江戸時代の弘前藩の記録に土偶が出土したことが書かれていたそうですが、集落の発見は1992年の平成になってから(野球場を作ろうとして発掘調査を始めたらしい)。
そんなつまらない事を教えられたけど、実は磨製石器は縄文時代にもあって、狩猟とかしてたけど網での漁もする。船も作れば交易もするし、木の実も取るけど、穀類(ヒエ・アワ・キビとかイモ)の栽培、保存もしてたり。煮炊きもする。
竪穴式住居だけかと思ったら、高床式も作ってた。↑木造駅横の公衆トイレ(右)と休憩所(左)の中↓
土器だけじゃなく、竹や木の皮などで編んだ器に漆を塗ったりもしていた。
文字さえ残っていたら、と思う。でも日本は伝承が多いよな。多分話し言葉は津軽弁に近そうなイメージ(縄文住居展示資料館)
↑↓マンホールも土偶。
縄文人は大規模な集落を作って、共同で平等な生活をしてたそうですが、大陸からシナやロシア系の移住者が北海道方面・九州方面から上陸。
シナ系は稲作の技術を普及し、稲作に向いた土地での居住を始めます。
縄文文化の長く残った地域は、北海道(道南と札幌くらいまでの道央)と青森~福島までの東北地方で、今では米も作れますが当時は今より温暖な気候だったとか。
縄文人はDNAも現代の日本人に似ているようで、日本人の祖と言われています(そりゃそうだろと思ってて考えたこともなかったが…起源が好きな民族もいるしね)。
縄文人の移動距離も半端じゃなく、獣に乗って移動とかしてたのかな?北海道は船だろうけど、出土する遺物から県跨ぎのものが沢山出ていて、交易が盛んに行われていた事が分かるらしい。
↑縄文人の遺骨も出土して、DNAとか調べてたりと化学は発展してるのだ。これもつがる市。
↑色んなとこで出土した遺骨。きっと墓を掘り起こされるとは思いもしなかった縄文人…。
亀ケ岡の土偶は時代を追うごとに熟練して、可愛くなっていくのですが、明治時代から土偶の研究が始まって、最初は(ってか今でも?)子孫繁栄や安産祈願とかの祈祷に使われたのでは?よく分からんけど…と考えられていたのですが、
縄文人の生活様式が、見えてきたことで植物霊祭祀のためのものという新しい見解も出てきたようです。↓
日本には八百万の神様がいて、山の神・海の神・岩も木も神聖なものとされたりしてきましたが、命あるものを頂き、御礼を返してきた民族の血は縄文からか~。
縄文時代は神というよりは精霊みたいな感じだと思いますが、時代とともに土地の神様みたいなものに変わっていったんですかね。
遺跡には胡桃なんかの土器もあったりするので、木の実の供養もしてたのかも。魚の供養碑とか鯨の供養碑とか各地にありますが、
神様からのお恵みは有難いし、命をくれた食べ物たちも有難いという事なんでしょうね。木造は土偶Love♡な地でした。