✞ 風かおる丘で ~カトリック浅草教会・上野教会 入門講座ブログ~ ✞
  • 25May
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。主日のミサ 動画配信聖霊降臨司式:菊地大司教→ 5月31日10時~祈りの輪のロザリオ(広島教区)→ 5月29日19時~(ライブ配信最終回だそうです。この「祈りの輪のロザリオ」と東京教区の「ロザリオの祈りの夕べ」は素晴らしい恵みの時間でした。ありがとうございます)晴佐久神父&片柳神父のオンライン対談@「Net de ASF2020」コロナ禍の終息が見えないいま、不安を抱えている私たちへ、どう生きたらいいのか。カトリックを越えて人々の心をつかむお二人から強く語っていただきます。(フライヤーより)5月31日(日)15時~16時→ 『Net de ASF 2020』HP以前のお話『 「神の愛」と、その愛のあらわれである「イエス・キリスト」そのイエスは、目の前に触れるかたちではもういないわけですから、イエスは、弟子を私たちに残してくれたわけですよね。「教会」です。「キリスト者」です。「キリスト者の集い」です。聖なる霊は、天の父からあふれてきて、イエス・キリストを満たして、そこからあふれて、すべての人に及ぶ。パウロは言いました、「あなたたちは、聖霊の神殿なんだ」(cf.一コリ3・16)「あなたたち」って言っているのは、まずはキリスト者ですね。パウロはそのキリスト者たちを、弟子の弟子を育てたわけですけど、その人たちがまた内輪争いになっちゃったり、最初の感動を忘れかけたりしているときに、手紙を書いたわけだ。「あなたたちは知らないのか。もう、聖霊の神殿なんだ」イエスは、神の愛の、最高のしるしとして、自分の身を捧げて、十字架上で身代わりになって死にました。そして「復活の主」として、すべての人のうちに宿れるようになった。そうでなければ、「キリスト者」とは呼べないわけですけれど、そんなふうに、イエスが十字架上で死んで、そして一斉に、キリスト者たちのうちに復活して、今も、生きている。キリストの教会。今日もミサのあと、一人の人と握手しましたけど、年末に現れた、その彼は、病院に入院していて苦しんでいる。外出許可をもらって、やって来て、教会を見つけて、ミサをやっている時に入って来た。見慣れないから話しかけて、「福音をお話ししますから、ぜひ、また外出許可をとって来てください」って。その彼が、今日もミサに来てくれたんですよ。そういう彼を見ると、説教の内容もちょっと変わるんですよね。「怒涛のごとく、聖霊が宿っている。だいじょうぶなんだ。それに気づいてほしい」ミサのあとで、彼が「今度また、まいります」って言ってね。わざわざ外出許可をとって来るっていうのは、よほど求めているというか、あるいは神に導かれているというか、まさに聖霊の働きだと思うんですけど、私、「だいじょうぶだよ。信じて、希望をもって、また話を聞きにきてね」って、握手したんです。ぎゅっと握った。ぼくが手を離したあと、なんかちょっと、手をまだ少し引き切らないとき、彼の手がもう一回、伸びてきたんですよね。それでもう一回、握手した。なんかね、せつないというか、うれしいというか、そういう気持ちでしたけど、その彼と私が握手している、これ・・・、もうわかりますよね?神が、キリストを通して、そしてキリストの弟子を通して、手を握っているわけですよね。神、神の子イエス・キリスト、そして神とイエス・キリストから溢れてくる聖なる霊。この3つが1つにつながって、今、この日にも、病院にいる神の子のところに手が伸びてきて、触れているんです。現実ですよ。つい、さっきの話です。これが、キリスト教の真髄です。それ以上でも、それ以下でもない。言葉で、態度で、実際の行動で。それは、この世界を救う、最高の方法です。世の中は、科学だ、テクノロジーだ、経済だ、金だ、政治だ、権力だ、マスコミだ、情報だ、そんなことが中心だって思っているかもしれないけど、キリスト教の真髄は、目の前の人との触れ合い、ここにある。そういう真髄をもって、生きていられるっていうこと。これからの時代にあっては、本当に、なんかこう・・・、誇り高く、生きていくことができますよ。周りが何を言おうとも、世の中がどうなろうとも、災害があったり、いろんなことがあるでしょう。いやな思いもするでしょう。そんなこと、恐れてる必要、ないです。人はやがて、天に召される。その天に召されるまでの間に、イエス・キリストに出会って、そのキリストと共に、もうひとりの誰かとつながることができたら、そこが「神の国」だっていう、そういう人生を生きていられるっていうことの喜びは、ぜひ知ってほしいなと思います。』まだまだ大変な状況が続きそうですが、一番大切なものを見失わないでいられる恵みを願いたいと思います。Lydia

  • 22May
    • 望みえないときになお望むの画像

      望みえないときになお望む

      今日はカッシアの聖リタの日です。彼女は、「望みのないときの助け手」「絶望的な状況にある人の守護者」と言われています。だから希望のお話を☆以前のお話『 イエス・キリストは、今、目の前で、私の隣で、私のなかに宿って、「共にいる」。その、キリスト。具体的な、ひとりの人として確かにあらわれた、そのキリスト。この前読まれた福音書の箇所(マルコ1・40-45)は、重い皮膚病を患っておられる方が、イエスさまが通りかかったときに、跪いて、「あなたは、私を癒すことができます。清くおできになります」と必死に願うシーンでしたね。ご存じのとおり、当時、重い皮膚病を患っている人たち、結構いたわけですけど、その人たち、街の外に追い出されて、人間関係も断たれてるわけですね。人と接することができない、この孤独、この絶望は、イメージしてみたらわかると思います。誰も近寄ってこない。家族からも見捨てられている。しかも霊的にも断たれる。律法学者から、「罪の結果だ」「神から見捨てられたんだ」と。神からも断たれる。その絶望。想像したら、わかりますよね。「ベン・ハー」って映画に、そういうシーンがありますよね。皮膚病の方は、鈴つけられてる。音を聞いたら、みんな、逃げる。そんな状況ですよ。そこに、イエスという、ひとりの人が通りかかる。この病んでいる人、イエスとの出会いを、一世一代、千載一遇、「ここをおいて他にない」チャンスと思って、必死に近寄って、跪いて、「救ってください。助けてください」って願った。すると、「イエスが、深~く憐れんだ」って、聖書に書いてある。(cf.マルコ1・41)「なんて、かわいそうなんだろう」深く憐れんで、手を伸ばして、その人に触れって書いてある。これはね、見てた人、びっくりした。「イエス、近づいたぞ。・・・手、伸ばしたぞ。・・・!! おい、触ってるよ!」って話なんですよね。「よろしい。だいじょうぶだ。清くなれ」そう言ったら、治っちゃった。その「治った」ということもね、神の愛の「しるし」だからいいんだけど、それは、目的じゃないんです。治るのは、目的じゃない。また、別の病気になるかもしれないし、病気が治ったって、いろんな悩みがあるかもしれない。「私を癒してください。清めてください」っていう、その願いは、まずは病気のことなんだけど、それと同時に、「みんなとのかかわりを、もう一回もたせてください」「神とのつながりを、もう一度取り戻させてください」「そして本当に、私が生きる喜び、私の生きる意味、そういうものを私に味わわせてください」全部、ひっくるめてなんですよね。そこに、イエスは答えている。その「しるし」が、体が治ってるって話であって、極端な話、体が治らなくても、そのような信仰、気づきによって、天国を味わうことは、できるんです。人は、できます。私、そういうケース、知ってますよ。彼は、私が洗礼を授けて、すぐその病気になって、死んじゃったんだけれども、その彼のところに何度もお見舞いに行った。その苦しみたるや、大変ですよ。だけど彼は、「福音を語ってもらって、私は、信じました」「私は洗礼を授けてもらって、思い残すことはありません」「私は今、こんな状態だけど、人生で一番幸せです。心に安らぎがあります」そういうこと、ありうるんですよ。別に、不思議な話じゃない。キリストに触れた者には、そういうこともありうる。イエス・キリストの手が伸びて、触れて、「よろしい。だいじょうぶ。清くなれ」って言ったとき、何が起こったんですか?神が触れてくれたんです。神の愛を知ったとき。それは、ずっと、来てたんですよ?でもそれに、気づいていない。イエスさまが、深く憐れんだっていうのは、そこなんですね。イエスさまは、神さまの憐れみ、そのものなんです。イエスが伸ばした手は、神の手ですよね。ひとりの生身の、生きた人として、人に関わって、触れる。その触れられた瞬間が天国の始まりですし、この世界が存在することの意味ですし、神の愛が、ひとりの人「イエス・キリスト」としてこの世にあらわれて、人々に触れている現場。ここが、「神の国」ってことでもあります。』この前の日曜日の福音は、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14・18) のところでしたね♪聖霊降臨祭が、打ち砕かれた希望が復活するシンボルになりますように。Lydia

  • 18May
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。主日のミサ 動画配信主の昇天司式:菊地大司教→ 5月24日10時~祈りの輪のロザリオ(広島司教区)→ 5月22日19時~(前日までに、広島司教区HPに祈りのシナリオがUPされると思います)新型コロナウイルスに関することでお困りの方のために→ カトリック東京大司教区HP(さまざまな情報を得るためのサイトがまとめられています)カトリック東京国際センター(CTIC)より緊急食糧支援のお知らせ→ カトリック東京大司教区HP「一杯の愛のお米プロジェクト」へ寄付のお願い→ イエズス会社会司牧センターHP(福音家族「タンタム会」「サンタ会」のベトナムの若者たちも含めて、コロナ禍で困窮している方たちのために、以前浅草&上野教会で助祭としてご奉仕されていたニャー神父が立ち上げたプロジェクトです)以前のお話『人の愛じゃなくて、その愛の源である、一方的な、圧倒的な、神の純粋な「愛」のこと。太陽のようなね。こっちが受けとめる、受けとめないに関係なく、なんら見返りを求めない「愛」を注ぎ続けている。神の愛という、途轍もない、一方的で、平等で、すべての人に及んでいる、その「愛」を我々が受けている状態。いつも、そこから始まるんです、パウロが言ったように。「万物は、神から、神によって、神へ」(cf.ローマ11・36)忘れがちなんですけどね。まず、神の愛に立ち戻る。それを理解できようと、できまいと、それを徹底して信じる。その神の愛。「どうやって、知ることができるの?」「どうやって、受けとめることができるの?」いろんな罪だの、なんだのに覆われて、穴ひとつ開かない、扉ひとつ開かない。絶望して、苦しんでいる、こんな私。「いくら神が愛だって言ったって・・・」そんなこと、神はよくわかっているので、ご自分の愛を、私たちみんなにあらわしてくださった。それを、我々は「イエス・キリスト」と呼んで、信じてます。神の愛が、ひとりの人としてこの世界に現れた。人格的に人と関わって、私たちはそれに触れることで、神の愛に触れることができる。説教や講座で話しているのは、神父が愛にあふれて何かしているとか、そんな話じゃない。神の愛の「あらわれ」なんですよ。みなさんが信じるならば。イエス・キリストがその大元であるし、イエス・キリストとつながっているキリスト者は、みんな、そうだし、とても人格的なんです。イエス・キリストが、「神であり、人である」方として、神さまの愛の、純粋に完全なるあらわれとして、この世界に、確かにおられた。本当に完全なる、純粋で、透明な、美しい、ひとりの人として、人類の完成形のように、この世にあらわれて、神さまの愛の目に見えるしるしとなった。・・・ということを、ぼくらは信じてます。美しい宗教だと思いますよ。なんかこう、天使みたいに来たって話じゃないんですよ。ぼくらとおんなじ、ひとりの人でありながら、完全にその神の愛を受けとめて、完全にその神の愛をあらわせる存在になって、それも、天に召されてからじゃない。このドロドロの世の中にありながら、それができた。それをあらわした。ぼくらは、それを信じているんですね。罪と悪とまさに呪いに満ち満ちているような、こんな世の中で、けがれのない、美しい、完全さをもって生きておられる。「神の愛のあらわれ」となっておられる、その方。まさに、救い主。その方と、つながれるんだ。その方と出会って、その方に愛されているんだ。その方を目標とし、やがてその方とおんなじようになっていけるんだ。そういう方として、イエス・キリストが確かにおられた。我々は、それを信じます。』アーメン。主に出会えて、本当に良かったLydia

  • 15May
    • ゆるぐことのないよりどころの画像

      ゆるぐことのないよりどころ

      「聖霊降臨」の様子を描いた絵を前に、始まったお話です。『 聖母マリアを囲んで、弟子たちが集まっている。上から注がれているのが聖霊の炎ですけども、聖霊が注がれて、この弟子たちは全世界に散っていく。その聖霊の大元はイエスであり、神ですね。何が注がれているかっていうと、「イエスの遺伝子」っていう言い方を一昨日からしているんだけど・・・。遺伝子って言ったらおかしいかもしれないけど、遺伝子って、その人を表す、「すべて」じゃないですか。その人を定めているというか。その遺伝子さえあれば、どこにでも適応して、そこで発動するわけですよね。遺伝子が同じだったら、寒い地方では赤い実が実って、暑い地方では青い実が実ったとしても、違う植物だと思いきや・・・アジサイだって、ほら、アルカリ性の土壌だとピンク色になって、酸性のところでは青くなる。こっちは、赤い花、こっちは青い花で、違う花だろうっていうのは、愚かなんですよね。同じ花じゃないですか。その、目に見えるところでね、判断せず、その本質が大事だってことですね。聖霊降臨で、その「本質」がすべての弟子に注がれて、だから弟子たちは、あらゆる文化、あらゆる出来事の中で、キリスト教の本質である、「神は愛」とか、「みんな神の子」だとか、民族は関係ない普遍主義だってことを伝えに、すべての人を救うために、みんな、世界中に散っていった。』どんなに違って見えても、みんな神の子。不法がはびこって、多くの人の愛が冷えても、聖霊の炎が消えることはないと信じます。Lydia

  • 12May
    • 晴佐久神父より NO.3(5月10日)の画像

      晴佐久神父より NO.3(5月10日)

      信徒の皆さんへ第三信 主任司祭 晴佐久昌英 先月ご復活祭のご挨拶を申し上げてから、早ひと月が過ぎました。いまだ緊急事態宣言の続く中、それぞれに不自由な日々を過ごしておられることと思います。体調はいかがでしょうか。心の状態はどうでしょうか。先の見えない不安な気持ちと、寂しい思いを抱えているであろう信徒の皆さんに、改めて福音的な励ましのお便りを差し上げたいと思います。 今日、復活節第5主日の福音朗読は、イエス様の力強い励ましの言葉で始まります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14・1) このような社会状況にあって心を騒がせてしまうのは、ある意味仕方のないことかもしれません。しかし、キリスト者である私たちは、神の愛を信じ、イエスの力を信じて、だれにもまして希望を持つ仲間でなければなりません。離れていても心をひとつにして、すべてを良いものに変えてくださるお方を信じましょう。第2朗読で使徒ペトロが宣言しているとおり、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(1ペトロ2・9)なのですから。 「選ばれた民」というからには、責任は選んだ側にあります。確かに私たち一人ひとりは弱い人間ですが、神はそんな私たちを責任を持って選び出し、キリストにおいてひとつに結んでくださいました。この苦難の時代にあってなおも希望を失わず、互いに励まし合う「聖なる国民」として。神は善いお方です。今もいつも善い業をなしておられます。この私を選んでくださった神に信頼して、救いの日を祈り求めましょう。これを読んでいる人の中には眠れないほどに落ち込んでいる人や、祈れないほどに疲れ果てている人もいるはずですから、お互いのためにも祈り合いましょう。苦しむすべての人のために祈り続けることは、まさに「王の系統を引く祭司」の聖なる勤めにほかなりません。 私も、公開ミサが中止になった四旬節以降、主日はもちろん、平日も毎日欠かさずに非公開ミサを捧げ続けています。がらんとした聖堂ではありますが、皆さんを代表して皆さんと共に捧げるミサですから、「主は皆さんと共に!」と、聖堂の隅々にまで響くように声を出しています。皆さんがそこにいると信じて、いつにも増して大きく手を広げながら。 外出自粛の日々はさまざまなストレスが溜まりますが、これもまた神のみ心と信じるならば、恵みの日々とすることもできるはずです。「自粛で出来なくなったこと」を嘆くのではなく、「今だからこそ出来ること」を始める機会といたしましょう。実際、普段出来なかった部屋の片づけを始めたという声をよく聞きますし、私自身、溜まっていた膨大な資料を整理したり、珍しくシーツを洗ったりしています。そんな「今だからこそ出来ること」の中で最もみ心にかなっていることは、実は「自らの本当にあるべき生き方と、みんなが幸せに生きていける社会について真剣に思いめぐらすこと」ではないかと思っています。確かに3・11のときも、絆の大切さに気付いて身勝手な生き方を反省したものですが、喉元過ぎると忘れてしまったという人も多いはずです。しかし、今回は本気にならなければいけないと、多くの人が直感しています。人類が共に生きていく上で最も大事なことは、何なのか。人と人が助け合って暮らすには、どうしたらいいのか。多様な人を受け入れ合うために、何をなすべきか。回心のために与えられたこの機会を黙想の日々として、聖霊の語りかけに耳を澄ませ、出来ることから実践し始めることこそが、神の望みなのではないでしょうか。 今、弱い立場にある人ほど、苦しんでいます。目立たないところで多くの人々が生きる希望を失いかけています。浅草橋のフードバンクには、以前には見たことのない行列ができていて、中には子連れのお母さんも並んでいます。 神父のところにもさまざまなSOSが届き始めました。一人暮らしの中で精神的に追い詰められて、いわゆる「コロナうつ」になってしまった人も多く、みんな話し相手を求めています。福音家族として一緒にご飯を食べていたベトナムやウズベキスタンの若者たちも、収入を絶たれて途方に暮れています。仕事と共に住む所を失ったスリランカ人をやむなく教会で保護していますし、家賃が払えなくなった青年の援助もしています。 皆さんの身近にも困窮している人が必ずいますし、今後ますます増えるはずですから、賢明に工夫しつつ手を差し伸べてまいりましょう。「神のものとなった民」として。 いまだ先は見通せない状況ではありますが、ご安心ください、必ずや活動再開の日はやってきます。再び主の食卓を囲んで歌ったり、ミサの後にお茶を飲んで笑い合ったりする日も遠からず来ることでしょう。その日私たちは、このようなひとときがどれほどありがたい恩寵の時であるかを、しみじみと確かめ合うことになるでしょう。それまでの日々を、祈りと実践のための恵みの期間として、「復活節の黙想会」といたします。 状況が変わって教区から新しい方針等が出ましたら、またお便りいたします。  主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんの上にありますように。 アーメン!2020年5月10日

  • 11May
    • 晴佐久昌英神父と片柳弘史神父の対談の画像

      晴佐久昌英神父と片柳弘史神父の対談

      晴佐久神父の講演会が行われる予定だった、上智大学のホームカミングデイ、All Sophians' Festival(ASF)は、5月31日(日)での開催は中止となりました。しかし、今年はオンラインでつながるイベント『Net de ASF 2020』が開催されるそうです。そのプログラムの中で、晴佐久昌英神父と片柳弘史神父の対談が行われます。晴佐久昌英神父・片柳弘史神父対談「不安な時代をどう生きるか」2020年5月31日(日)15:00~16:00YouTube と Facebook で視聴できます。詳細につきましては、公式HPをご覧ください。→ 『Net de ASF 2020』Lydia

    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。主日のミサ 動画配信復活節第6主日司式:菊地大司教→ 5月17日10時~ロザリオの祈りの夕べ(東京大司教区)~新型コロナウイルス感染症拡大のさなかにあって、混乱する事態の早期終息と病症にある方々の快復、及び亡くなられた方々の安息のために~→ 5月13日19時~(ファティマの聖母の祝日)祈りの輪のロザリオ(広島司教区)→ 5月15日19時~(前日に、広島司教区HPに祈りのシナリオがUPされます)以前のお話『人は、何故生まれてきたのか。ひと言で言えばですけど、「神に望まれて」、生まれてきた。そう答えるしかないですね。そのように、あなたを望んだ存在を「神」と呼ぶ。本当にそうなんだと信じる、受け入れることで、あなた自身が元気になる、解放される。生きる喜び、勇気、希望を持つようになる。この現場を「神の国」と呼んだりもする。大事なのは、気づくこと。神に愛されていると。「私、神の子なんだ」と。「私がいる」ことは、それだけで、神の喜びなんですよ。あなたがいてくれるだけで、嬉しい。神に定められた、恵みの一日、一日っていうものが輝いているのは、神さまのお定めになった準備期間という、祝福された意味がある。胎児にとっての、お母さんのお腹の中の十月十日と一緒です。ぼくらもいつか、神さまの世界に生まれ出ていく。「やり残したことがある」とか、「短い人生でどうだった」とか、「あの人から離れるのはつらい」とかって、この世的にはね、準備期間中的には、そう思うかもしれないけど、ひとたび生まれ出たら、その喜び、その恵み、その永遠性、その「本番」感覚みたいなリアリティに、もう一回この世に戻りたいなんて、思わないですよ。この世は、時間と空間と感情、さまざまな不条理に見える出来事に翻弄されていて、なかなか大変じゃないですか。でもそれはみんな、神の世界に生まれて行ったら、そういう意味があったのか、そのためにそういうとらわれがあったのか、そのために限界があったんだ、と全部、神の祝福、愛のうちに備わっていたんだっていうことに気づいて、大感動ってことになるわけです。その日々について信じているならば、もうそれは、今ここに始まっているも同然なんですよね。 』5月の気持ちいい風に吹かれると、何の変哲もない街中でも天国を感じます。この世のことや自分の状況がどうであろうと、ふっと幸せにしてくれるので、天国っぽいな~と思います。色々大変ですが、すべての神の子たちの心を元気にする、幸せなときが与えられますように。Lydia

  • 08May
    • みんながいる国の画像

      みんながいる国

      この画像は、Matthewさんがルルドの地下大聖堂で撮ってきてくださった写真です。今や天上にいる証びとの方々がズラリと以前のお話『ぼくらは、ある意味、「平等」へのはるかな旅をしている仲間たち。非常にシンプルなんですよ。平等でやろうっていう。今日、ここにいろんな人たちがいますよね。初めて来たという人もいる。色々問題を抱えていて不安定だという人もたくさんいる。何故みんなは恵まれていて、元気で、私はこんなふうにつらい思いをしなければならないのか?そう思うとしたら、「いいや、神さまは本当に平等だ」と。一人ひとり、それぞれ才能の面とか、環境の面とか、体のこととか、さまざまな意味で不平等な世の中だという気持ちでおりますけれども、「神さまに愛されている」という意味では、完全に平等。私たちは分け隔てなく、神さまの愛の中を生きております。あなたのその苦しみも、必ずよいものに変えられていく。そしてやがて神の国が訪れて、みんなね、神さまのみもとに集まったときに、私の、あの苦しみもすごく意味があった。あなたも、恵まれているかに見えていたけれど、心のうちでは非常につらい思いをしていた。あなたも、とても健康な人生を歩んでいたようで、すごくつらいものを背負っていた。あなたも、障がいを負って生まれてきたけれども、神さまの恵みのうちに色々な素晴らしい出会いがあり、信仰を得て、希望のうちに神さまに召された。ともかくみんな、それぞれなんだけど、最後はちゃんと神さまが全部辻褄を合わせてくださるんだ。誰も、劣った人、不幸な人はいない。不運な人もいない。我々の頭には思い浮かばない、想像もできないけれど、神さまが、その十字架を素晴らしいものに変えてくださる。その人の背負った十字架が、とてつもない復活につながっているし、本人は神の国で、「私の背負った十字架がこんなに大きな喜びを生んでいるんだ」と知ることになる。そして、神の国で本番が始まる。どんな試練も、犠牲も、無駄にはならないし、逆に言うと、無駄にしちゃいけない、自分の試練もそうだし、ひとの試練もそう。「復活」っていうのは、そういうことなんです。』晴佐久神父の入門講座は、何か、「愛」でないものに塗りつぶされそうになった時に、「でも、本当のベクトルはあっちだよ」と、天に向かっている途上であることを思い出させてくれる、恵みの時間です。Lydia

  • 04May
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。カトリック東京大司教区 菊地大司教→『緊急事態宣言のなかにあって』(文書の中の「神の力が世界を支配してくださいますように」に、強くアーメン!)主日のミサ 動画配信復活節第5主日司式:菊地大司教→ 5月10日10時~教区福祉委員会より:マスクとポンチョ(雨合羽)寄付のお願い→ 東京大司教区HP(医療と福祉の現場で不足している、新品の「マスク」と医療用防護服の代わりに着用する「ポンチョ」(雨合羽)の寄付のお願いです)祈りの輪のロザリオ(5月8日19時)→ カトリック広島司教区情報サイト(前日までに、広島司教区HPに祈りのシナリオがUPされます)東京大司教区でも、5月13日(水)ファティマの聖母の記念日にロザリオの祈りがあるそうです。楽しみです→ 『5月は聖母月です』(東京大司教区HP)以前のお話『 一番弱いときに、神さまが触れてくださる。十字架っていう最悪の状況が、復活という最高の状況に変わる。神にはそれがおできになるし、そのように変えるというダイナミズムをこの世界に与えたんだっていうことに、ぼくらは気づくべきです。そこに気づかず、「悪くなっていくんじゃないか」とか、「自分は見捨てられたんじゃないか」って、自分を責める話になっちゃうと、それこそが、まあ、悪の力でしょうね。悪の力は、人を恐れさせる、ガッカリさせる、諦めさせる力です。それに対して、「よいものに向かっている」っていう、その信仰ですね。本当によいもの、完成に向かって、ぼくらは道を歩んでいる。途上なんです。個々のことは、悪くなるように見えることがあったとしても、全体は、よい方向に向かっている。よくなる。だから、自分の目の前の悪いベクトルに騙されちゃいけないんですよね。迷わされちゃいけない。そんなものだけに、自分を委ねちゃいけない。入門講座で、この「よくなります」っていう話を聞いて、帰り道に、ふとそれがものすごいリアルに実感として感じられて、「あぁ!そうなんだ」と。今まで、何十年もすごく閉ざされてた。暗かった、と。急に、パコンと何かが開いて、以来、「心の中に喜びとか、平和がずーっと続いていて、消えないんだ」って言ってましたけど、「消えない」んじゃなくて、それが本来であって、それが閉ざされていただけだから、本来に戻ったんですよ。緊張して、閉ざされて、「こんなもんだ」と思い込んでいたんじゃないですか。時々、すごく嬉しくなって、また消えちゃったっていうのではなく、自分がここに存在していること自体が神の望みだし、自分は本当に神の究極の喜びに向かって、今、歩んでいる途中なんだから、到着の喜びがすでに先取りされていると、そう思ったらいいんじゃないですかね。「あなたがどう思っているか」と、救いは関係ない。あなたが気づこうと、気づくまいと、救いの道というのはちゃんと進んでいるし、赤ちゃんが何していようと、泣こうが、笑おうが、おもちゃ投げようが、ミルク吐き出そうが、親の愛は変わらない。そのことを、まことの親である神への信頼として持つ。あなたには、「よいものに向かう」という思いが備わっている。それも、神が与えたもの。人から心ないことを言われたり、誤解されたり、色々ありますけれども・・・、人からどう思われても、全然かまわないんです。神は、全部知っている。神は、本当に一人ひとりを、全部知った上で、裁くことなくゆるし、受け入れ、愛し、そして恵みの世界に導いている。・・・祈りましょう。私たちのまことの親である、天の父よ今日こうして、私たちを集めてくださったことを感謝します。あなたの子どもたちです。本質はとても無力で、しかしあなたの恵みのうちに、こうして成長してまいりました。いかなるときも、まことの親として、私たちと共にいて、私たちにあなたの愛をあらわしてください。特に試練のときこそ、道に迷っているときこそ、あなたがまことの親であることに目覚めて、安心と希望を取り戻すことができますように。そしていつの日か、死を超えて、あなたのみもとに生まれていくことができますように。主キリストによって』アーメン。魂の牧者である主が、何があろうと私たちの手を離さないので、誰一人破滅することはないだろうと思う今日この頃です。キリストに賛美Lydia

  • 01May
    • いのちの言葉の画像

      いのちの言葉

      前回(4/27)載せたお話から、強く思い浮かんだお話です。晴佐久神父説教集Ⅱ『希望はここにある』(教友社)より、「神の誇り」から。 ぼくはそこで(注:大学の講義)『キャッツ』の話をしました。たまたま先週観たミュージカルの『キャッツ』です。ご存知でしょうか。猫たちの物語です。二十年前に観た時も感動しましたけれども、さすがにこの年齢になって観ると、若い頃に観たのとは違う感動があった。それは、このミュージカルの秘められたテーマである猫たちの「誇り」に共感して生まれる感動です。たかが猫ではありますけれども、胸を張って生きているし、そんな猫をちゃんと尊敬してもらいたい。そういうテーマが、「誇りを失っては生きていけない」、ということを身にしみる年齢になって、浮かび上がってくるわけです。ごみ捨て場をうろつくような猫ではあります。車にひかれても誰もかえりみないでしょう。老いた娼婦猫なんかは、仲間からも相手にされない。けれども、猫には猫の尊厳があって、それは神から与えられたものであり、誰も汚すことはできないし、それだけは決して失ってはならないのです。 若い頃は、尊厳なんて気にしなくとも元気に仕事して胸張って生きてますけれども、年月を重ねると、いつまでも元気にやっていけるわけじゃないことがわかってくる。自分の弱さも見えてくるし、人間の汚さも見えてくる。何度も失敗を繰り返し、傷つけ、傷つけられを繰り返してくると、だんだんと自分は本当に価値ある存在であるかどうかが疑わしくなってくるわけですよ。失敗したり傷つけられたりすること自体は、実は、大した損失ではない。一番問題なのは、それによって「誇り」を失うことなのです。 クライマックスで長老猫が高らかに歌いあげます。「猫たちに敬意を示してほしい。猫に話しかける時は『おお、猫よ!』とていねいに、尊敬の念をもって挨拶してほしい」。ぼくはそれを自分のことのように感じた。猫のようにごみ捨て場をうろついてきた自分。失敗して「俺だめなんじゃないの?」と思ったこと。決して消えない自分のコンプレックス。確かにそんな自分だけれど、誰であれ尊敬される値打ちを与えられているんだ。その誇りだけは決して失ってはならないんだと、あらためて猫と共に思わされて感動いたしました。学生たちに伝えたかったのはその誇りです。  私はこう話しました。失敗することはあるだろう。弱さも汚さもいっぱいあるだろう。でも、そんな表面的なことでは決して消えることのない誇りがあなたたちの中にある。それは、学生としての誇りとか日本人としての誇りとか、そんなレベルの誇りじゃない。言うなれば、「神の子としての誇り」である。人として失敗しても、社会人としてうまくいかなくても、そういうことはこの世の話であって、「天から生まれた神の子としての誇り」、それだけは決して失ってはならない。神はあなたを愛して生んだのだし、あなたの中にパーフェクトな神の遺伝子が宿っているのだから、あなたには尊厳がある。それは、どんな暴力をもってしても決して奪うことができないし、どんな悪い環境でも汚すことができない。あなたたちの魂の中には、決して汚すことのできない美しい聖堂があって、そこは、もはや誰も踏み入ることができない神の領域なのだ。皆さんはこれからもクリスチャンにはならないかもしれないけれども、生涯決して手放してはならないのは、そんな「神の子としての誇り」だ。それさえあれば、どんなに絶望しかけた時でも、もう一度顔を上げて、胸を張って歩き出すことができるのだ、と。学生たちにそう話しました。 『キャッツ』のラストシーンで、地面に伏せていた猫たちがサッと顔を上げて、スッと立ち上がってキュッと胸を張るシーンがあって、私は、魂がドキドキするような感じがいたしました。これこそ私たち人間みんなの姿であるべきだと。表面的に見れば誰だって大した人間じゃないですよ。私だって偉そうなことを言えるような者ではありません。もう、「ごめんなさい」と言って消え入りたいような臆病者でありますけれども、神はその私を選んでその私の中に宿って、胸を張って自分であれと、そううながしてくださる。 たとえこの私の尊厳を引きずり落とそうとするようないかなる力があろうとも、この私の「神の子としての誇り」には勝つことができない。ぼくはそういう「信仰者としての誇り」だけは失いたくない。ついつい悪いことがあると「罰があたったんじゃないか」、「自分は見捨てられているんじゃないか」、そう思ってしまうけれど、個々の悪いこととかっていうのは、全然問題じゃないんですよ。そこにつけこんで悪魔が人の誇りを失わせようとしていること、そこが問題。 今日読まれたイエスの「幸いなるかな」って説教、どう聞きましたか? 心込めて朗読しましたけれども、ぼくはあれを読みながら、イエスの誇りを感じました。まことの神の子としての誇り。一見、極端な言い方をしますでしょう。泣いているのに幸いだとか、迫害されていても幸いだとか。この世の常識からいえば矛盾しているように聞こえるかもしれませんけれども、ぼくはこのイエスの宣言に、この世界でどれだけ泣こうとも、迫害されようとも、あなたたちは神の子であるから幸いだという、決して揺るがせないイエスの誇りを感じます。(略) 神さまは私たち人間のどんな条件にも左右されません。さっきパウロのことばで読みました(一コリント1・26~31)。神さまがお召しになる者、それは知恵ある者や能力のある者や家柄のよい者ではないと。神さまは人間の知恵を必要としない。人間の能力、人間の家柄に頼らない。むしろ、神は無学で無力な者、無に等しい者、卑しい者を選ばれる。ここに神さまの誇りが感じられます。なんにもないところからこそ喜びの世界を創造することができる。 それは神の誇りです。だから、私たちは恐れることがない。たとえ全部失ったかに思えても、神は無から喜びを創造する方だから。病気とか試練に遭うと、すべて失うかのような恐れを感じますけれども、その恐れよりも恐いのは、その恐れによって「誇り」を失うことです。さきほどテレビで北朝鮮の孤児の様子を見ましたけれども、凍傷で足を失った子が、お腹をすかせていて、手で這っていって、食事をしている人たちのおいしそうな食べ物をじーっと見ている映像に胸がつぶれそうになりました。マザー・テレサのことを思いました。マザー・テレサはそのような一人の人間の誇りに仕えた方です。この子も神の子だ、神が宿っている、神の誇りだ。彼女はその「誇り」を抱き起こすのです。自らも神の誇りを生きる者として。私たちは、誰一人自分を誇ることができません。「誇るものは主を誇れ」。世界を救うことばです。初めて読んだとき、とても心が震えたお説教です。いつになるかは神さまのみぞ知るですが、入門講座が再開されたら、ぜひお話を聞きに来てくださいね~お待ちしております。今日から聖母月福音の喜びがますます広がって、神の愛からはぐれている苦しみが救われていきますよう、祈ります。Lydia

  • 27Apr
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。主日のミサ 動画配信復活節第4主日司式:菊地大司教→ 5月3日10時~祈りの輪のロザリオ(5月1日19時)→ カトリック広島教区情報サイト新型コロナウイルス感染症緊急募金→ カリタスジャパン以前のお話『一番大事なことは、心がかようことなんですよね。人と人が会って、グッとくるというか、信頼できるというか、「この人と、ちゃんとつながれそうだ」っていうようなものがないと、ほんと、よそゆきの言葉ばっかりだから、世の中が。政治家の言葉みたいに、あるいは商売の言葉みたいに、社交辞令みたいに。心のかよい合っていない、よそよそしい言葉ばっかりの中で、信頼できる言葉、その人の本質にちゃんと触れる言葉、ぬくもりがあって、その人と共にあることが嬉しくなるような言葉っていうのはすごく大切だし、まあ、イエス・キリストは、そういう人だったんですよね。イエス・キリストにおいて、一番大事なポイントはどこかっていうと、「この私に触れる」なんですよ。この私の心に触れる。関わりを持ってくれる。これがイエス・キリストなんですよね。どこかに、どれだけ偉大な、立派な人がいても、関係がなければ、なんの関係もない。「この私と関わってくれる」存在だ、と。ここがイエス・キリストの本質なんですよ。今の時代、逆に、グッとくるかのようなコピーとかね、そんなものも氾濫していて、なんとなく、言葉全体が地盤沈下している。そんな中で、最も美しい言葉を使った人として、私はイエス・キリストを挙げたい。聖書を読んでいても、どの言葉も、どの言葉も、確信に満ちていて、労わりに満ちていて、美しい。なぜなら、その目の前の相手と本当につながろうとしているからなんです。しかも、その人の弱さにおいてね。今日の朝のミサで読まれた箇所。イエスが、徴税人とか罪びとたちと食事をしているのを見て、ファリサイ派の律法主義者が攻撃したんですね、こんな人たちと食事をするなんて、何を考えているんだ、と。イエスがなんて答えたか。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私は正しい人のためではなく、罪びとたちを招くために来た、と。(マルコ2・17)美しい言葉ですね。私は、弱い人、傷ついている人、病んでいる人、罪に苦しんでいる人、闇の底にいる人、そういう人のところに神の愛を伝えに来たんだ。自分で自分を救うことができないと悟っている、本当に弱い人たち、傷ついた人たちにとっては、イエスほど美しい存在はいない。グッとくる人なんですよ。こんな私のために、自分を犠牲にして、こんな私を愛してくれる御方として、グッとくる。 』晴佐久神父さまの説教集Ⅱ『希望はここにある』(教友社)の帯に、心と心がつながる瞬間「すべての闇は光に向かう」とあって、深く納得。そこからすべてが始まるというか、すべてはそこを目指しているというか、「聖霊、きてください」ですね。Lydia

  • 24Apr
    • 神さまからの問いかけの画像

      神さまからの問いかけ

      ある、一緒ごはんの日のお話です。以前のお話『たとえば家族がね、「なんで、この人と結婚したんだろう?」なんて話、よく聞きますけど、何かを求めて・・・、でもそれは、本当に求めていた以上のものを、実は潜在的に求めていたんですよね。それを見つけていくのが夫婦の旅みたいなところがあると思うんだよね。「この二人は、どうして一緒にいるんだろう?」なぜ、こうして愛し合って、なぜ、こうやって試練を乗り越えて、なぜ、このようにケンカをして、今、相手を神さまにお返ししなければならないようなギリギリのときにね、「なぜ、この二人は出会ったんだろう?」と。それはやっぱり、神さまからの問いかけというか、語りかけというか、何か訳がある。ぼくらはそれを見つけて、応えていく。この集まりだって、不思議な集まりですけど、それぞれ、こうやって見ると、全然違う理由のようでいて、でも、どこか、一つに結ばれていて、この集いの中に、一人ひとりの生きる意味、その答えみたいなものがほんとに秘められているという、そういう集まりを、実は「教会」って呼ぶんですけどね。完全に知ることはできませんけど、でも、何か、少しでも、気づいていく、目覚めていく、そういう集い。この集いが、そのような集いであることを祈って・・・。天の父よ私たちのまことの親である、天の父よ今日、私たちをここに集めてくださったことを心から感謝いたします。一人ひとりの心のうちを、その人生を、すべて知っておられるあなたが、今ここで、必要な親心を惜しみなく注いで、神の子たちを安心、喜び、希望で満たしてください。私たちは一人で生きていくことができません。あなたが結んでくださった、この福音家族によって、私たちがあなたの子どもたちとして、こうして一つにいることの意味を見出すことができますように。私たちの主イエス・キリストによって』アーメン。Lydia

  • 20Apr
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。主日のミサ 動画配信復活節第3主日司式:菊地大司教→ 4月26日10時~関連情報:『ミサの映像配信に関して』祈りの輪のロザリオ(教えていただきました)→ カトリック広島司教区情報サイト以前のお話『自分の考えも大事なんだけど、それは頭蓋骨の内側の話なんですよね。実際には、世界は広く、神さまの愛は満ち満ちていて、そして、永遠なるご計画のうちに、着々とよいものがつくられ続けている。でもぼくら、それをほとんど知らないわけです。知らないから、ちょっと見たり、ちょっと聞いたりして、「こういうものだ」と思い込んだり、「こうでしかない」と思ってあきらめたり、「こうなるんじゃないか」ってすごく恐れたりしているのは、頭蓋骨の内側なんですよね。本質は、頭蓋骨の内側じゃなくて、偉大なる、大いなる、世界全体に満ちている、神さまの愛にあるんであって、その中でぼくらは生まれてきたし、愛されて存在しているし、やがてそのみもとに招かれていて、この世の準備期間を終えて、神さまが用意してくださっている世界に生まれ出ていく。自分の思いを超えて、よりよい神の思いに、より愛に満ちた神さまのお考えに、より永遠で偉大なる神さまの力に、すべてをゆだねる、と。人って、自分で自分を生むわけじゃないから、神さまによって生まれてくる存在だから、それに気づいて、その「神の愛に全部をゆだねよう」っていうふうに成長するまでは、とてつもなく不安だし、原初の泣き声みたいなものをあげる生き物なんですよね。完全に無力である自分を知ったときの涙、そういうものがあると思うんですよね。赤ちゃんなんて、なんにもできないんだから。すべて面倒をみてもらわないと、生きていけない。しかし泣けば、お母さんが来てくれるわけじゃないですか。コミュニケーションの第一歩なんですよね、泣き声をあげるっていうのは。キリスト教って、どんな人にでも、どんな状況にでも対応できる、意味のある、最高の力だと思うんだけれども、もしそうであるならば、最悪の状況に役に立たなければ意味がないわけですよ。「これほどの悲しみには、語る言葉もありません」なんていうんじゃ、だめなんですよ。最悪の状況でも、そこに何か、本質的なものが、救いの道がある。もっと言えば、最悪な状況だからこそ気づける、そのような救いの道がある。つまり、一番無力なときにこそ、母親は我が子を抱きしめてくれる。だから、一番安全で、一番希望があふれてくる現場。ひとりで頑張ってるときは、親も手出しできないというか。一番無力なときにこそ、神は、まことの親として、私たちを愛してくださるし、くださっているし、そう思うと、恐れがなくなるんですよね。むしろ、自分で頑張っているときのほうが、「これを失うんじゃないか」っていう恐れとか、「こんな自分じゃだめなんじゃないか」っていう恐れとか、「こんな自分を神は愛してくれないんじゃないか」っていう恐れとか、そんな思いにとりつかれやすいけれども、そんな自分も極まると、あとは、神さまが救ってくださるしかないという、完全無力な自分を体験する。みんな、泣いちゃいけないと思って、頑張ってますから。それはそれで尊いんだけれども、「最も大事なことは、完全に無力だと知ることだ」という意味では、病気や試練のときって、恵みのときなんですよね。そういうチャンスをもらってるんだ。この恵みのときを通して、本当の自分に目覚めていくというか、本当の神を知っていくというか。生きている目的が、神と出会うこと、神の愛に目覚めることであるならば、まさに生きている目的を達するチャンスがね、今きたんだっていうことを感じてくれたら。』上の画像は、Matthewさんが撮ってきてくださった写真で、聖ベルナデッタが過ごした修道院の裏庭にある小さな聖堂のステンドグラスです。聖ベルナデッタはこの小さな聖堂が好きで、よくお祈りをしていたそうです。聖母が光と同化してる感じがいいな、と。ニュースを見ると、公開のミサも入門講座も夢のまた夢みたいな気持ちになることがありますが、主の受難に寄り添い、主の死と復活を体験した聖母が、今こそ私たちを助けてくださいますように。「また会えますように」と祈ります。Lydia

  • 17Apr
    • 一生に一度の画像

      一生に一度

      カリタス釜石に向かう電車の時間の関係で、「今日は講座を早めに終わります」ということで、始まったお話です。『 釜石に行くのは、1年ぶりかな。東日本大震災のあとの釜石の街、今でも思い出す。真っ暗でね。最初に、赤い灯と青い灯がともったとき、ほんとにしみじみしたというか、感動したというか。何か月目だったかな・・・? まだ5月は真っ暗だった。6月、7月くらいかな。居酒屋の赤い灯と、コンビニの青い灯がともったんですよ。(笑)彼らの暗い気持ちの中に、いろんなボランティアがやってきて、いろんな宗教団体がやってきて、いろんな奉仕をしてた。だんだん引いていったあとで、カリタス釜石が最後まで残って、今は一層、ますます活動してるわけだけど。釜石の市民ホールでのイベントで、「メッセージをお願いします」って頼まれた。でも、今日は入門講座があり、明日は「おかえりミサ」があり、「福音カフェ」がある。「だから、無理です」って、断った。そうしたら、あとで、友人でもあるスタッフから、電話がきてですね、こう言うんですよ。「入門講座は、いつだってやってるじゃないですか。おかえりミサも、毎月やってるじゃないですか。福音カフェも、月に2度ずつやってるじゃないですか。釜石は、1度っきりなんです!」「・・・はい」って、お返事しました。やっぱり、情熱が実を結ぶ世界っていいですね。本気ってことです。半端じゃないってことですね。こっちも応えようと思って、入門講座は半分だけ、おかえりミサは釜石でやることにしました。そんなこんなで、行ってまいります。どんな集まりになるのか?そこにも、イエスさまが来られる、ということですね。「福音を語る」っていうことは、すごく力のあることなんですよ。人が集まりますし、救われますし、つながるし、そうして「神の国」ができあがっていくんですね。イエスさまの福音によって、世界が救われていくのを、私は目の当たりにしているということです。イエスさまは、どこにでも行く。この前、刑務所のクリスマス会で、ビシーッと並んだ100人くらいの人を前にね・・・。おそらく一生に一度ですよ、福音を聞くなんて。一番そういうものに触れるチャンスがなかった人たちが、座ってるわけですよ。全員参加のクリスマス会じゃないんだから。何かを求めて、参加を希望した人たち。「この機会に」と思ったら、夢中になりすぎちゃったんだけど、イエスさまは、刑務所の中にでも行く。どこにでも、行く。』一年に一度かもしれない釜石。一生に一度かもしれない刑務所。それに比べると、入門講座はとても恵まれているのですが、それとは別の意味で、どの日の入門講座も一生に一度なのですよね。それはすご~く感じてました。創造主のみわざです。神さまの愛に感謝Lydia

  • 14Apr
    • 晴佐久神父より NO.2(4月12日)の画像

      晴佐久神父より NO.2(4月12日)

      復活祭にあたって、信徒の皆さんへ主任司祭 晴佐久昌英 皆さん、主のご復活おめでとうございます! 世界中が新型コロナウイルスに苦しんでいるときに「おめでとう」を言うのははばかられるような気もしますが、キリスト教信仰の基本は、「主はすでに死に打ち勝ち、復活した」という福音にあります。わたしたちキリスト者は、お互いに会うことさえできないこの苦難の中でこそ、いつにもまして心をひとつにし、「主は復活された、アレルヤ!」と声高らかに宣言いたしましょう。「緊急事態宣言」のさなかにわたしたちが発出すべきは、「緊急福音宣言」にほかならないからです。 復活節第二主日の福音朗読では、次の個所が読まれます。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」(ヨハネ20・19-21) 今まさにわたしたちは、ユダヤ人ならぬウイルスを恐れて閉じこもっていますが、そんなわたしたちの真ん中に、イエスは来てくださいました。弟子たちと同じようにわたしたちがどれほど恐れているか、そして自らの心の戸に鍵をかけているかを、イエスはよく知っておられるからです。イエスはみなさんに、死に打ち勝った平和の主としての祝福を与え、励ましてくださっています。この苦難の世に、わたしたちを遣わすために。ですから、今は共に苦難に耐え、ウイルスが収まったあかつきには、十字架の日々を共にしたキリスト者として、復活の主から聖霊を受けて世に遣わされ、この世界をいっそう神の御心にかなった世界へと変えてまいりましょう。 歴史を振り返るならば、人類の歴史はそのまま苦難の歴史であることがわかりますが、その苦難を乗り越えることでこそ人類は人類になってきたというのも、確かなことです。天災や疫病こそが、人類を育ててきたと言ってもいいでしょう。ちょうど、おさなごが転んでは起き上がることを繰り返して育っていくように、今回の試練も、わたしたち人類がいっそう優れたものに成長していくための、大切なプロセスなのではないでしょうか。天の父は、転んで泣いている神の子たちを、永遠の親心をもって見守っておられますし、再び立ち上がって歩き出せるように支えてくださっています。そのような天の父の親心の目に見えるしるしこそが「主の復活」なのです。主の復活は、わたしたちの復活でもあります。キリストの十字架を復活の栄光に変えてくださった神は、人類の孤立と困難もまた、一致と解放の喜びに変えてくださるに違いありません。 「成長」というからには、わたしたちは今までと同じでいるわけにはいきません。感染症はいつの時代でも、その時その時の文明や社会を問い直すきっかけになってきました。一見天災のように見えるこのたびの感染爆発も、実は現代社会のあらゆる問題が引き起こした人災であることは明らかです。なおざりにされた環境問題と置き去りにされた貧困問題、過剰な消費主義と過密な都市社会、人口爆発と少子高齢化、経済原則の生命科学と商品化された医療、硬直化した行政と保身の政治などなどはすべて、コロナ以前とコロナ以降で同じであってはいけない問題です。神は、人類の回心と成長を望んでおられます。わたしたちキリスト者は、神の国の完成を待ち望みつつ、復活の証し人として世に遣わされるよう召されているのです。「すべてのいのちを守るため」に。復活を告げ知らせる福音には、力があります。福音のうちにこそ、希望が輝きます。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマの信徒への手紙5・3-5) 特に、この復活祭に洗礼を受ける予定だった洗礼志願者のみなさんは、むしろこんな時に選ばれたのだという誇りを持って、希望を新たにしてください。すべてのできごとは、天の父の限りない慈しみのうちにあります。やがて来る洗礼の日は、いつにもまして復活の輝きと解放の喜びに満ちた、特別な日になることでしょう。 気の滅入るニュースが続きますが、恐れてはいけません。真に恐れるべきはウイルスではなく、自らを縛る恐れそのものなのです。この世で外出は自粛していても、わたしたちの内なる霊は全く自由です。何ものもわたしたちの「信じる心」を縛り付けることは、できません。先ほどの朗読個所で、復活の主はトマスにこうおっしゃいました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」 どうかみなさん、からだの健康と魂の自由を守ってください。今は家にいて、病床で孤独の内に苦しんでいる方々、危険な現場で働く医療従事者の方々、生活が困窮している方々のために祈ってください。そして来るべき再会の日には、ご一緒に大声で賛歌を歌い、いのちの主に賛美と感謝を捧げましょう。 復活祭の派遣の祝福を送ります。「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。アーメン」「行きましょう、主の平和のうちに、アレルヤ!」2020年4月12日

    • 晴佐久神父より NO.1(3月27日)の画像

      晴佐久神父より NO.1(3月27日)

      晴佐久神父から、上野教会&浅草教会の信徒に送られた手紙です(掲載許可取得済)。 Lydia信徒の皆さんへ主任司祭 晴佐久昌英 東京教区において、新型コロナウイルス感染予防のために2月27日以降の公開ミサが中止されてから、ちょうどひと月が過ぎました。この一か月を、とても寂しい気持ちで過ごし、今も不安を抱えているであろう信徒の皆さんに、励ましの言葉と希望の福音をお届けするため、お手紙を差し上げることといたしました。 わたし自身、このような体験は人生で初めてであり、皆さんと共に捧げる主日ミサのない日々は、本当にやるせなく、物悲しいものだということを身を持って体験させられています。いままで当たり前のように集い、声を合わせて歌い、ともにご聖体を頂いて一致の喜びを分かち合ってきたことが、どれほど尊くかけがえのないことであったかと改めて思い知らされている日々です。 しかし、このような試練の日々は、「聖霊によって結ばれている教会」という、わたしたちの神秘的な集いの本領を発揮するときでもあります。教皇フランシスコは、3月15日の日曜日に、ミサにあずかれない全世界の信徒に向けてこう語りかけてくださいました。「キリストのうちに結ばれていれば、わたしたちは決して独りではありません。それどころか、キリストを頭とする一つのからだを形作っています。それは、祈りによって、さらには秘跡を受けられない場合にとりわけ推奨される霊的聖体拝領によって強められる結びつきです。このことを皆さんに、特に一人暮らしをしているかたに伝えたいと思います」「霊的聖体拝領」というのは、実際にご聖体を口にしなくても、霊的なかたちで主の体を拝領するという恩寵の聖体拝領のことです。わたしたちは、たとえ離れていても、主において一致していることを信じなければなりません。非公開ではありますが、わたしは毎日曜日に、今までどおりに10時から主日ミサを捧げています。ぜひみなさんもその時間に、あるいは都合によっては他の時間であっても、ご自宅でともに祈り、ともに霊的聖体拝領をいたしましょう。霊的聖体拝領の方法は、簡単です。一つの例を挙げるならば、以下の通りです。まず十字を切り、手を合わせて主の祈りを唱え、ご聖体を想いながら「キリストのおんからだ、アーメン」と唱え、胸に手を当てて主が共におられることを深く味わいます。さらには、全世界の信者と心を合わせて事態の収束を願い、特に亡くなられた人、感染して苦しんでいる人、携わっている医療従事者、影響を受けて生活が困窮している人たちのために祈りを捧げてください。 公開ミサ中止の期間については、教区からの2回目の指示では3月29日までだったのですが、3月23日付の通達では「3月30日以降も当面の間」となり、復活祭を含めた聖週間の典礼もすべて非公開となりました。したがって、洗礼式も公開ミサ再開のときまで延期いたします。まるで終わりのない四旬節のように感じるかもしれませんが、復活のない十字架はあり得ません。いまこそ、すべては闇から光へ向かうという、わたしたちの復活信仰を新たにすべき時ではないでしょうか。思えば、日本の教会は迫害の歴史を乗り越えてきた教会です。わたしたちの先輩信徒たちは、潜伏キリシタンとして二百年以上もの間、聖なるミサを待ち続けたのでした。彼らが再びミサにあずかったときの喜びは、いかばかりであったことか。どんな苦しみであっても、永続するということはありません。天の父は、わが子である人類を決して見捨てることなく、喜びの日を準備しておられるのです。十字架の日々を恵みのときと受け止め、その日を忍耐して待ち望みましょう。大自然の摂理の中では、ウイルスたちもまた神の御手のうちにあります。ほどなく神の子たちはこの試練に打ち勝ち、ミサも再開されることでしょう。その日には、司祭はいつものように、ミサの初めに「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に」と元気に宣言いたしますから、皆さんも元気に答えてください。「また司祭と共に!」と。 全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。アーメン 2020年3月27日

  • 13Apr
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。カトリック東京大司教区 菊地大司教→ 『菊地大司教復活祭メッセージ』→ 『日本政府による緊急事態宣言を受けて』(洗礼志願者の方たちへのメッセージもあります)主日のミサ 動画配信復活節第2主日(神のいつくしみの主日)司式:菊地大司教→ 4月19日10時~関連情報:『典礼祭儀のネット配信は簡単ではありません』(ミサの動画配信にご尽力くださっている方々のお話です)以前のお話『 いろいろな思いを抱えているなかで、教会に触れたおかげで、福音に触れ続けているおかげで、ある時、気づいていくことがあるんですよね。たとえば、ある映画に出会ったり、ある人の話を聞いたり、ある本を読んだり、そういう刺激によって、開かれるんだけれども、自分のほうに、何か、熟しているものがないと、そんな言葉だって、情報だって、スルーしちゃうんですよ。やっぱりね、聖霊が働いて、その人の中に何か、こう、神の言葉を受けるにふさわしい目覚めというものをもたらして、そこに、またいろんな刺激が与えられて、そうして、一日、また一日と、育てられていく。「死」は、もはやない。「我々はまだ準備中で、これから誕生するんだ」、その誕生の先がどうであるかは、誰もわからないけど、信じることができる。「死で、すべてが終わりだ」、それも信じることができる。なんでも信じられるんだから、本当に信じるべきものを信じましょう。子どもが生まれてくるのは、大自然のなかで、太陽の光をあびて、親の愛を燦燦と注がれて・・・、そういう「受ける」ために生まれてくる。ちゃんと受けてないから、イエスさまが「目を覚ませ」と。神は、善人だろうが、悪人だろうが、太陽の光を注いでいるじゃないか。正しい人にも、正しくない人にも、雨を降らせているじゃないか。(cf.マタイ5・45)「気づいてくれよ」と。そういう、栄光の輝きがすべての人を照らしていて、だから、苦しみを喜びへと変えてくださるんだ。悲しみを喜びに変える。死をいのちに、闇を光に、変えてくれる。大きな、神さまの恵みのなかに、ちゃんと備えられているんだ。一度でも、そんなことを信じられたら、すごいですよ。ぼくらが本当に、未来に開かれている信仰をもっていたら、今度いやなことがあったとき、「よし、これからいいことが始まるぞ」って思えるからね。これは強いですよ。今日の集会祈願「いつくしみゆたかな神よ あなたの栄光の輝きは、すべての人を照らし、悲しみを喜びへと変えてくださいます。」ぼーっと聞いてると、どんどん流れちゃってね・・・。今日のミサだって、綺羅星のごとき、み言葉に満ち満ちているわけでしょ?その中の、ほんの一節でも、本当に心を開いて受けとめられたら、「人生変わります」っていうような、み言葉に満ち満ちているのに、慣れきっちゃって、無感覚になっているとしたら、もったいないですよね。「あぁ、イエスさまは、私たちにこれを教えてくれようとしてるんだ。」「神さまが、こんなに、私たちを励ましてくれてるんだ。」それを、大切に、大切に、ね。ぼくらの魂の世界、すごく凝り固まっていて、たとえば、厳しい親から育てられて、「こんな自分じゃ、ダメだ!」と思い込んでいる。でも、他の親に育てられたら、別な自分になっていたかもしれない。ポテンシャルは、とてつもなく、自由なんです。でも、この社会の中で、この世のことで頭がいっぱいになっちゃっていると、自分本来のものを取り戻せなくなっちゃう。だから、凝り固まったものをゆるめてあげる。わたしたちは、神の愛を「受ける」ために生まれてきた。あなたは、そのままで完全な存在なんだ。本来の自分に立ちかえればいい。そうすれば、あなたの中にある可能性が、自由に開いていきますよ、と。』大変な状況の中で、復活節が始まりました。毎日、毎日、いろんな日々の中で、神さまに着々と育てられているな~と感じています。ある日、積み重ねられた時間の実りに気づきます。どんな時も、神に感謝Lydia

  • 12Apr
    • 主のご復活おめでとうございます!の画像

      主のご復活おめでとうございます!

      主のご復活おめでとうございます!緊急事態宣言が出され、先が見通せない状況ですが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。また講座でご一緒できますときを、楽しみにしております。お体に(心もですね)、お気をつけください。映画「ブランカとギター弾き」(長谷井宏紀監督)のお話です。以前のお話『昨日、(日本カトリック映画賞の授賞式で)長谷井宏紀監督と対談して、面白かったです。不思議な力を持ってるね。だから、みんなを集めてくるし、意地っぱりでもあって、そういうセンスもあるんだよね。というのは、この映画、ギター弾きのピーターは、本当にストリートで生活している方ですね。路上でギターを弾いて、お金を稼いで生きてる。アンプが財産。長谷井監督は、彼、ピーターを地下道で見つけたんですね、フィリピンの。そのときに、「この人の映画を撮りたい」と思って、関わって、知り合いになった。でも監督、世界中をまわってますから、セルビアのエミール監督の村に住んだり、いざ映画を撮ろうと、フィリピンに来たら、いつもの地下道にいるかと思いきや、ピーターが見つからない。誰に聞いてもわからない。あっちを調べ、こっちを調べ、ひと月半、探した。別の街にいたピーターは、盲目なんだけれど、覚えていてくれて、「宏紀、よく来たな。」と。「フィリピン人以外で友達と呼べるのは、宏紀、おまえだけだ」って言われたとか、言ってましたけど、そういう、人間関係をつくる人、なんですよね。このふたり(ピーターとブランカ)を結ぶ、ひとりの小さい男の子もいるんだけど、セバスチャンっていう、彼も本当にストリートチルドレンなんだよね。演技がすごくうまくて、アドリブもどんどん放り込んでくる。セバスチャン役にピッタリな子を探し出すために、ふた月、かけてる。オーディションをしたけれど、ダメで、オーディションなんかして待っていても、来やしないから、自分で探しに行くしかないっていうことで、ずーっと、フィリピンの街中を歩きまわった。ちょっと「いいな」と思う子の連絡先を聞いたりしながらね。一週間も歩き回ったら、「この子でいいや」になりそうだけど、ふた月、それをやった。「そうじゃないんだよ」「そうじゃないんだよ」と。ふた月経った頃に、ふっとセバスチャンとすれ違った。いったんすれ違って、「あれ?・・・今の、セバスチャンじゃないか?」で、慌ててね、取って返して、その場で芝居をさせたりして、「こんなところにいたのか、セバスチャン!」っていう感じだったって・・・面白いよね。不思議じゃありません?何万人という人とすれ違うわけでしょ。でも、自分のイメージのその人を探して。まさに映画を観てくれたらわかるけど、もう、あのセバスチャンは彼以外、考えられない。なんて言ったらいいんだろうなぁ・・・。生き生きしてて、愛にあふれていて、たくましくって、そして何かとても、大いなる力に祝福されているオーラが出ている。誰でもそうなんだろうけど、特別な子どもなんだよね。それを監督は、ふた月歩きまわって、見つけ出した。ひと月半かけて、ピーターを探し出し、ふた月かけて、セバスチャンを探し出し。すごく綺麗な映画なのね。色とりどり。美術がつくりこんでいるんですよね。雑多な色が全部、いろんな色が一つの小宇宙というか、神さまのまなざしの中で祝福されている。いろんな人がいるけれど、青だけとか、赤だけとか、言わず、みんながカラフルに一緒にあること、世界って素晴らしいよねっていうメッセージが、美術にあふれてる。ブランカとセバスチャンが失意の中で、ボーっと海の向こうの島を見ていたときに、ブランカがその景色を見て、何かがあるって言ったら、セバスチャンが、「虹だよ、虹が見えるよ!」って言う。虹なんてないんだけど、「ほら、虹だよ!」って。虹はレインボーカラー、今や多様性のシンボルじゃないですか。対談が終わったあと、監督に、「それにしても、綺麗な映画だった。セバスチャンの『虹だよ』っていうセリフは本当に印象的で、感動しました」とかって、話をしたら、「実は、あれ、脚本にないんだ」と。「セバスチャンのアドリブだ」って。「えぇぇ~?!」と、思って。つくりこまれた脚本だと思ってたけど、「・・・なるほどね」と。「虹だよ、虹が見える!」って、ぼくはあの映画の中で、すごく大事なセリフだと感じていたんだけれど、それが、年端もいかない男の子が何気なく言った言葉だった。何気なくあふれてきたそれを、ちゃんと絵と音に撮れて、映画のいいシーンに入れ込める。こういうのがね、映画の神ってやつなんですよね。全部つくりこんで、自分の思う通りに撮る監督もいるけど、映画って不思議な芸術で、操作できない、人の思いをはるかに超えた大きな力みたいなものが働いて、それを受け入れて、小細工せず、私に与えられた「これ」とか、あなたがたまたま言った「そのこと」とか、つらく思えるけれど、その「現実」とか、すべてのことが、神の大きなみ手の中で、大切なものとして用意されていて、あとはそれを、本当にちゃんとつないだときに、とても素晴らしいことが始まる。「無理やり変える」じゃなくてね。何が起こるかはわからない。神のみぞ知る。でも信じて、みんなを結んで、きっと「神の国」は実現していくんだから、そこに向けて、今できることをあきらめずに、ひと月でもふた月でも探すとかね。「まだ会っていないものを探す」っていうんだから、とても不安でしょう。もとより、誰が考えたんでもない。神さまが考えているかのようなストーリー。神さまが与えてくださったような景色。神さまからあふれてくるような表情。たまたま、そこで起こった、偶然のような出来事から生まれる演出。そんなものが全部、集まって、それがピカッと光る一瞬。それは一番、映画的な一瞬だな、と。つくりこむことではない、映画の不思議はそこにあると思うし、私は、その意味でいうならば、「みなさんの人生」っていうものが、そういうものなんじゃないかって言いたい。つくりこんで、つくりこんでね、本当にそれで幸せになれるんならいいけれど、そういうわけじゃないじゃないですか。もっともっと、こう、大きなまなざしで受けとめてほしいな、と。病気や死、不条理なこともいっぱいある。それも含めて、ひとつの要素として受けとめて、みんなでいろんなものをすり合わせて、そこに、「だからこそ」という神の国を実現させる。人生の本当の喜びって、そういうところにあるんじゃないのかな。』復活の主が、私たちを再びつないだり、新たに出会わせたりして、「神の国」を実現してくださると信じますLydia

  • 06Apr
    • 今週の入門講座の画像

      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は当面の間、休講です。聖週間の典礼 動画配信司式:菊地大司教→ 東京大司教区HP以前のお話(映画「ブランカとギター弾き」のチラシを手に取って、みんなに見せながら)『 みなさん、これを見て、「見えるものを言ってください」って聞かれたら、「おじいさんがいます」とか、「オレンジ色と白抜きの文字が見えます」とか、色々言うけれど、これ、印刷してあるんで、まずここに、「紙」があるんです。みんな、紙は見てないですよね。「はい、紙があります」って言う人、なかなかいない。「何がありますか?」って言われたら、ここに「書いてあるもの」を見るわけです。でも、紙がないと、何にも印刷できない。「天」っていうのは、この紙みたいなもの。すべてを、その上に、その中に、あらわせる。そこに書いたものが、「地」なんですよね。ぼくらは、その「地」しか見えていないから、そのことしか考えていないんだけど、そもそも地があるのは、見えるもの、聞こえるもの、調べられるもの、科学、それらがすべてあるのは、天のなかに備えられて、存在しているから。天っていうのは、そういうものです。「天におられる父よ」と言うときに、あっちが天で、神はあっちにいて、地はこっちで、神は時々しか来てくれないとか、そんな話じゃない。天のなかに、私たちは生まれ、天のなかで生きていて、天のなかに生まれでていくんですね。イエスが地に生きているのであれば、声をかけたり、手をつないだり、抱きしめたりはできるけれど、一つにはなれないじゃないですか。地では、別々なんです。イエスは天にあげられて、この世から去りました、じゃない。「この世にいる以上に、この世と一つになりました」っていう、そういうイメージじゃないとね。今日の第二朗読、エフェソの信徒への手紙。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェ4・4-6)すごいね。これですよ、「天におられる私たちの父」っていうのは。だから我々、あれがいいの、これは悪いの、言うけど、全部ひっくるめて神のみわざなんであって、すべてをとおして、神が働いていて、そしてすべてのものの内におられるんだから、最悪な現場があったとしても、それを、神がよいものに変えてくださるし、それをとおして、なおも働いているし、我々は、その悪、その闇を光に変えていくように、召されている。最悪な、つらい思いをしないで済むように、すべてをよいものに変えていく、我々の使命に向けて、すべてが神さまのみわざのうちにあるんだって、言い張らないとね。この前の入門講座で、「でも神父さま、最近のいたましい事件を見ると、残されたご家族はどんな気持ちか。神は、悪を善に変えるって言われても、信じられません」みたいなことを言う。言ってる意味はすごくよくわかる。だけど、だからこそ、キリスト教が必要なんじゃないか。この世的に言うならば、救いがない。戻ってこない。すべての幸せが壊されて、喪失感と恨みと、自分たちの人生に残ってしまった、取り返しのつかない十字架を背負って、生きていかなければならなくなった。「こんな人生に、なんの意味があるのか? こんなことをゆるす神なんて、いないほうがましだ」そう思うことはよくわかります、それを、善に変えることができないような「神」であるならば。しかし、我々は、理屈抜きで、この最悪な出来事、この最悪な十字架を、「復活」に変えることができる方がおられると、そう信じる。そう信じたときにはじめて、最悪の出来事が最良の出来事に変えられていくという、この世の本質が明らかになる。私の言っていることがおとぎ話であるならば、この世は地獄でしょう。そう言うしかない。ニヒリズム、虚無感、そんなものにとらわれて、(ここで、部屋の電気が、廊下で遊ぶ子どもたちのいたずらで消えて、部屋が暗くなりました。)・・・もっと、光を!(笑)闇から光へと、(ここで、またいいタイミングで電気が点いて、さらに、笑)・・・いいね。(笑)これは、もう、無理だっていう闇の中で、しかし、光が訪れる。そういう信仰があったらね、本当にどんな、完全な闇でもですよ、我々は、救いの中を生きていくことができる。「信仰」って偉大ですよ、そういう意味ではね。ひとたび、不条理な出来事に出会うと、信仰に導かれる。そういう意味では、やはり、試練のときは恵みのとき。パウロの、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(二コリント6・2)そうなんですよ。この世は不条理に満ち満ちているように見えますけれど、いったん、信仰を持ったら、もはや「不条理」って言葉が消えるんですね。不条理っていうのは、ただ無意味に、そういうつらいことが起こったように見えるときに言いますよね。だけど信仰者にとっては、不条理っていうのはないんです。「意味がある」と言い張る。「言い張る」ってあまりいい言葉じゃないかもしれないけど、キリスト教は、「それでも」っていうところがあるんですね。外国に、「にもかかわらず、信じる」っていう言い方を大事にしてた神学者がいましたけど、にもかかわらず、それでも、救いはある、と。神は愛だ、と。地獄の底にまで落ちても、そこに天国の入り口がある。そうでもないと、ちょっと、つらすぎるじゃないですか。「にもかかわらず」、最後の最後、もはや出口なしの、絶望状況に、復活の光が輝きだす。十字架が復活を生んだ。そこはね、信じましょうよ。』聖週間が始まりました。いつもと違う聖週間ですが、それぞれの場所で、心を合わせて、十字架から復活へ、主だけを見つめる恵みのときとなりますように。特に洗礼志願者の方たち、そして今、祈ることもできない方たちに、特別な恵みがありますように祈ります。Lydia

  • 03Apr
    • 天への希望の画像

      天への希望

      元気に泣く赤ちゃんを見て、始まったお話です。以前のお話『生まれて最初にやることが「おぎゃあ」と泣くことだっていうのは、面白いですよね。泣き叫ぶことが人類のさだめというか、最初の仕事というか、結婚式でおふたりが、「最初の仕事です」みたいにして、「ケーキ入刀!」ってやりますけど、人類は、最初に泣く。あれ、なんで泣いているのか。泣き声には、それぞれ特徴があるんですよね。恐れであるとか、空腹であるとか、暑いの、寒いの、違いがある。お母さんはそれを感じるらしい。で、泣き声の分析、それによれば、最初に泣くのは、「こわいよ~」「寒いよ~」みたいな、恐れなんですね。もちろんね、息をさせるために、泣きださなかったら大変。お尻たたいたりして、泣かせるんですよね。あれって、人生最初のひと息でもあるわけでしょ。それまでは、へその緒とおして酸素が入っていたのが、肺呼吸に移行する瞬間。それは、人として、これから人生が始まっていく感動のひとときなんだけれども、同時に、その声を調べると、孤独とか、恐れ、不安が入っているっていうのは、象徴的ですね。人生ね、一番最初に感じるのが、不安なんですよ。当たり前ですよね。37度くらいのあたたかいお腹の中でのんびりしてたのが、急に肌寒い外に放り出されるわけでしょう?泣かずにはいられないですよね。最初に感じた、その不安。それは、人生最後のときまでついてくるんです。そして、最後の最後、やっぱり一番の不安は、死への恐れですよね。だけどね、考えてみたら、お腹の中から生まれてくるときの不安と恐れで始まった人生だけれど、その先に、この世界が待っていたわけじゃないですか。出会いがあり、おいしいものがあり、楽しいことがあって、恋愛なんてあったりしてね、もう世界はバラ色、あなたと一緒にいるだけで幸せ。そんなの、生まれる前は想像もつかなかったことでしょ?自分の言葉で、こうしてものを語る。一緒に映画を観て、感動する。青い空を見つめて、心が開かれていく。そんなもの、お母さんのお腹の中にいるときはわからなかった。何にも、知らなかった。だから、痛い思いをして、放り出されて、「おぎゃあ」と泣く。それは、わかるけれども、「だいじょうぶなんだよ」と。その不安はずっとつきまとうけれども、それは、「だいじょうぶなんだよ」と。それを言い続けるのが宗教の仕事というか。生みの苦しみはあるし、不安は抱えたけれども、それがあるからこそ、いいこと、いっぱい。仲間たちと一緒に活動し、家族なんてものを与えられてね。それはやっぱり、生まれてくること、不安をかかえること、それをくぐり抜けなければならないんですよね。だから、「死」も、次に生まれていくプロセスだって信仰があったら、このあと、天に生まれていって「おぎゃあ!」と言うんだっていう、その信仰があったら、なんか、ちょっと違ってくるんじゃないですかね。お母さんだって、子どもに「いつまでもお腹の中にいたい」って言われたら、困るでしょうけど、神さまだって、そう。よい準備期間を経て、生みの苦しみを経て、永遠なる天に生まれていく。胎児が、大自然の恵みも、出会いの喜びも、芸術の素晴らしさも、何にも知らなかったのと同じように、ぼくらはまだ、天の国の恵みを、何にも知らない。ただ薄々、感ずることができる。胎教ってあるでしょ。一番効果的に、お腹の中の赤ちゃんに何か届けたかったら、お母さん自身が歌うこと。そうすると、体が振動するじゃないですか。それが赤ちゃんにも響く。だからお母さんは音痴でもなんでもいいから、いっぱい歌ってあげるといいんですよ。音楽って喜びが、幸せな気持ちが、振動、響きで赤ちゃんに伝わる。それで言うんだったら、神さまの胎教ですから、完璧なんですよ。神さまが本当に素晴らしい歌声で、素晴らしい愛なる思いで、私たちによいものを与えてくれてますから。それに、気づかないと。神さまがどれだけ愛を語ったり、素晴らしい出会いをつくったりしても、見ないし、聞かないし、まったく無駄に過ごしている。それを受けとめるのが、芸術だったり、宗教だったりじゃないですか。神さまは本当に素晴らしいことをなさっている。それを受けとめて、そして神さまの世界に生まれ出ていくことを待ち望むわけですよね。胎教でこれだけなんだから、本番はどんなんだろう。本当に素晴らしいフルオーケストラを聴くと、涙があふれてきますよね。響きだから。理屈じゃないんですよ。この世が薄々でもそうなんだから、天上はいかばかりか。全天の天使が神にハレルヤ、ハレルヤって歌ってる。まあ、もののたとえですけど、どんなんだろうね。そういう希望を持ってないと、この生みの苦しみ、準備期間を、本当によいものとして生きていくことって、難しいでしょう。赤ちゃんの泣き声を聞くと、いつもそのことを思う。天に生まれ出ていった、最初の泣き声。それは、まだ不安を抱えているんだけれども、天で初めて吸い込む天の空気。天で初めて仰ぎ見る、神のみ顔。そして神のみ手に抱きしめてもらえる。まあ、それはもののたとえ、文学的表現だけど、そんな表現が0.00001%もかすっていないというほどの、「天の真実」というものがあって、その天への希望を新たにする。・・・祈りましょう。天の父よあなたのもとに向かって歩む、この人生の旅路を祝福してください。まだまだ準備期間中、まだまだ生みの苦しみの途上ですけれども、あなたのもとに、感謝と希望をもって、生まれ出てまいります。不安の中にも、真の喜びを深く味わう日を待ち望みます。みんな、共に、ひとつの家族として、あなたのみもとに生まれていくことができますように。主キリストによって』アーメン。ちなみに赤ちゃんは、お話が始まったら、泣きやんでしまいました。何か心に響いたのかな?福音を必要としている人が、直接お話を聞くことができる状況が戻りますように祈ります。Lydia