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 大前さんは、仕事柄、世界中を駆け回ってきた人であることは百も承知だからこそこの本を手にとってみたのだけれど、大前さんの旅おたく的人生のルーツは、大学生時代に国内旅行の通訳ガイドをしていたこと以前の、小学生時代にあったらしいことを読んで、なるほどと思ってしまった。『人生の極意』はそのような記述の中にも見いだすことができる。
 経済的に余裕があり過ぎて、海外旅行しかすることがないような人は、この本を『旅の極意』=『稀なガイド本』と看做して情報を仕入れようとするんだろう。美食家さんたちが食いつきたくなるであろうような情報もたくさん書かれているけれど、チャンちゃんはそんなのには興味はない。2006年7月初版。

 

 

【無限の好奇心を持って、人と触れ合う旅】
 人との触れ合いも旅の大きな楽しみである。話しかけられるのを待っているのではなく、自分から声を掛けるのだ。無限の好奇心を持って、相手に色々な質問をする。これは人脈作りの基本でもある。語学に自信がなくても、身振り手振りを加えればコミュニケーションなどいくらでも取れる。若いバックパッカーたちは、外国での日常会話をイラストで表現しているような本を片手にどんどん旅行して、現地の人たちに果敢にアタックしている。(p.4)
 海外を巡っているBP(バクパッカー)は沢山いるけれど、無限の好奇心が、人との触れ合いに向いている人はそんなに多くないと思う。しかしながら、人との触れ合いがない旅というのは、確かに記憶に残らない。ということは、『旅の極意』 にも 『人生の極意』 にも通じていないことになるだろう。
 大前さんのような資質の人は、間違いなくビジネスでも成功できるだろう。そして“ビジネス=旅=人生”になっている感じである。もう、間違いなく“世界を股にかけたMAXの人生”。

 

 

【「アマルフィ海岸を見てから死ね!」】
「ナポリを見てから死ね!」という有名な言葉がある。この地の風光明媚を謳ったものだが、私に言わせれば、「アマルフィ海岸を見てから死ね!」。南イタリアの風景に感動したいなら、アマルフィ・ドライブをしなきゃ始まらない。(p.42-44)
 アマルフィ海岸のカラー写真が掲載されているけれど、本当に奇麗。
 ベスビオス火山の西にナポリ、南にポンペイがあるけれど、アマルフィ海岸は、ポンペイの更に南側15kmほどのところにある。
 ここを ―― 願わくはフェラーリ ―― で突っ走る。 (p.44)
 真っ赤なフェラーリで突っ走れば、確かに爽快かもしれない。しかし、グーグルマップのストリートビューを使えば、誰だってアマルフィー海岸を走って観ることはできる。(でも、ネット上で見ることができるこのビューは、曇りの日に撮影された画像なので、本に掲載されいる写真ほど奇麗じゃない)

 

 

【シリヤライン:幻想的な白夜のクルージング】
 フェリーと言っても、日本のそれと比べてはいけない。・・・中略・・・そんじょそこらの豪華客船に勝るとも劣らない船内で、たとえ一泊とはいえ、夢のような時間を過ごせることを保証しよう。(p.84-85)
 まず決めたいのは季節だが、私なら迷わず夏を選ぶ。6月から8月上旬は、北欧北部は白夜。ヘルシンキのような南部でも、この時期は日照時間が20時間近くになるので、太陽がほとんど沈んでいないような感覚に襲われる。そして、この時の船上からの風景がもう、たとえようもないほど美しく幻想的なのだ(地球上で最も美しいと言ってもいい!)。(p.85-86)
 大前さんのお薦めは、夕方にヘルシンキを出発し、オーランドを経由して翌朝ストックフォルムに着。これでないと美しいフィヨルドが見られないとある。

 

 

【ビーチドライブ】
 ノース・ストラッドブローグ島は、ゴールドコーストの北約30キロほどのところにある、世界で2番目に大きな、砂でできた島。・・・中略・・・。
 この島の東側に伸びる砂浜を、時速60キロ(制限速度!)でぶっ飛ばす。・・・中略・・・。「地球」そのものをイメージさせる絶景だ。
 障害物どころか車線すらなく、ただひたすら広い砂面を、潮風を全身に受けて、頭のなかを真っ白にして疾走する快感を知ってしまったら・・・。もう元の世界には戻れない。・・・中略・・・。
 気をつけるとしたら、時々すれ違う対向車にウィンカーを出して、自分がどちら側を走ろうとしているのかを知らせること。あとは、タイヤの空気をあまりパンパンにしておかない、ということくらいか。それさえクリアすれば、自分史上最高のドライブ経験ができることは100パーセント確実! (p.150-151)
 自分で運転する勇気がない人でも、ビーチドライブを兼ねたワンデイツアーはいっぱいあるだろう。オーストラリア西側のパースから尖塔岩のピナクルズまで、一般道ではなく四駆のビーチドライブで行くツアーもある。

 

 

【華厳、ナイアガラ、イグアス】
 添乗員のアルバイトをしていた頃、フロリダのテレビ会社の社長を日光の華厳の滝に案内したことがあった。「これが日本で一番美しい滝のひとつです」と得意げに説明する私に彼はひとこと、「へえ、でもオレんちのシャワーより小さいぞ」。 (p.172)
 かつてこの地を訪れたルーズベルト元アメリカ大統領の妻は、イグアスを見て「かわいそうな私のナイアガラ」と言ったらしいが、実に正しい感想と言えるだろう。(p.173)
 イグアスの滝はテレビで何度も見る機会はあるけれど、そのド迫力は現地に行かないことには体験できないのは分かっている。大前さんのお薦めは、ブラジル側とアルゼンチン側の両側から見て、かつクルーズすることらしい。
 なんとなく、エンジンが止まってしまえばもろとも滝壺に落っこちてしまう、という恐怖に襲われるのだが、あまりそういう事故はないという。(p.175)
 “あまりない”ということは、“時にはある”か“過去にあった”ということだろう。
 それでも、ビビらない人は、イグアスの滝でクルーズを「ドォ~~~ゾ」。

 

 

【北海道“ステーションホテル”旅行】
 周遊券さえあれば、道内の汽車や国鉄バスは乗り放題だった。宿泊代まで捻出する余裕はなかったので、夜は駅で寝た。夏だったので寝袋もいらず、これが意外とよく眠れる。陽が昇れば駅の便所で顔を洗って、また次の場所へと出かけていく。極私的“ステーションホテル”はなかなか快適だった。
 汽車に乗って夜を明かすことも多かった。旭川の上川あたりから稚内や網走まで行って戻ってくると、これがちょうどいい時間配分。一晩車中で過ごして翌日の朝には再び上川へ戻り、そこからまた行きたい場所へと向かって行く。最果ての稚内や網走には用もないのに何度足を運んだかわからない。(p.75)
 今はもう、北海道周遊券はなくなってしまったらしいけれど、チャンちゃんの大学生時代も北海道周遊券はあった。ユースホステルでの宿泊は最小限にして、あとは大前さんと同じことをやっていたのである。そういう連中はたくさんいただろう。
 本土内の乗車地から北海道までの往復は急行に乗れて、北海道内乗り放題のこの周遊券の有効期間は20日間だったので、ユースホステルで同じところから来て、有効期間を残して早く帰る人がいると、周遊券を交換してもらって23日間、お金がなくなるまで、ろくに食べもせず、北海道をプラプラしていたのである。
 でも、大前さんは、チャンちゃんなんかより遥かにウワテである。
 立ち食いそばやパンなどロクなものは食べていなかったが、上川を最後にまったく飯を食わない日が続いていた。(p.78)
 高校時代に親や先生に反抗してハンストをした経験が役立ったとか。

 

 

【やりたい時がすべき時】
 で、まだ先がある。大前さんの時代には北海道周遊券に十和田湖周遊券がセットになっていたという。道内ですでに所持金は70円。フイルムを使いきっていたから十和田湖を周遊した時60円の絵ハガキを買い、残り10円で都内まで帰還したと書かれている。
 私は、やりたいことを溜めないし、延ばさないのだ。やりたい時がすべき時と判断し、いま見たい、やりたいと思えば、いまのいま、実行に移す。
 だから、十和田湖を見たいと思った時が旬なのだ。この場合。所持金の少なさは青森へ行くことを先延ばしにする理由にはならなかった。(p.77)
 お金なんて、最小限あれば、いくらでもなんとかなる。この肉体は、数日程度食べなくたって死がないどころか反って健康になるようにできている。
 チャンちゃんはいい年カックラッテ、今でも「青春18切符」などを使って、格安の旅をしている。その例をリンク。
   《参照》   広島 「平和祈念公園・原爆ドーム」 
 単なる味覚を満たすために、添加物や放射能タップリな食費に、毎日テンコ盛りお金を注ぎ込んでいる愚か者は、そこを抜本的に改善する気さえあるなら、チャンちゃんのような旅などいくらでもできるはずである。

 

 

【記録魔の勧め】
 みなさんは、日記など自分について何かを定期的に記録する、ということをやったことがあるだろうか。あるいは、現在やっているだろうか。私は、こと旅に関しては、記録をつけることをお勧めしたい。
 もともと記録魔の私は、小学校6年生のひとり旅でも毎日絵日記をつけていた。中学から大学までは、その日聴いた曲の演奏者や感想を記す「音楽日記」を欠かさずにつけていた。自分の考えたこと、感じたことを大学ノートに延々と書き連ねることも習慣としていた。
 『古事記』について、神について、ドストエフスキーにみる『罪と罰』の考察、つまり人間の原罪は存在するか否か・・・。壮大なテーマはやがてある特定の女性に対する恋愛感情の吐露にすり替わっていった。
 若き懊悩を綴ったノートは留学の際、自宅の庭に埋めてしまったが。だが、自分の思考や感情を文字に残す作業は無駄ではなかった。表現という形で発散することで精神的にも安定したし、いい頭のトレーニングにもなった。(p.143-14)
 そう、「書く」と言う作業は必然的に自分で「考える」作業を伴うものだから、これを継続していると、世界と自分との位置関係がそれなりに明確になってくるものなのだし、あやふやなリにも、いずれ回答に連なる何者かを何らかの形で残すことにもなっている。
 これは書くという作業を継続した人でなければ実感できない。チャンちゃんの場合は、ダラダラなりにこの読書記録を現時点までほぼ9年近く続けてきたから、大前さんが書いていることがよく分かる。
   《参照》   『「知の衰退」からいかに脱出するか?』 大前研一 (光文社) 《中編》
             【1読んだら5考えよ】
   《参照》   『ホテルアジアの眠れない夜』 蔵前仁一 (凱風社)
             【旅のよさを実現するもの】

 

 

【条件としての宿題】
 1954年(昭和29年)、小学校6年生の夏休み、私は横浜から、祖父母が住んでいた北九州の門司まで、汽車で生まれて始めてのひとり旅をした。(p.66)
 この時、願いを聞いた父親に、二つの宿題を出されたことが書かれている。
 ひとつ目は、横浜から門司まで、急行が停車する駅名をすべてソラで言えるようになること。ふたつ目は、・・・中略・・・、山や川などの駅周辺の地理的なこと、神社仏閣、お城などの名所旧跡、果ては工場の場所なども調べ、それらが車窓からどんなふうに見えるのか、ちゃんと説明できるようにすること。もちろん、汽車の進行方向から見て左右どちらにあるのか、位置も正確に把握しろというものだった。(p.67)
 小学6年生に、こんな宿題を出す方も出す方だけれど、それをやり遂げようと頑張ってやり遂げてしまう方も尋常ではない。「さすが・・・」というべき大前親子。
 これって、子育てにおける“最善手”のような気がする。願いがあれば、すぐに無条件でお金を出して、あげてしまうのは“最悪手”である。

 

 

【名添乗員】
 JTB会長の舩山龍二さんが「あとがき」に書いていること。
 いまと違ってかなりスマートだった大前さんは、当時まだ早稲田大学の学生だった。史上最年少で通訳案内士の資格を取った後、我々と契約を結んでいたが、爽やかで礼儀正しい好青年は、社内でもあっという間に広く知られる存在になっていた。
 だがそれ以上に、弱冠20歳の大前さんが有名になった理由は、添乗員としての能力が抜きんでていたからにほかならない。一度、大前さんに添乗してもらった世界各国の旅行者からは、「“ケン”のガイドは本当に素晴らしかった」と、大げさでなく、続々と礼状が届く。彼は学生である以前に、名添乗員だった。
 その活躍ぶりについては、添乗員時代の思い出として本書にも書かれているが、彼の人気は本当にすごかった。私たちの月収が1万5000円~1万6000円だった頃、大前さんは一週間のツアーをこなしただけで軽く倍以上の金額を稼いていた。旅の終わりに、空港に向かうバスのなかで有志が帽子を回せば、あっという間にチップでいっぱいになってしまう。帰国後「一度ぜひこちらにも遊びに来てくれ」と、往復の航空券を送って来る客もいた。(p.188-189)
 大前さんが名添乗員になれたのは、顧客満足のために様々なことを実践していたからこそなのだけれど、この時の経験と具体例が、最初の14~33ページにかけて書かれている。これを読むと、後の大前さんのビジネスマンとしての成功の前駆的経験になっていたことがよくわかる。
 だから、この本は、経済的に余裕のある旅の上級者であるオッサンやオバサンたちが読むより、まだどこにも行ったことがない若者たちが読んだ方が、大いに役立つ内容に満ちているといえる。

 

 

<了>