素直である(2)

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「正直なhonest」はウソをいわないことですが、「素直なobedient」とは、ひねくれたところがなくあるがままを受け入れることです。それは人として生きる上での永遠の課題とも言えます。

しかし、だれに対しても素直にあるべきとは言っても、実際に受け入れるにはそれぞれ一応の基準があります。むやみに受け入れることがいいわけではないからです。

しかし、その受け入れ範囲のより広い人、より深い人の方が望ましいものです。いつも心に素直の容器を、スペースを広く、深く持ちたいものです。丸目の入れ物の方が何でもうまくよく入り、収まります。

その形は真四角である必要もなく、かなり異型の人をも受け入れる柔軟性ある容器を備えておきたいものです。むしろ、異形の容器の方に個性が溢れています。多くの人が敬遠するようないびつな形にも愛すべき趣があるものです。自分らしい形でいいのです。

しかも、伸び縮み自由であれば、その方がほんとうに素直な容器でありましょう。もちろん、何でも受け入れますという誘いにはちょっと注意する必要がありますが、こんな人間の交際も、親しい中に正直で飾り立てない態度が必要です。

ひねくれがちで我がままな末っ子の私が「素直さ」を学び、少しはましになるのは、父母や兄4姉2人の優しさに加えて、菰田小学校4-6年の恩師山本淳一先生(飯塚市在住)のお陰です。生徒の美点を伸ばし個々の創造性を重んじる先生は、勉・遊共に全身で情熱を注ぐ厳優の教育者でした。先生作成の「勉・遊生徒相関図」にある遊びリーダー「HY」はいつも怒られ役。熱血漢の先生は怒る時も真剣で恐かった。ある日、みんなの前に立たされガツンと殴られ、とても痛かった。そこで、先生の顔は「情熱」と変し、鉄拳の痛みは「素直さ」と化して、私の瞼と左頬に焼き付く。それからは何かにつけて現れ、ともすれば曲がりがちな心根を正してくれるのです。いや、恥を忍んで申せば、年とる毎に増えてきて、今や頬の疼きに熱い顔が瞼に浮かび、涙腺が暫し緩むのを感じない日はないのです。「素直さ」は私の生涯未達の課題なのです。

近年のいじめや自殺などことばを憂えるにつけ、多くの「山本先生」の出現に期待するばかりです。

福澤諭吉は「交際における親睦は、この率直さのなかにこそある。気軽な人、さっぱりした人、男らしい人などと世間で言うのも、親しんでかつ率直な態度を言ったのである」(『学問のすヽめ』)と素直さが人とのお付き合いの原点とおしえています。

うわべの飾りと見栄っぱり・・・だから、嫌われる

卑屈で、ネチネチ、ひねくれる ・・・だから、嫌われる