バリューインテグレーター山見博康の善言励言
  • 03Aug
    • セブン&アイ:8月1日セブンペイ撤退記者会見への私見

      去る7月1日セブン&アイ・ホールディングスは井坂隆一社長とセブンペイ運営するセブン・ペイの小林強社長が記者会見して、スマホによる現金決済システム「セブン・ペイ」の導入を発表。その後不具合により不十分な場足り的対応により曲折し、その結果、昨日8月1日副社長が記者会見して、全面廃止を発表した。その技術的な不具合内容に関しては見解を述べる立場にないが、危機対応専門家として、記者会見の有り方について私見を述べる。 昨日の記者会見での最も重要な問題は、ホールディングスの井坂社長及びセブン・ペイ小林社長が出席しなかった点である。 導入の発表には、社長が出て、廃止の発表には副社長とは、然るべき企業のあるべき姿ではない。家庭で言えば、父親が大々的に自信満々で発表したことが失敗して完全撤退するのに、奥さんが出て平謝り発表するようなものではないか! それは企業としての姿勢がなってない明確な証である。恥ずかしい限りだ。こんなことだから、無責任体制が染みつき、チェック体制が甘くなって問題を起こすのである。■社長が出たがらない理由を分析すれば・・・このどれかに当てはまる!1:記者会見の本来の意義・目的の軽視・無理解   ステークホルダー+国民への説明責任・義務ではなく、会見を“メディアに言う”ことと間違えている。本来、伝えるべき相手はメディアではない。2:メディアへの敵視・・・メディアを報せる協力者に見ていない メディアなしに、説明義務責任は果せない 刻々変化する事態に関して、同じ情報」を同じ時に(一挙に)、多くの人々に報せるにはメディア(同時大量伝達の手段)なしには不可能であることを理解していない・・・もしわかっていたら「私は寝ていないんだ!」はあり得ない! メディアは、社会や企業の「批評・批判・非難・監視」役!   正当なメディアなしには、国家は北朝鮮になる! 言論の自由喪失、悪事蔓延3:案件の軽視「こんな大問題なのになぜ社長が出ないんだろう」という世間の常識との乖離「誰が発表するかよってその案件に対する企業の姿勢が判る」4:責任の回避・・・記者に「責任」を問われたくない 5:公式見解の遅れ+情報のばらつき+遅れ+不正確・・・決断できない  何を言ってよいか判らない+どうして良いか迷っている6:茶坊主の配慮・・・“トップは会見に応じてもいい”と思っていても、取巻きが“殿の出番はまだ早い!”と保身により留める7:より重大な案件とのバランス(もっと悪い問題があるのに)“この位では社長は出ない!                       これから色んな問題で記者会見が行われるの見る時、上記観点にて状況を俯瞰すると企業の姿勢が判るであろう。 人も会社も苦境の時、断末魔に直面した時、自分の身、身内の身が危うくなった時その人間の会社の本質が見事に露呈することを肝に銘じて、日頃の言動を律することが大切だ。

  • 13Apr
    • 話し上手・聞き上手(2)

      ハナシは人格の表識ですから、他人から好意を持たれる人格を養うことも必要なのです。また、「ハナシには、個性の魅力が絶対に必要」なので「美しい表現」を工夫し、「間合い」や「声の強弱」を大切にする心構えが必要だと訓えています。  ところが、話上手の人は多いが、聞き上手な人はなかなかいません。なぜなら、聞き上手になるには相手の立場で考えてあげる思いやりの心、つまり孔子がいう「恕」が必要だからです。さらに、プラスアルファも要ります。それは、少しばかりの「辛抱」や「忍耐」です。さらに、相手を観察し、時に頷き、時に合いの手を入れ、時に口を挟む・・・といった「意図的な配慮」を巧みに行う細やかな心遣いがなくてはなりません。「聞いている」ことと「聞いてあげている」ことには大きな違いがあります。表現を換えれば、「聞き上手」より「話させ上手」と言う方がぴったりきます。といってもおべんちゃらを使って話させるだけでは、それを言われて喜ぶ部類の人たちにしか、通用しません。子供でも老人でも、偉い人でもそうでない人でも、聖人でも悪人でも、どんな人にでも「話させ上手」になれる人は、きっと心豊かな、優れた品格を持ち、深い教養を備えた、自愛に満ちた人でありましょう。話は“放し”です。時空を超えて行く広がりがあるのです。 荘子に「これを聴くに耳を以てするなくして、心を以てせよ」とあります。 ちなみに、話好きな人は、話したい人の楽しみを奪っていることを忘れてはなりません。 さて、部下を持ちいっぱしのリーダーになれば、話がうまくても、部下が動いてくれなければ業務目標を達成することはできません。そこで、意図を通じるためのコミュニケーションの要諦とは。  ▽指揮官は自分の立場で考え、指導者は部下の立場で考える▽指揮官は命令を伝達し、  指導者は命令を理解させる▽指揮官は部下を働かせ、  指導者は部下を働きたくさせるこのような指導者になるためには、話上手・聞き上手を超越したひとりの人格者であるよう求められます。この三つを念頭において、自分の役割にそれを当てはめると、上司・部下いずれの立場でも何かヒントが得られるものです。要は、権力によって無理に言うことを聞かせるのではなく、人徳によって自発的に理解し行動してもらうことが大切です。つまり、ある人徳が必要ですね。権威よりも人徳。私達には好きな人・尊敬する人からの話なら何でも受け入れる心の広さがあるのです。  自分の世界の広さは、「心の広さ」に比例する。  (ウエイン・ダイアー)  美を感じるのは、その人の「心の深さ」に比例する。(武者小路実篤)   見ザル、聞かザル、しゃべりザル・・・・だから嫌われる

  • 30Mar
    • つもりちがい十ヶ条

      春日神社(千葉県御宿町)井上信幸宮司1.高いつもりで低いのは 教養2.低いつもりで高いのが 気位3.深いつもりで浅いのは 知識4.浅いつもりで深いのが 欲の皮5.厚いつもりで薄いのは 人情6.薄いつもりで厚いのが 面の皮7.強いつもりで弱いのは 根性8.弱いつもりで強いのが 我9.多いつもりで少ないのは 分別10.少ないつもりで多いのが 無駄追加 山見博康11.有るつもりで無いのは 人望・徳・思い遣り12.無いつもりで有るのが 癖・13.大きいつもりで小さいのは 器・肝14.小さいつもりで大きいのが 慢心15.広いつもりで狭いのは 度量・心・視野16.狭いつもりで広いのが どなたかアイデアありませんか? 

    • 話上手・聞き上手(1)

      話上手・聞き上手話のうまい人はだれにでも好かれる。しかし聞き上手の人は、人にうまく話させる人である。われわれは話を聞くのも好きであるが、話するのもまた愉快なのである。人に話させないような人は、人の楽しみを奪う人でもある。会話の間中、自分の話だけを聞かせたいような人は、自分勝手な人である。話の中心が自分でないと気のすまないようなのは、我儘者である。相手が聞きたがっている時に話し、相手が話したい時に話させる、融通性のある人。話術の達人徳川夢声は「『ハナシは人なり』といい、『コトバは心の使い』と言います。ココロがそのまま言葉になって現れ、ハナシとなって、人の心に働きかけるので、良い話をするには良い心を持っていなければなりません。だから訥弁の人でも、心の良い人は良い話ができます。例えば幼児のハナシです。まだ、ロクに舌も廻らず、知っている言葉の数もわずかであるにもかかわらず、思わず大人が聞き耳をたてて、なんともいえない良い心持ちになるのは、幼児の心は神に近いからです。

  • 11Mar
    • 見栄がない(3)

      宝石や車などの持ち物を自慢する人がいますが、これらは本当の自分のものではなく、今、単に自分に付着しているものでありましょう。刹那的なものなのです。それを自慢する人は、付着物を誇ることになります。つまり、衣服のシミを誇ることと同じです。自尊心が少しあればきっと恥ずかしく思うことでしょう。そう思って、持ち主の顔や姿をよく見なおすと前とは違って見えてくるにちがいありません。本当の自分のものは、自分の力で成し得たことや自分の創意で造ったもの、あるいは自分の内面から発露する思想や考え方などです。小さくてもいい、それを誇れるようになると本当に“見得”を切ることもできましょう。しかし、おろかな行為と判ってはいても、時に誘惑に負けて見栄を張り、あとで恥ずかしい思いをすることも、人間ですから、ままあります。ところが、そんな見栄は期待した効果は得られないどころか、逆に悪化するものです。とはいっても、見栄を張ろうとすることを否定することはありません。なぜなら、「見栄」はいわば「意地」や「負けじ魂」の別な形ともいえるからです。時に応じて「ここはその位の見栄を張ってやろうではないか!」という態度は、ある意味では必要な自負心に近いものではないでしょうか?それは、時には「見得」と呼べるものでしょう。子供の頃から考えると、誰でも何度か「見得を切ったこと」を思い出します。 ちょっと上手にお絵かきして、お母さんに誉められた時、運動会で一番になった時、凧揚げでもっとも高くあげたとき、学芸会でいい役をした時・・・それに大人になっても写真を写るときには、だれもがポーズを作り、見得を切っています。誰しも自分が日々演じる役どころで、適切な見得を切りたいものです。「見栄」も「見得」も使いどころさえ間違わなければ、自分を鼓舞したり、勇気付けたり、高めたりする一つの方法になることを覚えていたいものです。カッコよく見栄を張り、程よく見得を切れる人は、周りの人にも何かさわやか感を残し、少しでも力を与えていく人のようです。真に見栄のない人は、貴重な人です。見得も切れない人は、人に好かれないかも知れません。「いつでも、どこでも、見栄っ張り・・・・・だから嫌われる」

  • 04Mar
    • 見栄がない(2)

      「みえ」には「見栄」と「見得」があります。「見栄」とは「うわべを飾ること。体裁を取り繕うこと」であり、「見得」とは、歌舞伎役者の演技にあるような「ことさら自分を誇示する態度」のことです。「自分には見栄はない」という人ほど、見栄っ張りの人がいます。要は自分以上のものを見せようとすることです。収入以上のものを買ったり、無いものを有るように見せることもそうでしょう。しかし、それは長続きするはずはありません。化けの皮が剥がれるのは、まさに時間の問題です。ドイツの哲学者ショーペンハウエル先生は: 「最も心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見え透いた努力をしないことであろう」と訓えています。つまり、日々のお化粧は、全てこの箴言があてはまります。鏡を見ながら、お化粧する時、この言葉を思い起こしながら、口紅を塗り、アイシャドウをつけるようにすると、適度なお化粧になるでしょう。お化粧は正にこの格言通りなのです。「誰も仮面を長いことかぶっていることはできない。偽装はやがて自己の本性に立ち帰る」(セネカ)

    • 見栄がない(1)

      見栄がない 相手の見栄がなんだか判っていれば、いよいよそれを尊重せねばならず、その見栄の正体がわからなければ常にさぐっていなければならない。見当ちがいをすれば機嫌を損ずる。見栄のない人にはお世辞もいらない。正味の話ができる。約束しても、あとで心配の必要がない。見栄のない同志では感情もないし、物の無駄もない。僅かのものを持ち寄っても常に豊かである。見栄のない人は人を豊かにする。

  • 23Feb
    • 受動的能力と能動的能力

      昨今、偏差値の高低で人を判断する傾向あり。その最たるものが筆記試験である。しかし筆記試験だけで人の真の能力や将来性を判断するのは余りにも乱暴で危険である。2002年超新星からのニュートリノを世界で初めて観測しノーベル物理学賞を受賞されば東大名誉教授の小柴昌俊先生によれば:「筆記試験でつけられるのは人間の受動的な能力だけです。人の言うことを聞いて、理解して、記憶する。筆記試験で判るのはそうした能力です。自分で物事を選びだして、自分でどうやるかを決めていくという能動的な能力というのは、全然別の能力なのです」と言われている。続けて「人間の総合的な能力は、受動的な能力と能動的な能力の掛け算です。筆記でいくら100点とっても能動的な能力が0であれば、何も出来ず、知識は宝の持ち腐れです。一方、やる気がいくらあっても基礎的な知識がなければ何も出来ない。だから掛け算なのだ」と。スポーツの世界でも同じく、闇雲に練習するだけよりも、知識や理論を理解しつつ、やる気満々で猛練習に取り組む・・・成果が上がるに違いない。何かマスターしようとする時にこのバランスが必要であろう。

    • 素直である(2)

      「正直なhonest」はウソをいわないことですが、「素直なobedient」とは、ひねくれたところがなくあるがままを受け入れることです。それは人として生きる上での永遠の課題とも言えます。しかし、だれに対しても素直にあるべきとは言っても、実際に受け入れるにはそれぞれ一応の基準があります。むやみに受け入れることがいいわけではないからです。しかし、その受け入れ範囲のより広い人、より深い人の方が望ましいものです。いつも心に素直の容器を、スペースを広く、深く持ちたいものです。丸目の入れ物の方が何でもうまくよく入り、収まります。その形は真四角である必要もなく、かなり異型の人をも受け入れる柔軟性ある容器を備えておきたいものです。むしろ、異形の容器の方に個性が溢れています。多くの人が敬遠するようないびつな形にも愛すべき趣があるものです。自分らしい形でいいのです。しかも、伸び縮み自由であれば、その方がほんとうに素直な容器でありましょう。もちろん、何でも受け入れますという誘いにはちょっと注意する必要がありますが、こんな人間の交際も、親しい中に正直で飾り立てない態度が必要です。ひねくれがちで我がままな末っ子の私が「素直さ」を学び、少しはましになるのは、父母や兄4姉2人の優しさに加えて、菰田小学校4-6年の恩師山本淳一先生(飯塚市在住)のお陰です。生徒の美点を伸ばし個々の創造性を重んじる先生は、勉・遊共に全身で情熱を注ぐ厳優の教育者でした。先生作成の「勉・遊生徒相関図」にある遊びリーダー「HY」はいつも怒られ役。熱血漢の先生は怒る時も真剣で恐かった。ある日、みんなの前に立たされガツンと殴られ、とても痛かった。そこで、先生の顔は「情熱」と変し、鉄拳の痛みは「素直さ」と化して、私の瞼と左頬に焼き付く。それからは何かにつけて現れ、ともすれば曲がりがちな心根を正してくれるのです。いや、恥を忍んで申せば、年とる毎に増えてきて、今や頬の疼きに熱い顔が瞼に浮かび、涙腺が暫し緩むのを感じない日はないのです。「素直さ」は私の生涯未達の課題なのです。近年のいじめや自殺などことばを憂えるにつけ、多くの「山本先生」の出現に期待するばかりです。福澤諭吉は「交際における親睦は、この率直さのなかにこそある。気軽な人、さっぱりした人、男らしい人などと世間で言うのも、親しんでかつ率直な態度を言ったのである」(『学問のすヽめ』)と素直さが人とのお付き合いの原点とおしえています。うわべの飾りと見栄っぱり・・・だから、嫌われる卑屈で、ネチネチ、ひねくれる ・・・だから、嫌われる

  • 09Feb
    • 素直である(1)

      素直である   いつでも遠廻しに物を言わねばならない人は憂鬱だ。遠慮なく物の言える人、身分のいかんを問わず、対等で話のできる人でなくてはならない。「気兼ねしなければならない」というのは、お互いの中に何かの垣根があるからである。金も、地位も、名誉も、才能も少しも隔てとならずだれをでも人対人で応対のできる人、そう言う人を誰でも好む。 一方が素直であれば、必ず相手も素直になれる。「素直」の二文字を刻んだ碑が、パナソニック大阪本社「歴史館」の玄関に立っています。そして、創業者松下幸之助の著書『道をひらく』にこうあるのです。  素直に生きる 「逆境であれ、順境であれ、その与えれた境涯に素直に生きることである。素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生む。それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。素直さは人を強く正しく聡明にする。逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ」「正直なhonest」はウソをいわないことですが、「素直なobedient」とは、ひねくれたところがなくあるがままを受け入れることです。それは人として生きる上での永遠の課題とも言えます。しかし、だれに対しても素直にあるべきとは言っても、実際に受け入れるにはそれぞれ一応の基準があります。むやみに受け入れることがいいわけではないからです。しかし、その受け入れ範囲のより広い人、より深い人の方が望ましいもの。いつも心に素直の容器を、スペースを広く、深く持ちたいものです。丸目の入れ物の方が何でもうまくよく入り、収まります。その形は真四角である必要もなく、かなり異型の人をも受け入れる柔軟性ある容器を備えておきたいものです。むしろ、異形の容器の方に個性が溢れています。多くの人が敬遠するようないびつな形にも愛すべき趣があるもの。自分らしい形でいいのです。しかも、伸び縮み自由であれば、その方がほんとうに素直な容器でありましょう。もちろん、何でも受け入れますという誘いにはちょっと注意する必要がありますが、こんな人間の交際も、親しい中に正直で飾り立てない態度が必要です。一方では、正直そうな、お人よしそうな、親身になってくれそうな・・・○○そうな人物や事象には注意しましょう。中に紛い物が潜んでいる恐れあり! つまり、見せかけ、装い、○○風、最後には「詐欺」となります。オレオレ詐欺、なりすまし、騙しのテクニックに長けた人達が暗躍する世の中、ネット時代には益々巧妙になり、異次元の秀才悪が闊歩していますので、容易に信じてはいけません。正邪、善悪、良し悪し・・・を見分ける術・・・見えない敵からも身辺を守る智慧が必要となってきます。これを「教養」と言ってもいいのでしょう。

  • 03Feb
    • 何ごとにもこだわらぬ(2)

      拘るな!とどんなにお坊さんが説教しても、人間は、高等動物であるが故に、心にいろいろな「こだわり」を抱きます。▽ 富・お金や物・・・一流ブランド商品・好きな食べ物▽大きな名誉や権力・・・地位・役職・褒章▽不断の享楽・・・遊び・ばくち・酒何事にも拘らぬ、と誓いつつ、そうはやすやすと出来ないのが世の常、人の常!ところが、このようなものは普通多くの人々が求め、何がしかの満足を得ることはできます。しかし、富を得ても使い方に無教養を露呈して嘲笑(あざわら)われ、つねに無くなる不安と恐怖におののくのです。    また長年にわたる権力の座への強いこだわりから、次第に醜態(しゅうたい)を晒(さら)して晩年を汚す愚を犯して闇夜に消える世の儚(はかな)さにひとり涙するのです。しかし、人間として持つべき望ましい真のこだわりとは、次のようなことでしょう。 道徳的信念や使命感を抱くこと 人徳や優れた教養・品格を身につけること 精神および肉体の健康を求め、維持増進を図ること 適性のある仕事とその自由自在の発揮を生き甲斐にすること これらの気高い追求に上限はなく、悠(ひさ)しくこだわりを持ち続けることは社会への貢献であり、人生の妙味です。「般若心経」にある「色即是空(しきそくぜくう)」の「空(くう)」とは、  かたよらないこころ  こだわらないこころ     とらわれないこころ  ひろく、ひろく、もっとひろく  これが般若心経 空のこころなり私は、写経の時、般若心経の後にこれを付け加えるのを好みます。何か自ら空中遊泳して気分が浮遊し、富裕層ならず浮遊層になった気分です。こだわり過ぎる人は嫌われます。とはいっても、「自分にはこだわる人」でなければなりません。 ならば、「人にこだわらず、自分にこだわれ」    かたよる、こだわる、とらわれる                  ・・・・だから、嫌われる!  

  • 03Jan
    • 何ごとにもこだわらぬ(1) 

       われわれが重苦しい気分になるのは、何かにこだわるからである。「あんな失言をしたが気にさわりはしなかったかなあ」とこだわりはじめると夜もよくねむれないが、 「あの人間はつまらぬことにこだわる人間じゃない、独り相撲はおかしい」と思えるようなら気は楽だ。何事にもこだわらぬ人間は人の心をも開放する。 こだわる人間は誰の心でも片っぱしから縛って行く、人をのびのびさせるような人はこだわりのない人だ。日々話す相手には、家族・友だち(異性も)・目上の人・お客様など仕事上の人など、実にさまざまです。 仲のいい友達と会って話す日ごろの何気ない会話においても、少し相手の気分を害するような言葉を使った場合など、別れた後に、そんな自分の発言が気になることがあります。「友達だから、いいじゃないか。きっと真意を判ってくれるだろう」と思っても、「いや、友達だからなおさら気にしてるんじゃないかなあ」と余計に気になるのです。 「あの時は、ああ言ったが、こう言ったほうが良かったのではないか?」と悔やまれることばかりです。 「あの方はそんなことにこだわる人ではない」と思える人でも、本当にこだわってないのか何かの機会をつくって確かめたい心理になります。そして、理由を考えて電話する時には、小さな胸が高鳴ります。その第一声のトーンに全身の血が集まる思いです。 そこで、相も変わらぬくったくのない声に接したとき、内心の安堵感はいかばかりか!つい、その後の会話における自分の声の上ずりを気にする方がいいくらいです。 そんなことがあれば、その人をもっともっと好きになることうけあいです。さらに、尊敬の気持ちは敬愛の念へと高まることでしょう。

  • 02Jan
    • 陽気な人(3)

      しかし、笑いが多いから朗らかだとは限りません。ギリシャの哲学者エピクテートスは「大笑いするな、多くのことを笑うな、しまりなく笑うな」(『人生談義』)と下手な笑いを戒めています。何に対してどんな笑いをするか?に人間の程度が現れてしまうのです。テレビなどで、何にでも大笑いの誘惑から逃れてみると、自分をクスクス笑えます。ほんとうは暗いエセ陽気者に気をつけましょう。 近年、テレビでも笑いに焦点を当てた番組が多く、絶え間ない笑いの声にうんざりしている人も多いのではないでしょうか? 特に大笑い、高笑い、甲高い笑い、爆笑・・・の数々ですが、本当におかしいのでしょうね。自分の心に問うてみれば、疑問の声あり。私たちが会う人ごとに素朴で自然な、誠実な親しみをもって接しようとすると、相手と必ず陽気で朗らかな関係が生まれます。子供の頃の善良な気持ちになれるのです。それ程与えるものはなくとも、ささやかな親切や優しいことばは、誰にでも、いつでもそしてどこででも差し上げることができるのです。それが陽の光として暗い心を少しでも明るくすることでしょう。ドイツの哲学者ショーペンハウアーは無上「幸福を与えるものは朗らかさ以外にはなく、むじょう至高しこうの財宝である」とし、続けて「朗らかさにとって富ほど役に立たぬものはなく、健康ほど有益なものはない。完全な健康から朗らかさが花と咲き出るように心がけるがよかろう」(『幸福について』)と健康を富・栄華・名声ましてや淫蕩や快楽などどんなものよりも優先せよと元気付けてくれます。そこで自分の力で健康を維持増進することは、人間としての義務です。つまり、できるだけ長く二本足で立ち、歩き、頭脳を明晰にして人生を貫こうとすることは、人間の使命なのです。生活習慣病とは、人生怠慢病であります。自分が健康への努力さえ怠らなければ身近な人に不安や迷惑をかけることが少しでも避けられ、あるいは遅らせることができるのです。健康に留意しない人は、いつも陽気になれるはずはなく、好かれることから次第に遠ざかる悲哀を実感するでしょう。昨日下向き、今日うつむき、明日は後ろ向き                    ・・・だから嫌われる

  • 01Jan
    • 陽気な人(2)

      ネクラの赤ちゃんを見たことはないでしょう。赤ちゃんは幼気です。それは陽気に通じます。私たちは、本来、ネアカなのです。なのにいつしか、自分で暗い自分を作ってしまってはいないでしょうか。「あの人は陽気だ」や「彼(女)は明るい」といわれる人でも、「いつもそうか?」というとそうでもありません。つねに陽気を保つことは案外難しいことです。ネアカと自称している人でも、時にはそうでなかったり、結構人前で飾っていたりします。どんな場面においても陽気な人というのはなかなかいないものです。「子供らと手たづさはりて春の野に 若葉をつめば楽しくあるかな」と楽しそうな良寛さんでも、実は、隠遁いんとん生活を自嘲じちょうし、食しょくを乞こうことには深い悲哀ひあいと焦燥しょうそうを感じていたようです。陰気な人は十のうち九までが成功しても、この九に感謝せずに、一の失敗に腹を立て、逆に陽気な人は、災難に苦悩しつつも悲しみが少なく、一の成功でも喜び感謝して、自分を明るい気分にするものです。陽気は朗らかさに通じます。朗らかさは陽気+快活さです。それを身につけるには少し意志の力も要るし、人間的な修養も必要です。つまり、 だれからみても、つねに朗らかな人になるためには、運命をあるがままに受け入れ、ものごとに積極的に対処して苦境でも挫けない、自分らしい生き方をしようとする人です。しかも人の生き方も尊重し、努めて人との調和を図り、実行する人です運命に背を向ける人には、だれも寄りつきたくありません。 古語に「良く笑うものは幸福だ。多く泣くものは不幸だ」とありますが、いつも幸運を呼び寄せ、不幸を近づけない日々を送りたいものです。昨年11月でしたか、お名前を「笑」(えみ)さんという素敵な女性にお会いしました。新年に向けて、今年1年「笑」の連なりの日々を送りたいものです。

  • 23Dec
    • 陽気な人(1)

      陽気な人 草花が光の方へ、光の方へと枝葉を伸ばすように、人は明るい人へいつ知らず親しみを覚える。暗い人には近づきにくい。明るい人の周囲には温かい雰囲気がただよっており、暗い人の周囲には冷たい風が吹いている。 陽気な人間は陽気であるだけで人を温め、励ます力を持つ。暗い人間は暗いというだけで人々を冷やし、萎縮させる。和と差の相違がある。 明るい人には幸運が近づき、暗い人には不幸が追いかける。

  • 06Dec
    • 素直である(3)

      ひねくれがちで我がままな末っ子の私が「素直さ」を学び、少しはましになるのは、父母や兄4姉2人の優しさに加えて、菰田小学校4-6年の恩師山本淳一先生(飯塚市在住)のお陰です。生徒の美点を伸ばし個々の創造性を重んじる先生は、勉・遊共に全身で情熱を注ぐ厳優の教育者でした。先生作成の「勉・遊生徒相関図」にある遊びリーダー「HY」はいつも怒られ役。熱血漢の先生は怒る時も真剣で恐かった。ある日、みんなの前に立たされガツンと殴られ、とても痛かった。そこで、先生の顔は「情熱」と変し、鉄拳の痛みは「素直さ」と化して、私の瞼と左頬に焼き付く。それからは何かにつけて現れ、ともすれば曲がりがちな心根を正してくれるのです。いや、恥を忍んで申せば、年とる毎に増えてきて、今や頬の疼きに熱い顔が瞼に浮かび、涙腺が暫し緩むのを感じない日はないのです。   「素直さ」は私の生涯未達の課題なのです。近年のいじめや自殺などことばを憂えるにつけ、多くの「山本先生」の出現に期待するばかりです。福澤諭吉は「交際における親睦は、この率直さのなかにこそある。気軽な人、さっぱりした人、男らしい人などと世間で言うのも、親しんでかつ率直な態度を言ったのである」(『学問のすヽめ』)と素直さが人とのお付き合いの原点とおしえています。「うわべの飾りと見栄ばかり・・・・だから、嫌われる」

  • 21Nov
    • 素直である(2)

      「正直なHonest」はウソをいわないことですが、「素直なObedient」とは、ひねくれたところがなくあるがままを受け入れることです。それは人として生きる上での永遠の課題とも言えます。しかし、だれに対しても素直にあるべきとは言っても、実際に受け入れるにはそれぞれ一応の基準があります。むやみに受け入れることがいいわけではないからです。その受け入れ範囲のより広い人、より深い人の方が望ましいものです。いつも心に素直の容器を、スペースを広く、深く持ちたいものです。丸目の入れ物の方が何でもうまくよく入り、収まります。 その形は真四角である必要もなく、かなり異型の人をも受け入れる柔軟性ある容器を備えておきたいものです。むしろ、異形の容器の方に個性が溢れています。多くの人が敬遠するようないびつな形にも愛すべき趣があるものです。自分らしい形でいいのです。 しかも、伸び縮み自由であれば、その方がほんとうに素直な容器でありましょう。もちろん、何でも受け入れますという誘いにはちょっと注意する必要がありますが、こんな人間の交際も、親しい中に正直で飾り立てない態度が必要です。

  • 18Nov
    • 素直である(1)

       いつでも遠廻しに物を言わねばならない人は憂鬱だ。遠慮なく物の言える人、身分のいかんを問わず、対等で話のできる人でなくてはならない。「気兼ねしなければならない」というのは、お互いの中に何かの垣根があるからである。金も、地位も、名誉も、才能も少しも隔てとならずだれをでも人対人で応対のできる人、そう言う人を誰でも好む。 一方が素直であれば、必ず相手も素直になれる。 「素直」の二文字を刻んだ碑が、松下電器大阪本社「歴史館」の玄関に立っている。そして、創業者松下幸之助の著書『道をひらく』にこうある。  【 素直に生きる 】 「逆境であれ、順境であれ、その与えれた境涯に素直に生きることである。素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れれを生む。それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。  素直さは人を強く正しく聡明にする。逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ」今日一日、素直に生きようと思う。しかし、何に対して素直になるのか?誰に対して素直になれるのか? 誰でもに素直になれる人 ・・・それは天使か? 慈母観音か? 自分には? なれない!それが、独りよがりの自分なのか?

  • 10Nov
    • 何ごとにも拘らぬ(3)

      しかし、人間として持つべき望ましい真のこだわりとは、次のようなことでしょう。 道徳的信念や使命感を抱くこと 人徳や優れた教養・品格を身につけること 精神および肉体の健康を求め、維持増進を図ること 適性のある仕事とその自由自在の発揮を生き甲斐にすることこれらの気高い追求に上限はなく、悠しくこだわりを持ち続けることは社会への貢献であり、人生の妙味です。「般若心経」にある「色即是空」の「空」とは、  かたよらないこころ  こだわらないこころ     とらわれないこころ  ひろく、ひろく、もっとひろく  これが般若心経 空のこころなり こだわり過ぎる人は嫌われます。 とはいっても、「自分にはこだわる人」でなければなりません。   「かたよる、こだわる、とらわれる   ・・・だから、嫌われる」 

  • 04Nov
    • 何ごとも拘らぬ(2)

      日々話す相手には、家族・友だち(異性も)・目上の人・お客様など仕事上の人など、実にさまざまです。仲のいい友達と会って話す日ごろの何気ない会話においても、「少し相手の気分を害するような言葉を使った場合など、別れた後に、そんな自分の発言が気になることがあります。「友達だから、いいじゃないか。きっと真意を判ってくれるだろう」と思っても、「いや、友達だからなおさら気にしてるんじゃないかなあ」と余計に気になるのです。 「あの時は、ああ言ったが、こう言ったほうが良かったのではないか?」と悔やまれることばかり! 「あの方はそんなことにこだわる人ではない」と思える人でも、本当にこだわってないのか何かの機会をつくって確かめたい心理になります。そして、理由を考えて電話する時には、小さな胸が高鳴ります。その第一声のトーンに全身の血が集まる思いです。そこで、相も変わらぬくったくのない声に接したとき、内心の安堵感はいかばかりか!つい、その後の会話における自分の声の上ずりを気にする方がいいくらいです。そんなことがあれば、その人をもっともっと好きになることうけあいです。さらに、尊敬の気持ちは敬愛の念へと高まることでしょう。人間は、高等動物であるが故に、心にいろいろな「こだわり」を抱きます。▽ 富・お金や物・・・一流ブランド商品・好きな食べ物 大きな名誉や権力・・・地位・役職・褒章 不断の享楽・・・遊び・ばくち・酒嘲笑ところが、このようなものは普通多くの人々が求め、何がしかの満足を得ることはできます。しかし、富を得ても使い方に無教養を露呈し嘲笑われ、醜態無くなる不安と恐怖におののくのです。また長年にわたる権力の座への強いこだわりから、次第醜態を晒して晩年を汚す愚を犯して、闇夜に消える世の儚さにひとり涙するのです。