《中編》 より

 

 

【現代の日本人に必要なのは】
 現代の日本人に必要なものは、このような学力ではない。何より大事なのは “自分で考える力” “考えたことを実行する勇気”そして“結果が出るまで続ける執念” である。
 したがって、「自分はこれをやりたい」「自分の人生をどうしたい」といった願望を学生から引き出す教育がどうしても必要だ。 ・・・(中略)・・・ 
 ところが、文科省の「ゆとり教育」の見直しには、このような視点がまったくない。(p.258)
 後半に書かれている願望を引き出すというテーマは、自己啓発系の著作が扱っているテーマでもあるけれど、この系統の読者は、結構迷宮に入り込んでいるケースが多いのではないだろうか。そもそも自分の願望がわかっている人は自己啓発系の図書なんて読まないはずだし、自己啓発系に著作に触れて願望らしきものを仮に掴みかけた人であっても、願望に見合った現実に存在する仕事の具体例を知らないままであり、それを提示してくれる人とていないのである。
 現代の具体的な世界情勢や、それに則した将来有望な職業は、世界中を飛び回っている大前さんのような人ならヒントとしていろいろ語りうるだろうけれど、そもそもからして平均的な日本人の願望が外向きになっているかどうかが問題である。また、自分の専門教科の本程度しか読んでいないような普通の先生が、人生の選択に関する具体的なヒントを提示するという作業は難しい、というか無理だろう。だからありふれた抽象論で教育を語ることになってしまう。
 大前さんが危惧する「知の衰退」とは、「内向きになりやすいメンタルを外向きに変えなきゃだめだよ」ということでもあろう。これって「内向的な精神構造」の日本語を話すだけの日本人には本質的にシンドイ要求であるし、欲望が低下している現代の日本の若者にとってはなおさらである。
 大前さんが世界を生き抜く上で必要な「三種の神器」としてあげているものの中に「英語」が入っているけれど、これは国際的なコミュニケーションに不可欠な道具だからという点以外に、日本語民族に不足する「外向的な精神構造を養う」という隠れた意義があるはずである。(だからといって、英語教育の早期化には断固反対である。日本人の特性を潰してしまうからである)
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編>
             ■ 音読みの日本語 vs 訓読みの日本語 ■
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <後編>
             ■ 音と質の日本語 vs 意味と量の外国語 ■

 

 

【「勝ち組」と今の日本社会】
 熟練工のように受験テクニックばかりに優れ、考えない人間が、有名大学にも選ばれ一流官庁や大企業にも選ばれる。偏差値の高い人間が、結局は社会の「勝ち組」となる。
 しかし、このような「勝ち組」は新しい問題、答えのない世界に立ち向かっていく能力が優れているわけではない。誰にもわからない問題に対してアプローチから始めるという能力があるわけではない。いきおい問題を先延ばしして、いつまでも昔のやり方の微調整を繰り返すことになる。こうして形成されたのが今の日本社会なのである。(p.259)
 「偏差値教育」や「○×教育」は答えのある問題を解く教育だから、これによって「勝ち組」となった人々が国や組織の先頭に立っても、21世紀という答えのない時代を先導する役割を担えない、と言っている。
   《参照》   『私はこうして発想する』 大前研一 (文芸春秋)
             【デンマークの教育 : Teach から Learn へ】

 

 

【ケータイ世代】
 ここで見落としてはならないのは、ケータイとパソコンとは違うということだ。
 日本のケータイというのは世界と互換性のないGMS方式であり、日本だけで独自に高機能化したものだから、そのサイバー世界は広いようでじつはとてつもなく狭い。したがって、この世代はどの世代よりも世界観が狭いとも言えるのだ。(p.266)
 日本のケータイは突出して高機能だけれど、世界とつながっていない。ガラパゴス・ケータイと言われている由である。ケータイ世代とは、物欲がなくケータイだけあればいいという世代であり、ニートやフリーターの多い世代だから、海外を自分の足で歩いているバックパッカーはそれほど多くない。
 行動範囲も情報範囲も国内のみ。世界観が狭いというのは致命的である。
 そこで、考え得る一策。
 今も教育費は公的援助だけで年間70万円くらいになる。しかし、70万円出せば中国でもタイでも生徒を1年間預かってくれる。他流試合に出したほうが安上がりで、しかも精神的にも肉体的にも強い子が育つだろう。(p.288)
 問題を先送りにしたり丸投げしちゃって考えないのが大得意な日本人だから、いっそのこと、若者の教育も海外に丸投げしちゃえば・・という策である。これは効果が有るだろう。

 

 

【お上の教育】
 年金問題、財政赤字など国家そのものが信用できない時代に、“お上” である文科省に子供の教育をまかせっきりにできること自体、私に言わせれば、親として無責任である。この時代、ただ学校に行かせるだけで、子供がちゃんと育つわけがない。 ・・・(中略)・・・ 。
 その一方で、「子供を学芸会の主役にしろ」だの「子供と相性が悪いから担任を変えてほしい」だのと、やたらと権利とも言えない権利ばかりを主張する“モンスター・ペアレント”が増殖している現状にはあきれるばかりだ。 (p.302)
 お上もいいかげんなら、親もモンスター。内外ともに鳶の世界から鷹は生まれない。
 反面教育、反面親として自覚的に学べば、相当に出来た子供が育つことだろう。
 あなたがもしお子さんをお持ちなら、遅々として進まない教育改革などあてにせず、ご自身の力でお子さんの地頭を鍛えて欲しい。(p.316)

 

 

【これからの時代の教養とは?】
 私が若い頃は、ヨーロッパでもアメリカでも、社交的な会話の中には、必ず「文学」や「音楽」が飛び出した。だから、文豪や聖楽の作品に親しんでいれば、話題に困ることはなかった。
 その点で、日本の大学の一般教養課程はそれなりに役立ったといえるだろう。しかし、最近では「文学」や「音楽」は、さほど話題にならないのだ。(p.403)
 じゃあ何が話題なのかと言うと、
 「あなたは、近年の環境問題とその対策について、どう思うか?」
 「アフリカのエイズの人たちのために、あなたは最近なにをしたか?」
 ・・・(中略)・・・ つまり、いま共有すべきは、かつて古典として幅広く通用したものではなく、煎じつめれば、「地球市民として具体的にどのように考え、どのようなアクションを起こしているか?」という意識なのだ。(p.405)
 グローバル化に伴って、世界市民として Politically Correct という意識が高まっているということだろう。
   《参照》   『「レクサス」が一番になった理由』 ボブ・スリーヴァ 小学館
             ● PCとはパソコンのことではない
 若い人々は「価値観としての地球人」の中で育ってきているのがよくわかる。つまり、「(日本人の)彼の頭の中にあるのは利益追求のみだ」と思われてはならないということである。
 教養人というのが人々の尊敬を集められたのは、昔は、一般人の知らない世界に精通していたり、高い趣味を持っていたりしたからだった。だから、文学や音楽がそれなりの意味を持っていた。しかし、いまはそれ以上に、社会貢献や環境問題が重要なのだ。(p.409)
 ノオブレス・オブリージェとしての考えと行動が教養人のありかたであることに加えて、最新のテクノロジーに関する知識と考え方も、多く話題になるという。

 

 

【知識の量ではなく思考の深さ】
 世界のリーダーたちが古典的教養から遠ざかるようになったのは、知識としての教養が意味を持たなくなったからである。(p.419)
 インターネットによる情報革命は、時の流れを加速したことによって古典世界がもつ時の流れと合わなくなってしまったのであり、検索の容易さは知識の価値を暴落させたのである。
 Google のよさというのは、3時間もあれば、そのテーマについて信じられないぐらい深く知ることができることだ。つまり、これからの勝負は思考の深さで決まるのであって、知識の量の問題ではない。(p.419)
 多くの時間を費やして身につけていた知識は、高度な文明社会に移行して行けば、検索に依るのではなく、コンピュータから脳へと瞬時にインストールされるようになるだろう。そうして得た知識を活用して、人類はさらに世界に貢献すべく創造的なことに時間を使うようにすべきなのである。
   《参照》   『プレアデス星訪問記』 上平剛史 (たま出版) 《後編》
             【知識はレコーディングマシンで脳に記憶】

 

 

【ポルトガル現象】
 ポルトガルの歴史を要約すれば、大航海時代の主役になり世界帝国になったはいいが、いったん衰退がはじまると、「仕方がないさ」と、さっさと世界史の表舞台から降りてしまった。そして、ずっと昔の栄華を偲びながら、それを拠り所にして貧しく生きてきた。(p.434)
 「21世紀の教養とは、サイバー社会も含めた最新の情報に基づいた “考える力” である」と言っている大前さんは、日本人が今それを身につけないなら、「ボルトガルと同じになっちゃうよ」と言っている。確かに、現状のまま推移するなら、有りうる未来の一つだろう。
 ポルトガルをひとりで旅して巡っているという御嬢さんに聞いた話では、ポルトガルの田舎の小さなお店で50ユーロのお札を出すと、「こんな大きいお金では、お釣りが出せない」と言うそうである。50ユーロは日本円にして5000円である。現在のポルトガルがどれほどこじんまりとした経済状況かは、この話から容易に分かるだろう。
 成功より幸福を優先するのであれば、ポルトガル現象も決して悪くはないと思うけれど、日本は世界の雛型であり範を示すべき国だから、直ちにそんな風になるわけにもいかない。どんな風になるのか、これから先10年間くらいの日本の推移はみものである。

 

 

<了>