自分を責めるでも、変えるでもなく、ただ「ある」と見てみたら、
いろんな私がそこにいました。
否定していた感情の奥には、まだ出会っていない可能性が眠っている。
そんなふうに感じた、今月(7月)に気づいたお話です。
私は、自分の中にいるたくさんの“私”を、
外に出していいと、やっとゆるすことができました。
弱虫、泣き虫、
他人のために命なんて捧げたくない私。
勇気がない私、すぐ諦める私、すぐ投げ出す私、すぐ飽きる私。
ちょっと気が動くと、すぐ「わかった気になる」私。
意気地なし、卑怯、臆病、自分さえよければいいと思ってしまう私。
責めてるんじゃないんです。
ひた隠しにしてきたけれど、これも“私”の一部だった。
ただ、ある。それが事実だった。
この存在を認め、受け入れ、ゆるす。
まだまだ、きっとたくさんある。
ただ、これがあるということは、その逆もあるということ。
何かを否定しているとき、それと対をなす力も一緒に封じてしまっている気がする。
弱さを隠してたからこそ、その奥にある強さには、まだちゃんと出会っていないだけで、
これから、ゆっくり丁寧に現れてくるんだと思う。
私は多面体。多角的。
彩り豊かで、バラエティーに富んでいて、ユニークで、まだ知らないことばかり。
全部それが「生きてる」人生って、なんて面白いんだろう
私がずっと愚直にやり続けていることがある。
それは、自分と向き合うこと。
自分の声を聴くこと。
その時の私ができる最善を選ぶこと。
どこかでズレていたなら、ただ選び直せばいい。それだけのこと。
これが私がずっとやり続けている、たったひとつのこと。
みんな、同じなんだと思う。
自分の想いが、外に向いたときにどう表現されるかが違うだけで、
どんな形でも、みんなそれぞれのかたちで生きている。
表現の大小に価値の優劣はない。
人を巻き込むような生き方がすごいんじゃなくて、
一人の子を、パートナーを、自分を、丁寧に愛し続ける生き方だって、
それ以上も以下もなく、等しく“真実”で“愛”なんです。
大きく表現することが「すごい」わけでもなく、
小さく抱きしめることが「つまらない」わけでもない。
誰かのやり方や、表現のしかたを否定しなくていい。
自分のやり方や、表現のしかたを、無理に特別なものに仕立てなくてもいい。
人を変えなくていい
自分をねじ曲げなくていい
ただ、お互いが「ある」で在れること
それだけで、きっと十分なんだと思う。
自分がどこで何を表現していても、
その全部が「ある」ことであって、
正しいとか、正しくないではない。
ただ、私はこの“私”として、
今日も自分とともに生きているだけ。
私が正しいとは思わないけれど、私は私の真実を生きている気がする。
それが、いまある私のすべてです。
今日はこの曲が聴きたい気分です
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように