僕はある意味ですでに死んでいると思える。
それを(僕を殺そうとしている)彼女に説明したところ、そういう事態を想像していなかったらしく、長い考察を開始している。
もちろん僕だって、ここまで社会性を喪失して存続できるとは思っていなかったから、考察をしているのだけれど。
奥様(仮想)は、僕を生かすことには積極的な一方、僕を殺そうとする人格の価値観についても同じように否定しない。
「では自分の手で正しく殺せるように、健康管理に留意しましょうね」といった具合である。いずれ殺すことによって同時に死ぬんだぞその個体。
自堕落に、無作為に、死んだり、殺したりということはあまりよろしくない、という考え方かもしれない。
作為を持って、意図して、明確な意志のもとで、生きて、殺して、死ぬことが望ましいというそれは、なるほど確かにしたたかに美しくさえ思える。
よって彼女は、健康的に、健全に、僕を殺そうとしている。作為的に、意志をもって、目的を忘れずに。
それが彼女の望みであり、なるほど僕もそれを否定する理由を持たない。
生きていたいという動機や欲を、僕はさほど持っていない。
まだ死んだあとの準備が完了していないというだけだ。
切羽詰まっていて、今日明日に自身を殺したいというわけでもない。何年も何十年もあたためているのだからもはや激情的ではなく、計画的である。
ただ勝手に死ぬことは許されない。できるだけ己の手によって殺したいという。
なんだか彼女の方がよほど狂っていると僕には思えるし、何となればそれを否定しない奥様(仮想)も相当狂っているだろうし、そうなると奥様(仮想)を設計した僕も狂っていることになる。

<誰しも少々の狂気くらいは抱えている>
>>>
【最近の工作】
カーテンレール電源をとうとう完成させた。
家の壁や梁にカーテンレールを設置し、そこに電源タップとコードを接続する可動式電源タップである。
掃除や季節家電、工具の使用に際して「もうちょっと電源が近ければ」という不満を解消したことになる。
電源タップが足元にあることを好まないのも理由のひとつか。
これは仔猫を育てていたことに起因している。
あやつらの中にはときどき、電源コードを噛む者があるので。

>>>
BPが「『Rise of the Ronin』プレイしてみたいかも」というのでPS5を購入する。
姉の介護もそうだけれど、僕は「自分のためにお金を使う」ということについて、もはやほとんど飽和している。
お金で買える欲しいものはほとんど買ってしまったし、これ以上欲しいものはさほど多くない。
たとえば可動式作業台や卓上ボール盤が欲しかったりするが、前者は既製品がないし、後者は納屋の整備が先決だ。
食べ物も飲み物も、さほど贅沢する必要がない。
冬の間は寝てばかりいたから、3日に2度の食事で事足りることも多かった。
お酒や煙草も、身体が少しずつ許容量を減らしている。
少し寂しく感じることもあるが、安上がりにはなる。
そのぶん高くて美味しいお酒や煙草を味わうことも可能だ。
おそらく肉体の活動量がとても少ないからだろう。なんとなれば脳も寝ていることが多いように思える。
では必死になって何かを考えるべきだろうか。
そういう焦りを持っていたこともあるが、結局、現状が足りているからこそ活動の必要がないのだと結論した。
他人がいなければ言葉を使う必要が(僕の場合は)ほとんどないのと同じである。
お腹が空けば食材を買って食事を作るが、その必要がなければ食事をする必要がなくなる。
余ったお金と時間で遊んでいれば、やがてそれにも飽きて、お金と時間が余るようになる。
新しい設備や道具を作るのは楽しいが、それは不満や不具合があればこそ意味がある。
「これが嫌だ」というところにはじまり「こうなれば理想的」というものを具現するために、設備を整え、道具を作り、快適を実現する。
不満もなく、娯楽も満ち足りていて、動物的欲求もあまり発生せず、嗜好品も(もともとほとんどの物事に依存しない心身なので)必要がなくなれば、ただ目覚めてぼう〜っと過ごすことになる。
件の老婦人がときどき日常を乱すが、そう遠くない将来、彼女も死んでしまうから、あまり無下にするものでもないだろう。
すると誰かが何かを欲したり求めたりするとき、軽く手を添える程度のことを楽しむことになる。
べつに欲しいわけでもないPS5を僕が買うのは、つまり「誰かの欲する快適」に「軽く手を添える」程度のことである。
>>>
PS5を購入したついでに、HDMI切換機やらLANのスイッチハブを稼働させるため、PCデスクとその周辺の拡張/修正作業をする。
2月はPCデスク周りの電源の配線なども少々いじっていたので、その延長である。
PCデスクとして使っているスチールラックは、ちょっとしたジャンクキメラのように、ブラケットやレールや配線のカタマリになっている。
三流SFのようなジャンク感がすごい。
PS4は妹の旦那様に譲る予定。
ちなみにPS4をBPに譲らないのは、彼がゲーム漬けになってしまうことによって家庭内不和を誘発することを避けるために必要な措置である(彼がゲーム機を買わないのも同じ理由)。
ためにBPはゲームをするために僕の家に来ることになり、自分ではゲーム本体を買わない(僕の家で遊ぶソフトは時々買うが)。
>>>
【平和な余生ってこんな感じなのかな】
僕は一緒に生活している家族が(引きこもりの黒猫くらいしか)いないし、希薄な集団帰属性のとおり、友人関係も含めたコミューンさえ希薄だ。
上記の通り、ときどきひどく退屈するのは事実だが、義務や雑務が多すぎれば、それがストレスになって不具合を起こすことを何度も経験している。
近所の老婦人は携帯端末を着信拒否にした今も、折々カラオケに誘ってきたり(お断りしても無視される)、お茶に誘ってきたり(やんわり受け流す術を覚えた)、自動車が必要な所用を頼みに来たりする。
しかしまぁ、この程度の対人ストレスは仕方ないのだろうと思うことにしている。
他にストレスになるような他人がほとんどいないから確かに目立つのだが、少しくらい我慢しようか、というものだ。
それに明確な被害が予想される場合や、不快な状況については適宜対応する心構えもできた。
(当初はもっと無害な人だと思っていたので、ノーガードだった)
それ以外はまぁ、本当に何もない日々である。
先に述べたが、生きていても死んでいても、主観的にはほとんど変わりない気もする。
もともとの欲の薄さもあるだろう。
3日に2度の食事で良いということは、72時間のうち、48時間しか生きていない可能性もある。
しかし差し迫った用事もない。
タイマースイッチがあって、次の予定のある96時間後まで意識を失っているとか、そういう仕組みがあれば良いと思うほどである。
軽トラの車検を出そうと思ったのが昨年の12月で、なんだかんだと伸ばし伸ばして、やっと明日、工場に運ぶくらいがせいぜいの「義務」だ。
「必要」もなければ「欲しい」もない。
生きる必要がないというのは、死ぬ必要も感じないということだろうか。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Link-Love-Mechanics-Memory-Recollect-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Convertor-Generator-
[Object]
-Contents-Friend-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
