お金を語ることは、愛を語ること①
都会の洗礼と心のざわめき私が札幌で働きはじめた頃、毎日のように「昨日なに食べたの?」「財布にいくら入ってたら安心する?」と聞いてくる同僚がいた。私は素直に「3,000円くらいかな」と答えていた。けれど返ってくるのは、決まって少し呆れたような「えっ、3千円?(少なっ!)」という反応。彼女は毎晩、仕事が終わると誰かと遊ぶスケジュールでいっぱいだった。私はというと、会社と家の往復だけ。お金を使うとすれば、スーパーやコンビニでの買い物くらい。だから3,000円で十分だったし、そこに不安もなかった。なのに、彼女は毎日毎日、同じ質問をしてきた。私は毎日毎日、同じ答えを返していた。ある日、逆に聞いてみた。「じゃあ、あなたはいくらあれば安心なの?」彼女は笑ってはぐらかし、答えなかった。承認欲求の駆け引きようやく気がづいた。あのやり取りは、ただの雑談じゃなかった。彼女は、私の答えを“踏み台”にして、自分の中の「私はちゃんと持ってる」という安心感や、「私は普通でしょ」という承認を得ていたのだ。私は、無意識のうちに、彼女の承認欲求を満たすための存在にされていた。なるほど、そういうことだったんだなーといまにして思えば納得ができる。だから私は、少しずつ、そっと彼女から離れていったんだ。被害者のままでは、知らず知らずに加害者になっている被害者意識を持ち続けることは、一見自分を守るように思えるかもしれません。しかし、知らず知らずのうちに、私たちは加害者になっていることが必ずあります。「されていた」という構図の裏側には、「私もまた誰かを利用し、承認欲求を満たしていたのではないか?」という問いが隠れています。被害者でいることにとどまる限り、いつの間にか加害者にもなっている自分に気づけない。だからこそ、この事実をしっかりと認識し、自分の中にあるその両方の面と向き合うことが、真の自由と平和への第一歩なのです。被害者意識でいるということは、必ずどこかで無自覚に加害者になっているということ。これは、誰しもがあり得ることとしてどうかしっかり認識してほしいことです。このエピソードから私の中に刻まれた信念があったので、もう少し続けさせてください。最後まで読んで下さりありがとうございます読んでくださったあなたにはさらなる幸福が訪れます