二本松畠山氏の居城、二本松城。
築城は1414年の室町時代。戦国時代、政宗の父 輝宗の頃は畠山氏と伊達家はそこそこな関係で維持していました。
政宗が当主となり、大内定綱が臣従の約束を反故したために、姻戚だった二本松畠山を攻撃。政宗の父 輝宗を「政宗との仲介をお願いしたい」と呼び出して、拉致。その後を追った政宗に輝宗もろとも銃撃されて、二本松城も攻城されます。↑二本松少年隊の像がありました。
1586年 政宗が畠山氏を壊滅させ、伊達の支城となった二本松城は成実や小十郎が城代を務めたりもしますが、1589年には奥州仕置で会津とともに取り上げられました。
会津の領地だった二本松ですが、江戸時代になって1643年 白河藩から丹羽光重が10万700石で入封し、二本松藩の居城として幕末を迎えます。
丹羽光重は丹羽長秀の孫。
会津の領地だった二本松ですが、江戸時代になって1643年 白河藩から丹羽光重が10万700石で入封し、二本松藩の居城として幕末を迎えます。
丹羽光重は丹羽長秀の孫。
光重により二本松城は藩庁として大改修がなされ、本丸には石垣と天守が建造されました。
会津藩の白虎隊とは違い、編成も急設えで隊名もなく、『二本松少年隊』と呼ばれる少年兵が城で戦って亡くなっています。
二本松藩もまた、会津藩と同様に将軍への忠誠と愛国の精神が教育され深く根付いていました。
1853年の黒船来航、1854年に日米和親条約と日露和親条約が締結され、開国に進む幕府を及び腰だと攘夷運動が活発になって、当時の孝明天皇が大の外国嫌いであったことからも尊王を掲げ、安政の大獄後からは幕府は朝敵と見なされていきます。
二本松藩もまた、会津藩と同様に将軍への忠誠と愛国の精神が教育され深く根付いていました。
1853年の黒船来航、1854年に日米和親条約と日露和親条約が締結され、開国に進む幕府を及び腰だと攘夷運動が活発になって、当時の孝明天皇が大の外国嫌いであったことからも尊王を掲げ、安政の大獄後からは幕府は朝敵と見なされていきます。
孝明天皇は倒幕を考えていませんでした。逆に後の新政府側の長州藩こそ朝敵と考えていて、会津藩主松平容保に絶大な信頼を置いていました。そして幕府とともに、外国勢への対応を望んでいたのです(公武合体)。
幕閣には腰抜けもいました。しかし開国を拒むことは難しく、より良い対応を模索していました。攘夷を掲げた武士も高い志があったと思いますが、天皇の意思に反し倒幕ムードは高まり、250年も続いた徳川幕府の平和な時代が、尊皇攘夷という名目でクーデターを迎えます。
それぞれの考えが共有されることなく、また広く世間に知らされることもなく、腰抜けの幕閣により、結ばれた不平等な日米修好通商条約。
あ、何か今の政治家にも似たような人がいますね。2階の人とか、かの国に土下座とかした人…誰だっけ?
時代の流れに情弱な国民は、幕府への信頼を無くしていき、また孝明天皇が崩御したことで、倒幕勢力はさらに会津を朝敵として追い詰めていくのです。
それぞれの考えが共有されることなく、また広く世間に知らされることもなく、腰抜けの幕閣により、結ばれた不平等な日米修好通商条約。
あ、何か今の政治家にも似たような人がいますね。2階の人とか、かの国に土下座とかした人…誰だっけ?
時代の流れに情弱な国民は、幕府への信頼を無くしていき、また孝明天皇が崩御したことで、倒幕勢力はさらに会津を朝敵として追い詰めていくのです。