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// TimeLine:240310
// NOTE:
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TITLE:
Z世代かな?
SUBTITLE:
~ dream walker. ~
Written by BlueCat
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//[Body]
240310
目覚めたら夜中である。
夜中といってもまだ23時なので、翌朝までは7時間くらいある。ちなみに寝たのは朝10時頃のはず。
かなりしっかり眠れてとても心地が良い。悔やまれるのは買い物に出掛けられなかったことくらいか。
といっても人混みを嫌うので、閉店30〜60分前に行くのがセオリィになっている。
土日の日中なんて論外だ。道路も商業施設も混んでいるので(予定がないなら)絶対に家を出ない。
よって僕の一日の生活で、一番時間を支配するのがこのスーパーの営業時間である。
わずか1時間しかないから、それに合わせて生活する。
まるで気難しい配偶者の機嫌を取るようにして、一日の予定を組むことになる。
幸い、その「気難しいほうの配偶者」は週に2度くらい調子を合わせればなんとか生きていける。
(他に「ゴミ出し」も気難しいのだが、我が家では生ゴミおよび猫の排泄物を排出する必要がなくなり、最近は僕の食事の回数と量も少ないため、週に1回未満のゴミ出しで済んでいる。)
>>>
【Z世代かな?】
「タイパ」とかいう恥ずかしい単語がメディアで時々表出する。
日本語に限らず言語のセンスを疑うが、もはや多くの人は言葉に対し、音や字の美しさや意味の正しさなど必要としていないのだろうと想像する。
ちなみに僕も必要だとは感じていない。ないよりは、あった方がいいかな、くらいの感じか。
これは「有能で顔もいい方が、無能で顔が凡庸よりもいい」のと同様である。
それでこの「時間対効果」が、格別「Z世代」とやらに言われているとメディアは騒いだりするのだが、そんなものは昔からあった概念である。
あるいは僕がZ世代に該当しているのかもしれない。
かねてから、企業は「時間あたり」「一人あたり」「単位金額あたり」の効率を求めてきた。
他者 ── つまりは社会 ── の空気を真っ先に読むことを最優位とする若者が、そうした言外の優先事項を己が価値観に取り込んだとして不思議はない。
年長者(自称百歳)なので、ここは先輩風をびゅーびゅー吹かせて吹聴したいのだが、僕も含めたより昔の「若い者」はもっと時間を無駄に過ごしていたものである。
そのコンテンツ密度の低い時間の中を、それぞれが回遊生物のように動き回ることで情報を摂取してきた。
若者は情報を、コンテンツを求める。それは昔も今も変わらない。
力や正しさや美しさを求めること、その指向性が、若さではないだろうか。
ところが社会にも情報が希薄で、メディアも限られているから、ゴミをひとつひとつ手で拾うように、非効率に動き回るしかなかったのが昔の若者である。
もちろんそれにはそれの独自の良さがあっただろうと思う。なにより運動になる。
現在の若者は、複数の掃除機を同時に操ってゴミを集めているようなものだ。それはそれで疲れるだろうが、とにかく効率はいい。
ベルトコンベア式に、自動で目の前を大量のゴミが流れる仕組みも手に入れられる。ついでにだいたいのメディアやコンテンツが無料である。
費用対効果を考えると、ゴミほど資源になるのは昔も今も変わらない。
ただしそれを有用な ── 真の意味での ── 資源にするには、もうひと手間が必要になる。
目の前に流れてくるものから選ぶしかできない人に、それを加工する能力があるとは限らない。
>>>
【効率重視は素晴らしいが、第一義にしてはいけない】
僕は情報に限らず、すべてのものが「相応の対価で交換されること」を善良だと考えるので、無料のもの、廉価なもの、定額のものが必ずしも良いとは思っていない。
それは表出しない部分で何らかの歪みを発生させていて、つまり誰か(それは時に自分自身)が搾取されていることを意味するからだ。
たとえば僕がコンテンツメイカなら、自分の作ったコンテンツが定額で読み放題、聴き放題、観たい放題、遊び放題という場所の生贄にされるなど、とても耐えられないだろう。
挙げ句「ちょっと試したけれど、あれはつまらない」「○○のパクリっぽい」などと酷評されたら、心が折れ放題である。
もちろんコンテンツが常に有料だった昔にも、ゴミのようなコンテンツは山ほどあった。
だからこそ人々は、価格相応の価値を求め、それによってすべてのものはふるいに掛けられ、淘汰されてきた。
道具も安くても用を為すのは素晴らしいが、より高い精度、より高い能力や利便性を持つ道具を必要とする人はいて、そういう道具は高価である。
より高い精度で、より有用な情報が、コンテンツが、無料や定額であるはずはなく、もしそのように提供されているとしたら何かおかしいと思うのは必然だろう。
ちなみに時間対効果を追求した挙げ句、僕は毎日たいそうヒマになった。
時間に限らず、一人で使うにはリソースが余るので、他の人のために使っている。
誰かと遊ぶなら僕が時間を合わせる必要があるし、様々な道具を持っていても一人では使い切れないので、誰かに提供している。
スーパーの営業時間に合わせて寝たり起きたり作業を中断するのも必要なことで、土日に僕が出歩かなければ(ひとり分だが)道路や商業施設の混雑は減少する。
まぁ平日も出歩かないので、いっそう環境に優しいといえるのではないか。
時間や費用の効果を追求することは、それ自体が第一義になるのでない限り、悪いことではないと僕は思う。
ただそれが最優先事項となれば、企業をはじめいかなる集団であろうと個人であろうと、どこかで誰かを弾圧し、搾取する構造に変わる。
僕はたまたまオカネモチーになる実験に成功し、時間にケチなあまり時間も余るようになってしまったが、使い切れないほどのお金や時間を持っていることが果たして素晴らしいとはやはり思わないし、そういう人を褒めそやす気持ちにはならない。
今この立場になってなお、どのようにお金や時間を作り、どのようにそれを使うかが、その中継点である集団なり個人なりの能力だと思うからだ。
企業も国家も効率を求めた結果、そこに属する者を弾圧し、搾取する構造に変わって衰退した。
学校だって効率を求めたが、かつて人間が理想とした「豊かな多様性」を実現するだけの資質を人間に育むには失敗した。
効率を求めると、集団はそこに属する個々人を見なくなる。第一義となる効率が満たされるなら、人間など必要ないのだ。
>>>
たとえば僕の家では洗濯や食器洗いに、ほとんど人間が介在しない。人の手をほとんど必要としていない。
これは僕が効率を重視して、より多くの可処分時間を追求した結果だが、これを娯楽やコミュニケーションに当てはめるのはとても危険なことだと僕は思う。
効率化というのはつまるところ高純度精製をすることである。
より甘いものを求めて精製糖を作ったように、よりキマる薬物を求めて麻薬を合成するように。
しかし時間あたりの幸福度なんて、本来数値化できるものではない。
にもかかわらずそれが存在すると錯覚し、より純度の高いそれ(麻薬ではなく幸福のことね)を求めるのは、とりもなおさずその価値観によって自分自身を縛り付けることだ。
よって自分自身にも高効率の善良さや娯楽性を求め、他人もおなじ物差しで断ずることになる。
結果として起こることは、他人という存在の否定であり、自身という存在に対する虚無感だ。
なぜといって、そんな高純度に、他人にも自身にも有意なコンテンツであり続ける個人など存在し得ないからだ。
他人にそれを求めるのは危険だし、自身にそれを求めても失望するだけだ。
>>>
【無料で有意なコンテンツ】
皆、自分に意味があり価値があると勘違いしている。
長らく人間が理想としてきた「人は生きているだけで意味があり、価値があり、素晴らしい」という、それは倫理や正義の表出でもある。
その絶対的な理想 ── 倫理観や正義感 ── の前に、人は否定する術を持たない。
なぜ「人は生きているだけで意味があり、価値がある ── ただし良い意味/高い価値とは限らない」と言えないのだろう。
通り魔殺人を起こすような人間にも意味があり、すぐれた価値があるのだろうか。
すると「それは話が別だ」などと特例を作ろうとする。
つまり「人は生きているだけで意味があり、価値がある」などという価値観は言う側の欺瞞 ── 要は綺麗事の嘘による自己満足だ、ということになる。
正しくは「人は、意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことでしかない。
しかしどうだろう。
「人は生きているだけで意味や価値がある」というきれいな言葉は見た目のインパクトに優れる。
それが果たして人の「より良く生きよう」という気持ちを鼓舞するだろうか。
もしそうなるなら嘘も方便といえる。
ただ僕などはものぐさだから「生きているだけでいいのかぁ、ラクだなぁ」と、つい自堕落に過ごしてしまう。
誰かの役に立とうなどとは夢にも思わないまま、とうとう世から去るだろう。
一方で「意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことを当たり前に言われれば「なるほどそれではその意味とは何だろう。価値とは何だろう」と考えることになる。
誰にとってのどんな意味で、どんな価値なのか、と。
効率を求めるというのは理想を求めるということだ。
その理想には「どこでもドア」や「タイムマシン」のように実現不可能なものも存在する。
(両者は空間と時間の移動について、究極的な存在である)
究極的な理想や効率をいつも目にしていれば、それが当たり前だと思うようになるが、絵に描いた餅は結局空腹を満たさない。
メディアで取り上げられているZ世代の典型のような人が実在したとして、なるほど中身もないのに虚飾するのは致し方ないといえる。
彼ら彼女たちは、究極に効率的なコンテンツに溺れたために、自分自身にも無料で有意なコンテンツを持っていなければ存在する価値はないと無意識に刷り込まれているからだ。
必然、自分には何らかの能力なり価値なりが生きているだけで最初からあり、その理想は具現されるべく自分の前に当たり前に用意されていると思っている。
「ホワイト企業だから」という理由で退職する若者がいるというニュースもあったが、これなど端的で、要は「思ったほど自分の活躍を実感できなくてつまらないから退職したいが、会社を含む環境を悪く言うのは倫理的に格好悪いから『もっと成長したい』という理由をでっち上げた」ということだろう。
この時点でどのみち能無しである。
ホワイト企業という理想が実際に具現されていたとして、それは高効率な時間対費用の交換の場所なのだから、余った時間で好きな勉強をするなり副業するなり起業するなりすれば、いくらでも自己実現は可能である。
しかし自分の能力を高めることや、果てには活躍の実感までもを企業に求められたらそれはかなわない、というのが僕の考えだ。
そんなものは自分で勝手にやって勝手に実感するものだろうし、そもそも自分にしかできないような高度で有意義な仕事を誰かが(それも新人に)与えてくれると思っている方がおかしい。
ホワイト企業に就職できるほど高い能力を持っているのに、そんなことも分からない白痴だから、そのまま絵に描いた餅なのだ。
ここまで端的に「有能な白痴」も少ないと思うが、そのぶん付ける薬がない。
そもそもどんな自分を実現したいのか、分かっていないのではないだろうか。
危機感があって能力もあるなら、対策は自明だろうし、対処できずに不安を抱えるというのは不自然である。つまりどこかに欺瞞がある。
重要なのは他者からもたらされた欺瞞ではなく、自己欺瞞に終始して、そこで不安や不満を覚えているという情けない実情にある。
>>>
【その効率至上主義は洗脳ではないか】
確かに「自身が無能(/無価値/無意味)である」と認めるのは苦痛だろうとは思う。しかしそれを認めないで、能力や価値や意味を高めることは不可能だ。
能力が足りない、ではどうすれば高められるか。
価値がないと感じる、では何に価値があるのか。
意味がないと思う、ではどんな状態に意味があると思うのか。
他者を正しく評価・分析できたとしても、自身に対して正しく評価・分析できなければ、不満を抱えるのも無理はない。
互いを理想という物差しで評価する社会になってきているが、自分の物差しで自分を計ることができないなら、それが一番問題ではないか。
たとえば料理を考えた場合、皆が美味しいと言っているのに自分には美味しくないことなどたびたびあることだと思う(僕はないが)。
塩加減ひとつとっても、自分のそのときの体調や気分で好みは変わる。
万人にとって美味しい料理は存在しないし、仮に存在したら、万人にとって美味しくない料理もまたそれだということになる。
料理なんて、食べる人が美味しい、と思わなければ作る価値も食べる意味もない。
他人が食べるものももちろんだが、自分が食べるときも同じである。
彼ら彼女たちは「万人受けする料理」を目指すあまり、自分にとっての「美味しさ」を見失った、味覚音痴の料理人のようである。
高効率を求めるようになったのは、結果的にそれを社会から押し付けられた彼らの不遇だろう。
様々に押し付けられる美しさや正義や倫理や楽しさに溺れるうち、本当に自分が美しいと感じるものや、正しいと思うこと、楽しいと感じることが分からないのではないかと想像する。
皆が美しいというものを美しいのだと刷り込み、皆が正しいと言うものを正しいと条件付け、皆が楽しいとすることを楽しんで、皆から羨まれ、ちやほやされることが幸せだと思っているのかもしれない。
もちろんそういう幸せもあるとは思う。
若くて頭の回転が速くてついでに顔もいい人がいたら文句なしに素敵だといえる素直さ(ついでにそれが女性だったらとりあえずデートに誘う下品さ)を忘れたくないが、同時に枯れ枝や朽ちる花に感じる寂しい逞しさや儚い美しさも否定したくない。
塩気のない料理は素材の味を我慢して楽しめばいいし、塩が強い料理は塩の味を楽しめばいい。
腐敗した食材なら、腐敗臭を……さすがにそれはやめた方がいいかな。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240311/04/code-bluecat/dc/e5/j/o0960128015411607654.jpg?caw=800)
>>>
【生きる上での効率とは何か】
結局のところ、個人における最高効率というのは結果論に過ぎない。
あの道も行った、この道も辿った、あっちは行き止まりで、こっちは迷った挙げ句に振り出しに戻った。
そうした試行錯誤が結果的に、自分にとっての最適解をもたらしてくれる。
たとえば、お金を払ってリフォーム業者に頼めば、カタログから資材を選ぶ程度の手間で、確かに最高効率を手に入れることができる。
しかし出来上がったものが自分に最適かといえば、おそらくそんなことはない。
あの資材はここが駄目だ、この設備はこの動線を塞ぐということはたびたび起こることだ。
そういう事態を懸念して自分でしようと思えば、不慣れな道具を思うように使えず、手順を誤って失敗を繰り返すことになる。
いずれの道にも正解はある。
まぐれで最初から正解を当てることもできるだろう。
しかしそれは結局のところ、他の道を知らないということになる。
算数のドリル(穴を空ける工具ではない)で、分からない問いにあったとき、正解を先に見るようなものだ。
分からないなら分からないなりに、無駄だとしても、苦痛でも、少しでいいから自分で考えた方が良い。
なぜといって、それを自分で考えて処理できる人間がいるからだ。
自力で正解に近づく能力は、たとえ最終的に不正解でも、最初から答えを見るよりはずっと幸せに近づける。
僕の場合はたまたま、自然発生的に時間ケチになってしまった。
身体が弱いこともあるし、ある程度のところで自殺する計画を持っていたのもある。
それから何より面倒くさがりなので、あれもこれもしたいと思ったところでしないまま終わったり、捻くれた考え方をするから皆がいいと言っているものを否定する傾向もあった。
だからといって自分が面倒だと感じるものを誰かに押し付けることはしなかったし、皆が良いと言っているものは相応の価値があると思うようにもなった。
ただ自分の終わりを決めている以上、終わりをいつも意識しているから、結局時間に一番価値があると思うようになった。
企業が時間や一人あたりの生産性を追求するのは、それが営利組織の意義を高めるからであって、個人が自身の死も見えない若いうちからそんな価値観を持つのは、かえって無駄なことだと僕は思ってしまう。
先に述べた通り、無駄を歩むのが一番効率的だからだ。
つまり失敗による経験則から正答を引き当てる確率が上がり、失敗を繰り返すほどその精度も上がってゆく。
若いうちに失敗を繰り返した方がよい ── それこそ英才教育といえる。
老いさらばえてからの失敗は、感染症にせよ初恋にせよ不貞の恋にせよ儲け話にせよ、だいたいロクな事にならない。
とはいえ無料のお試しから得られる失敗などというのは、身に付かないどころか時間の無駄にしかならないので注意したい。
もっとも高効率を突き詰めたところで、待っているのは退屈な日々。
少なくとも僕の場合、せいぜいスーパーマーケットの顔色と混み具合を伺う程度である。
無駄な人生で、無駄なことばかりしていると今も思う。
どこまで無駄ができるだろう。
悪足掻きにならない程度に、物事を終わりにしたいとは願うが。
目覚めたら夜中である。
夜中といってもまだ23時なので、翌朝までは7時間くらいある。ちなみに寝たのは朝10時頃のはず。
かなりしっかり眠れてとても心地が良い。悔やまれるのは買い物に出掛けられなかったことくらいか。
といっても人混みを嫌うので、閉店30〜60分前に行くのがセオリィになっている。
土日の日中なんて論外だ。道路も商業施設も混んでいるので(予定がないなら)絶対に家を出ない。
よって僕の一日の生活で、一番時間を支配するのがこのスーパーの営業時間である。
わずか1時間しかないから、それに合わせて生活する。
まるで気難しい配偶者の機嫌を取るようにして、一日の予定を組むことになる。
幸い、その「気難しいほうの配偶者」は週に2度くらい調子を合わせればなんとか生きていける。
(他に「ゴミ出し」も気難しいのだが、我が家では生ゴミおよび猫の排泄物を排出する必要がなくなり、最近は僕の食事の回数と量も少ないため、週に1回未満のゴミ出しで済んでいる。)
>>>
【Z世代かな?】
「タイパ」とかいう恥ずかしい単語がメディアで時々表出する。
日本語に限らず言語のセンスを疑うが、もはや多くの人は言葉に対し、音や字の美しさや意味の正しさなど必要としていないのだろうと想像する。
ちなみに僕も必要だとは感じていない。ないよりは、あった方がいいかな、くらいの感じか。
これは「有能で顔もいい方が、無能で顔が凡庸よりもいい」のと同様である。
それでこの「時間対効果」が、格別「Z世代」とやらに言われているとメディアは騒いだりするのだが、そんなものは昔からあった概念である。
あるいは僕がZ世代に該当しているのかもしれない。
かねてから、企業は「時間あたり」「一人あたり」「単位金額あたり」の効率を求めてきた。
他者 ── つまりは社会 ── の空気を真っ先に読むことを最優位とする若者が、そうした言外の優先事項を己が価値観に取り込んだとして不思議はない。
年長者(自称百歳)なので、ここは先輩風をびゅーびゅー吹かせて吹聴したいのだが、僕も含めたより昔の「若い者」はもっと時間を無駄に過ごしていたものである。
そのコンテンツ密度の低い時間の中を、それぞれが回遊生物のように動き回ることで情報を摂取してきた。
若者は情報を、コンテンツを求める。それは昔も今も変わらない。
力や正しさや美しさを求めること、その指向性が、若さではないだろうか。
ところが社会にも情報が希薄で、メディアも限られているから、ゴミをひとつひとつ手で拾うように、非効率に動き回るしかなかったのが昔の若者である。
もちろんそれにはそれの独自の良さがあっただろうと思う。なにより運動になる。
現在の若者は、複数の掃除機を同時に操ってゴミを集めているようなものだ。それはそれで疲れるだろうが、とにかく効率はいい。
ベルトコンベア式に、自動で目の前を大量のゴミが流れる仕組みも手に入れられる。ついでにだいたいのメディアやコンテンツが無料である。
費用対効果を考えると、ゴミほど資源になるのは昔も今も変わらない。
ただしそれを有用な ── 真の意味での ── 資源にするには、もうひと手間が必要になる。
目の前に流れてくるものから選ぶしかできない人に、それを加工する能力があるとは限らない。
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【効率重視は素晴らしいが、第一義にしてはいけない】
僕は情報に限らず、すべてのものが「相応の対価で交換されること」を善良だと考えるので、無料のもの、廉価なもの、定額のものが必ずしも良いとは思っていない。
それは表出しない部分で何らかの歪みを発生させていて、つまり誰か(それは時に自分自身)が搾取されていることを意味するからだ。
たとえば僕がコンテンツメイカなら、自分の作ったコンテンツが定額で読み放題、聴き放題、観たい放題、遊び放題という場所の生贄にされるなど、とても耐えられないだろう。
挙げ句「ちょっと試したけれど、あれはつまらない」「○○のパクリっぽい」などと酷評されたら、心が折れ放題である。
もちろんコンテンツが常に有料だった昔にも、ゴミのようなコンテンツは山ほどあった。
だからこそ人々は、価格相応の価値を求め、それによってすべてのものはふるいに掛けられ、淘汰されてきた。
道具も安くても用を為すのは素晴らしいが、より高い精度、より高い能力や利便性を持つ道具を必要とする人はいて、そういう道具は高価である。
より高い精度で、より有用な情報が、コンテンツが、無料や定額であるはずはなく、もしそのように提供されているとしたら何かおかしいと思うのは必然だろう。
ちなみに時間対効果を追求した挙げ句、僕は毎日たいそうヒマになった。
時間に限らず、一人で使うにはリソースが余るので、他の人のために使っている。
誰かと遊ぶなら僕が時間を合わせる必要があるし、様々な道具を持っていても一人では使い切れないので、誰かに提供している。
スーパーの営業時間に合わせて寝たり起きたり作業を中断するのも必要なことで、土日に僕が出歩かなければ(ひとり分だが)道路や商業施設の混雑は減少する。
まぁ平日も出歩かないので、いっそう環境に優しいといえるのではないか。
時間や費用の効果を追求することは、それ自体が第一義になるのでない限り、悪いことではないと僕は思う。
ただそれが最優先事項となれば、企業をはじめいかなる集団であろうと個人であろうと、どこかで誰かを弾圧し、搾取する構造に変わる。
僕はたまたまオカネモチーになる実験に成功し、時間にケチなあまり時間も余るようになってしまったが、使い切れないほどのお金や時間を持っていることが果たして素晴らしいとはやはり思わないし、そういう人を褒めそやす気持ちにはならない。
今この立場になってなお、どのようにお金や時間を作り、どのようにそれを使うかが、その中継点である集団なり個人なりの能力だと思うからだ。
企業も国家も効率を求めた結果、そこに属する者を弾圧し、搾取する構造に変わって衰退した。
学校だって効率を求めたが、かつて人間が理想とした「豊かな多様性」を実現するだけの資質を人間に育むには失敗した。
効率を求めると、集団はそこに属する個々人を見なくなる。第一義となる効率が満たされるなら、人間など必要ないのだ。
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たとえば僕の家では洗濯や食器洗いに、ほとんど人間が介在しない。人の手をほとんど必要としていない。
これは僕が効率を重視して、より多くの可処分時間を追求した結果だが、これを娯楽やコミュニケーションに当てはめるのはとても危険なことだと僕は思う。
効率化というのはつまるところ高純度精製をすることである。
より甘いものを求めて精製糖を作ったように、よりキマる薬物を求めて麻薬を合成するように。
しかし時間あたりの幸福度なんて、本来数値化できるものではない。
にもかかわらずそれが存在すると錯覚し、より純度の高いそれ(麻薬ではなく幸福のことね)を求めるのは、とりもなおさずその価値観によって自分自身を縛り付けることだ。
よって自分自身にも高効率の善良さや娯楽性を求め、他人もおなじ物差しで断ずることになる。
結果として起こることは、他人という存在の否定であり、自身という存在に対する虚無感だ。
なぜといって、そんな高純度に、他人にも自身にも有意なコンテンツであり続ける個人など存在し得ないからだ。
他人にそれを求めるのは危険だし、自身にそれを求めても失望するだけだ。
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【無料で有意なコンテンツ】
皆、自分に意味があり価値があると勘違いしている。
長らく人間が理想としてきた「人は生きているだけで意味があり、価値があり、素晴らしい」という、それは倫理や正義の表出でもある。
その絶対的な理想 ── 倫理観や正義感 ── の前に、人は否定する術を持たない。
なぜ「人は生きているだけで意味があり、価値がある ── ただし良い意味/高い価値とは限らない」と言えないのだろう。
通り魔殺人を起こすような人間にも意味があり、すぐれた価値があるのだろうか。
すると「それは話が別だ」などと特例を作ろうとする。
つまり「人は生きているだけで意味があり、価値がある」などという価値観は言う側の欺瞞 ── 要は綺麗事の嘘による自己満足だ、ということになる。
正しくは「人は、意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことでしかない。
しかしどうだろう。
「人は生きているだけで意味や価値がある」というきれいな言葉は見た目のインパクトに優れる。
それが果たして人の「より良く生きよう」という気持ちを鼓舞するだろうか。
もしそうなるなら嘘も方便といえる。
ただ僕などはものぐさだから「生きているだけでいいのかぁ、ラクだなぁ」と、つい自堕落に過ごしてしまう。
誰かの役に立とうなどとは夢にも思わないまま、とうとう世から去るだろう。
一方で「意味のある生き方、価値のある生き方をすることもできる」という当たり前のことを当たり前に言われれば「なるほどそれではその意味とは何だろう。価値とは何だろう」と考えることになる。
誰にとってのどんな意味で、どんな価値なのか、と。
効率を求めるというのは理想を求めるということだ。
その理想には「どこでもドア」や「タイムマシン」のように実現不可能なものも存在する。
(両者は空間と時間の移動について、究極的な存在である)
究極的な理想や効率をいつも目にしていれば、それが当たり前だと思うようになるが、絵に描いた餅は結局空腹を満たさない。
メディアで取り上げられているZ世代の典型のような人が実在したとして、なるほど中身もないのに虚飾するのは致し方ないといえる。
彼ら彼女たちは、究極に効率的なコンテンツに溺れたために、自分自身にも無料で有意なコンテンツを持っていなければ存在する価値はないと無意識に刷り込まれているからだ。
必然、自分には何らかの能力なり価値なりが生きているだけで最初からあり、その理想は具現されるべく自分の前に当たり前に用意されていると思っている。
「ホワイト企業だから」という理由で退職する若者がいるというニュースもあったが、これなど端的で、要は「思ったほど自分の活躍を実感できなくてつまらないから退職したいが、会社を含む環境を悪く言うのは倫理的に格好悪いから『もっと成長したい』という理由をでっち上げた」ということだろう。
この時点でどのみち能無しである。
ホワイト企業という理想が実際に具現されていたとして、それは高効率な時間対費用の交換の場所なのだから、余った時間で好きな勉強をするなり副業するなり起業するなりすれば、いくらでも自己実現は可能である。
しかし自分の能力を高めることや、果てには活躍の実感までもを企業に求められたらそれはかなわない、というのが僕の考えだ。
そんなものは自分で勝手にやって勝手に実感するものだろうし、そもそも自分にしかできないような高度で有意義な仕事を誰かが(それも新人に)与えてくれると思っている方がおかしい。
ホワイト企業に就職できるほど高い能力を持っているのに、そんなことも分からない白痴だから、そのまま絵に描いた餅なのだ。
ここまで端的に「有能な白痴」も少ないと思うが、そのぶん付ける薬がない。
そもそもどんな自分を実現したいのか、分かっていないのではないだろうか。
危機感があって能力もあるなら、対策は自明だろうし、対処できずに不安を抱えるというのは不自然である。つまりどこかに欺瞞がある。
重要なのは他者からもたらされた欺瞞ではなく、自己欺瞞に終始して、そこで不安や不満を覚えているという情けない実情にある。
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【その効率至上主義は洗脳ではないか】
確かに「自身が無能(/無価値/無意味)である」と認めるのは苦痛だろうとは思う。しかしそれを認めないで、能力や価値や意味を高めることは不可能だ。
能力が足りない、ではどうすれば高められるか。
価値がないと感じる、では何に価値があるのか。
意味がないと思う、ではどんな状態に意味があると思うのか。
他者を正しく評価・分析できたとしても、自身に対して正しく評価・分析できなければ、不満を抱えるのも無理はない。
互いを理想という物差しで評価する社会になってきているが、自分の物差しで自分を計ることができないなら、それが一番問題ではないか。
たとえば料理を考えた場合、皆が美味しいと言っているのに自分には美味しくないことなどたびたびあることだと思う(僕はないが)。
塩加減ひとつとっても、自分のそのときの体調や気分で好みは変わる。
万人にとって美味しい料理は存在しないし、仮に存在したら、万人にとって美味しくない料理もまたそれだということになる。
料理なんて、食べる人が美味しい、と思わなければ作る価値も食べる意味もない。
他人が食べるものももちろんだが、自分が食べるときも同じである。
彼ら彼女たちは「万人受けする料理」を目指すあまり、自分にとっての「美味しさ」を見失った、味覚音痴の料理人のようである。
高効率を求めるようになったのは、結果的にそれを社会から押し付けられた彼らの不遇だろう。
様々に押し付けられる美しさや正義や倫理や楽しさに溺れるうち、本当に自分が美しいと感じるものや、正しいと思うこと、楽しいと感じることが分からないのではないかと想像する。
皆が美しいというものを美しいのだと刷り込み、皆が正しいと言うものを正しいと条件付け、皆が楽しいとすることを楽しんで、皆から羨まれ、ちやほやされることが幸せだと思っているのかもしれない。
もちろんそういう幸せもあるとは思う。
若くて頭の回転が速くてついでに顔もいい人がいたら文句なしに素敵だといえる素直さ(ついでにそれが女性だったらとりあえずデートに誘う下品さ)を忘れたくないが、同時に枯れ枝や朽ちる花に感じる寂しい逞しさや儚い美しさも否定したくない。
塩気のない料理は素材の味を我慢して楽しめばいいし、塩が強い料理は塩の味を楽しめばいい。
腐敗した食材なら、腐敗臭を……さすがにそれはやめた方がいいかな。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240311/04/code-bluecat/dc/e5/j/o0960128015411607654.jpg?caw=800)
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【生きる上での効率とは何か】
結局のところ、個人における最高効率というのは結果論に過ぎない。
あの道も行った、この道も辿った、あっちは行き止まりで、こっちは迷った挙げ句に振り出しに戻った。
そうした試行錯誤が結果的に、自分にとっての最適解をもたらしてくれる。
たとえば、お金を払ってリフォーム業者に頼めば、カタログから資材を選ぶ程度の手間で、確かに最高効率を手に入れることができる。
しかし出来上がったものが自分に最適かといえば、おそらくそんなことはない。
あの資材はここが駄目だ、この設備はこの動線を塞ぐということはたびたび起こることだ。
そういう事態を懸念して自分でしようと思えば、不慣れな道具を思うように使えず、手順を誤って失敗を繰り返すことになる。
いずれの道にも正解はある。
まぐれで最初から正解を当てることもできるだろう。
しかしそれは結局のところ、他の道を知らないということになる。
算数のドリル(穴を空ける工具ではない)で、分からない問いにあったとき、正解を先に見るようなものだ。
分からないなら分からないなりに、無駄だとしても、苦痛でも、少しでいいから自分で考えた方が良い。
なぜといって、それを自分で考えて処理できる人間がいるからだ。
自力で正解に近づく能力は、たとえ最終的に不正解でも、最初から答えを見るよりはずっと幸せに近づける。
僕の場合はたまたま、自然発生的に時間ケチになってしまった。
身体が弱いこともあるし、ある程度のところで自殺する計画を持っていたのもある。
それから何より面倒くさがりなので、あれもこれもしたいと思ったところでしないまま終わったり、捻くれた考え方をするから皆がいいと言っているものを否定する傾向もあった。
だからといって自分が面倒だと感じるものを誰かに押し付けることはしなかったし、皆が良いと言っているものは相応の価値があると思うようにもなった。
ただ自分の終わりを決めている以上、終わりをいつも意識しているから、結局時間に一番価値があると思うようになった。
企業が時間や一人あたりの生産性を追求するのは、それが営利組織の意義を高めるからであって、個人が自身の死も見えない若いうちからそんな価値観を持つのは、かえって無駄なことだと僕は思ってしまう。
先に述べた通り、無駄を歩むのが一番効率的だからだ。
つまり失敗による経験則から正答を引き当てる確率が上がり、失敗を繰り返すほどその精度も上がってゆく。
若いうちに失敗を繰り返した方がよい ── それこそ英才教育といえる。
老いさらばえてからの失敗は、感染症にせよ初恋にせよ不貞の恋にせよ儲け話にせよ、だいたいロクな事にならない。
とはいえ無料のお試しから得られる失敗などというのは、身に付かないどころか時間の無駄にしかならないので注意したい。
もっとも高効率を突き詰めたところで、待っているのは退屈な日々。
少なくとも僕の場合、せいぜいスーパーマーケットの顔色と混み具合を伺う程度である。
無駄な人生で、無駄なことばかりしていると今も思う。
どこまで無駄ができるだろう。
悪足掻きにならない程度に、物事を終わりにしたいとは願うが。
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[Engineer]
青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
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-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Kidding-Life-Mechanics-Technology-
[Module]
-Condencer-Generator-Reactor-
[Object]
-Contents-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
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