昨日は、「主の奉献」の祝日でした。
福音朗読では、幼子(赤ちゃん)イエスが両親に連れられて、神にささげられるために神殿にやってきたとき、
聖霊に導かれたシメオンが、イエスを腕に抱いて、神を賛美する場面が語られます。(ルカ2・22-40、または2・22-32)

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2・29-32)


このシメオンの「感動」のお話から、「記名性の感動」のお話へ。


『 本当にいい環境の中で、神さまから与えられる感動を大切にできていれば、

それは、脳の中のドーパミンの話というよりも、信仰の問題として、

「神さまの救いに対する感動がちゃんと私たちのうちにあるか」。そこなんですよ、問題は。

やっぱり信仰って、感動だと思う。

ちゃんと感動していれば、その信仰における喜びが、ドーパミンが、脳を満たしてくれていて、ちょっと人からひどいこと言われようとも、ストレスがたまろうとも、自己肯定感が低くなろうともね。

「信じる喜び」って言うじゃないですか。

喜びって、ドーパミンに全部くくっちゃうのはどうかと思うかもしれないけれども、科学的に言うとそういうことなんですよ。

信仰の感動を知っているか。

ぼくはまごうかたなき感動中毒者なんで、おかげさまでだいぶ昔、パチンコとかもやったことありますけど、これじゃ感動できないよね、と。おいしいお酒も知ってますけど、じゃあそれがなければ生きていけないかというと・・・。

いろんな感動がありますけど、やっぱり、感動中毒者っていうのは、よりよい感動を求めるわけですよね。

そして脳の中にそういう、いい感動をいつも入れてあげる。

ぼくの場合は、この感動中毒者、一番の感動は記名性なんですよね。

記名性っていう言葉を最近使う。

例えば、昨日、亀井聖矢とイム・ユンチャンのピアノ、聴いてきたんですけど、

亀井聖矢は何年も前からぼくの一押しピアニストで、どれだけ聴いたかわからない。

ほんとに、これこそ音楽だと思う。いろんなピアニストのいろんな演奏を聴いてきたけど、性に合う、合わないってあるじゃないですか。

亀井聖矢は一昨年のロン・ティボーで1位。

 

同じ年に、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでイム・ユンチャンっていう韓国のピアニストがゴールドメダル。

 

どちらもすごく若いし、評判になりました。ちなみに私は亀井をその前から追っかけてるんですけど。

このイム・ユンチャンがヴァン・クライバーンでゴールドメダルになった時、亀井は同じコンクールに出てて、2位なんですよね。

2人は知り合って、まあ、いい友だちになったわけですよ。

特に亀井はこのイム・ユンチャンの演奏に感動して、イム・ユンチャンと友だちになりたい、と。

二人は意気投合して、「いつか、一緒に二台ピアノやろう」って約束を交わしてた。

それがようやく昨日、実現したんですよ。

最初は、ラフマニノフのの二台ピアノをやるって言ってたのが、どっちが言い出したんだか、昨日は言わなかったけれども、いやになったらしく、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』に曲目変更になってて、「あら、あら、あら」と思いましたけど、それはそれで楽しかった。

マイク握って、亀井聖矢が言うんですよ。

「このイム・ユンチャンに会った時の、その演奏に自分は一目惚れした」と。

なかなかね、そういうこと、言わないですよ。正直なんですよね。ちょっと天然な子でね。

「どうしても二人でこのコンサートをやりたかった。それが今日実現して、ほんとにうれしい」って言った。

ラフマニノフの二台ピアノやるはずだったんだけど、終曲に『タランテラ』っていうすごい曲。・・・なんだけど、それはやらずに、『動物の謝肉祭』。

あれですよ、『白鳥』ね。羽生結弦がそれで演技してたじゃないですか。

本当に美しかった。素晴らしい演奏でね。

この二人がね、二台ピアノですから、スタインウェイのフルコンの長いやつを向かい合わせて、くっつけて、

亀井はタブレットだから、楽譜めくらないんです。だけど、譜めくりは横に座っているんですよ? 譜めくりがリモコンで「ピッ」「ピッ」って変えていく。

だけど、イム・ユンチャンはそれをやらないから、楽譜は紙。

紙の楽譜だと、目の前に楽譜が立つから、相手の顔が見えないんです。

二台ピアノ、二人で息を合わせなければならない。楽譜を左にずらして、首まげて弾いてる。正面を見ると、亀井が見える、と。

その二人の息の合わせ方。それから響きの合わせ方。それは、それは、とてつもない幸せな瞬間。

記名性っていうのは、再現不可能という意味です。

「その日」 「その場で」 「その人が」 「その曲を」 「今のこの私に」、5つが揃わなければならない。

他には代えられない。そこに名前をつけられる。

長いタイトルになるけど。

「2024年2月1日に東京芸術劇場で、亀井聖矢とイム・ユンチャンがラヴェルの『ラ・ヴァルス』を二台ピアノで弾いたのを、息合わせて、目を見つめ合って、そして響きが響き渡っているのを、晴佐久昌英が聴きました」

っていう名前がつけられるんですよ。

この感動っていうのに、ぼくは魅せられて、生きております。

ちなみに、百年前の曲ですけど、ラヴェルの『ラ・ヴァルス』っていう、二台ピアノでつくった曲。

素晴らしい曲。

二人がそれを弾いて、前半の終曲でそれを弾いて、ぼくは感動しちゃって、心が震えちゃって、なんかもう呆然として、こういうところに居合わせたことは、本当にしあわせだな、と。

ここに座ってるだけでしあわせだなと思ったときに、生まれて初めて、不思議な感覚に襲われたんですよ。

それは、「あぁ、死にたくない」 (笑)

この世への執着が。キリスト者であるにもかかわらず。

「あぁ、この時間が終わってほしくない」

そして、明日死んじゃったら、あさってのコンサートも聴けないわけじゃないですか。なんて言うか、この世への執着だなと思って、自分でもおかしかったんだけども。

休憩に入って、すぐそこに角野隼人って有名なピアニストがいて、その思いをだれかにしゃべりたかったからね、

「すごかった、『ラ・ヴァルス』。ぼくは66歳なんだけれど、いつ死んでもいいみたいなことを言っていたけれど、なんだかあの演奏を聴いたら、死にたくなくなっちゃいました」って言ったら、笑ってましたけど。

その思いっていうのは、さっきのシメオンに叱られそうですよね。

シメオンは、「わたしはもう死んでもいい」って言ってるんですよ。

確かに、いつまでも繰り返し、繰り返し、キリがないわけですよね。

今日、この若い二人がラヴェルの『ラ・ヴァルス』をこんなふうに弾いてくれた。もう二度とない。この勢いというか、駆け抜けるね、若さもそうなんだけれども、ほんとに今や世界を震わせている二人のピアニスト。それが友だちになっちゃって、東京で二人で弾いてくれた。

もう死んでもいいくらい、言わなきゃいけないんですよ。

だけどよく考えてみると、音楽とか美術とか、素晴らしいものいっぱいありますけど、一番死んでもいいって思えるのは、このシメオンがそうであったように、「会えたとき」なんですよね。

誰に会えたときか。

イエス・キリストに会った。シメオンは。

救い主を抱いて、これでもう死ねるって言ってる。

だから、私もね、神はご自分の愛を、感動を、イエス・キリストをとおして、ぼくらに与えてくれているわけだけども、逆に言うならば、この世で感動することっていうのは、すべて神につながっているんですよね。

あぁ、そうか。このピアニスト、この曲、この感動、それはこれからもこの世で繰り返し、繰り返し、何百回、何千回聴こうともキリがない。

今、ここで、私は、これに会えて、神の恵みに、少しでも触れられたと、私がそう信じて、抱きしめているならば、

死ぬに死ねるんですよ。

記名性の感動ってそういうこと。

一瞬、曲聴きながら、ウルウルしながら、「あぁ、死ぬに死ねないな」ってこの世への執着が思わず湧き起こってきて、それは自然なことでもあるんだけれども、よく考えてみたら、今言ったように、これを聴けたんだから、もうそれで充分。それはなぜならば、神の救いに与っていると、私は信じたから。

これが信仰の感動っていうやつですね。

理屈じゃない。理解する話でもない。そのとき、そのように感じること、感動すること、これでもう死ぬに死ねると言えること、それを本当の信仰、まあ、信じるっていうのはそういうことなんでしょう。

まあ、そうは言っても、亀井君がショパンコンクールに出るまでは死ぬに死ねないって私は思っているんですけど。

 

イム・ユンチャンの演奏も素晴らしかった。

これがまたそっくりな二人でね。双子みたい。

だから、ヴァン・クライバーンの祝賀会で亀井が「優勝おめでとう!」って何度も言われて、「私じゃないんです。あっちです」って言ったって、笑い話も披露してました。

なんか双子のような二人が、それこそ霊的な力って言っていいような、響かせ方、息の合い方、二人、知らぬ仲じゃない、友情によって生まれたコンサート。

 

二度とない。

そんなときに居合わせて、ちょっとまたこの世界の素晴らしさをいっそう知って、最も尊い感動であるイエスとの出会いにね、人々を導く使命、誇り、喜びみたいなものも改めて感じ、

ちゃんとした感動を与えることによって、つまり記名性のね、イエスとの出会いという感動を与えることによって、

何中毒からでも、人を救えると、私は確信しています。』



『天の父よ

この世界をありがとうございます。

この「わたし」をありがとうございます。

今日の出会いを、美しいすべての出来事を

あなたが与えてくださった感動的な恵みの一つひとつを、心からありがとうございますと申し上げます。

あなたがせっかくくださった、この恵みの日々を深く味わって、感謝と賛美をもって生きていくことができますように。

私たちの心を開いてください。

そうして、あなたの目に見えるしるしである、イエス・キリストと出会うという、

究極の感動を私たちに味わわせてください。

私たちの主キリストによって』


アーメン。
来週は、金曜日の講座はお休みです。

水曜日19時と日曜日12時、どちらも上野教会での入門講座となります。

初めての方もお気軽にどうぞブルー音符むらさき音符

Lydia