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 あなた任せ、政府任せが得意な日本人。任せてしまって自分で考えようとしないこと、つまり質問しなかったことで、国民は多大な損失を蒙っていることを、具体的に実例で示している。

 

 

【バブル崩壊後に住宅を購入した人々の悲哀】
 もし、あなたが、1991年から96年ぐらいまでに家やマンションを買っていたとしたら、毎日が吐息の日々のはずです。 (p.8)
 1989年にバブルが崩壊した後、政府が用意した住宅ローンや民間不動産が主催する 『住宅情報』 などの雑誌を見て、住宅を購入した人々およそ300万人は、資産価値がほぼ半分に下がったまま返済に追われる日々なのだという。
 「なぜここにきて政府は住宅金融公庫の融資枠を拡大したのか」
 「なぜ 『ゆとり返済』 などというローンをつくったのか」
 ローンの返済に35年もの勤労を捧げるなら、なぜ10時間程度自分の頭をひねってこういう分析をしないのか? というのが私の素朴な疑問です。
 こうした質問を繰り返して、自分なりに情報を分析していけば、次のような結論に到達していたはずです。
 「政府の狙いは、これ以上土地の価格が下がる前に業界と銀行に在庫を処分させて、彼らを救うことにある」 (p.25)
 その後の政府の政策を見ても、企業の負債に対しては公的資金を投入して救済しても、個人の資産価値半減によるいわば貸し倒れ状態に対しては何ら救済策を講じていない。個人の給与は上昇するどころか減少し、あるいはリストラに遭遇し、個人破産や自殺者の増大を放置している。

 

 

【ITは音楽に似ている】
 ITは音楽に似たところがあります。
 楽器は弾いて楽しみながら覚えてゆくものですが、ITも同じように、コンピュータを使いながら自然と覚えてゆくものです。
 ITはまた英語に近いところがあります。
 それ自体が重要というより、それを使うことで様々なことが可能になるという点。つまり道具なのです。道具の使い方は、実際に使わなければ身につきません。 (p.189)
 上述の意味合いでITと音楽に似たところがあるのはわかるけれども、聴覚を刺激するだけの音楽と、視覚情報が主体のITは、人間という生命体に対して及ぼす効果は全く違っている。ITが視覚のみならず五感すべてに関わるメディアへと成長発展してゆけば、音楽をも包摂したものになるのだろう。

 

 

【日本人には、何故 「質問する力」 がないのか】
 さて、最後に、本書のテーマである 「質問する力」 についてまとめておきましょう。
 ことの本質は日本人が論理的に強くないことにあります。もしも論理的に強ければ、欠けているところ、証明されていないところについて次々に質問が自然なかたちで出てくるはずだからです。
 この日本人の論理の弱さは集団行動する際に如実に出ているように思います。この集団における論理性の弱さは日本人古来のものと、最近の状況によるものと二つが複合して抜き差しならない状態に陥っているのです。
 日本人古来のものとしては、・・(中略)・・言霊の影響があるでしょう。論理(ロゴス・ロジス)よりも、言葉そのもののもつ語感とか情緒(パトス)を重要視する傾向は昔からありました。単一民族で阿吽の呼吸で十分にコミュニケーションできていた、ということもあるでしょう。
 しかし、今ここへきて・・・・・(後略)・・。
 最近の状況による論理性の弱さについて記述されている(後略)の部分には、戦後、高度経済成長が始まってから40年間ほど政府任せの集団護送方式でたまたまうまくいっていたことの弊害となって現れている、という概要で説明されている。

 

 

【日本人は 「質問する力」 を持つ必要があるのか?】
 論理力に秀で 「質問する力」 を持った大前さんは、日本の将来に渡る重要な問題点をこの書著の中でも他の著書の中でも幾つか指摘してくれている。それらの問題点を読んで、私自身、暗澹たる思いに囚われてしまうのだけれど、それらの問題点を、大前さんが提示するような、“日本人の 「質問する力」 を強化することで解決してゆく” ことには、結果的にならないような気がしている。
 論理は分別智の世界であり、日本民族の本来の特性はそこにはないからだ。大前さんのような論理力とは異なった才能、即ち直観力という才能をもった人々の多くは、地球の大きな方向性から、日本人の特性が活きる時代になるであろうことを予見している。
 大前さんが記述していたように、ITがメディアとしてもう少し進化してゆけば、ITと音楽の親和性は高まり、日本人の特性に反しないどころか日本人によってより精緻なものに仕上げられてゆくようになると考えられる。
 易経に “陰極まって陽に転ず。陽極まって陰に転ず” という言葉があるとおり、論理(ロゴス)と情緒(パトス)は、対極的でありながら、極まった段階で相互に転ずる段階を迎えることがありうる。現在の大時代的状況に即して言うならば、西洋の論理的知性が、日本の情緒的智性の優位性を認めるようになる、ということでもある。
 
<了>