見栄がない(3)

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宝石や車などの持ち物を自慢する人がいますが、これらは本当の自分のものではなく、今、単に自分に付着しているものでありましょう。刹那的なものなのです。それを自慢する人は、付着物を誇ることになります。つまり、衣服のシミを誇ることと同じです。自尊心が少しあればきっと恥ずかしく思うことでしょう。そう思って、持ち主の顔や姿をよく見なおすと前とは違って見えてくるにちがいありません。

 

本当の自分のものは、自分の力で成し得たことや自分の創意で造ったもの、あるいは自分の内面から発露する思想や考え方などです。小さくてもいい、それを誇れるようになると本当に“見得”を切ることもできましょう。

 

しかし、おろかな行為と判ってはいても、時に誘惑に負けて見栄を張り、あとで恥ずかしい思いをすることも、人間ですから、ままあります。ところが、そんな見栄は期待した効果は得られないどころか、逆に悪化するものです。

 

とはいっても、見栄を張ろうとすることを否定することはありません。なぜなら、「見栄」はいわば「意地」や「負けじ魂」の別な形ともいえるからです。時に応じて「ここはその位の見栄を張ってやろうではないか!」という態度は、ある意味では必要な自負心に近いものではないでしょうか?

 

それは、時には「見得」と呼べるものでしょう。子供の頃から考えると、誰でも何度か「見得を切ったこと」を思い出します。 ちょっと上手にお絵かきして、お母さんに誉められた時、運動会で一番になった時、凧揚げでもっとも高くあげたとき、学芸会でいい役をした時・・・それに大人になっても写真を写るときには、だれもがポーズを作り、見得を切っています。誰しも自分が日々演じる役どころで、適切な見得を切りたいものです。

 

「見栄」も「見得」も使いどころさえ間違わなければ、自分を鼓舞したり、勇気付けたり、高めたりする一つの方法になることを覚えていたいものです。カッコよく見栄を張り、程よく見得を切れる人は、周りの人にも何かさわやか感を残し、少しでも力を与えていく人のようです。真に見栄のない人は、貴重な人です。見得も切れない人は、人に好かれないかも知れません。

 

「いつでも、どこでも、見栄っ張り・・・・・だから嫌われる」