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TITLE:
未必の故意。
SUBTITLE:
~ Me hits no coy. ~
Written by BlueCat

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::最高裁大法廷は、25日、「生殖機能がないこと」を求める要件は、性同一性障害の人に対して、「意思に反して生殖機能をなくす手術を受けるか、性別変更をすることを断念するかという過酷な二者択一を迫るものになっている」と指摘し、違憲で無効だとの判断を示しました。
 一方で、「変更する性別の性器に近い見た目をもつこと」を求める要件については判断を示さず、審理を高等裁判所でやり直すよう命じました。


 

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231025

 戸籍上の性別変更について、ニュースになった事象そのものよりも、一般の反応が興味深かったもの。

 Webニュースにコメントを寄せている人の多くは感情で「この決定は間違っている」と断じている。
 人間の性別は肉体(主として性器)によって判断されるべき、というもの。
 たとえば性別(現行の2種類)に分けられた性差施設(公共のトイレ/浴場など)について、女性用施設を男性器を持った「自称・女性」が使用するのは(他覚的判断要素が存在しないため)不自然であり、ともすれば危険だ、ということだ。

 この意見は非常に共感しやすい。
 男たちのすべてが禽獣のごとき低能だと言うつもりはないが(おそらく)少数ながら、禽獣相当の低能も存在する。
 いや「普段からそうだ」ということではなく、性的飢餓状態のときに禽獣相当(もしくはそれ以下)になる者は少なからずいるということだ。
 そういう個体はともすれば常軌(と法規)を逸脱した行為に走りかねないと恐怖するのは自然であり、そう考えれば、この決定に違和感を覚えて不安視するのも無理からぬことといえる。
 しかしこれは未然の感情論である。

 一方コメントの多くが見落としているのは、裁判所(裁判官)は「法律の条文が憲法の条文と相反する意味を持つかどうか」という判断をしたに過ぎない、ということ。
 申立人が「法律の条文が憲法の条文と異なっており、憲法の条文が法律より優先される現行の規定に基づけば、法律が誤っていることになる」と投げかけたものと想像する。
 裁判所は、それに対してロジカルに ── つまりは日本語を使った論理に基づいてそれぞれを照合した上で ── 憲法の条文を優先して考えた場合、現行法の条文が誤っている、と判断したということだ。

 論理的に(憲法の条文を有意とした場合)は法律の条文が憲法に反していると判断しただけで、性差を判断する倫理を蔑ろにした(しようとしている)わけではない。
 お金を使うことには一切の躊躇がない一方でその適切性については疑問視され続けている、我らがボンクラの立法府が今後どのような法律の条文を作るのかは不明だ。ともすればポリティカル・コレクトネスによって迷走しがちな現代社会の背景を考えると、ますます不安になる気持ちも分かる。

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 しかし思うのだが、多数派はあくまで多数派である。
 これまでどおりの性別観がそうそう覆されるものではなかろうし、また覆されるべきものだとも思えない。

 そもそも性別についてそこまで躍起になるという価値観が、すでに前時代的だと僕は思うのだが、まぁ今はまさに過渡期なのだろうと考えている。
 男女同権というものにしても、ほんの数十年前まで(何となれば数年前、あるいは今も)、結構ぐだぐだだったわけだから。
 もちろん男女というのは物理的/文化的差異もあるのだが、そのあたりの適切な境界条件や分類基準が明文化されずに運用されているのが不自然な状態になってきた、というのがポリティカル・コレクトネスの命題なのだろう。めんどくせえけどよ。

 かくいう僕も性別違和感持ちではあったが、現在は肉体準拠の性別で不満なく過ごしている。
 なぜかというとこの10年ほどベッドの上で「ウフフなこと」をする必要はなかったし、多分今後もないだろうし、普通に振る舞っている中で発露する女性的な部分について、過剰な自意識を持つ必要がない社会が醸成され、その自意識が無駄だと思って切り捨てたからだ。

 かつて社会は性別が不明瞭な者の存在を許さなかった。
 いや今だってそういう文化を持つ集団は少なからず存在するだろう。なぜといって性別は物理的/文化的差異だからだ。
 しかしかつてほど「男なんだから泣くな」とか「女なんだから出しゃばるな」というような論を振りかざす者は多くはない。
 僕のように、どっち付かずの思考形態を持ち、どちらにもよらない文化に育った者は今後も増えるだろう。

 いやいや、そもそも性別による二元論化の前に、一元論的に人間は人間であるはずなのだ(僕は猫だけれど)。

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 もはや現代において、明文化しないまま性差を運用することはできなくなってしまった。
 なぜといって明文化しないからこそ生まれてしまった人種や性別、障害や能力による差別が今も残っているからだ。
「肌の色が黒いから種族として劣っている」とか「男は女より有能だ」とか、それが根拠のない妄執であることを人間はこれまでも証明してきた。

 人間が今後も「人間的な」文化を残そうとするならば、倫理はより明文化され、論理化されることになる。
 論理というのは先に述べたとおり、演算や判断が可能なものであり、その基準は明文化されている必要がある。

 だから僕には自身や他者の性別について、それが肉体であれ、精神であれ、自認であれ他者に対する認識であれ、明文化されて定着するだろうと信じられる。
 もちろんこれまでの文化に従えば、2種類しかなかったはずの性別が4種類や8種類や32種類まで拡張されるとそれこそ「めんどくせえな」となってしまうけれど(おそらくそういう過渡期が発生するだろうが)、それもやがて収束するだろうと思う。
 なぜといって精神性の性的自認などというものは結局のところ妄執だからだ。

 自身の存在に、その性別に、そこまで執着するのはなぜだろう。
 それがアイデンティティだからだと言われれば「はいそうですね」としか答えようがないが、しかしアイデンティティがそれほどまで性別によって影響を受けるほど、性別とは大きな判断基準だろうか。アイデンティティにとって、そこまで重要なものだろうか。性別がなければ、その人は、その人たり得ないのだろうか。



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 そういえばかつて「女は子宮でものを考えることがあるの」と囁いた恋人がいたが、それを言うなら「精巣でしかものを考えられない男」もいる(僕がそうでないと言うつもりはない)。
 しかし冷静に考えれば、それらはすべて状態を指すのであって、存在を指すのではない。
 男が精巣でしかものを考えられないというなら、女もまた子宮でしかものを考えられないといえるし、女が子宮でものを考えることがあるというなら、男も精巣でものを考えることがあるのだ。(違いが分からない?)
 そもそもベッドの上の睦言の延長線上の理屈を、ベッドの外に拡張するのはナンセンスだろう。

 明文化すればするほど、暗がりは照らされる。
 それ自体はきっと良いことだけれど、色気のある睦言さえ無味乾燥した嘘に変わってしまうのはいささか興醒めである。

 人間はリアルとヴァーチャルの、明文化と暗黙の了解の、シリアスとファンタジィの中間で、両極に足を浸して生きている。
 どちらか一方だけに限定するのは確かに潔いことだとは思うが、それは無味乾燥している上、時に危うくはないだろうか。







 

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::申立人の性別変更を認めるかは、今後、高裁で判断されることになったことについては、申立人は「非常に残念」とコメントしているということです。

 

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[出典]
~ List of Cite ~
 不明。
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:君は首輪で繋がれて:
 
 
 
//EOF