秀吉天下の頃は朱印船貿易をおこなっていましたが、南蛮船に日本人が奴隷として積荷される様子を見た秀吉はバテレン追放令を発令、有力大名のキリスト教入信を禁止し、布教活動の裏で日本を侵略、征服しようとしていたキリスト教(イエズス会)への弾圧も行ないます。
幕末期のアジア地域には欧米の船が来まくってました。英、仏はアジア地域に植民地を確保していき、米は捕鯨船のための休憩地や食料確保の場所が必要で、またアジアに植民地を持っていなかったこともあり鎖国中の日本は何としても先に手に入れたい国でした。
ロシアと秘密裏に交易を行なっていた松前藩でしたが、幕命で海防の城の松前城を築城します(資金がないので、福山館を拡張)。
1854年『日米和親条約』で箱館の開港が決まると幕府は松前藩の領地であった箱館周辺を幕領として召し上げ、箱館奉行所(元町公園)を置きます。
1856年着工。奉行所は1864年に完成し移転。1866年に全ての工事が完了します。
幕府は特に、米や麦の海外への流出と外国人の自由旅行を認めないことに重きを置き、国内の安定を図ろうとしました。
関税を日本が決められない事は、ハリスにとって重要な項目でしたが、元々そんな概念が幕府には無く、やってみたら最悪だった。長く鎖国をしていた日本は痛い目にあったのです。
1866年21歳という若さで家茂が亡くなると、慶喜が15代将軍となりますが、開国による影響で尊皇攘夷運動が拡がり、薩摩藩による倒幕が掲げられるなか、内戦せずに幕府の独裁制を見直し、徳川宗家を筆頭とした大名達による公議政体制を樹立するため、1867年11月に慶喜は政権返上を朝廷に奏上します。
大政奉還により薩摩藩と長州藩は倒幕の大義名分を失います。取り敢えず、徳川を新政権に関わらせたくない薩長藩は、1868年1/3に王政復古の大号令を明治天皇に出させました(明治天皇は孝明天皇が即位した歳と同じ14歳で1867年2/13に践祚[せんそ]してますが、何故か立太子の儀も元服もしてなかった)。天皇親政と公議政治の名分のもと、一部の公家と5藩(越前・尾張・芸州・土佐・薩摩藩)に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立しようとします。しかし、公議政体派の土佐藩は慶喜抜きでやるのはおかしいだろと異論を唱え、強硬になる薩長藩に諸藩も不安になり、土佐藩はじめ公議政体派が盛り返します。
1/3に王政復古の大号令があり、1/8に布告。慶喜は2日後の1/10に大阪城で、6ヶ国(米・英・仏・蘭・プロイセン)の公使と会談し、内政不干渉と幕府の外交権保持の承認を受けます。
↑四稜郭(五稜郭援護と東照宮の守護を目的に築造)
そして、1/16には告諭で徳川幕藩体制による大政委任の継続を朝廷に承認されました。自分たちが国を動かしたい薩長藩は、これでは今までと変わらんと面白くないですね…。新しい世を創るには、あくまで徳川討伐が必要(島津は慶喜に罵られてますから、どうしても慶喜は倒したかったと推察)と考える薩長藩は徳川旧幕府を挑発し始めます。
江戸で放火、商家乱入などのテロ行為を繰り返します。賊が三田の薩摩藩邸に逃げ込んでゆくのが度々目撃され、更に赤羽橋:美濃屋の新徴組屯所、三田春日神社前:庄内藩新撰組屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、殺人事件まで起こします。慶喜は江戸には不在でしたので、ブレーンの居ない幕府は、挑発にのってしまいます。
↑箱館東照宮跡(東照宮台場跡)
放火・強盗・暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し旧幕府側は江戸薩摩藩邸を焼討、112人を捕縛。これが引き金となり、鳥羽・伏見の戦いへと進み、勝手に天皇旗を使用した薩長に朝敵とされ、新政府と佐幕派との戦いを繰り広げていくことに。敗走北上する旧幕府軍は蝦夷地に徳川一門の新たな領地を開こうと考えます。箱館を攻撃、五稜郭を占拠 。榎本武揚を総裁に、箱館政権を樹立しますが、新政府軍は降伏した松前兵を先鋒に乙部→江差→松前→木古内を奪還し、箱館へと戦いを進め、旧幕府軍を追い詰めていきました。