✞ 風かおる丘で ~カトリック浅草教会・上野教会 入門講座ブログ~ ✞
  • 12May
    • 素晴らしい役割を持った演奏家として

      ある日の上野教会でのお話から(38)第二朗読もう1回見てくださいね。パウロが獄中からも祈ってるんです。あなたがた一同のために祈る度に、何て書いてあります?いつも喜びを持って祈っています。獄中でですよ。困難の多い遠い教会に手紙を書いてる。このフィリピの教会もいろんな困難を抱えている。でも、喜びを持って祈ってます。それはもう最初の日から今日まで福音に与かってるからです。神の業なんです。6節、「あなた方の中で良い業を始められた方がキリストイエスの日、これ完成の日ですね、その日までにその業を成し遂げてくださると私は確信しています」。もうこの指揮棒は振られて曲が始まったんですね。僕らはそれを演奏していくし、やがてそれは完成する。名曲だし、それを演奏していることも誇りにも思うし、それが響き渡るとき、感動が生まれる。この後にですね、私、好きな言葉があるんです。「本当に重要なことを見分けられるように」っていう。大事ですね、本当に重要なこと。日常のことに惑わされて、自分が何か素晴らしい役割を持って演奏家として、美しい曲を神に捧げてるっていうようなこと。そのために愛し合う。そのために忍耐する。そのために祈り続ける。そういうことを忘れちゃわないように。そして、それをちゃんと見分けて、その直前にあなた方の愛がますます豊かになりって書いてあるでしょ。知る力と見抜く力を身につけて、愛が豊かになる。誰かのために少し犠牲を捧げるとか、困ってる誰かを受け入れるとか、もう少しみんな仲良くなれるように、自分がなんか働くとか、なんかそういう愛っていうものがますます豊かになって、重要なことを見分けていく。人生素晴らしいじゃないですか。そんなことができるんですよ。(2018)Paula

  • 11May
    • 希望 神さまの業が完成するとき

      ある日の上野教会でのお話から(37)今日、預言書が読まれましたけれども、さっきなんとなく、皆さんね、この預言書を聞いてましたけれども。1行目、「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ」。だから、まだ泣いてる場合じゃないってことですね。がっかりするようなこともあるけれども、神から与えられている、その栄光の世界。それで皆さんも自分自身を、あるいはこの教会を飾ることができる。キーワードとしてはやっぱり喜びだと思いますよ。最終行も見てください。「神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる」。今、この預言者のビジョンでは、イスラエル、確かに打ちひしがれている現実があったけども、「泣いてるな、そんな不幸の衣を脱ぎ捨てろ!」「慈しみと義をもって、栄光の輝きを神さま自らが現わして、喜びのうちに導いてくださる」。それこそイスラエルという名曲がですね、今もうクライマックスを迎えようとしている。この預言書のクライマックスはもちろんイエスの誕生ですけれども。さっきミサ始まったときに、ここで深々とお辞儀をしまして、こう顔をあげたら、不在のイエスですよ。イエスがここにおられないわけでしょ。これ待降節だから当たり前ですね。ここに馬小屋セットを飾ります。これ何のためかと言うと、待降節。今からイエスさまが本当に来られるんですよ。完成するんですよ。演奏でいえばクライマックス。本当になんかベートーベンの第九がジャーンと最後ね、収まるように、ここにイエスさまが来られる。それを司祭がこう持ってね、ミサの始めにやって来て、ここにイエスさまをちゃんと安置して、それで完成と。神さまの御業なんですよ、この世界は。完成に向かって、我々は待ってる。今、待降節なんていうのは、そのイエスさまを携えた司祭だか何だか、こう少しずつ近づいてくるところ。もうすぐその完成のとき。神さまの業が完成するときが来るっていう、この希望。毎日ワクワクして当然なんですよ。俯いてる場合じゃないっていうことです。(2018)Paula

  • 10May
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      Mission ミッション

      東京さくらトラム (都電荒川線)沿線は、🌹✨薔薇ロ―ドまさに今 満開です。💕.•*¨*•.¸💗¸♬.•*¨*•.¸¸💖♬.•*¨*•.¸💞¸♬❤💕.•*¨*•.¸💗¸♬.•*¨*•.¸¸💖♬.•*¨*•.¸💞¸♬❤地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。詩編 98:3答唱詩編典礼聖歌 149番♪とおく地のはてまで すべてのものがかみのすくいを見た嗚呼!素晴らしいまさに神を世界の王として賛美する素敵な詩編ですね先週木曜日の御ミサで、久しぶりに神父様の歌声を拝聴して感慨も深くこの典礼聖歌を聖歌隊で歌った記憶も次第に遠くなりゆく 「大沈黙」の今、愁いや戸惑いも少なからず感じておられるのではないでしょうか?そんな私たち 皆さん!「大丈夫!」昨日、復活節第6主日に神父様の力強いお言葉を聴きました。だから大丈夫!最近気付かされたことは、「すべてを感謝すること」の真の難しさ。自分の思い通りにならないときや、望んでいないものをいただいたときに、いや、むしろ、自分の思い通りにことが運んだときにこそ真価が問われているのだと気付きました。思い通りにいかなかったときに、「私の望んだものではありませんでした。でも、ここにあなたが与えてくださっている恵みが隠されていることを信じます。」と、祈ることが出来る母 (代親) のような達観した敬虔なキリスト者にはまだまだ 程遠い 未熟者の私ですが、共に学びつづけたいと思います。そして、ミッション召命私の霊名は "小さき花のテレジア"「愛」 が召命私も人を愛することをミッションに掲げて生きたいと思います。時には、ミッションインポッシブルのような?使命もあるかもしれませんが、それでも大丈夫!神の前で報告する時を楽しみに今を喜び楽しみましょう。嬉しい出来事がひとつ、私の友人の転会式が決まりました。(プロテスタントからカトリックへ)何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。コヘレトの言葉 3:1💞年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず花は毎年同じように咲きますが、今観ている花は去年の花ではありません。私たちも生まれ、育ち、学び、働き、やがては年老いていつの日にか、天に帰ります。そして、私たちが生きて捧げた祈りは神に届かない筈が決してありません。だから大丈夫!🤍🕊今日も良い日でありますようにシャロームコロナに負けるな!Lisieux

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      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定入門講座は、5月の間、すべての講座が休講となります。緊急事態宣言延長ですね。みなさま、心と体にどうぞお気をつけください。また元気にお会いできますようにパンデミックの終息を願って、現地&ネット配信を通して心を合わせて共に祈る「ロザリオの祈り」が行われています。「ロザリオの祈り 菊地大司教とともに」→ 東京大司教区YouTubeチャンネル本日12時より第二週配信開始「祈りのマラソン」→ VATICAN NEWS(YouTube)日本時間翌日午前1時ライブ配信。アーカイブあり10日(月)アイルランド For all people with disabilities11日(火)ベルギー For all the poor, the homeless, and the economically distressed12日(水)アルジェリア For all people who live alone13日(木)ポルトガル(ファティマ) For all prisoners14日(金)インド  For all scientists and medical research institutions15日(土)ボスニア For all migrants16日(日)オーストラリア For all victims of violence and human trafficking以前のお話『 100%の信仰をもっているか。やはりどこか疑いや恐れが忍び込んでくるわけでしょう。生身の脳みそを抱えていたら、それが無いっていう人はいませんよね。・・・今日の新聞、川柳欄大好きですけど、さっき読んでて、「AIも “記憶にない”  と言うだろか」っていうのがあって、「微妙な川柳だな」と思いながら、ひとりで笑ってたんですけど、AIも「記憶にございません」って言うだろうか・・・、面白いね。それが一番「秀逸」になってたのがわかる気がする。逆にそれが、人間を逆照射するわけですね。AIは、そういうプログラムにすれば言うかもしれないけど、そうでなければ、絶対言わないわけですよね。全部、記憶にあるんだから。人間は、やっぱり、どこか、生身の脳みそ抱えてると、「いや~、・・・記憶にございません」って、「憶えてるでしょ!」っていう話なんだけど、そいうことをするわけですよね。人間って、面白いね。ずるいし、身勝手だね。だけど、人間くさいね。弱いね。愛がないね。でも、やっぱり人間だね。そういうことですよね。そこは、なんでしょう、極端なことを言えば、神さまがそのような弱さ、ずるさ、汚さを全部織り込み済みで人間というものをつくり、導き、そして究極の人類に向けて、進化させ続けているわけですよね。だから、まだ未完成であるっていうことは、すごくいいことですよね。未完成であるっていうことは、希望があるってことですね。完成した世界にはもう「希望」ってないんですね。ちとつまらないね。希望がないってね。だって希望っていうのは、未来のことでしょう?「今は〇〇だけど、やがて××」っていうのが、希望の本質ですよね。向かっている。完成されていく。やがて到達できる。変えていただける。清められる。救われる。この痛みはやがてなくなる。その希望ですよね。なんか問題があるから、希望があるわけでしょう?「希望の宗教」と言われるキリスト教は、その問題自体を問題にしてないんですね。その問題を、変えていけないことが問題なんですよ。今の問題は、それは当然。大前提。足りない部分がある。当たり前のこと。でもそこを神さまが補ってくださる。どれほど汚れていても、ちゃんと変えてくださるという、その希望ですね。教皇は、その希望を、ただ口で言うだけでじゃなくて、実際に、「あぁ、ほんとにそうなんだ」と感じられるようなしるしで示してくれって言っているんですよ。たとえば、全然見知らぬ人が教会に来ても、「一緒に食べましょうよ」と誘う。これはしるしですね。もしかしたら、その人が人生で体験する、一番重要な出来事になるかもしれない。そういう体験というものを、教会が「真の希望を行いで示す」ってね。キリスト教の希望の根拠は、イエスの復活にある。教皇はこう言うんです。(参照:2017年10月4日一般謁見演説:カトリック中央協議会HP)もし福音書がイエスの埋葬で終わっていたら、一人の預言者の話として、理想のために人生を捧げた多くの英雄伝の中に付け加えられていたことでしょう。それはためになる本、なぐさめられる本になったかもしれませんが、希望を告げる本にはならなかったでしょう。ところが、イエスは復活した。それはあらゆる人にもたらされた知らせであるだけでなく、私たちを聖霊の力によってつくり変えてしまうできことだった、と。あらゆる悪、闇、それが必ず、必ず、光に、よいものに変えられるというしるしが大事。弟子たちが圧倒的に体験したのは、「イエスの復活」です。だから、その後、「弟子たちが信じていること」が、イエスの復活のしるしになっていったんですね。それから、私もイエスの復活を信じて、その弟子たちを信じて、「福音家族集会」をやっている。そうすると、「福音家族集会」自体がイエスの復活になっている。それで、教皇は、こう言う。空が曇っているとき、太陽について語ることのできる人がいるのは幸いなことです。したがって真のキリスト者とは、決して不平を言ったり怒ったりせずに、復活の力のおかげで、次のことを確信している人です。すなわち悪は永遠ではなく、終わりのない夜はなく、完全に悪い人はだれもいず、愛を受けつけない憎しみはないということです。これは、希望ですね。キリスト教の確信です。あらゆる悪は、いつまでも続かない。争いだったり、苦しみだったり、アヴィラの聖テレジアの言葉がありますよね。どんな苦しみも永続しない。苦しみは終わる。そういう希望なしに生きることって、人には不可能なんじゃないですか。希望がないと、人は苦しみに、恐れに、痛みに、負けちゃうんですよ。だから、「イエスの復活」はひと言で言えば、「希望」なんですよね。復活の風は一気に広まった。やっぱり信じている人。それによる喜び、それによる一致、そういうものに触れることで、まだ「イエスの復活」に触れていない人の心が晴れる。この前の福音家族集会の時に、たまたま教会に来て、「一緒にどうぞ」と招かれた方が、「本当に来てよかった。私のための集まりでした」と、そう言って去っていって、三日後には入門講座に来た。それは、その方の復活なんですよ。彼女がなぜ闇の中から復活しているか。聖霊の風に触れて、火が灯ったんですよ。その風はずーっと伝わってきたもの。イエスの復活の感動、輝き、喜びは、二千年経っても途切れることなく、消えることなく、燃えている。理論上、燃えるものさえあれば、炎はずーっと同じに何千年経っても伝わっていくじゃないですか。燃えれば、一緒。千年経とうが、二千年経とうが、そういう魂の内なる、聖なる霊の働きを知っている者は、魂の医者となって、復活のイエスさまがふーっと息を吹きかけたように、誰かに息を吹きかける。そこから、何かが始まるわけですね。イエス・キリストからの、真正の復活の風を受けていると、信じてほしい。それが、希望なんです。』Lydia

  • 07May
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      福音を告げる声

      以前のお話『 余談ですけど、昨日の入門講座である方のお話を聴いていたとき、私、その方のお仕事を当てたんですよね。話聴いてて、当てられるお仕事ってなんだと思います?まあ、正確に当てたわけじゃないですけど、「あの~、全然関係ないけど、〇〇さん、声のお仕事なさってるでしょ?」「わかりますか?!」って。なんて言うんでしょう、「1/fゆらぎ」みたいな声を持っている人なんですよね。聴けばわかりますけど、普通にしゃべっているようでいて、倍音が響いているような、ただ澄んだ声っていうんじゃなく、きちんと人々の耳に届く。美空ひばりが、1/fゆらぎの声を持ってた。ちょっとだけ、鈴が鳴るみたいに響く領域があるんですよ。だから、機械的じゃない。とてもヒューマンであったかい声なんですよね。「わかりますか?! 神父さんもいいお声ですよね」って言われましたけど。(笑)』晴佐久神父さま、確かにいいお声です。どんな時でも、真っすぐ天の父を仰ぎ見る気持ちにさせてくれるというか、心に深く響く、不思議な声ですね。以前、主日のミサで神父さまの第一声を聴いただけで、「もやもやが晴れて、元気になった」と言っていた方もいました。また、ある方は、初めてミサに来られた時、(当時市ヶ谷の援助修道会で行われていた「おかえりミサ」だそうです。公式Facebookはこちらです→『おかえりミサ』)神父さまの声を聞いただけで涙が流れてきて、最後まで泣き通しだったそうです。聖体拝領のときに祝福をいただいたら、おうちに帰っても頭の上がぽかぽかしていたとか♪そして確かその翌週、入門講座に来てくださったのでした。でも足を痛められて、数か月間、教会に来ることができなくなってしまったのですよね。どう体の態勢を変えても痛くて、眠れない夜もあったと、あとでお聞きしました。そしてついに久しぶりに、杖をついて教会に来てくださった時、ミサと入門講座に参加されたあと、なんと!帰りにはお元気になられて、笑顔で杖なしでお帰りになられました。ビックリしました。。。そんないいお声の神父さまですが、この前のミサの帰り道。「なんか今日、神父さま、声に元気がなかったね」「あ、私も思った!」「やっぱりお疲れなんじゃない?」なんて話を、みんなでしながら帰りました。歯がめちゃくちゃ痛くてつらくても、悟らせずにお話しする神父さまですが、コロナも含めて、いろいろ大変なのだと思います(多分)。どうか神父さまのために、お祈りください。。。Lydia

  • 05May
    • 急いで来てくださる聖母の画像

      急いで来てくださる聖母

      上の画像は、Matthewさんが去年の聖霊降臨の主日の前日(5/30)に撮影した上野教会のマリアさまです。気持ちが明るくなる写真です♪今年も、「百合を聖霊降臨のときに咲かせてね☆」という無茶ぶりなリクエストが来ていると、花壇のお世話をなさっている方がおっしゃっていました。はたして、どうなりますか???さて、話は変わりますが、今日は「こどもの日」ですね。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日だそうです。Lisieux さんが「Mother's Day」の記事で聖母のことを書いてくださいましたが、「こどもの日」もまた、母に感謝する日だったのですね。そんな「こどもの日」にピッタリなお話が、パパさまのいろいろなお話が載っているブログ『教皇フランシスコいろいろ』に載っています。初聖体の子どもたちへのお話です。抜粋します。全文はコチラです→ 2013年5月26日「イエスさまはわたしたちが歩けるように力を下さる」主任神父さんのことばを聞いてマリアさまのことでとても素敵な話を思い出しました。マリアさまはイエスさまのお母さんになるだろうということ、それから従姉のエリザベトさんに子供ができたということを知らされた時、これを聞いてすぐ、って福音書に書いてあるんですけれど、急いで、待たずに、『わたし、今お腹に子供がいるから、わたし、自分の健康管理をしないといけないから、きっと従妹にはお友達がいて、きっと助けてくれるから』とは言わずに飛んで行きました。マリアさまは何かを感じて、そして急いで行ったのです。(割愛)マリアさまはいつもそういう風です。マリアさまは、わたしたちが何か必要なことがあったらいつもすっ飛んで来てくれるわたしたちのお母さんなのです。連願に、「急いで来てくださるマリア、わたしたちのためにお祈りください」というのが加わったら素晴らしいでしょうね。なぜならマリアさまはいつも急いで行ってくれて、その子どもたちのことを忘れないからです。子どもたちが大変な時には、何か必要としていることがある時には、マリアさまに呼びかけると、急いで来てくれます。そしてこれがわたしたちといつも一緒に、すぐ真横にお母さんにいてもらえる安心感を与えてくれるのです。そう、お母さんが近くにいてくれる時、人生をよりよく歩んでいけるのです。わたしたちを待たせることなく近くにいてくださるマリアさまのこの恵みについて考えましょう。マリアさまはいつもわたしたちを助けるためにいてくださいます。このことに信頼しましょう。それから、マリアさまは神さま、イエスさまのことをよく分かるように助けてくれます。イエスさまの生活について、神さまのいのちについてよく分かるように、主ってなんなのか、主は、どのような方なのか、神さまって誰なのか、よくわかるように助けてくれるのです。この「急いで来てくださるマリアさま」のお話を思い出しのは、最近、マリアさまが「急いで来てくださった!!」と感じる出来事があったからなんです。先月、弟から「車で事故った」というLINEがきたんですね。ビックリしましたけど、「信号待ちで車を停車している時に追突されて、今警察を待っているところ」ということでしたので、大事故じゃなくてホッとしつつも、ほとんど骨髄反射のように、ロザリオの祈りを一環捧げました。「弟を憐れんで、とりなしてください」と。ちなみに木曜日で光の神秘でした。そうしたら、ちょっといいことがあったんです。弟の車の前にもう一台、信号待ちの車がいたんですね。でも事故の影響がなかったので、信号が変わったらそのまま発進して、いなくなってしまったそうなんです。でも、しばらく経ってから戻ってきて、「信号待ちで車が停まっていて、信号が青に変わった瞬間にもの凄い衝突音がした」と警察に証言してくれたんです。事故現場の近所の方だったらしく、一度家に帰って服も着替えたんだけど、「気になって、やっぱり戻ってきました」ということでした。夜遅い時間でしたし、お疲れだったのではと思いますが、この方が戻ってきて証言してくださったおかげで弟は助かりました。本当に感謝しています。翌日、頭と首が痛むので病院に行きました。全治二週間の頸椎捻挫でした。修理に出した車を見て、自動車会社の人が「これは、ものすごい衝撃だったんじゃないですか?」と言ったそうですが、それにしては怪我が軽かったので、「神さまが守ってくれたんだよ。良かったね~!!」と言ったら、無宗教の弟もこの時ばかりは神妙な顔をしてました。(いつか彼が受洗の恵みに与る日が来ることを密かに夢見ています…)。怪我のほうは大事なかったのですが、追突した相手の保険会社からいっこうに連絡がこないのです。ご本人に電話しても、全く出ません。警察に話しても、この程度のことでは大した対応をしてくれず、なんとなくいや~な感じになりつつ、やっと電話がかかってきたと思ったら、弟の保険会社の担当の方からでした。相手の保険会社からの連絡を待っていると話したら、何かを察したのか、病院と警察に連絡を取って、テキパキと処理を進めて、数日後には弟の保険の範囲内で全ての処理を終わらせてくれました。その時に、第三者の証言があったおかげで、弟に過失がなかったことが警察に認められて、保険の等級が下がらずに済んだんです。弟は、事故に遭った上に、その相手に逃げられてしまったことで相当ダメージを受けていたので、そのことがすごく嬉しかったようです。私は、聖母のおかげだと思っています。急いで来てくださったんです♪今月、パパさまの強い希望を受けて、パンデミックの収束を願って、ロザリオの祈りが行われると聞いて、本当に嬉しく思いました。ヴァチカンも東京教区も、最後のロザリオの祈りは5月31日「聖母のエリザベト訪問」の日に行われます。きっと、急いで来てくださる聖母が、コロナ下のさまざまな状況で助けを必要としている方々を、み心にかなったかたちで助けてくださると信じます。ロザリオの祈りがたくさんの方に広まって、パパさまがおっしゃるように、お母さんが近くにいてくれる安心感をもって、誰もが人生をよりよく歩んでいくことができますように祈ります。聖母に愛と感謝をこめて。Lydia

  • 04May
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      Mother's Day

      もうすぐ "母の日"母と云えばマリア様マリア様は "海の星の聖母" とも呼ばれています。ラテン語:Stella Maris古来の呼び名です。あなたは誇り高い海を支配し波が高く起これば、それを静められます。詩編 89:10 新共同訳新しい歌を主に向かって歌え。 地の果てから主の栄誉を歌え。 海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの 島々とそこに住む者よ。イザヤ書 42:10 新共同訳代母を "godmother" とも呼びますね私の母は既に天に召されましたので、今はマリア様とgodmotherだけ今年の母の日は何を贈ろうかな~꒰* ॢꈍ◡ꈍ ॢ꒱.*˚‧ WAKWAK♡新緑の美しいこの季節街は、パレットをひっくり返したように色とりどりの花々が咲き誇っています。この美しい季節を、いちばん美しい聖母に捧げられるようにと、5月は「聖母月」と呼ばれているのだそうです。聖母マリア様の花として真っ先に "百合"を思い浮かべる方も多いでしょうそして、🌹薔薇もマリア様に相応しい白バラ 花言葉 「永遠の愛」気品と優雅な美しさとを漂わせる花の一つに、今咲き誇っている山吹もあります。ヤマブキ 花言葉 「気品」「崇高」山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり高田女王(たかだのおおきみ)そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、ルカによる福音書 1:46‭, ‬48マリヤ様の心の美しさが際立っています。礼拝者としての心、喜びと感謝、そしてへりくだった心を持っています。ご自分のことを「卑しいはしため」と呼び、その自分に目を留めてくださった神様に感謝しています。マリヤ様はご自分が罪びとであることを認め、神様を「わが救い主」と呼んでいるのです。マリア様を母と慕う私たちは幸せです。この世に生きる私たちの悲しみも、喜びも、すべて味わわれた御母が私たちの母となって、常に寄り添っていてくださるからです。「私はあなたを愛します。永久に私を捧げます。」リジュ―のテレ―ズ365の言葉よりロザリオを祈る事が大好きな私、マリア様を母と慕い、これからも主とともに歩ませて頂けますように。「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」とも言われます。春から夏へ美しい日本、美しい地球コロナが終息致しますように今日も良い日でありますようにシャロームコロナに負けるな!Lisieux

  • 03May
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      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定今週はすべての講座が休講です。晴佐久神父と、牧師の奥田知志先生の対談(5/1)→ 『「日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会シンポジウム』(YouTube)5月は聖母月です。この聖母月に、教皇フランシスコの強い希望を受け、パンデミックの収束を願って「祈りのマラソン」が行われています→ 『聖母月、世界の巡礼地から毎日ロザリオの祈り中継』(VATICAN NEWS)→ 『教皇、バチカンから世界の人々と共にロザリオの祈り』(VATICAN NEWS)今回の祈りのテーマとして、ペトロが牢に入れられてしまった時の「教会では熱心な祈りが神にささげられていた」という使徒言行録12章5節の言葉が掲げられています。上の画像は、主に遣わされた天使がペトロを牢から解放する場面を描いたものです。ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」(使徒言行録12・11)教皇の意向を受けて、東京教区で行われるロザリオの祈り第一回の配信は本日12:00です。→ 『「ロザリオの祈り 菊地大司教とともに」第一週』(カトリック東京大司教区HP)ロザリオの祈りは、カトリック信徒に限られたものではなく、さまざまな方たちが祈り、聖母のとりなしの恵みを受けた証しがさまざま語られています。よろしかったら、ぜひご参加ください以前のお話『今日はこれから、札幌に行くんですよ。なんか、だいぶ寒いらしいですけど、お天気はいいらしい。こっちより、4、5度低いのかな?「何を着ていこうかな~?」って感じですけど。私の母が洗礼を受けた教会ですね。私の母は、戦時中は普通の軍国少女だったんですけどね、終戦後、アメリカの文化が一気に入ってきて、「若草物語」とか、ああいう映画ですね。すごく感動しちゃって、憧れて、「教会」なんていう所に興味津々で、その頃出来た教会の見学に行ったんですね。そこで、アウグスティノ神父さまにつかまってというか、オーストリア人の神父さまですけど、「毎週、来なさい!」って言われて、断れずに行った。「洗礼、受けましょう!」って言われて、断れずに受けたって、そう言ってましたけどね。ただ、「神父さまの言葉はよくわからなかったけど、一生懸命勉強した」と。その信仰の本質について、ちゃんと理解したわけではなかったけれど、ともかく、このアウグスティノ神父さまの瞳の美しいこと。、「この人だけは、嘘はつかない」と思った、と。だから、信じた、と。それで、洗礼を受けた。やっぱり、キリスト者を通して、信仰って広がるんですね。人から人へ。これはもう、イエスから弟子へ、弟子からその弟子へ。救われた人が救われる人をっていう、当然の流れではあるんですけど、キリスト教のとても重要な本質なんですね。その本質は今もずっと続いてるわけです。』Lydia

  • 30Apr
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      なんくるないさー

      東京タワー333匹の鯉のぼり「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」今日からは、七十二候 「牡丹華」(ぼたんはなさく)です。緊急事態宣言発令下のGWに入りましたが、皆さまお元気でしょうか初夏を思わせる青い大空に、緑の風の中を🎏鯉のぼりが悠々と泳いでいました。並んで仲睦まじく泳ぐ鯉のぼりに私たち神の家族を重ね合わせて思いました。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。エフェソの信徒への手紙 3:15人種や階級が違っていても、父なる神を中心として一つにまとまり、家族愛に生きることをエフェソ教会の兄弟姉妹に願ってパウロは書いたのでした。そして、父はぶどうの木わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。ヨハネによる福音書 15:5父なる神に繋がり、一つにまとまり、家族愛に生きるなら「 なんくるないさー 」※人として正しい行いをしていればどうにかなるさ、の意味沖縄で牧会をしておられる私の母教会の牧師の明るい口癖が、青空の向こうから聞こえて来るようでした。いつの間にか、私の口癖も・・・「 なんくるないさー 」 (*´▽`)ノノ『 わたしの行く道はすべて天の国へ続く絲綢之路 (シルクロード) のようでありたい。』使徒ヨハネ 李 相源 神父明日は、夏も近づく八十八夜風薫る5月、風かおる丘で、励まし合い助け合い、ともに歩んでまいりましょう。入門講座が再開されて再び お逢い出来ますようにどうぞ ご自愛ください明日も良い日でありますようにシャロームコロナに負けるな!Lisieux

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      神さまは全部用意してくださっている

      昨日は、東京大司教区の司祭叙階式が行われましたね。ヨハネ・マリア・ミカエル 古市匡史神父さまとフランシスコ・アシジ 小田武直神父さまです。神に感謝→ 『東京教区に新司祭誕生!』(カトリック東京大司教区HP)以前のお話『 いろ~んな方が集まっていますが、神さまが呼んでくださったんでしょう。「神さまが全部用意してくださっている」という聖書をさっき読みました。「ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てた」(cf.マタイ21・33)それが、この世界をおつくりになった神さまっていうことでしょうけど、そこに雇い人たちを集めたのも神さまですし、私たちは、ある意味全部、神さまの準備してくださった世界で、生まれてきて、生かされていて、育てられ、出会わされ、その神さまに実りをお捧げするために日々を過ごしている。だから、まあ、「あぁ、今日、ここに集まれたことは本当によかった。こうして出会えたことはほんとによかった。私たちが共にいるのは、神さまのみ心によるものだ」そういうことを私たちは信じて、神の愛、神のみわざを体験する、これがこの入門講座です。体験学習ってやつですね。だから、変な言い方ですけど、ここにいればいいんです。ベトナムから来られた・・・〇〇さん? この喉の発音が難しいんだよね。留学で最近日本に来られて、今日初めて教会に来て、だから日本語もよくわからないけれど、今ここに座っている。これは素晴らしいことです。神さまがこうして私たちを出会わせた。神さまの家族。だからそれを感謝して、味わいます。もちろん一緒に暮らしてるわけじゃないし、何か月ぶりかっていう人もいるし、もしかしたら年に一度かもしれない。それでも、神さまが結んでくださっている。だからぼくらは一緒にいて、一緒にこの実りを神さまにお捧げする、そういうことになると思います。さっきのミサで話した、失恋した彼も、だいぶ顔を輝かせて帰っていきました。ついつい説教では、「またいい人に会えますよ」なんて、いい加減なことを言っちゃいましたけど、まあ、いい人に会うかどうかはともかく、少なくとも、「神さまが素晴らしいみわざを行っておられる」、これは信じます。だって、素晴らしくいい人はもう現れないかもしれないけど、もう現れなくてもいいや、「自分は生涯、教会で生きていく」と決心して、神学校に入りますなんて未来なのかもしれないですしね。・・・あ、余談ですけれど、私が洗礼を授けた20代の若者が「自分も教区司祭になりたい」という決意を表明したメモを置いて、先日帰って行きました。なんかちょっと嬉しいですよね。そういう決心をしてから先、どれほど大変かっていうことを、私は体験でよく知ってますけど、まあ、それでもね、嬉しいですよ。決意表明した彼、ずいぶん苦しんで、悩んだんですよ。教会を離れていた時期もあった。そして、いよいよ今、そういう気持ちになっています、と。そういうのってね、神の計画ですから、ちゃんとこう、うまく準備して、導いているわけですから、みんなをね。「今のこと」で判断しちゃいけないんですよね。「今までのこと」でも判断しちゃいけないんですよ。今まで、いいこともいっぱいあった。つらいこともいっぱいあった。今も、何かとても苦しい思いをしている。だけど、これから、神さまが素晴らしいみわざを一層行ってくださる。私たちは、そんな神の愛を知らずに生きてきたけれども、あるいは、知っていながら、忘れていたけれども、あるいは、忘れていないのに、全然それに応えられないでいたけれども、でも、これから、神さまが何か素晴らしいわざを行ってくださる。この私も一層神さまに目覚めて、何か変わっていける。そういう希望があるんです。この希望っていうのに、ぼくらは支えられて、生きているわけですから。彼女と別れちゃったっていう彼も、現象としては、大切な人から「もう別れよう」と言われたという、すごくつらいことのようでいて、実は、大きな神さまのみわざの中に、ちゃんと備えられていることなんだから、今は、信頼して、その現実を受け入れる、と。そこが、とてもキリスト教的な考え方。あるいはそういう訓練、それをしていったらいいと思います。「希望の党」が大騒ぎしているけど、本当の「希望」っていうのは、リベラルだと思う。でも日本で言ういわゆるリベラルと違って、「寛容さ」だと、私は思う。現実を受け入れて、お互いに、忍耐強く一緒にやっていく道なんですよ。だから、希望があるんです。「アメリカファースト」とか、なんか希望がないでしょう?そう言う感情はわかるけど、「排除だ!」って排除して、本当の幸せが訪れるのか?・・・なんだか、希望が薄そうじゃないですか。邪魔なものを全部排除したら、幸せになれる。・・・あり得ないことなんですよ。邪魔なものを全部排除したら、残ったものの中で、また邪魔なものが現れるわけでしょ?蟻の実験で、働かない蟻を全部取りのけたら、残りの内の二割がやっぱり働かなくなる。それをまた取り除いたら、その残りのまた二割が働かなくなる。それはもう、自分にとって都合の悪いものをとりのいていっても、必ず、都合の悪いものは残る。だから排除の原理でいくと、最後は、一人なんです。夫婦ですら、相手を受け入れるのが大変だって言っているのに、まして家族は、まして隣人は、まして社会全般は、まして他の民族は、全然そんな一緒にできっこないじゃないですか。でも、寛容とか柔軟性、自由、そういう含みをもっているリベラルは、寛容に、忍耐強く、一緒にやっていけば、必ず「神の国」が訪れるから、今、目の前の人をまずは受け入れるところから始めよう、と。この考えですよね。排除と受容の二つのベクトルは、はっきり分かれていて、本来は、原理主義と普遍主義のベクトルと一緒なんです。「神さまのみわざを信じる」ということにおいて、つまり、「どんな状況も必ずよくなるんだ」という信仰において、私たちには希望があるんだ。今の自分の判断じゃなくて、神さまのなさっておられることを受け入れる。第一朗読にありましたよね。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのになぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」(イザヤ5・4)わたしがこれほどやってきたのに、あなたたちは、まだわたしにしたりないことがあると言うのか。わたしは我が子のために、必要なことは全部揃えている。なのに、あなたたちはそれをわかってくれない。』『 里山を開墾して、登り窯で焼き物をしている方。五右衛門風呂なんですよね。私も去年、いれていただきましたけど、本当によく温まるんです。そこに、よもぎの束が置いてあって、「これ、何にするんですか? お風呂の中に入れていいんですか?」って言ったら、「いやいや、それで背中をたたくんです」と。お湯でパンパンと、「こうするものなんですよ」って教えてくれて。そういう風情のある五右衛門風呂。晩春で、山桜が散り始める頃。かえるが鳴き始めていて、初夏の匂いがふわっと立ちのぼってくるような素敵な季節でした。人間の考えたことを超えたものが働く。いろんな要素がつながりあって、ひとつの世界が現れる。彼は、そういう生活の中で、やはり神を感じている。このような大自然の中で、神の恵みをしっかり味わって、たとえば一つの焼き物が焼きあがっていくことの中に、人間の力を超えた不思議を見ている。とても普遍主義的な信仰をもっているんですね。普遍主義的だというのは、「こうでなきゃならない」と決めつけるのではなく、忍耐強く、寛容に、現実を受け入れながら、「すべてを通して神さまが働いておられる」という感覚ですね。とてもリベラル。寛容に、柔軟に、そして、自分の本質は誰にも侵されないという自由をしっかり持って、この世界と向かい合っていく。「ありとあらゆるものに神さまの息吹を感じて」なんて言っていると、ちょっとね、汎神論の、すべてに神さまを見るような・・・、ありがたい滝に手を合わせたりする感じに聞こえるかもしれないけど、滝に手を合わせる。私はそれはすごく当たり前のことだと思う。別に、滝が神だと言っているわけじゃない。「このような神聖な滝が生み出されていることに、神さまの特別な恵みがあらわれていることをすごく感じます」という、すべてを通して神の本質に触れるという、恵みのセンスのことです。自然界の中で生きていると、だんだん、そういうセンスが養われていきます。本来、人類が何十万年って持っていたセンスですね。そのセンスが極まってくると、どうしても普遍主義になる。普遍主義っていうのは、どっちの神さまが正しいだとか、この掟を守らないと罰せられるだとか、原理主義的なものに非常に違和感を感じるんですね。日本人の心のうちに、大自然の中で四季折々の恵みを受けとめながら、そこになにがしかの超越的な愛を恵みを感じて、「ありがたや、ありがたや。かたじけない」と手を合わせて生きていくような心根が深くあるわけですよね。キリスト教も本質はそれなんだということを、自然界と深く関わって生きている方は、現場でひしひしと感じている。ぼくらもそこから離れちゃいけないんだなということを思い起こすべきですね。イエスさまもよく大自然のたとえ話をしますでしょう。こんな一粒の種から空の鳥が巣を作るほどの木に成長するとか、その種がどうして育っていくのかわからないけれども、それは人手によらず実を結んでいくじゃないか。すべて、神さまのなさっていることなんだ、と。神さまは正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるじゃないか。空の鳥を見なさい。なんにもしなくても、神さまが養ってくださる。神はこの大自然の中で、私たちを本当に生かしてくださっている。安心して、信頼して、何があってもそれは神さまのみ手のうちなんだと、そう信じて生きていきなさい、と。大自然から離れ、こういう部屋で、100%人間がつくったものに囲まれていますけれども、この部屋の中で、神さまがつくったものが一つだけある。それは、あなたです。そればっかりは、神さまがおつくりになったまんま。塗ったり、はったりしてる人もいますけど。(笑)神さまがおつくりになった。本来、ぼくらは、天然の世界の中で天然に生きていた。そこから離れているから、あらゆる問題、孤独、悩み、怒り、争い、そんなことが起こってくる。神の恵みの中で、すべて、神に生かされているという、そういう感謝、感動、信頼をもって、生きていた縄文時代の人たちと違って、現代人は、品種改良とか、人間の力ですべてを支配しようとして、袋小路に入りました。どこかで目覚めて、本来の、天然の中で生かされている人間というものを見つめ直す、ギリギリのところにきているんですね。人類は、この与えられた地球という環境の中で、神さまからあずかった恵みをみんなで分かち合って、正しく用いて、活かしていく使命を持っている。そのことが教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には書いてある。さすがに、人類の本当の幸せを求めてきたキリスト教。さすがに、自分を犠牲にしても、みんなを生かしていくことこそが、人類にとって本当の幸いを生み出すんだという、キリストの言葉とわざを受け継ぐキリスト教のトップは、さすがなことを言うんですね。時代を先取りし、全世界の国家に共通している、普遍的な価値について、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において表現してくれました。ぼくらはそのことに誇りをもって、学んでいただきたいと思います。感動的な回勅ですよ。家族でごはんを食べているときに、一人の子どもだけすごく量が少なくって、お兄ちゃん、お姉ちゃんはいっぱい食べてたら、おかしいでしょ?それ、家族じゃないですよね。「なんで、ぼくはこんなに少ないの?」って言ったら、お母さんが「あらあら、ごめんなさい。間違えちゃったわ」と言って、お兄ちゃん、お姉ちゃんの分を戻すわけですよね。当然です。私の母だって、おやつを分けるとき、私には奇跡にしか見えなかったけど、ちょいちょいちょいと分けるんだけど、ピタッと同じに分けてくれますもんね。それはもう、神さまには当然のこと。もしかすると、平等どころか、一番貧しい人、一番弱い人、障害を背負っている人、自分の弱さゆえに犯罪を犯してしまった人、そういう人たちを最優先にする。生まれ育ちの環境やカッとしやすい遺伝子とか、自分ではどうしようもない運の悪さによって、排除され、追いつめられた人たちのところに、教誨師としていくことができるのは本当に嬉しいことです。犯罪のようなことが起こらない環境を、大切につくっていかなければならないという意味で、みんなの責任なんですよ。一番弱いところに、苦しい現実が目に見えて出てくるわけですよね。もしも「これが家族だったら」という目で、一人ひとりを見る。自分の息子が死刑囚になっても、お母さんだけは面会に行ったりするわけじゃないですか。それがやっぱり家族っていうものでしょう?他の人たちは裁いて、「あんな奴、いなくなればいい」と思っているけれど、神から見れば、みんな我が子なんだから。私たちは、家族が家族になっていくプロセスを生きているわけで、この世界は、実は、本当はみんな家族なんだから、全く見知らぬ人に見えても、この人を自分の家族だと思えるかどうかのチャレンジっていうのをしている。すごく大事なこと。天然自然の中で生きていれば、そういう、「一緒にこの世界で助け合って生きていこう」っていう家族観が育つんだけれども、個人主義になって、一人ひとりバラバラで生きているから、ますます天然自然から離れてしまって、家族として一緒にいようとするチームを作るのはとても難しくなっちゃった。そんな中で、教会がチャレンジしているんですよね。』Lydia

  • 27Apr
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      晴佐久神父より NO.15(浅草教会報)

      教会の薔薇 2021年4月25日撮影ヒメヒオウギアヤメ主任司祭 晴佐久昌英 つい先日の朝のことです。おりしも二日後の日曜日から三回目の緊急事態宣言が発令されると報道されて、どこか気の重い金曜日の朝だったのですが、新聞を取りに行こうと司祭館の扉を開けた瞬間、目の前に咲いている一輪の花に、思わず「おお!」と声をあげてしまいました。花の名前は、ヒメヒオウギアヤメ。そんな名前を覚えることができたのも、思えばコロナのおかげです。 思い起こせば昨年の同じころ、一回目の緊急事態宣言が長引いて外出もままならずに過ごす日々でしたので、毎朝のミサの後に教会の庭を散歩するのが日課になりました。いつも目にしているはずの庭も改めてそぞろ歩けば、「おお、こんなところに山椒の木が」とか、「これって、ローズマリーだよね」などと新鮮な発見も多く、「見ているようで見ていない」とはこのことかと、思わされたものです。 そんなある日、なんとも美しい色の一輪の花に目が留まりました。日本画の顔料で使われるような気品のある桃色に、ほんの少し朱鷺(とき)色を混ぜたような色合いです。花びらは六枚なのですが、目を引くのはそのうち下側三枚の花びらの一部が臙脂(えんじ)色なのです。直径三センチほどの小さな花なのに静かな光を放っていて、不思議と目が引き付けられてしまいました。スマホで写真を撮り、「花の名前検索アプリ」で調べてみると、ヒメヒオウギアヤメという花でした。漢字で書くと「姫檜扇菖蒲」で、まさに特徴的な三枚の花びらが扇に見えるのでそんな名前になったのでしょう。 その独特の色合いと、凛とした佇まいにすっかり魅せられてしまい、それからは毎朝眺めて和んでいたのですが、初めはほんの数輪だけ咲いていたのが、気づけばそこかしこで花開き始め、ひと月も立たないうちに無数に咲き誇ることとなりました。これはしかし、この教会で暮らし始めて早五年、毎日この庭を通っていたのに、こんな美しい花に気づかなかったということであり、ある意味衝撃的でした。もったいないというか情けないというか、せっかく神さまが用意してくださった美しい恵みの世界にも気付かず、いったいどこ見て生きてたんだってことですから。 イエスさまはガリラヤの風薫る丘で、集まった人々にお話ししてくださいました。「ほら、足元の草花を見てみなさい。頑張って働いてるわけでもないのに、こんなに美しく咲いている。あなたたちも、まことの親である神さまがちゃんと生かしてくださってるんだから、何の心配もいりません。大丈夫ですよ、神さまに全部お任せして安心して生きていきましょう」 今回の緊急事態宣言もいったいいつまで続くのか、変異ウイルスが今後どのように広がっていくのか、ワクチンは本当に効果あるのか、政府も専門家も誰もわかっていません。まさに「神のみぞ知る」ですが、これを別の言い方で「み心に委ねる」と言います。今のコロナ時代に、イエスならこう言うに違いありません。「信仰の薄い者たちよ。何を食べようか、何を着ようか、感染せずに生きていけるか、ワクチンは手に入るかと言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神さまの愛に包まれて生きる神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。明日の世界を思い悩むな。その日の苦労はその日だけで充分だ」 あれから一年がたち、何とか生きながらえてヒメヒオウギアヤメに再会することが出来ました。こちらは思わず「おお!」と声をあげてしまいましたが、花の方は相変わらず「働きもせず紡ぎもせず」(マタイ6・28)、天の父にすべてをゆだねて、静かな光を放ちつつ、そこに咲いているのみ。次の一年こそは、すぐ身近で静かに輝いている神の恵みを見過ごすことなく、信頼と安らぎに満ちた日々にしたいと、心に深く願ったのでした。教会のヒメヒオウギアヤメ 2021年4月25日撮影(2021年5月1日号)写真のご提供ありがとうございます。

  • 26Apr
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      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定今週はすべての講座が休講です。参照:カトリック東京大司教区 菊地功大司教→『日本政府の三回目となる緊急事態宣言発出を受けて』気持ちのよい季節ですね。大変な状況ですが、心の奥に喜びがありますように祈ります。みなさま、ご自愛ください。以前のお話『 企業の幹部や幹部候補生のためのリベラルアーツの講座で話したんですが、このパンフレットに「大局観」なんて書いてあるけど、大局観って言うんだったら、「縄文までさかのぼれ」といつもの調子で。「ちょっとの時間、ちょっとの期間もったところで、そんなものがなんになるか」と。やっぱりほんとの幸せをつくりたいんだったら、まず、縄文までさかのぼる。縄文のひみつは、「福音家族だ」と。それはどういうことかっていうと、全員が、血縁でなくても運命共同体ですから、お互いにセーフティーネットになって、協力し合ってるわけですよね。そうじゃないと、もたない。そうじゃないと一万年なんて、続きませんよ。「自分だけ得をしよう」とか、「こっちのチームだけがいっぱいため込んだ」とか、そんなことがあったら、一万年続かないんです、人類は。日本で縄文時代が一万年間栄えたのは、そういう知恵があったからですね。もっとも、八ヶ岳のあたりの集落なんか見ると、だんだん、だんだん、増えていって、あるとき、閾値に達して、急に減っていく。それで縄文時代が終わっていく。人類の閾値っていうのがあったはずなんですよ。「これだけの自然の中で、これだけの人が生きていく」という限界っていうのがね。幸せではあるんだけど、バランスがどうしても必要だった。やがて弥生の人たちが入ってきて、農業を始めたら、一斉に縄文人たちは奥へ、奥へと追いやられていって、山の中で細々生きていたけれども、やがて消えていった。縄文人の、一万年間自然の中でバランスをとって作ってきた、その秘密は、私はやっぱり「家族」にあったと思う。弥生の人たちから一斉に、家族が特定の血縁だけになり、あとはバラバラ。それを束ねるための国家権力、そして国同士の争い、そんなところにいくわけですけど、縄文のときはそんなことはやってなかった。誰かが倒れていたら、助ける。他のチームの人が倒れていても、助けると思う。ごくごく普通に。当たり前に駆け寄っていた。それが家族だからというか、自然、本能に根ざしたような行為として、やっていたはず。だから、言い方を変えれば、縄文人は全員、マザー・テレサだった。倒れている人をみんな、助け起こしていた、当たり前のこととして。長じて、人間が増えてくると、そうも言ってられなくなる。いまや、路上生活者が横たわっていると、ドキッと一瞬、ぼくらの中に残っている縄文人が「なんとかしなきゃ」っていう気持ちにはなるんだけど、そこはまあ、フィルターかけて、そんなことしてたらもたないから、「なかったことにする」と思うんだけど、心にザワッときたその思いは消えずに、ストレスとなって残っている。現代社会に、知らずに沈殿しているストレスって、縄文あるいはクロマニヨンの「家族の本能」みたいなものを抑圧してるゆえのストレスなんだというのが私の直観です。だから、おとといの企業の幹部候補生たちの講座でも話しました。企業も、家族でなければ、多分もたないと思います。あるいはほんとの意味を見つけられないと思います。よく言われることですけど、日本なんかも、昔は会社が結構家族でしたよね。うちの親父の勤めていた会社なんか、50年前ですけど、子ども心に見ていても「会社ってみんな仲いいんだなぁ」って思いました、会社のすぐ裏に住んでいたんで。みんなとっても仲いいんですよ、お互いに。休憩時間にはキャッチボールしたり、晴佐久さんちの子どもっていうんで、みんな可愛がってくれたりね。ぼくなんかが会社をうろちょろしたって別に叱られるわけでもない。建設会社だったんで、大阪万博の頃、お祭り広場の模型とか、なんとかパビリオンの手作りの模型が置いてあって、そんな所にいくと、声かけてくれて、ほんとに家族的だった。あるとき、喧嘩があった。夜ね。残業してた人たちなんでしょう。喧嘩して、誰かが、「晴佐久さん、止めてよ!」って言って、・・・晴佐久さんが上司だったのかな?呼びに来て、親父が夕飯中だったんだけど出ていった。やがて一人、連れて帰ってきた。そうしたらもう、泣いててね。「悔しい~!!」って。「ゆるしてやろうよ」「悔しいじゃないですかぁ、晴佐久さん!」って、泣いてる。ぼくらは飯食っててさ。(笑)ちっちゃい家ですよ? 六畳と四畳半。彼を家庭祭壇の前に座らせて、「あのキリストさまだってね・・・」って父が言うんですよ。「何も悪いことをしてないのに、十字架につけられて、それでもみんなを赦してくださった。それが一番大事なことなんだ。人間として、なんちゃらかんちゃら」と。ぼくはまだ小学生だったけど、子ども心にね、「・・・父さん、それ、無理だよ」って。(笑)キリストのこと、全然知らないんだからね。スコップ持ち出して殴り合ってたけど、でも社員全体が「じゃあ、警察だ」ってならないわけですよ。「晴佐久さん、止めに来てよ」って。あの頃は終身雇用でもありましたし、だからこそ、だんだん時代に合わなくなって、滅びていくっていう面はあるにしても、今でも、業績が上がっていて、社員の幸福度が高い企業がテレビで紹介されますけど、創業者が「うちの企業は会社じゃなくて、社員はみんな家族なんです。私はそう思って接しています」とかって言ってるわけですよ。言うからには、それだけのこともするわけでしょう。トップが百億とか儲けていて、一番下はブラックで過労死してますっていう企業もある。生き馬の目を抜く中でトップがすごい采配をして儲けて、それは確かに儲かってるのかもしれないけど、じゃあ、みんなの幸福は、あるいは社会全体の幸福にどれくらい寄与しているかっていうと、微妙じゃないですか。そんな中でね、どんどん会社を大きくするわけじゃないけど、「うちの企業の目的は、働いている社員の幸福です」って言いきるトップがやってると、お互いに協力し合うし、いろんな問題をお互いにクリアしようとする。だって、家族だから。「あの部署が滅んでも、俺は関係ない」「あいつが失敗してるのは、いい気味だ」「これで俺のほうが昇進できるぞ」家族だったら、そういう感覚ではないじゃない。「おまえに任せたよ」とか、「あいつを助けるために残業する」とか。そういうセーフティネットが出来上がっていると、実は強いんです。そういう現場は。その企業も、こじんまりしながらも伸びていく。だから、「家族」っていうのはキーワード。勿論、そうは言ったって、ほんとの血縁の家族同然にできっこないのは当たり前。だから、悩むわけですよ。そのリベラルアーツの講座でもね、「質問!」って言って、「そうは言っても、神父さん、とても家族だとは言ってられません。やっぱり、そういう人は退職していただかないと、企業全体にとっても迷惑じゃないですか」っていう話になる。だから私ね、「もし家族だったら、退職ってないわけですよね」と。その人をもう一回ゆるし、その人をもう一回育て、その人がいることに意味があると信じて、なおもその人とコミュニケーションをとり、歴史を重ねていくわけですよね。もし切っちゃったら、「実は、その人が役に立ちました」とか、「その人がいたおかげで」っていう世界は、知らないわけです。でも、家族って十年、二十年、一緒にいるから、それによって生まれてくるつながりというものの中でこそ、一致が生まれたり、利益が生まれたりするってことを・・・「信じる」ってことなんですよね。家族は、信じるだけで成り立っている。この子が何度裏切っても、「もう、うちの子じゃない」と言わずに、信じるから、その子は「信じられた」ことで、力を発揮して、成長していくわけです。家族っていうのは、そうやって成長していく。企業だって、そうじゃなければ成り立たなくなっていきますよ、というお話をしているんであって、グローバリゼーション、新自由主義も極まって、役に立たない者はどんどん削っていくみたいな話になると、やまゆり園じゃないけど、障害のある者はいらない、なんて世界になっていく。そうじゃなくって、会社の中にも、障害のある人がいて、役に立たないと思われる人とも誠実に付き合ってっていう、家族的なものがあったときに、その企業は、本当に長い目で見て、広い、深い目で見て、「役に立っている」企業になっていく。やっぱりトップには、そういうね・・・。家族のトップが、たとえばうちの親父が「みんな、仲良くするんだ」って、やってるように、親父が自分の身を削って、家族みんなのために働き、家族の一致を願い、家族の幸いこそが目的であるっていうんでないと、じゃあ、なんのために働いているのか。この企業はなんのために存在するのか。そこにこれだけ努力して、協力している自分のモチベーションはどうなのか。モチベーション、もたないんじゃないですか?ここに必ずヒントがある。それを実現するのは難しいのはわかっていますけれども、そっちが目標だという方向に向かって、一歩、また一歩と進めていくための勉強をここでしているんですっていうお話をしました。家族だなんて言ってると、儲けがなくなっちゃったり、ライバル企業に負けちゃうんじゃないかっていう質問をする人もいる。それはそうだろうなと思うんだけど、だけどね、ちょうど車のリコールのニュースが報道されてた。その車が本当に問題ないか、専門の資格を持った人が検査する最終検査を省いた。車は事故を起こしたら、人の命に関わることなので、そこはやっぱり国家資格を持った人が検査するルールなのに、理由はわからないけど、一般社員がその検査をしていた。それが常態化していた。大問題になりました。百二十万台のリコールですよ。おかげで、二百億だか、三百億の損失。ぼくの車もね、該当車の可能性があるんですよ。これから、リコールの通知が来るかもしれない。買って、三年半だけど、ちゃんと検査してないから、ボルトがポロっと落ちて、死んじゃうかもしれないわけですよ。私は問いたい。「もしも、家族だったら」という問題提起を、企業もしていただかないと、困るんです。「客は死んでいい」ってわけにいかない。仮にそう思ったとしても、「自分の愛する娘に車を買って与えるとき、自分の会社の車の最終検査を素人がやっているとわかってもなお、その車を娘に与えますか」と。もしそれで事故が起こって、娘に何かあったら、後悔してもしきれない。きっとね、娘の車だけ、国家資格持ってる社員に検査を頼むか、他社の車を買っちゃうね。(笑)「もしも家族だったら」こういう感覚ってエキセントリックではなく、かつては、縄文人は一万年、「家族だから」ってやってた。技術にしても、システムにしても。三内丸山遺跡の真ん中にある、大きな聖堂のような建物は、勝手な想像だけど、折々の儀式のときに、一緒にごはんを食べてたんだと思う。それが一番大事な、チームが家族であることのシンボルだったんだと思う。普段は血縁ごとに食べてたかもしれないけど。これからの時代のあり方として、まして教会なんてところは、血縁を超えた家族を取り戻す、そういう働きとして、宗教の役割はすごく大きい。リベラルアーツの講座、今回は上野教会の聖堂に参加者に来てもらって話したので、上野教会の、大きな石の祭壇。「これは、祭壇っていうものですけど、これは、カトリック教会の最高のシンボルなんです。なんだかわかりますか?これは、食卓なんです。ここでパンとぶどう酒を捧げて、みんなで一緒にごはんを食べるっていう、最後の晩餐のときの、あのイエスの食卓を、二千年経っても最高のシンボルとして、真ん中に置いて、みんなでこれを囲んで、ごはんを食べているんですよ」と。みんな、「ほ~」と聞いておりましたが、都会の真ん中に、山栗とクルミと山梨を送ってくる方にすごく感動しましたし、そんな思いで、企業のど真ん中に、「一緒ごはん」の恵みの本質をお届けしたという次第でありました。「家族ならどうするか」って、問題提起であって、答えはない。問題提起が大事。家族ってね、答えなんかないんですよ。子どもをどうやって育てるか、夫婦がどうやって付き合うか、義両親とどうやって暮らすか、悩み、模索し、いつも揉める。だけど、家族なんですね。揉めたことで、悩んだことで、家族も成長していくわけです。だから、肝心なことは、「家族だったらどうするか」と問題提起をしながら、悩みかつ模索すること。一番まずいのは、「家族じゃないんだから」と言って結論を出しちゃうこと。何も生まれないわけですよね。警察に訴える、不動産屋に間に入ってもらう、その前に、「もしも家族だったら」とチラリとでも考える。「とても家族同然にはできない」という答えがほとんどだと思う。それでいいんです。できなくても構わない。ただ、チラリとでも、「家族だったらどうするか」という問題提起をしてほしい。一度でもいいから、「もし相手が自分のおじいちゃんだったら、自分はどうしただろう?」と、ふっと考えてみる。それだけ。育児だって、答えがないんだから。親が悩み、忍耐している姿が、子どもを育てたりもしているわけだから・・・でしょ?変な定義だけど、「家族とは何か」と言ったら、「家族として一緒にいる」人たちが家族って言うしかないわけですよ。それは、一日だったら簡単、一週間だったらなかなか大変、一年っていったらもっと。家族は十年、二十年でしょう?その大変な思いを引き受けることで、でも家族になっていく。なっていくことで、家族の喜びを知り、それが結果的に自分をも救ってくれる。こういう道でしょう。家族として、ただ悩むしかないわけですよねぇ・・・。答えはない。逆に答えがあったら、こわいですね。それを実行しなきゃならない。そうじゃない人たちは、家族じゃなくなっちゃうわけだから。いつくしみ深い天の父よあなたの恵みの中で、このひとときを過ごします。あなたが私たちを恵みの受け手として、生んでくださり、育ててくださり、出会わせてくださり、今日のひとときを与えてくださったことを心から感謝いたします。家族という喜びの現場を私たちが大切に育てていくことができますように。私たちの主キリストによって』アーメン。Lydia

  • 23Apr
    • 【金昼】神さま、この出来事はなんなのですか

      今日のミサでは、使徒言行録9章1-20節が読まれました。これは、カトリック浅草教会の守護の聖人でもある使徒パウロが回心する場面です。キリスト者たちを迫害するために旅をしていたパウロが、天からの光に照らされ、復活の主から語りかけられます。その後、パウロは目が見えなくなりますが、主に遣わされたアナニアが手を置くと、目からうろこのようなものが落ちて、元通り見えるようになります。『 有名な言い方ですね。「目から鱗」って、ここが出典です。一番普通に使うのは、よくわからなかったけど、ある人から教えてもらって、目からうろこが落ちたように「そうだったんですね!」っていう思いになる時ですよね。聖書には「目からうろこのようなものが落ち」って書いてありますが、「うろこ」ってよくわかりませんが、大抵の場合、半透明ですよね。完全に遮断されているわけではないけど、言うなれば、ちょっと濁ったコンタクトレンズのようなものが入っていて、それがポロリと取れたら、すっきり見えるようになりました、そんなイメージでいいと思うんですよ。この半透明のうろこ。パウロにいつから入っていたんですか?生まれたときからでしょう。「目が見えなくなりました」っていうんだけど、そのときに目がふさがれて、それがまた見えるようになりましたっていう、この出来事は、パウロが、生まれてからずうっと、ある環境、ある教え、ある律法、ある人間関係の中で育てられてきて、パウロ自身のうちにある、本当に素晴らしいものがふさがれていたわけですよね。そこを思い巡らしていただきたいんです。本当にいいものを持っていても、環境や教えやさまざまな半透明の、本物をきちんと見ることのできない「うろこのようなもの」がくっついちゃうと、それを通して、ものを見ますから、「色眼鏡で見る」って言い方がありますけど、もう色眼鏡かけちゃってたら、どんなに目を開いても、そうとしか見えない。洗脳っていうことですね。パウロなんか、生まれたときから、その環境、その教え、それを熱心に学んで、世界はそういうものだと思い込んでいたわけですし、さらに、我々で言うなら、生まれたときからこの弱肉強食の資本主義社会、格差社会、競争社会。「こんなもんだ」って思い込まされて、駆り立てられて、「仕方がない」と諦めさせられて、だいぶ、こう、半透明の、濁ったうろこが目に入ってるんじゃないかと思うんですよ。やっぱり世の中は相当濁ってますから、そんな中で適応しちゃうと、もう骨の髄までその濁った毒素がまわっちゃってて、なかなかスッキリと「神の国!」ってわけにいかない。それは、誰もがみんな、そうなんじゃないですかね。いろんなうろこがくっついてくるかもしれないけど、ポロっと落としながら、生きていかないとってことでしょう。それで言うんだったら、「どうやったら落ちるのか」っていうことで、パウロの場合は、いきなり光の体験をするわけですね。これは向こうから、来る。一方的に、神さまの側から、イエスの側から近づいてきて。そのときに、パウロが「主よ、あなたはどなたですか」って聞くんですよね。これはすごく大事だと思うんです。光にドーンと包まれて、「サウル(パウロ)、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」って言われたときに、「主よ、あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」・・・人生で、ドカンといろんな出来事がありますけれども、不条理な出来事、病気とか、災害とか、倒産、失業、死別、いろんな「ドカン!」という出来事がありますけれども、見えなくなって、馬から転げ落ちるような、究極の、人生が変わるタイミングに、「この出来事はなんですか?」っていう。「これ、なんの意味があるんですか?」「これ、なんなんですか?」私は、「どうなっちゃうんだろう?」っていう、そういうときに、目をそらすとか、逃げるとか、単なる意味のない不条理な出来事だとかいうんではなく、さすが、パウロ。「これはなんなんですか。そう言うあなたはどなたですか」パウロにしてみたら、今までの人生を全部否定されるような、すべてを失うような、そういう体験を今しているんだけれども、そのときが、「イエスと出会うとき」なんですよ。衝撃的な出来事はイヤだから、穏やかに生きていきたいって思うのは、人として普通のことではありますけども、向こうから来るじゃないですか、災難って。いきなりやって来るんですよ。誰のせいでもない。この世界を生きていれば、必ずぶつかる、さまざまな困難。そんなときに、それを、ただ恐れて、ただはかなんで、ではなくて、向かい合って、質問するんですよね、パウロ。「あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」突然、馬から転げ落ちるような、そういう体験をさせるのも神ならば、そこから導いて、今度また同じように、全く見知らぬアナニアがやって来て、頭に手を置いて、「目からうろこ」みたいな救いの道を、一方的に、圧倒的に用意してくれるのも神であって、そういう出来事と向かい合って、私たちは、神を知る。キリスト教の、この「死から命へ」「闇から光へ」それは、元々私たちのうちに神さまがちゃんと与えてくださってる恵みを神さまご自身が、試練を通して、十字架を通して、輝かせるという、そういういとなみとして、神さまは私たちを生かしておられる。おおよそ、そういうふうに思っていただきたい。パウロは、イエスと出会うために、そのような才能、力を与えられ、イエスから救われるために、まあ、洗脳の世界を生きていたわけであって、すべては神さまのみ手のうち。我々もいろんな出来事がありますけども、全部やっぱり神さまのみ手のうちに備えられてるんだってことを信じて、何があろうとも、逃げず、怯えず、諦めず、「この出来事はなんですか?」ってね、主に向かって問い、主ご自身がその出来事をちゃんとよいものに変えてくださるときを待つ、と。必要な助け手は、必ず向こうからやって来て、そして目からうろこが落ちたときの、その爽やかさったらないですよってことですよね。今日も美しい日ですね。この美しい光を受けとめる。これ、何が素晴らしいかっていうと、光が当たらないと、全然だめなんですよ。緑の色にしても、葉っぱに反射する輝きや葉っぱの透過光、美しいですね。これ、光が当たらないとだめなんです。うろこが付いている目では何もちゃんと見えない。ちゃんとしたライトを当てないと、その絵の色が出てこないってあるじゃないですか。神さまの光を当てると、本来の色が出てくるんです。それを見たことがないんですよ、私たち。この私の、本当の美しさ、輝き、その色。この(教会の)庭だって、曇っている日に散歩してもそんなに美しくない。だけど、光が当たると、咲いている花の色だって、小さな実だって、美しい。光が当たると、その奥からの色が溢れ出てくるみたいな美しさがあって、その美しさは光が当たらないと、見えない。目にうろこが入っていると、神さまが見えない。神さまがおつくりになった素晴らしい世界が見えない。神さまから与えられた、この私の本当の輝きが見えない。パウロは、その光が当たって、見えたんです。パウロを包んだ光がどれほど美しかったか。それは、私たちにはわからないけど、その光が当たって、はじめてパウロは輝いたんですよね。「当たってよかったねぇ」ってことですし、今日みたいな美しい日は、太陽の光どころじゃない、もっと本源的な天地創造の美しい光が、この私を包んでいる、照らしている、そしてこの私を輝かせているっていう、それが見えるようになりたいですね。それが見えたら、もう、とても静かな喜びと希望が溢れてくる。神さまの光を全身で浴びていただきたい。』『 年取ったせいか、もっとナチュラルに、もっとストレートに、もっとシンプルに、「福音」っていうものを、言葉を超えた神の働きというか、体験として、感じ取ってほしいなと思うようになってきています。ごちゃごちゃ言わずに、今、その庭に出て、「世界は美しいねぇ」って言うほうが、神さまの愛に近づけたりするんじゃないかな、と。イエスさまは、ガリラヤの丘で、草っ原に座って話してたんですもんね。概ね、聞く人って、1回だけ聞いて、ふるさとに帰って行ったわけですよね。一発勝負。「いいから、足元の花を見てみろ」と。「神さまのわざはこうなんだ。明日には枯れてるかもしれない、こんな一輪の花がこの一瞬、光を浴びて、美しく輝いて、神さまの栄光をあらわしているんだから、まして、あなたたちはそうだろう」って言ってるわけですよ。神がなさっていることで、神におできにならないことは何一つないし、神さまはご自分の願いを必ずかなえるわけですし、神が「こうしたい」と思ったら、必ずそうなるわけですから、神がすべての人を救いたいと思って、語りかけたならば、人々の魂の世界にストンと落ちて、目的を達する。』『 パウロの回心。回心って、一番わかりやすいのは、パウロですよね。それは、「今まで間違ったことをしておりました。反省して、悔い改めます」とか、そういう話じゃない。うろこが取れちゃうってことですね。世界が違って見える。この宇宙に生まれてきた以上、人間の意味っていうものを本当に知って、その人間の意味を最も美しく、あらわしたのがイエス・キリストであるっていう、キリスト教の信仰の一番基本のところさえちゃんとつかまえておく。最も大切なことは、キリストとの出会いですから。』コロナ以外にも、いろいろある毎日です。自分で目のうろこを取ることはできませんし、神さまに問いかけ、神さまを信じて、光を待ちたい気持ちです。愛によって結び目をほどいてくださるマリアさまに祈りつつ。このあと、入門講座は、しばらく休講です。お休み中も、みなさまに、神さまの光に照らされるような、素敵な出来事がたくさんありますようにLydia

    • 4月28日(水)@上野教会は休講です

      3回目の緊急事態宣言が発出されますね。みなさま、すでに十分気をつけていらっしゃると思いますが、どうぞお気をつけください。休講のお知らせです。「スケジュール」にて開催予定となっておりました、上野教会の4月28日(水)19時の入門講座は休講となります。5月の入門講座については、元々この緊急事態宣言の間の講座は、休講となっております。緊急事態宣言明けの5月12日(水)19時@上野教会の頃に、状況がどうなっているのかわかりませんが、予定変更の場合はまたお知らせいたします。どうぞよろしくお願いいたします。Lydia

  • 22Apr
    • 明日に架ける橋の画像

      明日に架ける橋

      東京ゲ―トブリッジ (恐竜橋)江東区 若洲海浜公園にて穀雨 (雨降って百穀を潤す)が過ぎて、種まきや田植えを始める侯となりましたね3回目の "緊急事態宣言" が、間もなく発令されるであろう、非常に緊張感が高まる昨今ですが、皆さまお元気でいらっしゃるでしょうか?ある喫茶店で読書をしていましたら、懐かしい曲が流れて来ました。サイモン&ガ―ファンクルの「明日に架ける橋」聴かれたことありますか?天才的ソングライター、ポール・サイモンと、天使の歌声と言われたア―ト・ガ―ファンクルのデュオ最後の曲です。「明日に架ける橋」のフレーズは、聖書の中の "励まし" を意味する言葉として登場します。両手を広げたイエス・キリストが橋となって、私たちを自由で安全な場所へ導いてくださる、という話が元となっているのだそうです。サイモンがまだ無名の時、ハーレム地区の教会の中である曲に出逢います。それは荒れ狂う湖を渡って恐れる弟子たちのところに来てくださったお方、私たちを救うために十字架の上に身を投げ出してくださって天国への架け橋となってくださったお方、そしてやがては私たちの目の涙をことごとく拭い取ってくださるお方・・・そう その曲とは、イエス・キリストのことを歌ったゴスペル・ソングなのです。「あなたが私の名において信じるなら、私は深い海の上に架かる橋になってあげよう。」という意味の歌で、クロード・ジ―タ―牧師が歌ったこの曲に感動したサイモンは、やがてこの歌をもとにして「明日に架ける橋」を書き上げるのです。ジ―タ―牧師が歌う一節にI will be your bridge over deep water.私は深い海に架かる橋になろうそして、「明日に架ける橋」のサビの一節にはLike bridge over troubled waterI will lay me down荒れた海に架かる橋のように、僕はこの身を横たえよう「私は深い海に架かる橋になろう」というジ―タ―牧師が歌う詞も聖書の言葉をもとにしているそうです。Jesus walks on the waterイエスは湖の上を歩く夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。マタイによる福音書14:25この曲は、一度は嵐に隔てられてしまった彼ら二人をつなぐ架け橋ともなりました。この曲の中に込められている、御自身の身を投げ出してまで私たちを救おうとしてくださるイエス・キリストの愛が心に届くとき、わたしたちもまた、嵐によって隔たれている、誰かと誰かの間をつなぐ、「明日に架ける橋」となれるかもしれませんね海に架かる虹の橋撮影2020.11月 東伊豆にて明日に架ける橋サイモン&ガ―ファンクル「君が疲れてしまったとき肩身が狭く感じたとき君の瞳に涙が溢れたとき僕がすべての君の涙を拭い去るから僕は君の味方さ厳しく荒れた時を過ごすときそして友とよべるものが見つからないとき荒波の上に架かる橋のように僕のすべてを擲(なげう)つだろう荒波の上に架かる橋のように僕のすべてを擲つから君が一文無しになったとき君が路頭に迷ってしまったとき冷徹にも夜の帳が下りようとするとき僕が君を慰めるから僕が君の味方になるんだ闇が支配しようとしたときそして周りが苦痛に満ち溢れたとき荒波の上に架かる橋のように僕のすべてを擲つだろう荒波の上に架かる橋のように僕のすべてを擲つから」明日に架ける橋となれますように1970年に誕生した「明日に架ける橋」愛と友情、信頼と希望を歌ったこの不朽の名曲は、世代を超え、国境を越えて歌い継がれ、疲れ傷ついた魂を癒すゴスペル・ソングのように、今も愛されつづけているのでしょう。🕊‪𓂃 𓈒𓏸◌‬コロナ禍で疲れが溜まっていませんか?一人で悩んでいませんか?私たちが人生の嵐に遭う時にも、その身を横たえてくださって「私の上を渡って行け」とおっしゃってくださる方がおられます。やがて私の目の涙を全部拭ってくださる方が共におられます。決して一人ではありません空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。マタイによる福音書6:26🌈今日も良い日でありますように一日笑顔で過ごせますようにシャロームコロナに負けるな!Lisieux

    • 作曲家は神

      ある日の上野教会でのお話から(36)まぁ、そんなこと思って、たとえば今、朗読するんでも、ミサ捧げるんでも、一つの大きな宇宙の中で、今、自分がするべきことは何か。ただ、ただこう字面を追うんじゃなくて、きちんとやっぱりその言葉を解釈し、感動し、それをみんなと共有したいっていうその思いでね、読むにはどうかなと、ヒラリー・ハーンを聞いたり、セントマイヤーを聞いたりしながら、今日はそんなことをさっき思ってたっていうことなんです。で、話を皆さんの人生に持っていきたい。人生もやっぱりそういうことだと思うんですね。作曲家は神です。もうそれは神が造んなかったら何もない。生まれた曲は我々の人生です。皆さんは演奏家なんですよ。頂いた人生を精一杯自分で好きに生きているようだけれども、やっぱり神の大いなるね、働きの内に僕らは備えられてるんであって。それをやっぱり今日という日の出来事、昨日という日の後悔、明日という日の希望、そういうものは全部神様の御手の内にあるんであって。どの曲も名曲なんですよ。短い長い、なんかこう大きな音、静かな調べ、いろいろかもしれないけれども、どの曲も名曲です。神が造ったんだから。バッハの曲に不出来な曲なんか一曲もないですよ。本当にどの曲も神か!ってね、まさに「音楽の父」というか、全てを生み出してくるのは作曲家であります。我々はやっぱりその一つの、一つひとつそれぞれの曲を持ってる。後はそれを日々喜んで、退屈なね、ルーティンだけではなくて、ただこなせばいい仕事とか、もうやがて終わっちゃうんだなっていう不安とか、なんかもうそういうことではなく、今日頂いたこの自分というメロディーを、もう精一杯喜びをもって演奏する、そういう人生でありたい。やがてはそれが完成して、神の国への捧げものになるんです。そこにはやっぱり、その自分という曲が響く喜び、演奏する喜び、それが捧げ物になる喜び、ともかくワクワクするようなものがある。どうでしょう、皆さんは自分の人生ワクワクしてるんですか?もちろん怖いこともあるし、なんかもう演奏辞めたくなるようなことすらあるのは、これは、まぁ人間ですからしようがないけれども。でも、それでも今日という日があって、私たちはみんなでここに集まってワクワクしてるじゃないですか。これ、これは本当に私にとっては聖書の全てだと思う。(2018)Paula

  • 21Apr
    • 瞬間、瞬間を夢中になって

      ある日の上野教会でのお話から(35)私はこのヒラリー・ハーンの演奏を聴いて、本当に天才のお仕事なので、隙がない。完璧な演奏なんですよ。響きも美しい。構成も見事。堂々たるね、その弾きっぷり。なんていうんでしょう、端正っていうね、言葉が当たると思う。なんかこうわざとらしさのない、とてもナチュラルで端正な、そして、完全にそれをこともなげに弾き切って去っていく姿はもう女神か!みたいな感じで、とても美しい方でもあるんですよ。日本人のファンも多い。しかしですね、私、これ全部3曲聴き終えて、いや本当にバッハ、素晴らしい曲を作るなあと思って感心するんですけど。まぁ~こんなこと言うのは本当に僭越なんですが、退屈だった。退屈したんです。完璧なのに、美しい響きで、名曲中の名曲なのに、なんで退屈しちゃったんだろう?って、ずうっとそのことをね、思っていて。もうひとつ、全く同じ曲を去年の4月だか5月にトッパンホールで聴いてるんですね。これがトマス・セントマイヤーってドイツのバイオリニストですけども。これも世界的なバイオリニストで、とても有名です。ただセントマイヤーはちょっとなんていうんでしょう、自由奔放でね、評価は分かれるところでもあるんです。私はそれを聞いて本当に腰抜かすほど感動したんですよ。一秒、一秒だって退屈しなかった。無伴奏バイオリン、こういうことだったんだ!っていうのが目から鱗のように思って。それはもう僕にとっては一生のうちにこんなもの聴けたっていうだけでも、喜びであり、励ましでありみたいな。それは本当に退屈しなかった。なら、どこが違うのかって話なんです。人によって違いますよ。こういう話はもう、私はこう思う、私はこう感じるの話なんで、別に何が正解ってことがない。晴佐久はそういうふうに感じるんだなって程度の話なんですけど。私にとっては、セントマイヤーの演奏はともかくバッハのこの曲が嬉しくてたまんないんですよ。それを演奏することも喜びだし、その瞬間、瞬間に、この神が降りてくるようなひらめきがあって、それを弾いていることが楽しくてたまんない。それをただ楽しく弾いているだけでは曲として成立しない。だから、全体を全部俯瞰している、高見から見ている目。それを全部コントロールするもの、なんでしょう、解釈とか技術とか全部持った上で、その瞬間、その瞬間を楽しめる。これが音楽なんですよ。わかりますかね。まぁだから、ヒラリーハーンの演奏はいうなれば完璧で優等生、真面目なんです。いいんですよ。それなりに自分なりに歌ってるんだけれども、それをあなたは本当に今喜んでる?それをやってて楽しいの?完全なことをやるっていうことは評価もあるし、そうでないことは恐れもあるかもしれないけど、あなた自身がもうそのワンフレーズ、ワンフレーズ楽しく弾いてほしい!私の耳にはそう聞こえる。どうなんでしょうね。セントマイヤーはもうちょっと、なんでしょう、私に似たところもあるような性格で、瞬間、瞬間をね、夢中になって生きているようなところがあって。でも、やっぱりそれを通している大きな宇宙があるわけですね、楽曲には。(2018)Paula

  • 20Apr
    • 天国に連れて行かれるような名曲

      ある日の上野教会でのお話から(34)ちょっといつも以上に、格調高く朗読したつもりですけど、違いわかりましたかね?全然わかんないですか。先週、素晴らしいコンサートを聞いてきて以来、ちょっと思うところもあって、なんていうんでしょうね、やっぱり表現するっていうのはすごく大事なことですし、そこにいろいろ落とし穴もあって、いろいろ考えさせられたんです。ちょっとなんか私の趣味の話でね、申し訳ないんですけど、コンサートの話を最初にどうしてもしたい。ヒラリー・ハーンってご存知ですか?知らない・・・キョトンとしている方も多い。アメリカのバイオリニストです。今、40歳くらいかな。まぁ大天才だね、大人気で。有名なバイオリニストです。私はクラシックファンですけれども、生が好きなんですね。あまり CD とか聞かない。聞かないようにしているって言っていいくらいですけど。生の感動っていうものがあります。ヒラリー・ハーンの演奏は YouTube なんかでも聞いたりもしたこともあるし、ファンだっていう人の話を聞いたこともあるし、まぁどんなものかなと思って生聞きに行ったんですね、先週、初台のオペラシティコンサートホールに。美しいホールですね。ご存知ですか?コンサートホール、一度はあそこでね、なんかクラシック聞かれたらいいと思う。響きがいいし、雰囲気がね、とっても素晴らしい。特にバイオリン、ヒラリー・ハーンがバッハの無伴奏バイオリンの組曲を弾いたんですけど、そうすると、バイオリン一本ですから、ステージ上何もない。全く何にもない。スポットライトひとつ、ポンと当たってるところに、本人が出てきてね、バイオリン持って出て来て、弾き始める。あの緊張感というか、格調高さというか、出て来るまでのワクワク感も素晴らしいし、出て来て弾き初めて、その音がね、全員水打ったように静かなところで響き始める。それは芸術ってそういうもんですけれども、その一瞬に感動、喜びがあって、ときめくわけですよ。バッハの無伴奏バイオリン組曲ってご存知ですか?ソナタが3番まで、パルティータが3番まで計6曲なんですけど、だいたい6曲全部弾くなんていうのは時間が足りないんで、3曲、3曲に分けて二日かけてねっていうやつです。私は両方聞きたかったんだけれども、後半の水曜日の分しか聞けなくて、それはいいんですけども。バッハの6曲に亘る、無伴奏バイオリンの組曲。本当に何て言うんでしょう、人間がこんなものを作り出せるのかというような、とても壮大な緻密に構成されているんだけども、壮大な宇宙がそこに醸し出されるという、名曲中の名曲です。人類がこういうものを生み出す。神はこういうものを生み出す才能を人類に与えてるんだっていう、その人類の一部であることを誇りにも思うし、その曲に感動できることにも、なんかもう感動するし、そういう曲ですね。特にパルティータ2番の最終にシャコンヌっていう曲があるんですけど、これだけでもね、 CD や YouTube でもいいですから、覚えておいて、数分の曲ですから。パルティータ2番のシャコンヌですよ、覚えといてください。覚えた?なかなか後であれ、なんだったんだろう?なんだったんだろう?ってまた聞かれることが多いんで。シャコンヌですね。天国に連れて行かれるような、そんな曲です。(2018)Paula

  • 19Apr
    • oración 祈りの画像

      oración 祈り

      「教皇フランシスコの5本の指による祈り」の冊子を代親から頂きました。お祈りをする時、手を合わせます。その時、合わさる5本の指には意味があると教えてくださいました。この祈りは、教皇フランシスコがまだアルゼンチンの司教だった時に、人を祈りに招くのに用いたものだそうです。それぞれの指で祈りを捧げてみませんか🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐🖐教皇フランシスコの5本の指による祈り① 親指は、いちばんあなたのそばにある指です。このように、近くにいる人のために祈ることから始めなさい。かんたんに思い起こせる人たち、愛する人たちのために祈ることは、「こころよい義務」です。② 次の指はひとさし指です。教える人、教育する人、医療に従事する人のために祈りなさい。そこには、先生、教授、医者、司祭が含まれます。この人たちは、他者に正しい道を示すための支えと知恵を必要としています。あなたの祈りのなかで、いつもこの人たちを心にかけなさい。✞③ 次の指はいちばん高い指です。わたしたちのリ―ダ―が思い起こされます。首相、代議士、企業の経営者、指導者のために祈ること。この人たちは国の未来を導き、世論を形づくります。彼らは神に導かれることが必要です。 🙏④ 4番目の指は、薬指です。思いのほかいちばん弱い指です。この指は、たくさんの問題をかかえたり、病気のためにうちひしがれているもっとも弱い人たちを思い起こさせてくれます。この人たちは、昼も夜も、あなたの祈りを必要としています。彼らのためにささげる祈りが多すぎることはけっしてありません。指輪をはめるので、結婚のために祈ることも思い起こさせてくれます。⑤ 最後の指は、いちばん小さな小指です。わたしたちは、神と人びとの前で、このように自分を見なければなりません。小指は自分自身のために祈ることを思い起こさせてくれます。先の4つのグループのために祈った後で、正しく自分の必要が見え、そのためにもっとよく祈ることができるでしょう。🕊‪𓂃 𓈒𓏸◌‬「祈りにおいて、神はわたしたちを捉え、祝福し、裂き、皆のために与えられる。すべてのキリスト者は、神の御手の中で、裂かれ、分かち合われるパンとなるために召されている。」教皇フランシスコしかしあなたがたは知るがよい、 主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。 主はわたしが呼ばわる時におききくださる。詩篇 4:3 口語訳海の青さに、こころを染めたいときがある。長田 弘 ( 詩人、1939~2015 )人が悩むと海に行く理由もわかる。その瞬間に染まりたいのだ。🐬今日も良い日でありますようにシャロームコロナに負けるな!Lisieux

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      今週の入門講座

      入門講座 今週の予定カトリック浅草教会4月22日(木)19時4月23日(金)10時半 (週日のミサ10時)カトリック上野教会4月21日(水)19時4月22日(木)10時半 (週日のミサ10時)申し込み、事前準備、受講料、すべて不要です。お話しするのは、晴佐久神父です。22日(木)@上野教会、23日(金)@浅草教会では、10時から週日のミサがありますので、よろしかったらミサからどうぞ!!初めての方も、お気軽にお越しください。また新型コロナウイルス感染予防のため、マスク着用、アルコール消毒、検温等にご協力をお願いいたします。以前のお話『 信徒さんで陶芸家の友人からお便りと荷物が届いた。登窯(のぼりがま)っていう、大変な窯で焼いている方で、「窯変(ようへん)」っていう言葉があるでしょ?陶磁器を焼いたら、思わぬ色に変わる。人為を超えた、ですよね。ぼくはあんまり詳しくないんだけど、そういう窯変のようなことをあらかじめ織り込みながら、窯の火の加減とか、炎の流れを想像しながら、「どの位置に置くか」、それが勝負どころらしいですよ。彼は、「私たちは神の恵みの受け手である」と。非常に受け身というか、受動的に思うかもしれないけど、それを、大変積極的に生きていく。自然界の中で恵みを存分に頂きつつ、頂いた恵みに感謝しつつ、自分が頂いた恵みを活かして、共に幸いな世界をつくるという信仰生活。そういう生活を送っている方から、届いたダンボール。栗とか、クルミとか入っているんですよ。私、すごい感動したんですね、その「原生のもの」っていうのに。要するに、人手によらない、品種改良してない。そこに、たまたま生えていたもの。それって、だけど、縄文人が食べていたやつじゃない?色々とイメージがふくらんで、私、とっても嬉しくなっちゃって、栗ご飯を炊いたり、クルミを炒って、割って食べたり、おとといは、しみじみと日本の原風景である「里山の秋」を味わって、つくづくと思った。人の幸せって、クルミ1個に神の愛を感じるとかね、栗ご飯を分け合って食べて、手を合わせて感謝して、「いただきます」とかね、それ以上でも、それ以下でもないと思うんですよ。本質的な、「恵みの受け手」としての人の存在、その意義。都市で生まれ育って、都市で死んでいくと、もしかすると、何かとっても大切なことを何も知らずに、生まれ死んでいくのかもしれない。ぼくは前に不思議なたとえを考えたんだけど、コンクリートの建物の中の一室で生まれて、そのまま一歩も外に出ず、その建物の中で死んでいく人生。「いや、私は外に出てますよ」って言うかもしれないけど、都市は全体がコンクリートですし、似たようなもんなんですよ。山歩きが好きな人は、そういう所から抜け出して、あの、天にまで突き抜けるような、何とも言えない解放感を味わいたいんじゃないかなって気がする。』『 私、「この世で一番好きな音は?」と聞かれて、「カナカナの声」って答えたことがありますけど、いぃ~声だよね。鈴の音みたいに聞こえるのね、私には。(ここで、「シャン、シャン、シャン、シャン」と神父さまによる、鈴の音風カナカナの声)もう、夕方とか聞いていると、なんだろうね・・・、「しみじみ」とはこのことかっていう。原生の山梨も送ってくださった。梨って、なんかジャリジャリっていう、あれ、なんですかね?微妙に気になる「ジャリッ」、原生の山梨はあれがすごい。だけどそれ、縄文人が一万年食べてたわけですから。「おいしいねぇ」って。よく噛んでね。歯もちゃんと発達したんじゃないですか?品種改良で、もっと瑞々しく、もっと大きく、もっと甘くって、今の梨はすごいですよね。ほんとにジューシーで。そのためにビニールハウスをつくり、袋で覆い、肥料をいっぱいあげて。より多く、より甘く、よりなめらかな物を食べるために、この小さな、原生の山梨の、あのジャリジャリっていうのを食べた時に感じる何ものかからは離れていくわけですね。何か、すごくもったいないことをしてきたのかな、と。縄文人は、一万年間、山栗、山梨を食べてきたでしょう。「当時の人たちの暮らし」と「今の私たちの暮らし」の感覚が、同じ山栗を食べてれば何か、あるいは同じように拾ってれば何か、連続性があるところが、百年くらい前からブッツリ切れちゃっているような気がするんだよね。何百年とか、それこそ千年っていう長さで伝わってきた屋根葺きとかも、今、だんだん途絶えているでしょう。この前テレビで見たけど、屋根の板葺き。世界に例のない、絶妙な、水をはじく板葺きをつくっているんですよ。その職人さんは、手で板を割る。何のことか、わかります?柾目の板を斧で割る。そうすると木がキレイに割れる。それをさらに、ノミみたいな物で「コンッ」とヒビを入れて、手で割る。そうすると、割れ目が右か左に寄っていくでしょう。割り箸が、真っ直ぐに割れないで、ピュンと片側にいっちゃうときがあるでしょう。あぁ、なっちゃうわけですよ。だから、こっちを割り始めて、少しでも割れ目が寄ってしまったら、今度は逆に入れてと、真っ直ぐにいくように、割っていくんですよ。そうすると、スコンと、ほんとにキレイに割れる。そうやって、全部、薄~い板をつくって、葺いている。なぜなら、ノコギリで切ると、繊維が斜めに傷ついて、管の切れ目ができるから、そこから水が入って、板が腐りやすい。手で割っていると、繊維がそのまんま、表面に残るから、水が入らない。千年経っても、腐らない。(参加者の方から、感心して「へぇ~!」という声)それをさらに色々やって、つくっていく。そういう知恵で、京都のお寺とかつくられているんですね。ドイツから木工の職人が見学に来て、「信じられない。手で割ってたんだ?!」みたいな。一枚、一枚、時間はかかりますよ。電動の道具で「ウィーン」とやれば、いくらでもつくれるんだけど、百年も経ったら、だめになっちゃう。自然界の中で、自然と一緒に生きていく。それこそ縄文人たちの心ともつながる、そういう感性や技術が人を幸せにする感性、技術なんじゃないかな。受け継がれてきたものの中に感謝や感動がないと、「今、自分がうまい梨、食えればいいじゃん」ってだけの話になっちゃうんですよ。そんなことを繰り返しているうちに、地面がだんだん肥料でだめになってきたり、農薬で健康被害が出たり、農薬に打ち勝つ、さらなる病害虫が増えてきて、それを殺すためにますます・・・って、未来のことを考えてない。手で割ってる人たちは、千年後の人たちのことも考えてやってるわけじゃない?だけどぼくらは百年後の日本で、原発のゴミでどれほど大変な思いをするか、わかっていても、今の経済のために、そこは目をつぶる。それで多少経済が発展したとしても、目をつぶったことで「失うもの」、それがわからない。「何を失ったか」がわからないから、「あぁ、損した!」って思わないまま、なんだかわからない不全感にとらわれて、コンクリートのマンションの中で生まれて、死んでいく、みたいなことになっているとしたら、やっぱり百年の計、千年の技術、一万年の山梨、オニグルミ、これは大切にしましょうよっていう。「時間」って、大事だよね。時間を大切にっていうのは、今の時間を上手に使うことじゃなく、千年、万年の話ですよ。オニグルミ、美味しかったよ~。ちっちゃいクルミで、「ハンマーで叩いても割れない」って手紙に書いてあったから、言われた通り、水につけて、煙が出てくるまでフライパンで炒った。そうすると、「パカン」って割れるんですよね。中味はちょっとしかないんだけど、中味を取って、もう一度炒って。香ばしくってね。原生のクルミですよね。「縄文人たち、これ割って、食べるの、大変だったろうな~」と。でも、絶対、食べてたはず。彼らにとっては、本当に貴重な、山の秋の木の実。オニグルミを送ってくれた彼は、荒れ果てていた里山をもう一回開墾して、いろんなものを植えたり、道をつくったり、クルミの木があったら、そこを大切に残したり、色々やってたんだけれど、やっていくうちに、棚田が見つかった。それで、もう一回水を引いた。そうすると、虫や小動物が増えてきて、鷺が飛んできたりするようになる。私は、三十年も無人島に通っている・・・、その心は、彼と通じるものがあるわけですよ。この自然界は、神がつくったものじゃないですか。人間が何一つ、手を加えていないんですよ。ぼくが子どもの頃、目の前が六義園っていう庭園で、随所に空き地があったんですよね。戦後からずっとそのまんま空き地になっているっていう。やがてはそこにビルが建っていくわけですけど、その頃、子どもたちは「あそこの空き地、この空き地」って、みんな知ってた。公園より、空き地が面白い。雑草が生えて、虫がいて、カエルがいて、そこはやっぱり面白かった。数珠玉(植物)とか集めたり、秘密基地みたいにしたり、泥まみれの日々でしたけど、そういう体験がない、今の子たち、かわいそうだなと思う。自然界の中で育つ感性が、育ってないわけだから。』Lydia