古事記では瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高千穂に降りその孫の神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコ)が豊葦原(トヨアシハラ)瑞穂の国を治める為に国津神(八百万の神)たちを従えていく(神武東征)のですが、
大和や出雲を治めていた大国主命に国譲りを求めたら、「息子たちに従うよ」と大国主命は答えます。息子の1人建御名方(タケミナカタ)は天照大神が瓊瓊杵尊と一緒に遣いに出した武甕槌命(タケミカヅチ)と力比べをし負けてしまい出雲から諏訪に移ることに。
↑守屋山
出雲を譲ることにした大国主命はその代わりに自分のための大きな神殿を造らせます(出雲大社)。
諏訪の地にはすでに守矢神(ミシャクジ神)を信仰する守矢の民がいて抵抗しますが建御名方に負け、建御名方神はこの地で諏訪明神となりました。
↑御室神事が行われていた場所(上社前宮)
ミシャクジ信仰は石や蛇、自然そのものを信仰の対象とした土着信仰で、奇祭と言われる御頭祭など諏訪信仰の根幹にあるとも考えられています。
この諏訪地域には茅野の駒形・棚畑遺跡があり9000~5000年前の縄文土器が発掘されています。
土器には蛇の顔のようなものと受胎から出産までの過程を模したような模様が施されていたりして縄文の頃から続く信仰かもしれません。
諏訪大社 上社本宮は後ろの守矢山を御神体とし、御頭祭では鹿の生首を供えたことから旧約聖書にあるアブラハムとイサクのお話に関係してるのではと都市伝説界隈では囁かれていたり。
7300年前の縄文時代 鬼界カルデラの噴火で地球規模の大移動をした縄文人が数千年をかけてまたこの地(日本)に戻って来たというのも浪漫がありますね。
守矢の地には西方から月読命勢(これが東日本に残った縄文人により近い気がします)、出雲には北方から素戔嗚尊勢、高千穂には南方から天照大神勢が私こそが瑞穂の国を治めようと集まり、
戦ったり話し合って姻戚関係を結んだりして、初めは上手くやろうとしたけど、権力ってやっぱり神をも変えたんでしょうね。自分にだんだん都合良くしたくなっちゃって
勢力を増していくうちに、対等であったはずが対立し敵対し、それぞれが残した記録を自分の勢力の物以外は滅却していく。
いつの時代も勝者が都合よく歴史を創作していくんだなぁ。