復興・安全祈願 松山城と城主たち(2017年7月)
2024年7月12日の土砂崩れのため現在松山城は登城道は通行止め、松山城、ロープウェイ、二の丸庭園とも営業中止になっています。松山駅から路面電車を市役所前で降りると、こんな感じ↓で松山城が見えます。黒門口登城路(2024/7現在通行止め)から天守を目指します。松山城の築城は1602年から始まります。初代城主は加藤嘉明(よしあきら)。加藤嘉明は秀吉の家臣で賤ヶ岳7本槍の1人。秀吉の家臣には3人加藤姓がいて、清正、嘉明、光泰で「豊臣家の三加藤」と言われたようです。…紛らわしい。24才で淡路志智城主となり、淡路水軍を率いて、小田原攻め、朝鮮出兵もしています。陸でも海でも戦い上手であったとのこと。秀吉が亡くなると、五奉行だった石田三成と対立。関ヶ原では、家康側につきます。その武功に対し道後20万石を与えられ、ここ勝山に城普請をしました。完成までに25年。1627年、会津若松の蒲生氏が減石移封し、嘉明が会津若松城へ43.5万石で移封が決定。天守完成を見届け、嘉明は会津へと移ります。↑二の丸。二の丸は蒲生氏が造築、しかし1634年の参勤交代の途中に京都で病死し、嗣子がなかった蒲生氏は断絶しました。二の丸は、松山城本丸を防備するための施設で、二の丸から本丸にかけ、登り石垣という、朝鮮に残る倭城の特徴的な遺構があります。1635年に桑名城主の松平定行(48才)が15万石で入城します。松平定行は松平定勝(家康の異父弟)の次男でしたが、兄が早逝で嫡子となり、1607年(20才)には掛川城を譲られ大名入りしています。定行の父・定勝は、1560年に家康の生母・於大の方と久松俊勝との4男として生まれました。生後間もなく家康から松平姓と葵紋を下賜されています。30才で下総に3000石、40才で7000石の伊勢国長島城主となり、41才で掛川城3万石を任されました。47才で伏見城代となり、家康からの信頼の厚かったことがわかります。大坂の陣では、伏見城、二条城を守備。1617年(57才)伊勢国桑名城12万石を秀忠から与えられています。↑戸無門1624年定勝の死により(享年65才)、桑名城を譲り受けた定行は、1635年に15万石で伊予松山藩に移封。中国、四国地方への初の親藩大名の入国となり、外様大名への牽制と警戒を意味していたようです。↑隠門松山城は現存する12天守の1つ。そして、昭和40年代から櫓や門の木造での復元がされています。↑左が小天守、中央が大天守。1639年に天守は定行により、それまでの5重天守から3重天守に改築されています。幕府への配慮があったといわれます。定行は72才で隠居、82才で亡くなります。1784年に落雷で天守が消失してしまいますが、1854年3代がかりで天守復興となりました。松山城の天守は戦時のための施設としてだけではなく利用されていたかもしれないといわれる天井板や床の間のある構造になっているそうです。↑右が野原櫓、左が乾櫓。野原櫓は唯一現存している望楼型2重櫓だそうです。↑本丸からの眺め。晴れてたら・・とも思いますが、モヤモヤがまたいい♡天守だけでなく、櫓や門などたくさんの遺構が残る松山城。山上なのに石垣もたくさん。↑戸無門と西続櫓。ロープウェイとリフトもあるので、東雲口方向から楽に登城することもできます。本当は素通りするはずだった松山。TripAdviserでは『行ってよかった日本の城』で常に上位にある松山城ですが、ほんとに行ってよかったです。※2024年7/12に発生した土砂崩れにより現在は登城することはできませんが、復興と関わる方の安全を祈願します( . .)"