鎌倉時代末期から室町時代中期に蝦夷地 渡島(おしま)半島へ渡った武人により道南十二館が建てられました。茂別館(もべつたて)、大館、花沢館の3館の館主は守護に任じられ、その他の館を統括していたとのこと。

1454年南部氏に敗れた安東家政に従い、蝦夷地に渡ったとされる武田信広は1456年に花沢館主 蠣崎氏の婿養子となり、蠣崎(かきざき)と姓を変えています。

渡海した鍛治技術を持つ武人と先住民のアイヌ人との関係はあまり良くなくて、口論の末に武人がアイヌの青年を刺殺したことでアイヌ人たちは首長コシャマインのもと蜂起し、いくつかの館を奪取します。
そんな中、蠣崎信広はコシャマインを倒し、他の館主を抑えて青森13港の交易も独占し、その後 上ノ国勝山館に居館を構え、信広は蝦夷地の実質支配を固めます。でもまだ地方の豪族。
2世光広が松前(大館)に転居したことで、蝦夷地経営の拠点も松前に移動しました。
5世慶広(よしひろ)の時に上洛して秀吉に謁見。家康さまにも蝦夷地を支配する大名として認められると松前姓に改め、松前藩 初代藩主となりました。大館は山城で不便だったため、福山(現在地)にお引越し。福山館は1606年に完成します。
福山館には堀や石垣、本丸に二の丸、櫓とほぼ城郭でしたが、城持ち大名の扱いでは無かったため、城とは呼ばれなかったそうです。石高は低かったです(てか米が穫れない)が、交易により潤っていたようです。
時が経ち、1840年英国と清のアヘン戦争の状況やロシア帝国、英国、仏蘭西、米国からの開国要求もあり、1849年異国船(蝦夷地では主にロシア)に対する海防強化のため、松前藩に新たな城を築城するよう幕命が下ります。
縄張りを任された高崎藩の市川一学は、箱館への新規築城を提言しますが、松前藩には新城の築城や移転できる程の巨額な資金はなく、福山館を拡張することになりました。藩主は12代崇広(たかひろ)21歳。
1850年から5年かけ、三の丸に砲台7座、海岸にも16座の砲台を備えた福山城が完成します。備中福山城が既にあったため、築城後すぐから『 松前城』と呼ばれていたようです。
福山城を拡張中に、江戸湾浦賀沖にペリー艦隊がやってきます(黒船来航)。開国を迫られ、1854年「日米和親条約」を結び、下田と箱館が開港。幕府は箱館に奉行所を置くことにし、松前藩から箱館周辺を召し上げ、直轄領としました。この開国への動きが、徳川幕府を更に追い詰めていきます。
12代藩主 崇広は6男で、家督の相続からは遠かったこともあり、江戸で学問に励みます。外国語や西洋事情を研究し、大名の中でも西洋通・開港論者と知られていました。
1863年 14代将軍家茂(18歳)の頃、能力の高い人材を捜していた幕府は三奉行のトップ 寺社奉行に崇広(35歳)を抜擢します。通常譜代が選ばれる役職に地方の小大名が選ばれるのは異例のことでした。
しかし開港論者の崇広に他の幕臣たちからの当たりは強く、3ヶ月で辞任してしまいます。そこで幕府は、開明派大名であり、外国使節からの評判も良かったことから、今度は老中格として海陸軍総奉行に任命します。
将軍 家茂(いえもち)からの信頼も厚く、崇広は幕府の権威回復と海外勢(英・仏・米・蘭)からの脅威を勅許無しにでも開港によって打開しようとします。しかしこれが、当時将軍後見職だった徳川慶喜(よしのぶ)の知るところとなり、老中を解任、国もと松前へ謹慎処分となりました。松前に戻った崇広は38歳の若さで病死します。
13代藩主 徳広(のりひろ)は11代 昌広の長男で崇広の養子。肺結核と痔疾の病気持ち。崇広の重臣は佐幕派でしたが、幕末情勢のなか日和見的な対応を続けていました。中級以下の家臣は倒幕派で佐幕派の家臣たちと対立し、中立派を取り込んだうえ、反対派の粛清をを行います。
大政奉還後、王政復古の大号令による慶喜への不当な扱いに不満な旧幕府軍は蝦夷地に新たな政権を樹立しようと上陸。箱館を攻撃し、五稜郭を占拠。続けて松前を攻撃します。松前城は海と陸から攻撃を受け、落城。藩主らは弘前藩に逃亡する際に、城下・寺町を放火。町の2/3を焼失させています。
翌年、新政府軍は松前兵を先鋒に乙部→江差→松前と旧幕府軍から奪還。そして木古内→箱館と戦いは新政府軍の優勢で進んでいきます。
逃亡先の弘前で13代 徳広は喀血し死去(25歳)。14代藩主となったのは徳広の子 修広(ながひろ)4歳。版籍奉還で4歳で藩知事、廃藩置県で6歳で藩知事免職。12歳で証券印紙税則違反で逮捕と凄い人生を送り、41歳とこれもまた若くして亡くなっています。