入門講座 今週の予定

カトリック上野教会
1月31日(水) 休講
2月1日(木)11時 (10時からミサがあります)
2月4日(日)12時
カトリック浅草教会
2月1日(木) 休講
2月2日(金)11時 (10時からミサがあります)


お話しするのは晴佐久昌英神父です。
初めての方もお気軽にお越しください。
お子さん連れの方もご遠慮なくおすましペガサスブルー音符
お待ちしております。


星空以前のお話星空


『 天の体に生まれた、そのおばあちゃんは、みなさんが後ろを向いたらいる過去の人じゃなくて、みなさんより一足先に行った人なんであって、みなさんの前にいるんですよ、と。

そこに向かって、私たちもね、必ずそこにまいりますという気持ちで。

先に行った人はさ、やっぱり先に行った人の働きっていうのがある。

あとから来る、愛する家族たちを迎える準備とでもいいますか、あるいはそのプロセスを歩んでいく力を取り次ぐとてもいいましょうか、

時に不思議なかたちで呼びかけてね、励ますとか、不思議なかたちで手を伸ばして危険から守るとか、

それは手は見えませんよ?

だけど、天の体なんで、天の体っていうことはこの世からは理解できない、認識できない、不思議な手なわけですから、それで守ってくれる。

ぼくら知らないけど、ご先祖さまに守られて、今日もここまで来たのかもしれないですよ。

そういう不思議な働きがちゃんとあって、だから納骨式のときに、「みなさん、ちゃんと、“おばあちゃん、よろしく” ってお願いしたらいいですよ」と。

やっぱり、おばあちゃんに祈るときは、わがままに祈るべきじゃないですか。

「お腹すいたよぉ」とか、「寂しいから、そばににて」とか、おさなごのようにね、おばあちゃんに祈るわけですよ。

そこは、みんな、おさなごっぽい、わがままにお祈りするチャンスなんだから、おばあちゃんの納骨式のときくらいね、一番身近な、今困っていることとか、一番身近な、今一番必要としていること、憧れていることとか、そういうことをお祈りしないともったいないから、「ちゃんとお祈りしなさい」って話をしたんです。

それで言うんだったら、「ぼくもお祈りしたい」って言って、ラリットさんのことをお祈りしたんですよ。

だって、その納骨式の直前に、みんなでラリットさんを囲んで、「じゃあ、入管に出発だ」って見送ったんだから。

もしかしたら、その場でね、即収監されたら、もう会えないわけですよ。

面会に行くことはできるかもしれないけど、なんて言うか、本人の緊張、恐怖を思うと、こういう仲間たちで祈り合うっていうことが、どれだけ大切かっていうことを、昨日はつくづく思いました。

さらにわたし的には、この世の祈りより格上の祈りも必要だなって感じがあったんで、午後の納骨式で、90歳の〇〇さん、先に天に召されて、神さまのみもとで働いておられるんで、

「おばあちゃん、よろしくね。ラリットさんを守ってください!」

おさなごのように、祈りました。

そのことをご遺族に言って、「みなさんも、会ったこともないかもしれませんけど、このスリランカの一人の難民のためにお祈りしてくれますか」って言ったら、神妙にお祈りしてくれた。

もしも本当に、無事に、たとえば、難民に認定されるとか、安全な第三国に行って、そこで難民に認定されるとか、

何よりも一番は、母国スリランカの民主化が果たされて、きちんと母国に戻って、堂々と暮らすことができるようになる、これが最高なわけですから、

そのあかつきには、必ずお礼参りに参りますって、私、言ったんですよ。

このお墓の前にまた来て、「ありがとうございました」ってね。

お墓はただのしるしと言えば、しるしですから、別に祭壇前でもどこでも祈って、それでいいと思うんだけれども、

なんだかね、ちょっとそういうおままごとっぽいことの力というか、喜びというか、そういうことを口走っちゃったわけです。

やがて、「ありがとうございました」ってお礼参りに参りますよ、と。

子どもっぽい言い方ではありますけど、なんかそういうのっていいじゃないですか。

ラリットさん、昨日ね、ここ(浅草教会)の一緒ごはんに現れたのは初めて。上野の方ですから。

〇〇君が連れてきたわけですよ。〇〇君、「今日は疲れてるだろうから、しばらく一人にさせて、また18時にラリットさんを迎えに行く」とそう決めて、で、迎えに行って、ここに連れて来た。

「・・・教会、いいなぁ」って、私は思ったわけですよ。

昨日は、発病してね、あっちからも排除され、こっちからも排除されて、「ぼくは、みんなから嫌われてるんです!」って、うれしそうにしゃべる不思議な人ですけど、そんな人だとか、難民だとか、

うつで苦しんでいて、最近、ちょっと上向きの彼も来てたし。

彼と一番最初に会ったのは、精神科の閉鎖病棟の鍵をいくつも開けて入っていった奥。

そこで、「いいから、教会においで。必ず、病気もよくなるし、いい仲間もいるし、本当に救われるからおいでよ」って宣言したわけですよ。

今日の福音書ですよね(マルコ3・13-19)。福音を告げ知らせるために弟子を選んだ。出かけて行ってっていうのは、精神科の奥深くだろうと、スリランカだろうと、どこでもいいんですけど。

その彼と会って、10年以上経ちましたけど、今もこうして教会に来て、一緒にごはん食べてくれている。

そんなのがいっぱい、昨日の一緒ごはんにもいたわけですよ。

一人ひとりを神さまが導いて、神の国の目に見えるしるしとして、天の宴の先取りとして、ちょっとしたごはんを一緒に食べる。そういうことですね。

多様な人たちと集まって、一緒にごはん食べるときのそこに、神の国がようやく現れるっていうことなんで、

やっぱり相当、多様な人たち、いてくれないと困るっていうわけですね。』
 

 

 

 

Lydia