昨日は、最後の入門講座でした。
今までご参加くださったみなさま、本当にありがとうございました。

コロナの間も参加者ゼロの日はなく、そこで晴佐久神父さまをとおして、神さまが何かをなさり続けていたこと。
ほとんどはわからないままですが、もしかしたら数年後、数十年後、「あの日々は・・・」と何か思うときがあるかもしれないし、ないかもしれませんが、今はただ、神さまの恵みの現場にいさせていただいたことに感謝の気持ちです。

このお話↓とは、ちょっと(かなり)違うけど、入門講座は天と地がスパークする現場でもありました。


『 月曜日に「病者の塗油」をお授けしました。

病者の塗油を授けていると、その人が半分天国に入っていることを感じました。

やがて自分も、こんな感じなんだろうなと思いますし、

ただ、死は誕生ですから、救いの完成、救いの先取りとして、私たちが生きていたことがついに、神さまのみもとで本当の救いのみわざの成就、そういうことが行われるわけで、

やっぱり死は、神さまのもとに生まれていく恵みのときとして、どこか憧れていいことなんだっていう。

つまり、私たちがもう救われているっていうのは、永遠のいのちを得ているっていうことですから、不滅の命を生きているってことですから、

その死の瞬間っていうのは、本当に神さまのもとに生まれ出ていくという、神の望みが完成するとき。

最期に神さまに抱かれるという、その日を待ちわびながら生きていた者としては、

やっぱり恵みのときだ。そこに向かって、私たちは生きているんだよということ。

なんとなく、死のことは恐れて、考えないようにして、今日だけあればいいやっていうだけでなく、

今日は素晴らしい日なんですけども、それらの日々がやがて天の国の御国に完成されていく、

「あぁ、そうか、自分は天地創造のはじめから、もう用意されていて、今、このときを生きていて、神の恵みのうちにやがて天に召されていくんだ」という、

「あぁ、私はもう救われているんだ」という、

神さまが失敗することはありえないし、おできにならないことは何ひとつないんだから、

どれほど自分が罪深かろうとも、どんな失敗しようとも、どれほど、なんでしょう、人から責められようとも、

この私はもう、救われているんだ。それが完成する、死のときというのが、われわれの真の解放のときとして備えられているんだ。

これを、希望と言わずして、なんという、ですよね。

病院の一室で、脳死状態の方でした。

私はいつも体験することですけれど、その方が実は、まだ地上にちゃんと生きていて、しかし同時に天上も生きていて、

その天と地が結ばれている場にあるという意味で、非常にキリスト的なんですよ、そういう状態の方って。

この世にあり、天にもあり、

人でもありながら、もう神の一部である。

尊い存在の、その放つオーラというか、気配。

私はそういうのに反応するたちなので、こんなこと言ったら、言い過ぎかもしれないけど、そういう場にいるのは好きなんですね。

天地がスパークしているその感じが及んでくるから。

この世のいじわるな言葉とか、さまざまな冷たい出来事とか、そういうもので意気消沈しているときに、

神そのものに、一瞬触れられるような、

この地にありながら、真に神を仰ぎ見ることはゆるされていないんだけれども、

やがて私もこのようなあわいのときをくぐり抜けて、過越して、天に誕生していくんだなぁっていう希望すら感じて、

彼の地上における最期の輝きみたいなことに与ることができました。

さいわいなことですよ。

なんとも不思議な時間帯です。

彼は、イエス・キリストとひとつになって、自分自身を捧げものにして、天に召されてまいりました。

・・・私たちのこの人生、最期のときを神さまがちゃんと準備してくださっているわけですけれども、

その先取りとしてミサがあるっていうことは、これは知っておいてほしいと思います。

私たちのミサは、毎回の再洗礼でもあり、究極の洗礼である、天への誕生の先取りでもあります。

その意味では、聖なるミサにおいて、私たちはいったん死んで、そして神さまの恵みのうちにもう一度誕生する。

過越しの神秘ってやつですね。

そうしてまた、新たに今日一日を出発してまいる。

これがキリスト者の恵みです。

聖体拝領では死から命へという、そのような救われている者の特権を味わっていただければと思いますし、

またそのような福音をですね、今後も多くの人をここに招いて、「あなたはもう救われているのだ」という喜びに与らせてあげてほしいなと。

大勢の人が孤立して、福音を求めていますので、

この教会においても、そのような福音を味わえる場として、いっそう成長させていただければなと、

8年間、お務めした者としては、みなさんにそのようにお願いして。』


『 「美」って、カトリック教会は秘跡のことなんですよ。

神の目に見えるしるし。

神があまりにも美しいから、その美しさが地上であらわれる。

一番美しいのは、イエス・キリスト。

だから、一番美しいのは、愛。

天上の音楽、天上の輝きがいかばかりかっていう。

その天上のものを、地上でちらりとでもあらわすと、めちゃくちゃ美しいんですよ。

それは、天上とつながっているときにあらわれるものであって、

その天上の美しさをちゃんと信頼して、希望をもって、この世が天上の目に見えるしるしであるっていう、

その意味では、教会が最も美しいはずなんですよ。

どんな美術よりも、どんな音楽よりも、私は、この神の子たちが一緒にごはんを食べている、これ以上に美しいものはないと、私はそう思っております。

ということで、父と子と聖霊のみ名によって アーメン。

いつくしみ深い天の父よ

今日も、ここに、あなたの子どもたちをひとつに集めてくださったこと、感謝いたします。

イエス・キリストがお集めになった、主の食卓です。

あなたが用意してくださったこの食卓に、

この神の子たちが共に座って、共にあなたの恵みを味わうことができるのは、大きな喜びです。

どうか、このひとときを祝福して、あなたの美しさのあふれる、恵みの食卓としてください。

私たちの主キリストによって』


アーメン。

「いただきます!」ということで、金曜入門講座最後の日は、一緒ごはんの日でした。
 

 

金曜日のごはんをつくってくださった方は、2017年の晴佐久神父さまのお誕生日と主日が重なった日に、長年の海外生活から帰国したことを神父さまにあいさつに来たことがきっかけで、
以来、約7年、毎月、しあわせな食卓をつくりあげてくださいました。
一度も同じメニューはなかったと思います。
食べ終わったあとは、みんな、にこにこ。

晴佐久神父さま、作ってくださった方々、その他色々なことを担当してくださった方々、誰も「苦労」の顔は見せなかったけれど、きっと天の父がすべてを知っていて、みなさまにたくさんの恵みを注いでくださると信じます。

 

上野教会での様子はこちらへおひつじ座おひつじ座 →『カトリック上野教会』

上野の係の方々もありがとうございましたスター

日曜日に参加させていただいておりましたが、あのおいしいスープと講座のひとときは、きっと多くの方々の記憶に残ると思います。


入門講座のブログは、これでひとまず終了とさせていただきます。
今まで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
今後の入門講座の予定は、浅草教会HP(公式LINE)上野教会FB下町宣教協力体HPをご覧ください。

明日から、よき聖週間、そして復活祭をお過ごしくださいぽってりフラワー
みなさまに、たくさんの祝福が注がれますようにお祈りいたします。

Lydia