弘前城は1611年に築城された津軽氏のお城。
津軽氏は鎌倉時代から続く南部氏の庶家(分家)で南部氏の一門でした。

↑追手門

南部氏とは名乗れず、津軽氏を名乗る前は大浦氏。1590年小田原征伐で武功を上げてというか、南部氏や他の大名に邪魔されつつも、秀吉に南部氏より先に謁見します。

また公家の近衛家に早くから接近し「自分は近衛家の落胤」と言って、当時困窮していた近衛家への財政支援も行い、藤原氏の姓を受けた事もあり、南部家の一門としての大浦氏から津軽氏へ改姓、独立した大名となりました。

↑二の丸南門

1600年関ヶ原では、東軍の家康さまに付き、領地は加増。初代藩主の津軽為信(ためのぶ)は、1603年 鷹岡(現在地)に新城を築城開始します。

築城開始の翌年に為信が京都で亡くなって(為信58歳)、築城は中断されましたが、

1609年に2代藩主 信枚(のぶひら)が築城を再開させ、前々・前城からの遺材を利用し、1年1ヶ月という急ピッチでほぼ完成させています。

鷹岡城には5層6階の天守がありましたが、1627年に落雷で炎上爆発、その後200年天守がない状態でした。

現在の天守は1810年9代藩主 寧親(やすちか)が、幕府に3層櫓の新築を願い出て、御三階櫓が造築されたものですが、往時は実質天守だったといわれていたらしく、今は天守の扱いがされています。

現在、石垣の修繕を行っていて、天守は曳家(ひきや)され移動中。天守からは別名 津軽富士といわれる岩木山が望めます。

↑石垣の修繕衆の普請番屋も案内されていました。

信枚は徳川家のブレーン:天海に帰依していたらしく、1628年天海が鷹岡を「弘前」と名付けてくれたらしく改称して、城もまた「弘前城」と改められました。

↑丑寅櫓

津軽氏が築城し、江戸幕府終焉までの260年間津軽氏の居城で、明治になってからは公園として整備され一般開放されました。

↑修繕を待つ石垣石たち。

今では桜の名所となっています。

↑北門

桜の時期が終わり、緑いっぱいの弘前城も良き。

岩木山は津軽平野に位置し、標高は1625m。古くから山岳信仰の対象となっていたようです。綺麗な山型でついつい見ちゃう。