白河は秀吉の奥州仕置で、それまで約300年に渡り治めてきた白河結城家が改易となり、会津領となります。
蒲生氏が断絶した後は、幕領となりますが1627年白河藩として丹羽家が入封します。
藩主となった丹羽長重(ながしげ)は柴田勝家とともに織田の双璧といわれた丹羽長秀の長男。長秀は信長の養女(信長の兄の娘)を妻に、長重は信長の5女を娶った2代に渡る唯一の姻戚でした。
賤ヶ岳の戦いで秀吉の援護をした長秀により若狭・越前・加賀2郡の123万石を与えられた大大名の若様だった長重でしたが、
1585年長秀が亡くなると、佐々成政に内通した軍律違反の咎で、越前・加賀の領国の大半と、有力家臣を召し上げられました。
1587年の九州平定でも家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、4万石まで秀吉により勢力を削減されてしまいます。
関が原では西軍に与し、改易。なんだけど、1598年の秀吉の死後、家康さまから前田利長(利家の嫡男)の監視の密命を受けてたり…。
関ヶ原でも、北陸の関ヶ原といわれる浅井畷(あさいなわて)の戦いで戦ったのは、東軍だった利長。前田家の勢力も家康さまは削ぎたかったのかも…
と邪推したくなる1603年の常陸国古渡1万石での大名復帰(秀忠の口利きとも考えられてますが)。
1614年大坂の陣での武功もあったけど、2代将軍秀忠の御伽衆も務めました。
その後も着々と加増され、白河には10万石で入封しました。離散してた家臣も戻ってきて、藩としては幕府普請(東海道整備、東照宮造営)もあって財政は逼迫していましたが、死に際には子息や家臣に、将軍への恩を大事にし幕府への忠謹に励むよう遺言しています。
1629年から3年かけて、幕府の命令で大改修が行われ、総石垣造りの白河城ができあがります。丹羽氏により城下町も造られますが、1643年丹羽氏が二本松に移封されると、榊原・本多・奥平・結城・久松・阿部と親藩が入封されています。
白河は東北と関東の交通を管理できる拠点として重要な位置にあります。幕末の江戸無血開城(1868年4月11日)後に新政府軍の管理下となっていましたが、4月20日に会津・仙台合同軍が奪還。
↑稲荷山。白河城の南に位置する西軍(幕府軍)の重要な陣地。
5月1日に新政府軍に再び奪われると、100日にも及ぶ攻防戦が行われます。白河は会津の守りとして重要な拠点でした。
会津藩は白河を奪取することはできず、白河口の戦いを終えました。↑奥羽越列藩同盟の戦死者の慰霊碑があります。奥にある『銷魂碑』の文字は会津藩主 松平容保の筆です。