秋田城は大和政権により造られた城柵。709年に蝦夷征討の拠点として設けられた出羽柵(でわのき)からの移転により733年に造られた城柵です。

出羽柵から北上しています。724年に多賀城が造られ、東と西からじわじわと蝦夷を追い詰めている感じです。

秋田城は対蝦夷の軍事拠点でもありましたが、同時に官衙(かんが)という戸籍の作成・税の徴収・治安の維持・北方との交易・大陸との外交と幅広く行う役所でもありました。

蝦夷の支配も仕事のうちなのでのすが、度々蝦夷の反乱が起こっています。それだけ蝦夷に対する朝廷からの押さえつけが厳しかったのかとも思えますが、派遣された国司たちが好き勝手してたっていうのもありました。

『大人しくしてればやりたい放題しやがって』という感じだったのかな。今も昔も悪巧みする人は同じです。

時代が進むと、北海道が蝦夷地(えぞち)と呼ばれるようになりますが大和朝廷により討伐された後、北に住処を求めた蝦夷(えみし)が行き着いた地だったのでしょうか。

秋田城での大陸との交易は主に渤海(ぼっかい)国と行われていたようです。700年代に渤海国から6回使節団が秋田城に来航しています。

大陸からの病気の感染があったからなのかどうなのか秋田城には日本で最初の水洗便所が誕生します。自分で水を流すスタイル。

当時日本では魚はもちろんですが鹿や猪、鴨やキジは食べられていたようです。

養豚の技術は200~600年代に大陸から入ってはいたようですが、仏教の伝来により殺生は良くないこととの思想が広がり衰退したそうです。


そんなこんなで、トイレのお話。渤海国には豚を常食する文化があり、使節団のトイレの肥溜めには未消化の種や豚に寄生する寄生虫の卵が見つかっています。

↑当時の水洗便所の仕組み。

日本人ってちゃんと古代から個室トイレ使ってくれてた~。って感動✨↓くそベラというお尻拭い棒。使い捨てで最後はポイしてたみたいです。

日本含め各国とも当時の権力者に都合の良い歴史書しか残してないっていう絶望的な状況で、DNAや炭素の解析で嘘とマコトがハッキリして行く過程は面白いなぁ。