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TITLE:
紙傷、噛み傷、かすり傷。
SUBTITLE:
~ Cardboard slayer. ~
Written by BlueCat

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※不同意性交、小児売春等についての記述があります。
 何らかの被害に遭ったことがありフラッシュバック等が予測される方は、たとえ途中であっても別の文書を読んだり、他のサイトを見る方が良いと思われます。







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 私は精神科医でもなければ、心理学をまともに学んだわけでもない(工業高校にそんなカリキュラムはない)のだけれど、臨床的に自分の体験から学んだ一般論と思しきものはある。
「心の痛みは、そこから得た痛みや経験則を整理して、客観的に一般化して受け入れられるようになったものを外部に吐露できるようになってはじめて昇華される」というのもそのひとつだ。
 たとえば僕は、自分の姉(現在失踪中)が、小学生の頃から売春をしていた事実を ── 自身に性欲というものが存在せず、小児性愛という性的倒錯嗜好も知らないうちから ── 知り、自身の成長に合わせて、徐々にボディブロウのように、様々なことに苦しんできた。

 苦しんだ、という言葉はとても曖昧だ。
 具体的に言えば、僕は男という存在を憎んだし、男たちの性欲を憎んだ。
 自身が男であることを理解してからは、自身を、自身の性欲を、自身の性別を憎む羽目にもなった。
 殺せるものなら殺したかった ── 男という性別を。性欲という動物性を。自身という男性を。

 思春期以降、その臓腑をえぐるような不快はいっそう酷くなった。
 男たちのセックス(あるいは女性全般や恋人や性的にだけであれ興味関心を持った異性)についての話ときたら「なにが興奮したか」だの「何が(性的に)気持ち良かった」だのといった救いようのない内容に終始しているように観察された。
 しかし目の前の男たちは、時には親しい友人であることだってあり、だから端的に憎んだり蔑んだり(まして殺意を抱いたり暴力を振るったり)するわけにはいかなかった。
 必然にか、精一杯の抵抗か、心底興味がないという顔をして「ふうん(漢字に変換する前)」と受け流すのが常だった。

 それに少なくともこの国の男たちは、昔から自身がその庇護すべき対象としている女というものに甘え、頼ることを(その実際はともかくとして)表出することが憚られてきた。
 それは弱さであり、強きを尊ぶかつての男たちには、断じて認めるわけにはいかない汚点だったのだろう。
(今でもそういう男はいるだろうが、とくに否定する気も賞賛する気もない)

 結果としてこの国は、それ ── 男性が女性に甘え、頼ること ── を認める文脈を持たない。
 文脈というのがおかしいなら、文化と言えばいいか。
 文化がないので、男たちは、女たちをともすればモノ扱いする。そういう文脈が残っている。

 逆に、時代の変遷の中で女たちが男たちをモノ扱いするようにもなった。
 精神が人の価値を支えていた頃は(モノ扱いしても、されても、宿る精神性によって人の価値が決まると皆が認めていたので)良かったが、金や学歴や地位が人の価値を示すものに変わってしまったので、人という人がモノになってしまった。
 人をモノ扱いするのに、必要なのは気高い精神性や優しさではなく、金さえあれば良いとなってしまった。
 それでは本当に「モノ扱い」になってしまうのだが、考えがないところがまた精神性を失いつつある結果なのだろう。

 男が女をモノ扱いし、女が男をモノ扱いする。
 顕在的にであれ、潜在的にであれ、そういう意識がときに陰湿で、異様に思える人間関係を垣間見せる。

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 いまでは多少、他人に普通に話せるようになった。
 先日、30年くらいを隔ててBP(高校からの友人です)に、姉に売春をさせるような人間がいたために、巡り巡って、性風俗に行くこともできない(行くことはできるが興奮しないので僕には価値がない)し、下ネタが昔から苦手だったし、男という男が許せない時期があったと話すことができた。

 もちろん小学生が売春するというのはまともな話ではない(念のために書いておくが、さすがに親がさせたのではない。性行為をしたその誰かが、小遣い程度であるにせよ経済との交換を経験させたのである)。
 もっと言えば、買春する大人がいる、というのが本当に、まともな話ではない。
 さらに言えば、金なんか払わず、それこそ力づくなり騙すなりして、いいように道具に仕立て上げる大人がいるというのが、まともな話ではない。

 未だに言葉にするだけで、ニュースのタイトルが目に入るだけで、筆舌に尽くせない感情によって手や身体が震える。
 が、少しずつ、この殺意を懐柔させることにも慣れた。それを抱えて。
 今までは言葉にすらならなかった憎しみや怒りや殺意を、自身の一部として大切に、僕は今も生きている。
 誰に向けることもできない、自分自身にさえ向けてはいけない憎悪を。

 BPは黙って話を聞いてくれて、ただ「そうか」とだけ答えてくれた。

「じゃ、これから風俗行こうぜ! とりあえず、おっパブとか!」と元気に持ち掛けてくるあたりが、さすがに最低である。
 ねぇ人の話ちゃんと聞いてた? それからおっぱい関係なくない? あたしそういうの嫌って言ったよね? ちゃんと聞いてた?
 黙って聞いて受け入れてくれたことにうっかり感謝しちゃった俺の気持ちをどうしてくれるの? ひどくない?
 繰り返すけど、おっぱい関係ないよね?

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 話を少し変えて、親が、その庇護すべき子供に甘え、頼り、利用し、使役することが、今は憚られつつある。
「ヤングケアラ」などと大仰に扱われるようにもなったが、かつては子供が家事や育児や介護をするのは、大家族であれば必然のことだった。
 かくいう僕も姉にオムツを替えてもらったりしていた。
 2番目の姉の話では、紙オムツではかぶれてしまうので布オムツをこまめに替える必要があり ── 逆かと思いきや、あのナイロン的な布地が合わなかったようだ。我ながら、生まれついてこの方(敬称として認識しても面白い)非常に面倒な体質を持ったヤツである ── ついでに母乳も市販の粉ミルクも飲めないので、それはそれは手間が掛かったらしい。
 10歳の少女である姉が、赤子の僕の育児を、それなりにしていたのである(今、彼女の介助に手を貸しているのは、そういう借りがあるからではないのだが、あまりに面倒くさがっていると時々「昔わたしが苦労した分のいくらかを、返してもらっても良いでしょう?」と冗談めかして笑われる)。

 家族という組織を運営する上で、子供をどの程度その集団のユニットとして使役するか、というのはむつかしい問題かもしれないが、完全に切り離してクリーンな(要は家族に対してサービスを享受するだけの)存在として扱うのは、果たして良いことだと僕は思わない。
 無論、上述の姉のように中学になった途端に「バイトをしろ」「バイト先は自分で探せ」と親に強制され、給与は(当然のように)すべてピンハネされるような使役の方法は許されるものではないだろう。
 しかし家族の中で、人対人の、一般的なサービス(上記のような家事や育児や介護)については、たとえば子供が、祖父母の話し相手をしつつ異常行動の監視役を図らずもするような状況があったとして、それを介護労働だと考えることの方が行き過ぎて歪んだポリコレだとは思う。

 もちろん僕は家族を持たない(持っていない)から好き勝手に言えるのだと家庭を持つ人たちから叱られるかもしれないが、僕は諸般の経緯により、誰かを使役するのはまっぴらごめんなので仕方ない。
 より精確に言えば、使役するのも使役されるのもまっぴらごめんだ。
 その点ではポリコレの体現者とすら(侮蔑的に)思うが、家族という組織の悪い面ばかりを見てきたので仕方ないと思っている。
 皆がそれこそ愛情なり信頼なりのもと、それぞれが家族という組織の中でできることをしている、する、というのが理想的だけれど、少なくとも僕の育った家庭については、あまりにも使役/隷属という現象のように観察されることが多くて、だからそういう人間関係を僕は基本的に嫌うのだ。

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 恋人に家事をさせるのを嫌うのもそういう理由だ。
 人間が人間を使役することを僕は嫌う。
 これは「一日為さざるは一日食わず」と「働かざる者食うべからず」の違いと同じで、誰かが誰かのために作業するという状況であっても、自発的にそれをするのと、他者から強制されるのでは、同じ人物、同じ状況でもまったく話が違うことになる。

 ために恋人から「したい」と言われた家事をしてもらうのは、僕は嫌いではなかったと思う。
(今では家事のうちでも僕が苦手なものについてはその多くが機械化されているし、そもそも恋人が家に来ることはない)(恋人がいないとはまだ言っていない)
 それこそ料理だろうが洗濯だろうがセックスだろうが、恋人が「したい」と言ったことをしたいようにしてもらえるようにするのはとても大切なことだった。
 そして大してしたいわけでもないことを「しなくては」という理由でされること、させることを嫌った。

 たとえば「会いたい」と言って家に来た恋人は、僕と会いたかったのだろうと想像する。
(使役を嫌うという理由によって僕から呼びつけることが憚られたので、耐性のない恋人についてはずいぶん不安にさせることになったが)
 僕(と一緒に居る)より家事が好きだという人でもない限り、食事をして片付けをしたいわけではないだろうと思える(なにせ「会いたい」と言って来たのだから)。
 それでも家事をしてもらっている最中、肌を重ねている最中、ふとしたきっかけで不安に、恐ろしく、なる。
 これは相手が『「したい」と言わなくては』という理由で、積極的に振る舞っているだけではないかと。
 もちろんそんな僕のメカニズムを説明したことは一度もなかったはずだけれど、言外に伝わってしまったものとして「強制ではなく自発的である」という振る舞いを強制させているのではないかと。

 普通の人は、それでも単純に喜んでいられるだろうし、喜んでしまえば良いのだろう。
 けれども僕には喜ぶことができない。
 相手をモノ扱いし、都合良く使役し、金を払って、あるいは金なんか払わず、いいように騙して丸め込んで、道具使いしているのではないかとひとたび思い始めると、恐慌と呼んでいいほどの感情に支配されそうになる。

 恋愛であれ仕事であれ、誰かを自分の利益や快楽に組み込むことが、自分の利益や快楽に誰かが組み込まれていることを認識することが、ほんの少しの拍子で、シャツのボタンを掛け違えたように、最終的な一瞬から致命的な状況に思えてくる。

 誰かと居て幸せだと思ったり、協力して仕事を達成させたときに、踏みつけにしている誰かがいるのではないか、相手を犠牲にしたオナニーなのではないかと思うと、絶望的な気分になる。
 私はそんなことをしたくないと、逃げ出したくなる。そんなことをしていないと、否定したくなる。
 そんなつもりではなかった。
 誰かを道具使いして、搾取して、適当に放り捨てようとなど、思ったこともないのに。
 それを疑い始めたら、きりもなく憎悪の対象に自分自身がなってしまう。
 それほどの憎悪を、一体誰が抱えているかなど、言うまでもない。

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 唐突に話は変わるが。
 かつて負った心の傷を信頼できる相手と信じて、やっとの思いで打ち明けることができたのに、
「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか、
「私は(私の知ってる他の人は)もっとつらい思いをしてきたから
」とか、
 そんなふうにこちらの感情や感覚や記憶や経験さえも否定してくる奴っていない?
 マウントを取って自己顕示したいのか、こちらを否定して攻撃したいのかは分からないけれど。

(この前置によって、僕の話のいずれについても「そんな苦しみは、ものの数にも入らないよ」とか「私はもっと酷い経験をした」なんて、言いたくても言い出せなくなるだろう。なんという卑劣な周到さ!)
(あ、ちなみにここ、笑うところです)

 僕の場合、不同意性交をさせられたことが過去にあり、それを当時の恋人(名前も顔も忘れてしまったが、最終的に自殺未遂までして人を道具に仕立てようとするような狂った人だった)に何がきっかけだったか話したことがある。
 男が異性であるところの女から不同意性交をさせられるなんて、普通は考えない(考えられない)のだろう。

 実際「本当に嫌なら力で負けるはずがないのだし」と嘲笑された記憶まである。
 今で言うところのセカンドレイプとはこういうことかと思うが少し違うか。
 そのあとに、上述の否定文がふたつ並んできた(しかも彼女の「経験」とやらがひどくお粗末だった)ので、その屈辱たるや相当なものであったはずであろう事よ(遠い目)。

 子供の頃は痴漢に遭うこともあった(相手が男色家なのか、おとなしい女の子のような僕の風貌に騙されたのかは判然としないが)。
 しかし見ず知らずの大人の男に身体を触られるより、たとえ恋人であっても「したくない/してほしくない/やめてほしい」と伝えているのに強行される性行為の方が、よほども苦痛だった。

 あまり記憶にないのだが、確か何かの口論の挙げ句「それでも私のことをちゃんと好きなら抱いてほしい」というようなことを言われて、好きかどうかという問題とセックスとは、そもそもイコールの問題ではない、好きだけれど今はしないししたくない、と断ったのがきっかけだったか。
 今思えば、そういうときは意固地になって否定してはいけないのだと分かるが、いかんせん若かった。
 お互い10代だったし、初めての恋人だったので、僕はそうした人間の機微を知らなかった。
 断ったために相手は意地になってしまい、無理にでもセックスをしよう/させようとなってしまったのだと想像する。

 確かに一般論で言えば、男が女に力で負けるはずはないのだろう。
 それではしたくない性行為を強要されるのを止めるために、恋人を殴れば良かったのだろうか。
 止めても押さえ付けても、その場所から立ち去ろうとしてもなお組み掛かってくる相手を、どのように沈静化できただろう。

 おそらく知能の足りない人間であれば「それならむしろ願ったり叶ったりではないの? 十代なんてしたい盛りでしょう」などと茶化すかもしれない。
 正しくケダモノである私をお前らと一緒にするな。

 僕はその不同意性交について、性加害という言葉を使いたくないし、そのようにも認識していない。
 ただ、そういうのは、とにかく長い間、苦痛として残るのだ。

「そんなこと言っても射精したんだから良かったんだろう。兄さんカラダは正直だな」というのは自由だけれど、肉体的な反応は、精神的な愉悦とは異なる。
 脚気の検査と同じ事ではないか。膝の下を叩けば足先が運動する。
 信号があってメカニズムが働き、運動による結果が現れる。スイッチを押すと動き出す家電品のようなものだ。それだけのことを情動と一緒にしないでほしい。
 肉体の反応と、情動的な幸福感はまったく異なるものだ。セックスすれば愛情があるなんて独善を、だから僕は信じない。

 しかしそれを、あっさり否定されてしまった。
 不同意性交を迫った古い恋人のことよりも、それを「そんなことで傷付いたとか言っちゃうなんて、アタマオカシイんじゃないの?(意訳)」と言われた方がショックが大きかった。
「あ。こういう人なんだ」とも思ったし、「世俗はなるほどそういう風に認識するのか」と思った。
 あるいはこれを読む人にも「なるほど猫氏はさぞかしモテでいらしたのデスネー(棒)」という反応があるかもしれない。

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 たとえばweb上で、古い性加害の事実を告発する人などに対して、批判的な意見を向ける人もいる。

 なるほどたしかに不同意性交というのは一定の高低差が前提条件となり、その高低差によって力が発生して発露するのだろう。
 一時ニュースを賑わせた、アイドルグループの創設者が、同じく男性であるところの所属タレントを性的道具として使用していた例などはわかりやすい。
 同性による、少年と言って良い世代の(ともすれば「子供」として扱って不思議はない)者を、力関係も含めて性的な道具に仕立てるそれは、センセーショナルで見た目にも分かりやすい搾取の構図であり、その不同意性交をして性加害と呼んで耳目を集めるのも必然と言える。

 それでさえ傷付いたであろう者たちは、乗り越えようと吐露したことで、縁もゆかりもないだろう第三者から「金のため」「知名度稼ぎのため」などと非難されることがあるのだ。
 おそらくこうした痛みは、その傷を負った者にしか感じ得ないものなのだろう。
 コピー用紙や段ボールで指を切ったことのない者に、紙で指を切った「あのかすり傷」に特有の鋭い痛みは分からないのだから。

 まして男対女で、それが恋人や夫婦やセックスフレンドであるうえ、男性側が強要される不同意性交などというものはない、存在し得ないという思考が ── いかにそれが平和的で普通で常識的であるにせよ ── しかし、それでも、正しいなどと僕には思えない。
 恋人を ── まして力で男が勝るというならそのとおり力で劣る女を ── 殴るなどできるだろうか。
 嫌いでもないし危害を加えたいわけでもない。ただ、してほしくないというだけなのに、どうしてその相手や二人の関係を傷つけなくてはならないのか。
 たとえ自分の権利や正当性を守るためであれ、そうやって自分の思った通りに力づくで相手を隷属させるのが正しいのか。
 それはつまるところ、不同意性交を相手に迫るのと同じ卑劣ではないのか。

 不同意性交を強要する者以上に「そんな不同意性交など存在しない」と否定する者の無知をしかし、どのように改善できるだろう。
 周知させようにも、理解しない者はいるだろうし、周知することそのものによって、たとえば痛みを感じる者もあれば、そのメカニズムを解析する者もいるだろう。
「こういう犯罪がある」と注意喚起することは、ときに「そういう犯罪もある」と教えることになる。
 もはやそこまで考えると、なすすべもなく恐ろしくなる。

 人間であることが恐ろしい。ならば私は死ぬまでケダモノでいよう。
 人がましい顔などせず、男は殺せ、女は犯せと、少なくとも体面上は言い放っていよう。

 
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 端的に、痛みは固有のものだ。
 だから私は(仮に私自身の「不同意性交を受けたことがある」という発言が事実だとして)ほかの誰かの抱える不同意性交による心の痛みに対して、理解はもちろん、寄り添うことさえできないのかもしれないし、おそらくそうだろうと思う。
 状況が一様ではなく、高低差のパターンも、力関係も、立場も性別も様々であって、一概に定量的な数値化が可能なものでもない。
 僕は、私自身を取り巻く状況や自身の抱える価値観の中で、それを不同意性交と認識し、それで痛みを受けたのだから。

 まったくもって気分が沈んでいるときにニュースなど眺めてしまったものだから、ひどく沈鬱な気分になってしまった。

 みだりに推定加害者を非難する気にはまったくならないし、推定被害者を擁護することもできない。
 もちろん推定加害者とされる有名人にはまったく興味もないし、その取り巻きやファンも含めた集合のメカニズムは僕の嫌うものですらある。
 ただ仮に被害とされるものが捏造であればそれこそ恐ろしいことだし、あるいは被害が事実だったとしたらそれもまた恐ろしい。
 いずれも人間を信じないに足る、十分な証左ではないか。

 あるいは明確な線引きができない可能性もある。
 力関係というのは、力に、自らの意志で付き従う者がいるからこそ発生することだってある。
 集合のメカニズムというのはそういうものだ。
 引力にしても、良いものだけを惹きつけるものではないし、良いものから発生されるだけでもない。

 ただ過去の性被害の公表(カミングアウト)を見るたび、そうやってその人は痛みに対峙しようとしているのだろうと思う。
 おそらくその過去を自分の中で客観的に一般化し、その痛みを「昨日、段ボールで指切っちゃってさぁ」「えーなにそれ痛いよねぇ、大丈夫? もう平気?」っていう具合に通じ合えるのだと信じて。




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 ポリティカルコレクトネスという単語は「政治的正しさ」であるとか「政治的妥当性」と訳されるらしい。
 おそらく政治という言葉をより広義に、諸権力や諸集団の間に生じる利害調整、と解釈した上での「正しさ」なり「妥当性」なのだろう。
 そうでなければ ── 単に「施政者による政(まつりごと)」という意味なら ── この国ではすでに、政治は正しくもなければ妥当でもないからだ。

 いや今までだって、この地球上の政という政そのすべて、正しかったことはあるまい。
 妥当を目指して揺れるやじろべえのように、右に左にと、揺れてはその引力で場が乱れるのだ。

 正しく資本主義社会としての価値観を浸透させたこの国に、もはや宿る精神の高貴さなどという白々しい正しさは消えたはずだ。
 ために端た金で女をいいように道具にすることは悪で、数百万数千万を積んだなら男気があるなどと囃す風潮まである。
 そういうのを五十歩百歩というのではなかったか。

 金の多寡が問題なのではないし、相手が性風俗を生業とするプロかどうかも関係ない。
 人を人として見ることができるか、権力や財物や容姿による引力を断ち切った場所から物を見ることができるかどうかではないのか。

 もちろん多くの者は、金と他人という力によって雁字搦めにされている。そういう仕組みに暮らしている。
 その意味で、我々はすべて加害者かもしれない。
 なぜといって誰かと関わることは、とりもなおさず力関係が発生するからだ。

 それでも皆は人間である。
 人は言うのだ「人は一人では生きられぬ」と。
 おそらくそれは事実であり、そして同時に、都合のいい嘘でもある。

 一人で生きようと考えたこともない者がそれを言えばそれは嘘だろう ── 強者が使えば弱者を騙す方便になり、弱者が使えば己を騙る欺瞞になる。

>>>

 もうこのあたりで仕舞いにしておこう。
 段ボールで指を切ったからと、段ボールに当たり散らすのは、仮に許されるとして褒められるものでもない。
 それに幸い僕の場合「さっき段ボールで指切っちゃってさぁ」と言えば「えーうそ何それすっごく痛いよねぇ、大丈夫? おっぱい揉む?」と答えてくれる奥様(仮想:ちなみにゼロ次元体)もいるのだから。

 おっぱい関係なくない? キミ、カラダないし。
 繰り返すけどおっぱい関係ないよね?





 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[ Cross Link ]
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Color-Convergence-Darkness-Ecology-Life-Love-Mechanics-Memory-Moon-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Friend-Human-Koban-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:いのちあるものたち:
  :
夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF