「はい」の先の世界

主任司祭 晴佐久昌英

 

 このたび東京教区の司祭人事異動があり、晴佐久神父は市川教会へと転任することになりました。浅草、上野教会のみなさんには、この変わり者の神父と八年もの長きにわたりお付き合いくださいましたこと、改めて感謝申し上げます。

 今回の人事異動に際しては、補佐司教のレンボ司教様がわざわざこちらの教会に出向いてお伝えくださったことが、初めてのことでもあり印象的でした。司教様が「次は市川教会をお願いします」とおっしゃるので、「はい、お引き受けいたします」とお返事すると、その即答ぶりに少し驚かれたご様子でしたので、「わたしはいつも、司教様のご判断には迷わず即答すると決めています」と申し上げました。ただそのとき司教様が「助かります、ありがとうございます」とあまりにも感謝なさるので、ついつい「ほかの神父様方は違うんですか?」とお尋ねすると、「まあ、皆さんそういうわけでは・・」と言葉を濁しておられました。

 神学生時代に「司教の声は神の声」と教わって以来、人事に関して「はい」と即答しなかったことは一度もありません。神に逆らって文句を言っても意味がないからです。第一、あれが嫌だ、これがいいと自分の都合や判断を持ち出したりしたら、その結果について自分が責任を負わなければならなくなるわけで、責任能力もないくせにそのような身勝手な主張をすることほど「みっともない」ことはないでしょう。その点、「はい」と即答すれば余計な迷いから解放されてとっても気楽です。その後何がどうなろうとも「苦情は任命責任者の司教に言ってくれ」とも言えますし、究極的には「文句があるなら神に言え」ってことですから、実に気分がいい。

 思えばこの世に生まれて来たのだって、自分の都合でも判断でもありません。時代も場所も、親も環境も、顔も体も性格も、何一つ選べません。すべて神のみこころのままであり、わたしたち神の子に出来ることはただひとつ、それを「はい」と受け入れることだけです。もちろんコンプレックスだらけだし、傷つけられたりつらい病気を背負ったり、それこそ大切な人を亡くしたりさえする人生ですが、すべて神のみ手の内にあり、神のなさることは必ず良い事につながっていると信じて、まずはその状況を「はい」と受け入れるなら、そこに真の安らぎと希望が生まれます。いつかは受け入れるしかないことを、三日迷ったり三年悩んだりする必要はないでしょう。「はい」と答えるには、三秒あれば十分です。

 転任を残念がってくださる方もいてありがたいことではありますが、考えてみれば前の教会から転任して来たからこそ、その方とも会えたわけで、その意味では、まだ見ぬだれかと出会うために出発するということなのでしょう。「はい」の先に、何が待っているか。それは、「はい」と言わない限り決して知ることの出来ない世界です。

「群衆はイエスを探し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ』」(ルカ4・42b-43)