✞ 風かおる丘で ~カトリック浅草教会・上野教会 入門講座ブログ~ ✞
  • 03Dec
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      普遍主義

      以前のお話『 私、カトリック教会って、透明なお祭りの宗教だって言えると思うんですね。イエス・キリストが中心になって、みんなを集めて、高揚感、一体感、感動をもたらして、そうして神の国をつくっていくっていうような遺伝子ですね。全世界でいろんなお祭りをして、すべての民族、すべての文化を、神の国に導こうとしている。「これは、〇〇教です。これは△△教です」っていう、同じ土俵の上の選択じゃないんです。キリスト教は、全部をひっくるめて、神さまのあらわれの場として大切にして、すべてを結んで、お捧げする、みたいな、非常に超越的なところがあるんです。、だから、そこの鳥越神社のお祭りに、カトリック教会が協力します、と。教会の中にブルーシート張り巡らせて、近所の人たちが入ってきて、トイレを使ったり、着替えに部屋を使ったり、別の部屋には道具や荷物を置きますって、すごいでしょ?「ありがとう。うちを使ってくれて」って、これ、キリスト教の遺伝子なんですよ。ここを勘違いすると、ただの原理主義になって、「とんでもない!」って話になるわけですよ。頼んでくる町内会だって、他だと微妙だと思うんですよ。でも、「カトリックさんだから」っていうのがあるんですよ。向こうもよくわかってるんですよね。カトリック教会の普遍主義っていうもの。それは、お祭りみたいな時に、はっきり出てくるんですね。聖書で言うならば、三日くらい前の朝の福音書で、「イエスさま、イエスさま、イエスさまの名前を勝手に使って、悪霊を追い出してるやつらがいましたよ。」イエスさまの名前、その意味ではすごいですね、逆に。イエスの名によって命じる、悪霊よ、出ていけって言ったら、出て行っちゃったっていうんだから。イエスの名を使うんだったら、私たちに従えって言ったんだけど、断られた。だから、やめさせようとしたんですけどって言ったら、イエスさまは、なんでやめさせるんだ、と。悪霊を追い出しているんだったら、私たちの味方だ、と。そんな、何派とか、何教とか、何主義とか、そんなバラバラな話じゃなくって、天の父が働いてるんだから。私、イエスは、すべての親である、あの天の父の親心を、すべての神の子に注いでいる。見せているんだから、何教だとか、何派だとか、そんなものどうだっていいだろう。ちゃんと悪霊すなわち神から遠ざけている力、言うなれば、悪霊は人と人を分断する力なんですよね。恐れさせ、疑わせ、「あんな宗教だめだ」と。「こんな教えは間違っている」と。カトリック教会も昔だったら、異端審問で魔女裁判をしたり、ガリレオ裁いたり、やってましたでしょ。つい最近ヴァチカンは、ガリレオ・ガリレイの裁判は間違いでしたって謝罪しましたよね。400年以上経ってからごめんなさいって、ないだろうって思うかもしれないけど、誠実っちゃ、誠実ですよね。やっぱりそれは、間違いでした、と。あれは単なる原理主義でありました、と。とらわれておりました。悪霊の働きって、そういう働きですよね。それはやっぱり追い出していくのが、キリスト教の本質。対話の余地なしっていうのが、原理主義の恐いところだし、それは、イエスの遺伝子じゃないんですね。第二ヴァチカン公会議は、その意味では聖霊の公会議だし、キリストの遺伝子が発動した。イエス・キリストは、みんな、仲間だ。みんな、神の子だ。ユダヤ人もギリシャ人もないだろう、と。善人にも悪人にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるのが天の父なんであって。何教だ、何宗だ、そんなのをはるかに超えた、もっと本当の天の父の愛に目覚めなさいっていう、あのイエス・キリスト。そして、十字架上で神の愛の証しをして、そして、神がそのイエスを復活させて、そのような普遍主義、そのような透明さこそが、この世界を救うんだっていうことを明らかにした。弟子たちは、その証人として、世界に散っていったわけですよね。パウロなんかは、ギリシャでそこにいろんな祭壇があるのを見た。(cf.使徒言行録17・22-34)「○○の神」「××の女神」家内安全、商売繁盛、いろいろとお祈りをしているわけだ。そこに、ひとつ珍しい祭壇を見つけた、「まだ知られざる神に」っていう祭壇だった。あなたたちが知らないという神を、しかし私は知っています。その神は、「あの神、この女神」なんて神じゃない。すべてを包んでいる、すべての内に働いている、すべての内に宿っている、透明で、普遍的で、あなたたちみんなを神の子として愛している、天の父。それこそが、あなたたちの知らない神。イエスという人が、民族を超え、善悪を超え、罪びとであろうがなかろうが、女であろうが男であろうが、奴隷であろうが自由人であろうが、すべて、生きとし生ける者を神さまは平等に愛しておられて、そうして、特定の神殿だとか、祭壇だとかを遥かに超えた、偉大なるこの宇宙で、神さまは我々を生かしておられる。そのしるしとして、すべての人のために命を捧げたイエス・キリストを復活させて、あなたたちもそのように神の命に復活していくんだということを私たちにあらわしてくれた。こんな、普遍的な、透明な神さまを、あなたたちはまだ知らなかったんだから、ぜひ知ってほしい。ともかくパウロとしては、伝えずにはいられない。これ、キリスト教の遺伝子なんですね。まず受容し、対話し、共に生きていく道を忍耐強く探り続け、千年経っても、あきらめない。ここが、カトリック教会の面白さっていうか、すごさっていうか。まあ、遺伝子ですね。』Lydia

  • 02Dec
    • 晴佐久神父より NO.21(浅草教会報)

      一年の終わりに聖家族を思う祈り主任司祭 晴佐久昌英 今年も何とかやり過ごし、気づけばもう師走。コロナに始まりコロナに終わる一年ではありましたが、それでも終わり良ければすべて良しということで、最後のひと月くらいはきちんと祈り、ていねいにみこころを行う日々といたしましょう。 私にとっては、12月は「家族の月」です。待降節にはみんなでツリーを飾り、そろってクリスマスのミサに出かけ、一緒に紅白を見てお年越をする12月。それは、単に「血縁家族」だけでなく、互いに助け合う「福音家族」を思う月でもあります。過ぎし一年、隣人を家族として受け入れて来ただろうかと振り返り、来たる一年、隣人と家族のように分かち合って生きたいと願う月なのです。 その意味では、毎年最後の主日として祝われる「聖家族の主日」は、まさに年の瀬にふさわしい祝日なのではないでしょうか。イエスとマリアとヨセフという、愛といたわりに満ちあふれた聖なる家族は、人類全体が聖家族になっていくための模範だからです。最後のひと月は、この聖家族を思いながら祈り、聖家族にならって行う日々としてすごしていただければと思います。 オリエンス宗教研究所が発行している週刊誌「こじか」の待降節第四主日号に、私の造った「一年の終わりに聖家族を思う祈り」が掲載されていますので、ご紹介いたします。  愛の源である父よ  過ぎ行くこの一年のすべてを感謝します  春の出会いも 夏の喜びも 秋の別れも 冬の悲しみも  すべてはあなたのみ手のうちにありました  この一年を 聖家族にならって  イエスのように柔和に  マリアのように従順に  ヨセフのように謙遜に  聖なる恵みとして受けとめます  いつの日も み心に委ねて生きることができますように  希望の源である父よ  もうすぐ迎える新しい年を賛美します  善い人も 悪い人も 正しい人も 正しくない人も  すべての人はあなたの大切な子どもです  新しい年も 聖家族とともに  イエスのように安らかに  マリアのように清らかに  ヨセフのように穏やかに  出会う一人ひとりを受け入れます  いつの日か 皆がひとつの聖なる家族になりますように どうぞ良い年をお迎えください。(2021年12月1日号)

  • 01Dec
    • 晴佐久神父様の著書ご紹介 〜第1回〜の画像

      晴佐久神父様の著書ご紹介 〜第1回〜

      晴佐久神父様の著書ご紹介初めまして。今日から晴佐久神父様の著書を、私の拙い感想・オススメ文と共に数回にわたってご紹介して行きたいと思います。内容に興味を持っていただき、手にとって読んで頂けたら幸いです。皆さんのこれからに役立ち、心の支えになる一冊が見つかります様に。「おさなごのように」本体価格1,200円「祈り」改めて考えたこともなく、著書の巻末に著者の言葉であるように、私も「祈り方」を知らない一人なんだと再認識したと同時に、私の「祈り」っていつも「お願い」だな~と言うことに気付かせてくれた本です。天の父よ!「祈り」ではなく「お願い」ばかりでゴメンなさい。「お願い」が「祈り」に変われる日がくるのでしょうか。。。。著書ブログ担当:マスミン

  • 29Nov
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      その気配

      以前のお話『 お祭りには力があるんですよ。人が集まりますし、いいキッカケにもなります。頑張ってやってると、来てくれることが嬉しいでしょう? その目的のためにやってるんだから。高揚感があるから、仲間が一致している雰囲気っていうのがまたよく出ているんで、来た人も「あ、これ、いい集まりだな」って感じやすいんですよね。やっぱりメリハリっていうのが必要じゃないですか。ギュッとね、お祭りのとき。お祭りの一体感で、家族が一致していくっていうのもありますよね。お祭りって、準備も片付けも大変。大変なことを一緒にやるから、仲間意識が高まるというか。主日のミサも感謝の祭儀って言うくらいで、「祭」って字が入ってるんですね。日曜日の朝、みんなが遠くからいっぱい集まってくる。「さあ、これからミサ始まるぞ」鐘が鳴って、みんな立って、入祭の歌を歌って・・・。そう、思い出します。絶望的になっていた妹を、「いいから、うちの教会にいらっしゃい」って誘ったんだけど、「絶対、宗教はイヤ」「絶対イヤ」と。「そう言わずに、きっと元気になれるから。そんな真っ暗い顔して、「死にたい」って言ってるくらいだったら、信じていらっしゃいよ。神父さん、いいお話してくださるのよ」「絶対イヤ」だけど、あまりにもしつこくお姉さんが誘うので、「わかった。そこまで言うなら、そのミサとやらに一度だけ行く。ただし、一度出たら、二度と誘わないって約束して」って。お姉さん、苦渋の選択ですよね。一度も来ないよりはね、一度は来たほうがいいから、「わかった」と。「二度と誘わないから、一度は来て」と。だから妹は、渋々来たんですよ。渋々来て、ミサの後ろのほうに座ったら、オルガンが鳴って、みんなが立って、神父が白い衣を着て出てきて、祭壇前で、晴佐久神父、結構深々と頭を下げるんですよ。あの時、お祈りしてるんですね。「こんな私だけれども、神さま、あなたがこの私を通して、聖なる働きを行ってください。私はすべてをあなたにお委ねいたします」と。神父が白い衣を着て出てきて、深々と頭を下げて、みんなが祈っている時に、その妹さん、突然、ぼろぼろ涙が出てきて、止まらなくなって、感動して、「あたし、この教会に通う!」って。だけど、それ、儀式の力なんですよね。理屈抜きでしょ?みんなで一斉に立ちます。手を合わせます。頭を下げます。光が注がれて。神父、頭を下げます。10秒、20秒・・・。彼女の中にあった暗い思い、閉ざされた思いが聖霊によってポン!と外されたような。まあ、それから、毎週熱心に通って、もちろん洗礼も受け、友だちも誘ってくる、家族も誘ってくる。その後、病気で亡くなりましたけど、「私は真っ暗闇だったけど、キリストに出会った。聖霊が働いた。今、洗礼を受けて、ほんとに幸せでしょうがない。もうすぐ私の命は終わるけれど、なんにも怖くない。私は、信じたんです。信じるって、ほんとに幸せなこと。信じることで、すべての恐れが消える。これだけは、みなさんにお伝えしたい」と、繰り返し、話してくれました。あのこと思い出すと、儀式ってねぇ、なかなかな力を持っているんですよ。ちゃんとやろうとする、その気持ち。みんなも、ちゃんとそれに与ろうっていう気持ち。そういう、言葉にできない、あの気配ですよね。お祭りっていうのは、そういうことなんですよね。それこそ無人島の浜なんか、オルガンも何もないけど、大自然の中で、みんなが心を一つにしますって、その気配はあるわけだ。その気配がなんなのか、よくわからないけど、やっぱり非日常、ちょっと浮世離れして、みんなが心を一つにしようって手を合わせる。そのお祭りの心っていうのは、「神さまがすべての人にちゃんと語りかけているんだから、今、この場が、神さまのみこころの場だ」っていう、その気配なんですよ。普段はね、「何、食べようか?」とか、この世のことで頭がいっぱいなんだけれども、ふと、「このすべてのことが天の父のみこころのうちにあるんだ」って、そこに立ち戻る瞬間ですよね。普段は忘れてるけど、お祭りには、それがある。』Lydia

  • 28Nov
    • ✞ 今週の入門講座はすべて休講です。の画像

      ✞ 今週の入門講座はすべて休講です。

      金鳳山 平林寺 (埼玉県新座市)関東にも京都に負けずとも劣らない錦繍に染まる禅寺があったbravo‼️ ブラヴォー🍁※ 今週の入門講座は全て休講になります。また来週お逢い致しましょう本日から教会暦(典礼暦)C年となります。カトリック教会の元旦ですね✞「福音を中心に据え、きょうだい愛のうちに福音をあかしするなら、たとえ今、大なり小なり、嵐の中にいても、わたしたちは希望を持って将来を見ることができます。」教皇フランスコ 11月24日宜しければ御ミサに与ってみませんか【カトリック浅草教会】11月28日(日)10:00~ 司式 晴佐久神父さま11月30日(火) 7:00~ 司式 晴佐久神父さま【カトリック上野教会】11月28日(日)10:00~ 司式 井上神父さま (イエズス会)12月 4日(土) 10:00~ 司式 晴佐久神父さま先ずは、イエスさまが御聖堂の真ん中におられる事を感じ取り、荘厳な雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。ミサに与ることによって、復活されたイエスさまと出逢う事が出来るのです。※ 献金、聖書、等 すべて不要ですのでどうぞお気軽にお越しください。イエスさまはどなたでも招いておられます。皆さま大歓迎です。どうぞお待ちしております。『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳↔ソ―シャルディスタンス↔と換気を保ち、手指消毒等の感染症対策を充分に行っております。ご不便をおかけいたしますが、マスクを着用してのご列席にご理解、ご協力をお願いいたします。🕊くれぐれも体調管理にご注意ください。上野教会は、何時も扉は開かれております。ミサや入門講座がない日でも※ ご聖体訪問が出来ますのでイエスさまに逢いに来てくださいね( 概ね9:00―16:00位までと伺っておりますが、ご確認の上お越しください。)※ 祭壇のお隣に赤いランプが点っている箱(聖櫃)にご聖体が安置されており、イエスさまがご臨在されておられるのです。マリアさまが入口でお出迎えしてくださいます。浅草教会は、上記のミサのある日のみ開かれております。※ 10:00―17:00宜しければどうぞお越しください。◤◢◤◢ caution ◤◢◤◢※ 上野教会の2階の御聖堂は、換気のためにステンドガラス等の窓を開け放しておりますのでかなり冷えます。ご迷惑をおかけ致しますが、どうぞ暖かい服装でお出かけください。本日は、待降節第一主日 C年「あなたがたの解放の時は近い」ルカによる福音書 21:28 福音朗読主題句より 心の目が、いつも人の子を見て、イエスさまの到来に備えている。それを待ち望んでいるという、それは信仰的開眼とはこのことだろうと思います。自分では話すこともできず、何もできなかったけれども、しかしその分、全く神様に依存し、イエスさまに頼って、透明な心で、身を起してイエスさまを見上げる。このアダムのような人こそが、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、決してよそ見せず、それによって不意を突かれることもなく、喜びと共にイエスさまを待ち望み、イエスさまと出会うことができる人ではないかと思います。キリストが再び来られる時、イエスさまがわたくしたちに問いかけて来られるのは、「あなたはこれまでどんな仕事をしてきたのですか?どんな地位を得ましたか?どれぐらいの実績をあげましたか?名刺を何枚持っていて、何人の人があなたの名刺を大事に持っているでしょうか?」という質問ではありません。イエスさまがその時、問うて来られるのは、「あなたはわたしを知っていますか?」という質問です。そして、「はい」と答えるわたくしたちに、イエスさまは、「あなたは神に愛されている、神の大切な子供だ」と、言ってくださいます。わたくしたちの人生と、この世界の歴史のすべては、主イエス・キリストとの出会い、というその最後の一点に向けられています。なんと明るい、なんと温かで、希望と慰めに満ちた、ゴールでしょうか。アレルヤ (ハレルヤ)Tipsきょうの福音箇所をさらに深めるためにいつも目を覚まして祈りなさい。待降節第一主日から典礼暦が始まる。典礼暦は、救いの歴史を典礼的に新たにたどらせるが、その歴史が最終的にどこに向かうのかを自覚させる。その自覚をもって、今、何をなすべきかをわきまえさせる。そういうわけで、本日の福音では、イエスの終末説教が読まれる。本年はそれをルカ福音書によって読む。和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年) ●典礼暦に沿って』「待降節第一主日」本文より引用答唱詩編『すべての人の救いを願い、わたしはあなたを待ち望む。』今日の日めくり ㉘耳を澄ませば きっと聞こえる「だいじょうぶだよ」himekuri きっと いい日 ㉘晴佐久神父✞閉じこもり、安全にしがみついて病んだ教会より、町に出て行って傷つき、汚れた教会の方が好きです。日めくり 教皇フランスコ ㉘本日から待降節 (Advent) に入りました。教会暦 (典礼暦)では、本日の待降節から新年がはじまり、イエスさまの生涯を一年をとおして再現し、その救いの業を思い起こして祝います。🎄昨日は、七十二候 「朔風払葉」(北風木の葉をはらう) でした。北風が吹き、落ち葉を払い除ける候になりましたね神宮外苑いちょう並木 ふかふかの黄金色の絨毯をサクサク踏みながら、神宮外苑いちょう並木を歩いて来ました。R246(青山通り)から聖徳記念絵画館までの146本のいちょうの木黄金色に耀き、染まる様はBravissimo‼️ブラヴィッシーモTVドラマ "東京タラレバ娘" にも登場したカフェの外スト―ブで暖をとり、タラレバ言いながら今年も闊歩して来ました~ww✧*。٩(ˊᗜˋ*)✧*。٩(ˊᗜˋ*)*。*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。 金色の ちひさき鳥のかたちして   銀杏(いてふ)散るなり 夕日の岡に 与謝野晶子先日は、冬華火の美しさを諏訪湖畔で堪能致しました。🎇花火は二年ぶりかしら~冬の夜空に咲く大輪の華を観ながらこのコロナ禍の二年間を想い巡らしました。新しい年はきっと いい年になる‼️…と。「神よ、私と共にいてくださいとは祈りません。私がいつも、あなたと共にいることができるようにお助けください。」リンカーンの祈り先のひよこさんの記事にもありましたが、昨日の追悼ミサの中で神父さまも触れておられました。回勅『兄弟の皆さん』(Fratelli tutti)の中で教皇は、コロナ禍によって人と人とのつながりが希薄になってしまった世界で生きるわたしたちに向けて、次のようなことばを投げかけています。「どうか「あの人たち」で終わらせず、ひたすら「わたしたち」でありますように」これは、あらゆる断絶を越えて、世界中の皆が「わたしたち」であってほしいと願う、教皇の切なる祈りにほかなりません。「行きましょう 主の平安のうちに」今週もよろしくお願いいたします。God be with you( 神はあなたとともにおられます )今日も良い日でありますようにシャローム シャローム( 全き平安 )コロナに勝つ!Lisieux

  • 26Nov
    • 【金昼】分岐点

      今日の講座は、神父さまが講演会で行った、新潟のお話でした。『 新潟は、水のおいしい所でね。ともかく水と米がうまいから、ほんっとに酒がうまい。新潟駅にある「ぽんしゅ館」って知ってます?新潟の100銘柄くらいのお酒があって、100円入れると、ちょっと飲めるんですよ。飲み比べ? こんな楽しいこと、ないですね。色々説明書きもあって。高級なところでは、30ccで1000円とか2000円とかっていうのもある。一番高いのは、4000円。それは、ある特定の水を汲んでくる。そこに、タンク背負って、汲みに行くんですよ。そこに湧いている水じゃないとだめ。その手間があるから、人件費だけで高くなっちゃう。そんな複雑な作り方をするわけじゃないんだけれども、30cc、4000円。新潟県民の方から、「晴佐久神父さん、使ってよ」ってもらったクーポンがあって、「このクーポン、何に使おうか?」と、新潟県で使わなければならないわけで。「何に使おうかな? そうだ、これだ!」って、飲みましたよ、30cc。(笑)いや~、澄み切ったねぇ・・・。ほんとに澄み切っていて。日本酒って、後味ひくじゃないですか。それがスッと消えていって、消えていったのに、奥のほうから、何か幸せなものが立ちのぼってくるんです。(笑)何が立ちのぼってくるのかわからないけど、不思議なオーラっていうんですかねぇ。他の100円のお酒を飲んで、「こんなのもある、あんなのもある」って、いい気分で。それで、調子にのって、「じゃあ、クーポンで!」周りの人は、こっちを見てる、ジーっと。「あれ、頼んだぞ」って。(笑)「どうですか?」って、色々説明するソムリエみたいな人が聞くから、「透明感があって、ほんとに透きとおっていて、おいしさがスーッと消えていったのに、奥のほうから、いろんな幸せが立ちのぼってきました」って言ったら、そこにいたお客さんが拍手して。(笑)まあ、なんていうんでしょう、「文化」ですよね。ここの水で、この米で。「次に、これがぜひおススメです」っていう、30cc、1100円っていうお酒があって、そのソムリエが、そこにいた学生に、さかんにすすめているんですよ。でも、学生は「貧しいので無理です」とかって言って、100円のお酒飲んでるんで、「飲みます?」って言って、1杯ごちそうしました。すんごい喜んでてね。「いいんすか、いいんすか? いや~、新潟来て、よかった」「どこから来たの?」「東京からです」「東京で、カトリック浅草教会、上野教会って所で、私は神父っていうのをやってるんですよ。神父は、酒をふるまう仕事なんですよ」って。(笑)ワインですけど。・・・来てくれるといいねぇ。まあ、それは余談ですけど、町家の文化には、この地域、その風土、その伝統、人々の工夫が積み重なった営みが隅々にまで行き届いていて。へっつい(かまど)に薪が積んであって、木組みの高い天井の煙抜きから光が射し込むじゃないですか。かっこよかったなぁ。こんなに大きなかまどなんだけど、「ここで、お正月にはもち米いっぱい炊くんです」とか、説明してもらいました。ある種の、小さな天国。私は感動しまくって、特にかかっている鉄瓶に感動して。と言うのも、民藝の鉄瓶だったんですよ。今、竹橋の国立近代美術館で「民藝の100年」っていうのをやってるんですけど、そのポスターに使われている鉄瓶なんですよ。とてもモダンで美しくって、でもそれが奇をてらってではなく、機能からそうなってるわけですよね。名もない職人さんが伝統の中で、精一杯工夫して作り出して、庶民がそれを守り、大切に伝えてきた。そういう道具や器にこそ、本当の美、芸術があるんですよっていうのが、柳宗悦が言い出した民藝運動ですよね。ぼくも大好きな考え方だし、我々の素朴な日々の暮らしを大切に守ったり、伝えていくことがすごく大事なこと。村上の町家の畳の部屋に炉が切ってあって、そこに、そういう鉄瓶がかかってるんですよ。ポスターのは、鋼色のツルツルの、まだ作り立てのやつですけど、そこのは真っ黒になってて。そりゃそうですよね、炭火で沸かすんだから。「これ、民藝の鉄瓶じゃん」って。「これ、観光客用にそれらしくかけてあるのかねぇ? そんなことないよね」って、そこの方に聞いてみた。「これって、民藝の鉄瓶ですよね?」その人はわからなくて、「そうなんですか?」って言ってる。「東京の国立近代美術館の企画展のポスターにも使われているような鉄瓶ですよ」「そうなんですかぁ。まあ、うちはずーっと何代もこれ使っているんで、『いつ、どのように』っていうのはわかりませんけど」って言う。ずーっと何代も前から使っている鉄瓶。その辺のやかんは、すぐに持ち手が壊れちゃったとか、ありますけど、もしかしたら、100年や200年の話だったりするわけでしょ。かっこいいなぁと思ってね。その町家は、塩引き鮭を売るお店で、村上の鮭は有名なんですよ。独特な村上様式で塩漬けにして、北西の冷たい風が吹きつける中を干しておくと、どんどんうまみが増す。熟成していくわけだ。それを薄く切って、酒浸しにして食べると、まあ、うまかった!でも高いんだよね。お土産に買っていこうかどうしようか考えて、結局買ってこなかったけど、この文化、絶やしちゃいけないなとも思う。鮭が町家の奥に何百本も縄で吊るして、干してあるのを、観光客が入って行って、見れる。町家って、間口は狭くって、奥がずーっと長いじゃないですか。その奥に生活空間や作業場、土蔵がある。「奥は、こんななんだぁ。昔はこんなつくりなんだ」って見ることができただけで幸せでした。その小宇宙。日本文化の小さな天国みたいな空間にうっとり座って、眺めて、帰ってまいりました。でも、生活空間であり、仕事場なのに、観光客入れちゃって、「大丈夫かしら?」って思うわけですよ。私が一番感動したのは、「なんでここに客を入れちゃったのか」っていうことなんです。これには、意外な事実があるんですね。』ここから、村上市の「町おこし」のお話が始まります。道路拡幅の話が進んで、昔ながらの町家が壊されそうになっていた時のこと。「村上のまちづくりはこの人から始まった」と言われている、吉川真嗣さんのお話です。『 なんとか、この町を再興するために、どうしたらいいか、彼は考えた。そこで至った結論、ここが天才的なんですよ。町家の魅力、よさを、「みんな知らない」から、壊そうとするんだ。知ったらね、到底そんなことはできないはず。みんなに、知ってもらうしかない。だから、どんどん中に入ってもらいましょうって、決心する。まず店の正面を変えて、アーケードを取っ払って、何代か前の元々の町家の入り口に変えた。奥が昔ながらなんだから、手前も、奥と同じように元々の町家に直したわけです。そして、「どうぞ奥までお入りください」にした。これが、大ヒットした。みんな、見に来た。全国から見に来た。どんどん話が広がって。町の仲間を募って、みんな、昔ながらの町家にした。そうすると、だんだん町の景観もかわってくるんですよ。それで、村上の町家巡りっていう、一つの名物が生まれた。最初は猛反対された。「アーケードを切っちゃうなんて」とか、「中に人を入れるなんて不衛生だ」とか、「何か事件があったらどうするんだ」とか。道路拡幅で壊されることが本決まりだったのに、それに反対して、仲間を募って、全国から人を集めてっていうのは、すごく批判されたし、脅された。でも、この方は頑として譲らず、「じゃあ、もっと集めよう」と、「町家の人形さま巡り」を始めた。江戸時代から伝わっています、なんていうお雛様があるわけですよ。それを、宝物だからぜひ見せましょうということで、町家に入っていくと、「どうぞ、どうぞ」とお茶も出るわけですよ。それで、人形の意匠や由来を教えてくれる。忘れられない体験になる。これがまた大ヒットして。最初の年、果たしてうまくいくかとドキドキしていたら、最初はパラパラだったのが、来た人の口コミであっという間に広がって、経済効果が億を超えた。これで、商店街の猛反対していた人もひれ伏し、道路拡幅工事の話が流れた。むしろ行政は、公衆トイレをアジア風に作り直したり、色々なことを積み重ねて、街の景観が変わっていった。JRの駅も建て替えた。期間限定で、おひなさま号とかっていうSLを走らせて。そいうふうに、たった一人の人から町が変わっていった。お年寄りも元気になった。彼の、この発想。そこが、分岐点。「中に入れよう」なんですよ。扉を閉めて、うちはうちで守ります。外のことは知りません、じゃなくて。パパさまの言葉で言うなら、「あの人たち」じゃなくて、「わたしたち」になるために、わたしたちが引いたその境界を取り払う。発想の転換。人類は本来、境界線作らずに、自由にお互いに行き来して、生きのびていたわけじゃないですか。今は、鉄の扉に鍵かけたら、もうそれっきり。それぞれ、バラバラで、「隣は誰?」みたいな感じで生きてる。これ、人間の暮らしじゃないんですよね。人って、やっぱりコミュニケーションして、人と人が出会って、ようやく人になる。「わたしたち」ってことですよね。・・・なんでぼくら、閉じちゃうんでしょう。やっぱり何か、取られたくないとか、自分ひとりで安心して暮らしたいとか、プライバシーを守るとか、いろんな思いがあるでしょうけど、それは決して、幸せにつながらない。境界線を取って、壁を作らない。「誰であれ、人と人を隔てる壁をつくる者は、キリスト者ではない」とパパさまが言ったのは、ドナルド・トランプをどう思いますかと質問された時でした。ちょうど、アメリカとメキシコの間に壁をつくって。本当にそうなんですよ。何を守ってるんでしょうかね。内と外の壁を取るっていうのが、キリスト教の本質に秘められている。イエスは壁を取っ払って、ガリラヤの野原で「誰でもどうぞ」とお迎えしていた。イエスさまの十字架って、みんな受け入れてたから、殺されちゃったようなもんですよね。あれがまさに「わたしたち」になる道でしょう。ちょっと譲って、大きな家族を得る。キリスト者って、自分の中の「取られまい」とする思いと戦って、「信じる」ってことを始めた人たちなんですよ。そうでなければ、私たち、ほんとの幸せになれないんです。「扉を開ける」というのは、実際のドアの話でもあり、心のドアの話でもあるんですよ。それは、日本の文化とも深い関わりがあると思うんですよ。もっともっと、人間の暮らしというものを大切にして伝統を守ること、みんなでこの文化を大切に育てることと、キリスト教は深い関わりがあるんじゃないですかね。』『「町家の教会巡り」みたいなイベントもありなんじゃないですかね。この期間は各教会、「どなたでも入ってください」って、「どうぞ、どうぞ」って入ってもらって、神父さんが無料で人生相談。お祈りしましょう。いつくしみ深い天の父よ今日もこのひとときを心から感謝いたします。私たちはさまざまな傷を負って、心を閉ざして、壁をつくって、閉じこもってきましたけれども、イエスさま、神さま、あなたは私たちを連れ出してくださいます。心の扉を開けて、人々を受け入れる喜びで満たしてくださいます。どうか、「あの人たち」と言うような壁を取り払って、「わたしたち」という喜びの世界を深く味わうことができるように、この私たちを祝福してください。私たちの主キリストによって。』アーメン。先週の、難民を家に受け入れる、ポーランドの緑のランプの話に続いて、状況は違いますが、今週も人を家に入れることがキーワードとなっていたのは興味深いです。今日は、人身事故で電車が止まってしまい、ミサに大遅刻したのですが、一人の人が天に召されたところに遭遇したわけです。同級生による中学生の刺殺事件の時も思いましたが、「何とかならなかったのかな」という思いがあります。そうなる前に、教会と、神の愛と、出会えていれば、何かが変わったのではないかという思いが拭えません。そういう思いを抱いて教会に来たので、聖なる霊が何か語りかけているような気がした今日の講座でした。ぽんしゅ館で出会った学生さん、教会に来てくれるといいですね。来週は、休講です。さ来週、お待ちしていますLydia

  • 23Nov
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      「回勅 兄弟の皆さん」

      先週の木曜昼の入門講座の時、晴佐久神父さまから「パパさまの新しい本をテキストにしてみようか?」というお話がありました。教皇フランシスコの新しい本、「回勅 兄弟の皆さん」は昨年発表された社会的回勅です。日本語版は9月に発売されました。兄弟愛と社会的友愛がテーマなのですが、神父さまは「この宣伝の文章、いいよねえ!」と帯の文章を紹介してくれました。「愛は普遍的な交わりへと私たちを向かわせます。愛はそのダイナミズムによって、ますますの寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます。」「利己主義による分断が進み、他者の苦しみを顧みない現代社会の闇を具体的に検証し、弱者を切り捨てることのない開かれた世界を生み出すための道筋を希望を持って提言する。」日本社会も貧困と孤立の問題や切迫した環境の問題などなどがあらわになっていて抜き差しならない状態です。これからの時代は分かち合うこと、支えあうことが今までとは違う次元で求められるのではないでしょうか。この本はそんな時代を生きる私たちにとってたいへん重要な一冊ではないかと思います。厳しい時代には強さの仮面が剥がれ落ちます。そんな時、恐怖に駆られてさらなる強さを求めて防衛に走ってしまうのが、現代の支配的な流れでした。でも、弱さも脆さもない人間などもとより存在しないんですよねえ…。共感すること、分かち合うことを大事にして、異質な他者を抱擁できる文化って、これからの時代のほうが実現可能なのでは?皆さまも是非ご一読くださいますよう。本を読んでいなくても特に受講には差し支えありません。神父さまはいつものように、その日その時のライブ感で即興演奏…じゃなくて、福音語ってくださいますので、安心してご参加下さいね!ひよこ

  • 22Nov
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      今日という日

      以前のお話『「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからだ」(ルカ19・44)って言われると、ドキッとします。「神が訪れる時って、いつよ?」っていう話ですけど、それは、「いつも」ですよね。いつでも、神が訪れる時。だから、ある意味、いい意味での緊張が必要ですね。いつも神さまと共にある、いつも神さまの恵みが注がれている、いつでも神のみこころが行われている時なんだ。今も、神さまが訪れてくださる恵みの時なんだ。何年何月に世が終わるとか、そういう話じゃなくて。ちょうど今、カトリックの暦では年末です。待降節第一主日(今年は11月28日)がカトリックの暦では新年ですから、今は年末で、聖書もずっと、「神のとき」について語られる。終末論。終末論って言っても、「終わり」っていう感じよりも、神さまのみわざがついに完成する、恵みの日々、極みのとき、特別なとき、オペラで言えばクライマックスというか、何か、「特別なとき」ってあるわけですよ。いつも大事ですよ?いつも大事なんだけど、まあ、特別なときがある。今までずっと生きてきたじゃないですか。大事なときがあったし、浮きもあったし、沈みもあった。だけど、それらのすべてが、「今日」という日のためだった。この「今日」を大切にすることが、神さまのみわざに一番協力することになるんだ、と。それこそ、明日はないかもしれないわけですしね。そういう緊張感ね。いい緊張感。ビクビクするっていう意味じゃないですよ?今日がクライマックス。今日が総仕上げの日。今日ひとつの恵み溢れるピークがくる。「えぇ!? いつもと変わらない今日じゃん」って思うかもしれませんけど、そういうふうに、日々、神は新しい創造のみわざを行っておられます。今日も、新しい神さまの日をいただいて、神さまが働いておられます。現実的にはね、いい時悪い時、なんか気分のノル時ふさいでる時、色々ありますけども、そういうこと関係なく、信仰生活っていうのは、「だからこそ、今日は!」みたいなね。特に、気分のすぐれない時とか、いやなことがあった時とか、そういう時こそいつにも増して。芸術的に言うなら、美しい音楽がだんだん盛り上がって、「わぁ、きれい」で終わっちゃうんじゃなくて、ちょっといったん短調になって、いったん重苦しい楽章があって、そしてきらびやかな第4楽章、みたいな。色々あるんだけども、だけど、これが極みのときなんだって信じて、「自分に与えられた、このような日が、最後の日なんだ」と、「自分に与えられたのは、そういうみわざなんだ」と受け入れて、今日が最後なんだから、ちゃんと人を愛そう、ちゃんと自分を受け入れよう、ちゃんとこの世界のためにささやかな捧げものをしよう。そして、天に召されていこう。この試練の中で、さまざまな困難の中で、今日という日を捧げものにしましょう。今は地球温暖化の話とか、怯えるような話が色々あります。「地球終わっちゃうの?」みたいな。なんとなく世紀末感が漂っているじゃないですか。こんなときに居合わせた我々は、神が、「そんなとき」に、この人をこの世に与えようと考えた。私は、「生まれ変わるなら、縄文人」って、いつもそう言っているんですけど、「縄文時代、よかったろうなぁ」と、平和で、大自然の中で。だけど、与えられたのは、1957年生まれで、この2021年という時に、司祭として、神が私を置いたわけです。「おまえは、ここ」って。それは、何か、やっぱり、神のお考えがある。計画が、意味が、あるわけです。信じるだけですね。「じゃあ、自分は、何ができるだろう?」「神に、何を望まれているんだろう?」っていうことじゃないですか。終末のとき。暦の上でもそうですけど、気候変動のことを思うと、いつもよりも終末感がありますね。規模が違いますもんね。一か所で起こる災害と違う。それは、みなさんをおどかしているわけじゃないですよ。そういう時に、我々は、神によって生まれてきた。ささやかであっても、何か、神の期待にこたえよう。今、キリスト者であること、この環境、この時代に、キリストの弟子であること、それはやっぱり誇りに思って、なすべきことをちゃんとやりましょう。結構、待ったなし感がありますからね。年末にあたって、神からの招きに緊張感をもってこたえる。それがないと、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」って言われちゃうからね。』Lydia

  • 21Nov
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      ✞ 今週の入門講座

      白鳥の湖 瓢湖 (新潟県)白鳥 (しらとり) は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ若山牧水✞ 今週の入門講座 今週の予定【カトリック浅草教会】 11月25日 (木) 19:00~ 11月26日 (金) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~ )【カトリック上野教会】 11月24日 (水) 19:00~ 11月25日 (木) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~)※ 入門講座の前にミサがありますのでよろしければミサから如何でしょうか先ずは、イエスさまが御聖堂の真ん中におられる事を感じ取り、荘厳な雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。ミサに与ることによって、復活されたイエスさまと出逢う事が出来るのです。※ お申し込み、予約、事前準備、受講料、献金、聖書、等 すべて不要ですのでどうぞお気軽にお越しください。イエスさまはどなたでも招いておられます。「お話しだけでも聴いてみたい」お話しなさるのは、晴佐久神父さまです。「教会ってどんな処なの?」「晴佐久神父さまに会ってみたい!」 etc etc…皆さま大歓迎です。どうぞお待ちしております。 🕊『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳↔ソ―シャルディスタンス↔と換気を保ち、手指消毒等の感染症対策を充分に行っております。ご不便をおかけいたしますが、マスクを着用してのご参加に ご理解、ご協力をお願いいたします。くれぐれも体調管理にご注意ください。上野教会は、何時も扉は開かれております。ミサや入門講座がない日でも ご聖体訪問が出来ますのでイエスさまに逢いに来てくださいね(※ 概ね9:00―16:00位までと伺っておりますが、ご確認の上お越しください。)浅草教会は、日曜日の主日ミサと週日ミサのある日に扉は開かれておりますのでどうぞお越しください。※ 開放時間 10:00―17:00※ 祭壇の近くに赤いランプが点っている箱(聖櫃)にご聖体が安置されており、復活されたイエスさまがご臨在されておられるのです。マリアさまがお出迎えしてくださいます。◤◢◤◢ caution ◤◢◤◢上野教会の1階ホ―ルと2階の御聖堂は、換気のためにステンドガラス等の窓を開け放しておりますのでかなり冷えます。ご迷惑をおかけ致しますが、どうぞ暖かい服装でお出かけください。本日は、「王であるキリスト B年」「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」ヨハネによる福音書 18:37 新共同訳福音朗読主題句よりローマ総督ピラトは真理と向かい合おうとせず、権力と富に執着して、結局総督を罷免され、自殺したそうです。私たちは困難でも、主の声に聞き従う決断をしたいと思います。主に聞き従っておけば、「従っておいてよかった!」と、思う日が必ず来ると信じます。アレルヤ (ハレルヤ)Tipsきょうの福音箇所をさらに深めるために宗教対話宗教用語は単なる記号ではない。しばしば、一字一語にその宗教の生命がかかっていることがある。それは、それぞれの生活と文化の大地に深く根を下ろしているだけに、ほとんど翻訳不可能というしかない場合がある。一例として、どの宗教にも欠くことのできない根源語としての「神」ということばがある。この日本語の「神」ということばが日本人にとって意味するものは「エロヒム」、または「ヤーウェ」というヘブライ語がユダヤ教信徒にとってもつ意味とは、はなはだしい距離があるに違いない。このことは、ギリシャ語の「テオス(Theos)」、ラテン語の「デウス(Deus)」にしても、他のどのような言語にしても同様である。このことについての一つの興味ある体験を参考までに取り上げてみたい。『奥村一郎選集 第2巻 多文化に生きる宗教 解説:橋本裕明(名古屋芸術大学教授)』「第一章 大いなる賭け」より引用答唱詩編神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。㉑ 今日の日めくりなにもできないけどずっとそばにいるよhimekuri きっと いい日 ㉑晴佐久神父神はご自分をわたしたちの前に置きますが、押し付けることはありません。神はわたしたちの目を開いてくださいますが、盲信させることはありません。日めくり 教皇 フランシスコ ㉑❄️☃明日は、二十四節気の 「小雪」 です。雪が降り始める頃ですね先週は、北海道帯広で平年より13日遅く初雪が観測されたそうです。雪が大好きなわたくしは、初雪の便りを聞く侯になると子供のようにワクワク致します。(っ'-' )╮ =͟͟͞͞❄ ٩( ᐖ )۶٩( ᐖ )۶٩( ᐖ )۶初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ大原真人今城(おおはらのまひといまき)✰=͟͟͞͞ ✰=͟͟͞͞☆彡しし座流星群と、140年ぶりのほぼ🌕皆既部分月食 (98%) は観られましたか❓これからは、七つの꙳★*゚一等星が冬の夜空を彩ります。☆オリオン座のベテルギウスとリゲル☆おおいぬ座のシリウス☆こいぬ座のプロキオン☆ふたご座のポルックス☆ぎょしゃ座のカペラ☆おうし座のアルデバラン☆りゅうこつ座のカノープス (関東以南)•*¨*•.¸¸☆*・゚来週からはいよいよ待降節に入ります。アドベント (Advent) の期間静かに イエス・キリストのご降誕を待ち望みたいと思います。神よ今年もまた、めぐり来る主の降誕の日を間近に控え御力をもって私たちの心を動かし御子のために道を整えるように励まして下さい。罪のために闇に閉ざされた私たちの心は光を求めて、救いの主の来臨を待ち望みます。私たちの罪のために、救いの日が遅れることなくかえって御いつくしみによってあなたの民としての使命を果たしたいと望んでいます。私たちの希望を強め、終わりまでこの信仰を全うさせてください。主キリストによって。アーメン。「天国の窓」 表紙 晴佐久神父先日、葬儀ミサに与り参列致しました。両親 (プロテスタント) が天に召された時のキリスト教の葬儀以来の事です。振り香炉と聖水の撒水レクイエムを聴き、聖歌を歌い、故人の天への旅立ちをお見送りするミサは粛々と厳かに執り行われました。18年前の父と8年前の母の葬儀の時が交錯して胸が熱くなりました。当時、司式された牧師が堪えきれずに流した涙が忘れられません。牧師ご一家とは家族ぐるみの親しいお付き合いですから思い入れもひとしおの事だったと思い起こします。主よみもとに 聖歌658番主よ みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に ありともなど 悲しむべき主よ みもとに 近づかんさすらうまに 日は暮れ 石のうえの かりねの 夢にもなお 天(あめ)を望み主よ みもとに 近づかんこの聖歌は・・・お気づきの方もおられる事でしょうそう 映画 「タイタニック」 の最期に沈みゆく船のデッキで演奏された曲です。(実話です。)主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。神よ、深い淵から、あなたに叫び嘆き祈るわたしの声を聞いてください。平安をお祈りいたします。いつの日にか天の御国で再会出来る希望を胸に後を歩んでゆきます。🎊㊗️🎉⚾今季のアメリカン・リーグMVPを満票で初受賞されたエンゼルス・大谷翔平選手おめでとうございます‼️「行きましょう 主の平安のうちに」今週もよろしくお願いいたします。God be with you(神はあなたとともにおられます)今日も良い日でありますようにシャローム シャローム( 全き平安 )コロナに勝つ!Lisieux

  • 19Nov
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      【金昼】緑のランプ

      今日の講座も色々な話題がありましたが、ミサのお説教でも話に出た、ベラルーシのポーランド国境に中東の移民・難民が何千人と押し寄せている話が一番心に残りました。『「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)って、イエスさま、言いましたけど、この集いの中に、神の国が始まっている。そういう思いで、私たちは集います。さらにさらに言うなら、「私たち」って、この私たちだけじゃない。全世界、実はみんな、「私たち」なんですよね。人類みんなが私たちっていうことでいえば、まさにこの「地球」が神殿だってことでしょう。そう思うと、このイエスさまのお言葉、よくわかりますでしょう?イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ19・46)わたしの地球は、祈りの地球でなければならない。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にした。朝刊をパラリと見たら、ベラルーシのことが載っていて、やっぱり、どうもベラルーシの旅行会社が20万円くらいで中東の人たちを集めているんですよね。その裏には、政治的な思惑があるんじゃないんですかね。EUの一番の問題である難民を利用する。中東からベラルーシに来れば、ポーランドに渡れるぞ、みたいなデマを流しながら、大勢集めて、国境に送り込んで。ポーランドからは軍隊が出ているわけですが、難民の側は、鉄条網を切る大きなハンマーや閃光弾って書いてありましたけど、そんな物持って飛行機に乗れるわけない。貧しい難民がベラルーシに渡ってから手に入れている物でしょ? 背後で何かしている存在がいるわけですよね。一番困っている、一番弱く、助けを必要としている人たちを利用して。中にはもう凍え死んでいる人もいる。その、なんと言うか、人間のやることの残酷さというか、はしたなさというか、「あなたたちは、それを強盗の巣にした」(ルカ19・46)イエスさまは、怒っておられるわけで、我々の心から、商売するような心を追い出していただかなければならないですよね。自分たちでやめようって言っても、なかなか回心できない。イエスさまに追い出していただきましょう。そのためにも、ほんとにイエスさまのことを学び、信じ、そして回心が必要です。このミサは、ポーランドの国境で、寒さのあまり凍死しそうな子どもたち、飢え死にしそうな彼らに、神さまが特別のいつくしみを示してくださり、その近くにいるキリスト者たちが特別の配慮をして、そして私たちも、なんらかの祈りと行動で応援ですきますようにとお捧げいたします。』『 教皇フランシスコの回勅が出たんですね、「兄弟のみなさん」。宣伝のところに載っている何行かだけですけど、ご紹介します。「どうか「あの人たち」で終わらせず、ひたすら「わたしたち」でありますように」いい言葉ですよね。難民たち、移民たち、紛争の地域では到底まともに生きていくことができない人たちが山のようにいる。ベラルーシは、彼らを交渉材料の道具にしようとしている。EUだって、清く正しいわけじゃない。この寒い中、放水してね、0度っていうときにみんなを水浸しにするんですよ。子どもが泣いてね。木を集めて、たき火をしているけれど、何千人となってくると、色々な物がみんなに行き渡らないでしょうし・・・。色々抱えている中で、でもさすがにEUには、「わたしたち」感っていうものに対する伝統といいますか、キリスト教的な習慣といいますか、がありますよ。それはもちろん、中東にもベラルーシにもあるでしょうけど、ポーランドはカトリック国なんですけど、ヨハネ・パウロ二世教皇を生んだ。昨日のニュースで、ポーランドに入り込んで来た難民がいるんだけど、行くあてもないし、もう食うものも食ってないし、寒いから凍え死んじゃうじゃないですか。そうすると、道沿いにですね、緑のランプが灯っているんですよ。あれは、どういう伝統なんでしょうね。あの、緑のランプは何かっていうと、「このランプが灯っている家は、難民を保護しますから、どうぞお訪ねください」なんですよ。トイレ一つだってね、ありがたいじゃないですか。命をおとしかねないギリギリのところで、緑のランプが灯っているんですよ?ピンポンってしたら、「どうぞ、どうぞ」って、温かいスープを出して、寝床を用意するんですよ。かっこいいねぇ。誰が言い出したのか、どういう習慣なのか、あっちこっち見れば、緑のランプ灯しているんですよ。なんかそういうのが、「わたしたち」なんですよね。家に入れるって、もうすでに「わたしたち」じゃないですか。「あの人たち」、かわいそうだから、食べ物を持っていってあげようっていうのと違うでしょ。線の引き具合が違うじゃないですか。持ってって、食事与えて、帰って来て、「ああ、いいことした」って、そのあと死んじゃっても知りませんって。でも、「わたしたち」ってそうはいかないわけですよ。私たちも、もうちょっと小さい規模で、「わたしたち」って言えるような集いを、工夫していっぱいやっていったらいいと思うんですけどね。「どうか「あの人たち」で終わらせず、ひたすら「わたしたち」でありますように。」のあとに、こう続いています。「わたしたちには互いが必要で、互いに対して義務を負っていることに、はっきり気づけますように。」私たちにはお互いが必要。あなたがいてくれるおかげで、私であれる。みんながいてくれるおかげで、私は本当に安心できる。みんながいてくれないと、「私たち」っていうこのつながり、仲間、家族がいないと、私は私として生きていけません。だから、お互いが必要。私、やっぱりレインボーってすごく大事だと思うんですね。レインボーカラーってシンボルでしょう?一色に染め上げるっていうのは、恐いことですよ。じゃなくって、「あなたは赤でいいよ。私は青です。緑もいいですね。黄色も素敵だね」、それがレインボーってことでしょう?大事なのは、、赤と青が混ざりましょうって言ったら、これ、よろしくないんですよ。紫になるだけ。赤と青が混ざって、両方紫になって良かったね、と言うとしたら、ちょっと恐いじゃないですか。私、赤だったのに、なんだか青に混ぜられて、紫になっちゃった。結局、どんな赤も、どんな青も、混ぜ合わされて、紫になっちゃったって、恐いですね。洗脳というか、閉じ込められるというか、恐いことです。私は一番そういうことが恐いタイプなので、自分が何色かはともかくとして、自分は自分のまんま、生きていきたいし、受け入れられたい。紫になったら、もう青ができないわけですから、本当にレインボーって大事ですよね。それぞれの色のまんまで一緒にいるってことでしょう?全部混ぜたら、灰色になる。美しい虹がかかるのは、希望のしるし。ぼくらがこうしていても、たとえば10人いれば、10色ある。それぞれの色がそのまんま、そこにいる。これが美しいわけで。なくていい色はない。どれほど、みんなから嫌われていようとも。どれほど、ひどい犯罪者であろうとも。どれほど、なんの役にも立たないように見えたとしても。むしろ、その色こそがそこにないと、もう虹が成立しません。レインボーフラッグが表しているのは、それですよね。「わたしたちには互いが必要で、互いに対して義務を負っていることに、はっきり気づけますように。」全部そのまんまを受けとめる、神はそうしているんですよね。赤は赤のまんまでいい、と。カケラも紫にいたしません。みんな美しいそのまんまで受け入れた時に、虹が完成する。神がそれを7色ならぬ、70億色でやってるわけですね。全部をそのまま受けとめる。』Lydia

  • 15Nov
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      大いなる真理に向かって

      .以前のお話みなさんも、神さまの霊の働きによって、宇宙万物が創られたときから用意されていた。聖霊の働きによって、ぼくらが生まれ、育ち、出会い、そして聖霊の導きに守られて、やがてその聖霊の源である親のところに、ちゃんと連れていってもらえる。「大船に乗った」って言い方、さっきしましたけど、ありがたい話ですよ。本当は大船に乗っているのに、まるで漂流しているかのような不安、時には絶望、それは人間として仕方のないことなのかもしれないけど、そうならないように、ぼくらはいつも祈るわけですね。祈りっていうのは、何かっていうと、聖霊の働きに身を委ねるってことなんですよ。聖書にあるじゃないですか。あなたたちの心の内にある神の霊が「天の父よ!」って祈っているんです、と。(cf.ローマ8・15/ガラテヤ4・6)ぼくらが祈っているっていうよりも、ぼくらの中に「親心」があって、その親心が「天の父よ」と祈っている。すべては、「神から、神によって、神へ」ですね。(cf.ローマ11・36)まことの親である天の父から生まれてきて、天の父の親心、愛の霊が私たちの中に働いて、そして神に向かわせている、と。こういう思いで生きているのが祈りの生活っていうことなんで、地面が揺れようと、感染症が流行ろうと、天の父の思いどおり。昔、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な? 天の神さまの言うとおり」ってやりませんでした?(参加者の方「やりました。」)やりましたよね。子どもの遊びかと思いきや、「天の神さまの言うとおり」って、すごい信仰じゃないですか。究極の信仰ですよ。だって、右がいいと思って、右を選んだら、間違えた。左がいいと思って、左を選んだら、やっぱり違った。右がいいと思って、右を選んだら、つかの間よかったけど、変わっちゃった。左選んで、失敗したと思ってたら、やがて、左でもよかった。そんなのばっかりじゃないですか。いつも私が言っているのは、「最終的には」の話です。最後は、神さまの言うとおり。それがあるから、好きに選んだり、失敗したりできるわけですよね。・・・全然、失敗じゃないんですけどね。「失敗は成功のもと」と言うか、彼も言ってましたよね、ノーベル賞の真鍋さんでしたっけ?成功することなんて、ほんの一部なわけですよ。あとは壮大な無駄というか、何だかよく分からない結果になっちゃったり、がんばったのに実らなかったり、そんなのばっかりなんだけども、そういう分母がしっかりあるから、高みもあるんでしょうね。ノーベル賞。どんな失敗があったって。まあ、研究者っていうのは、結局はそうしていろんな失敗したり、無駄と思われることを積み重ねていって、やがて、まさに神さまが用意しておいた、「答え」を見つける。科学って、面白いですよね。神さまが大いなる秘密を用意しているのを、一つひとつパズルを解くように見つけていくプロセスですからね。それは絶対、見つけていくプロセスに間違いはないというか、他のプロセスも全部そこに絡み合って、ひとつの真理に向かって、こう動いている。今まで、「これは本当だ」と思っていたことが、さらなる研究とか、発見とかで、また先に一歩進んでいく。ただとっても普遍的で、「何人(なにじん)」が実験しようが、「いつ」研究しようが、「真理」は変わらないわけですね。そうして、また一歩進んでいく。「どこまで行くのかな?」って、まだ人類、そんな、かすってもいないくらい、出発点に近いかもしれないけど、少しずつ、少しずつ、進んでいって、その先に見つけていく「それ」を神と呼ぶっていうんでいいんじゃないですかね。「科学が探しているのは、神だ」、そう言っていいんじゃないですかね。先に、「神はこうだ」って言っちゃうと、科学と相いれないものになっちゃいやすいけど、科学が目指しているものを神と呼ぶ、でいいんじゃないですかね。真理。その先に、神のみこころがあって。ただ、我々、宗教やってる人たちは、科学者が求めている、その究極の真理っていうものを先取りして、もう我々は、信じちゃっていますっていう人たちなんですよね。キリスト教から科学が生まれてきたっていうのもよく分かるような気がしますけど、キリスト教が最終的に目指しているもの、それは、すべての宗教、すべての科学がちゃんと最終的にたどり着くべき真理。その真理は、とても人格的な「愛」と非常に深く関わっている。これはぼくらの目指すべき地平であって、研究者がどんな失敗をしながらでも、見つけていこうとしている世界。だから、手前のところで失敗しようが、成功しようが、すべてが、やがて、意味あるものとして神さまに向かっているんだっていう、その大船に乗った気持ち。その信仰をこの入門講座で培ってまいりましょうってことなんですよね。あなたがここに座っている。これは、厳然たる事実ですけども、聖霊の働きなんですよ。逆の言い方をするのがわかりやすい。聖霊の働きによって、ここに座っている、じゃなくて、そこに座っていることを、聖霊の働きと呼ぶってことですよね。そういう言い方が正しい、わかりやすい。私が生まれて、ここにいる。これは厳然たる事実ですよね。だから、聖霊は働いている。聖霊っていうのは何かって言えば、そういうことなんですよね。宇宙万物に働いている、大いなる力。ほんとに不思議ですけどね。リュウグウから持ち帰ってきたサンプルの結果が、今少しずつわかってきていてね。ほんとにこの世界は不思議。地球ができる前のことまで考えたり。でもそこから、もうすでに、自分が用意されているんだって、天地創造の初めから、神はあなたを愛している。なんにも心配いらない。あなたはそんな尊い存在なんだっていう、自信や誇りをもつ。やがて消えていくことを恐れるというのではなく、まだ始まってもいないんだっていうような信仰をもって、聖霊にお委ねいたします。Lydia       

  • 14Nov
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      ✞ 今週の入門講座

      石蕗 (つわぶき)花言葉『謙譲』『謙遜』『愛よ甦れ』『先を見通す能力』『困難に負けない』石蕗の詩陽ざしをさえぎる木立の下でも、岩だらけのやせた土にも、石蕗は、しっかりと根付き、じっと耐えて生きている。まるで、五島のキリシタンたちが長く辿ってきた殉難の姿を、そこに映し出しているように。何の変哲もないただの草であるが、私は石蕗に心ひかれる。―崎濵宏美の日々の記憶―💐✞ 今週の入門講座 今週の予定【カトリック浅草教会】 11月18日 (木) 19:00~ 11月19日 (金) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~ )【カトリック上野教会】 11月14日 (日) 12:00~ ( ※ 10:00~主日ミサ後 入門講座) 11月17日 (水) 19:00~ 11月18日 (木) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~)※ 入門講座の前にミサがありますのでよろしければミサから如何でしょうか先ずは、イエスさまが御聖堂の真ん中におられる事を感じ取り、荘厳な雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。ミサに与ることによって、復活されたイエスさまと出逢う事が出来るのです。※ お申し込み、予約、事前準備、受講料、献金、聖書、等 すべて不要ですのでどうぞお気軽にお越しください。イエスさまはどなたでも招いておられます。「お話しだけでも聴いてみたい」お話しなさるのは、晴佐久神父さまです。「教会ってどんな処なの?」「晴佐久神父に会ってみたい!」 etc etc…皆さま大歓迎です。どうぞお待ちしております。 🕊『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳↔ソ―シャルディスタンス↔と換気を保ち、手指消毒等の感染症対策を充分に行っております。ご不便をおかけいたしますが、マスクを着用してのご参加にご理解、ご協力をお願いいたします。くれぐれも体調管理にご注意ください。上野教会は、何時も扉は開かれております。ミサや入門講座がない日でも※ ご聖体訪問が出来ますのでイエスさまに逢いに来てくださいね(※ 概ね9:00―16:00位までと伺っておりますが、ご確認の上お越しください。)浅草教会は、日曜日の主日ミサと週日ミサのある日に扉は開かれておりますのでどうぞお越しください。※開放時間 10:00―17:00※ 祭壇の近くに赤いランプが点っている箱(聖櫃)にご聖体が安置されており、イエスさまがご臨在されておられるのです。マリアさまがお出迎えしてくださいます。◤◢◤◢ caution ◤◢◤◢上野教会の1階ホ―ルと2階の御聖堂は、換気のためにステンドガラス等の窓を開け放しておりますのでかなり冷えます。ご迷惑をおかけ致しますが、どうぞ暖かい服装でお越しください。🕊‪𓂃 𓈒𓏸◌‬『汚れのない人、罪のない人清らかな人を害なえば、その愚者にこそ 悪は戻る逆風に投げた微塵の如く』法句経(ダンマパダ) から抜粋仏教による因果報応の思想ですが、キリスト教では、イエス・キリストを信じるなら救いを得るのです。しかし、無条件で救われることと、自分のやったことの刈り取りをすることとは全く別のことだと思えるのです。꒰ঌ( ⌯' '⌯)໒꒱『旧約聖書の人々は、「老病死」を自分の犯した罪の罰だと考えていました。ですから神は怒りの神であったのです。しかし、ユダヤ教の新興宗教として発したキリスト教は、そこに180度の意味の転換をしたのです。罰を下す神に代わって愛の神、許しの神の概念を築きました。ですから,聖書は私たちに敵を許すことを命じています。本当は敵なんて人だって許すのは嫌なんですけどね。それなのに聖書は7の70度許せと書いてある(中山註:マタイ18:22 77回と解釈する訳もある)。490回ですか、まっぴら御免と言いたくなりますね。でももしかしたら心の中で密かに敵を許すことは、人間の一生をかけた偉大な仕事なんでしょう。他の信仰の中には現世利益を期待するものがありますが、キリスト教は全くそうではありません。良いことをした人が東日本大震災で生き残り、亡くなった人がそうでなかったかと言うと、一切そうではないんです。その不公平がどうしてなのだろうと言う人がいますが、不審に思ったことはありません。現世で報われるため良いことをするのは、お茶のペットボトルを買うため自動販売機に150円を入れるようなものです。神はそうした安っぽい因果関係を望まない。報われてもそうでなくてもやるべきことをやる。それが本当の信仰で、人間の美学なんです。そうした思想に私は軸足を置くことにしたのです。』曽野綾子『この世に恋して』より抜粋『お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る。』オバデヤ書 1:15 新共同訳『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』マタイによる福音書 5:44 新共同訳『私の嫌いな人々、そして私を嫌っている人々が幸せでありますように。』『私の嫌いな人々、そして私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように。』『私の嫌いな人々、そして私を嫌っている人々の、願い事がかないますように。』『私の嫌いな人々、私を嫌っている人々にも覚りの光が現れますように。』『慈悲の瞑想』より✞ 本日は、年間第33主日 B年「人の子は、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」マルコによる福音書 13:27 新共同訳福音朗読主題句よりTips(2)大天使(Archangels) 『ダニエル書』10章13節では「大天使長のひとりミカエル」とあり、他の大天使もいると言われています。教会の伝統ではミカエル、ガブリエル、ラファエルを三大天使と見なし、それらに加えて『トビト記』に登場する七天使も大天使であると考えられています。カブンディ・オノレ 著『聖書が語る天使の実像 ●霊的生活を深めるヒント』「2章 天使の位階 下位三隊」本文より引用オノレ神父さまは、レジオマリエ東京レジア指導司祭で、上野教会での東京レジア集会で一度お会いした事がありますが、和顔愛語でとっても気さくで素敵な神父さまです。わたくしもレジオマリエに参加して約二年の月日が経ち、正会員になるべく、より一層の精進に励みます。聖霊来てください。マザーの言葉は慈愛に溢れています!親切で慈しみ深くありなさいあなたに会った人がだれでも前よりももっと気持ちよく明るくなって帰るようにしなさい親切があなたの表情にまなざしに、ほほえみに温かく声をかける言葉にあらわれるように子どもにも貧しい人にも苦しんでいる孤独な人すべてにいつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい世話するだけでなくあなたの心をあたえなさい(マザー・テレサ あふれる愛より)「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28:20 新共同訳いつであるのか分からない来るべき世の終わりの日に向かって過ごす中で、このイエス・キリストの言葉に希望を持ち、為すべきことを為して行けますように。答唱詩編「しあわせなひと かみのめぐみをうけそのよろこびに いきるひと」いくつになっても神さまの子どもhimekuri きっと いい日 ⑭晴佐久神父聖霊が、困難を取り去ることはありません。聖霊は、困難に立ち向かう力を与えてくださいます。日めくり 教皇 フランシスコ ⑭聖霊の続唱聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。カトリック中央協議会暦の上では冬になりましたが、日中は春を思わせるような、冬の初めの暖かい「小春」がつづいています。春を思わせる初冬の風は「小春風」穏やかでうららかに晴れた初冬の空は「小春空」春のように暖かく晴れた、初冬の天気は「小春日和」どの言葉にも、優しいぬくもりが感じられますねこの里は 冬おく霜のかろければ草の若葉ぞ 春の色なる『拾遺愚草員外』 藤原定家🍁✨木枯らしが吹きつける日がある一方で、柔らかな小春風が頬をなでる日もあります。首都圏も紅葉🍁が見頃になってまいりました。小春日和に散策してみては如何でしょうか先日、区が主催する「農業体験」に参加して来ました。生まれて初めて「鍬」を手にして畑を耕し、畝(うね)を作り、たまねぎの苗を植えました。畑仕事ってたいへ~ん💦腰がぁ~・・・ハンパない(´•̥ _ •̥`)農家の方のご苦労をほんの少し窺い知る貴重な体験に 感謝と尊敬の一日でした。ありがとうございます。わたくしは、今週は次の言葉をこころに留めて、聖霊とともに歩みたいと思います。「他人の過失を見るなかれ。他人のしたことと、しなかったことを見るな。ただ自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。」『ブッダの真理のことば』 「行きましょう 主の平安のうちに」今週もよろしくお願いいたします。God be with you(神はあなたとともにおられます)今日も良い日でありますようにシャローム(平安)コロナに勝つ!Lisieux

  • 12Nov
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      【金昼】神さまの望み

      今日は、とてもよいお天気でした。窓を背にした席に座ったので背中にお日さまの光が当たって暖かく、上を見上げれば、壁に色とりどりのステンドグラスの光が映っていて、キレイでした。『 今日の第一朗読(知恵の書13・1-9)をもう一度見てくださいよ。「神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。」(知恵13・1)・・・この世界は、色々美しいですし、力がありますし、本当にいろんな仕組みがあります。素晴らしい。恋愛っていうんだってね、パートナーシップのさまざまな出来事だって、この宇宙の中の、言うなれば、神から与えられたさまざまな働きなわけです。そういう働き全体、そこにある感動、苦悩を見極めて、最後のところにあるように、「宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。」(知恵13・9)さまざまな物事に流れている本質、その奥を見出そうとすること。「目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。」(知恵13・7)まあ、奪われてしまうのはしょうがないかもしれないけれども、「その美しさに魅せられて、それらを神々と認めたなら、それらを支配する主がどれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。」(知恵13・3)おっしゃる通り。考えてみたら、「美しい」ってぼくらが感じる。美しいものをつくったって、「美しい」って感じなかったら、何の意味もないじゃないですか。「あぁ、美しい!」まあ、最も美しいのは、「愛」ですけども、本当にそれが素晴らしいって思うように、我々がつくられているんだから、それを、そもそもそうした方っていうのに、心を開いて、信頼して、その方の望みを第一の望みとする。そうなんですよ・・・・。神の望みを第一とすることを、「モラル」っていうんですね。キリスト者として、これから激動の10年を生きていきます。この前の10年と同じってわけにはいかない。地球温暖化の問題、コロナの問題。でも、これは、神さまからの、本当にとても愛情に満ちた、上手な教育なんですよ。子どもたちに、本当に目覚めるように。自分の力で気づくように。そして、ちゃんと助け合って、乗り越えていけるように、神さまが上手に我々を導いて、見守っております。神様からの、この期待にちゃんとこたえる神の子でありたい。我々には希望がある。神さまがほんとに滅ぼすはずがないから。』そして、大村博美さんのチャリティーコンサートのお話から一部を。ネタバレを避けたい方は、コンサート後に読んでいただけたら、ありがたいです。昨日出来たばっかりという、こちらのチラシを見ながらのお話でした。『 白を基調とした、とても清楚なチラシにしようと思って、こういうデザインにしました。ポイントは、「コロナ禍の生活困窮者支援」が一番目立ち、その下に、一輪のプレゼントの花。これ、ガーベラみたいな花。博美さんが、オレンジが好きだっていうんで、 オレンジの花一輪。この一輪の花を捧げます、みたいな思いを込めた、そういうコンサートなんです。収益が一般社団法人あじいるを通して生活困窮者支援に使われるチャリティーコンサートではあるんですけど、それと同時に、生活困窮者ご自身に来てもらって、ご招待して、聴いてもらうっていう、そういうコンサートにしたいんですよ。何故かと言うと、生活困窮者のみなさん、そんなコンサートに行ってる場合じゃない、2時間半に4千円払うくらいだったら、「うちの子のミルク買います」っていうような人たち。だけど、そういう方たちを招待して、音楽で励ましたいっていう、そういうことなんですよね。単に、「音楽の力で励ます」っていうだけじゃなく、「そこに、みんな集まって、一緒にこのひとときを喜んで過ごす」っていう、その体験によって、励ましたい。祈りの歌を最初に歌うわけですけど、ちょっとした「神の国」を味わえるようなひとときになると思います。「アメイジング・グレイス」ってそこに書いてありますけど、これ、アカペラで歌うんですよ。彼女が言い出したこと。私は、「そりゃあ、いい!」と。みんな集まって、シンとするでしょう?客電が落ちて、ステージ上に大村博美が出てくる。紀尾井ホールって、声楽には本当にいい響きのホールですけど、最初に「ア~メイ♪」から歌い始める、その「ア~♪」で涙こぼす方もいると思いますよ。音楽ってそういうことか、歌ってそういうことか、愛ってそういうことか、祈りってそういうことかって、もう一発でわかる。それはもう、何教とか何宗、神学がどうとかいう話をはるかに超えた、それこそ、今日の第一朗読じゃないですけど、本当に美しいこの世界をおつくりになった作者を、作品を通して、感じ取る瞬間なんです。それは、多分、そこに集まった人は、「あぁ、そういうことだな」ってわかってくれると思います。そもそもがチャリティって「慈善」、もっと言えば「愛」ですよね。愛のコンサートなんだから、そこに秘められている思いは伝わるでしょうし、私、主催者として、この祈りの歌が終わったときに、いったん客電入れてもらって、短いあいさつをします。「これが神の国だ」っていうようなことを、みなさんと共有したいと思うんです。ここには、今、生活保護を受給している人、障がい者手帳を持っている人、精神障がい者年金をもらっている人、路上生活の方まで、みんな、集まってますよ、と。みんな、神さまの前で、同じ神の子として、助け合う仲間です。お金がどうとかじゃなく、今日はその一致をお互いに喜ぶっていう、そういう体験として、このコンサートをやってます、みたいな話を多分すると思うんですよ。そのときのノリでどうだかわかりませんけど。このコンサートをどうしてもやりたかったのは、芸術の力っていうのをほんとによく知っているからです。ただ、半端なものだとよろしくない。ほんものの持っている力っていうのは、これはすごいんですよ。私は、彼女の声は本当に最高の声だと思うし、カトリック信者でもあるんですけど、その祈りの歌を歌うのが私のミッションだ、と。すべては、神さまへの捧げものとして歌っているんですって、15年前、パリで最初に会ったときにそう言ってた彼女。この人なら、ほんとに一緒にいろんなことができるなって直観した。今回、こういうかたちで、ついに彼女のコンサートを実現できるのは、ぼくにとってもほんとに嬉しいことだし、彼女もすごい喜んでいるんですね。「このコロナの時代に、何かしたいと思ってた」って、その思いを彼女も叶えることができた。だから私、無茶ぶりというか、初めて聴きに来る人たちも多いし、オペラ・アリアだけでなく、「ミュージカルとかって、歌わないの?」って言ったら、「それは…」っていう感じでしたけど、次に会ったとき、「私、チャレンジしたい」って。ミュージカル・ナンバーって、PA通して歌うものですから、マイクを付けているでしょう?だから芝居がかった歌い方とか、情感たっぷりな音楽とかが、マイクを通して伝わるようにできてる。あれをね、もちろんマイクなしですよ、声楽家があのミュージカル・ナンバーをアンプラグド、プラグを入れずに歌うとどうなるんだろう。私は聴いたことがない。でもそれはほんとに楽しみだし、彼女もチャレンジしたい、と。もちろん、プッチーニだ、ヴェルディだって、名曲の数々。アンコールは秘密ですけど、また素晴らしい曲です。楽しみにして、ぜひ聴いていただきたい。ピアノの河原忠之。私も大ファンです。「どうしても、この人にやってほしい」って言って。歌とピアノのコラボですから。そういうことが本当にできるピアニスト。テノールの賛助出演、山本耕平は私の親しい友人で、耕平の歌も大好きで、耕平の歌に伴奏つけたピアニストがここにおりますけど。(笑)CDも出しましたもんね。今日は、CD持ってきてないんですか?この耕平もカトリック信者なんですよ。ぼくは、いつの日か、大村博美と山本耕平のデュエットを聴きたいという夢があったのが、これで叶いました。こういうことをするのは、なかなかお金もかかるし、勇気もいるし、チャリティだとか言って、結局、「赤字になっちゃったらどうしましょう」って話なんだけど、私は、これ、やっぱり聖霊の導きだと思ってるし、神の国のささやか~なしるしとして、きっとうまくいくと信じて、始めました。事務局長と二人で悩んだんですよね。「やっぱり無理かな。どうだろう。やめといたほうがいいのかな」と。でも、やっぱりやりたい。一番はお金の問題です。やるならちゃんとしたことがやりたいから、どうしても紀尾井ホールでやりたかった。どうしても河原さんにお願いしたかった。いろんな意味で、全席指定席でやりたかった。そういうあれやこれやで、「これ、難しいかな。どうしようかな」と悩んで、夜中の11時過ぎに「よし、やろう」と決心して、十字切って、「はれママ、よろしくね」って取り次ぎを祈ったんですよ。「はれママ」っていうのは、私の死んだ母です。そうしたらですね、翌朝のミサに私がかつて洗礼を授けた、弁護士をしている人が来たんですよ。「あれ、なんでこんな東京の早朝のミサに?」と思ったんだけど、ミサのあと、私に、「今、ひとつ遺産を預かっていて、その遺産は『何か有益な音楽活動のために、これをお使いください』というものなので、有益な音楽活動に使いたいんだけど、何かそういう音楽活動ありませんか」という申し出があった。「いやぁ、思い当たりません」って、言っちゃったんですよ。残念そうに帰ろうとしたんですけど、また戻ってきて、「神父さん、やっぱり、せっかくだから、何か、神父さまの活動はないんですか。神父さま、コンサートとかやってらっしゃるじゃないですか。今は、計画がないんですか?」って言われてはじめて、「あ、昨日の夜、そういえば決心したんですけど」と、「それでいいんです!ぜひ、お願いいたします」と言われて、その場でサインみたいなのをして。面白いですね。11時半に決心して、8時間経ったら、弁護士さんがやって来た。こういう話を「それ、偶然でしょう」とか思う人もいると思うけど、私なんかは、全然不思議に思わない。何か神さまのために、何か神の国のために、とやってると、どこからともなくいろんな助けとか、働きとかが支えてくれて、そして小さな神の国が実現するっていう体験を、今までいっぱいしてきたので、今回も、まさかここまでとは思いませんでしたけど、バンバン話を進めることができて、ありがたい。今、「死者の月」っていうことで、カトリック教会は、天上と地上の深い交わりに入っているわけですけど、亡くなられた方々が何教・何宗を超えて、今は永遠なる天の父のみもとで、神の国のために、本番で働いている。準備中の我々、地上の者たちのことも導いているし、支えているし、取り次いでくれている。そのことを実感いたしました。いつくしみ深い天の父よあなたがお始めになったキリストの教会。透明な教会がどんどん世界に広がっていって、多くの人が、いっそう多くの人が、あなたの愛に目覚め、キリストの働きに信頼して、普遍的な救いを味わうことができるようにと心から願います。いろいろとらわれの多い現実ですけども、そんな中でも、私たちが、毎日のように目からウロコを落とし続けて、すべての人を救ってくださる、まことの親、愛に目覚めることができますように。私たちの主キリストによって』アーメン。このコンサートに興味のある方、またチケットの取り扱いについては、こちらをご覧ください →『大村博美チャリティーコンサート』Lydia

  • 08Nov
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      長い、長いHUG

      以前のお話『 ポーランドの神父さん、ポーランドに帰っちゃいました。昨日、ここでお別れ会をしたんで、誰かがその時にここ(ホワイトボード)に書いてくれたんです。ポーランドの国旗と漢字「波蘭(ポーランド)」ですね。ポーランドは99%カトリック信者で、日本は99%がクリスチャンじゃない。日本っていう不思議な国を、二週間ずーっと、自転車でいろんな所を見て、勉強になったんじゃないですかねぇ。彼もね、なかなか面倒なこともあったんだけど、でも、「福音家族」なんてことを言って、「人のつながりを大切に」って、「神さまが出会わせてくれたんだから、みんな仲良く一緒にごはんを食べましょう」みたいなことを言うんであれば、まあ、しょうがないことも引き受けなきゃならないんですよ。人間関係って、必ず面倒なことが付いてきますから。100%ついてきますから。それ無しってわけにいかない。人と人が出会って、共に過ごせば、いやなことがいっぱいある。ポーランドの神父さん、たまたま上野教会を訪ねてきたわけですけど、一番最初に会ったときに、「なんで日本に来たの?」って聞いたら、正直にいろんなことを話してくれたわけですよ。つらいことがあって、傷ついて、壊れかけてるんですね。その思いを聞いたらですね、なんていうんだろう・・・、「なんとかしてあげたいな」って、ちょっと小さな天国を味わってもらって、元気つけて、まだ20代、神父になって三年目、初の日本旅行でとてもいいい体験をしてくれればいいなぁという思いが湧いてきちゃうわけですよね。だから、「面倒だろうなぁ」と思ったけど、「この彼を引き受けよう」って、こう思ったわけですね。引き受けたら、家族になる。二週間の家族。二か月だったら、考えたかもね。(笑)でも彼は、ほんとに喜んだし、とても感謝して、おかげで東京中まわって。教会の自転車、貸しましたからね。それ乗り回して、自転車で新宿に行きました、渋谷に行きました、お台場に行きましたって、言ってたよ。真っ赤に日焼けして。大きいドラえもんみたいな雰囲気の、とても純粋で、そして頭がいい、何よりもほんとに愛のある、いい神父ですよ。「信者からはとても人気がある」って、自分でも言ってましたよ。(笑)彼、この二週間で、「ワタシ、元気になりました」って、確かに、日に日になんか生き生きしてきて、好き放題やり始めて、また、イラっとすることもね。上野(教会)と浅草(教会)を何往復もするわけでしょ、私が上野に泊まる時は、彼も上野に泊まる。浅草に泊まる時は、浅草に泊まる。一人で置いておけませんからね、鍵も持ってませんし。二週間あったら、四往復くらいしてるんですね。上野を朝、「いってきます!」って出て、浅草に「ただいま」って帰ってくるわけですよ。逆もそう。そうすると、荷物は持って歩けないじゃないですか。誰が運ぶのかって言ったら、ぼくが運ぶわけですよ。ガラガラ、ガラガラって結構重いですよね。車に積んで。彼は、「じゃあ、ヨロシクお願いします」って、ペコリって頭下げて、ドンって荷物置いて、出て行っちゃうんですよ。「車まで運びましょう」とかもない。(笑)・・・だけど、そんな彼と一緒にいたおかげで、多くのものを学んだし、得たし、私自身も励まされた気持ちです。二週間いろいろあって、福音家族も6つくらい出てくれて、彼も「ポーランドで、福音家族をやりたい!」みたいなことを言ってました。結構詳しくノウハウみたいなことを聞いてきてね、まあ、「助任じゃ無理だよ」とは言っておきましたけど。彼、現実に見て、「ポーランドにも、こんな絆はありません」って言ってましたね。「絆」って言ったんですよ。アニメで覚えてるから、そういう言葉が出てくる。「仲間の絆が一番だろう!」とか、出てくるんじゃないかな。私、「絆」っていう言葉がサラッと出てきたのに、また感心した。今朝、お優しい晴佐久神父さまは、なんと羽田空港まで送ってきたんですよ。恐れていたとおり、別れ際に、ドラえもんにぎゅうっと抱きしめられて。(笑)・・・暑いんですけど。頬まで、スリスリスリ・・・。普通、でもハグとかってさ、「ぎゅう、ワン・ツー・スリー」でしょう?「・・・・・・いつまでやねん、これ。恥ずかしいわぁ・・・」みたいな。(笑)でも、まあ、お気持ちはね、ヒシヒシと伝わってまいりましたし、もう、いないのかと思ったら、寂しいなぁ・・・・・・・・・と、一応言っておこう。(笑)でも、ホッとした。やっぱり何かあったらね、怪我した、病気だ、事件に巻き込まれたってね。無事に、11時15分の飛行機で。今頃機内ですから、いろいろ思い出しているんじゃないですか?私が、「福音家族はどう?」って聞いたら、「マタイ19・29!」って答えたんですよ。いたずらっぽく笑って。便利っちゃ、便利ですよね。神父同士は、聖書を数字で言うと、だいたいわかる。「ポーランドの新しい小教区が心配だ・・・」って言うから、「マタイ6・25!」って、私は答えた。「思い悩むな」ってやつですね。マタイ19・29は、こういうところです。イエスの言葉です。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」イエスの名のためにっていうのは、イエスの思い、イエスの願い、イエスのみ国、そういう、まあ、神の国ですね、「神の国のために」っていう意味です。神の国のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は、その百倍もの報いを受ける。何が百倍かって、他の福音書の並行箇所では、「家や家族も百倍受け、さらには」って書いてある。母を捨てた者は、百倍の母を得る。「捨てる」って言い方がね、母親の世話をするなとかって話じゃないですよ?それは当然するでしょう。それはそれとして、一番は、「神の国」。血がつながってなくても、家族だっていうようなことを一番にしたら、百倍の母親、百倍の家族、百倍の家が得られますよ、と。例えば、「この司祭館は、俺の司祭館だ」と。当然ですよね。「ここは、私もしくは私の家族以外、入れません」って、そう言ってたら、彼は入れなかったわけですよね。だけど、私が、自分の家族もさることながら、「あなたも家族ですから、どうぞ」と、神の国のために迎え入れるならば、彼は私の家族になるし、逆に私が彼の家に行っても、迎え入れてもらえるし、いろんな福音家族をやっていて、いろんなことがありますけど、それは、だんだん家族になっているところなんですよね、今。そうするとぼくは、独身を誓って神父になったはずなのに、なんだか大家族じゃない?っていう。もちろん、一緒に暮らしてるわけじゃないけれども、時々しか会わないけれども、信頼関係を深めて、困ったら助けに行って、お互いに自分の弱さをちゃんと出し合える、お互いにただ文句言ったり、ただ争ったりするんじゃなく、自分がいやな思いを引き受けて、みんなが幸せでいてくれたらいいなっていう、おうちのお母さんみたいな、そんな気持ちで家族が成立していく。まあ、それを今の時代は一番必要としているんじゃないのかな。「福音家族」っていうのは、そういうことです。』Lydia

  • 07Nov
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      ✞ 今週の入門講座

      いちばんたいせつなことは、目に見えない大切なものほど目に見えない愛思いやりこころいのち友情未来目には映らないけれどそれらは確かに存在している「星の王子さま」より引用『愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』サン・テグジュペリ✞ 今週の入門講座 今週の予定【カトリック浅草教会】 11月11日 (木) 19:00~ 11月12日 (金) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~ )【カトリック上野教会】 11月07日 (日) 12:00~ ( ※ 10:00~主日ミサ後 福音兼入門講座) 11月10日 (水) 19:00~ 11月11日 (木) 10:30~ (※ 週日ミサ10:00~)※ 入門講座の前にミサがありますのでよろしければミサから如何でしょうか先ずは、イエスさまが御聖堂の真ん中におられる事を感じ取り、荘厳な雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。ミサに与ることによって、復活されたイエスさまと出逢う事が出来るのです。※ お申し込み、予約、事前準備、受講料、献金、聖書、等 すべて不要ですのでどうぞお気軽にお越しください。イエスさまはどなたでも招いておられます。「お話しだけでも聴いてみたい」お話しなさるのは、晴佐久神父さまです。「教会ってどんな処なの?」「晴佐久神父に会ってみたい!」etc etc…皆さま大歓迎!です。どうぞお待ちしております。 🕊『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳↔ソ―シャルディスタンス↔と換気を保ち、手指消毒等の感染症対策を充分に行っております。ご不便をおかけいたしますが、マスクを着用してのご参加にご理解、ご協力をお願いいたします。くれぐれも体調管理にご注意ください。上野教会は、何時も扉は開かれております。ミサや入門講座がない日でも※ご聖体訪問が出来ますのでイエスさまに逢いに来てくださいね(※ 概ね9:00―16:00位までと伺っておりますが、ご確認の上お越しください。)浅草教会は、日曜日の主日ミサと週日ミサのある日に扉は開かれております。※10:00―17:00どうぞお越しください。※ 祭壇のお隣に赤いランプが点っている箱(聖櫃)にご聖体が安置されており、イエスさまがご臨在されておられるのです。マリアさまがお出迎えしてくださいます。◤◢◤◢ caution ◤◢◤◢上野教会の1階ホ―ルと2階の御聖堂は、換気のためにステンドガラス等の窓を開け放しておりますのでかなり冷えます。ご迷惑をおかけ致しますが、どうぞ暖かい服装でお越しください。『こころの一番奥にある光さしこむ聖堂で祈る』himekuri きっと いい日 ⑦晴佐久神父だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。マタイによる福音書 6:6 新共同訳『人生とは、何かを手に入れるための時間ではなく、愛するための時間なのです。』日めくり 教皇 フランシスコ ⑦愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。ヨハネの手紙一 4:7‭-‬8 新共同訳本日は、年間第32主日 B年『この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた』 本日の福音朗読主題句よりTipsやもめの家を食い物にし 「やもめ」と「孤児」は、イスラエルが半遊牧生活を送っていた時代から、虐待してはならないとされてきた。地縁ではなく血縁に基づく部族社会では、他から嫁いできた妻とその子どもは、夫が死ねば血縁が薄くなったので、容易にいじめの対象となった。それゆえ、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト22・21-23参照)とある。和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年) ●典礼暦に沿って』「年間第三十二主日」本文より引用他の人には見えない裏側の事情、やもめが投げ入れたレプタ銅貨の、やもめにとっての意味をイエスさまは知っておられました。金持ちたちの献金は、多くの富の中からのものでした。それによって自分の生活がひっ迫するわけではありません。もちろん、献金しないで自分の趣味に多くを費やしたり、或いは自分の贅沢のためにお金を使うこともできましたから、献金をしたという事は大切な事です。しかし、いずれにせよ自分の生活が困窮したり、絶望的な状況になることはありませんでした。しかし、このやもめは何の打算もなく持っているすべて、生きる手立てのすべてを投げ入れたのでした。彼女には神様に頼る信仰、神様を一番にする、神を愛する愛がありました。わたくしたちはどうでしょうか?神様への感謝の気持ち、主が自分を救って下さったことに対する献身はあるでしょうか主イエスは山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)と教えられました。この貧しいやもめは、「心の貧しい人」でした。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みによって生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのですねアレルヤ (ハレルヤ)答唱詩編『いのちあるすべてのものは、神をたたえよ。』 椿花言葉 「謙遜な美徳」「至上の愛らしさ」本日は 「立冬」山茶始開 (つばきはじめてひらく) の侯になりました。山茶花や椿が晩秋を華やかに彩ります。霜枯れの 冬の柳は 見る人のかづらにすべく 萌えにけるかも作者不明寒くなって来ると何となく肌寒さから人のぬくもりが恋しくなったり、孤独感が強まったり、舞い落ちる枯れ葉を自らの人生に重ね合わせて落ち込んだりする事もあるかと思います。これらは、四季のある日本ならではの湧き起こる感情なのだそうです。この時期、誰もが感じることなのだと知り、自分の心を癒やす時間をつくり、物理的に体を温めたり、陽に当たったりして活力を得てほしいと思います。こころを暖めましょう行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。鴨 長明 『方丈記』から何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時植える時、植えたものを抜く時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。コヘレトの言葉 3:1‭-‬2‭, ‬4‭-‬8 新共同訳徹底的な無常観をもって書き起こされたこの書 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えました。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとしました。 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ人間のすべてであると。神は、善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう。このように結ばれます。一方の『方丈記』も、 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。と、このように起こされ、以下世の無常なることを連綿と書き記しました。「信仰」における人事の断念と自己放棄の意味を『伝道の言葉』と共有していることに感慨を深くするのではないでしょうか。親鸞の「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という歎異抄の表現と同じことを語っているように思えます。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。ヨハネの手紙一 4:16 新共同訳イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。ヘブライ人への手紙 13:8 新共同訳11月は死者の月です。亡くなった人々を記念し、その方々のために祈る月です。死者のために泣け、光が消えたのだから。死者のためには気持よく泣け、彼は安息についたのだから。シラ 22:11 新共同訳先日、USJから帰る途中に滋賀県の甲南PAに立ち寄りました。甲賀流の忍者の里には、満天の星空🌌が広がっていました✨USJで "甲賀流" たこ焼きを食べた後でしたので思いもひとしおでした 。ww🐙('-' 🐙)逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる作者不明これやこの 行くも帰るも 別れては知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関蝉丸空気が澄み、星空が一段と綺麗に耀くようになってきましたね11月はかなり深い部分月食や🌠流星群、月と惑星の接近など、注目の天体イベントが目白押しです。«٩(*´ ꒳ `*)۶»ワクワク暖かくして夜空を見上げてみませんかご報告皆さまの温かい祈りに支えられまして、無事に10月31日(日) 菊地大司教さまを介してイエス・キリストから「堅信」の秘跡を授かりました。ありがとうございます。天から祝福のシャワー(小雨)も頂きました。こころから感謝申し上げます。昨年、10月4日(日)の転会式(洗礼式)の朝も同じように金木犀の甘い香りの祝福のシャワー(小雨)を頂きましたね神よ 感謝致します。神に愛されているわたくしたちは幸せ者です。꒰ঌ( ⌯' '⌯)໒꒱『行きましょう 主の平安のうちに』今週もよろしくお願いいたします。God be with you(神はあなたとともにおられます。)今日も良い日でありますようにシャローム(平安)コロナに勝つ!Lisieux

  • 05Nov
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      神が啓いて、示す

      以前のお話『 お祈りして、始めましょう。天の父よこうして、今日も私たちが集まることができたのは大きな恵みです。感謝いたします。このひとときを、あなたの喜びとしてお捧げします。あなたは 私たち神の子たちみんなの幸せを願っておられます。私たち一人ひとりがあなたの愛に目覚めることを求めておられます。どうか、この心を開いて、私たちにあなたの親心を注ぎこんで、神の子としての喜びで満たしてください。私たちの主キリストによって、アーメン。なんだか不思議な試合を観ましたねぇ。最後は10分近く、なんにもしないで、パス回してて。ポーランドの神父と二人で試合を観たんですよ。これもまたいい体験でした。彼、昨日突然、上野教会に現れたんですよ。で、「ミサをしたい」って言う。「あなた、誰?」「ポーランドから来た神父だ」と。「羽田に、さっき着いたんだ」と言って、「ミサしたい」って。えらいじゃないですか。やっぱり、ポーランドの信仰、篤いですね。感心しました。それで別れ際に、「今日はポーランド戦だから、日本が勝ちますよ」って言ったら、「No,No,No, ポーランドが勝つ。」「いや、日本だ」「ポーランドだ」「神は日本の味方をする」って、もちろん冗談だけど言ったら、「いや、神はポーランドの神だ」って、意味不明な会話をね。(笑)なんか気に入っちゃってね、「一緒に観ようよ」って、「二週間、日本にいる」って言うから、浅草の安ホテルを引き払わせて、「教会は、人々を受け入れる所だ」ということで、この神父さんも受け入れたわけです。神父さんだから余計に、なんですけど。普通だったら、「さよなら」で終わってるんだけど。あの神父さん、なんで日本に来たかっていうと、助任司祭として三年働いたわけですけど、いろいろあって非常に苦しんだ。相当苦しんだみたいです。朴訥でね、純粋で、賢いんだけれどね。今度転任することになって、新しい小教区に移ることになり、その前にお休みをいただいた。リフレッシュのために、ともかくポーランドを離れたかった。「異文化を勉強したい。違う文化を知ることが好きだ」って言ってました。で、日本が大好きなんですよ。日本語もしゃべる。片言だけど、結構上手ですよ。「どこで、そんなの勉強したの?」「一人で勉強した。」「なんのテキストで勉強したの?」「『進撃の巨人』」(笑)日本のアニメとかマンガは、すごいね。だから、突然、言葉の端々に出てくるんですよ。「やってやるぜ!」とか。(笑)なんで急にそういうのが出てくるのか不思議なんだけど、                             マンガ読んでるから、「このシチュエーションでは、これだ」と。ほんと、片言なのに、突然流暢に出てくるんですよね。教科書では習わなそうだけど、その場にピッタリの言葉。なかなかビックリなんだけど、「秋葉原に行きたい」とか言ってました。いいじゃないですか。そんなわけでね、二週間、預かろうかなと思ってます。彼は、何度も何度も、「ありがとうございます」「ありがとうございます」って、「こんなの、不思議で信じられない」みたいに言う。私にしてみたら、当たり前なんだけど。初めての日本。羽田に着いて、大荷物をホテルに置いて、まず、一番近くの教会に行って、ミサをしようと思った。そうしたら、そこの主任司祭に捕まって、「一緒にテレビ観よう」「金がもったいないから、うちに泊まっていけ」「飯、一緒に食おう。ビール飲もう」それは、彼にとっては、啓示だと思う。「啓示」って、わかります?啓く(ひらく)、示す、ですね。もちろん、主語は、「神」ですね。神が、自分を啓いて、神が、自分を示す。私はもちろん神じゃないですけど、もてなして、信頼関係をつくって、励ました。「きみは、だいじょうぶだ。なんの問題もない」と。いろいろつらかった日々もあったでしょうけれども、これから、この優しい、日本びいきの一人の若い司祭、まだ20代ですからね、彼を、神さまが本当によくお用いになられるであろうことはわかります。そんな彼、やっぱり啓示を感じたと思うんですね。何故か、日本に行きたい、と。そして日本に行ってみたら、歓待された。普通にホテルに滞在するだけだったら、浅草寺眺めて、秋葉原行って、まあ、日本文化をちょっと覗くくらいですよね。でも、教会で寝起きしてると、いろんな出会いがありますから。キリスト教は、ホスピタリティですね。非常に、それはあります。もてなす。取引と全然違うんですよ。とても純粋なんですよ。あなたが喜んでくれれば、それでいい、と。歓待は、純粋贈与なんです。歓んで、お待ちする。これは、たとえばコンビニの店員さんがニコニコして、「いらっしゃいませー!お箸、何本つけますか?」っていうのを、「あぁ、すごいホスピタリティだなぁ」とは、言わない。あれは、こっちがお金を払ってるから、心の中では「うるせぇ客だな」と思いながらでも、「申し訳ございません!」って笑顔でがんばってる。取引ってやつですね。ホスピタリティっていうのは、純粋贈与です。何も、見返りがなくてもいい。あなたがそこに来てくれて、うれしい。いてくれて、うれしい。それこそ、おもてなしできてうれしい、ですよね。そんなコンビニがあったら、見てみたいですけど。(笑)キリスト教の本質ですね。教会に住んでると、いろんな人がやって来ますし、ついこの前だって、外国から来たっていう方に三千円貸した。「私はカトリック信者だ。今度の日曜のミサに来て返す」って言って、来なかったんですよねぇ・・・。そんな目にも遭うので、悲しい気持ちにもなるけれど、「まあ、いっか」と。彼が泊ってるホテルまで知ってるんですけどね。もうそれは、歓待したんだ、と。ほんとに事情があって、返すことができなかったのかもしれない。教会はいろんな人が来ますけれども、歓待、おもてなしが、教会の魂。そこ譲っちゃったら、やっぱりもう違っちゃうなっていう大切な要素なので、まあ、神父はもちろん、信者みんなで、ホスピタリティっていうやつを磨いてまいりましょう。見ず知らずの人を泊めるっていうのは、なかなか勇気のいることではありますけれど、ある意味、それで得られる喜び、感動、それこそ啓示、そんなものを体験していくと、その喜びには代えられないっていう感覚が強まってくる。そこが、コツなのかなとも思います。やっぱり成功体験って、大事ですよね。失敗も、もちろんある。「俺の三千円返せ。もう二度と、やって来た外国人はもてなさないぞ」っていう道もアリなんですよ。だけど・・・、もったいないですね。その先、神さまが何かをなさろうとしているっていうのに、もったいない。あのとき、「じゃあ、さよなら」って帰っていこうとした神父さんに、「一緒にポーランド戦観よう」って思いつくっていうのは、「その先」が開かれる瞬間なんですね。そこで「さよなら」って言ったら、三日も経てば忘れて、生涯思い出さないでしょう。でも、これから二週間、あの大きな神父さんをお世話したら、一生忘れないと思うんですよね。むこうも、もちろんそうでしょう。ポーランドに帰ったら、日本がどんなにいい国か言ってくれたらいいね。何年かしたら、また現れるような気がしますね。非常に上手な日本語になって。今はパソコンの翻訳ソフトで会話してるから、不思議な日本語なんだよね。「あなたの意志がそこにあります」とか、何言ってるのかよくわからない。(笑)『福音家族』っていう連載を今していて、8月号は、じゃあ、その「家族」ってなんなのかっていう話を書いているところです。国が違えと、言葉が通じなかったとしても、「神が出会わせてくれた」と信じて、ともかく無期限で一緒にいましょう、と。今回は二週間だけど、気持ちとしてはね。無期限で一緒に暮らすとまでは言わない。一緒にいよう、と。この関係は、切れない関係ですよ、と。これは、やっぱり家族の本質としてあると思う。いつになったら、家族卒業ですとか、終わりですとか、そういうことはあり得ない。それから、無償で分かち合う。「泊めてもいいけど、一応五百円です」とか、ない。昨日も結局、パカパカ、ビールを四、五本飲んでましたけど、「おいしい。このビールは、おいしい。ポーランドのビールの味に似ている」とか、なんとかかんとか。すごいんですよ。エビスビール見て、「これは、神さまです」事情通なんですよ。なんかある? そういうマンガ。恵比寿、七福神。まあ、いいか。家族の間での無償性は、本来は人類みんながそうであるはずなのに、失われてしまったものが、血縁の中だけにちょっと残ってるっていうようなことなんですけどね。そして、無条件に助け合う。無期限、無償、無条件。「家族」をどう定義していいかわからないから、一応その三つにまとめて、書いています。そんなようなホスピタリティ、つまりすごく家族的な感覚っていうものが、この世界をほんとに神の国に変えていく。教会はそのしるしなんですね。だからやっぱり、無償性は大事にしないとねぇ・・・。無条件性も、大事にしないとねぇ。そういうチャレンジは続けていきましょうよ。教会家族っていうことを、目指して。』Lydia

  • 03Nov
    • 晴佐久神父より NO.20(浅草教会報)

      誕生日のブナ林主任司祭 晴佐久昌英 先日は主日ミサの最後に、誕生日祝いということで赤ワインをいただき、ありがとうございました。この場をお借りして、信徒のみなさんに改めてお礼申し上げます。来し方行く末など思い巡らしながら、ゆっくりと味わわせていただきます。司祭生活も早35年、うろうろオロオロするうちに気づけば64歳となり、イエスさまの倍近く生きてしまいました。これまで一体何をして来たんだか、これから一体何が出来るんだか、ともかくもこのままうろうろオロオロしていくしかないのでしょう。この、つかみどころのない風変わりな神父を、今後とも寛容の精神で見守っていただければと願うばかりです。 と書きながら、ふと自分が生まれた日ってどんな日だったんだろうという興味がわき、「1957年10月22日」とパソコンに打ち込んで検索してみましたが、特に何も出てきませんでした。ただ、その日誕生した人の運勢を占うというページが出てきたので戯れに覗いてみると、こんなことが書いてあるではありませんか。「1957年10月22日生まれの人は、博愛主義で平和を願いますが、完ぺき主義で理想が高く、煙たがられてしまうことも。多くの人と共感出来るため、人から相談を受けることも多く、適職は福祉関係、カウンセラー、宗教家などです」 なんだか人生を覗かれているみたいな気分になり、じゃあ、一日違ってたらどうなのかと気になって翌10月23日を見てみると、「適職は実業家、アスリート、肉体労働」とありました。どう考えても向いてないので、まあ、22日でよかったのかも。  今年の誕生日当日は講演会に招かれて八戸で迎えたのですが、自分への贈り物ということで、帰りがけに八戸からほど近い安比(あっぴ)高原に寄り道しました。ここには、以前から訪ねたかったブナの二次林があるのです。二次林というのは、一度人間によって伐採されたもののその後自然の力で回復した、「ほぼ原生林」のことです。若い頃からブナの林に魅せられて、東北地方では白神山地の一部や八幡平付近、奥入瀬の蔦温泉周辺などのブナ林を歩いて来ましたが、安比の二次林もそれらに負けない個性的な魅力を秘めていて、あたかも天国の入り口のようでありました。 ちょうど紅葉の時期で黄色く色づいており、時折雲間から日が差し込むと頭上が一斉に金色に輝くので、そのたびに立ち止まっては天を仰いだものです。ここは一応散策路があるのですが、踏み固めた道は整備されておらず、ふかふかの葉っぱを踏みながら静けさの奥へ奥へといざなわれていくという、この上なく贅沢なひと時を過ごすことができました。 足元を見れば、朴葉、栃の実、名も知らぬ様々なキノコ。落葉広葉樹林の懐深くさまよえば、大自然に包まれて生きてきた先人たちの想いがよみがえってきます。春は山菜取り、夏は川魚の漁労、秋はクリやクルミなどの採集、冬は小動物の狩猟と、生物多様性に富んだブナの林は縄文人にとっての恵みの宇宙であり、神々の棲む聖なる世界だったことでしょう。実際この辺りには縄文遺跡も多く、昨年2021年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは、今で言うところの「持続可能な自然との共存」を実現していた縄文文化が、農耕で自然破壊をすることなく狩猟採集のみで定住し続けたという、世界史に例のない文化遺産として評価されたものです。 縄文は世界に先駆けて土器が出現した先進文化ですし、長期間安定して集落を維持できたのも、高度な精神性と協調性あればこそです。特筆すべきは、同時期の世界の他の地域における好戦的な新石器文化とは異なり、集落の周りには防御用の溝や柵などがないことからもわかるように、争いのない平和で平等な社会を一万年以上にわたって実現していたということです。それはほとんど「神の国」であり、「和を以て貴しとなす」日本人の特質の源流なのではないでしょうか。 誕生日とは、単に一個人の出生を祝う日ではありません。両親とその先祖によって守られてきた環境や、永く受け継がれてきた文化など、深く静かに流れる伏流水から芽吹いた小さな命を言祝ぐことで、いのちの流れそのものを祝福する日なのです。おそらくは、この私の内なる平和志向も、縄文人から受け継がれてきた遺伝子レベルでの希求なのでしょう。たとえ「理想が高く煙たがられること」があっても、平和と平等を願い続ける以外の道は考えられません。それは、大いなる命そのものの願いなのですから。(2021年11月1日号)

  • 01Nov
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      みんなが一つでありますように

      以前のお話『 中学生のときにつけ始めた日記。第1ページ目から読んでみたら、面白いね。一日、一日のことをあんなふうに・・・。やっぱり、大切だと思ったんだね。こう・・・、過ぎていくのがもったいなかったんだよね。この今日あったこと。忘れっぽいんで、それを全部書いておいて。誰だったかな? 史上3人目の代打逆転サヨナラ満塁ホーマーなんていうのまで。一日、一日と、いろんな出来事があって、まあ、イヤなニュースとか、「これ、なんだろう?」って思うような出来事とか、でもそれも自分の人生の大切な1ページであって、あまり、いいとか悪いとか言わずに、全情報網羅型ですね。しっかりとこの世界で起きていることをいろいろと見て、学んで、そして本当にみんなが平和に、幸せに生きられる道が必ずあるはずだと、「それを見出したい」みたいなところがあるんですよ。やっぱり、1つだけ見てるとね、他とぶつかりますから。全部の出来事に、すべての人々に、共通する何ものか。それを見つけていく。ただイタズラに、敵をつぶしてやろうだったら、ガザ地区じゃないですけど、血で血を洗う話になる。そんなことになるのはなんでだろう?ってね。やっぱりいろんな現実をちゃんと見て、すべてに共通しているなにものかを探し求めましょう。そのためにも、ある特定の偏った情報だけとか、誰かが言ったことを鵜吞みにするとかじゃなくて、批判精神っていうのが必要ですよ。「ほんとかな?」って言いながら、あれも見て、これも見て。だからと言って、すべてが信じられないという虚無に陥るんでもなく、それでも、信じられるものがどこにあるのか?こんなバラバラだけど、結ばれる方法はないだろうか?それを探す。大事なことですね。日記を見ると、一日一冊必ず本を読むと決めて、いろんな本をせっせと読んでます。それもやっぱり役に立っているんでしょう。私は、「自分」っていうものがなくてですね。自分というよりも、自分を通して、何かが見えてくること、自分を通して起こった出来事の本質を見たい。世界全体を、あまりこう何かに熱くならず、かといって、まったくむなしくもならず、いろんな素晴らしいものを一つひとつ、大切にしながら、やがて、みんなが幸せになる道っていうのを見つけていきましょうよって、そう呼びかけたいんですけどね。最近のニュースで言うんだったら、大谷翔平のニュースくらい気分のいいものはないね。珍しく、楽しいね。大リーグですよ? ありえない。怪我などなさらずに、このシーズン、とてつもない成績を残していただければ、長生きしてよかったっていうような話になるんでしょうけど、どうなんですかね。彼の人間性まで、とても評判が良くって、誰もが、会うと、好きになっちゃう。誰もが、それを見てると、楽しくなっちゃう。今日、対戦する相手チームの選手が「初めて大谷を生で見れる」っていうんで、ワクワクしてるんですよ。時に出てくる、スーパーヒーローってやつですね。ふと、今日の福音書を読んでいて思ったんですが、イエスさまがさかんに、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)って言ってるんですよ。弟子によってキリストを知って、キリストを信じ始めた人たちのために祈りますって。(cf.ヨハネ17・20)つまり、みなさんのために、イエスが祈っている。その祈り。これは遺言の祈りでもあるんですけど、さかんに、みんなを一つにしてください、と。自分が、みんなを一つにするキーパーソンだっていうことを言っているんです。わたしの内に、天の父の愛があふれている。このわたしと一つになることで、みんなも一つになる。ぜひ、みんなを一つにしてください。そのために、わたしはこの世を去っていきます。わたしは、すべてをみんなのために捧げます。すべての人を愛しています。天の父がそうだから。わたしは、当たり前のように十字架復活の道を歩んで、父が愛する一人ひとりの神の子のために、すべてを捧げます、と。このイエスを、我々が愛することによって、一つになるんですね。逆に言うと、こんなバラバラの世界を一つにする方法があるっていうことです。それを、「キリスト」と呼ぶ。そういう人が確かにいたってことです。イエスは、敵とか、味方とか、言いません。敵を愛せ。左の頬を殴られたら、右の頬を出しなさい。自分がそうして、それによって世界が一つになるんだっていう、その道を生きて、残して、キリストの教会はそれをやり続けているんですね。やっぱり、自分の考えに沿わない、自分の不利益になると、「敵だ、味方だ」って、こうだんだんバラバラになっていくわけですけど、イエスの道を歩くと、みんなが一つになっていく。そのためにも、ここに集まったみなさんなんかは、もっとイエスを知ってほしい。どこまで、知ってますか?そのイエスの魅力、その笑顔、その力。スーパーヒーローなんてもんじゃないですよ。二千年経っても、その人のために命を捧げたいっていう人が大勢、今でも世界にいるんですよ。今も、この時代に殉教している。自分を捨てて。大谷のおかげで、ちょっと大リーグ、わき立ってですね。みんな、大谷が大好き。そして、敵のチームまでも大谷をほめ始めて。それは、エンゼルスを愛してますとか、ブルージェイズを愛してますとか、そんな話じゃないんですよ。大谷という存在が、すべての人に、自分が「野球を愛している」と気づかせてくれるんですよね。どこのチームのファンだって、「野球」を愛してるわけですよね。そこにおいては、一つになるわけでしょ。例えば、思考実験ですけど、大統領が「これから先、野球を禁止する」って言ったら、どこのチームのファンでも、今まで罵り合っていたチームのファンでも、一つになって、デモするんじゃないですか?タイムズスクエアか、どこかに大勢の人が集まって、すべての野球チームの旗が振られてですね、そのとき、お互いに、「我々は、ほんとに野球を愛してるんだ。同じ仲間たちなんだ」っていう、当たり前のことに気づく。空想の話ですけど、そういうことなんですよ。大谷っていう一人のアジア人が、国籍とか、民族とか、どこのチームだとか、そういうことを飛び越えて、野球にこんな可能性が秘められていたんだ。こんなに面白い。これからさらなるスーパーヒーローが現れるかもしれない、そういう希望、期待を人々に抱かせる。そのスーパーヒーローによって、世界が変わってくるんですよね。みんな、野球ってほんとに素晴らしいんだってことを知り始める。「イエス・キリスト」ってそういうことですね。人類が、国に分かれて争って。ガザ地区で起こってることなんかを見ていると、残酷を通り越して、人間って恐ろしい何かを持ってるんだと感じさせる。だけど、そんな人類の中に、共通して、素晴らしいものがあるし、みんなが、「それは本当にそうだ」「それだったら、私たちは一つになれる」っていう道もちゃんと秘めている。イエス・キリストの道っていうのは、そういう道です。今の世界、何教とか、何宗とか、なんとか教会とか言ってる場合じゃないんですよね。みんなと一緒に働き始めるときが来ている。神の国は、もうここに来ているっていうようなね。イエスは天を仰いで、言われた。「わたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17・20-21)イエスは、神と一つです。神がイエスの内におり、イエスが神の内におり、そういうあったか~い交わりの中で、イエスは、私たちすべての神の子たちを愛して、私たちをその一致の世界に招こうとしている。どうでしょう、みなさん。そういう世界に入りたい。いや、入れなくても、少なくとも知りたいって思いませんか。知ることができます。イエス・キリストを見つめることによって。あのイエスの優しさ。あの強さ。あの透明さ。イエスのその素晴らしさを本当に知ってますか。本当に、みなさんはイエスに出会っているんですか。もし会ったら、今までいったい、何をしてたんだろう? 何にだまされていたんだろう?どうして、縛られていたんだろう?悪い夢からさめたように、イエスと生きる道というものを始める。これが、キリスト教っていうことです。果たして、どれだけの人がそれを知っているのか、いないのか。みなさんにとって、究極の理想の人をイメージしていただいて、「それ × 100」くらいを、想像もつかない神の愛としてイメージして、そのイエスが、私たちに、「この私の愛を食べなさい」と自分を差し出していることに気づいたら、感動して、声も出ない、と。』Lydia

  • 31Oct
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      ✞ 今週の入門講座はすべて休講です。

      秋桜花言葉 「乙女の真心」「調和」「謙虚」※ 今週の入門講座は全て休講になります。また来週お逢い致しましょう【カトリック浅草教会】のみ11月5日(金)10:00から週日ミサがあります。宜しければ御ミサに与ってみませんかイエスさまが御聖堂の真ん中におられる事を感じ取り、荘厳な雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。ミサに与ることによって、復活されたイエスさまと出逢う事が出来るのです。※ お申し込み、予約、事前準備、献金、聖書、等 すべて不要ですのでどうぞお気軽にお越しください。イエスさまはどなたでも招いておられます。「お説教を聴いてみたい」お話しなさるのは、晴佐久神父さまです。「教会ってどんな処なの?」「晴佐久神父に会ってみたい!」etc etc…皆さま大歓迎!です。どうぞお待ちしております。『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳↔ソ―シャルディスタンス↔と換気を保ち、 手指消毒等の感染症対策を充分に行っております。ご不便をおかけいたしますが、マスクを着用してのご列席にご理解、ご協力をお願いいたします。🕊くれぐれも体調管理にご注意ください。上野教会は、何時も扉は開かれております。ミサや入門講座がない日でも※ ご聖体訪問が出来ますのでイエスさまに逢いに来てくださいね( 概ね9:00―16:00位までと伺っておりますが、ご確認の上お越しください。)※ 祭壇のお隣に赤いランプが点っている箱(聖櫃)にご聖体が安置されており、イエスさまがご臨在されておられるのです。マリアさまが入口でお出迎えしてくださいます。※ 浅草教会は当面の間、ミサと入門講座の時間帯のみ開かれております。イエスの手の中では、最も小さな石でさえ、かけがえのないものになります。イエスはその石を優しく見つめ、ふさわしい場所に置いてくださるからです。日めくり 教皇 フランシスコ ㉛本日は、年間第31主日 B年『 あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい。』本日の福音朗読主題句から『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。』マルコによる福音書 12:30-31 新共同訳イエス様は、わたくしたちにとって大切な戒めをとても明確に示してくださいました。これらの戒めは覚えやすく、また、納得して喜んで従いたくなるわたくしですが、皆さんは如何でしょうかしっかりとこれらの戒めを守るなら、たましいの安らぎを得、きっと お互いに幸いな人間関係を築くことが出来るのかも知れませんねそのときどきに置かれた様々な状況の中で、誰が自分の「隣人」であるのかを正しく認識することができますように。自分が怒り、苛立っている相手が、実は「隣人」なのかもしれません。イエス様が教えてくださった「互いに愛し合うこと」を実践できる成熟した信仰者になることができますように。主よ。自分の都合の良い相手だけを大切にしたくなる弱さのうちに力を注いでください。愛したくない相手がいるなら、どうぞその思いを乗り越えることができますように。主が罪深い私たちのために犠牲を払ってくださったその愛をわたくしたちのうちに注いでください。ア―メン「花を持つ 人から避ける 山路かな」人一人しか通れぬ、狭い山道をすれ違うとき先に道を譲るのは花束を抱えている人です。意地を張ってぶつかりようものなら大事な花が散ってしまう。。。意見が衝突した時意地の張り合いをやめて先に譲る人は花を持つ人でしょう。謙遜と思いやりが大事なのですね場所や席を譲り合うゆずりあいの心を山路で花をもつ人に例え心のあり方までを表現しています。心に光ある人になりたいものです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。コロサイの信徒への手紙 3:12 新共同訳Tipsはじめに 法華経の「長者窮子のたとえ」は、仏教的慈悲とその救いの焦点をみごとにいい表している説話であって、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえが意図するものとは、素材の酷似にもかかわらず、およそ異質なものがあるということは、増谷氏の指摘するとおりである。しかし、その相違は、「感情」と「理性」というだけの差異ではない。放蕩息子のたとえのなかでは、キリスト教的愛である「アガペー」が説かれているわけであるが、ここにおいて、特に注目すべき点は「愛の無条件性」と「父子の関係」ということである。ルカ福音書においては、放蕩息子が、どんなみじめな姿になってしまったとしても、「父のもとに帰ってきた」ということだけが重要である。『奥村一郎選集 第1巻 慈悲と隣人愛 解説:西村惠信(前花園大学学長・(財)禅文化研究所所長)』本文より引用答唱詩編『 神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。 』10月はロザリオの月です。毎朝のディボーション(ル―ティン)で、"ロザリオ" や "大天使聖ミカエルのチャプレット" (祈りの花束) を唱えて一日の平安を頂いております。感謝!他にもこんな素敵なチャプレットがありますのでご紹介致します。いつくしみのイエス「神のいつくしみのチャプレット」(神のいつくしみへの祈りの花束)聖ファウスティナに出現された主イエスは「神のいつくしみの信心」を広めるよう希望され、『わたしが教えたこのチャプレットを絶えず唱えなさい。この祈りを唱える人は誰でも臨終の時に偉大なあわれみを受ける』と約束されました。💐💐💐 💐💐💐近畿地方で木枯らし1号が吹きましたね関東もそろそろでしょうか七十二候「霎時施」(こさめときどきふる)になりました。一雨ごとに季節は冬へと向かってゆきます。朝晩は、めっきり寒くなりましたね風邪など召しませぬよう 健康が守られますようにお祈り致しております。十月時雨にあへる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに大伴池主本日は、カトリック七つの秘跡サクラメントのうちの一つ 「堅信」の秘跡を授かります。菊地大司教様を介してイエス・キリストから按手と聖香油の塗油を受け、聖霊さまを心と身体にお迎え致します。愛する父よ、聖霊様がわたくしたちの内に住んでおられる事を感謝致します。聖霊様はわたくしたちを知恵と栄光と恵みで満たされ、キリストの中で勝利の人生を生きるように、わたくしたちに神聖な力を伝達してくださり、父の義を立証されます。ありがとうございます。感謝のうちに先週のリハ―サルから緊張の面持ちですが、無事に与る事が出来ますように祈りに覚えて頂けましたら幸いです。♡( ᵕ̤ૢᴗᵕ̤ૢ )♡「行きましょう 主の平安のうちに」今週もよろしくお願いいたします。✞God bless you(神の御加護がありますように)今日も良い日でありますようにシャローム(平安)コロナに勝つ!Lisieux

  • 30Oct
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      【金昼】清澄な目

      昨日の福音朗読箇所は、ルカによる福音14章1-6節。イエスが、律法の専門家やファリサイ派に、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」と言って、安息日に病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになったところでした。昨日は、チャーチホッパー(アメリカで、色々な教会を放浪する方たちをそう呼ぶそうです)についての質問から、色々な話題になりました。その中から、印象深かったお話を。『 さっき読んだ福音書の話で言うなら、「井戸に子どもが落ちたら、助けるだろう?あなたが落っこちて、助けない親なんていないし、神はそういう方なんだ。だから、絶対、引き上げてくれると信じなさい」そこですね。律法の専門家たちやファリサイ派を恥じ入らせるというよりも、「神さまがそういう思いで、ちゃんと私を救ってくださるんだ」っていう、そこに最終的には結びつけるっていうこともあると思う。「自分は救われないんじゃないか」と思っている人、井戸に落ちているような思いの人にとっても、福音なんだと思うんですよね。「私なんかを誰も助けてくれない。誰もわかってくれない。見捨てられた存在だ」って、今、そんなふうに思っている人が増えていて、若い子たちの中に自殺者が増えていて、これから大変な状況になりそうですけど、そんな、穴に落ちたかのような気持ちでいる人に、「いや、神はあなたの親なんだから、必ず引き上げるに決まってるよ」っていう、これはやっぱり福音です。体って不思議ですね。心で生きてるから、やっぱり安心すると免疫力も上がるし、恐れがなくなると、緊張が解けて、体の流れがよくなったり、あるじゃないですか。・・・さっきの話に戻るけど、何か選択したあとに、悪いことが起こる。次々と起こる。これ、みなさん、どう思いますかねぇ。やっぱり、怖くなるんじゃないですか。その選択が間違っていたんじゃないかと思うんじゃないですか。気持ちはわかる。でも、悪いことっていうのは、急に起きたわけじゃない。元々からの流れの中で起こることだし、それはやがていいことに変わっていったりするわけだから、「この時点」で、いいとか、悪いとか言うのは、ちょっと単純かなと思います。「悪いことが起こりました」って、簡単に言うけど、悪いことって何だろう?って話じゃないですか。コロナは悪いことだけれども、コロナのおかげで、こんなにいいことがありましたっていうこともある。そうするとですよ。何かの、大きな選択をしたあと、家族が病気になったとしよう。悪いことと言えば、悪いことですよね。だけど、もしも、たとえ別の選択をしたとしても、ぼくは、その家族はたぶん病気になったと思うんですよ。そうじゃないですか?そういうことは、人生で次々と起こることですから。問題は、この選択を選んだから、家族が病気になったわけではなく、この選択を選んだから、家族の病気が治るわけでもなく、いわゆる、「悪いこと」なんていうのは、人生にいっぱいあるわけで、ない人なんて、誰もいない。「ちょっと続くな」っていう時もあれば、「しばらく静かだったな」みたいなのはあるにしても、思い起こせば、子どもの頃、青年時代、仕事先で、健康や家族の問題、ずーっとこういっぱいあるじゃないですか。それらは、淡々と起こるんです。たとえば、「どこの教会にいたから」でもなく、「何々を信じたら、悪いことが起こらない」でもなく、神さまのみ手のうちにあって、人が生きていくうえでは、必ず、起こること。誰もそれから逃れられない。逃れてもいけない。神さまのみわざの中で、私たちは、変な言い方、「悪いこと」っていうような恵みの出来事をちゃんといただいているんです。問題は、ここが一番大事。悪いことが起こった時に、それを、どうとらえるかで、全然違うわけです。旦那さんが病気になりました。かたや、こっちの教会では、「ちゃんと信じてないからだ」とか、「祈りが足りないからだ」とか、「バチがあたったんだ」とか、そう言うわけです。かたや、こっちの教会では、「それも神さまのみ手のうちなんだから、だいじょうぶ。必ず、いいことにつながってるから。神さまは愛であるから、きっと癒してくださると、そう信じましょう。それに、おかげで夫婦の仲がほんとに深い関係になりました、なんてこともあるわけです」と。私、実際にそういうこと、よく知ってます。それまでは、夫婦、子どもが「全然、家族になってなかった」って言うんですね。このことがあったおかげで、夫婦がほんとに信頼関係ができて、子どもとも深い話ができて、自分の弱さを認めて、ちゃんと向かい合って、信頼関係をつくって、家族で危機を乗り越えた。「あのことがあったおかげで、私たちは、家族になれた」って言ったんですよ。そんな悪いことね、起こらないほうがいいに決まってるし、まあ、つらい出来事だったんだけれども、「おかげさまで」っていう。あると思うんですよ。ご主人が病気になったおかげでね、夫婦がほんとに、愛情が深まったとか、パートナーシップが、信頼関係が増しましたとか。よく考えてみると、「悪いこと」なんていうことがあるんじゃなくて、大~きな、神さまのご計画の中で、ぼくらは生かされているし、導かれているし、十字架があっても、それは復活につながっているんだ。この世の試練は全部、生みの苦しみであって、誕生していくんだ。そういう福音につながっていく。おんなじ、「ご主人が病気になりました」っていう事実があったとしても、かたや、「もっと献金しなさい」。かたや、神さまの愛の話、希望の話、どんな試練も神さまはよいものに変えてくださる。神さまは、悪をも善にもちいることがおできになる。この現実をしっかり受け止めながら、なおも、神の国に向かって歩んでまいりましょう、みたいな。これ、どっちがいい、悪い、じゃなくて、やっぱりその両方を知ってないと、そして自分で選べないと、ただ洗脳されて、「これでなきゃならない」って言ってるのは、さっきの福音書で言うなら、ファリサイ派や律法学者の話になっちゃいますよね。安息日なんだから、人を治すのもおかしいって言い出すような、そういう闇にとらわれちゃう。本当に、イエスさまに出会って、福音の自由っていうものを知るためには、まあ、色々な現場を知るのはすごく大事なことですよ。神さまが与えてくれた最高の恵みですから、自分の人生をとおして、神を賛美するのは。自由に人を愛する。何にも囚われなく、安心して、神の国を一緒に分かち合って、喜べる。特定の人や、特定の宗教や、特定の集団だけでなく、誰と会っても、「ああ、神さまが会わせてくれたんだ」って喜んで、向かい合える。こんな自由、これは絶対手放したくない。私は、原理主義的なものから自由である真の普遍主義、イエスが始めた「キリストの教会」に憧れ、目指しているという意味では、やっぱりカトリックでよかったなぁっていうことを、すごく思ってます。「カトリック」は普遍主義っていう意味ですけど、非常に透明な、イエス・キリストの教え、愛、わざがずーっとこの教会の真ん中の所に保たれているんです。ちゃんとあるのに、なかなかそれが見つからないでいる。周りをいろんな箱で覆ったり、紐かけたり、飾ったりしちゃって、なかなか、その本質が見えなくなっちゃっている。だからそこから、そういうものを外して、紐を解いて、ふた開けて、本物のところをちゃんとね、透明なキリスト教を見つけるっていう作業、これがやっぱり楽しいし、ぜひそれにチャレンジしてほしいと思います。』この前の日曜日のミサのお説教で、東山魁夷の言葉が紹介されたのですが、その中に「清澄な目で自然を見る」という言葉がありました。清澄な目で、世界を見ることができるように、日々チャレンジです。来週は、休講です。(金曜10時からのミサはあります!)また再来週、お待ちしておりますLydia