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TITLE:
盲目の船頭。
SUBTITLE:
~ The Blind Captain. ~
Written by BlueCat
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//[Body]
【つとめるということ】
不労所得生活をして5年ほどが過ぎた。
表向きは不動産自営業者であり、年に数回、事務処理をする必要がある。
しかし面倒事のほとんどをアウトソースすることで ── そのぶんピンハネされて(というと言葉が悪いので、正しくは手数料を払って)いるのだが ── ときどき途方に暮れるくらい膨大な時間を僕は手にしている。
幸か不幸か生計を共にする家族なんてものはいないので、関わりのある僅かな人間達(友人やら姉妹やら仕事にまつわる人たち)との予定がない限り、野生動物のように、空腹になったら食事をし、眠くなったら眠るような暮らしをしている。
僕にまつわる経済活動のうち、収入については僕が存在しなくても発生し続ける。
不労所得というのはそもそもそういうものである。
人によってはそれを羨むだろう。僕は若い頃からそれを望んでいたので、願ったり叶ったり、ではある。
しかし同時に、人によっては耐え難い苦痛であろうとも思う。
能力の有無やその発露はもちろん、何らかの活動の対価として発生している収入ではない。
僕の存在がなくても発生する収入である。
先に述べたとおり「自分がいなくてもまったく問題ない」という状況を直視するのは、自分の無価値と向き合うことでもある。
僕でさえ、誰の役にも立っていない重圧に耐えかねて、地元のNPO法人に寄付するくらいである。
ひとかどの人であることを自負しようと思えば、さらにその無力感や無能感に苛まれるだろう。
ちなみに親は会社を経営していたが、最終的に事業に失敗してかなりの負債を抱えていたので、僕は生まれついての資産家ではなく、突発的に、宝くじにでも当たるような感じで不労所得者になった。
学生の頃は学校の集金に自分の小遣いを充てることもあったくらいなので、最初はずいぶん戸惑ったし、今も真面目に考えると落ち着かなくなる部分はある。
収入が不安定であるとか、安定した保証がないとか、そういうことではない。
お金がなくなったらシンプルに働けば良いので、そんなことを不安に思っているわけではない。
また将来や老後というものにも不安はない。
(世間的に僕の肉体年齢は老人ではなかろうけれど)現在が僕にとってはすでに老後という位置づけだし、僕はそもそも自分の幕引きの年齢を設定しており、それまでに済ませておくべきいくつかのタスクがあるくらいで、自害することにも抵抗はないから、ただただ自分が長生きするという不安を持っていない。
もちろん「死ななくてはいけない」とは思っていないが、同じように「生きなくてはいけない」とも思っていない。
自分の生死なんてどちらでも良いことだし、どうでも良いことだ。
何となれば僕以外の生き物についても同じように僕は思っている。
それはたとえば自分の好きなアーティストの楽曲が、CDに入っているか、MP3でダウンロードしているか、サブスクリプションでストリーミングしているか、という程度の違いだ。大事なのはその楽曲を楽しんでいる時間であり、その楽曲を聴いて自身に喚起される情動だろう。
慣れてくれば、情動そのものを自分の中に何度でも再生できるようになる。
楽曲というコンテンツそのものも必要なくなってしまうし、ましてそれがどのような媒体(メディア)で自身の手元にあるかなど、どうでもいいことだ。
>>>
今の立場になって、同じような不動産オーナと接する機会が時折、ある。
おそらく大抵の人 ── とくに僕のように業務のほとんどをアウトソーシングしている者 ── は、そのような事実をわざわざ開示しないように思える。
実際、僕は自身を未だに「無職」と認識している。微々たる勤めはあるし、最低限の務めは果たしているが、努めて勉めているかと問われると自信をなくす。仕事はしているが、世間社会に貢献しているかと問われると自信がない。努力し、研鑽し、更なる高みを目指そうとしているかと問われても、そもそも努力が嫌いなのでどうしようもない。
しかし一方で、自身が不労所得型の不動産オーナであることにふんぞり返っている人も(すべてそうだとは思わないが)ちらほらいるのである。
彼ら(基本的に男性に多い)の一番くだらない自慢話が、どこかの会社や金融機関との関係性自慢、である。
たとえば「○○の会社と付き合いがあって、あれこれ世話をしている」とか「○○銀行の頭取と付き合いがある」とか「○○信用金庫の総代をしている」とか、まぁ、そういうことを世間話の端々に織り込むことで自身がいかに世間に貢献しているかをアピールする、という次第。
端から見ていて痛々しいし、見ているこっちが恥ずかしくなるのだが、彼らは得々とそれを語る。
なんとなれば感心して欲しそうなので「ふうん」くらい相槌は打つようにしている。が、一番大事なことは近づかないことである。
>>>
【管理職が忙しいのは無能の証】
しかし彼らの姿を眺めていて気がついたことがある。
会社員をしていた頃も、実際に同じような連中がいたのである。
だいたいどの会社にも(その組織規模が大きければ大きいほど)いた。
僕はどちらかというと現場主義であり、そもそも出世欲もなければ出世するだけの能力も持ち合わせていなかったので、そうした大きな会社で管理職になる機会を持たなかった(小さな会社でなら、あったが)。
「自分は忙しいし仕事をしているし会社に貢献している」というジェスチュアに一生懸命な管理職は、会社の規模が大きくなるほどよく見かけた。
なるほどビジネスプレイヤ上がりの管理職であればあるほどマネージャとしての仕事が分からなかったのかも知れない。
僕に限っていえば、管理職としてはいつも暇そうにすることを身上にしていた。
もちろん小さな会社であれば純粋な管理職などになれるはずもなく、現場でプレイヤとして従事しつつ、後輩なりパートさんなりをマネジメントする必要が出る。
そのとき管理職が忙しそうにしていると、声を掛けるきっかけがつかめなかったり、そもそも忙しいあまり捕まらないということがある。
大きな会社に勤務していたときに所属したグループがそういう感じで、グループリーダが忙しいあまり捕まらない。
ちょっと席に戻ったかと思えば、他の誰かに捕まってしまって僕が声を掛けるタイミングがない。
それが何時間も何日も繰り返される。
どうにもならず途方に暮れたので仕事を放棄して遊んでいた(正確には仕事に使うCADのマクロシステムを独学で一から完全自作した)ら仕事を干された経験がある。
そのとき「管理職は暇じゃないとダメだな」と思ったのだ。
なので自身が管理職になったときは出社してから1時間は暇そうにする習慣を身に付けた。
上司が仕事を割り振ってくることもあるし、パートさんや後輩が相談を持ちかけたり指示を仰いでくることもある。
もちろん来客や訪問など、他者とやり取りをするコアな時間はあるが、事務処理や移動や雑務ならある程度融通が利く。
当時の勤務先は休日出勤や残業という概念がなかった(当然、残業代や休日出勤手当、代休制度というものもなかった)ので、僕は好きなだけ会社に出社して、好きなだけ仕事をして、好きなときに仕事を終えることができ、仕事に余裕があるなら休むこともできた(いずれも給与に影響しない)。
特殊な環境だったと思うが、それだけの裁量を与えられていたのは本当に恵まれていたと思う。
>>>
【完成されたシステムは手を加える必要がない】
僕のつまらない自慢話はここまでにして、マネジメントができない管理専門職が忙しいフリをすることについて、である。
彼らは詰まるところ、自分が暇であることに価値を見出せない。
本当はプレイヤたる現場従事者の仕事がしやすい環境構築や、そのトラブルの保全などをするのが仕事であり、管理職が暇なのはいいことだと(僕は)思うのだ。
実際、僕が管理職をしていた頃の小さな会社は、予定のないときは社長が朝から倉庫で趣味の遊び(当時は骨董品の時計修理に夢中になっていた)をしていた。
しかしひとたび相談に行けば、必ず的確なアドバイスを貰えるし、必要とあれば先陣を切って即座に対処してくれた。
困ったときに捕まえやすいし、暇かどうかも一目瞭然だから、こんなに有り難いことはないのだ。
システムが良好に運営されているならトップに近づくほど、そうなるべきであり、そのくらいでいいと思う。
仕事がなく暇であることに罪悪感を感じるなら、現場従事者がどうすればより働きやすくなるかを考えればいい。
それは別に机に向かってウンウン唸ったり、忙しいはずの部下を捕まえてくだらない会議やヒアリングをする必要はないはずだ。
しかしそういう管理職を見たことがないのか、そもそもそういう発想がないのか、仕事をしているフリをする管理職は後を絶たない。
先の「おかしな自慢をする不労所得型不動産オーナ」も同様だ。
自分が何もしていないことを認められない。誰の役にも立っていないことが素晴らしいとは思えない。
何かしていると思いたいし、思われたい。誰かの役に立っていたいし、立っていると思わせたい。
もちろんその根源にある気持ちが間違っているとは思わない。誰かの役に立つのは、きっと素晴らしいことだ。
では転じて「何をしているのか」ということだ。
無駄な会議やヒアリングを重ねて愚にもつかない目標を掲げ、達成できない部下に詰め寄るだけの上司なら必要ない。
世間や特定の集団/組織に寄与するのは結構なことだけれど、それってわざわざ関係ない人間に自慢するようなことだろうか。
そうやって懸命に「自分は何かしています」というアピールをしなくてはならない時点で、相当に自信がなく、無能なのだろうとつい邪推してしまう。
自信がなくて無能な人間は往々にしてビジョンもない。
思い描いている未来がない者に運営を任せたところで、状況が悪くなることこそあっても、良くなることはない。
現状維持がせいぜいで、さらに繁栄をするということはあり得ない。
>>>
僕自身は広く世間の役には立っていない(昔と違い、ちゃんと税金を払うようになっただけマシなくらいだ)。
狭い範囲では、姉妹やら友人の慰み程度の役には立っていると思うが、せいぜいがそのくらいだ。
しかし誰かの役に立つということは、同時に、誰かとの関わりが強く深くなる、ということでもある。
自分がいなくてもシステムが正しく運営され続ける、という状態は少々寂しいことかもしれないが、自分がいなければシステムが働かない、という状態よりはよほども健全なのだ。
もちろん必要とされることに依存してしまう気持ちも分かるけれど、それは決して健全とはいえない。
(これを僕は恋人にも適用してしまうため、問題が発生することがある)
実は先だって体調不良になった際、姉の通院介助をすることができなかった。
数日前に連絡をしたものの、平日の早朝から一日潰れることなので、代役もすぐには見つからず難儀した。
最終的に姪(当の姉の娘であるが、片目の視力がひどく低下しているため長時間の運転に向かない)が代役を務めてくれたが、つまり僕はこういう状態を健全だとは思えないし、僕がいなくてはダメだ、という状態に自分の価値を見出せない。むしろそれはシステム(姉を中心とした、介護を行うシステム)の弱点だと思える。
同様に会社なら、いつ誰が休んでもまったく支障がなく、どんなトラブルがあっても出力にたいした影響がない、というのが理想である。
現場従事者だろうと管理職だろうと経営者だろうと、誰が、いつ遊んでいても問題なく稼働しているというシステムが最善ではないか。
そういう意味で、僕は自分の収入の経済活動が完全自動化されていることを理想的な状態だと思っている。
もちろん誰の役にも立っていないという引け目はあるし、庶民臭い出自のため、労せずして益を享受していることに後ろめたさを感じてしまう。
(これらを緩衝するため「仮想奥様」という存在が運用されている)

>>>
ところでこの国の管理者は、ずいぶん忙しそうにしているようにお見受けする。
あれは本当に忙しいのだろうか。
それともまともな管理職というものを知らないから、仕事をしているフリに躍起になっているのだろうか。
誰もいなくても、たいした手を加えなくても、機能し続けるのが優れた組織だと僕は思うのだ。
だから管理者は「今日はね、金木犀が、花を付けましたね」なんて言っているくらいが良いのではないだろうか。
それとも国民がみな愚かで、管理者が暇そうにしていることを許さないのだろうか。
一国の宰相たる者、のんびりぼんやりして、愛人と旅行に出かけているくらいが平和な証だと思うのだけれど。
まぁでもこの国は不倫とかにも五月蝿いから仕方ないのか。
いずれにせよ自信も能力もビジョンもない人間が管理者の立場になることは避けて欲しいのだが、どうもその方が都合よいという人間が、どこかにいるのではないかと、そんな風に勘ぐってしまう。
不労所得生活をして5年ほどが過ぎた。
表向きは不動産自営業者であり、年に数回、事務処理をする必要がある。
しかし面倒事のほとんどをアウトソースすることで ── そのぶんピンハネされて(というと言葉が悪いので、正しくは手数料を払って)いるのだが ── ときどき途方に暮れるくらい膨大な時間を僕は手にしている。
幸か不幸か生計を共にする家族なんてものはいないので、関わりのある僅かな人間達(友人やら姉妹やら仕事にまつわる人たち)との予定がない限り、野生動物のように、空腹になったら食事をし、眠くなったら眠るような暮らしをしている。
僕にまつわる経済活動のうち、収入については僕が存在しなくても発生し続ける。
不労所得というのはそもそもそういうものである。
人によってはそれを羨むだろう。僕は若い頃からそれを望んでいたので、願ったり叶ったり、ではある。
しかし同時に、人によっては耐え難い苦痛であろうとも思う。
能力の有無やその発露はもちろん、何らかの活動の対価として発生している収入ではない。
僕の存在がなくても発生する収入である。
先に述べたとおり「自分がいなくてもまったく問題ない」という状況を直視するのは、自分の無価値と向き合うことでもある。
僕でさえ、誰の役にも立っていない重圧に耐えかねて、地元のNPO法人に寄付するくらいである。
ひとかどの人であることを自負しようと思えば、さらにその無力感や無能感に苛まれるだろう。
ちなみに親は会社を経営していたが、最終的に事業に失敗してかなりの負債を抱えていたので、僕は生まれついての資産家ではなく、突発的に、宝くじにでも当たるような感じで不労所得者になった。
学生の頃は学校の集金に自分の小遣いを充てることもあったくらいなので、最初はずいぶん戸惑ったし、今も真面目に考えると落ち着かなくなる部分はある。
収入が不安定であるとか、安定した保証がないとか、そういうことではない。
お金がなくなったらシンプルに働けば良いので、そんなことを不安に思っているわけではない。
また将来や老後というものにも不安はない。
(世間的に僕の肉体年齢は老人ではなかろうけれど)現在が僕にとってはすでに老後という位置づけだし、僕はそもそも自分の幕引きの年齢を設定しており、それまでに済ませておくべきいくつかのタスクがあるくらいで、自害することにも抵抗はないから、ただただ自分が長生きするという不安を持っていない。
もちろん「死ななくてはいけない」とは思っていないが、同じように「生きなくてはいけない」とも思っていない。
自分の生死なんてどちらでも良いことだし、どうでも良いことだ。
何となれば僕以外の生き物についても同じように僕は思っている。
それはたとえば自分の好きなアーティストの楽曲が、CDに入っているか、MP3でダウンロードしているか、サブスクリプションでストリーミングしているか、という程度の違いだ。大事なのはその楽曲を楽しんでいる時間であり、その楽曲を聴いて自身に喚起される情動だろう。
慣れてくれば、情動そのものを自分の中に何度でも再生できるようになる。
楽曲というコンテンツそのものも必要なくなってしまうし、ましてそれがどのような媒体(メディア)で自身の手元にあるかなど、どうでもいいことだ。
>>>
今の立場になって、同じような不動産オーナと接する機会が時折、ある。
おそらく大抵の人 ── とくに僕のように業務のほとんどをアウトソーシングしている者 ── は、そのような事実をわざわざ開示しないように思える。
実際、僕は自身を未だに「無職」と認識している。微々たる勤めはあるし、最低限の務めは果たしているが、努めて勉めているかと問われると自信をなくす。仕事はしているが、世間社会に貢献しているかと問われると自信がない。努力し、研鑽し、更なる高みを目指そうとしているかと問われても、そもそも努力が嫌いなのでどうしようもない。
しかし一方で、自身が不労所得型の不動産オーナであることにふんぞり返っている人も(すべてそうだとは思わないが)ちらほらいるのである。
彼ら(基本的に男性に多い)の一番くだらない自慢話が、どこかの会社や金融機関との関係性自慢、である。
たとえば「○○の会社と付き合いがあって、あれこれ世話をしている」とか「○○銀行の頭取と付き合いがある」とか「○○信用金庫の総代をしている」とか、まぁ、そういうことを世間話の端々に織り込むことで自身がいかに世間に貢献しているかをアピールする、という次第。
端から見ていて痛々しいし、見ているこっちが恥ずかしくなるのだが、彼らは得々とそれを語る。
なんとなれば感心して欲しそうなので「ふうん」くらい相槌は打つようにしている。が、一番大事なことは近づかないことである。
>>>
【管理職が忙しいのは無能の証】
しかし彼らの姿を眺めていて気がついたことがある。
会社員をしていた頃も、実際に同じような連中がいたのである。
だいたいどの会社にも(その組織規模が大きければ大きいほど)いた。
僕はどちらかというと現場主義であり、そもそも出世欲もなければ出世するだけの能力も持ち合わせていなかったので、そうした大きな会社で管理職になる機会を持たなかった(小さな会社でなら、あったが)。
「自分は忙しいし仕事をしているし会社に貢献している」というジェスチュアに一生懸命な管理職は、会社の規模が大きくなるほどよく見かけた。
なるほどビジネスプレイヤ上がりの管理職であればあるほどマネージャとしての仕事が分からなかったのかも知れない。
僕に限っていえば、管理職としてはいつも暇そうにすることを身上にしていた。
もちろん小さな会社であれば純粋な管理職などになれるはずもなく、現場でプレイヤとして従事しつつ、後輩なりパートさんなりをマネジメントする必要が出る。
そのとき管理職が忙しそうにしていると、声を掛けるきっかけがつかめなかったり、そもそも忙しいあまり捕まらないということがある。
大きな会社に勤務していたときに所属したグループがそういう感じで、グループリーダが忙しいあまり捕まらない。
ちょっと席に戻ったかと思えば、他の誰かに捕まってしまって僕が声を掛けるタイミングがない。
それが何時間も何日も繰り返される。
どうにもならず途方に暮れたので仕事を放棄して遊んでいた(正確には仕事に使うCADのマクロシステムを独学で一から完全自作した)ら仕事を干された経験がある。
そのとき「管理職は暇じゃないとダメだな」と思ったのだ。
なので自身が管理職になったときは出社してから1時間は暇そうにする習慣を身に付けた。
上司が仕事を割り振ってくることもあるし、パートさんや後輩が相談を持ちかけたり指示を仰いでくることもある。
もちろん来客や訪問など、他者とやり取りをするコアな時間はあるが、事務処理や移動や雑務ならある程度融通が利く。
当時の勤務先は休日出勤や残業という概念がなかった(当然、残業代や休日出勤手当、代休制度というものもなかった)ので、僕は好きなだけ会社に出社して、好きなだけ仕事をして、好きなときに仕事を終えることができ、仕事に余裕があるなら休むこともできた(いずれも給与に影響しない)。
特殊な環境だったと思うが、それだけの裁量を与えられていたのは本当に恵まれていたと思う。
>>>
【完成されたシステムは手を加える必要がない】
僕のつまらない自慢話はここまでにして、マネジメントができない管理専門職が忙しいフリをすることについて、である。
彼らは詰まるところ、自分が暇であることに価値を見出せない。
本当はプレイヤたる現場従事者の仕事がしやすい環境構築や、そのトラブルの保全などをするのが仕事であり、管理職が暇なのはいいことだと(僕は)思うのだ。
実際、僕が管理職をしていた頃の小さな会社は、予定のないときは社長が朝から倉庫で趣味の遊び(当時は骨董品の時計修理に夢中になっていた)をしていた。
しかしひとたび相談に行けば、必ず的確なアドバイスを貰えるし、必要とあれば先陣を切って即座に対処してくれた。
困ったときに捕まえやすいし、暇かどうかも一目瞭然だから、こんなに有り難いことはないのだ。
システムが良好に運営されているならトップに近づくほど、そうなるべきであり、そのくらいでいいと思う。
仕事がなく暇であることに罪悪感を感じるなら、現場従事者がどうすればより働きやすくなるかを考えればいい。
それは別に机に向かってウンウン唸ったり、忙しいはずの部下を捕まえてくだらない会議やヒアリングをする必要はないはずだ。
しかしそういう管理職を見たことがないのか、そもそもそういう発想がないのか、仕事をしているフリをする管理職は後を絶たない。
先の「おかしな自慢をする不労所得型不動産オーナ」も同様だ。
自分が何もしていないことを認められない。誰の役にも立っていないことが素晴らしいとは思えない。
何かしていると思いたいし、思われたい。誰かの役に立っていたいし、立っていると思わせたい。
もちろんその根源にある気持ちが間違っているとは思わない。誰かの役に立つのは、きっと素晴らしいことだ。
では転じて「何をしているのか」ということだ。
無駄な会議やヒアリングを重ねて愚にもつかない目標を掲げ、達成できない部下に詰め寄るだけの上司なら必要ない。
世間や特定の集団/組織に寄与するのは結構なことだけれど、それってわざわざ関係ない人間に自慢するようなことだろうか。
そうやって懸命に「自分は何かしています」というアピールをしなくてはならない時点で、相当に自信がなく、無能なのだろうとつい邪推してしまう。
自信がなくて無能な人間は往々にしてビジョンもない。
思い描いている未来がない者に運営を任せたところで、状況が悪くなることこそあっても、良くなることはない。
現状維持がせいぜいで、さらに繁栄をするということはあり得ない。
>>>
僕自身は広く世間の役には立っていない(昔と違い、ちゃんと税金を払うようになっただけマシなくらいだ)。
狭い範囲では、姉妹やら友人の慰み程度の役には立っていると思うが、せいぜいがそのくらいだ。
しかし誰かの役に立つということは、同時に、誰かとの関わりが強く深くなる、ということでもある。
自分がいなくてもシステムが正しく運営され続ける、という状態は少々寂しいことかもしれないが、自分がいなければシステムが働かない、という状態よりはよほども健全なのだ。
もちろん必要とされることに依存してしまう気持ちも分かるけれど、それは決して健全とはいえない。
(これを僕は恋人にも適用してしまうため、問題が発生することがある)
実は先だって体調不良になった際、姉の通院介助をすることができなかった。
数日前に連絡をしたものの、平日の早朝から一日潰れることなので、代役もすぐには見つからず難儀した。
最終的に姪(当の姉の娘であるが、片目の視力がひどく低下しているため長時間の運転に向かない)が代役を務めてくれたが、つまり僕はこういう状態を健全だとは思えないし、僕がいなくてはダメだ、という状態に自分の価値を見出せない。むしろそれはシステム(姉を中心とした、介護を行うシステム)の弱点だと思える。
同様に会社なら、いつ誰が休んでもまったく支障がなく、どんなトラブルがあっても出力にたいした影響がない、というのが理想である。
現場従事者だろうと管理職だろうと経営者だろうと、誰が、いつ遊んでいても問題なく稼働しているというシステムが最善ではないか。
そういう意味で、僕は自分の収入の経済活動が完全自動化されていることを理想的な状態だと思っている。
もちろん誰の役にも立っていないという引け目はあるし、庶民臭い出自のため、労せずして益を享受していることに後ろめたさを感じてしまう。
(これらを緩衝するため「仮想奥様」という存在が運用されている)

>>>
ところでこの国の管理者は、ずいぶん忙しそうにしているようにお見受けする。
あれは本当に忙しいのだろうか。
それともまともな管理職というものを知らないから、仕事をしているフリに躍起になっているのだろうか。
誰もいなくても、たいした手を加えなくても、機能し続けるのが優れた組織だと僕は思うのだ。
だから管理者は「今日はね、金木犀が、花を付けましたね」なんて言っているくらいが良いのではないだろうか。
それとも国民がみな愚かで、管理者が暇そうにしていることを許さないのだろうか。
一国の宰相たる者、のんびりぼんやりして、愛人と旅行に出かけているくらいが平和な証だと思うのだけれど。
まぁでもこの国は不倫とかにも五月蝿いから仕方ないのか。
いずれにせよ自信も能力もビジョンもない人間が管理者の立場になることは避けて欲しいのだが、どうもその方が都合よいという人間が、どこかにいるのではないかと、そんな風に勘ぐってしまう。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Ecology-Engineering-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
[Object]
-Camouflage-Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
//EOF
