入門講座 今週の予定

カトリック上野教会
2月14日(水) 休講 (灰の水曜日)
2月15日(木)11時 一緒ごはん (10時からミサがあります)
カトリック浅草教会
2月15日(木)19時 一緒ごはん
2月16日(金)11時 一緒ごはん (10時からミサがあります)


お話しするのは晴佐久昌英神父です。
初めての方も、お子さん連れの方も、どうぞご遠慮なく、お越しください赤薔薇

一昨日の日曜日、2月11日はルルドの聖母の日(世界病者の日)でした。
素晴らしい青空でしたね。
 

上の画像は、2022年2月11日に撮影された、浅草教会のルルドです。
前日雪が降って、半分曇り空のような日でしたが、サーッと陽が当たったルルドはいつもより不思議と輝いているように感じられました。
下の画像は、同じく雪の日を越えて咲いていた、教会の庭の椿です。
写真のご提供、ありがとうございましたピンク薔薇

↓その日のお話です。


星空以前のお話星空


『 雪は騒いだわりに、あんまり降りませんでしたね。

一日過ぎると、陽の光が注いで、気持ちいい。雪がとけます。

よく言われるたとえ、私もよく使うたとえですけど、

暗いとね、雲の下は暗いわけだけれども、雲の上までいけば、太陽の光は当たっている。

当たり前の話ですよね。

でもその雲の下にいると、なんかもう、ほんとに世界が暗くなったような、太陽のことを忘れちゃうっていうかね。

宇宙船から見ると、真っ白に光っている雲。

あっちから見ると、キラッキラなわけですよね。

言いたいことは、それにたとえることの一番本質ですけど、

下にいるときは、上のことがわからない。

わかんないんだけれども、ちゃんとそれは光ってるんですよね。

あんなに光ってるんですよ?

宇宙から見ると、地球は青く光ってるし、雲だって真っ白に光ってるし、宇宙から見ると黒い雲ってないんです。当たり前の話ですけど。

そっちのほうが表なんです。本物っていうか、本来のあり方はそうなんです。太陽に照らされて、光っている。陰がない。太陽がまんべんなく全部光らせている。

われわれ、裏を見ているんですね。

裏見てても、こっちが自分のいるほうだから、表のように感じちゃうんです。

だからここが肝心なんです。自分は今、裏側にいるんだなっていう、その感覚。

一日経って陽の光が注ぐと、「太陽、まぶしいね」

昨日、あんなに夜は思い悩んで、暗い気持ちだったけど、朝になれば、「また一日、やってみるか」みたいな気持ちになったりする。

その太陽の光っていうのを、もしできますならば、ですけども、裏側にいるときにもうちょっと思い描いて、

できるならば、イエスさまにお願して、雲間にひとすじの光くらいね、射しこむようにお願いして。

でも心の話ですから、ほんとにそんなに雲を晴らすほどの奇跡的なことをしなくっても、

ちょっとこう、ある意味、訓練もあるんですよね、その真っ暗なときに、イエスさまにお願いして、スッとひとすじね、光をいただくっていう。

その訓練っていうと、大変だなと思うかもしれないけど、アスリートたちの挑戦見てると、「おれももう少しがんばろうか」って思いますよね。

誰のなかにもそういう可能性はある。

倒れても、倒れても、立ち上がって。

人間の本質に根ざしてるんですよね。それがあったからこそ、人類、ここまで来たんだし、

チャレンジすることの素晴らしさっていうのは、これは神さまから人類に与えられた恵みの力なんでしょうね。

それがあるから、フランシスコ・ザビエルだって、日本まで来たわけだし。

それで言うんだったら、イエス・キリストはすべての人を超えるチャレンジャーでもあるわけですよね。

人間に秘められた可能性をひらくという意味で。

人なんですよ、イエスさまって。

人間の中に、釘打たれても、「あの人たちをゆるしてください」と祈る可能性がある。

そんなの無理だろうって言うかもしれないけど、その可能性がひらかれたことを復活って言ってもいいんじゃないですかね、われわれのことで言うなら。

無いものを出せって言っているんじゃないんです。

太陽はあるんです。雲が隠しているだけなんです。

この、「エッファタ」っていう、イエスさまのひと言ね。(マルコ7・34)

美しいですね。イエスさまが実際にそうおっしゃったんです。

マルコの福音書は、この美しいひと言をよくぞ残してくださった、翻訳しないでね。

これは翻訳できなかった、したくなかった、しちゃいけないと思った。

イエスさまが天を仰いで、天直結となって、深~く息をついて、「エッファタ」。

「深く息をつき」って、「うめく」っていう翻訳もあるくらいで、

同じ言葉は、パウロが使っている、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」っていう、あのうめきなんですよ。(ローマ8・26)

うめくってそうでしょ。ちょっとこう、「あ、イテテテ」みたいなのじゃないんですよ。

うめくことって、人生であまりありませんけど、痛さで言うなら、ぼくも何度かうめいたことがあります。

イエスさま、その閉ざされたものに対する悲しみというか、悔しさというか、

閉ざされものに対する、「本当にかわいそう!」っていうね、そう、「かわいそう」ですよね。うめく。

心がなんとも言えない、激しい感情でですね、思わずそれが息になって出てくる。

「深く息をつき」より、「うめく」のほうがそういう意味もあるわけだから、リアリティがあっていいのかもしれないね。

閉ざされたものに対する・・・。

だって、何も聴こえません、何もしゃべれませんって、相当つらいわけですよね。

そのつらさに共感しているイエスが、深く息をついて、「開け」。

そのイエスの力がそうだって言えばそうだし、オープナー、開く人なんですよね。

って言うのは、開けばそこにあるからなんですよね。

太陽はずっと光っていました。

音はずっとある。

羽生結弦のチャレンジは、すごく練習するわけですけど、どういう練習をするかというと、実は脳みその話なんですね。

脳みそをだまさないと、できないんですよ。

身体は脳みそが支配してますから、「これは無理だ」「これは危険だ」「今までの経験にないことなんで、やめておきましょう」って指令があって。

身体って、ほんとはもういくらでも可能性があるんだけど、ぼくらだって、5回転しようっていったらできるだけの何かはもってる。もちろん、筋肉を鍛えなくちゃならないけど、ほとんど脳みそなんです。

だから、言ってましたよね。穴につまずいてこけた、みたいな。

あれもかわいそうでしたよね、「あぁー!」ってみんな、うめいた。

本人が言ってました。つまづいたとき、「あのとき、跳ぼうと思えば、ほんとは跳ぶこともできたはずなんだけど、脳が一瞬のうちに『やめとけ』って指令出して、跳べなかった」って、「脳みそがそう言った」っていう言い方をしてました。

四回転半だったら、「あと0.03秒跳んでれば、着氷できた」って解説が言ってましたよね。

それは、脳みそをだまさなくちゃならなくて、そこの訓練なんですよね。

スピードスケートなんかもそうらしいね。

「疲れた」って一瞬でも思うと、「もう休みましょうね」って脳が無意識のうちに働くと、身体がそっちに行っちゃう。

マラソンもそう。「疲れた」って思ったら、脳がいっぱい酸素使っちゃうんですね。

ジャック・マイヨール、素潜りの、私、大好きですけど、会ったこともあるんですよ。

禅をずっとやってたんですよね。それは深く潜っていって、ちょっとでも恐れたり、「このスピードだと、あがるまで間に合うだろうか」とか考えたら、脳が酸素使っちゃうんですよ。

それは、スケート選手だろうが、マラソン選手であろうが、みんな、知ってること。

だからメンタルなんですよね。脳をだますって言うと変な言い方かもしれないけど、ある意味、脳の可能性を開く。蓋を開ける。

ちなみに、それを一番簡単にできるのがドーピング。

悪いおとながいるんですよ。

レッドブルとかもそうだよね。受験生。

ともかく、

われわれはそれで言うならば、別にアスリートになるわけでも、受験生になるわけでもないんだけれど、

キリスト者としてのアスリート、もしそれを目指すんであれば、

人類に秘められた、霊的な可能性、イエス・キリストって私はそうだと思っているんですけど、それを開いていく。

それで見えてくる景色を見たいっていうのがある。

間違いなく、チャレンジした人にしか見えない景色っていうのがあるんですよね。

イエス・キリストを身にまとう。

パウロなんか、イエス・キリストを注入されちゃって、開いちゃった人なんですよね。

ぼくらは閉ざされて生きているわけで、

私は聴こえます、しゃべれますって言うとしたら、本当に福音、聴いてますか、語れてますかっていうと、相当しばられた状況なわけで。

そのためには、キリストという、聖霊という、神の力を注入してもらわないと。

それは、われわれの限界を開くっていうことですね。

閉ざされているこの世界で、イエスさまに「エッファタ」って言ってもらう必要があろうと思います。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。

耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(マルコ7・37)

われわれはキリスト者として、アスリートとまでは言わないけど、もうちょっと、これ、身体弱くてもできますからね、才能なくてもできますからね。霊的なアスリートとして。』




Lydia