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// TimeLine:231101
// NOTE:姉の家。明日は病院だが、今回は薬を取りに行くだけなので僕だけ行けばいいらしい。
機会があれば書くかもしれないが、僕は、僕しか乗っていない方が長距離の運転を好ましく思える。
機会があれば書くかもしれないが、僕は、僕しか乗っていない方が長距離の運転を好ましく思える。
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TITLE:
意味がないと感じる夜に。
Written by BlueCat
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::今私の愛する身近な人々も、今わたしの言葉に耳を澄ませてくれている人々も、概ねそうだと思っているんだけれど、私自身も例にもれず死にたい子どもだった。
::今私の愛する身近な人々も、今わたしの言葉に耳を澄ませてくれている人々も、概ねそうだと思っているんだけれど、私自身も例にもれず死にたい子どもだった。
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//[Body]
僕が肌に「自身の死」を実感したのは10歳のことだ ── 。
無論、死のことは知っていた。
それが生命に何をもたらし、あるいは何を奪い、それによって生命体がどのように変わるかということについて。そしてそれが生きとし生けるものに必ず訪れるものだという事実も。
でも僕は、そこから切り離された場所に棲んでいたので、自分だけは死なないと思っていた。
死ぬことを知らなかった。
親が病気でいつ死ぬかもしれないと思い、悲しい気持ちに浸されたこともあったのに、飼い犬や猫を葬る穴を幾度も掘ったのに、それでも自分が死ぬなんて、10歳になるまで気付かなかった。
そこで絶望して1年ほど、ぼんやり過ごしていたことは以前に書いたことがある。
>>>
世界は綺麗な場所だった。あるいは今ももしかしたらきっと。
不思議なこと。
綺麗なこと。
いいことが起こるという予感。
背伸びしたら届くかもしれない素敵な何か。
悪いもののことなど考える必要も、信じるまでもない「きれい」だけが埋め尽くす宝石のような透明 ── 。
僕はずっとそれを信じていたから、世界は「好き」で埋め尽くされていた。
もちろん対立も分裂も暴力も比較も搾取も拘束もあった。
大人が大人を奴隷にし、大人が子供を奴隷にし、男が女を奴隷にし、子供が子供を奴隷にし、知識が、金が、制度が、社会が、慣習が、欺瞞が、正義が、誰かを喰い物にし続けていた。
優越感と劣等感に振り回される野獣が、年代も性別も種族も関係なくのし歩いていたけれど。
それでも僕の棲んでいる世界は、ずっときれいなままだったから。
だから僕はそれを信じた。信じていられた。
目に見える不遇は、肌を汚す不幸は、やがて正しい「素敵」で塗り替えられると信じられた。
その「きれい」で埋め尽くされた世界は「好き」に溢れていた。
好きでないものなんて存在できなかった。
その強さを、完璧を、僕は信じていた。
>>>
足元から侵食した「死」に、だから僕はたいそう恐怖したのものだ。
自分だけのものだったとしても、あるいはだからこそ誰にも奪うことができず、壊すこともできないはずの「きれい」な世界が、僕の死によって失われてしまうのだから。
僕のよりどころであり、あるいは僕自身の核として機能しているそれが、僕の死などという簡素な仕組みによって、いとも簡単になくなってしまうのだから。
それならばいったい僕は何を信じて、何をよりどころにしたら良いのだろうかと、奈落の闇に放り出されたような気持ちになった。
死にたくない、と、そのときほど思ったことはない。
それ以降、何度となく「死んでもいいか」くらいに思ったことはあるし、何となればより積極的に自死を考える機会はあったが、死に恐怖し、死を避けたいと本気で思い、生き続けていたいと、死なずにずっと生きていたいとあれほど思った時間はない。
今や死は僕の13番目の恋人であるからワルツを踊れるくらいには親密な関係だけれど、当時の僕にとっては、絶対的な断絶と終焉をもたらす、何もかもの終わりだった。
>>>
僕は生きたいと思ったのだ。
生きていたいと。死にたくないと。
仮初めだとしても、まやかしだとしても「きれい」に囲まれて、「きれい」を具現しながら、「きれい」を愛して、きれいなままで生き続けていたかったのだ。
生きている限り、それは可能だと信じていた。
だから死ぬことは僕本人だけでなく、その「きれい」も、その綺麗に対する羨望も、愛情も、同一感も何もかもを無に帰してしまうのだと思って絶望したのだ。
>>>
およそ1年ほどして我に返り、自分が死ぬ未来とともに今は生き続けている。
Webの世界が発祥だったと思うが、
「お前らの『死にたい』は『愛されたい』だ」という名言がある。
なるほどそういう「死にたい」もあるのか、と思ったのだったか。
世界に求められず、世界に値踏みされる屈辱に耐えかね、自身の無価値に押しつぶされるように死を希求することもあるのだろう。
僕の「死にたい」は、自分を殺したいという、憎悪や殺意だ。
世界や他の誰かに愛されているかどうかに関係なく、自身の価値の有無にも関係しない。
僕は僕から愛されているし、僕は僕の価値を自分なりに十分に知っている、その上で。
もちろん今は、その殺意もずいぶん手懐けられた。
おそらく自我と呼ばれる価値観群が単一であれば、自身に対する殺意を持ったとしても、それほど長くは保たないのだろうと想像する。
つまり肉体に負けて価値観が消失するか、価値観に負けて肉体が不可逆的に損壊するか。
僕はどちらも選ばず、のらりくらりと今まで生きてきた。
今頃になって起こされたことは、つまりある種の救いでもあるのだろう。
そう考えるとあのとき「死にたくない」と思った衝動は、直感は、それはそれで良いものだったのだろう。
>>>
「いつか」は来ない。
「なにか」は現れない。
救いはない。
求める限りにおいて、たとえ与え続けたとしてもその見返りとしてなど、救いは存在しない。
暗闇の中で僕が手に入れたのは、僕の猫目(鳥目の逆で、僅かな光でものが見える)性質を知ることだけだった。
その素晴らしさを、数ヶ月ごとに視力が衰える今になって知る。
けれども見えないことの素晴らしさを、怯えるほど光に痛みを感じていた僕はすでに知っている。
いずれ最後に闇が僕を包む。
その優しさも、安堵も、殺意や憎悪の結実とは別に訪れる、望まれた未来だと思える。
>>>
僕は「きれい」を知っている。
誰に与えられたものでも、誰に認められたものでもない。
誰が証するものでも、誰が賞賛するものでもない。
僕だけのもの。
僕だけが大切にしていたもの。
暗闇にぼうっと浮かぶロウソクの灯りのように。
喧噪と眩さの中ではかき消えてしまうだろうそれを。
僕は信じている。
僕が肌に「自身の死」を実感したのは10歳のことだ ── 。
無論、死のことは知っていた。
それが生命に何をもたらし、あるいは何を奪い、それによって生命体がどのように変わるかということについて。そしてそれが生きとし生けるものに必ず訪れるものだという事実も。
でも僕は、そこから切り離された場所に棲んでいたので、自分だけは死なないと思っていた。
死ぬことを知らなかった。
親が病気でいつ死ぬかもしれないと思い、悲しい気持ちに浸されたこともあったのに、飼い犬や猫を葬る穴を幾度も掘ったのに、それでも自分が死ぬなんて、10歳になるまで気付かなかった。
そこで絶望して1年ほど、ぼんやり過ごしていたことは以前に書いたことがある。
>>>
世界は綺麗な場所だった。あるいは今ももしかしたらきっと。
不思議なこと。
綺麗なこと。
いいことが起こるという予感。
背伸びしたら届くかもしれない素敵な何か。
悪いもののことなど考える必要も、信じるまでもない「きれい」だけが埋め尽くす宝石のような透明 ── 。
僕はずっとそれを信じていたから、世界は「好き」で埋め尽くされていた。
もちろん対立も分裂も暴力も比較も搾取も拘束もあった。
大人が大人を奴隷にし、大人が子供を奴隷にし、男が女を奴隷にし、子供が子供を奴隷にし、知識が、金が、制度が、社会が、慣習が、欺瞞が、正義が、誰かを喰い物にし続けていた。
優越感と劣等感に振り回される野獣が、年代も性別も種族も関係なくのし歩いていたけれど。
それでも僕の棲んでいる世界は、ずっときれいなままだったから。
だから僕はそれを信じた。信じていられた。
目に見える不遇は、肌を汚す不幸は、やがて正しい「素敵」で塗り替えられると信じられた。
その「きれい」で埋め尽くされた世界は「好き」に溢れていた。
好きでないものなんて存在できなかった。
その強さを、完璧を、僕は信じていた。
>>>
足元から侵食した「死」に、だから僕はたいそう恐怖したのものだ。
自分だけのものだったとしても、あるいはだからこそ誰にも奪うことができず、壊すこともできないはずの「きれい」な世界が、僕の死によって失われてしまうのだから。
僕のよりどころであり、あるいは僕自身の核として機能しているそれが、僕の死などという簡素な仕組みによって、いとも簡単になくなってしまうのだから。
それならばいったい僕は何を信じて、何をよりどころにしたら良いのだろうかと、奈落の闇に放り出されたような気持ちになった。
死にたくない、と、そのときほど思ったことはない。
それ以降、何度となく「死んでもいいか」くらいに思ったことはあるし、何となればより積極的に自死を考える機会はあったが、死に恐怖し、死を避けたいと本気で思い、生き続けていたいと、死なずにずっと生きていたいとあれほど思った時間はない。
今や死は僕の13番目の恋人であるからワルツを踊れるくらいには親密な関係だけれど、当時の僕にとっては、絶対的な断絶と終焉をもたらす、何もかもの終わりだった。
>>>
僕は生きたいと思ったのだ。
生きていたいと。死にたくないと。
仮初めだとしても、まやかしだとしても「きれい」に囲まれて、「きれい」を具現しながら、「きれい」を愛して、きれいなままで生き続けていたかったのだ。
生きている限り、それは可能だと信じていた。
だから死ぬことは僕本人だけでなく、その「きれい」も、その綺麗に対する羨望も、愛情も、同一感も何もかもを無に帰してしまうのだと思って絶望したのだ。
>>>
およそ1年ほどして我に返り、自分が死ぬ未来とともに今は生き続けている。
Webの世界が発祥だったと思うが、
「お前らの『死にたい』は『愛されたい』だ」という名言がある。
なるほどそういう「死にたい」もあるのか、と思ったのだったか。
世界に求められず、世界に値踏みされる屈辱に耐えかね、自身の無価値に押しつぶされるように死を希求することもあるのだろう。
僕の「死にたい」は、自分を殺したいという、憎悪や殺意だ。
世界や他の誰かに愛されているかどうかに関係なく、自身の価値の有無にも関係しない。
僕は僕から愛されているし、僕は僕の価値を自分なりに十分に知っている、その上で。
もちろん今は、その殺意もずいぶん手懐けられた。
おそらく自我と呼ばれる価値観群が単一であれば、自身に対する殺意を持ったとしても、それほど長くは保たないのだろうと想像する。
つまり肉体に負けて価値観が消失するか、価値観に負けて肉体が不可逆的に損壊するか。
僕はどちらも選ばず、のらりくらりと今まで生きてきた。
今頃になって起こされたことは、つまりある種の救いでもあるのだろう。
そう考えるとあのとき「死にたくない」と思った衝動は、直感は、それはそれで良いものだったのだろう。
>>>
「いつか」は来ない。
「なにか」は現れない。
救いはない。
求める限りにおいて、たとえ与え続けたとしてもその見返りとしてなど、救いは存在しない。
暗闇の中で僕が手に入れたのは、僕の猫目(鳥目の逆で、僅かな光でものが見える)性質を知ることだけだった。
その素晴らしさを、数ヶ月ごとに視力が衰える今になって知る。
けれども見えないことの素晴らしさを、怯えるほど光に痛みを感じていた僕はすでに知っている。
いずれ最後に闇が僕を包む。
その優しさも、安堵も、殺意や憎悪の結実とは別に訪れる、望まれた未来だと思える。
>>>
僕は「きれい」を知っている。
誰に与えられたものでも、誰に認められたものでもない。
誰が証するものでも、誰が賞賛するものでもない。
僕だけのもの。
僕だけが大切にしていたもの。
暗闇にぼうっと浮かぶロウソクの灯りのように。
喧噪と眩さの中ではかき消えてしまうだろうそれを。
僕は信じている。
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::君に似合うファンタジーは私が編もう。君は、君と、私だけを信じて。透明なオールであらゆる海を越え虹の波を乗りこなしてしまった、あのまぼろしの船が君。君が居なくなってしまった世界は全部滅んでしまったんだ。
::君に似合うファンタジーは私が編もう。君は、君と、私だけを信じて。透明なオールであらゆる海を越え虹の波を乗りこなしてしまった、あのまぼろしの船が君。君が居なくなってしまった世界は全部滅んでしまったんだ。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「2022年の8月31日」(著作:戸田 真琴)
によりました。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Eternal-Link-Love-Memory-Recollect-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Generator-
[Object]
-Memory-Night-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
//EOF