《前編》 より

 

 

【1読んだら5考えよ】
 そこで私は、次のようなことを言っている。
「本を読むのに必要とした時間を1とすれば、5ぐらいの時間を『何が書いてあったか』『それは自分にとってどういう意味があったのか』『自分の会社にとって・・・』『われわれの社会にとって・・・』、そういうことを考える時間に充てなさい」
 次の本を読むよりも、その本について徹底的に考えることが大事なのである。これは、検索より、そこで得たものについてどう考えるか、どう活用していくかということと同じだ。 (p.210)
 仮に知っていることが多くても、それらが体系化された考えに組み込まれていないとしたら、単なる知識というだけであって価値を生み出せない。それだけのことならPCに代用可能であるし、PCの方がはるかに勝っている。日本の教育って、知識偏重で考える習慣をつけ考えることを重視する訓練をしてこなかったから、このグローバル化した史上前例のない時代に到って、多くの国民は思考停止状態に陥ってしまっている。
 これから先の時代に「答えはない」。「答えのない問い」を考えようとしなくなった人間は、世界の動きから離れて孤立するしかなくなってしまう。

 

 

【読書集団の「集団知」】
 本で得たもの。ネットで得たもの、そしてディスカッションで得たものがいっしょになることによって、こうした読書集団の「集団知」はどんどん高くなる。(p.211)
 およそ地方公務員の庁舎内を見ていると、何もすることもなく、出勤すらしていない空席すらよく見かけるけれど、そんな遊んでいるだけの公務員に、勤務時間中に本を読み記録を残すことを業務命令として指示すれば、たちどころに優れた読書集団の「集団知」が形成できるはずである。公務員の誰もが、チャンちゃんと同じ量の読書記録を残せるはずである。ところが地方公務員というのは、寝て起きて食べてひってさぼってズルして税金に寄生するだけの典型的な「知の衰退」集団だから、行政が何一つ良くならない。

 

 

【サイバーテロを行う人物の知性】
 大前さんは、サイバーテロを行う人々に直接会って話したという。わりと素直に話を聞いてくれる人が多かったそうである。ところが、
 彼らの多くは反論に慣れていない。だから、みんなで議論して答えを探し、新しい知をつくり上げていく感覚がわからない。この感覚がないから、自分の意見に少しでも反論する者がいると非常に攻撃的になる。相手の顔が見えないから怖いものなしである、敵愾心が知に勝ってしまうのである。(p.219)
 知というのは、反論されたらそれを乗り越えるように再構築・再創造してゆくからこそ優れた知性になるのだけれど、それが攻撃・破壊に直結してしまうのではベクトルが真反対である。

 

 

【「集団知」形成の最適メディア】
 やはり「集団知」をうまく使おうとするなら、ネット以上に優れたメディアはないということもまた事実である。 ・・・(中略)・・・ 。これはすごい世界であり、人知の本来あるべき姿だと思う。なぜなら、ここでは「誰が言ったか」ではなくて、「何を言ったか」が重要だからだ。実際、発言者の性別や年齢、役職などがわからないことがほとんどなのだから。(p.226)
 リアルな空間なら、発言者の肩書きや属性によって判断が影響されてしまうので、個々の参加者にとって考えることの魅力も意味もなくなってしまう。自己紹介をするのに、名前よりも先に地位や肩書を語りだすオジサンがいるものだけれど、もうそれだけで完全にマイナス存在であると判断していいだろう。そういう人は単なる肩書きや名誉や権力を志向しているだけの塊で「知の価値」を理解していないから、ネットを活用しようとするちょっとユニークな人材であるというだけで彼らを排除するために取り巻きに対して事実無根の中傷情報を流すくらいのことを平気でするのである。発展しようもない地方都市には、こういうオジサンたちがいるのである。
   《参照》   『ウェブ人間論』 梅田望夫・平野啓一郎 (新潮社) 《後編》
             【シリコンバレーが生む元気の源泉】

 匿名性や、ネット空間自体には様々な長短が付随するものだけれど、短所ばかりをあげつらっていたり長所を生かす術をしらないような人々は、時代の足を引っ張っている。長所を活かそうとする人々こそが時代を先導するフューチャリストとなりうるのである。
   《参照》   『フューチャリスト宣言』 梅田望夫・茂木健一郎 (ちくま新書) 《後編》
             【インターネットが秘めているメッセージ:生命原理】
 ブラジルのサッカー少年が世界のサッカーをリードしているように、日本のゲーム・キッズが世界のゲームをリードし2兆円産業を支えているのだ。しかし、ネット世界の負の側面しかみない大人やメディアたちは、彼らを単に “アキバ・キッズ” などと呼び、世界の見方を歪めてしまう。(p.229)