関ヶ原後、大坂城の包囲のため彦根城と共に上野城も強固にする必要があった家康により、築城の名手といわれる藤堂高虎が1608年に伊賀に入国します。

藤堂高虎は大坂城を攻めるための城として1611年から上野城の築城に着手。

天守を西側に移動し、今治城天守を移築しようと考えていましたが天下普請の丹波亀山城に献上したため新たな天守を建設します。

5層の天守閣は1612年完成目前というところで、9月2日(グレゴリオ暦9/26)台風により倒壊してしまいます。

この日、山陽から近畿、東海地方が暴風雨に見舞われます。

美作国(岡山)では吉井川が氾濫、津山城城下の家屋が流され約3000人が死亡したほか、美作国内で約2000人が死亡。

京都では天皇の御座所が損壊。奈良では春日大社で垣根や末社ほか宿坊や職員の屋敷が多く損壊。

↑天守の中には伊賀忍者が。

上野城では、たまたま修理に来ていた大工や手伝いの人180人が倒壊した天守に巻き込まれたそうです。

現代ならば台風が来てる時にそんなことしてる場合じゃないよという感じですが、大きな被害を出したのでした。

その後、大坂の陣で勝利した家康さまには大坂城に対抗する堅固な城が必要では無くなったので、天守は再建されることはありませんでした。

1869年の廃城令により、石垣上のほとんどの建物は取り壊されます。
現在の天守は1935年に建てられた復興天守。