まだ第一章をお読みでない方はぜひ前章からお読みください。
これらは2014年の4月10日から14日にかけてアップした作品の再掲です。
もうそんなに前になるんですね。
題:天上の星
その2.心の自由
「お帰りなさい。早かったわね」
「あぁただいま。全く分からない世の中だ。え?何がって?・・いや景気が良くなっているなんて云うニュースを聞くときもあれば、厳しい話ばかりの時もある。昔のように一つのやり方がうまく言ったからといって、それがいつも上手くいくという保証も無いしな」
周一は久子の用意してくれた青菜の和え物を摘みながら、それに続く言葉をビールで流し込んだ。
「そうね。不透明な時代と言われてから随分久しいけれど、本当に先がわからない時代はまさに今ね」
周一の帰宅が思いの外早かったので、久子は簡単な食事を並べながらそう答えた。

「そうだ、あなた。突然だけど車を買い換えましょうよ。貴方は若い頃から付き合い酒ばかりだったから、運転は私の役目だったでしょ?今の車も悪くはないんだけれど、子どもたちももう一緒に乗るなんてこともあまりないから、別な車がいいわ」
久子はテーブルに振り向きながら周一の顔をちらりと見た。
「ん?そうか。おれはどうでもいいよ。うちの大蔵大臣が許せる範囲内の予算で買うんであればヒサちゃんの好きなのを買ったらいい。あ、左ハンドルと二人乗りだけは勘弁してくれよ」
周一は再びグラスにビールを注ぎながらそう答えた。
「ありがとう。きっとそう言ってくれると思った」
「なんだ?おだててもダメだよ。それよりこの金目の西京漬けは旨いな。飯のおかずというよりも酒の肴にぴったりだ。ビールをやめて冷やで少し貰おうか。どうだオマエも少し付き合ってくれないか」
「そうね。珍しく貴方がこんなに早く家に居るんだもの。ゆっくり頂きましょう」
車の話題はそれっきりで終わってしまい、独立した二人の息子の話題や最近引っ越してきた新しい住人の話で終始した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・翌日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「久子さん、実は今日の午後に矢部くんがお見えになる。お昼は済ませて来るということだから、笹屋で練切りを見繕ってきて貰えないか。見立ては久子さんに任せるよ」
木嶋はそう言うと少し微笑んで帳場へと向かった。
「はい、分かりました。それじゃぁお昼はどうしましょう。外でゆっくりというわけにも行きませんから、あとで茶巾など買ってきましょうか」
久子は通り向こうの角にある寿司屋へ、木嶋の好きな茶巾寿司と巻物の折り詰めを電話で頼んだ。
普通の文房具屋の留守番ならば、きっと綺麗な女子大学生アルバイトでもそれなりになんとかなるかもしれない。けれどこういうお店の店番は、並べてある品物が心底好きに成れないと長続きはしまい。
一例を上げれば書道用の筆には馬、狸、猫、羊、そしてイタチなど、様々な獣毛が用いられていて、そしてそれらは当然必要に応じて使い分けられる。
また、たった一枚の雁皮紙であっても真にお客の望むものであればそれを請うお客さんの許へきちんと納めてもらえた満足感はひとしおだった。
その様に用意された筆の一本一本は書道の備品などというドライな表現ではなく、木嶋の分身のようなものだ。そしてそれは筆のみではなく、この店の隅々に置かれたすべての物に及んでいることが久子には心地よかった。

道具というものは使う人の分身だと久子は思う。
この影青(いんちん)の硯屏など見ているとたまらない気持ちになる。これを立派な硯の前に置き、一気に筆を走らすなどという時間を持てる生活はどれだけ豊な心持ちであろうか。久子は店の品物全てがたまらなく好きだった。
矢部のところへ納められた蘭亭硯も、矢部のような人間が所有するから意味がある。
きっと彼は長くあの硯を愛して愛でて、そしていつか再びその価値を認める別な好事家の許へと受け継がれていくのであろう。美しい物はそうやってそれを理解できる様々な人の手を、時代をこえて受け継がれていく運命を持っていて、その歴史の中に自分は関わっていられるのだと、ショーケースの中に佇む硯屏を見つめながら久子は思うのだった。
とはいえ、久子が若い頃からそんな想いを持っていたわけではなかった。ひと通りの子育てが一段落し、子供中心だった生活ではなく仕事しか興味のない夫と自分の二人だけの生活を、これからの人生の中心に置き替える時期を迎える頃、久子は木嶋の店の全てがとても愛おしく感じ始めたのだった。
同時に若い頃から車に興味を持っていた久子だったが、乗り物道楽の木嶋が所有する車の中ではあの「ベージュの車」に心底心を傾けていた。
そして近々木嶋はまた新しい車を購入するということも聞いていた。
そもそも矢部との付き合いも、車が取り持つ縁で始まり、英国車贔屓の矢部は盛んに木嶋にジャガーを薦めていた。
『端渓硯はXJにでもなるのかしら』久子はそんな思いで店の裏手の立体駐車場をぼんやりと眺めた。
笹屋の和菓子は抹茶とともに客人である矢部を大層喜ばせた。
「ほほう。この菓子の銘は、きっと寒椿とでも言うのでしょうかね。上品で口当たりの良い菓子ですね」
矢部はそう言うと抹茶碗に顔を寄せ、濃茶で点てた最後の一口をすすり込んだ。
「笹屋の菓子は侮れん。私は良く父に請われてお使いに行かされたんだが、あの頃と今と代は変われども作り方は子供の頃に見たやり方と何の一つも変わりはない。ああいう頑固な職人は今では貴重だ。機械で作れば3倍や5倍の売上になるっていうのに、未だにあの有り様だ。もしそうだったら、笹屋は今頃は立派なビルディングでもなっていたに違いないんだがな」
木嶋はそういうと五徳の下の炭を掻いた。
「いやいや、それはどうでしょうか。機械で作っていたら、今頃は菓子屋は菓子屋でも貸しビル業の『貸家』だったんじゃありませんか」
矢部はそう言うと破顔して膝を叩いた。
「それよりも矢部くん、例のアレはどんなだい?私は英国車っていうのは無縁でね。いや二輪ならば先代から受け継いだのが何台かあるけれど、四輪となるととんと不調法だ」
「えぇ、そろそろ仕上がると聞いております。一度見にお連れしましょうか。オーストラリアで殆ど修復したものを再度日本の基準で仕上げ直していますから、殆ど新車と見間違えるレベルまで綺麗になってますよ」
矢部の薦めているジャガーは、XJのシリーズⅢだった。
12気筒は普段使いでも面倒なところがあることと、万一の際の部品調達なども含めリスキーだと判断した。
6気筒のXJであれば矢部も幾つか扱えるショップを知っており、また矢部自身もXJ-Cを所有していることから、少しなら助言もできるとの自負もあった。

「それは良いな。近々にでも是非ひと目見たいものだ。この前そちらに乗って行ったベージュの車をな、あれを手放してガレージのスペースを用意しておくから」
水屋で道具の片付けをしていた久子の耳に、二人の会話は聞くとも無く聞こえてきていた。
『そうなんだ。木嶋さんあの166を手放すのね』
久子は直ぐにでも166の行方について確かめておこうと心に決めていた。
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美しい物は時代をこえて受け継がれていく。
きっと私はこのことだけを書きたくて、こうやって駄文を開陳していたような気がします。
自分の所有するアルファロメオ156は万人に受け入れられるデザインではありませんが、アルファロメオの歴史を知りアルファロメオの何たるかをご存知の方にはきっと心の奥底に残り続ける車だと確信しています。
自分もそんなアルファロメオのひとつの時代に関われたことに幸せを感じています。
別れを惜しむのは仕方ありませんが、156の行く末に幸せな未来を用意できない自分を悔やみます。
今日は公休日。この後も引き続きアップする予定です。よろしくね('-^*)/

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