入門講座 今週の予定

カトリック上野教会
2月7日(水) 19時
2月8日(木) 休講
2月11日(日) 12時
カトリック浅草教会
2月8日(木) 休講
2月9日(金) 休講


お話しするのは晴佐久昌英神父です。
初めての方も、お子さん連れの方もお気軽にお越しください。
お待ちしておりますむらさき音符うさぎクッキーオーナメント


星空以前のお話星空


『 彼は、そこまでして行ったサンチャゴの道。

途中で心が折れたんですよ。ピレネーを越える前に。

「なんで、おれ、歩いてんだろう?」って、わからなくなっちゃった。

思い描いていたような、きれいな巡礼路を楽しく歩いているっていうんじゃないんですよ。

足は痛くなるし、いろんな困難もあった。

ひどい雨が続いたこともあった、みたいにね。

「もう無理。こんなことしてても意味がない。この旅は、失敗だ」と。

「もう日本に帰ろう」と。

帰るって言っても、オープンチケットだし、せっかく来てるんだから、どこか、南フランスでもまわって帰ろうって。

「そういや、ルルドって所があったな。行ったことないから、ルルドに行ってみよう」

ご存じですよね。病者の街。

貧しい少女ベルナデッタに、聖母マリアが現れた。

聖母が現れた岩屋は、森閑としていて、みんな、お祈りしていてね。

特に、聖母がベルナデッタに「ここを掘りなさい」と言った岩屋の所から水が出て、その水を飲んだら病気が治っちゃったっていうようなことがいくつもあったせいで、すっかり有名になって、

みんな、病気を治しにやってくる。

いや、違う。病気を治しにじゃないんだ。病気の苦しみに耐える力をいただきに、と言ったほうが正解でしょうか。

この病気を抱えている自分が、病気を抱えている家族が、その苦しみの中でも、神の愛は確かにある。

生きていることには、意味がある。

この試練は、生みの苦しみだ。

この病気だって、恵みのうちにあるんだ。

最後は、神のみもとで病気の苦しみもすべて、よい捧げものとなって、まことの命の世界に私たちは招かれているんだ。

そういう信仰を強めてもらうために、ルルドに来るんですよね。

たまに、ほんとに治っちゃったりする人がいるから、みんなも期待するんだけど、自分がそんな癒されたりしないだろうなと心の中で思っている。でもそういう癒しを求めて、巡礼地に行くこと自体が、何か自分にとって癒しになる。そういうことなんですよ。

だから、車椅子で、ときにはストレッチャーに乗せられて、みんな集まってくるわけで。

病者中心の街ですから、列車が病者の方たちを乗せて駅に着くと、ボランティアたちが一斉にお世話するわけですよね。

全世界から集まってきたボランティアの人がいるわけですね。病んでいる人たち、障がいを負っている人たちに仕えることで、神に仕えている。

そのような聖地ですから、松葉杖ついて歩いている方とか、大勢、見かけるわけで。

彼はそこに観光気分で、「日本に帰る前に寄っていくか」と行って、愕然としたんですよ。

想像もつかなかったらしい。「こんなに、病人が集まってるんだ」・・・って言うくらい、集まってますからね。

専用レーンの道があって、そこは一般の観光客なんかが歩いてると、「どいて、どいて」って、ボランティアに叱られますよ。そこは、ストレッチャーが通る所、車椅子が通る所。

バリアフリーのホテルがあってね、大聖堂の前では、ベネディクション、聖体降福式が行われて、前のほうには病者の人たちが横たわって並んでいてですね、車椅子の人たちも大勢いて、彼はそれを見て、愕然としたんです。

何に愕然としたか。

こんなにも、病気で苦しんでいる人たちが、みんな真剣に祈りに来ている。

車椅子で。時にストレッチャーに乗せられて。松葉杖ついて。

みんな、精一杯生きているし、祈っているし、お互いのためにも奉仕し合っている。

「おれは、自分のことしか、考えてなかった」

「自分の道を見つけよう」とか、なんか自分の思いで日本を離れて、そして自分がつらいからといって巡礼を諦めて、観光気分でルルドに来た。

こんなにも、足が悪い人たちが、松葉杖ついて精一杯歩いているというのに、自分は元気に五体満足でありながら、この巡礼の道を諦めた。

これではいけない。もう一度、歩こう。

そう決心して、自分が諦めた所までいったん戻って、そこから歩き始めて、サンチャゴまで行ったっていう。

彼らしい。真っ直ぐなヤツなんですね。

「なんの意味もない!」とか言って、やめちゃう。だけど、「それじゃいけない!」って思うと、また歩き出す。

人生の巡礼、そのものじゃないですか。

まあ、倒れることもある。諦めることもある。でもまた、その先がある。

ぼくらは、荒れ野をさまよっているわけじゃない。

確かに目的地があって、そこに向かって歩んでいる。

キリスト教は、ほんとにそういうところが美しいです。

永劫回帰みたいな、ぐるぐる回りみたいなことを言わない。

「絶対、辿り着くんだよ」と言う。

美しい目的地をちゃんと教えているし、見せているし、一緒に歩いているし、

そこに向かっての日々が、本当に、十字架の道でありながら、復活の道であるという、そういう人生の旅路の喜びというものを、キリストの教会は第一にしている。

人生は巡礼ってことですよね。』



 

Lydia