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ここまでのあらすじ。
 
Written by BlueCat

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【再発した蕁麻疹】
0926:未明、唐突に蕁麻疹が再発。

 煮物も食べられるようになってきたし、そろそろ食肉でもしようかな、と思っていた日のことだった。
 ウェイトトレーニングを少しずつ始め、徐々に増やしてゆけると思っていた、のだが。

1003:1週間の記憶がほとんどない。
 突き刺すような強い痒みと発熱は、風邪でもないのに「感冒」と呼んでいいほどの感覚異常をもたらした。

 食事ができなくなることは分かっていたので、麹と白米(三五八の漬け床を作るために常備している)を使って麹床を大量(4Lの寸胴と3Lの圧力鍋)に作り、(およそ24時間後)出来上がったそれをタッパーに分けて冷凍した。

 薬物耐性が付いてしまったのか、今回は飲み薬も塗り薬もほとんど効果を発揮しなかった。
 布団や肌と肌が重なる部分は熱を持ち、激しい痒みと水疱を生じる。
 眠ろうにも30分と置かずに痒みや熱さが発生するので、眠ることもままならない。しかし起きていてもまた痒い。
 自分の体温で火傷のような熱さを感じる上、そこに水疱ができて痒くなる。
 そんな状態が5日ほども続いただろうか。
 大腿筋、尾てい骨、鎖骨周り、手の甲、足の甲 ── 。
 末端の、あるいは皮膚の薄い、もしくは脂肪の少ない部分にそれは頻出した。

 入浴はもちろんできないし、(寒いけれど)体温に近い温度のシャワーを浴びた。
 それでも剥き出しになった皮膚が過剰反応するので、シャワーの回数を2日に一度くらいにして対応した。

 涼しい日もあったはずなのだけれど、エアコンで部屋を冷やした上、水を入れて凍らせたペットボトルで患部を冷やした。
 眠るときもそうやって、冷やしながら眠った。
 寒いと感じているのに、身体を冷やさないわけにはいかなかった。

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 微熱は今も続いているし、少し動くと体温がすぐに37℃を超えてしまう。
 まるでクーラント不足の自動車のようだ。

 体調が安定した日、常用薬を貰いに病院に出掛けたついで医者に相談したが、「免疫反応があるだけ健康な証拠でしょう」などと言って要領を得ない。
 もちろん不満はない。
 ヒトの身体というのは数式ではない。

 一般的とされる特性に当てはまる人もいるだろうけれど、僕のように、体質がちょっと異常なイキモノもいる。
 それでも医者というのは人間の組成を数値化し、その数値の変動をして「健康体」だのなんだのと点数を付ける。
 まぁそれが仕事なのだろうから仕方ないのだが、理解できないものを「分からない」と断じ、知らないものを「手に負えない」と正直に言える医者を探すのはなかなか大変なことだ。
 だいたいは一般論だけで判断し「こういうものだ」と断ずる医者が多い。だから僕はそういう押しつけをしない現在の主治医を気に入っている。

 なんでも見るタイプの開業医などは、ともすれば専門外のことを尋ねられ、それに一般論で答えて済ませるケースが多いように思う。
 専門医であっても年々刷新される情報を追い続けるのがむつかしい状況にもかかわらず、である。
 町医者が悪いとは言わないし、総合病院ならいいのかといえばそうでもないだろうけれど、要は知ったかぶりをしていることに気付かない人間というのは一定数いて、いかなるビジネスであれプライベートであれ、ろくな奴ではない。

 若い頃から、体調が悪いと聞くと「医者に行け」とうるさい連中は居たものだが、そういった人間達は往々にして「一般的」な特性を持っているからそんなことを言えるのである。
 もちろん一般的であることを悪いとは思っていないし、ちょっと変わった体質だからといって、それが格別なこととも思っていない。少々不便なだけで、自慢になるどころか引け目を感じる場面が多い。

 それでも僕が医者をあまり信用しないのは、彼らが僕の身体についてのプロフェッショナルではないという、単純にそれだけの理由による。

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 意識を失っている間に、世俗はまた変貌を遂げている。

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【お金の話】
 世俗の人からは驚かれるのだが、僕のようなイキモノは体調を崩して寝たきりになり、ゲームばかりして過ごしているくらいの方がお金が貯まるという現実をこの3ヶ月ほどの生活で突きつけられた。
 建材も買わず、農業資材も買わず、工具も買わず、ゲームソフトを買うくらいで、食費は最低限。
 堆肥にする生ゴミはおろか燃えるゴミすら出ないので驚いた。
 家から出ないし外食もしない(自炊に使う食材もほとんどない)から、お金を使う必要がない。結果、お金が貯まってしまったのだ。

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 世俗やメディアに、あたかも「お金のリテラシィ」などと嘯いて、テキトーなことを言っている人間は少なからずいる。
 たとえば「最低賃金」という概念がある。
 雇用する者が雇用という行為を行う際、雇用される者の単位時間あたりの最低金額を法定したもので、多くの人が僕よりよほど理解しているものと想像する。

 そうした「雇用される者の権利」を否定するつもりはないが、しかし同時に経済を人権から切り離して、単純に数値として考えた場合、こんなものは絵に描いた餅だといえる。
 僕はもともと自営業向きの思考回路を持っているからなのかもしれないが、経済的な実効力を発揮して、実際の売上げを作る(お金のやり取りをする)まで、その人間にもその行為にも、いかなる経済的な価値もないと思っている。
(なので僕は誰かの手伝いなどで仕事に入るとき「最低時給300円+お気持ちの歩合」を提案するが、それでも高いと思っている)

 雇用される者はその寿命の一部を切り売りしているのだから「実際の売上げとは関係なく」その費用が支払われるべきだ、という理想論や権利問題はあってしかるべきだと思う。
 しかし一方で、その「実際の売上げには関係なく」という部分が、最終的には共産主義的な発想や行動を増長する。
 会社員であろうとバイトであろうと、あるいは公務員であろうと政治家であろうと関係はない。
「実際の売上げに関係なく」仕事っぽいことをしているフリをして、問題を起こさなければ、それでお金が手に入ると思っている人間が少なからずいる、ということだ。

 繰り返すが、雇用される者は(特に雇用する組織が大きいほど相対的に)立場が弱いので、権利を守る必要があり、そのために法定する必要があるという考え方はあってしかるべきで、必要だとさえ思う。
 しかし同時にそれは理想論であり、絵に描いた餅だ、そこを履き違えている人間がいて、そういう人間はともすれば資本主義の下で共産主義に染まっている、と僕は言っている。それだけのことである。

 結果、経済はその意味合いを曖昧にしてしまっているように観察される。

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【リテラシィという嘘】
 かつて「財テク」などと呼ばれていたが、投資を始めとする金融商品を買って利益を生み出すという経済概念は、市場原理のひとつ ── 銀行の預金商品も、その名の通り(普通預金でさえ)本来は商品 ── である。
 一方で、そうしたある種の「楽な利益構築」は市場だけでなく世間一般から「労働に対する熱意」を少しずつ削いできたのではないか。

 資本家と労働者という対比を見ようにも、かつてのようにそれらは明確に二分されるものではない。
 絶対的な資本家、絶対的な労働者がいる一方で、ある程度以上の金融資産を有しつつ、労働者でもあるというハイブリッド投資家/労働者が増えた。
 それ自体は経済という全体像を知る(リテラシィを獲得する)上では有意である。
 実際に政府もこれを後押ししているが、資本主義経済においては資本家と労働者の立場の対立が、市場の最適な成長を生み出すシステムだったのではないかと思う。
 世俗が知ったような顔をして、資本家寄りの思想を「経済リテラシィ」として流布するにつれ、労働者寄りの思想が衰退するのは必然である。
 労働者寄りの思想とは端的に言えば「誰か ── それは世間や社会であり、会社であり、家族であり、自身である ── のために働いて対価を得ることに価値がある」という考え方だ。
 資本家寄りの思想を分かりやすく言えば「高い利益を得るために、手段を選ばない」ことに尽きる。
 そのうちには当然、原価を下げることも含まれる。
 時間も人間も材料も税金も、何もかもを安くしてゆけば、それで利幅が大きくなる。
 利益を最大化することが至上という考え方は、誰かを幸せにしようとか、それをどこに還元するとか、そういう綺麗ごとを含まない。

 この国家がギスギスして衰退しつつあるのは、経済至上主義が行き過ぎて、政府に属している連中どころか国民全体が資本家思考に染まってきたことが原因だろう。
 政府も経団連に名を連ねるような大企業の経営陣も「お金でお金を増やす」ということの不自然さには思い至らないらしい。

 資本家思想に凝り固まると、労働力も道具も資源も安い方がよい、ということになる。
 僕は何年も前から「100円ショップに群がるような生き方をする労働者は自身の首を絞める」と言ってきていたが、結局のところ周囲の人にもそれは響かなかったのだろうと想像する。

 FIREなどと銘打って、早期リタイアが持てはやされた時期もあった(まだこの数年のことだ)が、結局のところ人間というのは社会や他者との関わりを持たないと精神衛生や安定を保ちにくいものらしい。
 僕からすれば、単に自分の中に物差しがないのだろうと思えるが、だからといって社会性を持つことが悪いことだとは思っていない(僕には不向きだというだけだ)。

 僕自身は自立心のカタマリというか、自己責任論の権化というか、とにかく馴れ合いとヒエラルキィを作りたがる下らない連れション文化が嫌いなため、結果的に社会性を放棄してしまった。
 社会性のすべてが連れション文化だと嗤う気はないが、その粘着性や結合力が無駄に使われればおかしなことになるのは、プラモデルで接着剤がはみ出たときのことを考えれば容易に理解できるだろう。え、最近のプラモは接着剤不要なの?

 粘着したがるわりに、自分のこと(あるいは自分の利益になること)しか考えない人間が少なからずいる。
 そういう人間や集団が権力や資本を握るとどういうことになるか、というのは観察のしがいがある。

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 施政者が経済効果を謳ってデタラメを繰り返して久しいが、彼らが表向き掲げているのは、こうした「資本家寄りの本音をポリコレで飾り付けた理想論」であり、つまるところ中身がない。
 おそらく立法府にそれだけの実効力の発揮を求めることが、そもそもおかしいのである。
 しかしこの国は立法府と行政府が融合しており、いつからか司法府も、警察機構も抱き込まれているように観察される。
(そういえば「自由」でも「民主」でもない政党がそれを名乗っている様は、朝鮮「民主主義」「人民」「共和国」に通じるデタラメさがあって微笑ましい)

 なぜといって、立法府が立法府に都合の良いことを法定することが可能なままに任せ、同時に経済との繋がりも強くなってしまった。
 国家予算を握っているから当たり前だろうという考え方は、行政府に対しては必然だと思えるが、立法府が経済や経済を多く持つ者とより強く繋がるということ自体が、相当にイカれていると思わない方がどうかしていると僕は思っている。

 権力と経済がしっかり腐敗臭を漂わせているのに、どうも人々は我々ケモノと違って鼻の利きが悪いらしく、あるいは自身の泣き言を遠吠えすることに必死で、何をどうしようともしていない。

 我々が選挙に出掛けたところで、直接、法律を変えることができるわけではない。
 これがもっとももどかしいところだ。
 内閣総理大臣やら与党やらが矢面に立たされてはいるが、所詮は一介の個人が、大規模な組成までを含んだ政治的ビジョンを仮に持ち得たとしても、一朝一夕にときの声を上げてその実現を可能にできるとは思えない。

 民主政治という学芸会の寸劇を、僕らは眺めてそこに民主政治があると幻想しているだけではないかと、僕はずっと疑っている。
 宝くじ協会の会長にも(僕は)なれないし、日本赤十字社の役員にも(僕は)なれないから余計にそう思う。


 ならせろ!
 






 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  :青猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Form-Kidding-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:
 
 
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