今日もたくさん、いろんなお話があったのですが、聴いていて、パウロの燃える愛を感じた・・・気がしたお話を。
『 この第一朗読の「テモテへの手紙」(二テモテ1・1-8)、なかなかパウロの気持ちが溢れていて、いい手紙ですよね。
テモテはパウロの弟子というか、息子同然みたいなやつで、可愛くてしょうがないんですね。
「使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ」ってね(二テモテ1・1-2)、我が子同然なんですよ。
パウロと離れるとき、テモテが泣いたんですね。
「わたしは、あなたの涙を忘れることができない、ぜひあなたに会いたい」(cf.二テモテ1・4)
なんでこれ、手紙を書いているかっていうと、テモテの信仰が薄くなっちゃわないように、
パウロと一緒にいたときに燃えたあの熱が冷めないようにって、心配して書いているわけですよ。
お母さんとおばあちゃんがパウロの影響で熱心な信者になって、その息子のテモテも信仰の道に入ったわけですけど、
パウロにしてみたら本当に我が子みたいなものなんですよね。
熱心に手紙を書いた、それが二千年経って、ここでも読まれているわけですけど、
「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」と。
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」
「だから、その力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(cf.二テモテ1・6-8)
楽しいだけじゃないですからね。
いろいろ、苦しいこともあります。
精神的にまいることもあれば、人間関係で傷つくこともあれば、いわれのないことで悔しい思いをすることもあれば、いろいろですよ。
病気のこともある、災害のこともある。
だけど、神の国は始まった。
神の国は、すべてを超えて、すべてを完成させていく神の、この大宇宙をつくった目的ですから、必ず完成するわけですし、何があろうとも、すべて、その神の国のために存在しているわけですから、
苦しみにしてもね、傷みにしてもね。
だからそれは、あんまり強いやつはやめてねって思いますけど、それぞれに適したかたちでいろいろあるわけですから、「恐れるな」って言ってるわけですよ。
「おくびょうの霊」、どうしてもおくびょうになりますからね、ぼくら。
1回懲りると、おくびょうになるじゃないですか。でもそれも悪魔のわなでですね、1回懲りたら、「これでもう、次は平気」くらいに思ったほうが、神の国っぽいんですよね。
だって、1回こけたからって、マラソン5メートルでやめる人はいない。そこから、あと42キロ走りましょうって話なんで。
「わたしと共に苦しみを忍んでください」ってね、・・・まあ、昨日、メールがきてね、私の30年来の友人ですが。
ぼくが渋谷の地下でライブハウスやってたころ、そこの代表もしてくれてね、楽しかった。
「歌に会う 人に会う」ってキャッチコピーを考えて。
あのころの仲間たち、若くして亡くなったのもいた。
音楽、芝居、いろんな舞台つくって、あそこで会った仲間たち。
そのころから、彼とは一心同体でもないですけど、必死に仲間たちの活動、やってました。
寺西神父なんか、そこに飲みに来るのが大好きで、よく来てくれた。なつかしいね。
いい仕事して、カトリック新聞で熱心に働いてましたけど、
病気になって、手術して、4、5日前にようやく退院できたんですよね。
リハビリが大変です。
「想像してたのと全然違う。思ったよりも全然痛いんだ」って、・・・そういうもんですよね。
熱も下がらなくって、入院も長引いちゃって、つらかったと思う。
私も三日前に歯の手術をして、それは本当に痛かったし、なんか途中で、全身麻酔なんだけど麻酔がさめちゃって、もがいて、看護師たちに抑えられたのは記憶に残ってますけど。
だけど、この言葉、いいですね、パウロの。
「福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(二テモテ1・8)
ぼくら、つながっているんですよね。
もっと言うと、苦しみがあるから、つながれるんですよね。
「楽しい同士、楽しくやろうぜ」って、あんまりつながってる感ないじゃないですか。
やっぱり苦しい同士、「わかるよ」って言って、手握って、分かち合って、
これが、ぼくらを結ぶんだ。お互いのためになるんだ。神の国の素晴らしいしるしでもあるんだ。
キリスト教、十字架宗教ですからね、イエスさまの苦しみ。われわれも分かち持つとかね。
あるいは逆に、われわれの痛みをイエスさまが背負ってくださるとか。
痛みでつながっている宗教なんで、「福音のために、苦しみを共に忍んでください」っていう、このパウロの言葉。
「テモテ、おまえもつらいだろうけど、おれも苦しみを忍んでるんだ」と、「離れていても、おれたちは一つだ」
もう、子ども同然、親同然。
そういうつながりを、キリスト教は一番大事にしているという意味では、
やっぱり神の国のために奉仕する、最高のチームであると、それは誇りに思っていいと思います。
つらいこと多いし、2024年、今年もまたいろんな苦しいこと、いやな思い、あるんだろうけれども、
そんなことはまあ当たり前の話で、それこそ、生きてなければ苦しみもないわけですからね。
彼、今日も今ごろまた、痛い思いもしているんでしょうけど、まあ、その分、こっちは歯が痛い程度で、あごがようやく開いてきましたくらいで済んでるんで、
あいつの分まで、今日もがんばろうかなとそう思ってます。』
この「あいつ」さん、お名前を聞いて、「あ、あの方だ!」と思い出しました。
以前、このブログで、カトリック新聞に載った晴佐久神父さまの文章を掲載させていただいたことがあります。
でも著作権のことを失念していまして、2つ、3つ、すでに記事を載せてしまってから、カトリック新聞社に許可をいただく電話をしたんですね。そのときにたまたま電話に出た方だったのです。
「怒られるかもしれない・・・」とドキドキしながら電話したのですが、
「好きなのはわかるけどさ~」と苦笑いしながら(想像)、すごくご親切に、気さくに、新聞記事の著作権についていろいろ教えてくださいました。ありがたかったです。
そんな大変な病気になっていらっしゃったとは・・・。来月11日はルルドの聖母の日、世界病者の日ですね。お祈りしたいと思います。
神父さまが、お話の中で「チーム」とおっしゃっていましたが、すべての人がいろいろなかたちで苦しみを背負っていること。そしてそれに対して聖パウロが熱く励ましてくれているように思えたひとときでした。
神に感謝
来週も晴佐久神父さまの講座です。
お待ちしております
Lydia